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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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581.  ジュピター とても“ふざけた映画”だった。 でも、あの“姉弟監督”に、こうも“本気”でふざけられては、最終的に親指をグッと立てるしかなかった。 大バジェットのSF映画でありながら、偏屈な芸術家が気まぐれで生み出した作品を観ているような感覚。この“ふざけた”感じは、まるでテリー・ギリアムの映画のようだと思っていたら、ウォシャウスキー姉弟監督の思惑はまさにその通りで、リスペクトを込めてなんとギリアム監督本人が出演していた。 “IMAX3D版”を観るかどうか、ぎりぎりまで迷った。何とも得体のしれない映画自体の印象と、伝わってこない前評判に尻込みしてしまい、結局通常版を観てしまった。結果、とても後悔している。 序盤は、ベッタベタでありきたりな展開に対して全く乗りきれなかった。 冒頭の大迫力の攻防シーンも、これでもかという仰々しさがクドすぎる程に展開され、無駄にハイクオリティーな映像世界に対して思わず苦笑してしまった。 ただ、その“仰々しさ”や“クドさ”が、段々と癖になってくる。 本来なら排他すべきマイナス要素も含めて、姉弟監督がこの映画で狙った“娯楽性”だということが徐々に見えてくる。 まさにお決まりの大団円を迎える頃には、嫌悪感や不快感など微塵もなく、むしろ鑑賞後にはふつふつと“愛着”が沸き上がってきていた。 キャスティングもハマっている。 チャニング・テイタムとミラ・クニスという主演カップルの組み合わせは絶妙だ。 どちらも“セクシー”さの印象が強いスター俳優だけに、観客は、この映画がどこまで「本気」の映画なのか、最後まで難しい見極めを強いられる。 これも監督の狙い通りだろうと思うし、実は演者としてとても“賢い”両俳優も、その狙いをちゃんと理解した上で、ヒーロー像、ヒロイン像を演じている。 キャストにおいては、やはりエディ・レッドメインの名前を挙げないわけにはいかない。 今年アカデミー主演男優賞を獲得したばかりのこの若い俳優の実力は本物だ。 当然、この映画の撮影時はアカデミー賞受賞のずっと前だろうが、彼ならではの悪役像はとても新鮮で、既に名優としての存在感を放ち始めている。 おそらくウォシャウスキー姉弟は、“序章”として今作を製作しているハズ。 本国ではコケてしまったようだが、それにめげずに続編を作っていってほしいと思う。 今度はちゃんと“IMAX3D版”で観るからさ。[映画館(字幕)] 7点(2015-03-28 23:54:53)(笑:1票) (良:1票) 《改行有》

582.  ダイバージェント 企画自体の“意図”を理解せぬまま観ていたので、SF映画としての何とも言えぬ程度の低さと、軽く浅はかな人物描写の“正体”を見極められぬまま、この完成度の低い映画を観終えた。 悲壮感が漂うべきディストピアを描きながら、全編通して滲み出てくる軽薄さの正体。 それは、この映画が“ティーン向け”の企画であるということだった。 ストーリーの大部分を半ば意味不明に占める“学園モノ感”、ありがちな“スポ根感”に、薄っぺらい“友情”と“裏切り”と“恋模様”。 どうしてこのディストピア映画には、こんなにも無駄な要素が散りばめられているのだろうと、終始感じ続けた違和感の正体こそが、“ティーン向け”という一言に集約される。 「ああ、成る程」と、変な具合に合点がいってしまった。 終末戦争を経て、人間を5つの精神的なカテゴリーに分別し管理する社会という発想は、説得力には欠けるけれど、この手のSF映画の設定として悪くはないと思えた。 この設定を礎にして、人間の持つ本質や社会の哲学性が導き出されることを期待した。 が、当然ながら、そんな気の利いたストーリー展開が用意されているわけもなく、ただただ浅はかで、冗長なストーリーに終始していた。 誰が見ても明らかだろうが、物語の根幹であるはずの“5つの派閥”という設定が全く生かされていない。 「無欲」出身の主人公が、「勇敢」に鞍替えして、「博学」の横暴に立ち向かうという展開なわけだが、残りの「平和」と「高潔」は何をしてるんだというくらいに描写が皆無である。 というよりも、映画のほぼ8割方は、「勇敢」に属した主人公らの“学園青春ドラマ”を延々と見せられる。 そもそも、「勇敢」の阿呆ぶりは最初からヒドくて、どうして主人公が彼らの生き方に憧れを抱くのかあまりに理解不能であった。 どうやら「ハンガー・ゲーム」のヒットを受けて、二番煎じを狙った企画のようだが、主人公の女の子は、残念ながらジェニファー・ローレンスにはなれないだろう。 そして、どうしてケイト・ウィンスレットはこんな映画に出ちゃったのか……。 最後に、あの派閥選択の儀式は時間がかかりすぎるだろうから、やり方を変えた方がいいと思う。 [CS・衛星(字幕)] 2点(2015-03-22 21:52:06)(良:1票) 《改行有》

