みんなのシネマレビュー |
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421. もらとりあむタマ子 タマ子と同じ年の頃、僕も、学生と社会人の狭間でモラトリアムな日々を、実家で過ごしたことがある。 それは、決して褒められたことではないし、家族からしてみれば迷惑なことだっただろうけれど、あの「猶予期間」があったからこそ、自分は何とかマシな人生を送れるように至ったと思う。 誰にも迷惑をかけずに、トントン拍子で人生を歩んでいけたならそれに越したことはないんだろうが、そういうわけにもいかんのが「人生」だ。 何が起こるわけでもなく、一見すればただ自堕落なヒロインの一年間の「生活」を切り取っただけの映画である。 でもそこから不思議な愛おしさと、可笑しみがじわじわと滲み出てくる。 この手合のミニマムな味わい深さは、山下敦弘監督お手の物といったところだろう。 市井の人々の何気ない言動を細やかに描き出し、ドラマを紡ぎ出す手腕にこの監督は本当に長けている。 そして、その山下敦弘監督の映画世界の中で、主人公・タマ子を演じる前田敦子が見事に息づいている、いや“居座っている”。 前田敦子というアイドルが持つ「オモテ」と「ウラ」その両面を集約させて、曝け出して、タマ子という主人公像を創り上げている。 AKB48卒業直後の主演映画に相応しく、“アイドル”というレッテルの境界を越えた存在感を放っていたと思う。 また父親役の康すおんも、朴訥とした父親像を味わい深く体現しており、とても印象的だった。 この父親は、劇中から察するに、娘二人が成人した途端に妻に逃げられた駄目な男なのだろう。 だけれども、黙々と自営業に励み、きちんと料理をして洗濯をする様は、何とも健気で好感が持てたし、出戻ってきた娘を黙って受け入れ面倒を見る様子からは、娘に対する心配や憤りと同時に、嬉しさも伝わってきて、同じく娘を持つ父親としてとても微笑ましかった。 何よりも、ああやって往く宛が無くなった次女は頼って帰ってきて、嫁いだ長女も大晦日まで忙しい旦那を連れて帰省してくるのだから、この父親が根本的な部分で娘たちはもちろん、人から愛される人間であることは明らかだ。 一人の人間として「大人」になっていく以上、自立していかなければならないことは当然のことだ。 でもそれは、親をはじめとする家族を頼ってはならないとうことではない。 頼れるのであれば頼ればいいし、甘えられるのであれば甘えたっていいと思う。 大切なことは、その前提として、頼り頼られる「家族」という人間関係をちゃんと構築できているかどうかということだと思う。 恐らくは家族に受け入れて貰えなかったのであろう旧友の姿を遠目に見送り、感謝を心に刻むタマ子の後ろ姿に共感した。 そして、「渡辺ペコ」と「ねむようこ」の漫画を愛読するタマ子に、性別を超えて自分自身を重ねずにはいられなかった。[インターネット(邦画)] 7点(2017-11-20 17:07:58)《改行有》 422. アシュラ(2016) 冒頭の主人公自身のモノローグにもあるように、この映画の主人公は、権力者に尻尾を振る「犬」だ。 主人公だけではない、登場する主要人物の全員が、欲望と狂気に塗れた「犬畜生」だ。 何のためらいもなく全ての人間が私利私欲を追い求め、薄汚れた街、血塗られた人間関係の中で、凄惨な“サバイバル”を繰り広げる。 骨太の韓国映画らしく、その描き出し方に、躊躇や遠慮はまったくない。 だからこそ、胸糞悪い描写の連続でカタルシスなど生まれるわけもないはずなのに、最終的には妙な清々しさすら覚えた。 架空の都市アンナム市を舞台にして、汚職刑事、悪徳市長、傲慢検事らが欲望の渦の中で入り乱れ、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる。 その血みどろの人間模様を表現している韓国映画の俳優たちが、相も変わらず、みな「素晴らしい」の一言に尽きる。 架空都市を舞台にしていることからも明らかなように、今作は決して現実世界に対してリアルな映画世界を追求しているわけではない。 だがしかし、そこで息づく人間たちの有様は実在感に溢れ、あまりに生々しい。 彼らが辿り着く“阿鼻叫喚”は、明らかにフィクショナルなはずなのに、我々が巣食うこの世界と地続きであると感じさせ、殊更に背筋が凍る。 見事な韓国人俳優たちの中でも特に圧倒的だったのは、「映画史上最凶の“市長”」と言って過言ではない悪徳市長・パク・ソンベを演じたファン・ジョンミン。個人的には、2013年の韓国ノワールの傑作「新しき世界」でのチョン・チョン役も記憶に新しい。この実力派俳優の映画全体における「支配力」があったからこそ、この映画は特別なものになり得ていると思う。全く見事だった。 また中盤における、まさしく「縦横無尽」のカメラワークを見せるカーチェイスシーンをはじめ、随所に挟み込まれるアクションシーンもすべてがハイクオリティーでフレッシュ。 改めて韓国映画の芳醇さを感じずにはいられなかった。 バイオレンス映画としての高い娯楽性を携えつつ、味わいの深さと絶妙な軽妙さをも併せ持つ佇まいは、マーティン・スコセッシの映画世界をも彷彿とさせる。 御大本人によるリメイクも十分あり得るんじゃなかろうか。[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-20 17:05:45)《改行有》 423. ハクソー・リッジ 「戦争」と「信仰」、人間が生み出したその二つの価値観は、まさしく人間という混沌の象徴だ。 本来、相容れぬはずの価値観を、同時に、「正義」だと掲げ続け、混乱と争乱を引き起こし続けてきたのが人類の歴史だろう。 その二つの価値観に板挟みにされた一人の人間における選択肢は、普通二つしかない。 ひたすらに「戦う」か、ひたすらに「避ける」かだ。 だがしかし、この映画の主人公は、そのどちらも選ばなかった。 「戦争」に対する覚悟と、「信仰」に対する揺るがない信念を貫き通し、ただひたすらに「救う」ことを選択した。 そう言葉で表すといかにも聖人君子的な綺麗事のように思える。 ただそれを実際の戦場で「実現」したということが、一体どれほど熾烈で残酷だったか、この映画は一点の曇りもない映像表現で描きつけている。 古今東西様々な戦争映画を観てきたけれど、この戦争映画の激しさと描き出されるテーマ性は、他のどの戦争映画とも異なっている。 それは、この映画が、一人の男の生い立ちとそれに伴う信念を深掘り、結果として彼が戦場でどのように闘い抜いたかを描き抜いたからだろう。 激しい戦争描写は、戦争映画史上においても屈指のものであったことは間違いない。だがそれ以上に、人間という生き物がそもそも孕む混沌と混乱の中で苦悩しつつ、傷つきつつ、それでも屈すること無く、自らが生きる意味を貫き通した不器用な人間の崇高な姿に衝撃を受けた。 