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41. バーバリアンズ セルビアの若きまなざし 《ネタバレ》 2008年のコソボ共和国独立宣言の時点で、独立された側のセルビア共和国にいた若者を主人公にした映画である。公式サイトのコメントでは、当時「欧米のリベラル派を中心とした文化人によるセルビア人に対するヘイトクライムが確かに存在」し、「セルビアが世界の孤児にされていた」と書いてあるが、この映画自体にそういう説明はないので背景事情ということである。 原題Varvari(Barbarians)に関しては、この映画では地元サッカーチームのサポーターの呼び名がこれだったようで、そうすると主人公を含むこの連中が野蛮人ということになる。一方で冒頭に出ていた文章は、近代の詩人による「野蛮人を待つ」という詩の一部とのことで、これは為政者が外敵の存在に頼って内政を疎かにすることを表現したものらしい。この映画でいえばセルビア政府がコソボ問題により国民の目を内政から逸らそうとしているという意味になるか。 この当時、政府が国民に独立反対デモへの参加を呼びかけたのが事実とすれば、単に国内の不満を逸らすだけでなく普通に対外アピールの意味もあったのではと思うが、それでも結局はサポーター連中が暴動を起こすのと同じ結果になるようだった。主人公の仲間などはデモに参加する気もなくいきなり掠奪を始めていたが、それが当時現地にいた監督の目に見えた実態だったと思っておく。 主人公のドラマとしては、自分が見た限りでは社会がどうこういうより主人公の個人レベルの問題にしか見えない。邦題では「若きまなざし」などと書いて美化しているが、個人的には特に共感できるものはなかった。荒れてますねと言うしかない。 ただ不満のはけ口を方々に求めても徹底せず、解消の手がかりもないのはやはり社会の問題と解すべきか。公式サイトによれば出演者は現地の不良少年から選んだそうだが、主人公役と友人役はこの映画に出た後で映像・演技の道に進んだとのことで、少なくとも配給側としてはそういうことに希望を見出したいようだった。 なお人種差別された黒人選手はわりといい奴だったようで、主人公よりよほど円満な家庭だったらしい。どこの国の出身か不明だが、一応平和で安定的な社会に生まれ育ったようではある。 追記:他のレビューサイトに、主人公の人物像と現実のセルビアに関する非常にいい解釈があってなるほどと思った。人々も国々もVarvariだらけだが、袋叩きにされてもとりあえず前を向いていようという意味だったか。[DVD(字幕)] 5点(2024-10-19 20:33:04)《改行有》 42. コーカサスの虜 《ネタバレ》 原作は当然読んだことがない。時代設定を第一次チェチェン紛争時に移したとのことだが、撮影場所は主にチェチェン共和国の隣のダゲスタン共和国だそうで、地形や自然環境は似たようなものと思われる。 1990年代のはずだが、捕虜のいた山岳集落はまるきり前近代の暮らしに見える。また近場の町はダゲスタンのデルベントという都市で撮影したとのことで、映画ではそこに軍隊も駐留している想定だったらしい。紛争が起きたとはいえ、それまで同じ体制下でみな普通に暮らしてきていたことから、人の行き来もコミュニケーションにも不便はなく、敵味方の間に明瞭な境界のない微妙な状態のようだった。 ドラマとしては主に、敵味方の観念を越えて人間同士がわかりあえるかの問題かと思った。少女と若い男の交流もあったが、ほか特に親子の情が重く扱われていたように見える。 少女の父親の最後の行動は、若い男の母親の「信じていいですね」への答えだったと思われる。およそ約束というものが全て守られる保証はないにしても、少なくとも双方の切実な利害をかけた約束を守る律儀さはあったようで、特にこの場合は母親と父親の立場でした約束だったために守られたのかも知れない。ただし敵側についた子を射殺する親もいたわけなので、親子の情は同じはずでも敵味方の観念が勝つ場面もあったということらしい。 なお終盤でヘリが飛んで行ったのは、これは反戦映画です!! というお手軽でわかりやすいアピールのようで感心しなかった。しかしやる気のなさそうだった司令官が母親の情にほだされて決意したのだとすれば、母親の情が敵味方の両方を動かしたという皮肉な結末だったとはいえる。 その他、夢に出てくれないというのは面白い発想だが意味不明だった。生きた人間同士であってもいつかまた会えるとは限らないわけで、とにかく本人が憶えていることの方が大事ではないか。年上の男は殺した敵を忘れていたが、若い男は敵味方で人を区別しなかったので、敵味方関係なく憶えていさえすれば、本人が必要とした時に夢に出て来るのではと個人的には思った。 また若い男が少女にくれたモビールはなかなかうまくできていた。少女が窓際に飾ったのを父親も咎めたりはしなかったので、こういうのを愛でる感覚も敵味方を越えていたらしい。[DVD(字幕)] 6点(2024-10-19 20:33:03)《改行有》 43. VIRUS ウィルス:32 《ネタバレ》 南米ウルグアイ(とアルゼンチン)のホラー映画である。ネコや子どもを残酷な目に遭わせる映画が許せない人は見ない方がいい。 序盤からネコの取扱いがひどいので、これでは一体何をやり出すかわかったものでないと思わされるが、さすがに主人公の娘(8歳)にまでは危害が及ばないだろうと思っているとそのうち安心していられなくなる。