583.  エンダーのゲーム 《ネタバレ》 SF映画とは、作品全体の90%が退屈でも、残り10%で示される顛末と物語に秘められた“真意”によって、その価値を誇示できる娯楽だと思う。 週末の深夜、この映画を観始めたが、6割近く観たところであまりの退屈感に伴う睡魔に勝てなかった。 翌日、惰性と諦めの中で、残りを観た。 これほど、終盤までの絶望的な退屈感を経て、観終わった後の満足感が高い映画も珍しい。 地球の存亡をかけた宇宙戦争の“戦いを終わらせるもの”に指名された少年の物語。 原作を読んだことはないが、おそらく“良い意味”で広く子供向けのSF小説なのだろう。 当然ながらこの物語世界に対して愛着などなかったが、実際この映画化作品を観終わってみると、成る程、これは世界的にファンがいて、シリーズ化されるに相応しいSF作品だと思えた。 映画の大半(というか殆どすべて)は、主人公ら選りすぐりの少年兵たちの“訓練描写”に終始する。 タイトルが示す通り、少年たちはまるで“ゲーム”をひたすらにやり込むように、「戦争」の訓練を続ける。 実際に映像として映し出される描写も、極めてハイクオリティーなゲーム世界を描いているようで、当然現実味がない。 映画がクライマックスに入っても、映し出されるものは、その“ゲーム”のような訓練描写で、僕のこの映画に対する退屈感はピークに達した。 しかし、そこから示された“残り10%”の真意によって、退屈感は一転し、充足感が満ちてくる。 この物語の主人公が子どもたちである意味。 ひたすらに訓練描写に終始する意味。 “ゲーム”の真意。 自分の想像の範囲外から途端に表された普遍的な“戦争”と“大人”の愚かさが、ぐさりと心に突き刺さる。 そして、無垢な才気と凶暴性を孕んだ主人公が選んだ道筋に、“戦いを終わらせるもの”という役割の本当の意味を見た気がした。 と、一転した満足感のもとで今作を振り返ってみると、映像的にもハイクオリティーだったと思うし、観客を敢えてミスリードしたのであろう演出の手際も良かったと思える。 途中、幾度も「もう観るのやめようかな」と思ってしまったが、これだから“SF映画”というジャンルは侮れない。[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-03-21 19:57:00)《改行有》

584.  映画 プリキュアオールスターズ 春のカーニバル♪ 自分の“娘”と初めて映画館へ映画を観に行った。 おそらく、世の中の映画ファンの多くがそうだと思うが、自分の子どもと、初めて映画館へ行くということは、一つのビッグイベントだと思う。 あまり表立ってそういう感情は出さなかったけれど、その“イベント”に対する高揚感は、自分の中でじわじわと、確実に、高まっていた。 映画館での“初鑑賞”として観に行く映画として、まったく不満は無かった。 曲がりなりにも映画ファンとして、「観たい映画」以上に優先されるべき映画など無いことをよく知っている。 彼女が観たい映画であることが最優先だと思うし、僕自身、こういう機会でもなければ絶対に観ない映画に対する好奇心も大きかった。 映画は、前シリーズから新シリーズへの改編期のものらしく“オールスター”と銘打った、良い意味でも悪い意味でも“お祭り映画”だった。 アニメーションの技術的にも、ストーリーテリング的にも、お世辞にも「クオリティが高い」なんてことは言い難い。はっきり言って「低い」。 でもね。 そんなことは、この映画において“ナンセンス”だということを、愛娘と並んで観て、段々と思い知った。 今作の大半は、都合よく集められた歴代プリキュアによる「歌番組」のような描写で占められる。 何も知らない“オトナ”は、たぶん九分九厘「なんじゃこりゃ」と思うことだろう。 しかし、その“ミュージックステーション”よろしく繰り広げられる歌とダンスシーンを目の当たりにして、3歳の愛娘は、初めての映画館の座席の上で歌って踊っていた。 “いつも”の一人で来る映画館の場では決して見ることのない光景に、僕は一寸戸惑った。 けれど、次の瞬間には、“この映画の観方はこれが正しい”と理解した。 この映画の全く正しい観方をする愛娘を、心底微笑ましく眺めた。 それだけでも、僕のこの“映画体験”は何ものにも代え難いものだと思える。 そして、初めて映画館に訪れた3歳児に対して、そういう衝動を起こさせたこの映画の在り方は、全く正しいのだと思えた。 エンドロールまでちゃんと観終えた後、途端に「トイレ!」と言い放った愛娘を連れて走った。 作品自体のクオリティーを超越して、高い満足感を得られた。 そういうことも含めて、映画を観るという価値だということを、改めて思った。[映画館(邦画)] 7点(2015-03-15 23:42:36)(良:1票) 《改行有》

