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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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641.  凶悪 恐ろしい映画だったと思う。 自分はこの映画に登場する“彼ら”ではなく、“彼ら”に関わった人間でもないという無意識の立ち位置による屈折した「愉悦」を知らぬ間に敷き詰め、この映画に「娯楽」を感じている自分の意識に気付いたとき、この映画の「凶悪」というタイトルの真意を垣間見た気がし、ゾッとした。 描かれる事件と犯罪が「真実」であることを念頭において観ているわけだから、映し出される凄惨な描写に対して「痛み」や「悲しみ」を感じなければならないという“建前”を意識しているにも関わらず、ピエール瀧(=須藤)の爆発的な残虐性に何故か高揚し、リリー・フランキー(=先生)のおぞましいまでの狂気に引き込まれてしまう。 実在の被害者に対して後ろめたい気持ちを多分に感じつつも、描きつけられる「凶悪」が次に何を見せるのか、どこか期待をしてしまい、その都度「不謹慎」という言葉をぬぐい去ることに苦労した。 「あなた こんな狂った事件追っかけて 楽しかったんでしょう?」 終盤、主人公の妻のこの台詞により自分の中で見え隠れしていた感情が突如丸裸にされる。 見て見ぬ振りをしていた自分自身の深層心理がふいに明るみに放り出されたような気がして、主人公と同様に「やめろ!」と叫びたくなった。 「映画」である以上、いくらノンフィクションが原作だとはいえ、脚色されている部分は大いにあるだろう。 ピエール瀧が度々発する「ぶっこんじゃお」というあまりに印象的な台詞や、リリー・フランキーの脱帽するしかない「怪演」など、映画的な面白さが加味されている要素は多く、それはまさにこの作品が映画として優れている点でもあると思う。 俳優たちの表現はことごとく素晴らしい。一つ一つのシーンも綿密な計算と明確な意思をもって構築されており、見事だったと思う。 ただ敢えて苦言を呈するならば、もう少し「編集」の巧さがあれば、同様の深いテーマを孕んだまま、もっと“面白い”映画に仕上がっていたようにも思う。 もし同じ題材で、というかこの監督と俳優が撮った同じ映像素材を、世界的な映画巧者が編集したならば、例えばアカデミー賞をも席巻するような名実ともに質の高い映画になりそうな気さえする。 ま、そんなのは一映画ファンの身勝手な妄想であり、実際どうでもいいことだ。 こういう本当の意味で骨太な映画が、もっと沢山国内で製作されることを願いたい。[映画館(邦画)] 8点(2013-10-26 17:12:34)《改行有》

642.  Wの悲劇 流行の中で生まれては消える“アイドル”という“生き方”の数だけ、アイドル映画というものは存在する。 “演じる”ということにおいては素人に毛が生えた程度の人間が主演を張るわけだから、当然駄作も多い。 しかし、すべてのアイドル映画は、アイドルである彼女たち彼らたちの生き様そのものであり、その存在のみで充分過ぎる価値がある。 そして、中には今作のような紛れもない傑作も確実にあって、その価値は、アイドルファン、映画ファンはもちろん、その時代と大衆にとって計り知れないものになると思う。 或るトップ劇団で「女優」として生きる女たちの間で巻き起こるスキャンダルを、現実と舞台劇の境界を巧みに交えて描く今作。 名だたるキャスト陣がそれぞれにおいて印象的な存在感を見せる。 が、この作品が紛れもない“アイドル映画”である以上、その映画世界を支配するのは唯一人。 「薬師丸ひろ子」という存在に他ならない。 今作で演じた主人公と同様に、この年に二十歳になった稀代のアイドルにとって、この映画は、最後のアイドル映画と言え、アイドルそのものからの「卒業」を意味していると思う。 そのことを如実に表すかのように、この映画は、アイドル薬師丸ひろ子の「処女喪失」から始まる。 そこから初体験の夜を経て、朝もやの帰路につく冒頭のシーンがとても印象的だ。 何気ないオープニングシーンとして描かれてはいるが、そこには幾ばくかの満足感を大いに超える喪失感に溢れていて、薬師丸ひろ子が「アイドル」というレッテルを捨て去り、「女優」として生きていく「覚悟」が満ちている。 それは、主人公自身が女優を目指す道程の「覚悟」と完全にリンクし、明らかなフィクションの世界が、“薬師丸ひろ子”という存在を通じてリアルに結びついてくる。 更には、映画世界内で描かれる現実と舞台劇もがオーバーラップし、二層、三層の世界が陽炎のように重なり合って行く。 僕自身は、薬師丸ひろ子という稀代のアイドルにリアルタイムで熱狂した世代ではなけれど、時代を席巻したアイドルのフィナーレを飾るに相応しい、巧みで情熱に溢れた映画であることは間違いない。 もちろん、「角川」のアイドル映画らしく、時代と剛胆さに伴う“ほころび”は多い。 しかし、その“ほころび”こそが、アイドル映画に絶対不可欠な要素であり、完璧ではないからこそ、完璧な映画だと言えると思う。[インターネット(字幕)] 8点(2013-10-11 17:43:36)《改行有》

