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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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41.  バーン・アフター・リーディング 《ネタバレ》 『ノーカントリー』の時も感じたが、はっきり言って駄目なんじゃないかと思う。ただ無責任なことだがどーして駄目なのかがよくわからない。凄く簡単に言うと「つまらない」ってことなんだけど、その「つまらなさ」自体すら理解することが出来ないから困る。 まず脚本も演出もまったく巧くない。群像劇ということで点と点は何らかの形で繋がってはいるが、それは巧さとは何にも関係ない。 コーエン兄弟って本当にキャラクター創造の人たちで、それって役者が勝手にやってくれることなんだけど、それを脚本とか演出でがちがちに固めて造り出そうとするから駄目なんだろうなと思う。この人はこういう人でっていう縛り付けが強すぎるんだな、きっと。映画ってキャラクターショーではないのだから。 ま、結局それがコーエン兄弟らしさなのかもしれないが、となるとそれを楽しみにしていないと何も楽しくないってことになるのか?だったら見なけりゃいいということか?しかし哀しいかな、確かに過去のコーエン兄弟の映画は楽しかった、好きだった、だから今も見ているという人は大勢いるだろう。もはやコーエン兄弟とウディ・アレンは年中行事になりつつある。これは正直良くないことだ。このことについては最近よく考えるが、どーしていいやらわからない。もしかしたら「もう見ない」という断固たる決意が必要なのかもしれない。 それはさて置、あと主な登場人物たちが最後誰も出てこなくなるってことでこの映画はいいのかと思うのだが、それは観ているこっちからすれば何の感慨も沸かなくなるんじゃないのかと、まあ出てこなくてもいっこうに構わないんだが、ならばその最後の感慨ってものを観客に感じさせるのにあのCIAの幹部のふたりにすべてを負わせるっていうのは無理があるってことなんだと思う。そこにはキャスティングミスということもが多少なりある。主な登場人物があまりにも有名過ぎて、あのCIAの幹部ふたりは添え物でしかない。添え物にすべてを任せるなんてのはあまりにも無謀すぎるだろと。 Googleアース的に始まって終わろうとそんなことはどーでもいいんだが、あれの意味を考えると更にこの映画がつまらない映画だと露呈してきそうなので、止めておくことにした。だからきっともうコーエン兄弟の映画は楽しめないんだって思う。[映画館(字幕)] 4点(2009-05-03 04:53:38)《改行有》

42.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。 ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。 戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。 俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。[映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 12:14:04)(良:7票) 《改行有》

43.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 ライフラインという見事な名が付いているにも限らず、それが三つのうちひとつしか映画として機能しないことが最もこの映画の鈍感なとこなのだが、そのひとつがこの映画のすべてだった。 ミリオネアはどんな番組だったかと上映前に思い、ライフラインというものがあったことを思い出し、この映画は恐らくそれが主人公のスラム育ちの人生と相互するように機能する映画なのかと考えたが2/3も裏切られた。 まず最初にオーディエンスという機能を見殺すかの如く描いたときに、この映画は駄目なんじゃないかと疑う。 だが次にジャマールがコールセンターに勤めているということと、彼がラティカの携帯電話の番号を調べ始めた時、テレフォンという機能は活かされるのではと期待する。しかしラティカという名前だけでは検索しきれず、ここでは兄の番号に辿り着くまでとなる。これでは駄目だ。ジャマールがラティカを探し求める映画ならば、テレフォンの相手は兄ではなくラティカでなければならない。 50:50という機能も半殺しの如く描かれ、結局最後に残されるライフラインはテレフォンだ。となれば後は誰が電話に出るかだ。 兄は最後の最後でラティカを逃がすことで贖罪する。そう、その時「これを持っていけ」と彼女の手に握らすのが携帯電話だ。やはりこの映画はそうならなければならないと大きく納得した。 だから彼女が答えを知らないこと、彼が最後の最後は勘だけで正解すること、そして兄がそれと時を同じくして死ぬこと、すべてそれで良い。彼女が電話に出たことでこの映画の問題は解答されたからだ。彼にとってみれば、唐突に彼女が電話に出たこと、それだけで、もはやクイズ番組などどーでもいいことで、むしろ彼女に早く会わなければならない。クイズの答えに悩む暇はない。だから答えはBでもCでもDでもなく、一番最初のAだ。 テレフォンにラティカが出て映画が成り立つという結末は、誰もが予測可能だ。しかしそうなったとき、予想可能さに嘆かれるか、納得してもらえるか、それがこの映画の面白さに直結する。この映画には大きく納得させられる。わかっていることに改めて納得する面白さこそがアメリカ映画的であると思える。だから最後は余計に良かった。そうかそこはボリウッドだったと。 ただキスシーンを奇麗に見せたいがために傷口じゃない方にキャメラを切り返したら絶対に駄目だ。[映画館(字幕)] 7点(2009-04-21 03:00:50)(良:1票) 《改行有》