585.  博士と彼女のセオリー 余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は己の人生から逃避するように“彼女”の元を去ろうとする。 それでも、彼女は背筋をピンと伸ばして、彼の後を付いていく。 そして、眼鏡の汚れを拭き取り、キスをする。 その瞬間、彼は、彼女によって、その先の人生を生きる意味を与えられたのだと思う。 生かした者と、生かされた者。 両者は時の流れとともに、くるくると回転するように、入れ替わり、立ち代わる。 この映画は、現代が誇る“天才物理学者”の功績を描くものではない。 スティーブンとジェーン。この男女が共に過ごした「時間」を、ありのままに切り取ったような映画だった。 それぞれの人間の強さも弱さも平等に描いたこの物語は、必ずしも綺麗事ばかりではない。 過酷な人生の中で、当然起こり得る人間の感情の機微を、決して臆すること無く誠実に描き出したこの映画は、とても勇敢で、辛辣で、だからこそ“人間”に対する慈愛に溢れていると思えた。 スティーブン・ホーキングという物理学者が専門とする「量子宇宙論」なるものを正確に理解することなんて、僕には出来やしない。 けれど、それが「宇宙」と「時間」という絶対的な概念に対する果てしない探求であることは分かる。 この映画が、二人の男女の心模様を通じて描きつけたものは、まさにその「時間」の残酷さと慈しみだった。 “2年”という時間の限界を越えて生き続けた男と、彼を生かした女。 誰よりも明晰な頭脳を持ちながら、その考えを伝えるためには、誰よりも膨大な時間が必要となってしまった男。 時に奇跡的に、時に過酷に、「時間」は彼らを生かした。 ラスト、博士と彼女は並び、「見てごらん、僕らが築き上げたものを」と視界を共にする。 その瞬間、かつて彼が提唱した理論をなぞるように“彼らの時間”が巻き戻っていく。 彼らが辿った道程とその行く末が、幸福だったのか、不幸だったのか、それは他人には分からないし分かる必要もない。 それは彼らだけが、判別すればいいことだ。 ただ僕は、二人が歩んだ「時間」そのものが放つ光に涙が止まらなかった。 たぶん、この2、3年ほどの間でいちばん泣いた。 喜びも、悲しみも、全部ひっくるめて泣いた。 それは、「宇宙」と「時間」の真理を追求する天才物理学者を描いたこの映画において、とても相応しいことだったと思う。[映画館(字幕)] 10点(2015-03-14 23:29:16)《改行有》

586.  TOKYO TRIBE 好きか嫌いかで言えば、好き。 キャラクターづくり自体は、原作に忠実なキャラも、映画独自のオリジナリティを出したキャラも、総じて良い。 ただ、ストーリーがあまりに雑すぎた。 “こういう映画”なので、雑多なのは大いに結構だが、ストーリー展開として盛り上がりに欠けたことは否めない。娯楽映画としてのストーリー的な巧さは、もっといくらでも出せたと思う。 そうすれば、もう一味も二味も”サイコー”な映画になったろう、と大変勿体無く思う。 井上三太の原作「TOKYO TRIBE 2」は、ファッション誌「boon」での連載中から単行本を買って愛読していた。 田舎のダサい高校生だった僕が、どうやってこの漫画を知り、単行本を集めるに至ったか全く思い出せない。けれど、自分の住む世界とあまりにかけ離れたこの漫画の「欲望」と「狂気」の世界観を、まるで“いけないものを見るような”感覚で密かに楽しんでいたことを思い出す。 その欲望と狂気の世界観を園子温が撮る!という報は、かつての“いけない”感覚を呼び起こし、“ワクワク”というよりも“ドキドキ”に近い期待感を生んでいた。 結果として、この映画の監督が園子温であったことは、「成功」だったと思う。 この作品とキャラクターたちが表す、熱さも、愚かさも、可笑しさも、恐ろしさも、下らなさも、その要素は総て園子温という表現者が持つ資質に合致していた。 だからこそ、前述の“勿体無い感”が際立つ。 ストーリーは、“馬鹿”がつくほど単純でいい。「ケンカを売った」「ケンカを買った」「どちらかが勝った」それでいいのだ。 ただ、せっかく揃えた濃いキャラクターを巧く使って盛り上げて欲しかった。 プロの役者も、プロのラッパーも、出演陣が総じて良かっただけに、それぞれに印象的な見せ場や、壮絶な死に様を用意してあげて欲しかったと思う。そういう部分が軽薄だったため、映画としての盛り上がりにかけてしまっていた。 “ラップミュージカル”とイントロするだけあって、“プロ”を揃えたラップによるミュージカルシーンは、どの場面も非常にエモーショナルだった。 映画を観終わり、「サウンドトラックが欲しい!」と思えたのは久々だ。それだけでも、この映画の価値は大きいと思える。[ブルーレイ(邦画)] 7点(2015-03-06 00:02:46)《改行有》

587.  るろうに剣心 伝説の最期編 原作ファンとして、当然総てにおいて「満足だ」とは、お世辞にも言えない。 けれども、一作目と続編二部作通じてこの映画化シリーズは、“漫画の映画化”作品として充分に「及第点」と言えるものだったと思う。 他の漫画以上に極めて“マンガ的”な原作のビジュアルを忠実に再現しつつも、“実写化”するにあたって、ギリギリ許容範囲のリアリティラインをキープし続けたことは、NHK出身の監督らしい流石の堅実さだったと思う。 ヘタなCGを乱用して、奇天烈な人体描写や大仰な必殺技を実写で見せられていても、おそらく引いてしまうだけだったろう。 実写での表現が難しい原作での見せ場を敢えて回避し、代わりに、香港仕込みのアクション監督を呼び、今作ならではの新しいアクションシーンを構築してみせたことは、この映画シリーズ最大のハイライトだったと思う。 “チャンバラ”と“カンフー”を織り交ぜたようなこの映画のアクションシーンは、スピード感とオリジナリティに溢れ、娯楽映画として最大の強みとなっていると言える。 そして、原作ファンだからこそ断言できるが、この映画が表したアクションシーンの方向性は、「るろうに剣心」の世界観に対して決して的外れではなく、きちんと合致している。 幕末を経た明治時代初期の日本を舞台とするこの漫画には、敵味方問わず多国籍要素が入り混じり、決して自国の文化や価値観に囚われていないことが、他の作品にはないオリジナリティだったと思う。 勿論、不満もある。 最大の不満は、“十本刀”の面々の殆どが単なる数合わせで終わってしまっていることだ。 それぞれを描くには尺的にあまりに無理があることも理解できるが、十本刀好きとしては残念だった。 まあ、神木隆之介演じる瀬田宗次郎や、滝藤賢一演じる佐渡島方治ら志々雄の側近連中のクオリティーは高かったので、これ以上を望むのは高望みかもしれないが。 藤原竜也が演じた志々雄真実のキャラクター造形は、内面的にも外面的にも素晴らしかった。 はっきり言って、この最終作は志々雄真実の映画である。 今作での“志々雄真実”というキャラクターのラスボス感は、海外のエンターテイメント映画と比較しても、決して引けをとらないものだったと思う。 志々雄真実とその側近の存在感が素晴らしかっただけに、原作であった“地獄”でのエピローグシーンは観たかったがねえ……。 [ブルーレイ(邦画)] 6点(2015-03-04 00:34:45)(良:1票) 《改行有》