アンドリュー・ガーフィールドが、良心的兵役拒否者としてアメリカ史上初の名誉勲章受賞者となった今作の主人公デズモンド・ドスを見事に演じきっている。 あの青瓢箪のような俳優が、あのメル・ギブソンの戦争映画に主演という情報を聞いた時は「大丈夫なのか?」と甚だ懐疑的だったけれど、鑑賞後には彼以外の適役は居なかったろうと思える。 ハンサムではあるがハリウッド俳優としては個性的な風貌の彼が、次々に大役をものにし、一躍トップスターへと上り詰めた要因は、類まれな演技力は勿論、彼自身が己の「個性」を貫き通してきたことに伴う魅力が、付加価値として備わっているからだと思う。 そして、監督メル・ギブソン。 彼自身の私生活における数々の醜聞やそれによって映画界から追放されかかっていたことについては、擁護する余地はないけれど、世評の通り映画監督としての力量が「本物」であることをまざまざと感じた。 アルコールに溺れ、暴力と暴言に走り、後悔と贖罪を繰り返す日々、そんなメル・ギブソン自身の人生模様は、今作のキーパーソンとなる主人公の父親像に表れている。 光と闇、暴力と救済が等しく混在する圧倒的な戦争映画。これはメル・ギブソンにしか描けまい。[インターネット(字幕)] 9点(2017-11-18 18:45:31)《改行有》 424. ノクターナル・アニマルズ 《ネタバレ》 エイミー・アダムスの美しいグリーンの瞳になにか不吉な予感がよぎる。 あのラストカットが暗示したものは何だったのだろうか。鑑賞から数日が経つが、明確な結論が出ない。 鑑賞直後は、待ち合わせ場所に現れないことが、主人公に対する元夫の復讐の終着点なのだろうと思った。 紛うことなき深い愛ゆえに生まれた深淵な復讐心を「小説」という形で具現化した上で、本当に愛すべき人を失うという残酷を改めて彼女に知らしめることで、元夫は復讐を果たしたのだと。 ただ、段々と、別の真相が見え隠れしてきた。 そもそも、富と名声を得ながらも満たされない鬱々とした日々を送る主人公が居て、彼女がたまたま昔のことを思い返していたタイミングで、都合よく元夫から出版前の小説が届くなんてことが、あり得るだろうか。 また、夫婦関係だったといっても、20年前の学生時分の頃である。 確かに、深くて重い“裏切り”はあったけれど、20年にも渡って執拗に憎愛を抱き続けるだろうか。そして、わざわざその思いを小説に書き連ねて、相手に送りつけるなんてことをするだろうか。 確かにジェイク・ギレンホール演じる元夫は、耐え難い裏切りを受けたけれど、彼がそれ程まで怨みに執着する人間には見えなかったし、客観的に見れば、彼らの夫婦関係崩壊のあらましは普遍的なことであり、「よくあること」と言ってしまえばそれまででもある。 元夫が「小説」を送ってきたということ自体が、不自然に思えてならなくなってきた。 では、あの「小説」は何なのか?誰が生み出し、誰が送ってきたものなのか? 「小説」は確かに送られてきた。 ただしそれは、主人公が自らに宛てて送りつけたものだったのではないだろうか。 そう考えると、劇中劇で描かれる「小説」の内容もより一層理解が深まる。 妻子を殺された男の復讐劇ではなく、男から妻子を奪った自分自身に対しての懺悔の物語だったのだ。 「罰を受けずに逃すものか」 「小説」の中で主人公の男はそう言い放ち、妻子を殺害した犯人を追い詰める。 その台詞は、堕胎し、不倫し、男の元を去った自らに対する「自戒」だったのだと思う。 自らの中で生まれた生命を打ち消した後悔と、何も生み出せない自分への苦悩、それらが入り交じった自らに対する憎しみが20年という年月の中で膨らみ、形となったものが、あの「小説」だったのではないか。 とはいえ、明確な答えなどはないし、つくり手としても唯一つの答えを導き出してほしいわけではないだろう。 単純に、元夫にすっぽかされただけかもしれないし、巨漢の半裸女たちが踊り戯れるあの“悪夢”のような展覧会からその先すべてが、主人公の妄想なのかもしれない。 ただ一つ言い切れることは、夜行動物(ノクターナル・アニマルズ)は、これからも眠れぬ夜を迎え続けるだろうということだ。[映画館(字幕)] 8点(2017-11-16 08:06:05)(良:2票) 《改行有》 425. ブレードランナー ブラックアウト2022 「ブレードランナー2049」の公開に先立ててWeb公開された短編3作品の内の一作。 リドリー・スコットの息子ルーク・スコットが監督した他2本は、あくまでも本編に入り切らなかったシーンの補足といったところだったが、このアニメーション短編のクオリティと立ち位置は全く別物。 15分の短い尺の中で、日本人のアニメクリエイターが渾身の「ブレードランナー」を表現している。 本編でも重要なキーワードとして度々登場した「大停電」を描いた今作は、充分に一本の長編になり得るプロットとキャラクター設定を備えている。 この短編をパイロット版とした、長編アニメーション映画の製作を期待。[インターネット(字幕)] 6点(2017-11-14 15:49:59)《改行有》 426. 映画 キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと!想い出のミルフィーユ! 愛娘はもう6歳。 当時3歳だった彼女と初めて観に行った映画も「プリキュア」だったわけだが、あれから3年、通算5度目のプリキュア映画鑑賞となった。 今回は3歳になったばかりの息子も連れての鑑賞。彼にとっては、初の映画館での映画鑑賞だ。 3年前に初めて娘と鑑賞した際にも記したけれど、映画ファンにとって、自分の子どもたちと映画館に赴くという行為は、ことのほか大切なイベントになり得る。 「映画館」という行き慣れた領域(テリトリー)の中に、我が子を招き入れるという感覚も加味され、彼らにとって少しでも良い時間を過ごしてもらいたいと、無意識の内に思う。 滞りなく映画を観終えて、6歳の娘は一丁前に「今までよりも感動が少なかった」などと感想を述べていた。 3歳の息子は少しもぐずることもなく大画面に映されたアニメーションを終始真剣に観ていた。 同じ行為とそれに伴う時間を共有することで、子の成長を感じることもまた映画ファンの醍醐味だ。 小学校入学を来春に控える娘は、プリキュアの普段のテレビ放映はあまり見なくなった。 彼女と行くプリキュア映画も今回が最後かもしれない。 それはそれで少し寂しくもあるけれど、基本的に映画は一人でしか観ない自分に、新しい映画体験をもたらしてくれた「プリキュア」には感謝している。 映画自体は、今シーズンのプリキュアが“パティシエ”くくりだということもあり、「ミスター味っ子」みたいで鑑賞した過去作の中で一番笑えた。 