44.  ワルキューレ 《ネタバレ》 恐らく誰もが言うだろうが、ゲッペルスが青酸カリらしきものを口に含むシーンや、トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルクが失われた左手を高々と挙げて「ハイルヒトラー」と叫ぶシーンであるとか、そして電信所の女たちが総統の死の知らせを知り「ハイルヒトラー」という様に手を挙げる様などが素晴らしい。 この映画の簡潔さ、例えばシュタウフェンベルクの家族に対する愛情というのを鬱陶しく描かないことからもわかる通り、個々の内面、ひととひととのぶつかり合いや葛藤などという今更という陳腐なことを描くナチス映画ではないことを雄弁しているだろう。こんなにも簡潔な映画の中でひととひととのぶつかり合いなどという面倒被ることを延々と描いてもつまらないだけだ。この登場人物たちは互いを理解し合って決起するのではなく、軍事クーデターを行うということに感染して集うだけの駒だ。シュタウフェンベルクが暗殺を行い戻ってきてから、皆が同士である印のカードを次々と取り出すシーンなどは正に感染でしかない。軍事クーデターを行うことが重要であって、理解を深めることは問題ではないのだ。だから極端な話をすれば、この映画は「ワルキューレ」なのだから、ワルキューレ作戦が描かれていればいい。シュタウフェンベルクでさえもこの映画においてはワルキューレ作戦に感染した駒のひとつだ。彼は現実、今や英雄かもしれないが、この映画での彼の最期は国を愛する正義というよりは、ワルキューレ作戦という軍事クーデターに雄叫びをあげて殉じた狂信者としか映らない。ただそれでいい。「ハイルヒトラー」と叫んで死ぬか、「ドイツ万歳」と叫んで死ぬか、このふたつは簡単に入れ代わりが可能なほどの差異なのだ。 ただ、この事実を忘れてはならないということ、それを終幕直前のふたつのショットがそう言っている。 ひとつめはシュタウフェンベルクが処刑され、地面に倒れた時のクロースアップ。彼の目は閉ざされることなく、こちらをじっと見つめている。 ふたつめは一度登場したショットの続きとなるラストショット、シュタウフェンベルクのアイパッチをした左側頭部を入れ込んだ、彼の妻との別れのときのショットだ。 このふたつのショットは明確に示している。刮目せよ(忘却するな、という意も込められているだろう)、あなたたちはわたしの左目となって事実を目撃したのだから。 それでこの映画は充分だ。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-15 00:57:36)(良:2票) 《改行有》

45.  ザ・バンク -堕ちた巨像- 《ネタバレ》 美術館へ辿り着くまでの尾行、そして美術館での銃撃戦は見事としか言いようがない。真っ白で螺旋状の内壁に次々と撃ち込まれる弾痕。クライヴ・オーウェン演じるサリンジャーと殺し屋のやりとり。建物の形状を完璧なまでに駆使したカット割り。素晴らしい。 それ以前に、サリンジャーが殺し屋を追い掛けるシーン、キャメラは必死に走るサリンジャーを横移動で追っかけ、それと平行モンタージュで逃げる殺し屋の車を見せ、サリンジャーが大通りに出ると、キャメラは横位置から一気にクレーンアップして俯瞰構図となり、犯人の車が赤信号で停止している車の大群に混ざっているという一連及び最後のクレーンショットがまた素晴らしい。 人物の会話の殆どが人入れ込みの切り返しショットで処理されているのが少し物足りないというか、逆にしつこいかと感じる。サリンジャーが氷水の中に顔を突っ込み殺し屋らしき人影を思い出すインサートカットや、屋上での殺し屋はこうしていただろうという推論の回想映像は必要なのだろうか。殆どを無闇矢鱈に説明せずに見事なまでに簡潔に展開しているのに、この2点だけ過剰に説明していると思える。無くても理解できるから余計無駄だと感じる。 しかしながらこの映画は見事だ。ナオミ・ワッツ演じる検事とさよならしてからこの映画は急に晴れ晴れとした青空の中に舞台が移される。それは中から外へ出るという機能が働いたからだ。システムの中=法に司られた社会の中にいては解決できないのだが、システムの外=法を無視した世界に出て行けども決して辿り着けないという「どこかにある答えが見つかりそうで、どこにも答えがない」という<世界>にやはり着地してしまう。そこに至るまでを逮捕権のないインターポール職員とニューヨークの検事局員が追うことで、「答えが出そうで、出ない」という柵が更に主人公たちに絡み付くからいい。 ファーストショットのサリンジャーのクロースアップ(この次のショットは駅でなく、本当は車であるべきだったと思うが)はどこかにある答えを見据えていたが、ラストショットのサリンジャーのクロースアップはどこにも答えがないと盲目的になっている。それは幾らでも置換可能な現実=この近代社会のシステムを目の当たりにしてしまったという嘆きの表情だった。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-12 20:55:12)(良:1票) 《改行有》

46.  ウォッチメン 《ネタバレ》 出てくるヒーローという奴らが、いつまで経ってもうだうだとメタレベルで苦悩し続けて163分が過ぎ去って行く。彼らは自分たちの存在意義や過去のパーソナルな出来事を回想し「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」という当たり前のこと、見てるこっちからしたらどーでもいいことで、163分悩み続ける。 もちろん「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」は事実だが、そんなことより映画として忘れてはいけないのは「ひとりの人間ではあるが、ヒーローなんだ」だ。 眼鏡のおっさんと長髪の女のセックスシーンは最低だ。 おっさんはソファーで「ちょっと待って」と言う。勃起しなかったのだ。しかし、次のシーンでおっさんは裸でコスチュームの前に立っているし、女はシャツ一枚でその場に現れる。全く理解が出来ない。やったのか?やってないのか?これは大きな問題だ。ここではこのセックスは中断されたと理解して話を進めたい。 その後、ふたりはコスチュームを身に纏い再びヒーローとして街に繰り出し、ひと活躍済ませる。そしてふたりはいい感じになり船内でやっちまう。簡単に言えばおっさんはヒーローして気分が高ぶり欲情したっていう変態で、コスチュームプレーで勃起したということだ。で?と思うだけで、正常な話ではないし、そんなこと興味ない。 そんなシーンにレナード・コーエンの「ハレルヤ」を流すセンスの悪さ、どーにかしろと。センスがないのではなく、センスが悪い。冒頭のあんなシーンでナット・キング・コールを流した時点でまずいとは思ったが、やはりセンスの悪いやつはどこまでいってもセンスが悪い。音楽も映像も、センスが悪い。 ヒーローはある一定の社会の秩序を整えるもので、世界の平和を整えられるわけがない。(そもそも、特にアメコミのヒーローなんて愛国右翼の塊みたいなもんで)もしそうなってしまえばただのファシズムに過ぎないだろう。この映画はだからその選択をあえてせずほっぽり投げている。それはわかる。だが、最後の新聞社だかにいくまえのグラウンド・ゼロを思わせるショットとか、戦争とか平和とか核兵器とかリベラルとか共産主義とか悪とか正義とかどーでもいいから、まず今のアメリカ社会を見てから映画を作れ。こんな映画、世界どころかアメリカでも必要としてないだろ。 映像化することだけに意固地になり過ぎた、完全時代錯誤な駄目映画。[映画館(字幕)] 1点(2009-04-11 01:48:42)(笑:1票) (良:2票) 《改行有》