643.  ワールド・ウォー Z どこかの悪大佐じゃないが、「人がゴミのようだーーー!」と思わず叫びたくなる“見せ場”は、トレーラーで何度も観ていてもやっぱり衝撃的で、個人的にはその過剰なまでの仰々しさが非常に好ましかった。 「ゾンビ映画」ということを大々的に触れ込むと、客層が限定されると思ったらしく、いやに“家族愛”を強調した国内プロモーションには辟易したが、言うまでもなく、この映画は紛れもない“怒濤”の「ゾンビ映画」である。 ただし、基本設定として描かれるストーリーテリングは、あくまで感染症のパンデミックであり、必然的に全世界的にゾンビが大発生している状態であるので、前述の通り良い意味で仰々しい映画世界は、恐怖性というよりもエンターテイメント性に富んでいて、僕のようなホラーが苦手な者でも程よい恐怖感と共に終始楽しめる「ゾンビ映画」に仕上がっていると思う。 “人体”そのものが虫の大群のように襲いかかる衝撃のビジュアルもさることながら、印象的だったのは、主演のブラッド・ピットの“目尻の皺”だ。 「ああ、もうこんな深い皺があるんだ」と稀代のハリウッドスターの老いを感じる一方で、これまでのブラッド・ピットの主演作のどれよりも、彼の「生身」の姿が投影されている映画のように思えた。 国連の紛争地域担当エージェントという他の映画ではあまり聞き慣れない役柄が、私生活のパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーの国連親善大使としての活動から着想を得ているだろうことは言うまでもなく、途中両親を亡くした少年を家族の一人として受け入れる様なども、難民の子供たちを養子としている私生活の投影そのものだろう。 そういう意味で、プロデューサーでもあるブラッド・ピットが、俳優業を礎にして積み上げてきた己の人格そのものを反映したとてもパーソナルな映画であるとも言えると思う。 それがただの自己満足に終始するでなく、きちんとした娯楽性を備えた作品に昇華されていることが、ハリウッドのトップをひた走る映画人として“エラい”ところだと思う。 どうやら例によって続編の企画もあるらしい。 今作では、都合の良い解決策で安直なハッピーエンドを描いているわけではないので、ここからどう展開していくのか非常に興味深い。 まあいずれにしてもはっきり言えることは、「全力疾走」が出来るゾンビほどコワいものはないとうことだろう。 [映画館(字幕)] 8点(2013-08-11 00:07:37)《改行有》

644.  ヴァンパイア(2011) 《ネタバレ》 「これはあなたの夢?」 “ヴァンパイア”の、おそらくは最初の“献身者”となった女の最期の一言。 この映画の主人公である“ヴァンパイア”の「彼」にとって、“血液を啜る”という行為の意味は、果たして何だったのだろうか。 心の隙間を埋めるための一種の趣向だったのか、行き場を失った孤独を癒す“温もり”を感じるための唯一の手段だったのか。 結果として、繊細で優しい殺人鬼と化した主人公の得た結末は、幸福だったのか、不幸だったのか。 ラスト、己の業が明るみに曝された主人公は、思わず逃避に駆られる。 どこまでも逃げようとするけれど、その足は次第に宙空に浮き、無情にから回る。 それはおそらく、彼の深淵なる“夢”の終わりの時だったのだと思う。 孤独の淵に立たされた主人公が、妄信的に辿り着いた“ヴァンパイア”という生き方。 物語の吸血鬼のように、己の存在が「永遠」でないことは、他の誰よりも本人がよく知っていたことだろう。 「血は命そのものだ」と、“ヴァンパイア”は語る。 「血」を追い求めた彼の姿は、「生」を渇望する弱々しくも必死な、人間という生物そのものの本質的な在り方に見えた。 「花とアリス」以来8年ぶりとなる岩井俊二監督の長編映画。勿論、映画館で鑑賞したかったけれど、地方都市住まいの悲しさにより叶わず……。 とうにレンタル開始はされていたけれど、万全のタイミングを探るべく、日々が過ぎ去った。結局、劇場公開から10ヶ月近く経過した今ようやく鑑賞。 淡々と、空気を呑み込むような、あまりに美しい映像世界。 独創的な世界観は、人によっては独善的で独りよがりに映るのかもしれない。 でも、僕にとってそれは、十代後半で初めて触れ、心の底から愛した映画世界そのものだった。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-06-30 02:04:14)《改行有》

