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601.  サドン・デス(1995) 《ネタバレ》 娯楽映画の悪漢はどこまで殺人が許されるのか、という問題は難しく、悪人を悪人たらしめるためには殺人は必要なのだが、その被害者がただ殺されるだけではなく、誇りを持って殺されるなどの手を打っておかないと、映画そのものが殺伐になってしまう。人質を殺すのにも難しい基準があるのだ。本作はそこらへんが雑。それとこの手の映画ではよくあるのだが、悪漢が主人公と向かい合うときのみすぐには撃たないで反撃されてしまうのも阿呆である。捜査官が一味というヒネリも、それならもっとやりようがあっただろうが、という脱力感を与える。追われてキーパーに変装というユーモアは悪くないが、近くのチームメイトが気づかず、遠くの悪漢にばれるってのが無理。やたら高いとこで飛び跳ねるところにのみ爽快感あり。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-31 11:58:11)

602.  フロム・ダスク・ティル・ドーン 《ネタバレ》 好意的に見れば「一本で二本楽しめる」で、前半は逃走もの。タランティーノのすぐ人を殺しちゃう弟が気味悪くおかしい。で悩める牧師の車をかっさらってメキシコへと走る、とここまでは普通の映画の範疇。牧師ってとこに伏線があったんだけど、見てて分かるわけがない。メキシコの怪しい酒場が後半の舞台で、ダンサーが蛇女に変わっちゃうところでノケぞる。きっとこれは夢だったってことで元の話に戻るんだよね、とはかなく思い続けている間も、スクリーンでは吸血鬼との戦いは続き、どうもこの時間経過からみて本気らしいぞ、と認めざるを得ず、そうかこういう「えっ!?」という瞬間がタランティーノは好きだったんだっけなあ、と遅れて気がつくのであった。ドンチャン騒ぎとしては『ブレインデッド』に劣る。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-29 11:56:30)

603.  愛のめぐりあい アノトニオーニの世界の特徴って、私にはまず「不必要に広すぎる感じ」なの。からっぽな感じ。十分に埋まりきっていない空間。これ実際はほとんどをヴェンダースが監督してるって話も聞いたけど、「アントニオーニ的不必要な広さ」をしばしば感じた。車と自転車が並行してやってきて、車が向こうへ去っていく、右手に柱廊、この奥深い感じ。あるいは第2話のアタマの浜辺の小公園の広さ、そこを吹きすぎる風、砂の流れ、港町のたたずまい。第3話でのからっぽになっている部屋、そこからの街の風景。最終話も教会のある街のたたずまいと教会のだだっ広さ。話もいつものようにコミュニケーションの問題のまわりを巡っていて、触れ合わないこととか不確かな対象への愛とか、またイタリアの監督はどうしてもカトリックの問題が登場してしまう。こうした焦点を定めるのが難しいいつも以上に茫漠とした物語でちょっとつらかったけど、街のたたずまいとその広さという映像の枠を設定することで、独自の世界にしてしまう監督ではあった。[映画館(字幕)] 5点(2009-07-27 12:00:27)(良:1票)

604.  フィオナの海 伝説・言い伝えなどを話の中に織り込みつつ、映画全体がラストへ向け、しだいに伝説・昔話の中に溶けていく、アザラシや海鳥を媒介にして。ケルト音楽も伝説っぽいし。そもそも弟の揺り籠が流されていくところからリアリティは薄いのであって(だって海で暮らす人があんな波打ち際に置いておくとは思えない)、そこらへんからもう半ばオハナシの世界にはいっている。じいさんばあさんと子どもってのも昔話の準備だし。つまりとうさんかあさんは近代化のほうへ向いてしまうのね、じいさんばあさんに子どもが昔の島へ戻っていく、伝説ともども封じられに。おそらくアイルランドという土地ならではの風土が生きているのだろう。アザラシの映像の使い方がうまく、変に擬人化させるのでなく、アザラシのまま意味を持たせるのに成功している。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-26 09:15:15)