588.  猿の惑星:新世紀(ライジング) 「まるっきり人間の歴史を繰り返しているみたい」 と、「ドラえもん のび太と鉄人兵団」でしずちゃんが言った台詞を思い出す。 「NO!」という一言から目覚め、人間の支配から独立し、“理想郷”を目指したはずのエイプたちが迎えた“夜明け”の意味が切なく、胸が痛くなった。 SF映画史上屈指の傑作である「猿の惑星」のリブートシリーズ第2弾。 前作「創世記(ジェネシス)」は、とても完成度の高い映画ではあったけれど、個人的には物足りなかった。“なんだか「猿の惑星」っぽくない”と感じてしまい、映画世界に没頭することが出来なかった。 オリジナルシリーズの大ファンなので、かの名作が携えていたSF映画的な驚きの要素が、「創世記」においてはあまり感じられなかったことが、不満足の大きな要因だったと思う。 ただ、リブート作の第一弾として前作の在り方は間違っていなかったとは思う。 そんな個人的な経緯を経た上でのこの第二弾「新世紀(ライジング)」であるが……、成る程、前作を踏まえ、“良い続編”として仕上がっていると思う。 やはり、冒頭に記した印象に尽きる。 愚かな人間の支配から脱却し、偉大なリーダーのもとで理想郷を築いたかに思えたエイプたちが辿る道筋が、悲しい。 決して越えてはならなかった一線を踏み越え、理想郷を去るしかなくなったシーザーとエイプたち。 進化による夜明けは、必ずしもいつも希望に溢れているわけではないという事実が容赦なく描きつけられている。 眩い朝焼けを受けて「覚悟」を固めるエイプ。一方、僅かに残された人間は暗闇の中へ消えていく。 次回作では、1968年のオリジナル第一作に繋がるストーリーが描かれるらしい。 果たして、彼らの「未来」はどこに、どうやって繋がっていくのか。[DVD(字幕)] 7点(2015-03-01 01:40:39)《改行有》

589.  るろうに剣心 京都大火編 《ネタバレ》 原作漫画は“読み切り”掲載時からのファン。 アメリカン・コミックの映画化作品が好きなので、この漫画のアメコミ臭の強いキャラクター造形とストーリー展開が堪らない。 映画化に対しては不安もあったが、前作の出来栄えには概ね満足できた。 実写化によって生じる“嘘臭さ”を最低限におさえて、原作のイメージに沿ったキャラクターのビジュアルとアクションシーンのレベルの高さが、映画としてのクオリティーを保っていたと思う。 そうして製作された続編。「志々雄真実編」とのことで当然期待は膨らんだ。 先ず、前作同様にアクションシーンのクオリティーは高い。 そのまま世界に通用する、のかどうかは微妙なところではあるが、アクション監督が香港映画仕込みだけあってスピード感が素晴らしい。(蹴り技の迫力は師事したドニー・イェンゆずりなのだろう) 一人対集団というアクションシーンの巧さも、香港映画の素地があるからこその完成度であり、「るろうに剣心」の性質に極めて合致していると思う。 無闇にヘタなCGに頼らず、日本のチャンバラと香港のアクションとの融合と工夫で魅せていることには、非常に好感が持てる。 と、日本映画としては充分に見応えのあるアクションを見せてくれていることは間違いないけれど、それがイコール映画そのものの見応えとなっているかというと、微妙だ。 今回の続編は「志々雄真実編」を前後編に分けた連作となっている。今作のすぐ後に後編である「伝説の最期編」があるわけだ。 ただ、いくら今作がその“前編”に過ぎないといっても、主人公である緋村剣心の“全力”の見せ場が無いことは問題だと思う。最も力を注いでいるシーンが、“刀狩り”の帳とのバトルシーンでは少々地味過ぎる。 当然ながら、ピークはラスボスである志々雄真実との対決になるわけで仕方ないとも思える。 ならば、せっかくビジュアルよく揃っている志々雄真実及び“十本刀”の面々のもう少し細かい描写を充実させて欲しかった。 (左之助と安慈の邂逅シーンは入れとかなきゃマズイんじゃ……) まあ総じて“前編”らしい映画である。“後編”の盛り返しに期待するしかない。[ブルーレイ(邦画)] 5点(2015-03-01 01:35:29)《改行有》

