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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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501.  大巨獣ガッパ 数ある特撮怪獣映画の名作とくらべれば、そりゃあ低評価は免れない。 ただし、数多の特撮映画の多くが「駄作」だらけであるということもまた事実。 そんな中で今作は、数多くの「駄作」のうちの一つかもしれないけれど、「駄作」ならではの味わい深さを醸し出していたと思える。 先ず、「日活」唯一の怪獣映画であるという、特撮映画史的な文脈のみを捉えても、ある種の「価値」は充分にあると思う。 東宝、大映に牽引された当時の“怪獣映画ブーム”に無闇に乗ろうとした作品だけあって、あらゆる面での不慣れ感と独特の違和感が生まれている。 ただその不慣れ感や違和感は、そのままこの映画の特異性に繋がっているとも思う。 特撮のレベルそのものは、当時の水準からすれば決して低すぎるということはない。 けれど、ほんの少しの“見せ方”がやはり巧くはなく、“魅せる”シーンが無い。 一方で、主人公である“ガッパ”の巨大怪獣としての存在感は、良い悪いは別にして、「独特」だったとは思う。 異形のものに相応しい血走った目、気持ちの悪い鳴き声、とにかくその存在感そのものがおぞましい。 それは、「ゴジラ」や「ガメラ」といった当時のスーパースターたちの存在感と比較すると、まったくもって相反するものである。こんなおぞましい怪獣が子どもたちをはじめとする大衆の人気者になるわけがない。 そして、そんな世にも奇妙な怪獣が織りなすストーリーが、なんと「親子愛」だというのだから、益々その異質性は高まるというもの。 更に、彼らを取り巻く人間たちの間では、当時の社会性を踏まえた男女の価値観、親子の価値観の相違とそれに伴う葛藤が描き出される。 何故か熱海に上陸するガッパ、何故か巨大な茹でダコを加えているガッパ、何故か日系人役として登場する藤竜也……こういう歪さや、ほつれ具合を堪能することも、楽しみ方の一つであるということを思い出させてくれるある意味立派な特撮映画だったと思う。 限りなく「駄作」に近い「迷作」であるが、日本の特撮史上における亜流として、意外に存在価値は大きいのではないか。[CS・衛星(邦画)] 4点(2016-07-10 22:58:24)(良:1票) 《改行有》

502.  ラブ&ピース 園子温が無名だった25年前に書いた脚本の映画化ということで、その世界観とストーリーテリングは、あまりにチープで荒削りだ。(まあ、ヒットメーカーになった今も根本的にはチープで荒削りであるが) 長谷川博己、麻生久美子、西田敏行という一流どころを揃えた商業映画としては、極めて歪で、正直なところ映画としての完成度は低く、面白くはない。 鑑賞に耐え切れないとまでは言わないが、映画の大半は、なんとも言えない居心地の悪さと、退屈感に苛まれた。 ただ、同時に、園子温という表現者のむき出しの魂そのものが、不器用に、無様に、込められた映画であったとは思う。 「夢」を持つということが辿る現実。きらめきの裏側に確かに存在する滑稽さと愚かさと残酷さ。 かつて「夢」を持ったすべての者たちが辿ったであろう、喜びと、それを遥かに凌駕する苦悩。 この映画の主人公の様は、まさにその体現であり、「夢」を持った者の一人として、良い意味でも悪い意味でも、笑えなかった。 園子温という“若者”の荒ぶる屈折した思いを具現化したような映画であり、極めて独善的で、決して褒められた映画ではないことは間違いない。 しかし、彼が持つ表現者としての魂の形そのものが、25年前から変わっていないということは伝わってくる。 この魂を核心に秘め続け、表現者としての成熟とともに、「愛のむきだし」や「地獄でなぜ悪い」が生み出されたのだろうことは、素直に理解できる。 この映画が、脚本が書かれた25年前に、長谷川博己や麻生久美子という「無名俳優」を起用して撮られていた作品であったならば、園子温という映画監督のフィルモグラフィーの中でも重要な一作となっていたことだろう。[DVD(邦画)] 4点(2016-07-09 10:17:27)《改行有》

503.  グラスホッパー 伊坂幸太郎の原作は、この人気作家らしい切り口が特徴のユニークな「殺し屋小説」だったハズだが、これまた随分と凡庸でダサい映画に仕上がってしまっていると思った。 原作小説を初めて読んだのはちょうど5年前で、既にストーリーをうろ覚えだったので、映画を観た翌日、書棚から文庫本を引っ張り出してきて、一気に再読してみた。 なるほど。映画化における改変が、殆どすべてにおいて「改悪」となっている。原作ファンとしては、むしろ、“別のお話”に作り変えられていると思ってしまうくらいに、原作が持つストーリーテリングの“妙”が破壊されてしまっている。 個人的に伊坂幸太郎の小説が好きだ。流行作家らしい軽妙な語り口と、ポップカルチャーの多様は、熱心な文学ファンにとっては敬遠される要素なのかもしれないけれど、映画ファンとしては、この作家が持つ独特の視点と、娯楽性の高いストーリーテリングには、常に映像的感覚が付随されていて、引き込まれる。 そもそもが映像的な感覚に富んだ文体であり、映画的なアクセントをつけやすいキャラクターが多く登場するので、これまで観てきた映画化作品は、どれも一定の面白さを備えた作品に仕上がっていた。映画化作品のすべてを観たわけではないけれど、少なくとも「駄作」と切り捨てるものはなかったように思う。 が、しかし、残念ながら今作は、「駄作」と言わざるをえない。 映画化における「改変」は、ある程度仕方がないことだとは思う。過去の伊坂幸太郎原作の映画化作品においても、すべて何らかの改変はされている。 今作において問題なのは、原作の持つテーマ性をまるっきり履き違えてることだ。 主人公は拭い去れない復讐心を抱えているが、この物語のテーマは「復讐」などではない。 それは、原作において、「復讐」の最大の対象が冒頭でいともあっさりと死んでしまうことからも明らかなはずだ。 映画では、冒頭から陰惨な殺戮シーンを映し出し、いかにも凶悪な「悪党」の存在を際立たせ、安直に描き出される復讐心を煽っている。それが実に陳腐でダサい。 原作小説では、悪党の親玉たちの描写は必要最低限に抑えられている。直接的な描写は殆ど無く、ほぼその配下の部下や取引先の人間たちによる伝聞で留められている。 なぜか?巨悪の根源の正体なんて、そんなありふれたものどうでもいいからだ。 原作でメインに描き出されているのは、主人公の平凡な男と、二人の殺し屋の、抱え込んだトラウマからの脱却の様である。 そしてそれを主軸にして、誰も知らない「業界」の常識とルール、そこで生きる者たちの心象風景が、特異なエンターテイメントとして繰り広げられている。 そういったテーマ性や娯楽性が、全くと言っていいほど再現されていない。 同監督作では、同じく生田斗真が主演した「脳男」が、粗はありつつも想定外に面白い娯楽映画に仕上がっていたので期待感はあった。 しかし、今作においては、豪華なキャスティングをまったく生かしきれていない演出力のマズさが終始際立つ映画になってしまっている。 アクションシーンがチープだったことも大きなマイナス要因だったと思う。 「アジョシ」や「ジョン・ウィック」レベルのアクション描写を用意しろなどとないものねだりをするつもりはないが、多種多様な細かい殺人描写がキモであるストーリーでもあるだけに、映像的な説得力の無さは致命的だった。 更には、エンディングに大ファンであるYUKIの楽曲が意味不明にタイアップされていたことが、やり場のない虚しさに拍車をかけた。[ブルーレイ(邦画)] 3点(2016-07-04 18:50:45)《改行有》