605.  卵の番人 『八月の鯨』の男性版かと思っていたら、中村伸郎・三津田健による別役実ドラマといった雰囲気。老人兄弟の日々が綴られ、その月面のような静けさ・穏やかさに、息子コンラードが絡んでくる。この老人たちの描写は悪くなかった。叔父と甥の関係が、微妙な不和としてうずきだすのだが、その微妙さをどう見るかだ。解釈の余地を与える豊かさととるか、突き詰めていないいい加減さととるか、この違いを見極めるのは難しいところで、そうしたモロモロを味わいとして享受すればいいんだろうけど、とにかくあんまり腹に来ないのは事実。手つきだけでうまく運んでみせている演出って気がする。ラジオをいじると、いろんな「イエスタディ」バージョンが聞こえてくる、ってのがあった。ラストのオーバーザレインボウは、心に響いた。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-21 11:59:12)

606.  KIDS/キッズ すべて字体が異なるタイトル。個性の主張なのか、それぞれの孤立なのか。現代の「甘い生活」は10代なんだな。現実から浮遊して、でもそれを現実につなぐのが、実にプライベートなものである“病い”ってところに現代の特徴があるんだろう。感染を止める聖女たらんとして町をゆくが、彼女がさらなる感染へと道を開いてしまう。ひと月の物語をドキュメンタリータッチで綴っていき、もっぱら表情が雄弁だった。仲間うちで、常に観客であろうと様子を探りつつ浮かべるやや強ばりかけた笑い顔。排除されるのが怖く、付かず離れずの位置をキープする。人種問題ってのがなかったのは意図的なのか現実なのか、現代では民族よりもさらに小グループへの所属感のほうが強いのかもしれない。とにかく頭で作ったんじゃないリアリティがあった。全体が狭いほうへ狭いほうへと向かい、そして眠りに閉じていく。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-19 12:03:05)

607.  ノートルダムの鐘 これすらもハッピーエンドにしてしまうまでに、もう型が出来上がっている。ハッピーエンドにしとかないと、障害者の社会進出の面からどうのこうの言われる、って心配もあったからかな。主人公を支える小さなものたちもちゃんと登場するし。これでいいのは、フロローのキャラクター。ディズニー作品の出来不出来はだいたい敵役の出来不出来に左右され、これはよかった。ちょっと『セブン』の犯人にも通じていくような。でも彼がラストでエスメラルダに言い寄るのは勇み足だろう。赤い僧服の裁き手たちがズラリと現われ、影がサーッと立ち上がっていくあたりがヤマ。道化祭りのエピソードは本当に怖い。な、世間とはこういうもんなんだぞ、とフロローの言葉を証明する。障害者と世間の関係を残酷に示し、下手なメッセージより濃く、差別のむごさを見せつける。鐘楼のテーブルの上の小さな町、閉じ込められているカジモドのほうがパリの道筋に詳しくなってるってのも、けっこう障害者の在り方の一面をよく見せていた。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-17 12:01:56)

608.  夏物語(1996) 《ネタバレ》 この人の映画は見ていてごく自然に口もとがほころんできて、その気分が好きだな。どう見てもかわいいマルゴから声をかけられても、最初のうちのガスパールはレナのことしか頭にないから焦点を結ばない。お互いに恋人を待っている男女がえんえんと日を待ちつつ、毎日一緒に過ごす。この前半の設定が最高で、つまり口もとがほころぶいい感じ。ソレーヌが絡んできてややこしくなり、さらに不意にレナが訪れ、後半はこのややこしさのコメディになっていく。これはこれで楽しい。優柔不断のゆえによりややこしい状況を選んでしまう男。でもこれは結局ガスパールがマルゴを発見する話と見ていいんだろうな。代役がいつのまにか主役になっていた、って。恋の報告をする相手のほうが大事になっていく、恋のおかしさ。[映画館(字幕)] 7点(2009-07-15 11:59:29)