エンドロールでは「撮影中に動物を虐待しませんでした」が見当たらなかったのでそもそも気にしていないようでもある。 監督はウルグアイ人で、長編デビュー作「SHOT/ショット」(2010)が評価されて「サイレント・ハウス」(2011米仏)としてリメイクされた実績がある。今回はゾンビホラーとしてのスリリングな展開を目指した形かも知れない。 場所はウルグアイの首都モンテビデオだが、最初と最後に屋外風景が映る以外はほとんど屋内で展開する。舞台になっているのは廃業した大型の屋内総合運動施設(実在したスポーツクラブClub Neptuno、2019営業停止)で、主人公は建物の夜間警備員らしい。施設内の設備やバックヤードを使って場面の変化を出していて、また警備業務ということで監視カメラ映像も活用していた。 ジャンルとしてはゾンビホラーだろうが、実際はゾンビではなく感染した人間である(題名からしてウイルス感染)。人間その他生物への加害直後に32秒間活動停止するのが特徴だが、それほど斬新でもなく単に話を作るための制約というだけに見える。登場人物がこの特性を利用した場面は3か所あり、それぞれ違う目的で使っていた。 個人的にはそれほど面白いとも思わなかったが、一定の娯楽性のある映画ではあった。 個別の点として、まず冒頭からタイトルまでが切れ目なくつながってワンショットに見えるのが目を引く。視点が1階→屋外→2階→屋外と移動していくが、さらに空撮にまでスムーズに移行したのは意外感があった。さすがにどこかで適当に繋いでいるのだろうが、これは上記「SHOT/ショット」以来の監督の個性と思われる。 またエンディングでは「亡き父の思い出に捧ぐ」と書いてあり、こんなホラー映画で故人に喜んでもらえるのかと思ったが、監督としては映画に出る父親(2人のうち主にヒゲオヤジの方?)に実父の人間像を反映させていたのかも知れない(釣りが好きでない、学習したことに忠実など)。やるべきことは断行するができないことはできない、というのも人間性の表現のようだった。[インターネット(字幕)] 5点(2024-10-12 13:32:59)《改行有》 44. SHOT/ショット 《ネタバレ》 南米ウルグアイのホラー映画である。映画宣伝では「新たなるP.O.V.の衝撃!」と書いてあるが、劇中人物視点で撮ったという意味のPOVでは必ずしもない。それよりワンシーン・ワンショット(ワンカット)で全編連続の長回しに見えるのが最大の特徴点で、その後にリメイクされて「サイレント・ハウス」(2011米仏)の名前で公開されている。なお原題の「La casa muda」は英題の「The Silent House」と同じ意味だが(単語としてはmuda(mudo)=muteらしい)、邦題のショットというのは映画の撮り方からついた名前ということになる。 ワンショットといっても画面が黒くなる場面で適当に繋いでいた可能性もあるが、確かに終盤まで一連でつながっていたように見える。役者にとっては一幕の舞台劇のようなものかも知れないが、室内だけでなく外で走ったり車に乗ったりするのでカメラは忙しそうだった。鏡に人物を映す場面が多いことや、人物がいったん視界から外れてカメラの後を回って反対側から視界に入る、といった趣向があったのは面白くもなくもない。 話の展開はよくわからなかったが、最後に真相はわかるので途中はどうでもいいかという気もする。完全に幻覚の場面もあったようだが、実際の出来事を変形してみせていたようなところもあり、最後の真相から遡れば大体こういうことかと思わなくもなかった。ホラーとしては家で見た限りそれほど怖くもなかったが、ワンショットの撮影で時間経過とともに主人公の体験を共有しているようで、いわばリアルタイム感という意味で悪くなかったかも知れない。 なお映画冒頭では「実話に基づいたストーリー」と字幕が出ていたが、監督インタビューによると実在の事件ではあるが結果の事実がわかるだけで詳細は発表されておらず、当時の新聞記事も互いに矛盾していたりして真相不明だったため、原語のクレジットでは「実際の出来事にインスピレーションを受けた」(inspirada en hechos reales)と書いたとのことだった。要は映画で文章説明に出ていた程度のことが実話相当の部分であって、真相部分は架空のものだと思っておけばいいらしい。[DVD(字幕)] 5点(2024-10-12 13:32:54)《改行有》 45. ディストピア 灰色の世界 《ネタバレ》 南米ウルグアイの映画だが、特にウルグアイっぽさを出そうとはしていないらしい。スペイン語は当然わからないがラ・ニーニャはわかった。 内容的には「大惨事」によって人々が色覚を失ってしまい、白黒灰色しか見えなくなった世界の話である。主人公は何らかの理由で色が見えるが、そのほか赤/緑/青限定で一時的に色が見える錠剤があり、これが小道具的に使われている。 そうなった理由についてろくな説明がないのはいいとしても、全体的に何かの総集編かと思うほど情報不足で、登場人物の正体や行動の意味が全く理解できないのは非常に困る。わかったのは男2人が何かの動機で主人公を灯台のある島へ送り届けたことだけで、その他は全くわけのわからない映画だった。 特徴点として、映像的には前半が現地の人々の見るモノクロの世界、途中から主人公の見る総天然色の世界に移行するが、モノクロ部分では誰かが赤/緑/青の錠剤を使った場合にその色だけが見えていた。