504.  SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁<TVM> 《ネタバレ》 英国BBCのテレビドラマシリーズ「SHERLOCK/シャーロック」は、海外ドラマ全盛の近年においても随一の傑作シリーズだと思う。 個人的に、海外ドラマはどハマリするのが怖いので敬遠しているのだが、今作に限っては、数年前にNHKで放送されたファーストシーズンの第一話を観た瞬間から、完全に“虜”になってしまった。 “現代版シャーロック・ホームズ”という題材自体は、よくありそうなものだったけれど、このドラマの場合は、原作を礎にしたキャラクター設定の“再解釈”と“キャスティング”が、奇跡的な程に素晴らしかった。 英国俳優ベネディクト・カンバーバッチが演じたシャーロック・ホームズは、アーサー・コナン・ドイルが生み出したキャラクター性をそのまま保ちつつ、ブラックベリーとラップトップを速やかに操る文字通りの“変人”、いや天才として「再誕」させていた。 それは、誰もが知っている“名探偵”であると同時に、誰も見たことがない“名探偵”の誕生だったとも言え、その矛盾的表現がキャラクターの秀逸なオリジナリティを表している。 そして、ホームズにとって切っても切り離せない「相棒」と「敵」の存在感が、このドラマシリーズの価値を更に高めた。 “ジョン・ワトソン”を演じたマーティン・フリーマン、“ジム・モリアーティ”を演じたアンドリュー・スコットの確かな演技力と存在感が、ベネディクト・カンバーバッチの稀有なスター性と相まって唯一無二の世界観を構築したのだと思える。 と、いうわけで、つらつらと止まらなくなるくらいにテレビドラマシリーズの大ファンなので、この“劇場公開作品”も当然期待大であった。勿論、映画館に足を運びたかったのだが、タイミングが合わず劇場鑑賞には至らなかった。 テレビ放映を待ってようやく鑑賞に至ったのだが、どうやら映画館に行かなかったことは正解だったようだ。残念ながら。 シリーズファンとして楽しめはしたが、あくまでテレビドラマの“番外編”であり、決して映画化作品というわけではなかった。 実際、劇場公開したのは日本だけのようで、本国イギリスではシーズン3とシーズン4を繋ぐスペシャルドラマという位置づけだったようだ。 大好きなキャラクターたちが、セルフパロディよろしく原作の時代設定の中で立ち回る様は、勿論嬉しいのだが、当然ながら秀逸なオリジナリティが薄れてしまっていることは明らかだった。 カンバーバッチの原作版ホームズ像も、違和感がなさすぎて“逆にフツー”という想定外のマイナス要因が生まれてしまっている。 ストーリーテリングとしても、“通常回”に比べて圧倒的に巧くなく、拍子抜けしてしまった。 まあしかし、これはこれとして、ファンとしてはシーズン4の放映が近づいていることが何よりも嬉しいわけで。 すっかり大スターになってしまったキャスト陣の再集結が楽しみでならない。[CS・衛星(吹替)] 5点(2016-06-26 23:43:47)(良:1票) 《改行有》

505.  ビフォア・ミッドナイト 今年、35歳、結婚7年目、二児の父親。 紛れも無い「18年」という時間の中で、奇跡のように美しい“出会い”と“再会”を経て、ともに人生を歩んできた男女の様を描いた本作を観て、言うまでもなく、身につまされ、“辛辣な時間”を耐え忍んだことは確かだ。 きっと「夫婦」という生き方を経験している殆どすべての男女が、多かれ少なかれ同じような時間を経てきていると思う。 それは、世界中で、日々繰り返されている、あまりにありふれた男女の「現実」だ。 同じ監督が、同じ俳優二人と、物語内と同じ時間経過の中で映し出してきた稀有な映画シリーズの第三作目。 「ウィーンの夜明け」と「パリの夕暮れ」を経て、ついに結ばれた二人の「9年後」。 この奇跡的な三部作を観終えた人の多くは、“時の残酷さ”をひしひしと、いやひりひりと感じることだろう。 それは間違ってはいない。時間はいつだって残酷だ。 主演俳優の顔に刻まれた皺の数と、主演女優の少し垂れた乳房は、そのことをあまりに雄弁に物語っている。 ロマンティックな“夜明け”と“夕暮れ”で結ばれた二人も、時が経ち、子どもが生まれ、世界中のどこにでもいる“普通”の夫婦となった。 そこに映し出されていたのは、見紛うことなき「倦怠期」。 そして、日常の中で密かに孕み、着実に育み続けてきた双方の鬱積が、休暇中のギリシャの地で不意に弾け、二人を失望で埋め尽くしていく。 ああ、あんなにもロマンティックな時間を経てきた二人でも、こういう夫婦像にたどり着いてしまうのか……。 彼らの18年間を追ってきた観客は、彼らと同様に失望に苛まれるかもしれない。 けれど、それと同時に、18年というリアルな時間経てきたからこその「人間味」と、それに伴う人生の「価値」を感じることが出来る。 彼らの大いなる“失望”は、出会って18年、共に人生を歩み始めて9年という「時間」があったからこそ、“辿り着いた”ものだということに気づく。 泥沼の夫婦喧嘩の果てに、彼らはお互いに対して心底失望する。 じゃあ聞くが、9年前に恋が成就しなければ幸せだったのか?そもそも18年前に出会わなければ幸せだったのか? いや、違う。 はるか昔のときめきも、結ばれ子を授かった多幸感も、セックスの恍惚も物足りなさも、互いに対しての尊敬も失望も、ぜんぶひっくるめて、もはや二人の人生であり、愛の形なのだと思える。 そして、その事実は、たとえもしこの先二人が離別してしまったとて消え去りはしない。 前二作と同様に、本作のラストシーンでも「結論」は映し出されない。 二人の間に生じた問題は何も解決されておらず、溝は最大限に広がったまま、夜は更けていく。 けれど、不思議とそこには“眩さ”を感じることができる。 その眩さの正体が一体何なのか。35歳の僕には明確に説明することができない。 ただ、この二人の18年分を見てきたけれど、この夜更け前の二人が一番好きだ。ということは断言できる。 主演のイーサン・ホークとジュリー・デルピー、そして監督のリチャード・リンクレイターの三者によって織りなされる「会話」が、益々素晴らしい。 前二作と変わらず、他愛なく自然な会話シーンのみによって映画は構成されている。 ただし、リアルな時の重なりとともに、一つ一つのやり取りが、より自然な味わい深さを携えている。 それは時に滑稽で、時に愚かしく、時に恐ろしい。 会話が互いを傷つけ、会話が溝を深めていく。 けれど、遠ざかっていく彼らをつなぎ留めたのもまた会話だった。 これが「台詞」であることが、まったくもって信じられない。 また「9年後」があるのだろうか。 物凄く気になるし、物凄く観たいけれど、いよいよこの先を見ることが怖すぎる気もする。 彼らの心持ちが幸福であれ不幸であれ、そこには“悲しみ”の予感がつきまとうように思う。 それが「時間」というものの宿命だと思うから。 その様を心して観られるように、自分自身が人間として成熟していかなければならないとも思う。 “タイムマシン”でやってきたジェシーが読んだ手紙の通りに、南ペロポネソスの夜が“最高の夜”になるであろうことは、喧嘩とセックスを繰り返す世界中の夫婦が、深く納得するところだろう。 何だかんだで、そういうことが分かるようになる人生は、やっぱり悪くない。[CS・衛星(字幕)] 10点(2016-06-26 22:21:44)《改行有》

506.  デッドプール 「反則技」というものは、“フツー”は非難の対象であろうが、同時に確固たる“エンターテイメント性”を孕んでいるものだ。悪役レスラーしかり、マラドーナの神の手しかり、人々は「反則」を非難しつつも、往々にしてそれに魅了される。 デッドプールというアメコミ映画におけるニューヒーローは、まさにそういう存在であろう。その存在性と魅力そのものが、きっぱり「反則」だと思う。 冒頭、タクシー移動をする“俺ちゃん”が、うっかりガムの食べかすを指につけてしまいそこかしこにこすりつけようとする。ふいに鑑賞者側にひょいっと腕を伸ばし、“存在しないことになっている”カメラのレンズにガムをこすりつける。これぞこの“赤マスク”に全身を包んだヒーローの最も特徴的な特殊能力「第四の壁の突破」である。 その後も赤マスクは、どんなに緊迫感が高まっている場面であっても構わず我々(鑑賞者)に向かって話しかけてくる。(最後の最後まで) 本来、こんなキャラクターが存在していいわけないのである。まさに反則。故に唯一無二に魅力的なのだ。 今回の映画化にあたっては、ここに至るまでの製作的な“文脈”にも注目したい。 文字通りの紆余曲折を経て待望のデッドプール役に“返り咲いた”主演俳優ライアン・レイノルズの執念が、このヒーロー映画にユニークな味わい深さを加味している。 何年も前からこのキャラクターを演じてみたいと切望し、「ウルヴァリン:X-MEN ZERO(2009)」で念願のデッドプール役を手に入れたはいいものの、用意されたキャラクターは原作とはあまりに乖離していたため酷評の的となってしまった。(今思い返してみたら、それでもレイノルズはいいパフォーマンスをしていたと思うけれど) その後も、「グリーン・ランタン」「R.I.P.D」とコミックヒーローを演じるがヒットには至らず嘲笑されるばかり。 そんなライアン・レイノルズのフィルモグラフィーは、「第四の壁の突破」という“メタ構造”がまかり通るこの映画において、格好のイジりネタであり、故に彼以上の適役はいないわけである。 絶え間ない軽口、飛び散る血しぶきと肉片、アメリカ的ジョークのオンパレードに仕上がっているこの映画化は、間違いなく大成功だろう。 ただし、だ。アチラの“馬鹿ウケ”は、イコール日本人の感覚では全面的に受け入れることが難しいということも事実。 愉快に笑えた映画ではあったが、諸手を上げて大はしゃぎとまではいかなかったことは否めない。 「X-MEN」シリーズはそれなりに成功を収めてはいるが、リブート版「ファンタスティック・フォー」の失敗も記憶に新しい20世紀フォックスでは、それほど莫大な予算組みが出来なかったのであろうことは、容易に想像できる。 “例の学園”に訪れたデッドプールが、二人だけしか登場しないX-MENに対して「予算がないのかな」と自虐するのだが、まさにその通りなのだろう。(せっかくネタにもしていたのだから、“スチュワートの方”のプロフェッサーXくらいはカメオ出演してほしかったな) そのせいもあってか、描き出される場面は非常にミニマムになっていて、ストーリーテリングにも広がりが無かった。 回想も織り交ぜながら、上手く「デッドプール誕生秘話」を描き出していたとは思うが、期待を膨らませて散々見てきた予告編から伝わってくるもの以上の物語性が無かったことは、少々残念だった。 とはいえ、「バットマンVSスーパーマン」「シビル・ウォー」と立て続けに公開され、「X-MEN アポカリプス」の公開も間近に控えるという、アメコミ映画ファンにとっては盛りだくさんすぎてオーバーヒートしそうな中で、今作が丁度いい潤滑油になったことは言うまでもなく、このニューヒーローの“独自性”が、群雄割拠のアメコミヒーロー映画界における“新ジャンル”になったことは間違いないと思う。 (レイノルズにとっては念願の)世界的大ヒットによって続編の製作は必至。次回はビッグバジェットも確保できるだろうから、より一層大々的に、馬鹿馬鹿しく、毒々しい“俺ちゃん”の活躍に期待大。[映画館(字幕)] 7点(2016-06-16 14:18:02)《改行有》

507.  ザ・レイド GOKUDO 《ネタバレ》 前作から引き続き、“シラット”を主軸にした“痛々しい”アクション性はこれでもかと繰り広げられる。 センセーショナルな前作により、かの伝統武術の虜になった世界中の格闘映画ファンの欲望に応えるように、格闘シーンのバリエーションは多岐にわたり、文字通りに「盛りだくさん」だった。 前作の死闘を生き抜いた主人公のヒーロー性はスケールアップし、彼に対峙する悪役たちも前作以上にユニークだったと言える。 今作の場合、その悪役たちこそが娯楽性の中心とも言えるので、少し言及したい。 まずは実質的なラスボスとして登場する“キラーマスター”ことナイフ使いの殺し屋。演じたセプ・アリフ・ラーマンは本物のシラットの達人らしく、動き方は勿論、その風貌に至るまで説得力に溢れている。愛用するカランビットナイフで切り裂きあう主人公とのラストバトルは、前作同様、達人同士だからこその“本物感”が凄い。 続いて、“ベースボール・バットマン”。金属バットを振り回す暴力者は珍しくもないが、この殺し屋は更に硬球をノック打ちし飛び道具として殺る。その殺り方は、馬鹿らしくも新鮮だった。(しかも左打者!) そして、ベースボール・バットマンの妹の女殺し屋“ハンマー・ガール”。その名の通り、ごくフツーの金槌を両手に持ち、見事な体術を駆使して殺る殺る。彼女の場合も、ただ金槌振り回すだけではなく、金槌の“釘抜き”の部分をしっかりと使って突き刺し肉を抉るワザが、残虐かつ斬新だった。 この兄妹はどうやら幼少時の暗い過去を持ちつつ二人で支えあって血みどろの道を生き抜いてきたらしく、ふいに垣間見える兄妹愛には、思わずほだされる。 が、主人公との死闘の末に、それぞれが自らの武器を逆手に取られて、妹は金槌で首を斬り裂かれ、兄は金属バットが顔にめり込んで離れなくなるくらいに撲殺される。酷いや……。 更には、前作で最強の悪役“マッドドッグ”を演じ、シリーズの武術指導も担っているヤヤン・ルヒアン(主人公とともに「SW」にも出演!)は、大物マフィアに長年仕える浮浪者風の殺し屋として再登場しており、流石の存在感を放っている。 今作では役柄上、主人公との直接対決はないが、前作以上の大立ち回りが見せ場として用意されており、“死に様”に至るまで最高であった。 今作のストーリー展開の随所で起因となる大物マフィアのボスの息子の愚かさぶりも、演じたアリフィン・プトラの顔つきも含めて、味わい深さを出せていたと思う。(「親の心子知らず」とはまさにこのことである。) と言った具合に、部分的なアクション性や、悪玉キャラクターたちの存在感のみを捉えたならば、前作以上の満足感を与えてくれる作品であったとは思う。 しかし、残念ながら、映画全体を捉えたならば、そこには「盛りだくさん」という言葉だけでは収まりがつかない「冗長」という一言が重くのしかかる。 とにかく長過ぎる。前作が100分少々でシンプルに纏まっていたことに対して、今作はたっぷり2時間半。 終わってみれば、紡ぎだされたストーリーは至極ありふれたものであり、カットバックを多用し、映画の尺を長引かせる理由と意味は全く無かったと思えてならない。 勿論そこに、尺と手法に見合うだけのストーリーの重厚感があれば問題ないわけだが、この映画においては、ストーリーに重厚感を求めること自体がナンセンスだと思う。 前作を世界が賞賛した最大のポイントは、センセーショナルなアクション性に尽きるが、それと同時に、ストーリー性を極限まで削ぎ落として、白眉なアクションそのものをストーリーテリングの軸として展開させてみせた潔い映画構成こそが、最大の「勝因」だったと思う。 その勝因が、この続編で大きく損なわれてしまったことは、やはり残念に思う。 とはいえ、兎にも角にも、前作に引き続き、色々と語りがいのある娯楽映画であることは間違いない。 加えて、どうやら自分が観たのは殺戮描写が抑えられたR15版だったらしく、映画が映画だけにちゃんとR18版を観なければ、真っ当な評価は出来ないなとも思う。 最後に、「GOKUDO」と邦題で銘打たれてはいるが、日本人俳優が雁首揃えた“ヤクザ”と主人公との絡みは殆ど無く、日本国内向けのプロモーションは完全にアンフェアだ。(遠藤憲一や松田龍平は意欲的に役柄に臨んでいた風に見えたのでもう少し活躍して欲しかった) ただ噂レベルの情報ではあるが、「3」ではいよいよ“VSヤクザ”の構図が本格化するストーリーになるとのことで、日本人の“動ける”俳優たちに声が掛かっている……らしい。 「もうたくさんだ」と拒否感を示す主人公のラストのセリフが、次作にどう繋がっていくのか。まあ期待しておこう。[CS・衛星(字幕)] 6点(2016-06-12 21:26:42)《改行有》

508.  ヒーローマニア -生活- 原作は福満しげゆきの数少ないストーリー漫画の一つ「生活」。 さすがにそのままのタイトルでは、プロモーションにおいての危惧があったのだろうけれど、“ヒーローマニア”という合っているようで実は本質を履き違えたタイトル改変をしてしまっていることが、この映画化のマイナス要因の大部分を占めているように思う。 原作が漫画にしろ、小説にしろ、映画化に際しての改変はつきものだけれど、数多くの映画化作品と同様に、今作についても改変箇所の多くは、尽く失敗していると言わざるをえない。 ただし、映画の製作側が改変をしたくなる気持ちも、今作の場合は理解できる。 僕自身原作の大ファンだけれども、それでもこの原作のストーリーテリングが“雑”であることは否定出来ない。 勿論、その独特の雑さによる荒涼感と無気力感こそが、福満しげゆきの漫画の魅力なわけだが、結構な豪華キャストを揃えた商業映画として製作する以上は、諸々の設定やストーリーを補正することは避けられなかったのだろうと思う。(それが成功しているか否かは別にして) キャスティングは、ほぼ完璧だった。 キャラクター各々の適性的にも、ヒーロー映画としての見栄え的にも、商業映画としての集客力的にも、極めてバランスは良く、原作ファンとしても満足に足るものだった。 特に良かったのは、原作者自身を投影したキャラクターでもある“土志田”役の窪田正孝と、ヒロイン役の小松菜奈。 両者とも、原作に通じる小市民の内に秘めた怒りと闇をキャラクターとして表現できていたと思う。 小松菜奈のキャラクター設定は、原作とは大いに乖離していたけれど、相変わらず“悪魔的”にカワイイので許すほかない。 一方で、このストーリーのキモとなるべき“アクション描写”も、あまりにも稚拙だった。 せめてアクションシーンに、この漫画らしい馬鹿馬鹿しさとフレッシュさを再現できていれば、ストーリー展開のお粗末さは充分にカバーできていたと思う。 原作漫画を数年前に初めて読んだ瞬間から、映画化を夢想したファンとしては、トータル的には不満足な映画に仕上がっていた。 けれども、だ。 この映画化の企画そのものに対しての感謝は尽きない。そして、予想外に豪華で的確なキャスティングからも、失敗しているとはいえ明確な意図をもった改変からも、真剣にこの映画を作ろうという気概だけは感じることができた。 原作漫画のキャラクターが登場するエンドロールを見せられては、一方的に怒るわけにはいかなかった。[映画館(邦画)] 5点(2016-05-16 23:06:17)《改行有》

509.  シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ 《ネタバレ》 キャプテンの拳がアイアンマンを叩く、アイアンマンの拳もキャプテンを叩く。 悲愴感しかない絶え間ない“殴り合い”を目の当たりにして、ただただ心が痛かった。 愛するヒーロー同士が傷つけ合っているという悲しさもさることながら、この「正義」と「正義」のぶつかり合いの根底にあるものが悲しい報復の螺旋であることが、現実世界の混沌そのものを表しているようで、殊更に悲しく、この世界に生きる者としての虚無感を感じにいられなかった。 マーベル映画のヒーローたちは、「悪」と戦い続けてきた。「悪」を叩き、打ち勝つことが、彼らが司る「正義」の存在意義だった。 しかし、この映画に限っては、明確な「悪」は存在しない。真に憎むべき悪への矛先が見当たらなくなり、ヒーローたちは揺らぎ、対立する。 動揺するヒーローたちの姿は、自国の正義を主張し、ぶつかり合い、傷つけ合い、混迷を突き進むこの世界そのものではないか。 ついに彼らは、相容れぬまま袂を分かつ。 己に対する無力感と復讐心に苛まれ続けるアイアンマンは、キャプテンの象徴である「盾」を奪った。 憧れのヒーローが、この愚かな世界と同様に怒りと悲しみに屈して膝をつく様には、失望と絶望が渦巻く。 この重く、悲しいストーリー展開の中で、マーベル映画らしさを保ってくれたのは、頼もしい“新人”二人。 “アリ男”の“大”活躍と、“クモ男”の軽妙なティーン節によって、映画ファンがいろいろな意味で救われたことは間違いない。 両者の存在感が光った空港での“大乱闘シーン”は、「馬鹿馬鹿しい」と言われればそれまでだけれど、諸手を上げて楽しかったのだから何の問題もない。 えげつないまでに痛々しいストーリーテリングを描きながらも、決してスーパーヒーロー映画そのものの“楽しさ”を忘れていないのがマーベルのエライところだ。(そういう部分で“DC”は大きく溝を開けられている‥‥) スティーヴ・ロジャースも、トニー・スタークも、スーパーヒーローである前に一人の人間である。道を見誤り失墜することもそりゃあろう。 でも、「復活」こそが、ヒーロー映画の醍醐味でもある。この世界が抱える混沌の答えを彼らは見出してくれるはずである。 きっとその時には、再び“スターク”から“スティーヴ”へ「盾」が手渡されることだろう。 心の痛みは残る。この痛みを抱え続けて、ただひたすらに“彼ら”が率いるチームの帰りを待とう。 (2018.5.27 再鑑賞) タイトル的な位置づけは「キャプテン・アメリカ 3」だが、むしろ、「アベンジャーズ 2.5」。 下手な監督が撮ったならきっと酷く馬鹿みたいなシーンになったであろう、飛行場での“陣取り合戦”を、圧倒的な娯楽シーンとして成立させてみせたルッソ兄弟の手腕は見事。このシーンに限らず、全編に渡って散りばめられたアクションシーンとしてのアイデアが、“VSサノス戦”に活かされていることも明らかだ。 トニーとスティーブは、この“殴り合い”以来、「インフィニティ・ウォー」を経てもなお、「対面」していない。 「アベンジャーズ4」の“胸熱”に向けての布石は、十分過ぎる程に打たれている。[映画館(字幕)] 9点(2016-05-07 23:36:47)《改行有》

510.  陸軍中野学校 市川雷蔵演じる主人公の渇いた物腰が、この映画が醸し出す空気感のすべてを体現している。 その様は、とても整然として美しい反面、おぞましさと狂気がふいに顔を見せる。 この男は一体何を考えているのか。 ストーリーの進展と共にそれは絞り込まれ明らかになってくる筈なのに、クライマックスに突き進むほどに、彼の心情は靄がかかるように見えなくなるようだった。 それは即ち、主人公・三好次郎もとい椎名次郎が、本物のスパイに成った表れだったのかもしれない。 スパイ・椎名次郎は、僅かに残っていた愛する者への情を、使命という名の非情で闇の中に埋め込み、世界の混沌へと歩み出していった。 実在したスパイ養成所「陸軍中野学校」の実情を描いたこの50年前の映画は、決して一筋縄ではいかない娯楽性と狂気性が入りじ混じっている。 描き出される時代と舞台に共鳴するように、この映画そものものが非常に混沌としている。 ただし、混沌としてはいるが、難解なわけではない。映画としては、娯楽作品としての立ち位置をきちんとキープしている。 それはまさしく、往年の日本映画界の底の深さであり、ただ凄い。 美しき能面のような主人公が、この先どのような“表情”を使い分けて、スパイという生き方を全うしていくのか。 そして、彼が手繰り寄せるのは、世界の平和か、それとも更なる混沌か。 この後のシリーズ作品を観ていくのが、楽しみでもあり、恐ろしくもある。[CS・衛星(邦画)] 8点(2016-05-05 23:09:13)(良:1票) 《改行有》

511.  ナイトクローラー 《ネタバレ》 冒頭、軽犯罪に手を染める主人公のギョロリとした両の目が暗闇の中に爛々と浮かぶ。 その目を見た瞬間に、「ああ、こいつはちょっとフツーじゃないな」と感じ取れ、同時にこの映画自体の特異性を予感せずにはいられなくなる。 食いっぱぐれ、社会の底辺に潜んでいた主人公が、“ナイトクローラー”と呼ばれる報道スクープ専門の映像パパラッチ業に辿り着くことから、このある種悪夢のような“サクセス・ストーリー”が転がり始める。 こんなにも胸クソ悪いサクセス・ストーリーを未だかつて見たことがない。 と、自分の中の表向きの倫理観は、この主人公の存在そのものを真っ向から否定する。 けれど、それと同時に、外道そのものである彼の成り上がりぶりに対して、一抹の高揚感を感じてしまっていることにふと気づき、とてもじゃないが胸中穏やかでいられなくなる。 果たして、この映画の中で本当に間違っていることは何で、本当に正しいことは何なのか。 この映画は、衝撃的でおぞましいストーリーテリングの中で、その正体が何なのかということを観客に問うてくる。 「勤勉で志も高く粘り強い人間です お役に立てると思います」 “ゲスの極み”である主人公は、終始一貫してそう言って自分自身を売り込む。 自分の成功のためなら、彼はあらゆる罪も犯罪も意に介さない。 しかし、彼のその言葉自体には、微塵の偽りもない。 彼は自分の立てた成功のためのプランに対して努力を惜しまず試行錯誤を繰り返し実現している。 それは、完璧なPDCAサイクルの実行であり、そのプロセスだけを捉えればあまりに有益なビジネスの手本と言えよう。 主人公は、時間を惜しんでインターネットを貪り、この現代社会において「正論」とされているありとあらゆる理と、資本主義のルールを体現しているいに過ぎない。 故に、この映画は、決して主人公を断罪せず、さも当たり前のように“ハッピーエンド”を与えているのだ。 おぞましくも独創的に社会の病理性を“爛々と”描き出したストーリーとキャラクター造形が見事だ。 ただこの映画を成功に導いた最大の要因は一にも二にも主演俳優によるところが大きい。 ジェイク・ギレンホールの言葉通りに「異様」な存在感こそが、この映画の肝であり、テーマそのものだったと思える。 劇中、殆ど瞬きをしない主人公ルイス・ブルームの異様な眼差しが、脳裏にくっきりと焼き付いて離れない。 ただし、“フツーじゃない”のはこの男ではなかった。決して曇らせることなく彼の目を輝かせ続けるこの社会の暗闇こそが、“フツーじゃない”のだ。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2016-05-04 08:54:30)(良:2票) 《改行有》

512.  ジョン・ウィック 「容姿端麗」 それは映画スターにとっては最低条件とも言える素養の一つであるわけだが、そうであることが当たり前過ぎて、俳優としての評価においてしばしばないがしろにされがちだ。 その形容がもっともよく当てはまり、ハリウッドにおいて長くそれを担ってきた映画スター、それがキアヌ・リーヴスだと思う。 正直なところ、彼の出演作は当たり外れが激しく、そのビジュアル的な秀麗さのみが際立ってしまい、「キアヌ・リーヴスが格好いいだけの映画」という揶揄が生じる作品は数多い。 ただし、まず言及したいのは、「格好いいだけ」という感想を20年以上に渡って映画ファンに言わせているキアヌ・リーヴスという俳優の在り方は、圧倒的に正しいということだ。 キアヌ・リーヴスの出世作「スピード(1994)」から22年。彼はもう51歳である。 それでも尚、観客に「格好いい」という第一印象を持たせ続けていることは、スター俳優としての絶対的な資質と絶え間ぬ努力以外の何ものでもないと思う。 僕はただそれだけでも、この俳優は「エライ!」と思えるし、信頼できる。 主演俳優の世間的評価への不満が先行してしまったが、この最新作のキアヌ・リーヴスももはや当然のように格好良い。 今作においては、決して「キアヌ・リーヴスが格好いいだけ」の映画ではない。 アクション映画としての格好良さとユニークさ、そして主演俳優を筆頭としたつくり手の意欲に溢れている。 怒らせた相手(主人公)が殺人マシーンだった。というストーリー展開はこの近年特に多発されていて、ジャンル映画としての一つの流行りのようになっている。 今作についてもストーリー自体は、その流行りのままで、特別なオリジナリティがあるわけではない。 ただ主人公が織りなすアクション性には独創性があり、フィクショナルな映画世界にありながら圧倒的な説得力が備わっていた。 ありふれたストーリーテリングの中で、登場人物たちが生きる「世界」の設定の細やかな作りこみが、多くのこの手のジャンル映画とは一線を画する仕上がりを見せているのだと思う。 そして、何よりも、主演俳優の映画映えする類まれな風貌と、役づくりのための鍛錬が、「ジョン・ウィック」というニューヒーローを生み出したのだろう。 時折伝わってくる海外ゴシップで、一人寂しく路上で佇んでいたり、悪質なストーカー女による迷惑を被ったり、激太りしたりと、不憫な私生活の様を見聞きする限り、キアヌ・リーヴスという人は決して世渡り上手ではないのだろう。 でも、不器用ではあるが、映画人として誠実であることは、作品自体の善し悪しは別にして彼のフィルモグラフィーから伝わってくる。 そんな中でまさしく起死回生の一打となった「ジョン・ウィック」。続編の撮影も順調な様子。大いに期待したい。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2016-05-03 21:52:53)《改行有》

513.  ヴィジット とても奇妙な映画だった。 「微妙」と「絶妙」の狭間に存在する一線をひたすらに渡らされるような、とても意地悪な映画だったとも言える。 渡りきったその先でしばし立ち尽くしつつ、「ああ、シャマラン映画ってこういうのだったな」と思い出す。 果たして、僕はこの映画が面白かったのか、つまらなかったのか。 それすらも釈然としないまま、寝床に入り、ふと昔を思い出した。 幼いころ、妹と一緒に母方の祖父母の家によく泊まりに行った。 こう言うと、母は気を悪くするだろうが、今思い返してみると、その祖父母の家はとても粗末で随分と古かった。 頻繁に泊まりに行っていたが、それは自分たちが望んで行っていたのか、母の何かしらの都合であずけられていたのか、いまいちよく思い出せない。 小さな家だったが、幼い僕にとっては何だか踏み込みづらい領域がいくつかあって、好奇心と一抹の恐怖感を同時に感じていた記憶がある。 居間の奥の部屋はいつも戸が閉まっていて禁断区域のような雰囲気があった。 祖父が陣取る座椅子の後ろのふすまの中には戦艦のプラモデルが隠してあった。 寝室は古いマットレスが部屋いっぱいに敷かれていて窓がなく一日中暗かった。 トイレは汲み取り式でしょっちゅう腹痛になる僕には殊更苦痛だった。 祖父母は優しくて、好きだった。 たぶん、当時は自分たちが率先して泊まりに行っていたのだろう。 けれど、今記憶に残るあの家に一晩泊まれるかというと、正直きつい。 この映画は、奇怪な言動を見せる祖父母の家に迷い込んだ“ヘンゼルとグレーテル”の一週間を恐怖感たっぷりに描き出しているけれど、真に伝えたい事は彼らの恐怖体験そのものではなくて、姉と弟それぞれが抱えた記憶と精神との葛藤だった。 白く暗い雪の中で織りなされる不安と恐怖の連続。 こうなのかな?と想像した展開が、この監督独特の意地悪なミスリードによってはぐらかされていく。 そして、本当に対面しなければならない事象に知らず知らずのうちに導かれていくのだった。 結局のところ、面白い映画だったのかどうか、よくわからない。 ただし、独特の毒々しい味わいがじわりじわりと脳裏に染み渡ってくる。 作品としての好き嫌いは別にして、M・ナイト・シャマランの映画はこうでないと。[DVD(字幕)] 8点(2016-04-30 00:42:05)(良:1票) 《改行有》

514.  バクマン。 「漫画を描きたい」という衝動に駆られ、若者たちは無意識に雄叫びをあげ、思わず走り出す。 漫画に限らず、一度でも自分自身の内なるものから“何かを生み出したい!”という思いを抱いた経験がある者にとって、この作品の主人公たちの姿は、どうしたって心を揺さぶられる。 そしてその“舞台”が、日本中の少年の心を掴み続けてきた「週刊少年ジャンプ」の誌面上である。 想像よりもずっと熱い青春とプロフェッショナルの狭間の群像に対して、あたかもジャンプを彩ってきた漫画を読むように釘付けになった。 この作品が、どれほど実際の漫画制作の現場のリアリティに迫っているのか、もしくは乖離しているのかは分からない。 けれど、漫画家や編集者たちが醸し出す漫画に対する熱量そのものは、真に迫っていると思えたし、そうだと信じたい。 正直なところ、「また人気漫画の安易な実写化か」と高をくくっていた部分があったのだけれど、それは完全に侮りだった。 今作は、青春映画の新たな傑作と言って間違いないし、数ある漫画原作の映画化の中でも屈指の作品だと言って過言ではないとお思える。 この映画化を成功に導いたのは、やはり一にも二にも大根仁監督の“力”によるところが大きいと思う。 大根仁監督作品を観るのはこれが初めてだったが、初めて彼の監督作を観て、この人の作品が話題になり続けている意味が一発で分かった気がする。 日本映画には珍しい発想力と、既成概念に囚われた表現方法。見るからに自由な表現力こそが、この監督の持ち味であり、最大の魅力なのだろう。 漫画制作というソフト面でもハード面でも内向的にならざるを得ない世界観を映像化することは、非常に困難だったはずだ。 並の映画監督であれば、ただ原作漫画をなぞらえただけの映画として見応えのないものに仕上がっていたに違いない。 しばしば「戦場」と表現されることも多い漫画制作の現場は、文字通りの“バトルシーン”で映し出され、主人公たちが描いている漫画の世界観をもイメージさせる臨場感を生んでいた。 また二次元表現である異常、必然的に平面的にならざるをえない「漫画」そのものが生み出される様は、まさかのプロジェクションマッピングを駆使して立体的に、躍動的に描き出された。 ラストシーンでの黒板アートづかいも含めて、肝である「漫画」が描き出される瞬間そのものが非常にエモーショナルに映像表現されたことは、この映画の勝因の一つであり、大根仁監督のなせる業だったのだろうと思う。 その他にも、“緋村剣心VS瀬田宗次郎”戦の記憶も新しい佐藤健+神木隆之介の主演コンビの相性の良さだったり、小松菜奈のミニスカートという大正義!もといある種超越した美しさだったり、サカナクションの楽曲の絶妙なマッチングだったり、みんな大好き山田孝之の相変わらずの万能性だったり、と、映画を彩る一つ一つの要素が、幸福に融合しており、力量のある監督ならではの支配力の高さを感じる。 極めつけはエンドクレジット。あのエンドクレジットは正直ずるい。 週刊少年ジャンプという漫画文化に対しての絶大なリスペクトとともに生み出されたのであろうエンドクレジットは、ずるくて、ユニークで、ステキすぎる。 “友情・努力・勝利”という週刊少年少年ジャンプの絶対的テーマを経て、主人公の若き漫画家たちは一つの結末を迎える。 その少し切なくもあり、同時にそれから先の希望に溢れてもいるラストシーンも、実に“ジャンプ”らしい。 彼らが生み出したヒロインは、最終コマで「ずっと待ってる」と微笑む。 ちくしょう。良いじゃねえか。 これはまさしく、現代版「まんが道」だ。[ブルーレイ(邦画)] 8点(2016-04-29 20:59:46)《改行有》

515.  バットマン vs スーパーマン/ジャスティスの誕生 《ネタバレ》 ”娯楽映画としての展開力の稚拙さ、それに伴う絶対的なエモーションの欠如。それが今作の最大の敗因” と、前作「マン・オブ・スティール」を批判した。 前作の不満足感が経験値としてあったため、これだけのビッグタイトルでありながら期待感は上がりきらなかった。 バットマン役にベン・アフレックが起用されたことも、不安感を煽った。ベン・アフレック自体は決して嫌いな俳優じゃないけれど、彼のあの不穏げな眼差しからは、とてもじゃないが高揚感が先行するヒーロー像が生まれないことは明らかだった。 そして、結果的には、ある意味予想通りの映画だったと言える。 むしろ不安視した部分が予想通りだったからこそ、変に期待ハズレ感が先立つこともなく、逆に楽しむべきところは楽しめたとも言える。 前作がああいう映画であったのだから、描き出す世界観の方向性が変わらなかったことは、個人的な好き嫌いは別にして真っ当なことだったと思う。 娯楽映画らしいエンターテイメント性や、スーパーヒーロー映画らしいエモーションなどは、もはや意識的に排除されている。 前作においては、絶体絶命の危機に陥ったヒロインや市井の人々を、スーパーマンが救出するシーンが無いことに大いに不満を覚えた。 今作ではそういうシーンはあるにはあった。しかしその時のスーパーマンの表情は精神的な苦悶に満ちていて、シーンそのものが高揚感とは程遠い悲愴感に溢れかえっていた。 ただしそれは、監督のザック・スナイダーが思い描いた通りの世界観であり、彼は前作から一貫して自分が表現したいビジュアルデザインを頑なに追求しているに過ぎない。 この監督の創造性は、いい意味でも悪い意味でもそれがすべてであり、仕事ぶりとして間違ってはいないと思う。 問題視するとすれば、それはやはり、これほどのビッグプロジェクトを構築していくにあたって、その礎となるべきこの連作を、ビジュアルセンスに優れた監督一人に任せっぱなしにしまっている「企画」としての稚拙さに他ならないと思う。 ビジュアル的な拘りが際立つとともに、企画そのもののセンスの無さが目に余ってくる。 言わずもがなこの「企画」が目指す終着点は、DCコミックのスーパーヒーローチーム「ジャスティス・リーグ」の映画化である。 勿論、ライバル視しているのは、マーベルコミックの「アベンジャーズ」であり、その映画化の大成功があったからこその企画発足であったことは言うまでもない。 そのあまりにも確かな”お手本”があったにも関わらず、今シリーズはストーリーテリングがあまりに巧くない。 今作で登場した“ワンダー・ガール”の活躍は、二大ヒーロー同士の陰鬱な(そしてあまり意味のない)鬩ぎ合いが続く今作において殆ど唯一の“胸熱”ポイントだったが、この先のジャスティス・リーグの中核となるキャラクターである以上、しっかりと単体作品を経てから登場して欲しかった。 マーベルがそうしたように、このプロジェクト全体を“チーム”として動かし、ストーリーを練りあげていかなければ、いくら元祖スーパースターの代表格であるスーパーマンとバットマンが並び立ったとしても、狡猾なアイアンマン率いるアベンジャーズとは勝負にならないと思う。 前述した通り、全く楽しむべき要素がなかったとは思わない。 イスラエル人女優ガル・ガドット(ジゼル!)演じるワンダー・ウーマンのまさに神的な美貌と活躍は勿論、ジェシー・アイゼンバーグのレックス・ルーサーぶりも狂気的で良かったと思う。ザック・スナイダーのビジュアルセンスと画面構成力はやはりずば抜けている。 個人的に古今東西の“ヒーロー大集合もの”は大好物なので、「ジャスティス・リーグ」についても、何としても実現・成功してほしいと思っている。 が、今一度DCコミックという“チーム”の総力を集結させて、企画そのものをブラッシュアップしていかなければ、ブルース・ウェインが夢で見た“未来”そのものが無くなってしまうぞ。[映画館(字幕)] 6点(2016-04-24 00:32:29)《改行有》

516.  シェフ 三ツ星フードトラック始めました ストーリーは非常にオーソドックス。王道的ではあるが、ひねりがないと言われれば否定は出来ない。 最近のコメディ映画としては珍しいくらいに、登場人物たちが揃いも揃って基本的には”いいやつ”であることも、“ど真ん中”過ぎて逆に戸惑うくらいだ。 映画としてのストーリーテリングのみを捉えれば、「凡庸」の一言でスルーされても致し方ない今作が、巷の好事家たちの目に止まった理由は、一にも二にもこの映画が製作された「文脈」に他ならない。 ジョン・ファブローという映画監督が、敢えて自らを主演に配して臨んだ意欲的な”小作”。 「アイアンマン3」の監督を降りて、この小さな映画を作り上げたこの映画監督のありのままの「生の声」が如実に表れている。 主人公のシェフが、雇い主の命に従い自分の意に反して送り出した料理が「大批判」を浴びる。 大いなる失望と憤慨と共にフラストレーションに苛まれる主人公。 その姿はまさに、「アイアンマン2」から「カウボーイ&エイリアン」と立て続けに批判を浴びたジョン・ファブロー監督自身の姿にピタリと重なる。 ここで重要なことは、ダスティン・ホフマンが演じる雇い主の考え方も、まったくもって間違ってはいないということだ。 店のオーナーである彼の立場からすれば、自分が雇っているシェフに対してあのような命令を下すことは、実は至極真っ当であるし、彼の言い分はつくづくごもっともである。 詰まるところ、この映画でジョン・ファブローが表したかったことは、自分の思い通りに創造できないことほどクリエイターにとって苦しいことはないということ。そして、その反面、“スポンサー”の意見は絶対であり、それを叶えた上で世の好評を得ることがプロフェッショナルの務めであるという、非常にやっかいな不文律だったのだと思う。 そういうことを踏まえると、この映画は、プロの映画監督である以上受け入れる他ない「批判」と「失敗」の反省を踏まえた上で、それでも行き場のないフラストレーションを吐き出すために、自らが用意した「井戸」だったのだと思う。 そんなジョン・ファブロー監督の最新作は、ディズニーが手掛ける娯楽大作「ジャングル・ブック」。 果たしてその出来栄えは。「文脈」の続きが気になる。[CS・衛星(字幕)] 7点(2016-04-16 23:59:20)《改行有》

517.  リップヴァンウィンクルの花嫁 “夢現(ゆめうつつ)”。 映画が終わった劇場の座席でしばしぼんやりとしながら、その言葉が頭に浮かんだ。 “ひとり”では、決して、抱えきれない痛みと、抱えきれない愛おしさ。 どこまでも切なくて、どこまでも残酷な映画だった。 白昼夢のようでもあり、悪夢のようでもあるこの歪な映画世界は、まさに現代社会の“ひずみ”を映しだした“リアルな寓話”だ。 社会の片隅でひっそりと肩を寄せあって眠る彼女たちの生きる様は、とても悲しくて、とても美しい。 二匹のランブルフィッシュのように、やがて彼女たちのまわりに余計なものは何も無くなって、二人だけの唯一無二の世界を構築していく。 束の間の、いや、ほんの一瞬の、幸福。 辛苦に溢れた世界の只中で、苦しみ、悲しみ、それでも、「この世界はさ、本当は幸せだらけなんだよ」と謳い上げたこの映画の、彼女たちの強さを讃えたい。 この奇跡のような映画を彩ったのは、“彼女たち”の存在感に他ならない。 主人公を演じた黒木華とCoccoが、この映画の中で息づくことで生まれたアンサンブルが、あやうく、愛おしい。 黒木華が岩井俊二作品の中で自然に息づくことはある意味容易に想像できていたが、Coccoがこれ程までに、岩井俊二の映画にフィットし、そしていきいきと支配していくとは思っていなかった。 そして、10代の頃から、この映画監督と、稀代の歌姫を信奉し続けてきた者にとって、それはあまりに感慨深い特別な映画体験だった。 彼女は、「この涙のためなら、わたし何だって捨てられるよ。命だって捨てられるよ」と、歌うように愛を伝える。 彼女は、新しい景色の風に吹かれながら、空っぽの左手の薬指を愛おしそうに眺める。 嗚呼、この世界の、ほんとうの価値が見えてくるようだ。 一ヶ月の期間をあけて二回この映画を観て、その直後に原作小説も読み終えた。けれど、まだこの物語のすべてを整理しきれてはいない。 きっと、一生、付き合っていかなければならない映画なのだと思う。 人は、強く、儚い。 そしてそのどちらも美しい。 今はただそう思う。[映画館(字幕)] 10点(2016-04-15 00:11:48)(良:1票) 《改行有》

518.  リリーのすべて 《ネタバレ》 原題は「The Danish Girl」、直訳すれば“デンマークの女の子”。 当然、主人公である“リリー”という「女性」を指しているだろう。また、“リリー”に最期まで連れ添った「妻」のことも指しているだろう。 ただそれならば、“Girl”ではなくて“Woman”でもいいのでは?と、語学力の乏しい日本人としては思える。 そこには、生まれた瞬間から”間違った身体”を与えられてしまった「女の子」の心象そのものが表れているように思える。 ”彼”が、無意識の内に秘め続け、皮肉にも彼を最も愛した女性によって解き放たれた少女性。 このシンプルなタイトルが含んだ意味と人格は、重層的で、豊かなドラマ性を孕んでいる。 さて、この映画は、「悲劇」だろうか。 この題材を、「悲劇」として描いたことに対して、トランスジェンダーの層からも、そうでない層からも、一部批判が渦巻いているらしい。 個人的には、この物語は、決して悲劇だとは思えなかった。 勿論、映画の顛末となっている出来事は、悲しい。けれど、”リリー”自身にとってこの物語が本当に悲劇なのであれば、それはもっともっと悲しい。 たとえ、死の淵の一寸のことであったとしても、彼女は、自分の魂が望み続けた“あるべき姿”を果たした。 何もわからない、何も知らない、無知な他人にとっては、その姿が死に急いでいるように見えるかもしれない。 しかし、そうではない。 彼女にとっては、その「瞬間」こそが、生きるということの目的であり、真価だったのだろう。 彼女の最期の言葉は、真に幸福感に溢れていたのだと思う。思いたい。 まあ何と言っても、エディ・レッドメインが凄い。 昨年の「博士と彼女のセオリー」でのホーキング博士の演技で舌を巻いたわけだが、今作での表現力もまた凄まじい。 自分と同い年と知り、益々今後どのようなキャリアを積んでいくのか楽しみでならない。 そして、タイトルの意味でも言及した通り、この映画は主人公リリーの物語でもあり、同時に彼女に寄り添った妻ゲルダの物語でもある。 彼女を演じた新星アリシア・ヴィキャンデルは、凄まじい主演俳優に匹敵する存在感を示し、素晴らしかったと思う。 彼女の存在がなければ、当然リリーはその人生を全うできなかっただろうし、この際どいバランス感覚を要求される作品自体が破綻していたことだろう。 ”リリー”の妻であり芸術家であるゲルダの“物言い”や“振る舞い”が実に現代的で、この映画が描く時代背景に対して一寸違和感を覚える。 けれども、それは、無知で無理解な「時代」に対して、彼女が思想的にも精神的にも、そしてそれらを踏まえた立ち振舞的にも、いかに進歩的であったかを表しているのだと感じた。 自分が思うままに生きること自体が困難だった”彼女たち”は、きっと多くの悲しみを受け続けたことだろう。 しかし、彼女たちの悲しみの上に、ほんの少し進歩できた今の社会があり、ほんの少しずつ進歩し続けていることも事実。 ならばやはり、この映画は、彼女たちの人生は、「悲劇」なんかじゃない。[映画館(字幕)] 9点(2016-04-14 16:56:52)《改行有》

519.  映画 プリキュアオールスターズ みんなで歌う♪奇跡の魔法! 4歳の愛娘と連れ添ってのプリキュア映画鑑賞も今作で3度目。既に父娘の恒例行事になりつつあることが、嬉しい。 ただし、このTVアニメシリーズが“原則的”には幼女向け作品である以上、この映画体験の「回数」は限られている。 それはある意味刹那的であり、だからこそ何にも代え難い。 さて映画はというと、新シリーズ放映開始直後のこの季節恒例の“オールスター映画”である。新シリーズの主人公たちを主軸にして、過去シリーズのプリキュアたちが勢揃いする。 娘がプリキュアを見始めてまだ2年程度なので、当然ながら僕自身のプリキュア歴もまだまだ浅いのだが、作品を問わずこういう類いのカテゴリーを越えた仲間たちが勢揃いして戦う様に弱く、問答無用にアガってしまうタチなので、昨年のオールスター映画同様に存分に楽しめた。 特に今作は、作品自体もミュージカル映画として手の込んだ仕上がりを見せており、“美少女アクション✕ミュージカル”という「プリキュア」だからこそ成立するエンターテイメントを提供してくれていると思った。 さて、あと何回、愛娘は一緒にプリキュア映画を観てくれるだろうか。既に、欲求の発信者は娘から父親に切り替わってしまっている。 とりあえず、過去の映画作品もレンタルしてきて一緒に観ようかと思う。 あ、どうでもいいが、“ソルシエール”は“黒い時”の方がキュートだったね。[映画館(邦画)] 7点(2016-03-29 00:03:38)(良:1票) 《改行有》

520.  オデッセイ(2015) マット・デイモンが宇宙の果てに一人取り残された宇宙飛行士を演じると聞けば、やはり「インターステラー」での“マン博士”が記憶に新しいところ。 さすがにあまりに似通った役を続けてやるのは如何なものかとは思った。けれど、実際に観てみたならば、設定的に類似しているからこそ、キャラクター造形の明らかな相違が際立ち、敢えて同じ俳優が続けて演じたことに意味があったとも思えた。 そして、この映画の主人公役において、マット・デイモン以上の適役も他にいなかったろうと思う。 火星に一人取り残される宇宙飛行士を演じるにあたり必要な要素は、肉体的な逞しさと類まれなインテリジェンスだろう。更に今作の役どころにおいては、直面する危機に対して常にユーモアを保ち続けられる本質的な明るさと生物的な強さをも併せ持たなければならない。 また、映画の大半を俳優の“一人語り”で構成しなければならない特性上においては、ハリウッドにおいてもトップクラスのスター性が必要不可欠だったはず。 それらすべてを踏襲した俳優は誰か。そりゃあ、マット・デイモンしかいないというもの。 宇宙でのサバイバルという題材においては、先に挙げた「インターステラー」や、「ゼロ・グラビティ」、「アポロ13」など類似する過去の傑作は多い。 リドリー・スコットとマット・デイモンというハリウッドきっての一流どころが組んだとはいえ、そこにオリジナリティを生むことは容易では無いはずだが、今作の場合は、やはり原作が優れていたのだろうと思う。 火星に取り残された宇宙飛行士が植物学者で、農耕をはじめとする“創意工夫”を駆使して生き延びていく様は新しかったと思うし、その主人公が常に軽妙で軽口を叩きながら極限状態を過ごしていくキャラクター造形が、何よりも独創的だった。 追い詰められた時に、自らの状況を俯瞰し笑い飛ばし、ギリギリの状態から生み出された「工夫」によっていかにその場をやり過ごせるか。それこそが、人間という生物の真価だろうと思う。 この映画のラストは、主人公が未来を担う若者たちに「質問は?」と問い、彼らが一斉に挙手するカットで締められる。 どんな状況であれ常に未来に対しての一歩を踏み出そうとする勇気と希望に溢れたいい映画だったと思える。[映画館(字幕)] 8点(2016-03-19 20:12:15)《改行有》

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