609.  猫が行方不明 《ネタバレ》 猫を飼う娘。「猫・グリグリ」の方向には、地上げで消えてゆく下町がある。老夫婦たちのネットワーク、あるいはアラブ系住人たち、芸術家たち。一方「娘・クロエ」の方向には、ここに進出してくるブティック、ファッション業界、ドラムの響き、などなどがある、そして「孤独」のモチーフも。バカンスのワンカット、海があってすぐ帰りのカットになる妙。アラブ系ジャメル君がなかなかいい味で、純情青年の奉仕ぶりが気持ちいい。同居のホモの新しい恋人との気詰まりな朝食のシーン、バリバリというかじる音とグビリという飲む音のおかしさ。猫はけっきょく部屋に、「下町」の側に踏みとどまって。サササッとスケッチしたような味わいの、ひなびたワルツが似合うコメディ。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-12 12:24:18)

610.  東京兄妹 《ネタバレ》 鬼子母神の古い家を受け継いでしまった兄妹は、家に見合うようにしっかりしなければならないと、戸主らしい夫婦のようなたたずまいを見せざるを得ず、古風なスタイルに傾斜していく。ここらへん、いじらしいのだ。兄妹でじゃれあいをしない。自転車で兄を追い越すときも「おにいちゃん」などとじゃれない。だから終わりのほう、都電の中で兄妹が兄妹らしく脚の上げっこをするシーンが光る。墓参りの帰りで、家を守る“夫婦”の役割りを離れ、子ども時代の兄妹に戻れたのだろう。兄が座椅子を買ってくるが、妹はどうも使いたがらない、というエピソードもあった。コタツに前屈みになりたいんだな。二人のこの“夫婦”の関係が危うくなると時計が止まる。ゼンマイを巻く妹を、見上げる兄の目には女が映っているような。妹がいなくなって初めて、テレビを見るシーンが出た。天気予報という外部が映っている。帰ってきた妹に「風呂にはいれよ」と言う。で、いいのはラストだ。楽園に戻ったところで終わってはいけない。自分から退去していくとこで終わるのがいい。チリと鳴りかける鈴、ふと家事の手を止める妹、静かに門を閉め直し、振り向く兄でストップモーション、にくいね。[映画館(邦画)] 7点(2009-07-11 12:00:23)(良:1票)

611.  ツイスター このころ流行った災害もの。映画が物語りに寄りすぎてしまった歴史を反省し、スタート時の見世物の力を取戻そうと、原点に帰ろうとする姿勢はいいのだけれど、でも見世物だけで一本の映画の時間を埋めるってのは非常に難かしかろう。こっちも列車の到着で驚く百年前のナイーブな観客ではなくなっている。やっぱり一本の作品としての時間のうねりがなくてはならず、見せ場をつなげばいいってもんじゃない。それに竜巻ってのは、ただ大きさの大小があるだけで違いを作れないしなあ。けっきょく見せ場をつなぐためにはデキアイの人間ドラマをはめるしかなく、全体がいくつかのボソボソとした塊になってしまった。SFX作る楽しみにのめり込んで、気配で楽しませる努力がおろそかになった。逃げ込んだ納屋に刃物がずらりある、みたいな場をもっと欲しい。渦の真ん中から青空がほの見える、ああいうのアメリカ人好きなのね、音楽もコーラスになって宗教がかる。好きというより、まとめやすいんだろうな、「そうか、神のようなものか」でたいていは納得できてしまう。アメリカ映画では中年女性が活躍するのが多いのは偉いと思うんだけど、あれは何か深い意図があるのかな。[映画館(字幕)] 6点(2009-07-07 11:59:52)