三原色ならもっと視界全体が赤/緑/青になり、その中で強弱の差が出るだけではと思ったが、緑の場面は樹木の多い山中だったので、赤青の場面より多く緑を見せていたのも納得だった。個人的には序盤で青だけが見える場面がクールに見えた。主人公も目が青かった。 また主人公は目が大きく初期の宮﨑あおい風に見える。鼻を触られて口でポンと音を出すのはこの辺にそういう習慣があるのかわからないが、幼い子と信頼できる大人の関係が見えて和まされる。男2人が父母代わりだったのかも知れない。 全編わけがわからないがいいところもなくはない映画だった。 [以下想像] 主人公が「感染してる」という台詞も意味不明だったが、もしかすると「大惨事」とは世界的な感染症の流行のことであって、それが社会崩壊の原因になり、またワクチンか何かで助かった人々も副反応で色覚を失ったということではないか。主人公は新生児だったのでワクチンか何かを接種されず、そのため色は見えるが感染もしてしまったと取れる。主人公が行った先は例えばもと感染者の隔離場所?で、その後に回復した人々が結果的に色覚を持ったまま暮らしていた??とかかも知れない。 それ以外の世界では、錠剤が利権化しているせいで色覚を取り戻すための試みもなされず、人類は永久に色が見えないままになるということか。そう考えると全体像が少し見えた気はするが、それでも不明な点はまだまだ残る。[インターネット(字幕)] 4点(2024-09-21 20:40:16)《改行有》 46. あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。 《ネタバレ》 薄っぺらい映画かと思ったらそうでもなくまともに作られている。 そもそも理屈抜きのタイムリープで始まるファンタジー設定であるから、場所設定や戦中描写に現実味があるかなどはそれほど気にならない。原作は中学生を主人公にしたライトノベルなので若い人々が親しめるように書かれていると思われる。 ドラマとしては年少者向けらしい素朴な純愛物語になっている。主演の福原遥という人は、子役時代の「まいんちゃん」というのはリアルタイムでは知らないが、今回見るとなかなか感じのいい人だった。 この映画最大の感動場面は、終盤の「知覧特攻平和会館」を思わせる場所に置かれている(撮影は霞ケ浦の「予科練平和記念館」)。これはストーリーのクライマックスとしてこういう趣向を考えたというよりも、逆に現代の人が知覧に行った経験(=遺影と遺書に泣かされた)をもとにして、そこから遡って物語を作ったという順序かと思った。実際に原作者(鹿児島県出身)もかつて知覧を訪れた影響が大きいと語っている。 人々が平和会館を見学した際には、死者を悼むとともに自分が生きていることに感謝するのが一般的な態度だろうが、さらにこの映画では死者の思いを知るために、時間を遡って当事者に取材して来たかのようでもある。結果として主人公は、男が願った未来としての現在をちゃんと生きるとともに、教師になるという男の夢を受け継いで、自分も未来の世代に貢献しようと決意したようだった。現在から過去を振り返るだけでなく、現在から未来につないでいこうとする映画になっている。 また戦後(前世紀)の常識だと、こういう映画は思想的背景をもって作られるのが普通だと思っていたが、この映画では政治的な色付けがはっきりしないように見える。人が死ぬのに反発するのは主義主張に関わりなく誰でも思う普通のことだが、それで最後に特攻隊は無駄死にだったと貶めて終わらせるわけでもなく、かえってその心を素直に受け取るように努めていた。主人公も最後には、他者のために自分の生命を捨てることもありえなくはない、と思うに至ったらしい。 結果としてこの映画は、左右両極の間にいる多数の人々に向けて、誰もが共通認識として受け取れるように特攻隊を語ろうとしたのかと思った。手紙にあった「人と人が傷つけ合うのではなく、一緒に笑って暮らせる未来を」作るためには、分断と対立ではなく思いを共有できることが大事なのだと思いたい。[インターネット(邦画)] 6点(2024-09-21 20:40:14)《改行有》 47. 恐怖ノ黒電波 《ネタバレ》 原題のBinaは建物とかビルの意味、英題はアンテナであってそれぞれ別の所に着目しているが、日本向けには「電波」で正解かも知れない。 ホラー映画というより社会派映画のようで、同時期の「返校 言葉が消えた日」(2019)を思わせる。世評などでは現在のトルコで進む情報統制に直接関連付ける傾向もあるが、この映画はトルコで2つの映画祭に出品されて一般公開もされているので、この映画自体は特に弾圧されてはいないようである。監督インタビューによれば、この映画での政府とメディアの関係は、現代の先進国では企業とメディアの間でも生じているとのことだったので、あまり批判対象を限定せず、なるべく広い視野で見ることが求められているらしい。 疑問点として、この映画に出るのがテレビ・ラジオ・新聞といったオールドメディアだけで、いわば古典的な情報統制のイメージなのはなぜかということがある。現実のトルコ政府が問題視しているのは主にソーシャルメディアだろうが、インターネットやモバイル通信が全く出ないのでは現代に通じる問題として受け取りにくい。