645.  夢売るふたり どこにでもいる普通の夫婦。そんな彼らの両の瞳の黒が、展開と共にじわじわと深まっていく。 映画は、序盤コメディタッチで描かれるが、ふいに垣間見えるその瞳の深い黒色が、安易な笑いを拒絶するようだった。 誰が見てもおしどり夫婦だった二人が、突然訪れた一つの“不幸”により、そのままの関係性を維持出来なくなってしまう。 それは決して劇的なことではなくて、世の中のどの夫婦にも内包されている普遍的な危険性の表れのように思えた。 自分自身、結婚をして3年半になるが、つくづく「夫婦」という関係性が一つの形に定まり続けるということはないと感じる。 結婚は決して“ゴールイン”などではなく、あらゆる試練の“スタート”だ。 その試練が幸福なものになるか、不幸なものになるか。そこには、本人たちの多大な努力と、それに匹敵するくらい大きな「運」が必要なのだと思う。 映画の中でこの夫婦が営む料理屋は、結果的にどの店も客入りが良い。 それは、この夫婦が本当に相性が良くて、その関係性に相応しい男女だったということの表れに他ならない。 でも、ほんの少しの行き違いによって、彼らは互いの相性の良さを信じ切れなかった。 それは本当に些細なタイミングのずれに過ぎなかった筈なのに、その小さなずれが大きな悲劇を生んでしまった。 ただし、だ。先に述べたように夫婦という関係性が続く以上は、その形に終わりは無い。 映画のラストで示される二人の表情には、悲劇のその先で、それでも離れ切れない夫婦の悲哀が滲み出ていて、そこには一抹の救いがあったように思う。 ストーリー展開においては強引な部分があることは否めない。しかし、それを補って余りある役者の演技力が随所に光っている。 主演の松たか子と阿部サダヲは、「普通」の夫婦の中にこそある「危うさ」を見事過ぎる程に体現していたと思う。特に、松たか子の体と心を張った演技は、彼女が女優としてまた一つ高みに上がったことを確信させた。 また豪華なキャスト陣の中にあって、風俗嬢を演じた安藤玉恵、女子ウエイトリフティング選手を演じた江原由夏、この決して有名ではない二人の女優の“実在感”が素晴らしかった。 そして、役者の印象的な演技を引き出した上で、西川美和監督は細やかな演出で纏め上げている。 長編映画4作目にして、日本映画界におけるこの女性監督の存在感は不動のものとなったと言える。[ブルーレイ(邦画)] 8点(2013-06-26 00:15:51)《改行有》

646.  フラクチャー アンソニー・ホプキンス×ライアン・ゴズリングという新旧の個性と実力を兼ね備えた二人の競演作でありながら、日本国内未公開どころか今なおDVDスルーにも至っていないことが、まず腑に落ちない。 内容がお粗末な作品ならまだしも、これほどクオリティーの高いサスペンス映画も昨今なかなか無いので、殊更だ。 どうやら劇中の或る描写が、現実的な倫理観と照らし合わせて問題視されているようだが、まったく何のための「フィクション」という言葉なのかと思う。 とにかく、日本では見る機会さえ無かったかもしれなかったことに憤りを感じるくらい、見応えのある「犯罪劇」であり、「法廷劇」だった。 何より、前述の主演の二人の相性が、思いのほか良かったと思う。 老獪で利口な犯罪者の「策略」に、対峙する若く野心的な検事が振り回されつつも追求していくという構図に、ぴったりと合ったキャスティングだった。 “レクター博士”ほどの強烈さはもちろん無かったけれど、アンソニー・ホプキンスは軽妙な語り口の奥底に秘めた恐ろしさをひしひしと感じさせる存在感を放っていた。 一方で、ライアン・ゴズリングは、若さ故の傲慢さと未熟さを放ちつつ、最後には相手を凌駕する雰囲気を醸し出していた。 この二人、タイプは全く違うように見えるが、俳優としての本質的な部分に何か似通った要素を感じる。 そういった俳優自身の素養を引き出し、混ぜ合わせることに成功した見事なキャスティングであり、演出だったと思う。 ラスト、“真相”の正体そのものには「なあんだ」と一寸肩透かしを食らう。 しかし直ぐさま、この映画ならではの“オチ”で静かに締める顛末がとても巧かった。 冷静で頭脳明晰な犯罪者が、犯行の最後の最後で抑えきれなかった“憎しみ”という感情。 その感情の一瞬の露呈が、完璧だった計画に、小さな小さな綻びを生んでいたのだろう。[インターネット(字幕)] 8点(2013-06-26 00:10:49)《改行有》