娘の言うとおり、「感動」は少なかったな。[映画館(邦画)] 5点(2017-11-14 15:49:08)(良:1票) 《改行有》 427. 22年目の告白 -私が殺人犯です- オリジナルの韓国映画「殺人の告白」は3年前に鑑賞済み。 入江悠監督によるこの日本版リメイクは、オリジナル作品の悪しき部分を是正して、日本でリメイクすることの意義を加味することは出来ている。 ただし、同時にオリジナルと比較しての圧倒的な“物足りなさ”も感じさせ、確実なブラッシュアップを果たしているからこそ、日本映画としての「限界」を感じさせる何とも皮肉な仕上がりになっていると思う。 オリジナル作品の最大のマイナス要因は、ストーリーテリングのテイストと乖離した演出過剰なアクションシーンの羅列だった。 観客をアッと言わせ得るサスペンス性に溢れた物語構造こそが醍醐味の作品であるにも関わらず、ただただ「蛇足」と言わざるを得ない荒唐無稽なアクションの連続が、著しく興ざめだった。 その点、このリメイク作においては、無意味なアクションシーンは極力廃して、ストーリーのサスペンス構築に注力することが出来ている。 更には、日本社会における「凶悪殺人事件」と「時効」の因果関係を時代性に合わせてストーリーに反映させ、この20年余りの間に国内で起こった数々のリアルな「事件」の要素も巧みに絡ませつつ、今この国でこの題材のサスペンス映画を作ることの「意義」をプラスすることも出来ていると思う。 そういう意味では、この日本版リメイクは一定の「成功」を果たしていると言えるだろう。 少なくとも、単なる韓国映画の焼き直しではない仕上がりに対してリメイクの「意義」を感じることが出来る。 元々、オリジナルの韓国映画自体が完成度の高い作品とは言い難いものだったので、この日本版の「勝利!」と断言したいところなのだが、実際はそう言い切れない悩ましさが残る。 冒頭にも記した通り、何だか映画として圧倒的に「物足りない」のだ。 映画作品としての完成度は、日本版の方が優れていると思う。 しかし、「殺人の告白」と「22年目の告白」、結局どちらの作品が映画として「面白かったか?」と問われれば、僕は悩んだ挙句に韓国映画の方を推すだろう。 では、何が違うのか? 端的に言ってしまえば、演者たちの「実在感」とそれに伴うインパクトの優劣だと思う。 オリジナル作品の韓国人俳優たちの存在感が「リアル」だったというわけではない。ただ、荒唐無稽なストーリーをまかり通す説得力が、核となるメインキャラクターのそれぞれに備わっていた。 一方で、日本版の俳優たちは、それぞれが熱のこもった“いい演技”をしていたとは思うけれど、総じて「非現実的」に見えてしまい、それが映画世界全体の薄さに繋がってしまっているように思う。 俳優力の差とは言いたくはないが、どの韓国映画を観ても、韓国人俳優たちの「実在感」は、主役級から脇役、端役に至るまで総じて高く、それだけで強烈なインパクトを観客に与えてくれる。 その要因は、「演技」における技術的なことばかりではないのかもしれないけれど、日本人俳優たちは今一度「役づくり」の部分から「演技」の在り方を見直していくべきなのではなかろうかと思えてならない。[インターネット(邦画)] 6点(2017-11-12 23:43:51)《改行有》 428. ブレードランナー 2049 「切ない」なんて一言では言い表せないくらいに、切ない。 ただこの切なさこそが、伝説的前作から引き継がれたこの映画世界が持つ根幹的な“テーマ”そのものであろう。 それは即ち、すべての「生命体」が持つジレンマであり、前作で、強力なレプリカントの“ロイ”が最期まで抱え続けた苦悩だ。 「我々は 何のために生まれ どこから来て どこへ向かうのか」 レプリカントたちの苦悩と葛藤は続く。 きっと、彼らが「生命」として存在した瞬間から、そのた闘いに終わりはない。 そう、まさしく人間と同様に。 世界中の映画ファンからある種カルト的な「偏愛」を博している前作に対してのこの「続編」のハードルは極めて高かったろう。 監督を担ったドゥニ・ヴィルヌーブ自身が漏らしたように、ある意味常軌を逸した企画であり、一歩間違えば「誰得」な映画になってしまうことは容易に想像できる。 それでもこの続編に挑み、確固たる価値を持ったSF映画として仕上げてみせたドゥニ・ヴィルヌーブ監督をはじめとする製作陣を先ず賞賛したい。 今作を「リブート」ではなく、「続編」として、30年余りのリアルな時間を経て繋ぎとめたことの価値は大きいと思う。 前作から通ずるテーマ性を確実に引き継ぎつつ、映画世界の内外で幾つもの時代を越えてきたからこそ生じる新たな価値観と葛藤を加味し、今この時代に語られるに相応しい「ブレードランナー」の世界観を構築してみせている。 この映画は、ライアン・ゴズリング演じるレプリカント「K」の物語である。 「K」は、まさしく我々現代人を象徴する存在として描き出されている。 彼の存在性のすべてから醸し出されれる哀しさ、弱さ、脆さ、無様さ、そして苦悩と葛藤は、今この世界を生きる現代人に通じ、非常に身につまされる。 だからこそ、彼が辿る切なすぎる旅路が、あまりにもダイレクトに我々の感情に突き刺さるのだろう。 そういう観点を重要視するならば、前作に引き続きハリソン・フォードが演じるデッカードの登場と一連のシーンは、「続編」だからとはいえ、必ずしもあそこまで必要ではなかったのではないかと思える。 往年のカルトファンに限らず、デッカードの登場は、多くの映画ファンを熱くさせる要素ではあったけれど、彼の登場シーンがサービス精神旺盛に展開される程に、主人公である「K」の物語がぼやけてしまったようにも感じた。 勿論、今作のストーリーテリング上、前作のラスト以降のデッカードの物語を辿ることは必要不可欠なわけだけれど、御大ハリソン・フォードにクライマックスの展開であんなに出張られては、「K」の立場が益々ぞんざいに追いやれているように見え、「そりゃないだろう」と思えてしまう。 まあそういう“やるせなさ”も含めて、この映画の「切なさ」に繋がっているといえば、確かにそうなんろうけれど……。 個人的には、「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」におけるルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)よろしく、最後の最後に1シーンだけデッカードが登場して「彼女」との邂逅を果たすくらいのバランスの方が、更にエモーショナルに今作が伝えるべき物語性を表せたのではないかと思う。 「生命」として存在した以上、誰もが己の「存在価値」を追い求める。 ミミズだってオケラだってアメンボだって、人間だって、レプリカントだって、その「価値」と「意味」を求める旅路の本質は変わらない。 “或る役割”を果たし、降りしきる雪のもとで静かに「生命」を終えようとするレプリカントの心に、ほんの少しでも“温もり”が生じしていたことを願ってやまない。[映画館(字幕)] 8点(2017-11-05 00:23:16)《改行有》 429. 猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー) 《ネタバレ》 「面白い映画だっとは思う」 とは、6年前のリブート第一作「創世記(ジェネシス)」を鑑賞した際の第一声だった。 このリブート第三作を観終えて、まったく同じ感想を抱いた。 リブートシリーズ通じて、三作とも極めてクオリティの高い作品揃いだったことは否定しない。 だがしかし、“オリジナル5部作”のファンとしては、このリブートの映画世界に「SF」としての魅力を殆ど感じることが出来なかった。結局その部分が、最後まで個人的に肌に合わなかった要因だった。 もはや個人的な趣向の問題に過ぎないけれど、「猿の惑星」という映画世界に求めることは、「科学的空想(SF)」の妙だ。 詰まるところ、“シーザー”という特別な存在の「英雄譚」に終始したシリーズのコンセプトそのものが、根本的な部分でカタルシスに繋がらなかった。 このリブートシリーズを絶賛する映画ファンの多くは、“シーザー”という稀代の英雄のヒーロー性を賞賛する。 でも、個人的にはその部分においても疑問符を拭えない。 今作で、シーザーはエイプたちを導き、人間たちにその存在を認めさせ、打ち勝ち、ついに安住の地を得た。 確かに「英雄」であろう。しかしそれは、あくまでも“一部分のエイプたちにとって”である。 結局彼は、人類自身の過ちによる進化と滅亡の大渦の中で、ただただ必死に生き抜いただけのように見えてしまう。 この映画の顛末を観る限り、おそらくは、シーザーというリーダーが居なくとも、人類は勝手に退廃し、それに取って代わったエイプたちは繁栄を果たしたであろう。 この映画の主題が、“シーザー”という人類とエイプの狭間に存在した「英雄」の中で生じ渦巻いた憎しみと悲しみの葛藤であり、それが即ち我々人類に対する戒めであることは理解できるし、充分に伝えきっているとは思う。 しかしその結果として、彼が成し遂げた「功績」が、愚かな人類の自滅を横目で見て、命からがら安住の地を得たということだけでは映画的カタルシスを覚えることが出来なかった。 今作でついに旧シリーズへのブリッジを果たしたと言うけれど、オリジナル第一作でチャールトン・ヘストンが不時着するのであろう湖を映し出して終いということでは、リブート作としてはちょっと芸がないし、あまりにSF的機知に富んでいない。 “シーザーの物語”が、今作で完結したことは明らかだけれど、噂では「第四作」の企画も進んでいるとかいないとか。 ついに誕生した“猿の惑星”が、この後どういう道程を辿って成り立っていくのか。 旧シリーズが、「5部作」を通じたSF映画シリーズとして、トータル的な価値を爆発的に高めたように、この先の顛末をどう描き出すかによって、この「英雄譚」の価値も変わってくるように思う。 ラストシーンは、“コーネリアス”と“ノヴァ”が手を取り新しい時代への一歩を踏み出しているようにも見える。 「猿の惑星:新世界(ニューワールド)」(予想)への布石は着実に打てている。[映画館(字幕)] 6点(2017-11-01 23:34:39)(良:1票) 《改行有》 430. アトミック・ブロンド ラストシーン、主演女優が甘美な微笑を携え小気味よく最後の台詞を言い放ち、映画は終幕する。 劇場の暗がりの中、エンドロールを迎えた途端に、涙が滲んできた。 純然たるアクション映画における圧倒的な充足感で涙が出てきたのは初めてかもしれない。 このアクション映画を賞賛する要素は多々あれど、先ず特筆すべき要素は次の3点に尽きる。 一にシャーリーズ・セロン!二にシャーリーズ・セロン!!そして、三にシャーリーズ・セロンだ!!! 決して大袈裟ではなく、全シーン、全カットで映える主演女優・シャーリーズ・セロンが抜群に格好良く、あまりに美しい。 「ワンダフル!」「ハラショー!」「ヴンダバー!」「シュペール!」 果たして、最終的にどの言語で、“彼女”を賞賛すべきか惑うが、とにかく「素晴らしい!」 ナイトクラブでのゴージャスなドレスから、全身傷だらけで“ズタボロ”にも関わらず完璧に美しいフルヌードに至るまで、ありとあらゆる「衣装」を纏った女スパイが、冷戦末日のベルリンで暗躍する。 「騙す者を騙すのは愉快」と、血で血を洗う国家間の陰謀の狭間を、強かに、しなやかに、そして艶やかに立ち回っていく主人公・ロレーン・ブロートンに、ただひたすらに陶酔せざるを得ない。 冷戦下を舞台にしたスパイ映画らしく、各人のめくるめく思惑と、折り重なる策略によってストーリーテリングはクライマックスにかけていよいよ混乱してくる。 何がどうなっているのか殆どわけが分からなくなってくるけれど、そんなストーリーに象徴される世界の混沌そのものを、主人公の存在感が圧倒する。 大国間の冷たく重い鬩ぎ合いも、その水面下で繰り広げられる各国諜報機関の騙し合いも、愚かな“ゲーム”によって命を奪い合う男たちも、その総てを見下し、嘲笑するかのような女スパイの冷ややかな視線と佇まいに、ただただひれ伏すのみ。 7分半にも及ぶ1カット構成により、次々と襲いかかる男共を叩きのめし、打ちのめす“ノンストップ”のアクションシーンは確かに物凄い。 このシーンのみで、今作がアクション映画史上におけるエポックメイキングとしての価値を刻みつけたことは間違いない。 けれど、この映画が物凄いのは、そんな圧倒的シーンすら主人公を彩る一要素でしかないということだ。 鍛え抜かれたアクションも、シーンごとにチェンジされる魅力的な衣装も、中毒性の高い80年代ミュージックも、その総てをウォッカロックのように飲み干し、“彼女”が「支配」する。 その「支配」そのものが、今作の全てのシークエンスを通じて“悦び”に変わる。 「女優」という存在に支配されることの愉悦と恍惚。それらこそが、映画という娯楽の根源ではなかろうか。[映画館(字幕)] 10点(2017-10-30 23:04:45)《改行有》 431. ブレードランナー 3日前に“ブレードランナー 初鑑賞”のつもりで観た「ディレクターズカット 最終版」だったが、鑑賞後に同じバージョンを10年以上前に観ていたことに気づく……。 気を取り直して、この「オリジナル劇場版」を満を持して“初鑑賞”。 監督のリドリー・スコットが最も不満タラタラだったバージョンと聞くが、個人的には都合三度目の「ブレードランナー」鑑賞にして、一番しっくりきた。 三度目ということもあり、敢えて日本語吹替版で鑑賞し、良い意味で気を抜いて観られたことが良かったのかもしれない。 