612.  髪結いの亭主 《ネタバレ》 主人公アントワーヌに、竹取りの翁を思った。不意に訪れたかぐや姫が成長していくのを喜びながら、別れの予感の不安とともに見守っている。今現在の幸福を忘れさせるほどの、時間の経過に対する不安。翁はついにその時間との戦いに敗れ、姫の昇天を目にしなければならなくなったが、このフランスの竹取りの翁も同じだった。彼は自分の理髪店から時間の流れを感じさせるものを排除していく。目の前で成長していく子どもは作らない、思い出になる旅行には出かけない、今日が昨日とまったく同じ日であるように心がけ、また明日が今日と同じ日であるように理髪店に立て籠もり、同じ音形を繰り返すアラブ音楽を聴きながら時間を溜め続けていった。しかし常連客は少しずつ老けていく。目を背けていても、時間は室内に溜まり続け、そしてついにマチルドが夕立の気配のなかで「人生って嫌ね」と呟き、自分たちの敗北を認めた瞬間、溜まりに溜まっていた時間が濁流となって溢れ、彼女を押し流していってしまう。この映画の中のアントワーヌは少年か初老かだ。夫婦の愛の日々を描く映画でありながら、少年の憧れと老年の思い出だけがあって、そのなかの壮年の人生が抜けている。つまり、「まだそこには存在しない」と「もうそこには存在しない」ものとしてのみ、夫婦の愛の日々は捉えられるのだ。幸福であるとは、なんと不安なことだろう。この映画で最も凶々しいシーンは、オーデコロンを飲んで酔い潰れ“死んだ”ようになって迎えた朝、少年時代のアントワーヌがこの店を覗き込んでいるところ。憧れの女性理髪師の死を夕立の予感の中で発見したときのポーズで。これは妻である女性理髪師マチルドにも昇天の日が近づいていることの予言なのだろうか。アントワーヌは自分の戦いが負けることを最初から、少年の時から分かっていたのだろう。それを承知しながら、彼は幸福を究めようとした。人生とはこういうものなのだ。ほんの80分ほどの映画なのに、しみじみと人生の詠嘆を描ききって感服させられた。[映画館(字幕)] 9点(2009-07-02 12:22:12)(良:2票)

613.  午後の遺言状 俳優にそれぞれ彼らの実人生を投影しているのがミソで、俳優だったり、能役者だったり、不倫の恋だったりをダブらせてる。脱獄囚とのやりとりのあたりからベテランシナリオ作家の弾みが感じられ、あのファルスのタッチをラストまで維持できなかったかなあ。新藤兼人は、日本映画黄金期に、多くの重要な監督たちにせっせとシナリオを提供していたことはもっと評価されていいと思っているのだけど、そういう他人に提供したシナリオのほうが自分の監督作のよりも肩に力がはいらず、映画作法としての純度の高さを感じることが多かった。この作品で、初めて自分の映画のシナリオで、そういった“軽み”を描けたのではないかな。表彰式のシーン、あるいは杉村・乙羽のやりとりの場など。背景を若々しい新緑が埋め、そこで老人が老人を使って描く老年の世界という貴重な映画が展開している。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-27 11:55:02)