しかしこれは逆に、現代の具体的な問題提起というより一般論として警鐘を鳴らす体にするために、あえてジョージ・オーウェルを思わせる時代がかった世界にしたと取るのが普通かも知れない。これも同時期の「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」(2019)に通じるものがあり、世界的に同時並行で全体主義への恐怖が語られていたことになる。 内容に関して、見た目としてはホラーっぽいところもあるが、超常現象というより実在の脅威を象徴的に映像化したダークファンタジーのようである。個々の場面がいちいち長いが、台詞はあるので話の意味は大体わかる。冗長ではないかと思いながらも、「深夜公報」への期待感もあって一応見ていられた(期待外れだったが)。黒液体にはこれからの社会に適合しない者を排除する機能が備わっていたようで、毎日外で働いて美容に気を使う単身女性や、いわゆる家父長制的な支配に抵抗する女性が排除されていたのは実際の現地事情の反映と思われる。 映像面では、寒々しい風景や特徴的な構図や突然の異界感など、どこかで見たようなものもあるが悪くない。テレビモニターなど古くさい表現に見えるところがあるのも「1984年」のような雰囲気を出すためかと思っておく。映像的には結構印象のいい映画だった。[インターネット(字幕)] 6点(2024-09-14 10:31:16)《改行有》 48. 恐怖ノ白魔人 《ネタバレ》 松竹配給の「恐怖ノ」シリーズだが、今回は邦題の「白魔人」がちゃんと実態に即している(白い)。年齢の関係からか布団に潜りたい欲求があったらしい。股間の造形には少し感心した。 原題の「Aux yeux des vivants」は若干意味不明だが、要は映画の最後の一言がこれのようだった。 当初は陰惨な場面から始まるが、その後はのどかな田園風景が心を和ませる。これからクソガキ3人組の冒険ファンタジーとか、夏休みの思い出を作る物語が始まりそうな雰囲気があり、これはもしかして3人とも生き残るのかと思ったらそうでもなかった。しかし終盤ではまた花火を上げてしみじみした家族ドラマの風情になったりして、これは一体何の映画だったのかと思わせる。 一方で白魔人の場面は残虐で悲惨なのでファミリー向けとも思えない。性質の異なる2つの流れが並行する変な構成かと思ったが、これは最後に家族愛のある一家と、家族を欲しても得られない男との対比を際立たせる意図とは思われる。どちらかというと家族を欲していた男の悲哀を描くのが映画としての本筋かも知れないが、個人的には別に共感もしなかった。 そのほか背景設定に関して、例えば「ランボー」(1982)のような帰還兵の問題や、化学兵器に関わる事件がフランスでもあったのかと思ったが、実際どうなのか確認できなかった。どちらかというと化学兵器より劣化ウラン弾のイメージに近いだろうが、そのように世界のどこかで起きたことをネタにして、何らかの社会批判を込めたようでもあったがよくわからない。 いろいろ微妙なところはあるが、娯楽性の面では面白くなくもない映画だった。 その他、廃校とか廃病院でなく廃映画撮影所を隠れ家にしていたことや、「人生は映画だ」というのは制作側の映画愛の表現か。またクソガキ2人の家で見ていた白黒映画は多分「蜂女の恐怖」(1959米)である。この手の映画を愛するスタッフがいたらしいが人にお勧めするようなものでもない。[インターネット(字幕)] 5点(2024-09-14 10:31:11)《改行有》 49. 恐怖ノ黒鉄扉 《ネタバレ》 69分しかないとわかっていても、もういいからみな死んで早く終われと思っていた。点数は2点くらいかと思っていたが、終盤になって話の意味がわかって急に評価を上げた。中間部のほとんどはどうでもいいが、最初と最後がつながって効果を出している映画だった。どうしようもない俗悪映画のようでもちゃんと最後まで見なければならないということだ。 [以下説明] 英題にはApril Foolsと書いてあるが、実際は4/1ではなく12/28の「幼子殉教者の祝日」(聖イノセンテの日)を題材にしている。スペインではこの日がエイプリルフールのように嘘や悪ふざけの許される日だそうで、人型の紙を他人の背中に貼ってはやし立てるとか、他愛ない嘘で人を騙すなどして「イノセンテ~!」と言って笑う習慣があるとのことだった。この映画では、この日の悪ふざけが度を越して死者が出た事件が全ての発端だったという設定だが、人型の紙がこの日を象徴することはスペイン系の観客でないとわからないので、あまり世界向けとはいえない映画である。 また原題のLos inocentesとは “イノセンテな人々” という意味である。スペイン語のinocenteは英語のinnocentに当たる言葉で、形容詞としては「無罪の」「無実の」「悪意のない」「無邪気な」「純真な」「お人よしの」といった意味であり、また名詞として子ども・幼児を指すこともある。12/28の祝日名には名詞としての「幼子」が出ているが、原題の方は登場人物が形容詞の意味に当てはまる人々であることを意味している。こういうことも英語やラテン系言語以外の話者にはわかりにくいと思われる。 視聴時には当然ながら日本語字幕を見ていたが、原語の台詞でこのイノセンテが多用されていることに終盤で気づいた。