それに、古いSF映画を日本語吹替版で観るという感覚は、かつて自分が子供の頃に親しみ、「洋画」を観るきっかけともなった「日曜洋画劇場」の記憶を呼び起こし、時代を超えて映画を楽しんでいるという行為そのものに改めて感慨深さを感じた。(実際に「日曜洋画劇場」で「ブレードランナー」が放映されたかどうかは定かではないが) 人間に似て非なるものたちの「生命」に対しての切望とジレンマ。 この映画が伝える主題が、3回目の鑑賞でようやく腑に落ちた。リドリー・スコットは忌み嫌ったようだが、個人的にはこの「オリジナル劇場版」が紡いだストーリーテリングの在り方は、映画世界に対して真っ当だったと思う。 主人公・デッカードのモノローグも、ハッピーエンドも、リドリー・スコットは「説明的だ」「蛇足だ」と否定しているけれど、アーティスティックに振れ過ぎだった世界観を「娯楽」として成立させるために、効果的な手段だったと思える。 そして、この映画が、公開当時から現在に至るまで、世界中のありとあらゆるクリエイターへ多大な影響を与え続けてきたであろうことを、改めて実感した。 特に、我が心の書、岩明均の漫画「寄生獣」には、「ブレードランナー」に対するかなりダイレクトなオマージュ要素が多分に散りばめられていたことを、今回の鑑賞でようやく気づいた。 白目をむくレプリカントの表情や、瞳の中に異形のものが“混じっている”ことを暗に示す表現など、些細な描写からテーマの根幹に関わる設定に至るまで、重なる部分は少なくない。 「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」 レプリカント“ロイ”の最期の語りなど、寄生生物“田村玲子”そのものじゃないか。 そういうことに気づいてくると、この実は決して大衆的ではない歪なSF映画が、長い年月に渡り世界中の映画ファンから愛され続けてきた理由も途端に理解できてきた。 今作を生み出したリドリー・スコット自身が、公開以降も試行錯誤を繰り返し、ある意味反則的であっても幾度も別バージョンを発表してきたことからも明らかなように、説明しきれぬ、表現しきれぬ魅力があるからこそ、この映画は今なおカルト的な人気を博し続けているのだろう。 どうやら一映画ファンとしてより良いスタンスで、全世界待望の続編「2049」を鑑賞することが出来そうだ。[ブルーレイ(吹替)] 8点(2017-10-28 23:50:01)(良:1票) 《改行有》 432. ドリーム 「私には差別意識なんてものは無いのよ」 と、キルスティン・ダンスト演じる白人女性管理職のミッチェルが、それが自分の本心だということを疑わずに言う。 それに対して、黒人女性としてNASA初の管理職を目指すオクタヴィア・スペンサー演じるドロシーはこう冷静に返す。 「分かっているわ あなたがそう思い込んでいることを」 愕然とするミッチェルのみならず、僕自身を含め、観客の多くがドキッとした台詞だったろう。 世界のあらゆる「差別」における最大の問題点は、あからさまなレイシストをどう排除していくかということではない。 「私は差別なんてしていない」と平然と生活をしている我々大衆の根底にある無意識の差別意識を、どう根絶できるかということだ。 「差別なんてしてない」と信じている人間に、実は存在する差別意識を認識させること程難しいことはない。 たとえそれの存在に気付いていたとしても、「知らないふり」をしていた方が、ずっと楽だし、正義を気取れるからだ。 自分自身の中に巣食う差別意識に対面し、それを認めることは、実は最も勇気が必要なことなのかもしれない。 社会に蔓延る人種差別を描いた映画を多々観てきたけれど、「“差別”が何故愚かなことなのか」という普遍的な問いに対する、分かっているようで分かっていないその「答え」を、これ程まで明確に、そして娯楽性豊かに示した映画を他に知らない。 この映画が示すその明確な答えは、あまりに潔く、的確だ。 即ちそれは、「差別」の存在が人類の進化においてあまりにも“非効率”であり、その歩みを留める致命的な“エラー”になり得るからだ。 本当に優秀な人材が、当たり前のように根付く差別意識とそれに伴う愚かな仕組みのせいで、ただ「トイレに行く」だけのために、無意味に駆け回らなければならない。 人類全体の新たな「1歩」のために、1秒、1ミリ、1グラムを追求するべく職に就く人間が、愚かな非効率を強いられることの罪深さをこの映画は圧倒的な雄弁さで物語る。 言わずもがな、キャストの演技はみな素晴らしい。 特に主要キャラクターとなる3人の黒人女性を演じた女優たちの魅力的な存在感は圧巻。原題「Hidden Figures」が表す通り、歴史の中に隠れた人達の輝かしい功績を燦然と体現している。 同年のアカデミー賞を勝ち獲ったのは、今作と同じく、社会的マイノリティの葛藤を叙情的に描いた「ムーンライト」だったわけだが、今作の映画としての非の打ち所の無さは同作を遥かに凌駕する。 世界中の誰が観ても、心から楽しめ、提示される問題の根深さを理解することが出来るこの映画の価値は極めて高い。 クラシックな車と同じく、古い「時代」とそれに伴う間違った「価値観」は時に立ち往生する。 悲しくて悔しくて、先行きままならないことも多々ある。 でも、ならば車の底に潜り込んで直せばいい、正せばいい。 彼女たちが示した勇気とプライド。そのあまりにも尊い価値に涙と多幸感が溢れ出る。[映画館(字幕)] 9点(2017-10-21 22:52:07)(良:3票) 《改行有》 433. エイリアン:コヴェナント 《ネタバレ》 創造主によって創られた人類が、新たな創造主となりアンドロイドを創った。 優秀なアンドロイドは、創造主に対して屈折した憧れと自らの存在に対するジレンマをこじらせる。 アンドロイドは、ある意味“対”の存在とも言える「生命体」と邂逅したことで、抱え続けてきたジレンマを解き放ち、彼もまた創造主になろうとする。 それは、見紛うことなき創造主に対する“レイプ”。 ああ、なんて禍々しい。 前作「プロメテウス」は、「エイリアン」の前日譚というイントロダクションを単純に捉えすぎた観客の多くが、その想定外の“語り口”に対して面食らった。 “エイリアン”という映画史上屈指のモンスターを“アイコン”として崇拝する者ほど、「こんなのはエイリアンじゃない!」と落胆したようだ。 個人的には、「エイリアン」シリーズに対してそれ程愛着があるわけではないけれど、それでも「プロメテウス」が紡いだストーリーテリングに困惑したことは否定できない。 SF映画として、決して面白くなかったわけではなかったけれど、粗の目立つストーリー構造にテーマに対する詰めの弱さと脆さを感じ、つくり手が描き出したかったことを掴みきれていない“消化不良”感を不快に感じた一作だった。 