47.  レイクサイド マーダーケース 《ネタバレ》 巻頭、仰向けとなっている状態のモデルを俯瞰で撮影する眞野裕子演じる英里子は、ファインダー越しに自分自身の未来を覗き見ているかのような構図にもなるわけだが、このことは後にするとして、まずこの行為から、彼女が覗き見る/まなざしを向けるというところにこの映画の焦点があるのだということから始めたい。 これは彼女がまなざしを向けたことによって起きる事件なのだ。 名門私立中学の不正入試を暴くまなざし、自らの子供時代を思い返すように子供に向けるまなざし、不倫相手の妻に向ける敵視したあのまなざしがある。 ただすべてが彼女だけのまなざしで成り立ってはいない。 「そんな目で見るな」という役所広司の台詞にもある通り、これはすべてのまなざし/視線を意識しなければならないのだ。死体を湖に投げ捨てるとき、大人が皆森の中で立ち尽くすとき、車がそこを通り過ぎる。この実体のない見られているかもしれないという視線をもこの映画は適切に紡ぎだす。 もうこれは見るということへの執着だ。犯人が誰であるといったことが最重要視される映画ではないのは一目瞭然。つまり犯人をこの目で確かめることが重要ではない、そんなことよりここに出てくる人々を見なさい、行為を見なさいと言っている。 そして湖の奥深い底で仰向けとなることを余儀なくされた英里子は、レンズ越しに(これは映画を撮影したキャメラという隠喩も含まれるだろう)過去の自分自身と視線が交差しまうという見事な構図となる。すべてが巻頭に回帰する瞬間だ。そして結果としてライターは彼女の瞳に突き刺さりすべてを塞いでしまい物語の幕を下ろすのだ。 実はこの彼女のまなざしこそが、受験によって変化を遂げていく人々の唯一の救いの手であったのだろう。それがあの青空の中、深々とした緑に彩られた森を背に、湖畔の上をそよぐ彼女のまなざしへとここでも結実して暴かれる。 救いの手をもこの世から消し去ろうとするこの湖畔での殺人の場合、または受験というものの場合の恐ろしさが、あるいはひとというものの醜さが、狂ったかのようにひとを一変させてしまうのだが、それをすべて見たのは他でもない我々観客なのだという事実は誰にも回避できない。[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 01:36:43)《改行有》

48.  オーストラリア(2008) 《ネタバレ》 巻頭で、ロマンスがあったという文章が出る時点で、この映画はそういう映画なんだと認識させてくれる。であるから、史実とかなどはもう殆ど関係ないのだし、後半のサラがナラを守りたいというのは、人種云々の話ではなく、ひとりの子供を守りたいという映画になって行くのだろうし、そういう人がいたというナラが語る物語なのだと、映画の冒頭で全て語っているのだ。 しかしながら正直なところバズ・ラーマンだぜ、どうせ・・くらいに思っていたが、実際は見事な大河ドラマで実に面白い。 相変わらずどアップばかりで鬱陶しいなと思いつつも、ナラが牛を見事なまでに鎮めてしまうシーンなどは、ここはやはりどアップだといつの間にか納得させられ、馬が馬らしい躍動感だとか、街の中を駆け抜ける牛とか、「オズの魔法使い」の件だとか、雨の中の舞踏会というのも秀逸で、いいじゃないかと。そしてやはり馬に跨がる男は女を家に残して出て行ってしまうわけで、それで上出来だ。 それにサラとナラの離別と再会を同じ桟橋で行わせた瞬間に見事だと言わざるを得ないだろうし、しかも歌を使った再会がまた良い。もうひとつ素晴らしいこと、それはドローヴァーとサラが車に乗るシーン、それもフロントガラス越しのショットというのが前半と後半で一度ずつある。前半はふたりの間に窓枠があるのだが、後半には一枚のガラスになりふたりを隔てるものはなくなっている。こういった映画を正しく「見る(あるいは聞く)」という行為への誘いが為された演出はお見事だろう。 ま、しかし、あまりにも機能してない登場人物が多いなとか、牛を囲む炎の火力が弱いとか、ナラ役の子供が駄目だったのかナラというキャラクターが駄目だったのかわからないが、何か鬱陶しさを感じたし、今回のキッドマンは少しばかりオヴァーアクトだろうとか、ただやはりそこにいるだけで画になる女優であるということには間違いはないのだがとか、不満は残しつつも、ここ最近は、最後に「家に帰ろう」という映画はどれも好きになっちゃうなと。[映画館(字幕)] 7点(2009-03-28 00:46:07)《改行有》