614.  JFK 「…ということを決して声高にではなく描いた秀作」ってのは多いが、声高に言わねばならないと思っていることを声高に叫んだ映画、ってのもあってほしい。これがそうだった。作者に言いたいことが過剰なまでに溢れているってことは、こんなにも気持ちのいいことだったのか。3時間、がなり立て続けるストーンは魅力的だ。証言が現われるごとに何度も繰り返される暗殺シーン、一本の作品としての流れなり盛り上がりなりを計算していく気持ちはまるでなく、手に入った絵の具からどんどんキャンバスに塗り重ねていく。その積み重ね自体を映画の魅力にしてしまっている。「あれはおかしい、これもおかしい」と、スクリーンに証拠を陳列していき、説得というより「これだけ疑問点があっても委員会の言うことを信じられるのか」と大声で脅されている気分。そのパッパと陳列していく手際でこちらも釣り込まれてしまう。この監督、役者の演技というものにも全く興味を見せてなく、ただセリフをしゃべるマシンか何かと思っているのだろう。ドナルド・サザーランドのような癖のある名優も、ただしゃべりまくらされる。監督が興味を見せるのは、証言の散文的な内容だけだ。一個の事件の周囲に、人がしゃべることによっていろいろなものが付着したり剥がれたりしていくその変容に面白味を感じているのであって、役者が本当は一番見せたい表情や仕種やらの微妙さは無視されてしまう。そういう微妙な味わいこそ映画の楽しみである、という“上品”な映画鑑賞法も一緒に無視されてしまう。「私はこれこれこういうことが面白い、こういうことにのみ興味を感じている」という自分の守備範囲をはっきりさせ、その中で好き勝手をやり、そのこと以外には媚を微塵も示さない。ストーンの映画に感じるのはその小気味よさである。自分のやってることに確信を持っているものの明朗さがある。[映画館(字幕)] 8点(2009-06-19 12:07:19)(良:2票)

615.  ニクソン この人の映画は締まりがいいほうではなく、ブワブワと始まるが、語っていくうちに熱を帯び、ゴチャゴチャしながらもある感動の時を迎える、ってのが多いけど、これもそうだった。『JFK』の時のように、言いたいことがあってそれに集中していくのではなく、なんとかニクソンという魅力的な人物を掴まえたいが掴まえ切れない、という悪戦苦闘ぶりが面白い。まず、ケネディコンプレックスがある。ほとんど『アマデウス』のサリエリのようで、ラスト、ケネディの肖像を見つつ「国民はケネディには理想のみを見、私には現実のみを見る」って言わせるのが一つの結論。理想の最たるものはリンカーンだったが、映画は南北戦争の死者とベトナム戦争の死者とを重ねて、彼にも皮肉な目を向けていた。そしてベトナム戦争は、ハト派のケネディによって始められタカ派のニクソンによって終わったという事実もあるわけだ。あるいは、成り上がって失墜していく『バリー・リンドン』的な悲劇として捉える見方。制御できぬ野獣のごときものとしての権力の不思議さを、遠くから眺めた映画でもある。時間をあちこちするシナリオだったけど、これなんか時代通りに順にやったほうが良かったのではないかな。[映画館(字幕)] 7点(2009-06-16 12:02:01)

616.  ティン・カップ スポーツでは、走るもの(球技を含む)と格闘するものがやはり映画に向いており、歩行して棒振るだけのゴルフは難しい。スポーツとは言えないが、走りも格闘もしないビリヤードがけっこう映画向きなのは、キューを構えるポーズが美しいのと、狭い室内ってのがいいんじゃないか。ゴルフは広くて、そういう緊迫感狙いは無理。でこれ、アルマジロ歩く田舎の濃いめの人情世界と、都会的な紳士のスポーツってのをぶつけたあたりがミソか。克己心の話。己れの才能をフルに発揮しようとしないヤツをアメリカ映画は嫌って、チャレンジする話が好きなの。スピード感のないスポーツを見せる工夫として、木の後ろからトイレにぶつけてグリーンに乗せる、とか、刻んでいくヤツと豪快に池越えするヤツとを対比したりとか、苦労してます。[映画館(字幕)] 6点(2009-06-14 11:56:47)