590.  テロ,ライブ 《ネタバレ》 ラジオ番組の生放送を通じて、テロリストの“要求”に対峙する一人のアナウンサーを描いたサスペンス・スリラー。 というイントロダクションの時点で充分に面白味に溢れ、韓国映画ならではの骨太なエンターテイメントを見せてくるのだろうと想定できた。 が、その“想定”は大いに覆された。 この映画のストーリーテリングは、分かりやすいエンターテイメント性を超えて、観る者を“困惑”させてしまうほどのある意味においての“リアリティ”を追求している。 それは、映画という非現実世界を超越して描き出されたこの社会の“本質”だったように思える。 結論から言ってしまえば、この社会は欲と欺瞞に満ち溢れていて、それが巨大になればなるほどまかり通っているという現実を、この映画は突きつけてくる。 世界は嘘で塗り固められていて、大衆はそれを見て見ぬふりをして受け入れてしまっている。 辛辣に描き出される社会の本質、圧倒的な後味の悪さが、新しく、潔い。 やはり、韓国映画は巧い。 冒頭、分かりやすいまでにやさぐれたラジオパーソナリティーとして登場する主人公が、突如自分の目の前で巻き起こった大事件を機に、流れるように野心みなぎるキャスターの姿へと変貌していく。 その描写は、まさに彼の人生における時流の変化が如実に表されていて、巧みに引き込んでくる。 映画世界内の時間と実際の映画の尺をほぼ同調させた“ライブ感”と、それに合わせた登場人物たちの台詞テンポも抜群だった。 そして、ありがちなシチュエーション・スリラーと思わせつつ、ラストで一気に観客を“想定”の外に連れ出してしまう展開は見事だと思う。 午前9時からのラジオ番組をいつものように気だるく進めていた主人公が、たった数時間後に、そういった現実社会に対する“虚無感”に打ちのめされ、文字通りに“凋落”していく。 そのあまりに絶望的な様に、言葉を失ってしまった。 格差社会が生み出した怨恨、権力者たちの傲慢と裏切り、愛する者の死、この映画が描き出す絶望はどれも重い。 ただ個人的には、演出としてはあまりにさりげなく表された“射殺命令をした声の主”に対し最も重い絶望感を覚えた。酷いや……。[DVD(字幕)] 9点(2015-02-28 02:01:10)(良:1票) 《改行有》

591.  アメリカン・スナイパー クリス・カイルという人物の実人生の最終的な“事実”を知らぬまま、今作を観たので、映画のラスト、敢えて感情的な表現を排除して描かれた「顛末」に対して、虚をつかれた。 そして流れる「無音」のエンドクレジットを目の当たりにして、しばし呆然としてしまった。 このあまりに印象的なエンドクレジットにクリント・イーストウッドが込めた思いとは何だったのだろうか。 戦場の内外で命を落としたすべての人たちに対する鎮魂か、それとも戦争という愚かさの中で生き続ける全人類に対しての無言の怒りか。 いずれにしても、その「無音」の中に何を感じるかということを、この映画は観客に対して問うているように思えた。 この映画は、本国アメリカにおいて政治的な両極端の立場の人たちから、それぞれの思想において賞賛され、また批判されている。 それは両極の者たちが、あまりに利己的に自分の考えをこの映画に重ね合わせ、都合よく解釈している結果だろう。 ちゃんとこの映画を観た人ならば極めて容易に理解できることであると思うが、監督がこの映画に込めたものは、戦争の正当化や戦意の高揚でもなければ、安直な戦争批判でもない。 これは、現在のこの世界に生きる一人の男の「運命」の物語だ。 一人の男が、アメリカという国に生まれ、父親に育てられ、成長し、愛国という名の正義に盲進し、妻となる女性を愛し、戦場に立ち、子を授かり、また戦場に行き、人生に苦悩する話だ。 その一人の男の虚無的な瞳の中に如実にあらわれた戦争というものの真の様。 それは、正義も悪もなく、“それ”を起こした「世界」に対する罪と罰だと感じた。 「敵国」とされる側のスナイパーにも、主人公同様に家族がいるのだ。 この映画で描かれた「事件」が発生してから僅か2年、製作期間としては実質1年余り。 そのあまりに短い期間で、これほどのクオリティーの戦争映画を撮り上げてしまうクリント・イーストウッドという映画人は、その信念の強さもさることながら、やはり「映画」そのものに愛されていると思わずにはいられない。 そして、この映画の「現実」が今なお続くこの世界の“日常”だからこそ、完成を急いだ製作陣に賞賛を送りたい。 [映画館(字幕)] 8点(2015-02-21 21:43:18)(良:2票) 《改行有》

592.  ゲノムハザード ある天才科学者の5日間 今やトップ俳優の地位を確立した西島秀俊を主演に配し、韓国人スタッフを中心にしたサスペンス・アクションということで、一定の期待はしていたのだけれど、どうやらどこまでいっても日本製の娯楽大作というものは世界標準に遠く及ばない作品しか生み出せないらしい。 韓国映画界も、さすがに右から左まで手練揃いというわけではないようだ。 どういう経緯での日韓合作なのかよく分からないけれど、西島秀俊のアジア向けプロモーション映画という範疇を出ない作品だ。これを観て喜ぶのは、ミーハーな彼のファンだけだろう。 原作小説の物語の完成度は実はもう少し高いのかもしれないけれど、少なくともこの映画化作品において、取ってつけたようなストーリーテリングの連続に対して、サスペンスとしても、ミステリとしても、ドラマとしても、終始チープさを感じ続けてしまった。 エピローグも何やら綺麗めな着地を演出しようとしていることは伝わってくるが、まあ完全に失敗していると思う。 あと、個人的に伊武雅刀の“あいいう役柄”は、もう散々見飽き過ぎていて、本人のパフォーマンス自体の精度は別にして、ただただ陳腐にしか見えない。 最終的には2時間サスペンスドラマのオチのような顛末に失笑してしまう。[CS・衛星(字幕)] 3点(2015-02-12 22:27:59)《改行有》

593.  ザ・タワー 超高層ビル大火災 《ネタバレ》 災害パニック映画好きとしては、是か非かは別にしてとりあえず“語りがい”のある映画であったことは間違いない。 映画史上において数多の災害パニック映画が存在し、その中でも特に名作の誉れ高い「タワーリング・インフェルノ」の“モロパクリ”映画であることに否定の余地はないけれど、同時にまず最初に評価しなければならないこともその部分だと思う。 パクリだろうが、類似品であろうが、れっきとした災害パニック映画として堂々と仕上げている事実に、アジア諸国の中では抜きん出た韓国映画界のエネルギーを感じる。 とういわけで、今作がちゃんとした災害パニック映画だからこそ、災害パニック映画ファンとして、大いに「苦言」を呈したい。 何と言っても気に入らなかったのは、“死亡フラグ”の処理の曖昧さだ。 描き出されるストーリーは、いい意味で捻りのない王道的なものなのだから、そのせっかくの“ベタ”さを徹底して欲しかった。 この手の災害パニック映画ではお決まりである序盤の群像の人物紹介シーンにおいて、善玉と悪玉のキャラクターたちが揃えられてくる。 観客としては、この序盤のシーンの時点で、「ああコイツは初っ端に死ぬな」とか「コイツは惨めな死に方をするな」とか、「この人は英雄死するんだろうな」とか、極めて不謹慎な予測をすることも、パニック映画を観る際の醍醐味である。 今作においても、割と分かりやすい人物描写で、きちんとその“死亡フラグ”は立てられていたと思う。 にも関わらず、最終的のその処理のされ方があまりにずさんだった。 特に悪役における“処理”が、とても気に食わなかった。 ネタバレになってしまうが、この映画では明確な悪役が幾人かいるのだが、その内の筆頭とも言える“二人(二組)”が、のうのうと生き残るという顛末は、パニック映画の王道的観点からしてみればあり得ない。 更にネタバレ覚悟で言及するならば、コメディリリーフとして一貫していい味を出していた“司祭さま”が死んで、高慢な“議員夫婦”(特に悪妻!)が逃げおおせるなんて、どんな神経で描いているのかとすら思ってしまった。 韓国俳優ならではの内面的な“濃さ”が効いて、善玉も悪玉も各キャラクターそのものには総じて味わい深いものがあっただけに、文字通りに“生かされ方”と“死なされ方”に対して大いに腑に落ちない点が残ってしまったことは至極残念。[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-02-12 22:27:06)《改行有》

594.  セッションズ “性行為”に対しての葛藤。それは人間として、いや生物として、誰しもが通る通過儀礼。 勿論それは、身体障害者にとっても同様なことなのだけれど、臆病な社会は、そういうことからついつい目を背けがちだ。 この映画は、「障害者と性」という、浅はかな固定観念を持っていては踏み込みづらく、表現しづらい「題材」に対して、真摯に向き合い、ドラマとユーモアとエロティシズムを絶妙なバランス感覚で表現してみせた“傑作”と言えると思う。 この映画が素晴らしいところは、身体障害者である主人公の境遇に対して、必要以上に“同情”を誘っていないことだ。 主人公のマークは、幼少時からポリオによって全身麻痺となってしまった障害者である。呼吸補助のため、一日の大半を“鉄の肺”と呼ばれる呼吸器の中で過ごさなければならない。 けれど、彼の生き様には決して“悲しみ”が表れていない。自分の境遇を受け入れ、自立し、常に自分の人生を自分自身で歩もうとしている。 そんな彼の人生観が、そもそも勇気に溢れていて、観客は映画の冒頭から主人公の魅力に引き込まれる。 主人公の魅力が序盤からしっかり描かれるからこそ、この難しい「題材」の映画は、ある意味とても普遍的な「童貞喪失映画」に仕上がっていて、とても眩く、とても楽しい。 主人公の身体的特徴を度外視して、特に男の観客は、彼の“童貞喪失”の顛末に対して、己の事のように一喜一憂するだろう。 殆ど顔の動きのみの演技で主人公マークを演じきり、彼の人間的な魅力と、その人生の喜びと悲しみを余すこと無く表現してみせたジョン・ホークスの演技は素晴らしかった。 そして、こういうセンシティブな映画だからこそ、敢えてこう特筆したい。 “ヘレン・ハントのおっぱいが美しい”と。 主人公の相手役となるセックス・セラピストを演じたヘレン・ハントもまた素晴らしかった。 撮影当時49歳らしいが、このアカデミー賞女優の堂々たる脱ぎっぷりと、年齢を重ねても変わらない彼女独特の愛らしさがあったからこそ、この映画は成功していると強く思う。 勇気と慈愛、人間の営みにまつわる輝きに溢れた幸福な映画だ。 BS(WOWOW)放送だったからか必要以上に“ぼかし”が大きかったことは、演者たちの心意気を妨害しているようで、とても残念だったけれど。[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-02-11 12:54:19)(良:1票) 《改行有》

595.  ドラゴンボールZ 神と神 「オラ、ワクワクしてきたぞ!」 このアニメの主人公が過去に何度も何度も発してきたセリフである。 孫悟空という主人公が終始一貫追い求めてきたものは、「最強」という称号などではない。 自分よりも“強い者”と出会い、それに打ち勝つことだ。 前作から実に17年ぶりの劇場版作品。原作者鳥山明が初めて直接ストーリーに関与した今作には、原点回帰ともいえる要素が色濃く表されていた。 アニメーション映画としてのクオリティーは別として、この漫画・アニメシリーズによる“高揚感”がDNAに刷り込まれている世代の者にとって、久方ぶりに描き出された世界観は、ただただ楽しく、嬉しいものだったと言える。 勿論、難点はいくつもある。 “破壊神ビルス”というこれまた次元を超えた難敵が登場したわりには、舞台となる場所はブルマ邸の庭先に過ぎず、描かれるストーリーの大部分は“ブルマの誕生日会”なので、あまりに派手さがない。 また、ビルスの怒りを抑えようと孤軍奮闘するベジータの“キャラ崩壊ぶり”もいささかやり過ぎなように思える。 ただ、そういった難点すらも、長年のファンにとってはもはや微笑ましく見える。 誕生日会であれなんであれ、レギュラーキャラクターたちが勢揃いした様は、その描写を見ただけで嬉しい。 “キャラ崩壊”のベジータも、彼が長らく地球に住み着いて辿り着いた人格だと思えるし、恥もプライドもかなぐり捨てて、家族と仲間たちを守ろうとする滑稽な姿は、もはや感動的ですらあった。 何よりもこの映画作品には、“3・11”の大震災を受けた偉大な漫画家の熱い意思が表れている。 それは、多少ふざけすぎていたとしても、久しぶりに一堂に会した仲間たちとの時間を“楽しいものにしたい!”という思いであり、それを見た子どもたち、そしてこの作品に熱狂し大人になったかつての子どもたちを再び笑顔にしたいという熱い思いだろう。 この映画はおそらく初めて、孫悟空が相手に勝てないまま終幕する。 それも、上には上がいて、この世界は、この宇宙はもっと“可能性”に溢れているという漫画家からのメッセージに違いない。 “可能性”、それは即ち“未来”。 孫悟空という主人公はこれから先も、いくつも可能性に出会い、打ち勝ち、新しい未来に立ち続けることだろう。 成る程、「ドラゴンボール」という作品がいつまでだっても風化せず、愛されるわけだ。[CS・衛星(邦画)] 6点(2015-02-09 00:26:16)《改行有》

596.  愛犬とごちそう もはやお決まりとなっているディズニー・ピクサー映画の新作公開時に同時上映される短編作品。 ディズニーの新作「ベイマックス」と同時上映されたのは、“くいしんぼう”の犬の目線で飼い主の人生模様を辿った佳作だった。 よく出来た短編ではあったけれど、正直なところ、小さい頃から家で犬を飼ってきた者としては、少々眉をひそめてしまったことは否めない。 飼い犬に対して人間の食べるものをあんなに暴飲暴食させて良い訳はなく、あんな飼い方をしては、あの犬にとって不幸極まりない。 食べ物自体があまりに雑に扱われている様も、いくら文化が違うと言っても品の悪さを感じた。 と、敢えて現実的な見方をしたならば、そういった難癖はいくらでもつけられる。 けれど、描き出される“愛犬”は何と言っても愛らしく、短編とはいえアニメーションのクオリティーは素晴らしい。[映画館(字幕)] 4点(2015-02-01 10:10:36)《改行有》

597.  新しき世界 《ネタバレ》 ラスト、辛辣な運命に導かれるままに、ついに望まぬ“椅子”に収まった主人公。“新しき世界”を眼下に見下ろし、彼は何を思ったのだろう。 一見、彼の表情は自らの運命に対しての苦悩に苛まれているように見える。 しかし、その先のシークエンスで、彼の中にはそういった苦悩とはまったく別の感情が巡っていたのだろうことが分かる。 ラストのラスト、この映画で主人公が唯一見せる或る“表情”。 観客も、主人公自身もはたと気づく。 彼にとっての“新しき世界”は、とうの昔に始まっていたことに。 いやあ素晴らしい。毎度のことながら、韓国映画には新鮮に感服させられる。 監督の巧さ、俳優の巧さ、撮影技術の巧さ、すべてが高水準であることは間違いなく、総じて「映画づくりが巧い!」と言わざるをえない。 特に個人的に思うのは、ラストシーンの絶対的な巧さだ。 今作においても、ラストシーンの映画的巧さによって、作品自体の質を格段に上げている。 韓国映画のつくり手たちは、本当に映画という“娯楽”をよく理解していると思う。 そして、俳優たちが演じるキャラクターの“実在感”がまた凄い。 一人ひとりの顔つきに、各人物の人生模様が如実に現れていて、細かい人物描写がシーンとして無くとも、彼らがどういう人生を歩んできたのかが見えてくる。 嘘で塗り固められた人生を歩んできた主人公は、「真実」という“偽り”をすべて捨て去り新世界の支配者となる。 その彼の表情が苦悩に満ち溢れていたとしたならば、それはやはり、新世界の景色を共に見下ろすべき存在が誰であったかということに、ようやく気付いたからだろう。 その「孤独」に心が揺さぶられる。[CS・衛星(字幕)] 9点(2015-01-25 00:56:17)(良:2票) 《改行有》

598.  ベイマックス 「面白かった?」「うん!」 シアターを出て手洗いに行った。すると、同じ回を観ていたらしいとある父親と3〜4歳と見られる彼の息子が、そんなやりとりをしていた。 「ああ、とても良い映画体験をしたんだな」と、全くの他人の彼らを微笑ましく、また羨ましく思い、多幸感に包まれた。 映画を観るということの意味、特に映画館で映画を観るということの価値は、こういった多幸感に尽きる。 そしてそれを70年以上に渡って世界中に提供し続ける“ディズニー”というブランドの、相変わらずの底力と更なる可能性に、またしてもしてやられた。 何と言っても“良い”のは、ベイマックスの造形とキャラクター性だろう。 まんま風船が膨らんだようなボディが表すものは、見紛うことなき“癒やし”と“愛着”。 このキャラクターの言動や質感の一つ一つを見ているだけで、安らぎ、思わず笑みがこぼれてくる。 メインとなるキャラクターのその存在感だけでも、このアニメーションの価値は揺るぎないものとなっていると思う。 魅力的なキャラクター性にすがっただけの底の浅い癒し系映画は数多あるが、勿論ディズニー映画がそんな範疇に収まっているわけがない。 優れたバランス感覚とエンターテイメント性を伴ったストーリーテリングによって、ほんとうに誰が観ても「楽しい!」と言うしか無い作品に仕上がっている。 映像的なクオリティーの高さはもはや特筆する必要もないほどに圧倒的。 ベイマックスという新キャラクターの質感の素晴らしさに視線は集まりがちだろうが、普通の人間の造形やアクションにおいても、アニメーション技術の進化の極みが見られる。 サンフランシスコと東京が文字通り融合したような架空都市のデザイン性も素晴らしかった。 過去作を例に出して安直な表現を敢えてするならば、「ヒックとドラゴン」+「Mr.インクレディブル」+「ドラえもん」=「ベイマックス」といったところか。 舞台となる架空都市と同様に、今作はとても幸福な“和洋折衷映画”と言えるかもしれない。 他の名作アニメ映画と同じく、繰り返し見るほどに愛おしさが増す映画となるだろう。 少なくとも、父親と初めて映画を観に来た男の子にとっては生涯忘れられない映画となるに違いない。[映画館(吹替)] 8点(2015-01-25 00:42:42)(良:1票) 《改行有》

599.  NO “成し遂げたこと”の価値が大きいほど、その当人は感情の置き場所に戸惑うものかもしれない。 主人公一人が信じた「目的」を果たし終えた後、それまでと変わらずに広告を作り続ける彼の瞳が印象的だった。 独裁政権下のチリでようやく許された反対派CM放映の権利。 自らも国外追放を経て帰国した広告マンが、反対派に与し体制の転換を目論む。 事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、長きに渡り恐怖政治で支配を極めていた独裁政権に対峙する主人公が、あくまでも広告マンとしての戦略・知略を尽くすさまがとてもユニークで興味深い。 恐怖や不幸に打ち勝つものは、それによる悲しみや苦しみを訴えることではなく、それを一蹴する多幸感と未来だということを、この映画は雄弁に物語る。 勿論、現実はそう安直なものではない。 実際に圧政に苦しんだ人々の苦悩はそう簡単に振り払えるものではなく、すぐさま“未来志向”になれるわけではないだろう。 ただし、たとえそのCMを見ていた一時だけでも、打ちひしがれた心が和らいだなら、そこから未来は開ける。 「今、この国は未来志向だ」 主人公がプレゼンの前の常套句としているように、重要なのはこれから見るものが「未来」であると意識することだ。 「NO」という主張と選択。その価値と可能性を“真実”というエンターテイメント性で彩った快作。[映画館(字幕)] 7点(2015-01-19 13:54:07)(良:1票) 《改行有》

600.  百円の恋 「最高」だ。何が?って、「安藤サクラ」に決まってる。 “どん底”が住処の女。ヤケクソで始めた一人暮らしから、悲惨な処女喪失と失恋が更に追い打ちをかける。 鬱積という鬱積に呑み込まれそうになったとき、彼女はそれを振り払うように、ひたすらに拳を振るい始める。 振るう拳の速度が上がるほどに、彼女は生気を取り戻し、美しくなっていくようだった。 見紛うことなき“サイテー”の状態からの、ささやかだけれど格好良すぎる“ワンス・アゲイン”。 こんな「女性像」を体現出来るのは、いまやこの女優をおいて他にいるわけがない!と、心底納得させられる。 2年前に「愛のむきだし」と「サイタマノラッパー2」を観て以来、安藤サクラという女優の“本物感”はひしひしと感じていたけれど、どうやらここにきてこの女優はとんでもない領域に達してきているようだ。 爆笑問題の太田光が激賞していたように、「バケモノ」という表現が相応しい。 “汚れる”ことが出来る良い女優は他にも沢山いる。 でも、醜いまでに汚れると同時に、可笑しさと、愛くるしさと、格好良さ、さらにはエロティシズムまでも孕ませることが出来る女優は唯一無二だ。 今作ではその上に、驚愕の身体能力まで見せつけてくる。その存在感は他のどの女優にも当てはまらない。まさに「バケモノ」だ。 この映画は、キャッチコピーの通りに呆れる程に痛い恋愛映画であり、遅すぎる青春映画であり、過去最高級のボクシング映画である。 ただ、それらを全部ひっくるめて、最高の“安藤サクラ映画”と表すのが最も相応しかろう。[映画館(邦画)] 9点(2015-01-17 21:38:46)(良:2票) 《改行有》

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