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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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41.  レイチェルの結婚 《ネタバレ》 家族や仲間というのは小さなコミュニティであり、時に世界の縮図的でもある。白人黒人も入ればアジア人もいるし、生まれていくる子供はハーフとなる。しかしこの映画は、それはこの世ではもはや当たり前の事実であり、もはやいちいち議論するには至らないことだと流している。現に父親はレイチェルの旦那を快く迎え入れ妊娠をも無邪気に喜ぶ。 この家族の中で重要なことは、家族でありながらも、その家族という社会に置ける最小単位のコミュニティから一度脱落した、脱社会的人間の帰還をどう迎え入れるかということのほうにある。それは人種問題よりも、時に複雑なことかもしれない。 社会から逸脱した人間の場合、同じ経験をしたもの同士でなければシンパシーを感じ得ることは出来ないのではないかとこの映画は言っている。しかし、シンパシーの問題ではなく、「つながり」を持ち続けたいかどうかという点において、それは家族であれば、どんなに厄介であろうとも、理解に苦しもうとも、根底では決して「つながり」を断ち切りたいと思わないであろうという、時に固く、時に幽かな絆を描く。もちろん家族であっても断ち切れる瞬間が訪れる場合もある。それも当たり前の事実だ。しかし、この家族は小さなもうひとりの家族を失ったというシンパシーでつながっている以上、その「つながり」を断ち切ることが出来ないのだ。 アン・ハサウェイ演じるキムはデブラ・ウィンガー演じる母のアビーと喧嘩をし、その後に車の事故を再び起こしたことで、施設から女性が迎えに来る。これはこの映画の中で起きる事実だ。それは見える事実だが、もうひとつ見えていない事実というのがある。キムは何故施設に戻らなければならないのか。それは母のアビーにひとこと謝ることが出来なかったからだ。幾らでも機会はあったとこの映画は言っている。しかしこの映画は様々な機会がいつも断ち切れてしまう映画だ。断ち切りたくない「つながり」はあるのに、その意思を伝えたい時に断ち切れてしまう機会。いくらでも転がっているようで、実は見えている間に捕まえないとすぐ消えてしまう機会、その瞬間の大切さを知る為にキムはまた施設へと戻っていくのだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-05-07 23:20:33)(良:1票) 《改行有》

42.   《ネタバレ》 この映画の幽霊の表現があまりにも大胆であることに驚く。 結果的に小西真奈美演じる春江は幽霊だったのだが、映画における幽霊という存在は大概が誰か、つまりある登場人物が見た幽霊という存在としてはじめて幽霊は存在するのが一般だが、この映画ではその幽霊が階段をひとりで降りて、道をひとりで歩いている。しかも真っ昼間にだ。誰に見られているわけでもない(あえて言うならキャメラを通してスクリーンにて我々観客が見ている)独立した存在の幽霊ということだ。まるで春江という幽霊がごく日常の中に生身の人間の如く存在していているようなのだ。これはかなり際どい表現であると思うし、今までの幽霊が出てくる映画ではこのような表現はほとんどない。 そもそも葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊ですらおかしい。律儀に扉から出て行く幽霊というのは一体何だ。 結局、この映画における、というより黒沢清における幽霊の解釈が以前の彼の作品より遥かに自由になり、生身の人間の意識と平行して存在するわけでなく、彼女ら自身もそれとして意識を確立し日常にごく普通に溶け込んでいるという大胆な解釈になったのだ。 なのだから、この映画の幽霊は恐くない。生きている人間と死んでしまった人間というくらいの差異しかない。 ただ葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊の迫り方は、「DOOR III」と全く同じだが、この表現方法はやはりなかなか怖い。 すべての過去はなかったことになどできない。過去は迫ってくるのだし、責任を負わなければならない。[映画館(邦画)] 7点(2009-05-06 05:08:31)《改行有》

43.  GOEMON 《ネタバレ》 単純にかっこ悪い。 映像も言ってることも空虚でかっこ悪い。ぺらぺらなCGは迫力ないし、繊細さもないし、ただスピーディーにして誤魔化してるだけじゃん。人が飛び上がって月とか太陽をバックにするのは本当に止めて欲しい。失笑だよ、あれ。 「CASSHERN」の時と同じことになるが、何故この映画に生身の俳優を起用する必要があるのかがわからない。 人件費しかり、美術セットや衣装や持ち道具やらにお金を掛けないでCGにお金を費やせばいい。そして撮影する時間があるなら部屋に籠ってパソコンだかMacだかに一日中面と向かってCGを描き描きしてたほうがよっぽど有意義だろう。 鈴木清順の「オペレッタ狸御殿」にはフルCGの美空ひばりが出てくるがこれは誰が見ても美空ひばりだ。しかし「GOEMON」に出てくる戸田恵梨香とか佐藤江梨子なんかはほとんど誰だかわからない。グレーディングでコントラストつけまくって、色足しまくって俳優を誰だかわからなくするくらいなら、最初から俳優なんか使わなければいいじゃないか。こんなの俳優に対しての冒涜だろ。敬意もへったくれもない。 割腹の瞬間を後ろから撮るってどういうことなんだ。しかも五右衛門がそれを見ているという設定であるなら、余計それは前から撮るべきだろ。その瞬間を脳裏に刻ませなければ、その過酷さは伝わらない。ホラー映画ではないし、レイティングの問題もあるだろうから、決してかっ捌いている腹を見せろと言っているのではない。その顔だけでも見せなければ、その過酷さは伝わらない。 更にはりょうの死に様も駄目だ。あれは首を刎ねるべきだ。障子越しなのだからそれは可能なはずだ。障子に飛び散る血飛沫なんてどーでもいい。そんなものでは過酷さは伝わらない。 ってことで、結局何にも響いてこない。 化学調味料、着色料、保存料を含有しまくったアメリカンフードみたいな映像の洪水はぎとぎとべたべたしつこく大味。こんな映画が溢れたら、映画もテレビ化していき、どんどん思考停止していくだけだ。 一瀬たん、こんなのに尽力注いでていいのか?とりあえず紀里谷先生にはもう撮らせちゃ駄目だよ。[映画館(邦画)] 2点(2009-05-05 02:56:49)(良:1票) 《改行有》