「引っかかった、引っかかった、ホントにバカだね」のイノセンテは12/28の他愛ない悪ふざけのレベルだが、過去の事件に関して「奴らに悪気はなかった」と言った箇所でもこの言葉を使っていて、また最後の「私、何もしてない」でも「無実」という意味で言っていた(Soy inocenteか)。さまざまな意味のイノセンテにこだわった映画のようである。 これにより全体的には、ガキのやらかす凶悪犯罪を「無邪気な」おふざけとして「無罪」にしてしまう現代社会への皮肉を込めていたと取れるので、日本的感覚でいえば少年法関連の映画ということになる。ガキと違って世間一般の常識はちゃんとわかった大人が、あえて "こんなクソガキ連中は全員死刑だ" と無邪気に放言してみせた感じの映画になっていた。 ただしラストの出来事は、悪意がなければ警察が無実の人間を射殺してもいいのか、という別方向からの指摘のようでもある。なかなか考えた映画だと思った。[DVD(字幕)] 6点(2024-09-14 10:31:08)《改行有》 50. 恐怖ノ黒洋館 《ネタバレ》 ホラーとしては、家の雰囲気や出来事に不気味さはある。しかしその辺に掲示した警句がいちいち現実化するとか、「男でも女でもない」ものが正体不明だといった個別の趣向は、物語に直接関係ないこけ脅しだったようでもある。 森のケモノに関してはストーリー上の存在意義もあったようで、終盤でドアの隙間から邪悪な目が覗いた場面はわずかながら本当に怖かった。また本編の最後に暗転したところで、黒いバックに母親の姿だけが残ったのも印象的だった。 物語としては親子の関係を扱っている。今回の件で、息子は外部とのつながりも使ってそれなりに対処できたようだが、母親の方が息子も信仰も失った後の孤独は他人事ながら切なかった。死者の魂が残っても、生者と心が通じないのではどうにもならない。 ところで全体のテーマは宗教に関することだったらしい。現地の教団は、昔の新聞では「Angel Cult」と書いてあり、集団自殺事件を起こしたとんでもないカルト教団かと思い込んでいたら、外部情報によれば死んだのは父親だけだったらしい(記事のMember'sも単数)。主人公宅が変な造形物であふれていたのもカルトだからでなく、主人公が収集したものを母親がまとめて入手したからということになる。人を集めて奇跡を起こしてみせるとか、閉鎖的なコミュニティとかはいかにも新興宗教的で怪しいが、監督の話によれば意外にも、カルトというより宗教一般(主にカトリック)を問題にしていたらしい。 宗教の意義と弊害は社会面・個人面でそれぞれあるだろうが、この映画では信仰があったために家族が解体する一方、信仰をなくしたことで母親が絶望的な孤独に陥った、という両面が出ていたように取れる。教団のいう「DESPAIR IS THE AFFLICTION OF THE GODLESS」は、母親に関しては正しかったということかも知れない。 その他のことに関して、家を売りに出した不動産屋はトロントに実在したもののようで変に現実味がある。また警備保障のサイトにつなぐと監視カメラ映像が見られるなど、古い屋敷のイメージを裏切る現代性が出ていたのは面白かった。 登場人物では、「アンナ」は真夜中の電話にもちゃんと応対する寛容で冷静な人物のようだったが、これは(元?)恋人とか友人というより医師としての職業意識からだったかも知れない。かつて宗教が果たしていた役割の一部を今は精神医療が担っていると言いたいのではないか。「アンナ」が天使だったということだ。[DVD(字幕)] 7点(2024-09-14 10:31:04)(良:1票) 《改行有》 51. 恐怖ノ黒電話 《ネタバレ》 地味な印象だった。サイコスリラーかと思うと心霊系に見えるところもあったが、どうせ結局全部が妄想だろうと思っていたらそうでもなく、過去からの電話という前提は最後まで通したようでもある。それで全部辻褄が合うのかわからないが考えても仕方ないということにする。 なお途中と最後に出た "Bobby Shaftoe's gone to sea" という歌はイギリス民謡(マザーグースの一曲)らしいが、どういうニュアンスでこれを出したのかも不明だった。海で死んでもう帰って来るなという意味か、生まれ変わったら結婚してやるということか。 ちなみに主人公の住所だった「Falansterio, Puerta de Tierra」とはアメリカ領プエルトリコの首都サン・フアンにある公営の集合住宅である。1937年に建設され、現在はアメリカの歴史遺産(国家歴史登録財)になっているそうなので古くて当然である。場所がプエルトリコということで屋外ではラテン系の風景も少し見えていたが、物語上の必然性があったかは不明だった。[DVD(字幕)] 5点(2024-09-14 10:30:59)《改行有》 52. お願いだから、唱えてよ 《ネタバレ》 幽霊が出るので形式的にはホラーだろうが怖くはない。またコメディといっても個人的にはそれほど笑えない。途中であからさまに先が読めるが、予想通りの結末になってしみじみ終わってくれるので最終的には悪くなかった。この程度のことでよければ自分にもできなくはないので安心させられる。 ちなみに登場人物が劇団員風に見えた関係から、生きるのが厳しいと思ったときは演劇でも見に行って、生き返った気分になるのがいいのではと思った。東京ならいつでもどこかの劇団が公演をやっていそうだ。[インターネット(邦画)] 5点(2024-09-07 20:01:36)《改行有》 53. 