49.  チェンジリング(2008) 《ネタバレ》 「ママに会いたかった、パパに会いたかった、家に帰りたかった」という台詞だけでもう十分すぎるほどに心を撃ち抜かれた。そしてそれをガラス越しに見つめるアンジーが、まるでスクリーンを見つめる我々観客のようで、そのイーストウッドの客観性に追い打ちをかけられ震え上がった。 そして「希望」を口にするアンジーの赤く染まった口元の優しさ、これほどまでの愛情・・思い出すだけでも感慨深いものだ。 もちろん真のアメリカ映画は昔からアメリカや社会と戦ってきた、しかしこの映画はそれだけのアメリカ映画ではない。それはロス市警の不正を徹底的に追及する映画ではないし、ましてや殺人狂への遺恨を描いた映画でもないからだ。 息子と映画を見る約束を仕事の忙しさから果たすことが出来ず、家を後にするアンジー、そして家に取り残された息子。この時の描き方が、既にこの親子は二度と再会することはないという永遠の別れを物語っている。窓越しに母を哀しく見つめる息子をキャメラがトラックバックしていく、これがあまりにも決定的だ。 更には仕事が長引いてしまった彼女がようやく帰路に着こうとするのだが、赤い路面電車は彼女に車体を幾度となく叩かれるも、そんな彼女の左手など触れてもいないかのように知らぬふりを決め込み走り去ってしまうのだ。そして彼女が「なんてこと・・」というような表情を浮かべた時の少し望遠気味のショット、先ほどの路面電車を正面から捉えていたのが縦位置だとすれば、横位置に回ったショット、この瞬間こそが、彼女の表情から不安感を滲み出させ、後戻りなど出来ない道へと踏み出してしまったと告げているのだ。 この導入部を見れば、これこそが真の映画であると気付くのだし、登場人物の視線、キャメラの視線ということの重大さ、強さ、そしてその真意にはっとさせられるのだ。 アンジーの潤んだ視線や憤りを露にした視線の先には、不正や殺人狂などを越え、いつも必ず息子ウォルターがいるのだ。 「チェンジリング」は圧倒的な視線劇で、徹頭徹尾、愛情を描き貫いている。[映画館(字幕)] 10点(2009-02-24 23:08:57)(良:3票) 《改行有》

50.  ベンジャミン・バトン/数奇な人生 《ネタバレ》 (良いことか、悪いことか、この映画には悪というものがほぼ存在していない ) 歯車が組合わさっただけの機械であるところの時計がいくら逆さに廻ろうとも、神の業であるが故に歳を重ねれば重ねるほどに肉体のみが若返ろうとも、時の流れだけは決して巻き戻らない、死者は蘇らない、死は待ってはくれないのだから、ならばそれまでは生きていくしかない、ならばどう生きるのか。これは死を考える映画ではなく、今を生きることを考える映画だ。 ベンジャミンが勉学で何かを学ぶシーンなどは一度も出てこない。街へ出て、友と語り合い、船に乗り身を削って働き、セックスを、酒を、友の死を、恋を、全て身を以て経験し、体験し、それが生きているということだと知る。 ひととひとというのは決して強い結びつきがあるわけではない。素晴らしい時間がいつまでも続くわけではない。はなればなれにならなければどうしようもないときもある。そしてひとはさすらい、またもどる。そこにはもどりたくなる理由があるからだ。 ベンジャミンが最期のときを迎える様などは素晴らしい。彼はますます若返り、認知症を抱えた少年へと老い、そしてひとりでは歩くことすらできない赤児となり、彼を抱き抱えるデイジーを思い出すも、何も、ひとことも言えることなく息をひきとる。そして本当に生まれたときそのままに、彼女はブランケットで彼をそっと包むのだ。 彼女はどうして彼が自分のことを思い出してくれたと言えたのだろうか。それはもしかすると彼女だけの思い違いかもしれない、彼女がそうであって欲しいと思っているだけかもしれない、ただあるいは彼のまなざしが、どんなに自分が老い彼が若返っていこうとも変わらず愛してくれた、あのまなざしと同じだったからかもしれない。 雷に7度打たれても生きていた男、ピアノを教えてくれた老婆、シェイクスピアが好きな男、ボタンを作った男、そして母親、そしてバレリーナ、皆、生きていた。どんな死を迎えたかなどは大した問題ではなく、どのように生きていたかというその瞬間だけが永遠なのだ。思い出そう、丁度人生も折り返しの頃、この瞬間をいつまでも記憶に留めておこうと、沈黙のままに鏡に向かい合うふたりを、あの瞬間が永遠なのだ。[映画館(字幕)] 8点(2009-02-09 03:01:40)(良:2票) 《改行有》