44.  バーン・アフター・リーディング 《ネタバレ》 『ノーカントリー』の時も感じたが、はっきり言って駄目なんじゃないかと思う。ただ無責任なことだがどーして駄目なのかがよくわからない。凄く簡単に言うと「つまらない」ってことなんだけど、その「つまらなさ」自体すら理解することが出来ないから困る。 まず脚本も演出もまったく巧くない。群像劇ということで点と点は何らかの形で繋がってはいるが、それは巧さとは何にも関係ない。 コーエン兄弟って本当にキャラクター創造の人たちで、それって役者が勝手にやってくれることなんだけど、それを脚本とか演出でがちがちに固めて造り出そうとするから駄目なんだろうなと思う。この人はこういう人でっていう縛り付けが強すぎるんだな、きっと。映画ってキャラクターショーではないのだから。 ま、結局それがコーエン兄弟らしさなのかもしれないが、となるとそれを楽しみにしていないと何も楽しくないってことになるのか?だったら見なけりゃいいということか?しかし哀しいかな、確かに過去のコーエン兄弟の映画は楽しかった、好きだった、だから今も見ているという人は大勢いるだろう。もはやコーエン兄弟とウディ・アレンは年中行事になりつつある。これは正直良くないことだ。このことについては最近よく考えるが、どーしていいやらわからない。もしかしたら「もう見ない」という断固たる決意が必要なのかもしれない。 それはさて置、あと主な登場人物たちが最後誰も出てこなくなるってことでこの映画はいいのかと思うのだが、それは観ているこっちからすれば何の感慨も沸かなくなるんじゃないのかと、まあ出てこなくてもいっこうに構わないんだが、ならばその最後の感慨ってものを観客に感じさせるのにあのCIAの幹部のふたりにすべてを負わせるっていうのは無理があるってことなんだと思う。そこにはキャスティングミスということもが多少なりある。主な登場人物があまりにも有名過ぎて、あのCIAの幹部ふたりは添え物でしかない。添え物にすべてを任せるなんてのはあまりにも無謀すぎるだろと。 Googleアース的に始まって終わろうとそんなことはどーでもいいんだが、あれの意味を考えると更にこの映画がつまらない映画だと露呈してきそうなので、止めておくことにした。だからきっともうコーエン兄弟の映画は楽しめないんだって思う。[映画館(字幕)] 4点(2009-05-03 05:18:24)《改行有》

45.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。 ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。 戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。 俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。[映画館(字幕)] 10点(2009-04-27 17:40:28)(良:7票) 《改行有》

46.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 ライフラインという見事な名が付いているにも限らず、それが三つのうちひとつしか映画として機能しないことが最もこの映画の鈍感なとこなのだが、そのひとつがこの映画のすべてだった。 ミリオネアはどんな番組だったかと上映前に思い、ライフラインというものがあったことを思い出し、この映画は恐らくそれが主人公のスラム育ちの人生と相互するように機能する映画なのかと考えたが2/3も裏切られた。 まず最初にオーディエンスという機能を見殺すかの如く描いたときに、この映画は駄目なんじゃないかと疑う。 だが次にジャマールがコールセンターに勤めているということと、彼がラティカの携帯電話の番号を調べ始めた時、テレフォンという機能は活かされるのではと期待する。しかしラティカという名前だけでは検索しきれず、ここでは兄の番号に辿り着くまでとなる。これでは駄目だ。ジャマールがラティカを探し求める映画ならば、テレフォンの相手は兄ではなくラティカでなければならない。 50:50という機能も半殺しの如く描かれ、結局最後に残されるライフラインはテレフォンだ。となれば後は誰が電話に出るかだ。 兄は最後の最後でラティカを逃がすことで贖罪する。そう、その時「これを持っていけ」と彼女の手に握らすのが携帯電話だ。やはりこの映画はそうならなければならないと大きく納得した。 だから彼女が答えを知らないこと、彼が最後の最後は勘だけで正解すること、そして兄がそれと時を同じくして死ぬこと、すべてそれで良い。彼女が電話に出たことでこの映画の問題は解答されたからだ。彼にとってみれば、唐突に彼女が電話に出たこと、それだけで、もはやクイズ番組などどーでもいいことで、むしろ彼女に早く会わなければならない。クイズの答えに悩む暇はない。だから答えはBでもCでもDでもなく、一番最初のAだ。 テレフォンにラティカが出て映画が成り立つという結末は、誰もが予測可能だ。しかしそうなったとき、予想可能さに嘆かれるか、納得してもらえるか、それがこの映画の面白さに直結する。この映画には大きく納得させられる。わかっていることに改めて納得する面白さこそがアメリカ映画的であると思える。だから最後は余計に良かった。そうかそこはボリウッドだったと。 ただキスシーンを奇麗に見せたいがために傷口じゃない方にキャメラを切り返したら絶対に駄目だ。[映画館(字幕)] 7点(2009-04-21 04:56:49)(良:1票) 《改行有》