そして5年の年月を経て放たれたこの“前日譚第二弾”は、御年79歳のリドリー・スコット監督の趣向が、概ね良い方向に押し出された最新作として仕上がっていると思う。 執拗に引用される聖書や各種古典からのセンテンスや思想、科学的空想を踏まえた哲学性は、この大巨匠が過去のフィルモグラフィーの中で繰り返し語りつけ、映し出してきたことと尽く重なる。 自身の過去作で描き続けてきた事のある種の“焼き直し”に対して、ためらいもなければ、てらいもない。 そこに存在するのは、リドリー・スコットだからこそ許されるクリエイターとしての矜持と確信だ。 愛を知り、絶望を知ったアンドロイドは、凶暴無垢な胎児を引き連れ宇宙の果てに向かう。 果たして、“王”を気取ったアンドロイドが辿り着く姿は、神か、悪魔か。 僕たちは、大巨匠の赴くままの旅路をただ見届けるだけだ。戦々恐々と。[映画館(字幕)] 8点(2017-10-20 23:44:22)(良:1票) 《改行有》 434. アウトレイジ 最終章 「全員悪人」と銘打たれた第一作目から7年。渾身の最終章。 許されざる者たちの鬩ぎ合いの様は、恐ろしさを遥かに通り過ぎ、愚かさを通り過ぎ、滑稽さをも通り過ぎ、もはや「悲哀」に溢れている。 どんなに息巻き、意地と欲望渦巻く勢力争いを繰り広げたとて、彼らが辿り着く先はただ一つ。 生きるも地獄、死ぬも地獄。そんな真理を知ってか知らずか、この映画に登場する悪人たちの眼には、諦観にも似た虚無感が漂っていた。 この映画で描き出される“outrage=暴虐”の世界に生きるすべての人間たちが、自らの生き方に疲弊しきっているように見える。 血管を浮かび上がらせ、怒号と暴力を浴びせつつも、同時に「何故こんなことになったのか?」と己の生き様自体に疑問と虚しさを抱えているようだった。 故に、今作は、前二作と比較すると明らかに地味で、枯れているように見えるだろう。 当然である。描かれるキャラクターたちの血気そのものが薄まり、あらゆる意味で衰退の一途を辿っているのだから。 しかしそれは、前二作と比べて今作の映画的魅力が落ち込んでいるということでは決して無い。 娯楽映画としての分かりやすい迫力は抑えられているが、その分、前二作を礎にした映画作品としての芳醇さに満ちている。 前二作のハードな暴虐性が反動となり、この「最終章」のある種静的な境地へと辿り着いている。 そこに見えたものは、「動」と「静」。別の言い方をするならば、「フリ」と「オチ」。 それはまさに北野武という映画監督の真髄であり、芸人、役者、監督、あらゆる意味での「表現者」としての矜持だと思えた。 シリーズ三作通じて共通することだが、「悪人」としての“雁首”揃えられたキャスト陣は皆素晴らしい。 特に今作においては、塩見三省が凄まじかった。実際に重病を患い、その後遺症が残る中での迫真の存在感。 前作で見せた方幅の広い関西ヤクザの恐ろし過ぎる迫力は消え去り、かわりにフィクションの境界を超えて人生そのものを焼き付けるような老ヤクザの気迫が凄い。 痩せ細り、足が不自由な様子で、呂律も回っていない。それは、前作の風貌と比較すると非常にショッキングな変貌だった。 しかし、以前実際のヤクザ組織の実態を追った或るドキュメンタリーを観たことがあるが、ああいう老いさらばえたヤクザは現実に沢山いる。 時代が変わり、社会が変わり、ヤクザなんて生き方がまかり通らなくなった昨今においては、塩見三省が演じた老ヤクザの醸し出す雰囲気こそが、むしろ限りなくリアルに近いのではないかと思う。 繰り返しになるが、「アウトレイジ」シリーズは、北野武による壮大な「フリ」と「オチ」だったのだと思う。 椎名桔平が演じた格好良い武闘派ヤクザや、加瀬亮が演じた分かりやすいインテリヤクザの描写は、“非現実的”だった。だからこそ「フリ」として、ジャンル映画の娯楽性の中で派手に殺される。 一方で、西田敏行や塩見三省が演じた知略と謀略の限りを尽くす無様で姑息な老ヤクザの描写は、“現実的”だった。彼らがヤクザとして最後まで醜くしがみつき、生き残る様こそが、北野武が用意した「オチ」だったのだろう。 映画は、食べさせる相手がもういない“釣り”の哀しさを映し出して終幕する。 全編通して、「これぞ北野武の映画」だと痛感する見事な一作だ。[映画館(邦画)] 8点(2017-10-18 16:00:23)(良:2票) 《改行有》 435. ムーンライト 第89回アカデミー賞を例のドタバタの中で勝ち獲った本作。先ず何と言っても、ポスターのビジュアルデザインが秀逸だと思う。 一寸、一人の男の表情を色彩を変えた切り込みを入れて写しているように見えるが、よく見ると3人の男の別々の表情がモンタージュされて一つの表情が構成されていることが分かる。 この映画が、一人の男の人生を年代別に描き出す構成であることを示すと共に、各年代の人生の連なりが一人の男の人格を形成していることを如実に表す素晴らしいデザインワークだ。それに何よりも、美しくて、格好良い。 一人の男が抱え続けた苦悩と葛藤、それに伴う純真な想いが、あまりにも美しい映像美の中で、辛辣に、残酷に描きつけられる。 決して、特別なドラマがあるわけではない。描き出される物語は極めてミニマムで、普遍的だ。 現代社会における一方的な常識や価値観の押し付けにより、“マイノリティ”の立場で生きざるを得ない主人公の生き様は、極めて哀しく、叙情的に映し出される。 けれど、きっと同じような苦悩や葛藤を抱えて生き続けている人達は無数に存在していて、この映画の主人公の姿は、その一つの象徴にすぎないのであろうことを、今作の普遍性は物語っている。 前述の通り、この映画は三幕構成になっている。主人公の少年期、青年期、成人期が、それぞれ“痛み”と一抹の“救い”をもって映し出される。 少年期を描いた第一幕、青年期を描いた第二幕は、本当に素晴らしい。 まさに月光に照らされた刹那を切り取ったように美しく、儚く、だからこそ辛辣で残酷な人生模様に包み込まれる。 ただ、第三幕への連なりがやや唐突過ぎるように感じてしまったことは否めない。 成人期を描いた第三幕自体の出来栄えが悪いわけでは決してないけれど、物語の展開と帰着を強引に詰め込みすぎているように感じてしまった。 茶化すつもりはないのだが、青年期から成人期への変遷において一気に変貌した主人公の“筋肉量”の過剰ぶりが、その唐突感を如実に表しているようだった。 あのような変貌を遂げなければ、あまりにも大きな傷を抱えて、打ちのめされた主人公の青年が、その先の己の人生を繋ぐことが出来なかったのであろうことは十分理解できる。 しかし、10年の年月を飛び越えて、やせっぽっちのティーンだった主人公が、突如としてマッチョな麻薬ディーラーになっているという展開は、少々類型的過ぎやしないか。 