51.  ニュー・ワールド 《ネタバレ》 スミス大尉のナレーションで語られるのは、現実と夢、つまりネイティヴ・アメリカンの穏やかで豊かな生活と自分たちの血と権力による荒んだ文明社会との葛藤というところに重きを置いたものだ。そこにポカホンタスとの恋が絡まる。そしてスミス大尉が去ると、この映画の主観はポカホンタスに移る。それはスミス大尉が語ってきたような葛藤ではなく、完全なる恋の葛藤である。彼女のナレーションが語るのは母への言葉だ。更にこの映画も終盤に差し掛かると、夫が主観のナレーションまでも登場する。これは完全に妻への愛、更には未来の息子へと語っているのだが、こうなると前半のスミス大尉の葛藤などどこへやら、話の取っ掛かりでしかなかったのかとすら思える。であるから、ラストもこれは文明だとか人間であるとかそんなところへ向かおうとしているのかすらあやふやで、ただのメロドラマになっていく。しかしラストの隅々まで手入れの届いた英国式庭園の中を歩むネイティヴ・アメリカンという構図などを作り、ぎりぎりメロドラマだけで終らすところを耐えている。 では本当の意味での「ニュー・ワールド」とは何か。確かに入植しようとする地はイギリス人にとって「ニュー・ワールド」だが、ポカホンタスがイギリスに初めて行ったとき、そこはまさしく彼女たちにとっては遥かに「ニュー・ワールド」であったというこの逆さまの展開こそが本意だ。人々は今までに見たことのない新しいものを見ると非常に驚嘆するし感動する。イギリス人にとって「ニュー・ワールド」と言えども所詮未開の地、ただの草原や森だ。しかし彼女たちにとってのイギリスというのは、未知の世界、 「ニュー・ワールド」なんだと。 そしてポカホンタスがスミス大尉に再会したものの、夫を選ぶという選択、そして「故郷(HOME)に帰りましょう」という台詞、「ニュー・ワールド」よりも「故郷(HOME)」という選択の様々な本意が見え隠れする。そしてあの船やら空やら港やら川やら森やらをぶつ切りに少し震撼させられる。 テレンス・マリックと言えば映像美の監督だと言われるが、この映画の凄さは、そういった映像美そのものにはなく、それを逆転的に使っているところにある。彼の映像美といえば、自然光を駆使した自然美だ。その自然美を散々見せつけ、そこにふといきなり整然とした人工美を見せる、そこではっとさせられてしまうという経験こそが本当の狙いなのだろう。[映画館(字幕)] 8点(2009-02-08 11:08:50)(良:1票) 《改行有》

52.  007/慰めの報酬 《ネタバレ》 ただ見せるということにのみ重きを置き、物語ることなどほぼ放棄し、しかしながら展開は着実に前進していくわけで、それをこれだけ詰め込んで100分弱というのは立派だ。ただほぼ説明らしい説明を廃し、兎に角詰め込んだ結果、マチュー・アマルリック演じるドミニク・グリーンがどんな人物なのかということがあまり明瞭ではなく、まこんなもんでもいいかとも思えるが、足りないといえば足りないだろう。ただ正義と悪の対立という構図のみに固執し過ぎるアクション映画の時代は過ぎ去ったのだとも言える。 007本来の華麗さなどは捨て、無骨な復讐の鬼となり、ひたすら乾いた接近戦を繰り返すダニエル・クレイグ演じるジェームズ・ボンドというのは、それはそれでいいのだと思える。そんな無骨さと対象的に洗練されきった美術とローケーションが、逆にその無骨さを際立たせている。007シリーズのみならず正義と悪の対立を描いたアクション映画のひとつの型としてあるのが、最後に敵のアジトに乗り込んでいき大爆発という展開、もちろんこの映画でもそうなのだが、それを仰々しく描いていないところに好感が持てる。それはホテルのセットのうまさ、洗練さにもあるだろうし、これはあくまで復讐劇なんだと。そんなホテルのシーン、特筆すべきは音響だ。爆発音と編集がまるでアンサンブル演奏のごとく調和がとれていている。そういった意味ではアクションシーンの見せ方もうまい。全くハイスピード撮影を使わず、CG処理などは最小限にし、リズムで繋いでいく。対話はカットバックでわかりやすい。 また炎の中オルガ・キュリレンコ演じるカミーユが膝を抱え、そこにボンドが飛び込んでいき抱きしめるところなどは、前作「カジノ・ロワイヤル」での ヴェスパーとのシャワールームでのシーンを思い起こさせる構図となっているように思える。ボンドの位置が左と右で逆であることが、その女性を救えるか救えないかという表象的意図があるかどうかはさておき。 とりあえず今作は復讐という大前提があるので、ジェームズ・ボンド本来のスパイらしさなど皆無、悪の一団を潰すということすらぼやけがちだったものの、やはり映画は復讐劇がいいなあと思いながら楽しめた。 多くを説明せず見せる映画とした今作のラストショットはなかなかのものだと思える。そして前作との繋がりを意識して敢えてラストに持ってきたガンバレルというのもなかなか憎い。[映画館(字幕)] 5点(2009-02-06 23:56:39)《改行有》

53.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 映画で人が走っている瞬間は素晴らしい。 この映画の主人公三人は、もう一度やり直したい、どうすればこの柵から抜け出せるかということをきっかけに、唐突に走り出す。 オープンカーの屋根を開けることで女の決意となった瞬間の美しさや、妻に見つかったことでの後ろめたさで狼狽する醜さや、大人に対する嫌悪感や子供であることの無力感、それらが一気に膨れ上がり映画そのものも走り出す。 そして彼らは「どこか」に向かう。家族という社会での最小単位のコミニュティから、救いがあるかもしれない「どこか」に辿り着くために外へ出る。しかし小泉今日子演じる佐々木恵が目にしたものは、海であり、海の向こうには陸だか船だかそれがあるのかもわからないくらいにまだ海が広がり続ける。 結局、三者とも、どこかに辿り着けそうで、どこにも辿り着けないのだ。 実際に存在したかもわからない橙色の光を見つめ涙したり、一度は死んでみたり、子供ながらに大人と同じ扱いを受けてみたり、果たしてそれが何か救いになるのか。 そして彼らは結局もとの位置に戻るしかないのだ。 恵は、自身を傷つけようとしている役所広司演じる泥棒に、最後に信じられるのは自分自身でしかないと言う。 井川遥が演じるピアノの金子先生は離婚するのだが、もともと他人だったのがまた他人同士に戻ったと言う。 所詮、個人は個人、他人は他人に過ぎない。自分ですらもうひとりの他人である。しかし一番信じられるのは自分でしかない。 この三人は静かに自分を信じ始めたからこそ家に帰り、お母さん役が作った朝食を食べたのだ。 確かに個人は個人で、自分の悩みなど自分で解決するしかないのだし、家族と言っても所詮は他人同士のコミュニティだ、でも違うんだよ、そうなんだけど違うじゃん、それだけであって欲しくないじゃんという、前向きな希望があの象徴的なラストシーンにはある。 それこそが救いだろう。許しや救いというのは愛の中にしかない。あの愛情に溢れた(ように見える)家族は陽の当たる中を、カーテンがたゆたうほどのそよ風に乗りながら、そうだけどもそうだけであって欲しくないじゃんというアカルイミライへ歩んでいくのかもしれないし、あるいはそうじゃないのかもしれない。 しかしながら、すべてはあの海だ。あの横一直線に光る白波と小泉今日子、そして朝日を目一杯浴びる。まるで生き返っていくようだ。[映画館(邦画)] 9点(2008-12-31 23:59:22)(良:3票) 《改行有》