617.  ファイナル・プロジェクト 《ネタバレ》 クールで泰然自若としたアクションスターの系譜もあるが、ジャッキー・チェンは、オロオロしながらコトを為していくキートンやロイドの喜劇の系譜の人で、水中カンフーなどどうしたってキレがなくなるのを、逆手にとってギャグにしてしまうのが偉い。サメはじっとしていると襲わない、というネタで、闘っていた二人がサメが近寄ってくるとそのままジッと停止するおかしさ。あるいは血の匂いを出さないために、傷を受けた指を口にくわえる、その合い間には酸素ボンベの口を取り合ったりと無駄がない。ほかにも、タケウマをしたままのケリを何度かやって、はずした後も長いつもりでケリを空振りする、とか。このころは年齢的にアクションは厳しくなってきているのに、それをカバーしようという工夫が随所に見られて、けっこう感動的だった。白装束白マントの悪漢どもがスキーで追いかけてくるあたり、ああ悪漢とはやはりこうでなくちゃならない、と懐かしい興奮が胸に満ちたものだった。[映画館(字幕)] 7点(2009-06-10 12:07:38)(良:2票)

618.  バードケージ オカマコメディってのには、微妙にいらつかされる。これってテレビなんかのオカマタレントにも通じるもので、差別だ偏見だって言われるとそれまでなんだけど、何と言うか、自意識過剰ぶり、チヤホヤされたがり、が引っかかる。男社会が「女性的なもの」として抑圧してきたモロモロを臆面もなく噴き出しているんだから、男社会への批評としては意味があるはずなのだが、他者の視線を意識しすぎた存在となる自分を許してしまっているところが、人の在り方として正しくない気がして仕方がない(同性愛そのものじゃなくて、それの誇示のことだよ)。でもこのいらつきを延長していくと、社会的少数者は自己主張するな、っていう“良識の壁”につながっているのかもしれず、そこはこちらの反省点。それはともかくこの映画、元は舞台劇かなんかなのか、そんな雰囲気。普通にしてくれ、と懇願する息子の向こうで、普通でない男が普通でない格好でモップを動かしてる、なんてあたりはやっぱり笑えた。ジーン・ハックマンの女装より、ダイアン・ウィーストの変身のほうが笑えた。[映画館(字幕)] 6点(2009-06-05 12:02:12)

619.  D.N.A. 動物保護運動に押されてアメリカを出たモローが、日本がリゾート化に失敗した島にやってきて…、と百年前の原作を現代風にアレンジしている。でも基本にあるのが、人=理性、獣=本能という、百年前の単純な二分化で、現在この話を描くのなら、やはり主人公を獣人側に据えて語るぐらいの視点変更が必要だろう。百年前だと、獣人たちの“父”への復讐、ってのに共産主義の脅威を重ねて見る気分があっただろうが、今だともっと根源的な、創造主への殺意という「フランケンシュタイン」以来の怪奇ものの伝統にのっとった深みに迫れたはずである。まあこの頃はもう、マーロン・ブランドがB級映画界のシンボルと化していた時代で、その期待されるB級精神に誠実に沿って作られた作品ではある。ショパンのポロネーズを弾くシーンなぞに味わいはあったが、タイトルの、リズム打楽器に乗って単細胞やら多細胞やら目やらがアップしていくとこが、一番興奮できた。[映画館(字幕)] 5点(2009-05-28 12:00:23)

620.  リチャードを探して lookingにkingが隠されてる、という原題の趣向。脚注映画というか。「リチャード三世」をダシにおしゃべりをする楽しさ。いささか啓蒙的な姿勢がなくもない。アメリカのヨーロッパコンプレックスってのは、自分たちでも自覚しているようで、それでもやはり憧れてしまうってとこが可憐である。ちょっと思ったんだけど、英語圏の俳優は、原作そのままでしかしゃべれないので可哀想だ。リズムの決まりがあるんでしょ、それに縛られてしまう。そこいくと日本はじめ外国語圏は、演出によって幾多の翻訳の中から選べるって利点があるわけ。でも、アン王女を誘惑していくあたりの言葉のうねりは、きっと英語ならではの味わいなのだろう。「リチャード三世」を日本に移し替えるとしたら、戦国武将よりやくざの世界がいいかもしれない、などと思った。[映画館(字幕)] 6点(2009-05-27 11:58:09)

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