47.  ワルキューレ 《ネタバレ》 恐らく誰もが言うだろうが、ゲッペルスが青酸カリらしきものを口に含むシーンや、トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルクが失われた左手を高々と挙げて「ハイルヒトラー」と叫ぶシーンであるとか、そして電信所の女たちが総統の死の知らせを知り「ハイルヒトラー」という様に手を挙げる様などが素晴らしい。 この映画の簡潔さ、例えばシュタウフェンベルクの家族に対する愛情というのを鬱陶しく描かないことからもわかる通り、個々の内面、ひととひととのぶつかり合いや葛藤などという今更という陳腐なことを描くナチス映画ではないことを雄弁しているだろう。こんなにも簡潔な映画の中でひととひととのぶつかり合いなどという面倒被ることを延々と描いてもつまらないだけだ。この登場人物たちは互いを理解し合って決起するのではなく、軍事クーデターを行うということに感染して集うだけの駒だ。シュタウフェンベルクが暗殺を行い戻ってきてから、皆が同士である印のカードを次々と取り出すシーンなどは正に感染でしかない。軍事クーデターを行うことが重要であって、理解を深めることは問題ではないのだ。だから極端な話をすれば、この映画は「ワルキューレ」なのだから、ワルキューレ作戦が描かれていればいい。シュタウフェンベルクでさえもこの映画においてはワルキューレ作戦に感染した駒のひとつだ。彼は現実、今や英雄かもしれないが、この映画での彼の最期は国を愛する正義というよりは、ワルキューレ作戦という軍事クーデターに雄叫びをあげて殉じた狂信者としか映らない。ただそれでいい。「ハイルヒトラー」と叫んで死ぬか、「ドイツ万歳」と叫んで死ぬか、このふたつは簡単に入れ代わりが可能なほどの差異なのだ。 ただ、この事実を忘れてはならないということ、それを終幕直前のふたつのショットがそう言っている。 ひとつめはシュタウフェンベルクが処刑され、地面に倒れた時のクロースアップ。彼の目は閉ざされることなく、こちらをじっと見つめている。 ふたつめは一度登場したショットの続きとなるラストショット、シュタウフェンベルクのアイパッチをした左側頭部を入れ込んだ、彼の妻との別れのときのショットだ。 このふたつのショットは明確に示している。刮目せよ(忘却するな、という意も込められているだろう)、あなたたちはわたしの左目となって事実を目撃したのだから。 それでこの映画は充分だ。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-15 01:40:50)(良:2票) 《改行有》

48.  ザ・バンク -堕ちた巨像- 《ネタバレ》 美術館へ辿り着くまでの尾行、そして美術館での銃撃戦は見事としか言いようがない。真っ白で螺旋状の内壁に次々と撃ち込まれる弾痕。クライヴ・オーウェン演じるサリンジャーと殺し屋のやりとり。建物の形状を完璧なまでに駆使したカット割り。素晴らしい。 それ以前に、サリンジャーが殺し屋を追い掛けるシーン、キャメラは必死に走るサリンジャーを横移動で追っかけ、それと平行モンタージュで逃げる殺し屋の車を見せ、サリンジャーが大通りに出ると、キャメラは横位置から一気にクレーンアップして俯瞰構図となり、犯人の車が赤信号で停止している車の大群に混ざっているという一連及び最後のクレーンショットがまた素晴らしい。 人物の会話の殆どが人入れ込みの切り返しショットで処理されているのが少し物足りないというか、逆にしつこいかと感じる。サリンジャーが氷水の中に顔を突っ込み殺し屋らしき人影を思い出すインサートカットや、屋上での殺し屋はこうしていただろうという推論の回想映像は必要なのだろうか。殆どを無闇矢鱈に説明せずに見事なまでに簡潔に展開しているのに、この2点だけ過剰に説明していると思える。無くても理解できるから余計無駄だと感じる。 しかしながらこの映画は見事だ。ナオミ・ワッツ演じる検事とさよならしてからこの映画は急に晴れ晴れとした青空の中に舞台が移される。それは中から外へ出るという機能が働いたからだ。システムの中=法に司られた社会の中にいては解決できないのだが、システムの外=法を無視した世界に出て行けども決して辿り着けないという「どこかにある答えが見つかりそうで、どこにも答えがない」という<世界>にやはり着地してしまう。そこに至るまでを逮捕権のないインターポール職員とニューヨークの検事局員が追うことで、「答えが出そうで、出ない」という柵が更に主人公たちに絡み付くからいい。 ファーストショットのサリンジャーのクロースアップ(この次のショットは駅でなく、本当は車であるべきだったと思うが)はどこかにある答えを見据えていたが、ラストショットのサリンジャーのクロースアップはどこにも答えがないと盲目的になっている。それは幾らでも置換可能な現実=この近代社会のシステムを目の当たりにしてしまったという嘆きの表情だった。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-13 01:14:06)(良:1票) 《改行有》