54.  LOFT ロフト(2005) 《ネタバレ》 黒沢清は常に死を撮り続けてきた。『回路』では「死は永遠の孤独だ」といい、見た者に底知れぬ不安感と恐怖感を滲み上がらせた。この『LOFT』という映画もまた、その死と孤独、そして永遠についての映画だ。 中谷美紀演じる女流作家春名礼子と豊川悦司演じる大学教授吉岡誠のふたりは周囲の人々との関係を保つものの、どこか孤立して生きている。 そんなふたりが風吹き荒ぶ嵐の晩に、何の前触れも無しに、突如破綻したように結ばれてしまう。この瞬間、物語は立ち上がり、そして物語が機能し、また消えていく。 その繰り返しがこの映画だ。ひとつの物語を語り続けるのではなく、その瞬間瞬間に物語が立ち上がり、そして消失していく。 礼子が柱陰に見る黒い服を纏った女の件などはほぼどこにも連鎖しているようには思えず、あの瞬間にサスペンスが沸き起っているだけだ。 そんな物語の集積でこの映画は形作られているのではないか。それがショット間の断絶にも繋がり、とてもちぐはぐなショットとショットの繋がりを見せている。これもまたショットの集積と言うべきか。 これらはひとつの物語を語っていくには、映画の限界に近い、際どい表現方法であると思う。しかし思いっきり大胆に言えば、映画の豊かさを最大限にまで活用した贅沢な表象なのではないだろうか。 ラストシーン、それは最高に美しく映画的な瞬間に溢れたものだと信じてならない。 礼子と吉岡は抱き合い、ふたりで「永遠に互いを離さない」と誓った瞬間、吉岡は死を遂げたもはや魂の篭ってはいない肉体によって、沼へと連れ去られる。ふたりの永遠は一瞬のうちに完全に放棄され、生きている限り、しかもふたりでなど永遠は迎えられるわけがないのだというごくごく当たり前のようで、実は大きく勘違いをしているその永遠ということの恐ろしさと孤独感がここで瞬時に解き放たれる。礼子を俯瞰で撮らえるクレーンショットは礼子の孤独の表象ではない。つまり彼女はまだ姿を残しているのだ。いつか滅びる肉体を保持している礼子は永遠ではなく、またその後ろにぶら下がる人間としての形だけを留めたミイラは未だに死にきることの出来ぬ切なさの塊だ。 永遠の孤独、それはもはやラスト、スクリーンには映し出されることすらなくなった、沼に沈んでいった、吉岡の死のことだ。あのクレーンショットは吉岡の孤独の表象だ。[映画館(邦画)] 9点(2008-11-03 04:46:53)《改行有》

55.  石の微笑 《ネタバレ》 クロード・シャブロルはここ数年も撮り続けているはずだが、全く日本に入ってこない。困ったものだ。この映画を見ればクロード・シャブロルが枯れ果てた爺様になってなどいない、むしろ年を重ねますます映画が冴えてきているとさえ思えるだろう。こんなにも無駄を排した濃密な映画はなかなかない。 終盤、警察署内の扉が幾度となく開閉され、それを性急なまでに移動し、細かくモンタージュしていく。この辺りからこの映画の終幕へ向けての極度の緊迫感は高まっていく。 「もうしばらく会うのはよそう」とブノワ・マジメル演じるフィリップは、ローラ・スメット演じるセンタ(決して美人とは言えずとも、この怪しげな色香は一体何事か・・)に電話を通して言う(ここでも単純ながらも秀逸なカットバック)。しかしフィリップの衝動は抑えきれない。キャメラは浮遊感たっぷりにセンタの家へと入っていく。自然と玄関の扉は開き、半開きとなっていた地下への扉をくぐり抜け、左へ穏やかにカーブした階段を下りると裸電球がぶら下がっている。この緊迫感に唸りをあげない人などいないだろう。しかしセンタは地下の部屋にはいない。フィリップは階段を上り、義理の母とその恋人がタンゴを踊っている2階を通過し、悪臭が漂う3階へと足を踏み入れる。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには椅子に腰掛け、前屈みになり煙草をふかすセンタがいる。この時の戦慄、もはや説明するまでもあるまい。そしてまたひとつ扉を開けると、そこには腐ったネズミではない、あの誘拐されていた少女の死体があるのだ。 この終幕までの10分から15分足らずで、幾度とない扉が開け放たれ、そこにはフィリップが虚構の世界に止めておきたかったものが現実となって広がっていく。勿論、このラストだけではない。この映画は常に扉が開かれること(あるいは閉ざすことで)、そしてその中を、その空間を移動することで物語が展開し、極度の緊迫感を醸し出している。この扉を開ける、閉めるで映画は作られ続けてきた。この扉というたった一枚の板に蝶番がついた装置が、ここまで機能してしまう。映画って凄いな、素晴らしいな、と感じる濃密なサスペンス。[映画館(字幕)] 9点(2008-10-31 02:26:03)(良:1票) 《改行有》