彼が“ブチ切れた”後に、どのような道程を辿って、人生を踏み外していったかを、もう少ししっかりと描き出すべきだったのではないか。 もしくは、第三幕以降の余生までを描いて、もっと丁寧に彼の人生の帰着を紡ぎ出してほしかった。 なぜならば、この第三幕の描写のみでは、彼が麻薬ディーラーとして成り上がっている様が、哀しき傷を負った者の運命として安直に肯定されているように見えるからだ。 どんなに辛い過去があろうが、環境に恵まれてなかろうが、彼が「犯罪者」であることそのものは、彼自身の罪であり、それを取り繕うことはできない。 彼が売り捌いたドラッグで、数多の悲劇が連鎖的に生まれていることは疑う余地もない。 それに対する贖罪の様が皆無なまま、ただひたすらに自らの深い傷心を癒す邂逅を、いくら情感豊かに見せつけられても、素直に感じ入ることは出来なかった。 具体的な落とし前を描かなくとも、何かしら彼が犯した罪に対する贖罪の予兆くらいはあって然るべきだったと思う。 ただし、このマイノリティの普遍的な苦悩を描きつけたインディペンデント映画が、その年の最高の栄誉を勝ち獲ったことの意義は深いと思うし、それを否定するつもりは毛頭ない。 この世界は決して平等ではない。太陽の眩い光はすべての人に満遍なく降り注ぎはしない。 ならばせめて、月の淡い光を浴びて輝くことができる自由を。 今作のポスターに写る“3人の主人公”は、静かな瞳を携え、無言のまま、ただ強く訴える。[インターネット(字幕)] 7点(2017-10-15 23:56:20)《改行有》 436. 華麗なる晩餐 とどまることのない人間の欲望のおぞましさと滑稽さ。 どこまで落ちても着地を許さない。 その実態が怖い。 「next floor !」と、あくまでも淡々と料理を提供し続ける給仕の、無表情に見えて絶妙な冷笑を携え続ける視線が印象的。 12分の短い映像世界の中で、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作家性が強烈に焼き付いている。[インターネット(字幕)] 6点(2017-10-15 21:09:38)《改行有》 437. 複製された男 “いかにも”な邦題を踏まえて、「フィリップ・K・ディックもどきのクローンものなのだろう」と認識し、サクッと観てさっさと寝るつもりだったのだが……。 何なんだ、これは?何を見せられたのか? 時折挟み込まれる不可解なカットに困惑を残しつつ、それら困惑の極みとも言える“ラストカット”を目の当たりにして、思考が停止した。 まったくもって変な映画だった。完成度の是非は別にして、そのことは間違いない。 邦題による“ミスリード”がどういった意図によるものかは分からないが、前述の通り“クローン”を描いたSFとしてこの映画を観た者は、大いに面食らう。 この映画は、“クローンもの”でもなければ、“SF”でもなく、或る強迫観念めいたものを主題にした“精神”にまつわる映画である。 詰まるところ、“複製された男”の正体は、クローンではなく、“ドッペルゲンガー”であった。 主人公の男は、ふいに現れたドッペルゲンガーと対峙し、それが現れた理由と意味を盲信的に追い求めていく。 それは詰まり、自らが「自分」という人間の本性、深層心理を丸裸にするプロセスであり、深みにのめり込んでいくほどに、彼の精神は疲弊し、或る臨界点を迎えたのだと思う。 非常に奇妙な映画ではあったけれど、「ドッペルゲンガー=自己像幻視」を描いた作品であることを踏まえて省みてみると、諸々の不可解描写も途端に理解しやすいものではあった。 「蜘蛛」も「ブルーベリー」も「女性」も、この主人公が抱えた強迫観念の象徴であり、映画世界の中で映し出されるすべてのものが、彼の精神世界そのものであったと捉えれば、腑に落ちやすい。 そう考えると、極めてシンプルな話とも思え、映画としてももう少しコンパクトにまとめた方が良かったのかもしれない。短編映画として、不可解を不可解なままに一方的に投げ出した方が、観客の想像力を更に刺激し、カルト的な傑作となったようにも思える。[インターネット(字幕)] 6点(2017-10-08 23:10:25)《改行有》 438. 大恐竜時代 タルボサウルス vs ティラノサウルス 休日に家族で訪れた科学博物館のプラネタリウムで鑑賞。 当然ながら、まわりも幼子連れのファミリーで溢れていた。 プラネタリウムで上映されている番組なので、恐竜の生態についての教材要素をベースにベタな“恐竜家族”の感動物語が展開されるのだろうと高を括っていた。 だが、冒頭からストーリーテリングの塩梅が何だかおかしい。 幼いタルボサウルスが主人公なのだが、彼が意気揚々と紹介した家族たちがその直後にあっけなく命を落としていく。 自然の摂理とは言え、いきなりシビアな展開を見せるなあ、と先ず面食らう。 そして月日は流れ、孤独に生き抜いた主人公も立派な成獣となり、自分の家族を持つ。 が、そこからも「まさか」と思わず眉をひそめてしまう想像以上に残酷な展開が繰り広げられる。 勿論、「普通」の映画として、いつものように自分一人で鑑賞していたならば、少々残酷な描写が展開されようが、ただのチープなCGアニメーションとして一笑に付するところだ。 しかし、こちとら幼児連れである。ふいに訪れた科学博物館の一プラネタリウム番組で、問答無用に家族が命を落とす様を立て続けに見せられては、さすがに引く。 内緒だが、2歳の息子は上映中におもらしをしてしまう始末……。色々な意味で惨憺たるひと時を過ごしてしまった。 エンドクレジットで今作の製作国が韓国であることを知って、色々と納得。 以前に韓国産の怪獣映画を観た時も感じたことだが、文化が違うと、同じ題材を描いても種類自体が全く別物の映画になるものだ。 当たり前と言えばそれまでだが、文化が変われば、「教育」のアプローチも大いに変わるものだ。 これはこれで、いい教訓なのかもしれない。[映画館(吹替)] 3点(2017-10-07 07:24:16)《改行有》 439. 三度目の殺人 硝子を挟んで二つの「顔」が重なる。 利己的な弁護士と虚無的な殺人犯。両者の発言と深層心理は時に絶妙に重なり合い、発される言葉が一体誰のものなのか一寸分からなくなる。 主人公は、或る殺人犯の靄がかった深層に、自分自身の本性を見つけるのだ。 ラストカット、彼は一人十字路に立ちたたずむ。果たして、どの路を進むべきなのか。答えの見えない葛藤に途方に暮れるかのように。 映画が終幕し、主人公と同様に映画館のシートでしばし呆然とたたずんだ。 秋の夜長、味わいがいがある余韻を残すサスペンス映画であることは間違いないと思う。 「三度目の殺人」というタイトルからも伝わってくる通り、往年の国産サスペンス映画を彷彿とさせるクラッシックな佇まいは、非常に上質だった。 