49.  ウォッチメン 《ネタバレ》 出てくるヒーローという奴らが、いつまで経ってもうだうだとメタレベルで苦悩し続けて163分が過ぎ去って行く。彼らは自分たちの存在意義や過去のパーソナルな出来事を回想し「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」という当たり前のこと、見てるこっちからしたらどーでもいいことで、163分悩み続ける。 もちろん「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」は事実だが、そんなことより映画として忘れてはいけないのは「ひとりの人間ではあるが、ヒーローなんだ」だ。 眼鏡のおっさんと長髪の女のセックスシーンは最低だ。 おっさんはソファーで「ちょっと待って」と言う。勃起しなかったのだ。しかし、次のシーンでおっさんは裸でコスチュームの前に立っているし、女はシャツ一枚でその場に現れる。全く理解が出来ない。やったのか?やってないのか?これは大きな問題だ。ここではこのセックスは中断されたと理解して話を進めたい。 その後、ふたりはコスチュームを身に纏い再びヒーローとして街に繰り出し、ひと活躍済ませる。そしてふたりはいい感じになり船内でやっちまう。簡単に言えばおっさんはヒーローして気分が高ぶり欲情したっていう変態で、コスチュームプレーで勃起したということだ。で?と思うだけで、正常な話ではないし、そんなこと興味ない。 そんなシーンにレナード・コーエンの「ハレルヤ」を流すセンスの悪さ、どーにかしろと。センスがないのではなく、センスが悪い。冒頭のあんなシーンでナット・キング・コールを流した時点でまずいとは思ったが、やはりセンスの悪いやつはどこまでいってもセンスが悪い。音楽も映像も、センスが悪い。 ヒーローはある一定の社会の秩序を整えるもので、世界の平和を整えられるわけがない。(そもそも、特にアメコミのヒーローなんて愛国右翼の塊みたいなもんで)もしそうなってしまえばただのファシズムに過ぎないだろう。この映画はだからその選択をあえてせずほっぽり投げている。それはわかる。だが、最後の新聞社だかにいくまえのグラウンド・ゼロを思わせるショットとか、戦争とか平和とか核兵器とかリベラルとか共産主義とか悪とか正義とかどーでもいいから、まず今のアメリカ社会を見てから映画を作れ。こんな映画、世界どころかアメリカでも必要としてないだろ。 映像化することだけに意固地になり過ぎた、完全時代錯誤な駄目映画。[映画館(字幕)] 1点(2009-04-12 23:56:48)(笑:1票) (良:2票) 《改行有》

50.  レイクサイド マーダーケース 《ネタバレ》 巻頭、仰向けとなっている状態のモデルを俯瞰で撮影する眞野裕子演じる英里子は、ファインダー越しに自分自身の未来を覗き見ているかのような構図にもなるわけだが、このことは後にするとして、まずこの行為から、彼女が覗き見る/まなざしを向けるというところにこの映画の焦点があるのだということから始めたい。 これは彼女がまなざしを向けたことによって起きる事件なのだ。 名門私立中学の不正入試を暴くまなざし、自らの子供時代を思い返すように子供に向けるまなざし、不倫相手の妻に向ける敵視したあのまなざしがある。 ただすべてが彼女だけのまなざしで成り立ってはいない。 「そんな目で見るな」という役所広司の台詞にもある通り、これはすべてのまなざし/視線を意識しなければならないのだ。死体を湖に投げ捨てるとき、大人が皆森の中で立ち尽くすとき、車がそこを通り過ぎる。この実体のない見られているかもしれないという視線をもこの映画は適切に紡ぎだす。 もうこれは見るということへの執着だ。犯人が誰であるといったことが最重要視される映画ではないのは一目瞭然。つまり犯人をこの目で確かめることが重要ではない、そんなことよりここに出てくる人々を見なさい、行為を見なさいと言っている。 そして湖の奥深い底で仰向けとなることを余儀なくされた英里子は、レンズ越しに(これは映画を撮影したキャメラという隠喩も含まれるだろう)過去の自分自身と視線が交差しまうという見事な構図となる。すべてが巻頭に回帰する瞬間だ。そして結果としてライターは彼女の瞳に突き刺さりすべてを塞いでしまい物語の幕を下ろすのだ。 実はこの彼女のまなざしこそが、受験によって変化を遂げていく人々の唯一の救いの手であったのだろう。それがあの青空の中、深々とした緑に彩られた森を背に、湖畔の上をそよぐ彼女のまなざしへとここでも結実して暴かれる。 救いの手をもこの世から消し去ろうとするこの湖畔での殺人の場合、または受験というものの場合の恐ろしさが、あるいはひとというものの醜さが、狂ったかのようにひとを一変させてしまうのだが、それをすべて見たのは他でもない我々観客なのだという事実は誰にも回避できない。[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 01:36:43)《改行有》

51.  オーストラリア(2008) 《ネタバレ》 巻頭で、ロマンスがあったという文章が出る時点で、この映画はそういう映画なんだと認識させてくれる。であるから、史実とかなどはもう殆ど関係ないのだし、後半のサラがナラを守りたいというのは、人種云々の話ではなく、ひとりの子供を守りたいという映画になって行くのだろうし、そういう人がいたというナラが語る物語なのだと、映画の冒頭で全て語っているのだ。 しかしながら正直なところバズ・ラーマンだぜ、どうせ・・くらいに思っていたが、実際は見事な大河ドラマで実に面白い。 相変わらずどアップばかりで鬱陶しいなと思いつつも、ナラが牛を見事なまでに鎮めてしまうシーンなどは、ここはやはりどアップだといつの間にか納得させられ、馬が馬らしい躍動感だとか、街の中を駆け抜ける牛とか、「オズの魔法使い」の件だとか、雨の中の舞踏会というのも秀逸で、いいじゃないかと。そしてやはり馬に跨がる男は女を家に残して出て行ってしまうわけで、それで上出来だ。 それにサラとナラの離別と再会を同じ桟橋で行わせた瞬間に見事だと言わざるを得ないだろうし、しかも歌を使った再会がまた良い。もうひとつ素晴らしいこと、それはドローヴァーとサラが車に乗るシーン、それもフロントガラス越しのショットというのが前半と後半で一度ずつある。前半はふたりの間に窓枠があるのだが、後半には一枚のガラスになりふたりを隔てるものはなくなっている。こういった映画を正しく「見る(あるいは聞く)」という行為への誘いが為された演出はお見事だろう。 ま、しかし、あまりにも機能してない登場人物が多いなとか、牛を囲む炎の火力が弱いとか、ナラ役の子供が駄目だったのかナラというキャラクターが駄目だったのかわからないが、何か鬱陶しさを感じたし、今回のキッドマンは少しばかりオヴァーアクトだろうとか、ただやはりそこにいるだけで画になる女優であるということには間違いはないのだがとか、不満は残しつつも、ここ最近は、最後に「家に帰ろう」という映画はどれも好きになっちゃうなと。[映画館(字幕)] 7点(2009-03-28 00:46:07)《改行有》