56.  ヒストリー・オブ・バイオレンス 《ネタバレ》 ラストシーンのあまりの素晴らしさ。 愛情の欠片もない無慈悲な兄との関係を、暴力によって断ち切った(かの様に見える ─ というのは暴力は暴力を生むというこの映画の法則に従えば、ここで断ち切ったとは言い切れない)トム・ストールは、愛情の消えかけた(かの様に見える ─ この後の展開がそうでなかったことを明白にしている)我が家に辿り着く。キッチンのテーブルの上には3人分の食事が用意されており、妻と子供ふたりが夕食をとっている。誰も何も語ろうとはしない。そこに苦悩するトムが帰ってくる。妻エディはうつむき、息子ジャックは戸惑う。トムは項垂れつつもキッチンに入ってくる。沈黙。エディはうつむいて、ジャックは戸惑っている。ここで、娘のサラがふと席を立ち上がり、後ろを向く。そしてふいとサラがこちらを向いたとき、(恐らくエディが用意しておいたであろう)真っ白な大きな皿とフォーク、ナイフが、か弱い手にしっかりと握られているではないか。サラはそれらをそっとテーブルの上に置き、席に着く。それを見たジャックは、大皿に盛ってあったチキンか何かをその真っ白な皿によそってやるのだ。この子供たちの愛情に答えるかのように、トムは静かに席に着く。そして目線の先にいるのは、勿論うつむいたままのエディだ。ここからは純粋な切返しが始まる。やがてエディの顔は上がり、二人は見つめ合う。そしてふと何かを見つけたという顔のトムのショットでこの映画は幕を下ろす。 「君の目を見たときに好きだということがわかった」トムはチアガール姿のエディを抱いてそっと呟く。つまりラストのトムが見つけたものは「それでもまだ愛している」というエディの愛情のまなざしだったのだろう。だからこの映画のラストに台詞は必要がないわけだし、この切り返しだけで、映画になっている。 ただしかしこの結末が、安易に愛情の安堵感だけで締め括られているとは到底思えない。この映画の根底には暴力は暴力である、暴力は暴力を生む、ということがあるからだ。暴力を愛で乗り越える映画では決してないのだ。ただエディのまなざしには「許し」が存在する。それは暴力の中にあるのではなく、やはり愛の中にあるのだ。許すこと。[映画館(字幕)] 10点(2008-10-02 01:49:05)(良:3票) 《改行有》

57.  百年恋歌 《ネタバレ》 電球、ランプ、蛍光灯、手紙、メール、自転車、船、バイク、高速道路、手を繋ぐ、服を着せる、服を脱がす、音楽、そしてサイレント・・そして舒淇・・様々なものがこの映画の中ではとても感動的に作用しているが、最も感動的で、なお官能的でもあり、そして躍動と流動と静と動を兼ね揃えた、もう一度言うが、最も感動的な瞬間の連続、それがファーストショットだ。まだ灯りの点かぬ電球から、キャメラは静かに下がっていき、ビリヤードの球のささやかな揺れと回転を、李屏賓のキャメラは優しく優しくフォローし続ける。この球とキャメラのあまりにもしなやかな動きに、もはや涙を堪える必要などない。恐らくビリヤードの球が転がっていくだけの様を見て泣けるなどということは、そうそう在ることではない。だからこの瞬間の連続に涙を流せばいいのだ。何故ならそれだけ美しく、そして官能的だからだ。そしてこのショットの続きをわざわざ説明する必要もないだろう。どうしてあんなにも人物を動かしておきながら、最後にふたりが完璧な形で、完璧な位置でフレームの中に存在しているんだろうか。驚愕。 第一話、張震が舒淇を探している様をずっと描いている。この場合、本来的に重要なのは恐らく張震が舒淇を見つけたという瞬間だろう。つまり張震側にてこの再会を描くのだろうが、侯孝賢はその選択をしない。再会の瞬間を、勿論、ワンショット内にてすべてを描いているが、先ず映っているのが舒淇だ。どこだかのビリヤード場で働いている。そこに、奥のほうから張震が入ってくるのだ。これが決定的に素晴らしい。つまり侯孝賢はふたりの中に我々観客を入り込ませないのだ。あえて一歩引いた立場でこの再会シーンを描いている。重要なのは張震の舒淇を見つけたという感情なのではない、その瞬間の風景なのだ。このあえて一歩引いた立場があるからこそ、ラストの、あのあまりにも唐突に現れる手を繋いだヨリのショットが感動的に見えるのだろう。[映画館(字幕)] 9点(2008-09-28 02:19:41)《改行有》