膨らみ 《ネタバレ》 画面いっぱいに模様が映るのは古風な風呂敷のイメージで悪くない。ブーという音も意味不明で悪くない。 体育座りと姿見にいたのが正体だろうが白い手は出なくてもよかった。個人的な好みとしては正体不明の「布団の怪」だった方が妖怪っぽくてよかったと思うが、制作上の意図としては一人の人間の内面的な出来事という想定かも知れない。毎日部屋に置き去りにしていた本当の自分の一部が反逆してきたなど。[インターネット(邦画)] 5点(2024-09-07 20:01:34)《改行有》 54. 私の夢 《ネタバレ》 テンポよくまとまっていてコメディのようでもある。 第一志望かと聞かれれば第一志望と言うだろうし、また特定の会社に落とされたのが致命的というよりも、何十社受けても駄目だった痛手の蓄積が限界を超えたと思うべきではないか。集団で押しかけて来るほど何人も死んだわけもなく、要は面接官の方が病んでいたということだ。こういう災難が世間の人事担当者に広がりそうで嫌な世の中だ。[インターネット(邦画)] 4点(2024-09-07 20:01:31)《改行有》 55. 友達の家 《ネタバレ》 冒頭のアサガオと民家が静止画らしいのは残念感があった。続いて出た屋内の年代感とも合っていない。 冒頭民家の印象からすると、子ども時代の怖い記憶が残っているが今となっては事実だったかわからない、といったノスタルジックな回想談のようなものを想像したが実際そうでもない。映像そのままの出来事が起きたとすれば主人公がこのまま失踪してしまったかのようで、幼い子どもに体験させるには悲惨すぎる。あからさまなバケモノなど出さずに雰囲気だけで感じさせてもらいたかった。 [付記]何が起きたかはっきりしないのが不快なので自分で適当に考える。 まず「おまじない」を友達の両親は本気にしていなかったようなので、この家のしきたりというより友達個人のマイルールと思われる。友達は前から家の中にいる心霊の存在を察知していて、その活動を制約するには「おまじない」が効果的だと経験的に知っていたかも知れない。主人公も自分で心霊の存在に気付いていたので、ちゃんと「おまじない」をやっていれば難を逃れた可能性もある。 しかし友達の両親は心霊がいるとまでは認識していなかったようでもあり、またそもそも大人なので「おまじない」をやってもやらなくても影響なかったかも知れない(例:やらないと心霊が二階まで上がって来て、家鳴りさせるとか金縛りに遭わせたりするが大人は心霊現象と思わないなど)。家族の中で友達しかしていなかった「おまじない」は、大人に見えないものを見てしまう子どもらの間でだけ通用するものだったとも思われる。 この出来事で主人公が失踪したなどというとかなり大変なことになってしまうが、結果的には大事に至らず、夢オチのように終わったのが映像では省略されていたと思っておく(例:階下で寝ていて起こされたなど)。かつて友達にも同じ体験があったのかも知れないが、それでも大したことなく今に至っているということは、逆に主人公も結果的に無事だったということだ。本来はその程度の怪奇現象だったにも関わらず、よくある月並みなホラー表現をそのまま使ったために大げさになって破綻が生じているのではないかと思った。 たった5分の短編であるのに面倒くさいことを考えさせられたのが腹立たしいので思い切り点数を下げておく。[インターネット(邦画)] 2点(2024-09-07 20:01:30)(良:1票) 《改行有》 56. 迷霊怪談集 《ネタバレ》 ベトナムのホラー映画である。原題の「Chuyện ma gần nhà」とは近所の怪談というような意味らしい。場所はほとんどホーチミン市(サイゴン)、終盤の農村部は近郊のロンアン省とのことで、現地の雰囲気が映像に出ていなくもない。 内容としては、一部屋に集まった若手男女が都市伝説3話を語る趣向である。人が集まると怪談会を始める民族性なのか(日本だけでないのか)と思わせるものがあり、それで終了後に怪異が起こるというなら百物語の風情だが、この映画では語り出す前から怪異が起きていて、最後はむしろ新たな都市伝説(現代風ゾンビ伝説)が生まれたという意味かも知れない。 物語としては、第1話は比較的わかりやすいが設定上の突っ込みどころが大きい。また第2・3話は意味不明であって、Wikipediaベトナム語版のネタバレを読んだら(Google翻訳)かろうじて大体わかった。おれはおまえだ的な展開が2回もあり、登場人物の人格が無にされたかのように見えるのは物語としてつらいものがある。 出演者としては第1話の主人公が可愛い感じで、また第3話の主人公も眉がきりっとして嫌いでない。難点はなくもないが、奇抜な映像や現地の情景など全体的な印象は悪くなかった。 以下雑記 ・時代設定に関しては、最後のTVニュースは2020年代として、都市伝説の方は劇中の事物からして1990年代(末頃?)の話かも知れない。また都市伝説の原因になった事件はさらに遡った南ベトナム時代のことだったようで、主な観客層にとっての昔と、古いサイゴンやその周辺への懐古が表現されていたのかと思った。 ・テーマ曲は、南ベトナム時代に発表された「私を独りにしないで」(Đừng bỏ em một mình)という死者の心情を歌った歌で、昔のホラー映画でも使われたりしたものらしい。エンディングのほか3話それぞれで曲名や歌やピアノのアレンジ曲が出ていた。 ・第1話の絵は、現地で本当にこういう人物画を屋台に描く習慣があるようで、今は「コ・ミア」(Cô Mía/ミアさん)という呼び名が付けられている。その由来に関する都市伝説も実際なくはないらしいが、この映画の話とは違う。 ・第2話の「賞金300万ドン」は南ベトナム時代の通貨価値によるものかも知れない。 ・第3話の「人の魂は死ぬ時、3つに分かれる」は突拍子もない発想のようだが、19世紀末の朝鮮国に関する記録でも「人間には霊魂が三つあると考えられている。死後三つの霊魂はそれぞれ位牌、墓、《黄泉の国》に行く。」とされている(イザベラ・バード「朝鮮紀行」講談社学術文庫P374)。この朝鮮国での考え方は、故人の居場所が仏壇(の位牌)・墓・冥土(→来世)の3か所だということなら日本人にも納得しやすいが、この映画でも同じ考え方かどうかは不明瞭だった。[インターネット(字幕)] 6点(2024-08-31 09:06:57)《改行有》 57. 地縛霊 5階の女 《ネタバレ》 ベトナムのホラー映画である。原題の「Thang Máy」とは普通にエレベーターの意味らしい。監督はサイゴン生まれのアメリカ人で、1975年4月の「サイゴン陥落」時に逃れてロサンゼルス周辺で育ったが、現在はホーチミン市に戻って活動しているとのことだった。 撮影場所もホーチミン市とのことだが、舞台は主にマンションと廃病院なのでご当地感はほとんどない。また登場人物は富裕層なのかと思わせる人々で一般庶民の生活感も出ていない。かろうじて現地らしいのは、主人公の従姉妹の甲高い声が東南アジア風に聞こえることくらいだった。 有名な都市伝説を題材にしたとのことで、映画冒頭では「韓国の都市伝説に基づく物語」だと説明が出る。その一方で、今回見た映像配信サービスの解説では「日本にも「異世界エレベーター」と呼ばれる同系統の都市伝説が存在している」と注釈がつけてあるが、これは日本で公開した場合、日本にもあるだろうがという突っ込みが入ると予想されたからと思われる。 日本の「異世界エレベーター」では4→2→6→2→10→5と階を移動することになっているが、この映画では二度目の2階が省略されているだけなので共通性はある。邦画では「きさらぎ駅」(2022)でこの「異世界エレベーター」のアイデアを使っているが、アメリカ映画にも「エレベーター・ゲーム」(2023)というのがあって世界的にも有名ではあるようだった。 ホラー要素としては、エレベーターや廃病院自体の不気味さのほか、特殊メイクの人物数名と若干の異世界描写があるが特に独創的なものは感じない。また特に問題だと思ったのは、邦画にもある独りよがりの面倒くさい難解ホラーだということである。主人公の心の傷や義父への憎しみがドラマの中心だったようだが、少女の関係などわからない点が多く解明する気にならない。最後は単純な夢オチではないと思われるが、それがまた全体的にわけのわからない印象を出している。 結果としては困った映画だったというしかないが、しかし主演の人がかなりいい印象だったので悪い点はつけにくい。個人的には主人公が精神不安定という点で、邦画「アイズ」(2015)と似た雰囲気も感じた。ちなみにエンディングの曲は洋風の軽快な曲で最後に和まされた。[インターネット(字幕)] 5点(2024-08-31 09:06:55)《改行有》 58. 女戦士クトゥルン モンゴル帝国の美しき末裔 《ネタバレ》 モンゴルの時代劇である。他国と並んで製作国に名を連ねるのでなく単独のモンゴル映画らしい。風景として青空・草原・湿地・丘陵・砂漠などが映る。 主人公のクトゥルンは、13世紀モンゴル帝国の有力者だった「ハイドゥ」(カイドゥ)の娘とされている。本人に関わる逸話として、力業(字幕ではモンゴル相撲)で自分に勝った者の妻になると宣言し、応募者をことごとく打ち負かした話が東方見聞録に紹介されていて、これが英題のWrestling Princessの由来になっている。 時代背景としては、2代目ハーンのオゴタイの家系に属する主人公の家と、当時の5代目ハーンのフビライの勢力が対立している状況で、大まかには史実を踏まえているがかなり簡略化して改変している。帝国自体はまだ健在なので、邦題にある「末裔」という言葉のイメージほど後代の話ではない。 なお言語は基本的にモンゴル語のようで、口の奥で出す音が耳につく印象だった。また主人公が元のフビライに対抗する立場だったこともあり、漢人や漢語への微妙な反感が見えるようだった。 戦いの映画としては、騎馬軍団の戦いというより人と人が戦うアクション映画のイメージである。なぜか忍者部隊のようなのも出て土遁の術など使っていた。 主人公の物語としては「かぐや姫」のように、言い寄る男を次々排除する場面を大きく扱うのかと思ったらそうでもない。Wrestling Princessは題名だけかと思っていると、最後に少し時間を取ってその関係のエピソードが入れてある。確かに前半で、主人公が賊に負けてしまって意外に弱いと思わせる場面があったが、それがラストにつながる伏線だったらしい。 原作小説の著者は女性の地位向上に関わっている人物のようで、この映画でも自由を得るためには強くあれ、というメッセージが感じられる。見ていてそれほど面白いとは思わなかったが、最終的になるほどそういうことだったかと納得した。 登場人物として、主人公の仲間たちは人間性が深堀りされないが、うち小太りで小汚く見える「アバタイ」が実はイケメン枠だったらしいのは意外だった。主人公は、日本でいえば浅野温子(の若い頃)のような外見で、乗馬ができる役者のようだがモンゴル人なら普通かも知れない。敵方に「かわいい顔」と言われていたが本当に可愛い人で、終盤でにっこり笑った顔が、序盤の子役の笑顔を思い出させたのは少し感動的だった。この人の強い+可愛い姫様像が映画全体の価値をかなり高めている。[インターネット(字幕)] 6点(2024-08-24 09:46:54)《改行有》 59. モンゴル 《ネタバレ》 チンギス・ハーンの少年期から青年期くらいまでを扱っている。最後に出る1196年の戦いが実際どれだけ決定的なものだったか知らないが、この映画ではとりあえず、これでこの周辺での主人公の優勢が確定した程度には見える。 現実にはそれまで多くの集団や人物が複雑にからんでいたのだろうが、この映画では思い切って主人公家族とライバル1人に集約して単純化している。出来事の経過をまともに説明する気もないようで、例えば幽閉先から救出→家族でピクニック→神頼み→いきなりライバルとの決戦、というように場面が飛んで、主人公の気持ち本位で物語が進む。 それでも映画だからまあいいかといえなくはないが、結局全体として何が言いたいのかわからない。家族として出ていた息子(ジョチ)と娘(目が大きい)は両方とも主人公の実子でなかった感じだが、妻の子でありさえすれば構わない、という純愛を表現した映画だったということか。それでもいいがそれだけで終わりか。 歴史上の人物を扱う場合、その事績の実現に至った動機や熱意の源が何だったかを若年期に求めようとするなら話はわかる。しかしこの映画では、愛する妻の願いをかなえるためにモンゴルを統一した、というくらいはいえるかも知れないが、その先にある空前の世界帝国の形成(さらにユーラシアの東西交流の拡大など)にまでつながっていく気はしない。そこまで意図するのでなければ、そもそも何でチンギス・ハーンを題材にしたのかということになる。 歴史物語として半端な一方でドラマ的にも受け取りづらく、残念ながら褒めたい点が発見できない映画だった。 以下その他雑記 ・浅野忠信は目が細いから選ばれたのかと思った。 ・主人公が幽閉されていた場所にあった「国家滅亡を企むモンゴル人」の看板は西夏文字のようだが3字で間に合うのか。「表語文字」だそうで、漢字でいうと例えば国・滅・蒙の組み合わせ(語順不明)かと勝手に想像した。 ・主人公はモンゴル語が世界言語になるかのような夢を語っていた。今となってはそうなるとも思えないが、とりあえず肉=мах(makh)は憶えることにした。 ・突然の悪天候で勝ったのは、モンゴルでも神風のようなものを期待する風習があるということらしい。 ・どうでもいいことだがエンディングの曲は「ジンギスカン」(1979西独)ではなかったので、映画が終わってからYouTubeで勝手に聞いた。[DVD(字幕)] 4点(2024-08-24 09:46:51)《改行有》 60. 新感染半島 ファイナル・ステージ 《ネタバレ》 原題を漢字で書くと「半島」だけなので簡単だ。新幹線の続編だが、前作と同じ劇中世界で時間が4年後というだけで登場人物は全く違っている。 序盤では現状説明として、半島南部がもう人の住む場所でなくなったために国家としては消滅し、単に「半島」と呼ばれていることが説明される。香港の怪しい男が言った「悲しい過去があるからな」という言葉が、「日本沈没」(小説・映画)を連想させる物悲しさを出していて、ここからどういう話になるのかと期待させられる。 しかし現地に行ってからは単なる世紀末バイオレンスの世界になり、また後半はカーアクションが延々と続いて正直辟易する。最後は天から救いが来るといった極めて都合のいい展開であり、自然体で前向きな姉妹の活躍が特徴的という以外は、娯楽映画として前作に及ばないというのが率直な感想だった。 物語面では、まず助けるか見捨てるかの問題は前回につながるように見える。これについてはマレーシア人が言ったように、皆にとってベストになるよう常識的な選択をする、という考え方は当然ありうるが、しかし軍隊のような無機的な判断ではなく努力したかが問題であって、特に家族を見捨てることなどできないはずだということかも知れない。 また微妙に自国向けのメッセージかと思ったのは、半島が地獄だ(※参考事項「ヘル朝鮮」헬조선)といって簡単に逃げ出せばいいのでなく、家族が一緒ならどこでも地獄ではないはずだ、と取れる台詞だった。とぼけた爺さんが本当に元師団長だとして母子と本当の家族なのかは不明瞭だったが、少なくとも母子の方では4人が家族として暮らしたこと自体を大事に思っていて、場所がどうかは問題にしていなかったらしい。もしかすると原題の「半島」というのも国家の枠を取り払った上で、自分らの住みかの本来価値を見直そうというような意味だったかも知れない。 他国のことなので理解に困るところはあるが、最後の「私がいた世界も悪くなかったです」という言葉に少し心を打たれたのは間違いなく、結果的にあまり悪くはいえない気分で終わった。「日本沈没」の韓国版(沈没しないが)のようなものと思っていいか。[インターネット(字幕)] 6点(2024-08-17 09:36:11)《改行有》
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