52.  おくりびと 《ネタバレ》 愛情故に、夫のすることにあれだけ寛容で理解のある妻(勿論、台詞にもある通り裏腹な内心を抱えてはいる)の人間性が納棺師という職業にあれだけの拒絶反応を示すのかが納得出来ず、つまりそれは後に夫の仕事を認めるという結果へと導くための原因作りでしかないだろうと誰もがその場で理解できるこのシーンはとても寒々しく、彼女のその強い母性的性格との一致はまるで無視されている。この認めないという態度は、納棺師という職業に対する世間の一部も示すであろう態度の表れだが、ではその態度を覆すためにはということになるだろう。 つまりこの映画の大きな山場とは、■納棺師は遺体を扱う職業であるが故に、反対する者もいるが、その仕事内容は余りにも知られてはいないため、百聞は一見に如かず、なシーンが必要である。■誰にでも死は訪れる。勿論極々身近な人にでも。ならば知人を納棺することもあるというシーン。というふたつがあればいいのだ。それをまとめて詰め込んだのが、あの吉行和子の納棺シーンだ。こんな下手糞な展開はなかなかないだろう。 「好きなのを持ってきな」の件も頂けない。本木雅弘がせっかく父親に会いに走り始めたにもかかわらず、わざわざ一度脚を止め、山崎努のオミトオシダヨという粋を見せた態度のシーンなど完璧にオミットするべきだ。あるいは、「好きなのを持ってきな」で走り始めなければならない。映画において人が何かに向かって走り始めたなら、挫折や妨害がない限りは、辿り着くまで走り続けなければならないのだ。 更に「うちの夫は納棺師なんです」と広末涼子が言い始め、忘れていたはずの父親の顔にフォーカスが合ってしまうというあの恥ずかしい件は果たして何なのだろうか。話は舞い戻り、妻が納棺師という仕事を認めること、それがこの映画の断固としての態度だ。だから、完全に認めること、その表象がこの台詞だったのだ。はっきりと聞こえた。しかも口の動きも凄くわかりやすいクロースアップでだ。そう、夫は納棺師なのだ。いくらなんでも安易過ぎるだろうと言いたい。その安易さが父親の顔をも思い出させる結果に繋がった。そして輪廻転生へ・・この映画はあほか。[映画館(邦画)] 3点(2009-03-23 04:09:38)(良:3票) 《改行有》

53.  007/慰めの報酬 《ネタバレ》 ただ見せるということにのみ重きを置き、物語ることなどほぼ放棄し、しかしながら展開は着実に前進していくわけで、それをこれだけ詰め込んで100分弱というのは立派だ。ただほぼ説明らしい説明を廃し、兎に角詰め込んだ結果、マチュー・アマルリック演じるドミニク・グリーンがどんな人物なのかということがあまり明瞭ではなく、まこんなもんでもいいかとも思えるが、足りないといえば足りないだろう。ただ正義と悪の対立という構図のみに固執し過ぎるアクション映画の時代は過ぎ去ったのだとも言える。 007本来の華麗さなどは捨て、無骨な復讐の鬼となり、ひたすら乾いた接近戦を繰り返すダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンドというのは、それはそれでいいのだと思える。そんな無骨さと対象的に洗練されきった美術とローケーションが、逆にその無骨さを際立たせている。007シリーズのみならず正義と悪の対立を描いたアクション映画のひとつの型としてあるのが、最後に敵のアジトに乗り込んでいき大爆発という展開、もちろんこの映画でもそうなのだが、それを仰々しく描いていないところに好感が持てる。それはホテルのセットのうまさ、洗練さにもあるだろうし、これはあくまで復讐劇なんだと。そんなホテルのシーン、特筆すべきは音響だ。爆発音と編集がまるでアンサンブル演奏のごとく調和がとれていている。そういった意味ではアクションシーンの見せ方もうまい。全くハイスピード撮影を使わず、CG処理などは最小限にし、リズムで繋いでいく。対話はカットバックでわかりやすい。 また炎の中オルガ・キュリレンコ演じるカミーユが膝を抱え、そこにボンドが飛び込んでいき抱きしめるところなどは、前作「カジノ・ロワイヤル」での ヴェスパーとのシャワールームでのシーンを思い起こさせる構図となっているように思える。ボンドの位置が左と右で逆であることが、その女性を救えるか救えないかという表象的意図があるかどうかはさておき。 とりあえず今作は復讐という大前提があるので、ジェームズ・ボンド本来のスパイらしさなど皆無、悪の一団を潰すということすらぼやけがちだったものの、やはり映画は復讐劇がいいなあと思いながら楽しめた。 多くを説明せず見せる映画とした今作のラストショットはなかなかのものだと思える。そして前作との繋がりを意識して敢えてラストに持ってきたガンバレルというのもなかなか憎い。[映画館(字幕)] 5点(2009-03-09 18:13:07)《改行有》

54.  チェンジリング(2008) 《ネタバレ》 「ママに会いたかった、パパに会いたかった、家に帰りたかった」という台詞だけでもう十分すぎるほどに心を撃ち抜かれた。そしてそれをガラス越しに見つめるアンジーが、まるでスクリーンを見つめる我々観客のようで、そのイーストウッドの客観性に追い打ちをかけられ震え上がった。 そして「希望」を口にするアンジーの赤く染まった口元の優しさ、これほどまでの愛情・・思い出すだけでも感慨深いものだ。 もちろん真のアメリカ映画は昔からアメリカや社会と戦ってきた、しかしこの映画はそれだけのアメリカ映画ではない。それはロス市警の不正を徹底的に追及する映画ではないし、ましてや殺人狂への遺恨を描いた映画でもないからだ。 息子と映画を見る約束を仕事の忙しさから果たすことが出来ず、家を後にするアンジー、そして家に取り残された息子。この時の描き方が、既にこの親子は二度と再会することはないという永遠の別れを物語っている。窓越しに母を哀しく見つめる息子をキャメラがトラックバックしていく、これがあまりにも決定的だ。 更には仕事が長引いてしまった彼女がようやく帰路に着こうとするのだが、赤い路面電車は彼女に車体を幾度となく叩かれるも、そんな彼女の左手など触れてもいないかのように知らぬふりを決め込み走り去ってしまうのだ。そして彼女が「なんてこと・・」というような表情を浮かべた時の少し望遠気味のショット、先ほどの路面電車を正面から捉えていたのが縦位置だとすれば、横位置に回ったショット、この瞬間こそが、彼女の表情から不安感を滲み出させ、後戻りなど出来ない道へと踏み出してしまったと告げているのだ。 この導入部を見れば、これこそが真の映画であると気付くのだし、登場人物の視線、キャメラの視線ということの重大さ、強さ、そしてその真意にはっとさせられるのだ。 アンジーの潤んだ視線や憤りを露にした視線の先には、不正や殺人狂などを越え、いつも必ず息子ウォルターがいるのだ。 「チェンジリング」は圧倒的な視線劇で、徹頭徹尾、愛情を描き貫いている。[映画館(字幕)] 10点(2009-02-24 23:08:57)(良:3票) 《改行有》

55.  ニュー・ワールド 《ネタバレ》 スミス大尉のナレーションで語られるのは、現実と夢、つまりネイティヴ・アメリカンの穏やかで豊かな生活と自分たちの血と権力による荒んだ文明社会との葛藤というところに重きを置いたものだ。そこにポカホンタスとの恋が絡まる。そしてスミス大尉が去ると、この映画の主観はポカホンタスに移る。それはスミス大尉が語ってきたような葛藤ではなく、完全なる恋の葛藤である。彼女のナレーションが語るのは母への言葉だ。更にこの映画も終盤に差し掛かると、夫が主観のナレーションまでも登場する。これは完全に妻への愛、更には未来の息子へと語っているのだが、こうなると前半のスミス大尉の葛藤などどこへやら、話の取っ掛かりでしかなかったのかとすら思える。であるから、ラストもこれは文明だとか人間であるとかそんなところへ向かおうとしているのかすらあやふやで、ただのメロドラマになっていく。しかしラストの隅々まで手入れの届いた英国式庭園の中を歩むネイティヴ・アメリカンという構図などを作り、ぎりぎりメロドラマだけで終らすところを耐えている。 では本当の意味での「ニュー・ワールド」とは何か。確かに入植しようとする地はイギリス人にとって「ニュー・ワールド」だが、ポカホンタスがイギリスに初めて行ったとき、そこはまさしく彼女たちにとっては遥かに「ニュー・ワールド」であったというこの逆さまの展開こそが本意だ。人々は今までに見たことのない新しいものを見ると非常に驚嘆するし感動する。イギリス人にとって「ニュー・ワールド」と言えども所詮未開の地、ただの草原や森だ。しかし彼女たちにとってのイギリスというのは、未知の世界、 「ニュー・ワールド」なんだと。 そしてポカホンタスがスミス大尉に再会したものの、夫を選ぶという選択、そして「故郷(HOME)に帰りましょう」という台詞、「ニュー・ワールド」よりも「故郷(HOME)」という選択の様々な本意が見え隠れする。そしてあの船やら空やら港やら川やら森やらをぶつ切りに少し震撼させられる。 テレンス・マリックと言えば映像美の監督だと言われるが、この映画の凄さは、そういった映像美そのものにはなく、それを逆転的に使っているところにある。彼の映像美といえば、自然光を駆使した自然美だ。その自然美を散々見せつけ、そこにふといきなり整然とした人工美を見せる、そこではっとさせられてしまうという経験こそが本当の狙いなのだろう。[映画館(字幕)] 8点(2009-02-08 11:08:50)(良:1票) 《改行有》

56.  007/カジノ・ロワイヤル(2006) 《ネタバレ》 やはり人が本気走っているのは見ていて凄く気持がいい。だから007シリーズで走っている様を映そうとする気がある場合は本当にかっこいい。とにかくピアース・ブロスナンの走る様というのは半端がないほどにカッコイイ。それをダニエル・クレイグがどう受け継いでいるかというのが一番気になるところだった。いや、いいですね。いい走りをしている。そしていい体をしている。ショーン・コネリーもなかなかの胸板をしていたが、ダニエル・クレイグも負けてはいない。 それにしてもこの映画のアクションシーン、つまり始まって間もなくの爆弾魔の追跡や、空港や、車の派手な横転、これらはこの物語とほとんど関係がない。唐突だ。いや、関係がないわけではないが、本筋ではなく、そこから派生し、枝分かれしたところで起こっている出来事、副産物でしかない。とりあえず枝の先のほうをアクションで描いてしっかり本筋に戻るという繰返しだ。だから正直このアクションシーンを記憶に留めて置くことは難しくなるだろう。あったという事実だけで、無くても良かったという苦笑と吊り合ってしまうのだ。だがそれが良い。つまりこの映画はあくまで007になるまでのボンドの純愛映画であり、そしてそれをも冷酷な顔で撃ち抜いてしまうボンドの冷酷映画なのだから。つまりピアース・ブロスナンがやり続けたただのアクション映画ではないのだから。だからそれでいい。だからこそ本来かかるべきところでかからずに、溜めに溜めて、最後の最後に劇場内に響き渡る、007のテーマのメロディーの流麗さに心が躍るのだ。ああここからダニエル・クレイグのジェームズ・ボンド、007が始まるのだと。[映画館(字幕)] 6点(2009-02-06 23:57:20)(良:1票) 《改行有》

57.  石の微笑 《ネタバレ》 クロード・シャブロルはここ数年も撮り続けているはずだが、全く日本に入ってこない。困ったものだ。この映画を見ればクロード・シャブロルが枯れ果てた爺様になってなどいない、むしろ年を重ねますます映画が冴えてきているとさえ思えるだろう。こんなにも無駄を排した濃密な映画はなかなかない。 終盤、警察署内の扉が幾度となく開閉され、それを性急なまでに移動し、細かくモンタージュしていく。この辺りからこの映画の終幕へ向けての極度の緊迫感は高まっていく。 「もうしばらく会うのはよそう」とブノワ・マジメル演じるフィリップは、ローラ・スメット演じるセンタ(決して美人とは言えずとも、この怪しげな色香は一体何事か・・)に電話を通して言う(ここでも単純ながらも秀逸なカットバック)。しかしフィリップの衝動は抑えきれない。キャメラは浮遊感たっぷりにセンタの家へと入っていく。自然と玄関の扉は開き、半開きとなっていた地下への扉をくぐり抜け、左へ穏やかにカーブした階段を下りると裸電球がぶら下がっている。この緊迫感に唸りをあげない人などいないだろう。しかしセンタは地下の部屋にはいない。フィリップは階段を上り、義理の母とその恋人がタンゴを踊っている2階を通過し、悪臭が漂う3階へと足を踏み入れる。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには椅子に腰掛け、前屈みになり煙草をふかすセンタがいる。この時の戦慄、もはや説明するまでもあるまい。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには腐ったネズミではない、あの誘拐されていた少女の死体があるのだ。 この終幕までの10分から15分足らずで、幾度とない扉が開け放たれ、そこにはフィリップが虚構の世界に止めておきたかったものが現実となって広がっていく。勿論、このラストだけではない。この映画は常に扉が開かれること(あるいは閉ざすことで)、そしてその中を、その空間を移動することで物語が展開し、極度の緊迫感を醸し出している。この扉を開ける、閉めるで映画は作られ続けてきた。この扉というたった一枚の板に蝶番がついた装置が、ここまで機能してしまう。映画って凄いな、素晴らしいな、と感じる濃密なサスペンス。[映画館(字幕)] 9点(2008-10-31 02:26:03)(良:1票) 《改行有》

58.  M:i:III 《ネタバレ》 もはやスパイ映画ではないのでは・・という最大の疑問は無視するとして、これは限りなく充分に楽しめるアクション大作だ。 トム・クルーズってこんなに凄いんだ・・というよりこの人どうなっていきたいんだろうとか思ってしまう。この映画はスバラしくトム様マンセーの映画なのだけど、そのために次々と積み上げられていくアクションシーンだが、何だか微妙にズレてることに気がつく。最初の救出作戦、そっか一人一人やっつけてたら限が無いし、時間ももったいないもんね。そうだよ機関銃三つ一気にぶっ放せばいいじゃん、とトム様の活躍はほぼ記憶から薄れるくらいの暴れん坊。更にバチカンでは作戦云々より、フィリップ・シーモアホフマン・マスクの制作過程から変装、あれが凄い。今まであのマスクを外すシーンはちょくちょく出てきてたけど、あれをセットするのをじっくり見せたのはこの映画が初だろう。そして更にはラビットフットとやらを盗むときに関して言えば「盗んだ」という台詞ひとつで片付けてしまうという潔さが気持いい。そして最後なんかは妻にやっつけさせちゃう。なんだかこの映画は微妙にズレてる。しかしそこが面白いんだ。 そして何といっても、ただ横一直線に猛ダッシュをするだけのトム・クルーズをキャメラはただ横一直線に追い続けるところ、ここはやられた。いま、これだけ人間の肉体を克明に映し出した映画はそうは見ることはできない。ただ走って走って走りまくって妻の元へと走る様はスパイアクションとかそういった概念を飛び越えた、正に人がある一定のものに傾ける激しい情熱そのものだった。これは敵を倒すためではなくて、ただ愛する人の元へと急ぐという一種の青春活劇にもなりかけた瞬間だった。つまりアクションシーンのズレも全てここでの愛ってところに辿り着きたかったわけだ。 で、ラストだ。妻が言うわけだ「何で私たち今中国にいるの?」って。でも映画はこの後もダラダラ続く。ローレンス・フィッシュバーンがいい奴だったとか、一生会えないかもと言っていた友人、いやあえて言うなら戦友の妻に会えてテンションが上がる黒人とか、別に見たくないわけ、そんなの。何故あの妻の問いに「中国がハネムーンってのも悪くないだろ?」の一言で幕を下ろせないのかというところに今のアメリカ映画の勇気のなさを見た感じがする。今のトム・クルーズならこの台詞言えるはずなんだけどなぁ。[映画館(字幕)] 6点(2008-10-23 19:01:30)《改行有》