647.  オブリビオン(2013) きっと多くの人から“叩かれる”タイプの映画なのだろうとは思う。 ストーリーに新しさがあるというわけではないし、粗も大いにある。 ピークを過ぎたスター俳優が、自ら築き上げてきた“ヒーロー像”にしがみついているように見えなくもない。 “ただし”、僕はこの映画を大絶賛したい。誰が何と言おうとも。 エイリアンの侵略により崩壊した地球。侵略に対して何とか勝利はおさめたが、他の星への移住に向けて、残された資源の“監視”をする任務に就いている二人きりの男女。 絶望的な未来世界を描いたいわゆる“ディストピア映画”は、長いSF映画史において数多生み出されているので、この映画の設定自体もやはりどこかありふれている。 それでも、何とか観客を驚かしてやろうという気概は確実にあり、工夫は凝らされていると思う。 結果として、ストーリーの「真相」において驚きがあったかどうかは、必ずしも重要ではない。 多少ベタなストーリーであっても、その展開において真っ当なプロセスを踏み、相応の娯楽性をきちんと生み出してくれたならば、当然感情は高揚するし、存分に映画世界を楽しむことが出来る。 この作品の勝因はまさにその部分で、見せるべき娯楽性を、見せるべきタイミングとビジュアルでしっかりと見せてくれたからこそ、ベタ的なラストの顛末で高揚出来たのだと思う。 そして、今作におけるそういった“真っ当な映画づくり”を牽引しているのは、やっぱりトム・クルーズに他ならない。 ピークを過ぎようが何だろうが、このスター俳優の「存在感」があるからこそ、この映画のエンターテイメント性は成立している。 どんな“裏技”を使っているのかは知らないけれども、まあとても50歳には見えないし、スタントなしのシーンでの動きや肉体を見る限り、相当の鍛錬をしていることも明らかだ。 映画製作に対してのその真摯な姿勢こそが、彼が“トム・クルーズ”であり続けられる「理由」だと思う。 「否定」は多かろうが、この映画の方向性と存在意義はまったく間違っていない。 「oblivion」の意味は「忘却」。ストーリー的な未熟さをカバーし、「絶望」の中に取り残された人々の叙事詩として導いてみせた“SFセンス”が素晴らしい。 声高らかに、新たなディストピア映画の傑作だと断言したい。[映画館(字幕)] 8点(2013-06-01 23:59:48)(良:2票) 《改行有》

648.  アタック・ザ・ブロック 漆黒の闇の中で蛍光色に光るエイリアンの牙、真っ黒なフードを被った少年ギャングの目、両者は互いにメタファーとして対峙し、“襲う者”と“襲われる者”が突如として入れ替わり立ち替わる。 ヒップホップに彩られたSFとバイオレンスとコメディの中で痛烈な社会風刺が差し込まれる。 この英国産のエンターテイメント映画は、ポップカルチャーの体裁を示しつつ、想像以上にハードで、それに伴うカタルシスに溢れた映画に仕上がっている。 少年ギャングが巣食う団地にエイリアンが襲来してきて決死の攻防を繰り広げるというプロットだけを聞くと、とても気軽に楽しめる類いの娯楽映画のように思う。 実際、この映画は表面的にはそういう方向性でプロモーションされているが、そもそもの発端となる舞台設定、ストーリー展開、そして映画の到達点は、非常に根深い社会問題に根ざしていて、予想外に深い感慨を観客に訴えてくる。 英国の社会問題となっている低所得者層の不遇。そこからある意味必然的に派生している暴力と犯罪。 文字通り“降って湧いた”凶暴なエイリアンとの攻防の中で、少年たちは、暴力と明確な「死」に曝される。そのプロセスにおいて、自らが置かれた社会環境の問題性と、自らが犯してきた罪の深さを知っていく。 前述の通り、この映画は表面的には敢えてライトに作られている。上映時間も88分と短く、映画内の時間経過も、事態の異常性のわりにはほんの2~3時間程度の出来事として描かれる。 そういったコンパクトさこそが、この映画で描かれていることが社会の「縮図」であるということの明確な意思表示のように思える。 この映画の製作スタッフは、自らが楽しみながら、あらