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Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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521.  IAM A HERO アイアムアヒーロー この国は“ZQN”だらけだ。そして誰もが“ZQN”になり得る。 非常識で傍若無人な振る舞いをする“輩”を表す“DQN”という蔑称を文字って、劇中ゾンビとなってしまった人達を“ZQN”と表したこの映画の在り方は、“ゾンビ映画”として極めて真っ当で、ちゃんと面白い。 古くから優れたゾンビ映画は、ホラーというエンターテイメント性と共に、常にその時々の社会の縮図とそこに孕む病理性を描き出してきた。 ゾンビという恐怖を、社会病理の象徴として位置づけることで、それが文字通り生活を脅かす様を描いてきたのだ。それこそが多くの映画ファンが、ゾンビ映画に求める本質的なテーマなのだと思う。 個人的には恐怖映画が苦手なので、ソンビ映画の系譜そのものに対しての造詣は極めて低いのだが、それでもこの国産ゾンビ映画が、その“テーマ”をきちんと踏まえた上で、正真正銘のゾンビ映画として仕上がっていることは充分に理解できた。 この映画の成功の最大の要因は、言わずもがな原作漫画の見事さに尽きるのだろう。 花沢健吾の原作漫画が、前述のゾンビ映画が持つべきテーマ性をきちんと踏まえているからこそ、この映画化作品が見事なゾンビ映画に仕上がっていることは明らかだ。 ただ、どんなに優れた人気漫画の映画化であっても、尽く失敗してしまっているのが国内映画の、特に娯楽大作系映画の現実である。 そんな中で、今作の娯楽大作としての成功は、やはり喜ばしいトピックスだ。 原作漫画を忠実に映画化したと言ってしまえばそれまでだが、それこそが映画化において最も難しい部分であることも確か。 冗長になりがちな心情描写やモノローグ描写を極力廃し、ひたすらにアクションの連続で構築したことが、潔く見事だったと思う。 そして、キャスティングと俳優たちのパフォーマンスも総じて良かったと思う。 特に主人公を演じた大泉洋の英雄ぶりがスゴかった。初登場シーン、漫画を描く原稿から顔を上げた瞬間に「あ、鈴木英雄だ」と疑わなかった。 最後の最後まで、ZQN=ゾンビを殺すことに快感を微塵も覚えることなく、散弾銃を構え続ける主人公・鈴木英雄のキャラクター設定こそが原作漫画の肝であり、その特異な主人公像を体現した大泉洋の表現力は流石である。 毎朝のようにワイドショーでは、“DQN”と化した一般市民の醜態が報じられている。 「自分とは違う人種だ」と軽蔑の眼差しを送るに留まる日本人が殆どだろうが、果たしていつまでもそう安閑としていて良いものだろうか。 「炎上」を巻き起こす程の極端で分かりやすい言動に至っていないだけで、実は自分自身を含めた総ての人々に“DQN”になり得る節は見え隠れしているのではないか。 ふと気づけば、「日常」がゾンビだらけで阿鼻叫喚に包まれているなんてことに本当にならなければいいけれど……。 このゾンビ映画が描く「恐怖」とは、詰まるところそういうことだ。[ブルーレイ(邦画)] 8点(2016-12-24 18:58:08)(良:1票) 《改行有》

522.  インフェルノ(2016) 《ネタバレ》 ご存知ラングドン教授が、ヨーロッパの宗教史、美術史を辿りつつ、「謎」から「謎」を奔走する。 この映画はもはや、ミステリーに彩られたストーリーを追うものではなく、「謎解き」そのものを娯楽として楽しむべき豪華絢爛な“ジャンルムービー”なのだと思う。 ストーリーテリングが強引で粗があろうと、物語としての整合性があろうがなかろうが、「謎解き」そのものに対するカタルシスが得られれば、それでいいというスタンスなのだ。 娯楽の趣向としては、映画というよりも、ゲーム「レイトン教授」シリーズに近いものを感じた。まあ勿論、アチラのゲームが、この映画なり原作なりに着想を得ているのだろうけれど。 というわけで、年末の慌ただしい中、レイトショーで観た映画としては、面白過ぎるわけでもないし、駄作過ぎるわけでもなく、ちょうどいい塩梅で楽しめた。 前述の通り、ストーリー展開については苦笑を禁じ得ない稚拙な展開が目につく。 首謀者の計画の意味不明な遠回り感や、クライマックスの描写のグダグダ感など、サスペンス映画としての完成度は決して高くはない。 ただし、ロン・ハワードの監督の流石に洗練されたカメラワークや、三度ラングドン教授を演じたトム・ハンクスの安定感が、映画の表面的なクオリティーの高さをキープしている。 またこの映画の場合は“ヒロイン”の立て方がユニークで、大きな見どころとなっている。 ストーリー展開の中で入れ替わり立ち替わり存在する“ヒロイン”を巡る顛末こそが、今作の最大のサスペンスだと言えるかもしれない。 アカデミー賞ノミネートされた「博士と彼女のセオリー」の演技も記憶に新しいフェリシティ・ジョーンズの、“ある表情”の転換が見事だった。[映画館(字幕)] 7点(2016-12-24 18:51:51)《改行有》

523.  ちはやふる 上の句 並べられた50枚のかるた札を前に座し、彼女は大きく息を吐く。髪をかきあげ耳を澄ます。真っ直ぐに見据える。 そのヒロインの一挙手一投足が、この映画の絶対的に揺るがない見どころだ。 “競技かるた”を題材にした人気原作漫画の映画化として、想像よりも随分と真っ当な青春映画に仕上がっていると思う。 マイナー競技を題材としたスポ根映画としては、「シコふんじゃった。」や「ウォーターボーイズ」等の過去作と比較して決して目新しい要素はないけれど、だからこそ「王道」を貫いていると言え、素直に感動的だった。 また“競技かるた”という“スポーツ”の競技性も、想像以上にアクション性に富んでおり、諸々の駆け引きや技術論の妙は、映像化されることでその「面白味」が引き出されていたと思う。 スポーツと文学とが文字通り「合体」したこの競技の持つ特性は、日本人だからこそ高められた独自性豊かな文化のようにも感じ、とても興味深かった。そして映画の構成上でも、その特性が巧くエンターテイメントとして表現されていたと思う。 と、作品そのものが青春スポ根映画として充分に及第点なのだが、それを二の次にしてしまう魅力を放っているのが、前述のヒロインを演じた「広瀬すず」に他ならない。 その圧倒的な美少女ぶりを武器にして、今彼女は数々の映画に引く手数多だ。特に今作のような漫画原作映画のヒロインでのキャスティングが立て続けである。 “流行りのアイドル女優”というレッテルを否定的に貼り付ける風潮も一部見受けられる。 今の「広瀬すず」が“アイドル女優”であることは否定しない。 ただしその“アイドル女優”としての格は、日本映画史上において、かなりとんでもないレベルに達していると思う。 かつての「宮沢りえ」や「原田知世」、「薬師丸ひろ子」らそうそうたる歴代アイドル女優の系譜に並び立ち、同年齢時での比較では彼女たちを凌駕する存在に成っているのではないか。 それが、一映画ファンとして、昨年「海街diary」を観て、今年「怒り」を観て、「確信」したことだ。 類まれな美貌もさることながら、「広瀬すず」の女優力の根源には、そこらの若手女優と比較してずば抜けた身体能力の高さと勘の鋭さがあると思う。 特に今作にはそれらの要素が存分に表れていて、彼女以外がこの映画のヒロインを演じたならば、“競技かるた”というスポーツが内包する迫力と魅力は、現状の半分も表現されなかっただろうと思える。 今作ではスーパースローが多用されているが、アクション描写における瞬発力や身体の動かし方、弾いた札を追う目線に至るまで、しっかりと「表現」が出来ているのは、この女優の身体能力と勘の良さがあってこそだと思う。 そういった演技力云々以前の存在感の強さとそれに伴う絶対的な輝きが、「広瀬すず」という女優が特別な理由だと僕は思う。 この先、この女優は多くの人に認められ、そして多くの人に嫌われることだろう。スキャンダルにも苦しめられるかもしれない。 眩しすぎる光は、往々にして、羨望や嫉妬と共に拒まれるものだ。 そういうものを全部ひっくるめて、「広瀬すず」という大女優の原石が背負った宿命だと思えてならない。[DVD(邦画)] 7点(2016-12-13 19:40:04)(良:1票) 《改行有》

524.  セトウツミ 今年になって原作漫画をLINEマンガで読んで、二人の高校生が醸し出す独特な空気感が癖になった。 絶妙な間と台詞回しによって織りなされる「会話」は、関西弁であることも手伝って「漫才」そのものの可笑しさと巧さに溢れている。 とはいえ、「映画化」というトピックスを見たときには目を疑った。この「会話」のみの漫画をどう映画として成立させるというのか。 予告編を観た段階では、キャスティングされた池松壮亮と菅田将暉はハマっているように見えたし、面白く仕上がっているようには感じた。 だがしかし、結論からすると、やはり「なぜ映画にしたのか」という出来栄えだった。 結局、この題材を長尺の映像作品にするには無理がある。 “帰宅部の男子高校生の暇つぶしの会話”という極めてミニマムな題材を各話20ページ程度の“小話”として連載しているからこそ、この原作漫画は面白いのだ。 映画にするには、その小話を連ねて尺を補うしか無く、必然的に冗長に感じてしまい、可笑しさが持続しなかった。 予告編の段階では、各話のシークエンスが断片的に公開されていて、それを観る限りでは笑えたし、映像化による臨場感も加わっていた。 詰まるところ、映画ではなく、もっと短いコンテンツとして製作されるべきだったのだと思う。 深夜ドラマ枠なんかで5分きっかりの尺で連続ドラマ化したならば、原作の空気感がもっと忠実に醸し出されたんじゃないかと思える。 75分という映画としては短いと言える尺を、非常に長く感じながら、“神妙な面持ち”にならざるを得なかった。[DVD(邦画)] 3点(2016-12-10 16:24:14)《改行有》

525.  10 クローバーフィールド・レーン 「クローバーフィールド」は、個人的にその年の「No.1映画」に選出するくらい大好きな映画だった。 「怪獣映画」を文字通りに“新たな視点”で描き出した大傑作だったと思う。 その「クローバーフィールド」の“続編?”“番外編?”と、例によってJ・J・エイブラムスによるシークレットで彩られたプロモーションで発表された今作を期待せずにはいられなかった。 真っ当な続編というわけではないだろうことは想定していたが、その想定を超えて面食らう映画だった。 “裏切られ感”と“コレジャナイ感”も大いに漂うなかなかのトンデモB級映画だったと言わざるをえない。 ただし、その唐突なトンデモぶりも、芳しいB級臭も、概ね製作者の意図通りだろう。 ならば、この映画は成功していると言っていいのだと思う。 “前作”のファンとしては想定外のストーリー展開と顛末に対して戸惑ってしまったことは否めない。 けれど、この異色の映画世界を全編にわたって楽しめていたことも事実。 「こうなるのかな?」という予想をことごとく覆し、まさかのエンディングに繋げた映画構成は、良作と駄作の境界線上を際どく駆け抜けるようで、色々な意味でスリリングだったことは間違いない。 SFパニックと密室スリラーを“PPAP”ばりに強引に合体させた奇妙な映画世界に素直に没頭し、巨漢界の名優ジョン・グッドマンの怪演を堪能すべき娯楽映画だ。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2016-12-10 15:44:55)(良:1票) 《改行有》

526.  レッド・ファミリー 朝鮮半島における南北問題を風刺したコメディ映画のつもりで今作を観た。 コメディ映画であることは間違いはない。けれど、重く暗い現実問題を根底に敷いたこの映画の本質は、あまりに悲しく、そしてあまりにも切ない。 「平和」は、家族という人間関係のかけがえのない価値を、しばしば忘れさせる。 すぐそこに存在していることが当たり前になりすぎて、手前勝手な不満ばかりを相手にぶつけがちだ。 そこにいて、感情を伝えられることの幸福を見失っている。 笑い合えることの幸せ、そして罵り合えることの幸せ。 それすらも奪われた非情が、4人の北朝鮮工作員が織りなす“偽りの家族ドラマ”を通じて描き出される。 当初工作員一家は、醜い言い争いばかりを繰り返す隣の韓国人家族を、蔑み嫌悪していた。 しかし、国家によって強制的に家族と引き離され、終わりの見えない工作員活動を強いられていることに対する苦悩が深まるとともに、「家族」というものの正しい在り方を思い知らされていく。 言い争い、罵り合い、それでも相手を許し共に暮らしていく。そんな当たり前のことすら許されていない自らの人生と、妄信する国家の在り方に、疑問が深まり、惑う。 隣の国では、ごくありふれた小市民の家族ですら、相手を許すことを知っている。 でも、自分たちの国は、いつまでたっても憎しみばかりを振りかざしている。 私たちはどうしてこんな血にまみれた道を歩んできてしまったのか。 なぜ、どうして……。 悲しく、辛すぎる苦悩の果てに、偽装家族の面々は決断をする。 “命をかけた家族ごっこ” その真の意味を目の当たりにした時、心が締め付けられた。 あまりにも悲しい。 けれど、それでも残された一つの希望に、この映画を生み出した民族の未来に向けての思いが表れているように思えた。[CS・衛星(字幕)] 8点(2016-12-10 13:17:27)(良:1票) 《改行有》

527.  陸軍中野学校 雲一号指令 冒頭、スパイと成った市川雷蔵演じる椎名次郎は、北京に向かって朝鮮半島を北上している。 きな臭さが立ち込める時代、いよいよ“スパイ・椎名次郎”の暗躍が始まるのかと高揚感が生じる前に、主人公は本国に呼び戻される。そして、神戸港で相次ぐ輸送船の爆破事件の調査を命じられる主人公。地元の憲兵と衝突しつつも、首謀者を暴いていく。 スケール的には小規模なストーリー展開にまとまったシリーズ第二作。 ストーリーテリングとしてもそれほど際立った驚きはなく、ジャンルムービー的に展開し、良い意味でも悪い意味でも落ち着いて観られる作品に仕上がっている。 そんな中、見どころとなるのはやはり「市川雷蔵」その人だろう。 前作で自らの人生を捨て去り“スパイ道”を邁進することを決めた主人公・椎名次郎の能面のように美しい無表情が、二作目にしてもはや癖になる。 徹底されたポーカーフェイスの中にさりげなくも絶妙に表れる怒りや悲しみ。垣間見せる人間らしい感情を瞬時に押し殺す椎名次郎の葛藤こそが、この作品の味わい深さの肝だろう。 また今作においては、スパイ活動の中で演じ分ける大阪商人ぶりも見逃せない。 軽薄な商社マンになりきって、反逆者の懐に入り込むシーンは、国産スパイ映画ならではの面白味を、市川雷蔵の芸達者ぶりとあわせて楽しめる場面だと思う。 さてこれから主人公が、開戦前のきな臭い時代をスパイとしてどのよう生きていくのか。 また幾つもの屍を乗り越えて、椎名次郎は、スパイの道を歩んでいく。[CS・衛星(邦画)] 7点(2016-12-03 19:00:32)《改行有》

528.  スーサイド・スクワッド トレーラーの段階では、今年随一の期待値を生んだ映画だったけれど………。結論から言うと、“マーゴット・ロビーがサイコーなだけの映画”だった。 マーゴット・ロビーが扮する“ハーレイ・クイン”の存在が無かったとしたら、年間ワースト級の駄作とこき下ろしていたところだろう。 逆に言うと、“ハーレイ・クイン”という新たなポップアイコンを誕生させたことだけで、今作の存在価値は充分にあると思える。 “ジョーカー”を愛し、崇拝する絶対的な狂気性の中で、笑い、怒り、泣き、激情のまま縦横無尽に暴れまわる彼女の存在感そのものに「虜」になってしまうことは請け合いで、陳腐な映画の本筋に反して、彼女の存在感のみが常にエンターテイメント性に溢れていた。 トレーラーの段階で、この映画に対する最大の目的は「彼女」だったので、想定通りの満足感は得られたと言っていい。 だからこそ、この映画、もっと愛すべき映画になり得た可能性は充分にあったと思う。 まあ何と言っても、ストーリーがチープでメタメタ過ぎる。気鋭のデヴィッド・エアーが監督・脚本を務めながら、どうしてこれほどまで薄っぺらい映画に仕上がってしまったのか、正直理解に苦しむ。 悪党集団を主人公にした過去の成功作はいくらでもあろうし、デヴィッド・エアー自身の過去作においても正義と悪の境界をテーマにした秀作が幾つもあるのだから、今作においてももっと巧い描き方が出来たはずだ。 今作に登場する“悪党”たちは、基本的にはただの“いいヤツ”として描かれ、悪党集団であることの意味や面白みがまったく描かれていなかった。 そもそもアメコミ世界のヴィランズを主人公に据えた作品なのだから、もっと漫画的に、彼らに相応しい“悪ノリ”を繰り広げて然るべきだったと思う。 ハーレイ・クインはもとより、ジャレッド・レトが精力的に演じたジョーカーも、「ダークナイト」のヒース・レジャー版とはまた異なった“ピエロ像”を魅力的に醸し出すことが出来ていただけに、チープなストーリーテリングの中で“極悪カップル”が浮いているように見え、大変勿体なかった。 ウィル・スミスが演じたデッドショットは、この映画においてはまったく存在価値がなく、どう転んでも“いいヤツ”にしか見えないこのスター俳優の役づくりとキャスティングにも問題があったと思う。 と、駄作点はツッコみだすと枚挙にいとまがない作品である。 “あの大富豪”もメインキャストにクレジットされていないわりに、序盤からちょこちょこ出過ぎである。 どうしても比較の対象になるが、“トニー・スターク”ならば、もっと“狡猾”にもったいぶってエンドクレジット後のシークエンスのみにドヤ顔で登場したことだろう。 そのあたり、相変わらず“マーベル”に比べて“DC”の愚鈍さと稚拙さが目についた。“ジャスティス・リーグ”への展望はまだまだ薄暗い……。 とはいえ、何度も言うが、マーゴット・ロビーの“ハーレイ・クイン”はサイコーである。 彼女を観るためだけに、僕はこの映画をまた観るだろう。続編やスピンオフ作品があるなら期待したい。 “ノーマル生活”の描写の方がよっぽど「悪女」に見えたマーゴット・ロビーの今後の活躍にも大いに期待したい。[映画館(字幕)] 5点(2016-11-30 21:55:36)(良:1票) 《改行有》

529.  映画 魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身!キュアモフルン! 「応援上映」というキーワードは、それに対する是非はともかくとして、映画ファンの間では、今年特に頻繁に耳にした“流行語”だと思う。 「応援上映」とは、声も音も極力立てないように静かに没頭するものだった映画鑑賞の「常識」を覆し、劇場内の相互理解の元で、スクリーン上のキャラクターに対して文字通り「声援」を送ることを“アリ”とした新しい映画鑑賞スタイルのことである。 これまでは、ロングランとなった超ヒット映画のロードショーにおいて、鑑賞スタイルのバリエーションの一つとしてこの手の鑑賞環境が提供されることはあった。それが今年になり、「応援上映」を前提として公開される作品が注目されるようになってきた。 腐女子向けのアニメ映画や、某ダンスユニットグループのメンバーが主役にキャスティングされた作品がそれだ。 その鑑賞スタイルそのものに対しては、真っ当な映画ファンとして、どうしても否定的に捉えてしまう。 映画鑑賞は「読書」と同じ。基本的には、己唯一人でじっくりと味わうものだと思っている。 が、しかし。はたと気づく。 考えてみれば、この一、二年の間に、僕は何度も「応援上映」に参加しているではないかと。 そう「プリキュア」映画こそが、「応援上映」の走りであり、そのスタイルが圧倒的な「是」としてまかり通る唯一無二の作品なのではないか。 ということを、もはや恒例行事のように、愛娘と連れったって観に行った今作を観ながら痛感した。 一般的に「応援上映」と称されるものには、“サイリウム”の持参が不可欠らしいが、“プリキュア映画”に至っては、そんなものは当たり前のものとして劇場で“ライト”が配布される(お子様限定)。しかも、劇中では、それをそのまま模したアイテムが映し出され、キャラクターが「応援」を呼びかけてくる。 まさに「応援上映」。 そして、愛娘は勿論、劇場のすべての子どもたちが一斉に応援を送る様は、毎度のことながら、感動的である。 こういう機会が得られることは、親として、一映画ファンとして、とても幸福なことだ。 あと、ほぼ毎回のことだが、劇場内には、子供とその親たちに混じって、“大きいお友だち”が一人はいる。 彼らのことを蔑む気持ちは微塵もない。好きなものは好き。それは何よりも優先されるべきもので、押し通して然るべきだ。 そう思うからこそ、殊更に胸が痛む。 彼らにも、“ライト”を渡して応援させてやってくれ、と。[映画館(邦画)] 5点(2016-11-20 20:36:28)(良:2票) 《改行有》

530.  スター・トレック/BEYOND 「亡き友へ」 と、死んでいったクルーたちを悼み、カーク艦長が献杯をする。 このラストシーンのシークエンスは、一体どの段階でシナリオに組み込まれていたのだろうか。 劇中、襲撃されたエンタープライズ号の多くのクルーたちが命を落としてしまう展開はあるので、最初から用意されていたシーンなのかもしれないが、このシーンの持つ「意味」が悲運にも深まってしまったことに、映画ファンとして泣くしかなかった。 往年のTVシリーズからスポックを演じ続けたレナード・ニモイの死、そして、不慮の自動車事故で今作の撮影直後に亡くなってしまったチェコフ役のアントン・イェルチンの死に、惜別の思いばかりが募った。 二人の俳優の死が重なってしまったことも多分に影響しているのかもしれないが、リブート版第三弾となる今作には、全編通して「死」そのものと、それに伴うそこはかとない“別れ”の悲しさが漂っている。 「宇宙」というあまりに壮大で果てしない空間の中で突如として生じる空虚感と望郷の念も、冒頭のカーク艦長の心情描写に端を発して随所に表されており、表面的な大エンターテイメントのすぐ裏に垣間見える「宇宙」そのものの“深淵”が興味深い仕上がりだった。 僕自身は、この新しいリブート版シリーズからのファンで、残念ながらTVシリーズは観られていないのだが、その宇宙に対する深淵なる哲学性こそが、「スター・トレック」の本質的な魅力なのだろうと思える。 そして、いつの日か“人類”が宇宙で生命を紡ぎ蔓延ることに想像をめぐらし、そうなった時に、我々人類が辿り着く「境地」までもを創造したことが、このシリーズの凄さなのだろう。 J・J・エイブラムスから引き継ぎ新監督を務めたジャスティン・リンは、想定以上にそつなくシリーズ3作目を纏め上げたと思う。 「ワイルド・スピード」シリーズで磨き抜かれたチェイスシーンの安定感は言わずもがなの出来栄え。 また、アジア系キャラの“ヒカル・スールー”の見せ場を増やし、彼のキャラクターにゲイという要素を加味したことなどは、新鮮だったし、そのキャラクター像の広げ方は、長きに渡り“多様性”をテーマとして謳ってきた同シリーズにとって相応しいものだったと思う。 英語を理解しない日本人として少々残念だったのは、今作から脚本にも参加しているサイモン・ペッグが繰り広げているのであろう台詞回しの妙が、字幕では今ひとつ伝わらなかったことだ。きっと随所で意味深で愉快な言い回しがあったに違いない。 喪失し、破壊され、それでもエンタープライズ号は旅を続ける。 引き続き、最新作を心待ちにはしたい。 しかしながら、もうそこにはチェコフ君がいないことを思うと、やはり寂しくて仕方がない。[映画館(字幕)] 7点(2016-11-16 23:43:15)(良:1票) 《改行有》

531.  ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 “シリーズ”に対して完全な門外漢である自分が、初めて“エヴァ”に触れたのは、2007年公開の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」。 “初対面”の感触としては、説明不足による意味不明感に対して興味は深まりつつも、登場するキャラクターたちの心象に今ひとつ寄り添うことが出来ず、「ピンとこなかった」というのが正直なところだった。 「序」の劇場公開から9年経ち、ようやくこの続編「破」の鑑賞に至る。 続編に対していい噂も悪い噂も等しく耳に入っていたが、「今年」になってようやく鑑賞に至った理由は明白である。 庵野秀明の「シン・ゴジラ」を“3回”観たからである。 「シン・ゴジラ」に衝撃を受け、今一度、庵野秀明の創造者としての“本質”に挑戦してみようと思ったからだ。 結果的には、良くも悪くも「困惑」が深まったと言える。 随所でワクワクはする。が、それに対して高揚出来るほど世界観にフィットすることは無い。それが率直な感覚である。 門外漢である自分が、「新劇場版」の2作に触れてみて感じたことは、全世界的にカルト的な人気を集めている今シリーズであるが、実のところ、この作品世界の構造はシンプルで、端から「深淵なるもの」として臨むことは間違っているのではないかと思う。 有るのか無いのか知らないけれど、物語が孕んだ設定なんてものは実際重要ではなく、もっと単純に直接的に、登場人物たちの言動に対して悲喜を感じるべきなのではないか。 世界は終末の瀬戸際、その中で「どう生きるのか?」ということを半ば強制的に問われた少年少女たちの無垢で荒々しい感情のみを、感じるべき作品なのだと思えてきた。 正直、まだ「面白い!」と言い切れるほどはこの作品世界を堪能出来てはいない。ただし、少年少女たちがこの先どういう感情を自らで生み出していくのかは大いに気になる。 そういう期待を孕みつつ、「Q」そして未確定の「シン」に臨もうと思う。[DVD(邦画)] 5点(2016-11-13 18:02:41)《改行有》

532.  日本のいちばん長い日(1967) 「畑中もうよせ それが未練というものだ」 「未練」という言葉を突きつけられ、絶句する黒沢年男演じる畑中少佐の表情が、愚かで、悲しい。 彼らが信じて譲らなかったものの“正体”は、一体何だったのだろうか。 いや、果たして、“正体”なんてものは、そもそも存在したのだろうか。今となっては、甚だ疑問である。 ともかく、愚かにも始められ、愚かさに愚かさを重ね続けて、取り返しのつかない事態に陥った「戦争」を、“国”という愚かさの中枢にいた人達が終わらせようとする。 それは、どれだけ恭しく宣おうとも、どれだけ高らかに宣言しようとも、決して「偉業」とは表すことのできないこの国の「始末」のつけ方だった。 ただし、だ。 いかにも知った風に、「愚かだ」と断罪めいた思いを抱けるのは、我々が戦後70年の現在に生きているからに過ぎない。 愚かしさも、虚しさも、それがあの時代に唯一許された価値観だったことを、こういう映画を通じて、思い知らなければならないと思う。 「愚かだ」というのは、あくまでも戦後の価値観であり、あの時代に生きた彼らに、その価値観に辿り着くための術はほぼ無かったのだろう。 辿るしか無い帝国崩壊の道筋。その真ん中を往く彼らは皆、終始“脂汗”を顔面に滲ませている。 暑く、重苦しい1945年の夏の日。 その一部始終を語る仲代達矢の渇いたナレーションが、虚無感を助長する。 暑い夏の日から70年。 日本は、日本人は、何が変わり、何が変われていないのか。 今一度、この国のすべての人が考えるべき時なのではないか。[DVD(邦画)] 8点(2016-11-09 19:06:40)(良:1票) 《改行有》

533.  LUPIN THE IIIRD 次元大介の墓標 《ネタバレ》 コンバット・マグナムの重い弾丸が宿敵の利き腕をぶち抜く。茫然自失の相手に対し次元大介は言う。 「お前がどれだけ軽い銃を使おうが知ったこっちゃないが……俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるな」 最高かよ。と、思う。 2012年に放送されたテレビシリーズ「LUPIN the Third -峰不二子という女-」は、“度肝を抜かれる”とはこのことかと思えるほど衝撃的で、凄すぎた。 オープニングのモノローグからエンディングに至るまで、「え、これほんとにテレビで流していいのか?」と戸惑ってしまうくらいに。 モンキー・パンチの原作に対する強烈なリスペクトを礎にした、妥協の無いエロティシズムと、香しく漂うハードボイルドと、刹那的なキャラクターたちのクレイジー感、そこから織りなされる甘美でキケンな世界観には、ルパンシリーズに限らず、これまでの殆どのアニメ作品では確実に遠慮されてきたものが、問答無用に溢れかえっていた。 おおよそテレビアニメには似つかわしくない“背徳感”と“贅沢感”に圧倒された。 そして、今作は、その「峰不二子という女」の流れをくんだシリーズ第2弾。 待望の劇場公開作品であったが、あまりに公開規模が限定的だったことと、尺が50分少々と短すぎることで、クオリティーに懐疑的なイメージを持ってしまっていた。 ようやく鑑賞に至ったわけだが、何の事はない、最高である。 「峰不二子〜」程の淫靡さは必然的に無いが、“相棒”になったばかりのルパン三世と次元大介の絶妙な距離感と、それが徐々に強固なものになっていく塩梅が堪らない。敵キャラクターのビジュアルとギミックの禍々しさもすこぶる良い。 そして何よりも、「次元大介」とういキャラクターが本来持ち得ている“正しいハードボイルド”が堪能できる仕上がりが素晴らしい。 唯一の欠点は、上記の通り尺が短すぎるということだけだ。 ラストの銭形警部登場からのまさかのシークエンスに、思わず「○○ー!?」と声を上げてしまった。 おいおい、続編はまだか?この制作チームにさっさと金をやってくれ。[DVD(邦画)] 8点(2016-10-30 23:24:34)《改行有》

534.  怒り 東京出張中、時刻は0時前、いつものように新宿の映画館を後にする。 歌舞伎町の雑踏を抜け、大久保のビジネスホテルまで歩いていく。 その間ずうっと言葉にならない感情がこびりついて離れない。 その感情が、映画のタイトルの通り“怒り”なのか、または“悲しみ”なのか、まったく別の何かなのか、判別がつかなかった。 “怒り”というものは、殆どすべての動物が持つ感情であり、衝動だ。 ただし、その中でも人間が不自由で面倒なのは、“怒り”の矛先を自分自身に向けてしまえることだと思う。 もし、自分自身に対して怒るなんてことが出来なければ、人間はもっと単純で呑気な動物として存在していたことだろう。 この群像劇で描かれる人間たちが抱える“怒り”も然り。 最初は外部に撒き散らせていたとしても、次第に自身の内面に向けられ、やがて膨れ上がったその感情は行き場を見失う。 必然的にそこには悲しみが生まれ、傷つき、絶望に突き落とされる。 「嗚呼、なんて惨い映画なんだろう」と思った。あまりにも悲しくて、胸を掻きむしりたくなった。 ただ同時に、その惨さも、不自由さも、面倒臭さも、悲しみも、そして怒りも、全部ひっくるめて人間なのだと思い知った。 泣き叫ぼうが、怒り狂おうが、何をしようがそれを認めて人間として存在するしか我々に術はないのだと思った。 この惨い映画に安直な救いは無い。 あるのは、声にならない声を虚空に打ち付け、それでも生きていく人間の姿だ。 ラストの烈しく悲しい少女の慟哭はその極みだ。 敢えて言うまでもないが、キャストが皆凄い。 メインキャストのそれぞれがキャリアハイの演技を見せていると言って過言ではない。 渡辺謙の貫禄、宮崎あおいの意地、妻夫木聡の艶めかしさ、綾野剛の妖しさ、松山ケンイチの危うさ、森山未來の狂気、そして、広瀬すずの伝説。 彼らが剥き出す感情の総てを李相日監督がコントロールし、坂本龍一の壮大なスコアが包み込む。 危ういバランスを孕んだ映画だが、ちょっと凄すぎる。 当然作品としての好き嫌いはあろうが、この映画を観ずして今後の日本映画は語れないだろうとすら思える。 自身の感情の整理がまったくつかぬまま、虚無感に苛まれつつ大久保に辿り着いた。 とてもそのまま眠れる気がしなかったので、虚無に反発するように強引に欲望を掻き立て、中華料理屋でラーメンとビールを流し込んだ0時過ぎ。[映画館(邦画)] 10点(2016-10-27 23:43:40)《改行有》

535.  百日紅 ~Miss HOKUSAI~ 「絵師」というものは、いつの時代も、どの国においても、この世とあの世の狭間で生きる人種なのかもしれない。 故に彼らの生き様は、ときに刹那的であり、一方で悠久たる時流の中でゆらりゆらりと漂っているようでもある。 主人公は、葛飾北斎の娘「お栄」。23歳。父をも凌駕する才能を垣間見せながら、彼女の若く瑞々しい視点を軸にして、魅惑の都市「江戸」が描き出される。 視覚や聴覚は勿論、触覚や臭覚、味覚に至るまで、五感の総てで浮世絵師たちが見た「風景」を表現しようとする趣向と、それに成功したアニメーションが見事だ。 特に、目の見えない主人公の妹の感覚を通じた、触覚や嗅覚の表現が白眉だったと思う。 秀逸なアニメーションによって表現された「江戸」は、楽しくもあり、妖しくもあり、悲しくもあり、そこに生きる人々の喜怒哀楽の総てをひっくるめてわらわらと賑わっている。 これ程までに「江戸」という時代と場所を描くにあたり、それそのものを「娯楽」として表した作品はなかなか無いのではないかと思う。 登場人物も総じて魅力的である。 特に、主人公のお栄は、絵師としての才気をほとばしらせながら颯爽と江戸を往く様が何とも格好良く、一方で垣間見せる未熟な乙女ぶりが何とも可愛い。そして、終始勝ち気な口ぶりを見せながらも、父と母と妹を常に気にかける慈愛の深さが感動を生む。声を担当した女優の杏は、まさに適役だったと思う。 惜しむらくは、オムニバス調のストーリーテリングが良くも悪くも散文的で、連なりに欠けていたところだ。 これだけ魅力的な舞台と人物の表現が出来ているのだから、ストーリー的にはもう少し踏み込んだ物語性を用意して欲しかった。 そうであったならば、絵師たちの人生観と江戸という世界観が、もっと深く混ざり合い、更に唯一無二の作品に仕上がっていたのではないかと思う。 確固たる良作であるが故に惜しい。[DVD(邦画)] 7点(2016-10-24 22:42:35)《改行有》

536.  日本のいちばん長い日(2015) “彼ら”は、あの大戦中、何を信じていたのか、そして何を信じさせられていたのか。 あの日、あの時、この国の上層に座位していた幾人かによる喧々諤々の日々のその同日に、一体何万人の人々が命を落とし続けていたのか。 そう考えると、この作品で描かれるドラマの総てが、甚だ滑稽で、愚かしく思えてならない。 戦争を始めた人たちが、取り返しのつかない余りに悲劇的な代償を経て、戦争を終わらせようとする。 まったく、馬鹿馬鹿しい。 当事者の内の一体何人が、己の愚かしさを感じていたのだろうか。 この映画に登場する人物たちの対峙と葛藤が熱を帯びていくほどに、その同じ瞬間に失われていった膨大な命の数を思い、虚無感に襲われた。 この映画は、終戦までの四ヶ月間を描いている。つまりは、既に大戦の勝敗は決し、各地の戦闘は悲劇的に激化し、民間人も含め最も多くの命が失われた期間であろう。 にも関わらず、今作では戦争自体の描写や、実際に命が失われていることに対しての描写が、極めて希薄だ。 オリジナル作品を観ていないので、これが本来の狙い通りなのかどうか分からないが、“この日々”が戦争の真っ只中であることを、この映画の製作者も、この映画の登場人物たちも忘れてしまっているように見え、違和感を覚えた。 色々なことを考えさせられる映画であったことは間違いない。戦後70年のタイミングで今作がリメイクされた意味は確実にあったと思う。ただし、映画作品としての出来栄えとしては、岡本喜八版のオリジナル作品を観てみなければ何とも言えないように思う。 描き方そのものの是非は一旦置いておいて、今作の演者たちは皆素晴らしかったと思う。 特に昭和天皇を演じた本木雅弘は、非常に難しい役どころを真摯に演じきっている。 昭和天皇の存在感が際立つことがまた是非の対象になるのだろうけれど、本木雅弘の演技自体は賞賛されるべきものだったと思える。 その一方で、もう少し脇役や端役に存在感を与えて欲しかった。 宮廷侍従や女中、放送技師たちの“声”をしっかりと描くことが出来ていれば、もっと深い味わいが生まれていたと思う。 日本陸軍は、戦争を始め、それを遂行し、最後まで止めようとしなかった“暴走者”として描かれる。 実際、陸軍の愚かな暴走が、戦争という悲劇を無闇に拡大させていったことは間違いなく、その罪は大きい。 しかし、戦争という“大罪”における罪悪のすべてを陸軍を筆頭とする当時の日本の中枢に押し付けることも違うのではないかと思う。 妄信的に何かを信じ、戦争を始めてしまったのは、日本という国そのものだ。 “彼ら”という代名詞は、あの時代この国に生きた総ての人達を含んでいるのだと思う。[映画館(邦画)] 7点(2016-10-23 19:35:51)《改行有》

537.  キャロル(2015) 許されない恋に没入していく二人の女性が、強烈に惹かれ合い、惑い、激しく揺れ動く。 惹かれ合うほどに、喪失と決別を繰り返す二人がついに辿り着く真の「恍惚」。 ラスト、大女優の甘美な微笑は、この映画を彩る悦びも哀しみも、美しさも醜さすらも、その総てを呑み込み、支配するようだった。 エンドロールに画面が切り替わった瞬間、思わず「すごい」と、声が漏れた。 1950年代のNYを舞台にしたあまりにも堂々たる恋愛映画だった。 パトリシア・ハイスミスの原作は、1952年に“別名義”で出版され、1990年になって初めて実名義が公にされたらしい。2000年代に入ってようやく映画化の企画が進み始めたことからも、この物語がいかに「時代」に対する苦悩とともに生み出され、翻弄されてきたかが伝わってくる。 そして、紆余曲折を経て今この映画が完成に至ったことに、奇跡的な「運命」を感じずにはいられない。 「時代」そのものが、この映画を受け入れるに相応しい状態にようやく追いついたことは勿論だが、それよりも何よりも、この映画に相応しい「女優」が、この時代に存在したことに奇跡と運命を感じる。 言うまでもなく、“キャロル”を演じたケイト・ブランシェットが物凄いということ。 冒頭に記した通り、この大女優のラストの表情が無ければ、この映画は成立しなかっただろう。 もう一人の主人公“テレーズ”を演じたルーニー・マーラも本当に素晴らしかったが、彼女の存在だけでは今作は「傑作」止まりだっただろう。 ケイト・ブランシェットという現役最強最高の女優が存在したからこそ、この映画は「名作」と呼ぶに相応しい佇まいを得ている。 随分前から名女優ではあったのだけれど、この数年の彼女の女優としての存在感は、文字通り神々しく、他を圧倒している。 マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンら往年の大女優の存在感は、どれだけ時が経とうとも色褪せないが、将来その系譜に確実に名を連ねるであろう大女優の現在進行系のフィルモグラフィーをタイムリーに追えることに、改めて幸福感を覚える。 今作では、冒頭と終盤に同じシーンが視点を変えて繰り返される。 男から声をかけられる寸前のキャロルの唇の動き。冒頭シーンでは遠目に映し出されて何を発されているかは分からない。 逃れられない恍惚と共に、その言葉の“正体”に辿り着いたとき、テレーズと同様、総ての観客は、彼女の「虜」になっている。[DVD(字幕)] 10点(2016-10-19 19:10:14)(良:2票) 《改行有》

538.  ズートピア 世界中から愛され、崇拝される唯一無二のエンターテイメントの王国が、その長年の歴史と功績を全部ひっくるめて、新しい時代における“自虐”と“価値観”を示しつつ、新たな「娯楽」を構築されては、そりゃあもうお手上げである。 ジョン・ラセター率いる昨今のディズニー映画に対しては、満足感を通り越し、非の打ち所がなさすぎて逆に苦笑いしてしまうことが多い。 擬人化された動物たちが暮らす王国“ズートピア”を描いた今作。 動物たちのユーモラスなアニメーションそのものは、ディズニーが古くから培ってきた伝統的表現だ。 動物の擬人化と、それが生むファンタジー性は、ディズニー映画の歴史そのものと言っていい。 そのあまりに王道的な表現を、敢えてこのタイミングで主題として扱った意味。その本質が、あまりに深い。 「差別」と「偏見」。この作品のテーマは明白である。 ありとあらゆる動物たちが「平和」に暮らす理想郷(のようなもの)を映し出した今作において、その二つの言葉は、全編通して突きつけられる。 そのテーマの描き出され方は、正直辛辣で、重い。 もしこの映画の主人公が、可愛らしいウサギやキツネではなく、現実社会において社会的冷遇を被っているマイノリティーたちが演じる実写作品であったならば、酷く陰湿で居心地の悪い映画に仕上がっていたに違いない。 そう、この秀逸なアニメーション映画は、その娯楽性溢れる映画世界と引き換えに、それを観ている我々人間の現実世界が、酷く陰湿で居心地の悪いものだということを、雄弁に物語っているのだ。 この世界には、今なお「差別」と「偏見」が渦巻いているということを、世界中の殆ど総ての人は分かったつもりでいる。 我々は、「より良い世界にしたい」と、それらを否定しているつもりだろうけれど、実は当の自分自身が、無意識に、ささやかに、確実に、「差別」と「偏見」を繰り返していることに気づいていない。もしくは、気づかないふりをしている。 それこそが、我々が最も直視しなければならない「問題」だということを、この映画は、小さな主人公の等身大の姿を通じて勇敢に伝えてくる。 「差別」と「偏見」を無くすということは、安直に正論として振りかざせるほど簡単なことではないし、綺麗事ではないのだと思う。 ウサギは弱い、キツネはズルい、ヒツジは大人しい……勝手に貼った“レッテル”を剥がすためには、他人事ではなく、先ず我々一人一人が根気よく自らの“レッテル”を剥がしていかなければならない。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2016-10-18 23:46:33)(良:1票) 《改行有》

539.  スポットライト 世紀のスクープ 「カトリック教会神父の6%が子どもに性的いたずらをしている」という衝撃的な事実が作中で明らかになり、追求される。 その時点で、この映画が描く問題の本質は、一部の“糞神父”の存在を明らかにすることではなく、長い長い時間に渡ってそういった輩を生み出し続けてきた「教会」のシステムそのものの在り方であることを突きつけてくる。 問題の“根”はあまりにも深く蔓延り、果てしない。それ故に、「真実」の追求に果敢に挑んだ新聞記者たちの魂が、闇の中で輝いて見えた。 第88回アカデミー作品賞を掴み取った今作は、決して華美ではない地味な映画ではあったけれど、秋の夜長に腰を据えて観るに相応しい映画だった。 そして、他のどの作品よりも「強い」映画なのだろうと思えた。 この映画は、如何なる時も「真実」の追求には覚悟が必要だということ。そして、得られた「真実」にもまた別の側面があり、それを決して忘れてはならないということを、奮闘する新聞記者たちの様を通じて伝えている。 ある意味での「大帝国」であった「バチカン」の盤石を揺るがしたのが、地方紙のたった数人の記者たちだったということは、世界中に衝撃と勇気を与えたことだろう。 「ペンは剣よりも強し」という格言をこれ程までに事実として表した出来事も無かったのではないか。 新聞記者たちの功績は、勿論賞賛に値する。彼らの姿勢こそ、今世界中のメディアが見失っている「伝える者」としての在り方だと思う。 「情報」が、消費社会における思考停止の権化になり下げってしまっている現代社会の危うさは極まっている。 「伝える者」と「伝えられる者」の在り方を、真剣に見直さなければ、世界中の混沌は益々歯止めがかからなくなるだろう。 今作でも垣間見えるように、「真実」には、あらゆる意味で危険がつきまとう。 しかし、その危険を回避するばかりで、安直で軽薄な情報ばかりが蔓延し、あたかもそれらが「真実」であるかのごとく消費し、垂れ流すこの社会は、危険そのものだ。 「教会神父の6%が小児性愛者である」という事実は、限りなく真実に近いのかもしれない。 しかし、それまで無知だった人間が、この映画を観たからと言って、それをそのまま鵜呑みにすることも、それはまたあまりにも危険で、愚かなことだと思う。 重要なことは、ある情報を伝えられ、それが正しいのか間違っているのか、伝えられた側の一人ひとりが真剣に考え、更なる情報を追求していく姿勢だと思う。 この映画の「強さ」は、まさにその姿勢を貫くために必要なものだ。 そしてそれは、情報と消費の大波にただただ流されている我々一人一人に必要なものだと思う。 キレるマーク・ラファロが、いつ例の緑の男に変貌しないかと戦々恐々としつつ、そういうことを噛み締めた。[DVD(字幕)] 8点(2016-10-18 12:39:14)《改行有》

540.  劇場版 PSYCHO-PASS/サイコパス テレビアニメシリーズをまったく観ずに、この「劇場版」を鑑賞してしまったことは、やはり少々無謀だった。 鑑賞途中、流石に物語設定自体の意味が分からなかったので、慌ててウィキペディアを開いて、ここに至るまでの大まかな粗筋を確かめた。 設定そのものはハリウッド映画にありがちなディストピアものであり、有り触れてはいる。それこそ、映画化権が買われて、スカーレット・ヨハンソンなんかが主演しそうである。 “黒幕”が、犯罪抑止を司るシステムそのものであったという顛末も、厨二病的ではあるけれど、個人的に決して嫌いじゃないなと思う。きっとTVアニメシリーズ自体を観始めたならば、それなりにハマるのだろうとは思う。 それ故に、この劇場版は、門外漢にとってはあまりに間口の狭い仕上がりになっている。まあ当然といえば当然なのだが。 ストーリー的な入り込みにくさは、テレビシリーズを観ていない自分の責任なので言及しまい。 ただし、映画世界にイマイチ没頭できなかった理由はそれだけには留まらない。 そもそも、アニメーションの「精度」として“一流”には達していない。キャラクターの歩き方一つ、喋り方一つに対して「違和感」を感じてしまい、安っぽさを禁じ得なかった。 ストーリーテリングにおいても、全編通して冗長な説明セリフが羅列されそれに頼るばかり。いかにも深夜アニメっぽいクドクドと“酔った”言い回しが癪に障る。 まあ、そういった諸々の居心地の悪さも、“一見さんお断り”のこの作品のスタンス故の在り方なのかもしれないけれど、今作単体に限って言えば、わざわざ「劇場版」などと銘打って公開するレベルのものではないように思う。 “ピーポくん”のこれ見よがしな使い方や、「踊る大捜査線」を彷彿とさせるオープニングなど、“本広克行”印な演出が随所に見られるが、今となってはもはや古臭い。[CS・衛星(邦画)] 3点(2016-10-08 20:43:56)《改行有》

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