59.  グエムル/漢江の怪物 《ネタバレ》 それは例えばスピルバーグの『ジュラシック・パーク』の様な「いつになったら恐竜出てくるんだ」という苛立ちや、「出てくる、出てくる」という期待感、そういったものを観客が持つ前に、言ってしまえば観客が油断している冒頭の段階での唐突なまでに橋にぶら下がっているあの怪物の潔い登場、それは映画として歓喜すべき裏切り行為だ。極一般的に考えて、見たこともない巨大な物体が徐々に近づいているにも関らず、河に物を投げ入れ、あたかもその物体を歓迎しているような態度を人々はとるであろうか。この連続した観客への裏切りこそが、序盤の見せ場だ。つまり注目すべきは、WETAが描いた怪物自体でなく、それを登場させる過程だ。そんな潔さと裏切りにこの映画は満ちている。そして最も注目すべきは走るという行為だ。メールで姪の居場所を知らされたナムジュが突如として走り出す様をキャメラはただ横移動で映し出す。更に怪物を追い父ガンドゥは橋の上を走り抜けるがこれもキャメラは横移動で追い続け、徐々に俯瞰構図となり橋の下を泳ぐ怪物とを橋の手すりを境とし、分割画面として映し出している。この走る行為とキャメラの横移動、思い出すのは『M:i:III』だ。イーサン・ハントもガンドゥもいきなり自転車や、車を奪っても映画としてはなんら問題は無い。良くあることだ。しかしそうしないのは『M:i:III』同様、愛する人の元へ向かう時、もはや最終的に人は走らなくてはならないという必然性を、雄弁なまでにこの2本の映画は映し出している。そして撮り方もだ。つまり、例えその目的が違えども、スピルバーグの『宇宙戦争』のラストで、ダコタ・ファニングが枯葉舞う中を愛する母の胸の中へと走り寄っていく時の横移動があまりにも美しかったことが、今、アメリカを飛び出し、韓国で再現されたのだ。ポン・ジュノは間違いなく『宇宙戦争』を見て、大いに影響を受け、そして嫉妬したであろう。トライポッドの脚が人々をくるりと巻き上げる様、そして一度吸収し、洋服だけを排出する様にだ。ジュノはそれを尾と骨で再現した。瓶で殴られた浮浪者を次のカットで仲間に引き入れているという出鱈目さは、黒沢清に近い感じすらする。ペキンパーが好きなのはわかるが、ハイスピード撮影の使いどころはもう少し考えて欲しい。だがこれはこれで真に《面白い》映画だ。赤の他人を"HOST"として迎え入れているという結末はギャグか否か。[映画館(字幕)] 6点(2008-10-23 19:01:09)(良:1票)

60.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 つまり、物語とまなざしという、映画の本質的な何かを見た気がしたのだ。 それはブライス・ダラス・ハワードという女優のまなざしだけで、映画として足り得てしまっているという事実だけではなく、この映画における人々のまなざしの向け方、更にはクリストファー・ドイルのキャメラのまなざしの向け方を見ればそれは明かだった。そのまなざしの連鎖は、外を見せずに外を見させることだ。この映画にはアパートの外部は存在していない。またどこか狭いフレーミングで撮られたショットが多い。これらは決して窮屈であるということではなく、フレームやアパートの外の何かを映さずに、つまり見せずに見せているということだ。外があるのだから、そこには何かがあるのだ。それは世界であるし、あの獣でもあるだろう。フレームで切り取るということをよく言うが、これは間違いだと言い切りたい。フレームは全体から部分を切り取るためにあるのではなく、部分から全体を見せるためにあるのだ。 またシャマランは、水の妖精にあえてそして潔くも堂々と "ストーリー" という名をつけた。物語が映画において何であるのか。果たして物語は映画で一番重要なことなのか。物語があるから映画なのか。違う。物語は "導き" であるに過ぎない。映画を見せるために物語はある。誰か人が行動することを、考えることを見せるために物語はある。物語は原因に過ぎない。結果は映画であり、それを俳優であり、職人であり、監督が産み出す。観客が観るのは結果=映画であり、物語ではないのだから。つまり、シャマラン自らが過去に描いたような観客が仰天するような結末や、予想を裏切る展開などは、映画において大して重要なことではないのだ。重要なのは、そのような結末や展開の物語を映画としてどう見せるかであり、物語に引き摺られ続ける映画は映画ではないのだ。またそれと同様にこの映画がVFXにて(またそれを駆使しすぎずに)あの獣を描くのは、VFX(の乱用)が物語の足を引っ張っているのだという明示であり、物語をVFXから守らなければならないという答えでもある。紋切型の批評家は物語にすら参加することが出来ず、終いには敵視するVFXに喰い殺されてしまう。ただシャマランがVFXを否定していないというのは、ラスト、ストーリーがVFXに包まれVFXの宙へと飛び立っていくのを見れば明らかだろう。 何だか最近のシャマランは泣けるよなぁ[映画館(字幕)] 7点(2008-10-23 19:00:48)(良:4票) 《改行有》

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