と、今の日本映画界におけるトップランナーであることは間違いない監督の最新作を大いにべた褒めしたいところではあるのだけれど、あと少しのところで諸手を挙げて賞賛することが出来ない悩ましさがこの作品には確実に存在する。 先ずはストーリーの練り込み不足。最終的に示される深いテーマ性に対して、ストーリーの奥行きに物足りなさを感じずにはいられなかった。 意味深長でシンボリックな描写は随所に散りばめられ、その一つ一つの場面は極めて映画的で、非常に印象的ではあるけれど、同時にそのすべてに説得力が乏しい。 なぜ殺人犯は十字を切ったのか?少女の父親の愚劣な行動の実態は? と、物語の核心となる重要なポイントの描き出され方が、あくまでも象徴的で類型的な処理をされるため、ストーリーテリングとしても、人間描写としても、掘り下げが浅いと感じざるを得なかった。 それに伴い、各俳優陣の“良い演技”も何だか“型どおり”に見えてくる。 殺人犯を演じた役所広司は凄まじい演技をしているとは思う。言葉では表現しきれない空虚さと漆黒の闇を抱えた殺人者を、圧倒的な存在感で演じている。時に少々オーバーアクトにも見えなくもないが、この役柄のある種のメフィスト的立ち位置を踏まえると、正しい演技プランだったと思う。 しかしながら、肝心の人物描写が浅く中途半端なので、やはり最終的な印象として説得力に欠け、実在感が希薄だった。 広瀬すず&斉藤由貴の母娘像も、両者の好演により絶妙に忌まわしい関係性を醸し出せてはいるのだけれど、実際に彼女たちが抱えたであろう「痛み」の描写が皆無であるため、「そういう設定」の枠を出ず描かれ方が極めて軽薄だったと思う。 広瀬すずに関して言えば、昨年の「怒り」での“或るシーン”があまりに強烈だったため、殊更に今作での彼女の使い方に「弱さ」を感じたのだと思う。 そして、このサスペンス映画が、一級品になれなかった最大の理由は、「主演俳優」だと思う。 主演である福山雅治の演技者としての奥行きが、そのままこの映画自体の奥行きの無さに直結している。 決して、福山雅治が悪い俳優だと言っているわけではない。演者として、表現者として彼のことが嫌いなわけではない。むしろファンだ。 ただ、この映画においては、福山雅治という俳優の良い部分でも悪い部分でもある「軽さ」が、肝心な部分で引っかかってしまっている。 同じく是枝裕和監督が福山雅治を主人公に抜擢した「そして父になる」は素晴らしかった。 あの映画においては、主演俳優の軽薄さが最良の形で活かされる主人公造形が出来ていたからこそ、新しくも普遍的な父像を浮かび上がらせ、難しいテーマを孕みつつも、新たな家族映画の傑作として成立したのだと思う。 「そして父になる」と同様に、今作の主人公造形においても、おそらくは主演が福山雅治に決まった上での“当て書き”だったのだろう。 だからこそ、当然ながら主人公キャラクターの設定自体はマッチしているし、映画の構成的にもビジュアル的にも商業的にもバランスはよく纏まっているように見える。 だがしかし、突如として目の前に現れたメフィストフェレスと対峙して、自分自身の存在性と、「正義」というものの意味を突き付けられるというあまりにも深淵な人物表現を必要とされる役どころを演じ切る力量と適正を求めるには、彼には荷が重すぎた。 少なくとも、この映画においては、クライマックスに入り主人公の感情が揺れ動き、感情的になるほどに、演者としての空回り感が際立っていたことは明らかだ。 くどくどと長くなったが、結論として「面白くない」ということではなく、充分に見応えのあるサスペンス映画であったことは冒頭の通りだ。 傑作を通り越して名作になり得る「雰囲気」を感じる映画だっただけに、口惜しさも大きいという話。[映画館(邦画)] 6点(2017-09-22 23:59:36)(良:2票) 《改行有》 440. ダンケルク(2017) 耳をつんざく爆撃音、ぶつかり合う鉄の質感、あらゆるものが燃え焦げついた臭いが漂ってくるような生々しい空気感。 映画が始まったその瞬間から、「戦場」に放り込まれる。 凄い。と、冒頭から思わず感嘆をもらさずにはいられなかった。 これほどまでに、最初から最後まで“IMAX”で観ることの価値を感じ続けた映画は記憶にない。 この「体感」は極めて意義深い。 第二次世界大戦初期、ドイツ軍に包囲された連合軍は、フランスはダンケルクの海岸に追い詰められる。 この映画は撤退を余儀なくされた連合軍兵たちの「敗走」の様をこれでもかと描きつける。 登場する人物の前後のドラマを一切描かず、無慈悲な戦場での過酷な「敗走」のみをひたすらに映し出すことで、「戦争」を表したこの映画の豪胆さに何より感服する。 映画史には世界中のありとあらゆる戦争を描いた数多の「戦争映画」が存在する。 その数の分、一口で「戦争映画」と言っても、映画表現の“手法”と“目的”は様々だ。 「プライベート・ライアン」のようにリアルな戦闘シーンを究めた作品もあれば、「地獄の黙示録」のように戦場で苛まれた人間の心の闇を果てしなく掘り下げた作品もある。またはチャップリンの「独裁者」のように風刺と情感を込めて、強く反戦を訴えた作品もあろう。 「ダンケルク」は、戦場の「体感」を究めた戦争映画である。 ただ、だからと言ってこの映画が、戦争の「リアル」を描き抜いた映画かというと、それは少し違う。 “本物主義者”のクリストファー・ノーラン監督により、今作も例に違わず極限までCGによる映像処理は避けられている。 本物の空、本物の海、本物の飛行機、本物の船、本物の人間によってすべての映画世界は映し出されている。 それにより、観客はまさに極限まで「本物」に近い“感覚”を味わうことができる。 ただしそれは「リアル」ではない。言い表し方が難しく語弊があるかもしれないが、クリストファー・ノーランは、リアリティを追求するために「本物」を求めているわけではないと思う。 それは、映画という表現方法で「何か」を伝える上で、必ずしもリアリティの追求が「正解」ではないことを、この偏屈な映画監督は知っているからだ。 「現実」に起こったことをありのままに表すよりも、より効果的に伝えるべきテーマを観客に表現する方法は確実にあり、それを導き出すために、本物の素材を使い、スクリーン上で目に映るモノのリアリティを高めるという試み。 その一連のプロセスこそが「映画」をつくることだと、クリストファー・ノーランは信じて疑わない。 そのつくり手の「信念」がこの「戦争映画」には溢れ出ている。 だからこそ、ただただ「敗走」を繰り返すという、あまりに無骨でストーリー性に乏しい映画であるにも関わらず、圧倒的に「面白い」。[映画館(字幕)] 9点(2017-09-22 23:57:42)《改行有》
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