58.  おくりびと 《ネタバレ》 愛情故に、夫のすることにあれだけ寛容で理解のある妻(勿論、台詞にもある通り裏腹な内心を抱えてはいる)の人間性が納棺師という職業にあれだけの拒絶反応を示すのかが納得出来ず、つまりそれは後に夫の仕事を認めるという結果へと導くための原因作りでしかないだろうと誰もがその場で理解できるこのシーンはとても寒々しく、彼女のその強い母性的性格との一致はまるで無視されている。この認めないという態度は、納棺師という職業に対する世間の一部も示すであろう態度の表れだが、ではその態度を覆すためにはということになるだろう。 つまりこの映画の大きな山場とは、■納棺師は遺体を扱う職業であるが故に、反対する者もいるが、その仕事内容は余りにも知られてはいないため、百聞は一見に如かず、なシーンが必要である。■誰にでも死は訪れる。勿論極々身近な人にでも。ならば知人を納棺することもあるというシーン。というふたつがあればいいのだ。それをまとめて詰め込んだのが、あの吉行和子の納棺シーンだ。こんな下手糞な展開はなかなかないだろう。 「好きなのを持ってきな」の件も頂けない。本木雅弘がせっかく父親に会いに走り始めたにもかかわらず、わざわざ一度脚を止め、山崎努のオミトオシダヨという粋を見せた態度のシーンなど完璧にオミットするべきだ。あるいは、「好きなのを持ってきな」で走り始めなければならない。映画において人が何かに向かって走り始めたなら、挫折や妨害がない限りは、辿り着くまで走り続けなければならないのだ。 更に「うちの夫は納棺師なんです」と広末涼子が言い始め、忘れていたはずの父親の顔にフォーカスが合ってしまうというあの恥ずかしい件は果たして何なのだろうか。話は舞い戻り、妻が納棺師という仕事を認めること、それがこの映画の断固としての態度だ。だから、完全に認めること、その表象がこの台詞だったのだ。はっきりと聞こえた。しかも口の動きも凄くわかりやすいクロースアップでだ。そう、夫は納棺師なのだ。いくらなんでも安易過ぎるだろうと言いたい。その安易さが父親の顔をも思い出させる結果に繋がった。そして輪廻転生へ・・この映画はあほか。[映画館(邦画)] 3点(2008-09-22 14:42:52)(良:3票) 《改行有》

59.  007/カジノ・ロワイヤル(2006) 《ネタバレ》 やはり人が本気走っているのは見ていて凄く気持がいい。だから007シリーズで走っている様を映そうとする気がある場合は本当にかっこいい。とにかくピアース・ブロスナンの走る様というのは半端がないほどにカッコイイ。それをダニエル・クレイグがどう受け継いでいるかというのが一番気になるところだった。いや、いいですね。いい走りをしている。そしていい体をしている。ショーン・コネリーもなかなかの胸板をしていたが、ダニエル・クレイグも負けてはいない。 それにしてもこの映画のアクションシーン、つまり始まって間もなくの爆弾魔の追跡や、空港や、車の派手な横転、これらはこの物語とほとんど関係がない。唐突だ。いや、関係がないわけではないが、本筋ではなく、そこから派生し、枝分かれしたところで起こっている出来事、副産物でしかない。とりあえず枝の先のほうをアクションで描いてしっかり本筋に戻るという繰返しだ。だから正直このアクションシーンを記憶に留めて置くことは難しくなるだろう。あったという事実だけで、無くても良かったという苦笑と吊り合ってしまうのだ。だがそれが良い。つまりこの映画はあくまで007になるまでのボンドの純愛映画であり、そしてそれをも冷酷な顔で撃ち抜いてしまうボンドの冷酷映画なのだから。つまりピアース・ブロスナンがやり続けたただのアクション映画ではないのだから。だからそれでいい。だからこそ本来かかるべきところでかからずに、溜めに溜めて、最後の最後に劇場内に響き渡る、007のテーマのメロディーの流麗さに心が躍るのだ。ああここからダニエル・クレイグのジェームズ・ボンド、007が始まるのだと。[映画館(字幕)] 6点(2007-09-14 15:48:36)(良:1票) 《改行有》

60.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 つまり、物語とまなざしという、映画の本質的な何かを見た気がしたのだ。 それはブライス・ダラス・ハワードという女優のまなざしだけで、映画として足り得てしまっているという事実だけではなく、この映画における人々のまなざしの向け方、更にはクリストファー・ドイルのキャメラのまなざしの向け方を見ればそれは明かだった。そのまなざしの連鎖は、外を見せずに外を見させることだ。この映画にはアパートの外部は存在していない。またどこか狭いフレーミングで撮られたショットが多い。これらは決して窮屈であるということではなく、フレームやアパートの外の何かを映さずに、つまり見せずに見せているということだ。外があるのだから、そこには何かがあるのだ。それは世界であるし、あの獣でもあるだろう。フレームで切り取るということをよく言うが、これは間違いだと言い切りたい。フレームは全体から部分を切り取るためにあるのではなく、部分から全体を見せるためにあるのだ。 またシャマランは、水の妖精にあえてそして潔くも堂々と "ストーリー" という名をつけた。物語が映画において何であるのか。果たして物語は映画で一番重要なことなのか。物語があるから映画なのか。違う。物語は "導き" であるに過ぎない。映画を見せるために物語はある。誰か人が行動することを、考えることを見せるために物語はある。物語は原因に過ぎない。結果は映画であり、それを俳優であり、職人であり、監督が産み出す。観客が観るのは結果=映画であり、物語ではないのだから。つまり、シャマラン自らが過去に描いたような観客が仰天するような結末や、予想を裏切る展開などは、映画において大して重要なことではないのだ。重要なのは、そのような結末や展開の物語を映画としてどう見せるかであり、物語に引き摺られ続ける映画は映画ではないのだ。またそれと同様にこの映画がVFXにて(またそれを駆使しすぎずに)あの獣を描くのは、VFX(の乱用)が物語の足を引っ張っているのだという明示であり、物語をVFXから守らなければならないという答えでもある。紋切型の批評家は物語にすら参加することが出来ず、終いには敵視するVFXに喰い殺されてしまう。ただシャマランがVFXを否定していないというのは、ラスト、ストーリーがVFXに包まれVFXの宙へと飛び立っていくのを見れば明らかだろう。 何だか最近のシャマランは泣けるよなぁ[映画館(字幕)] 7点(2006-10-02 00:40:29)(良:4票) 《改行有》

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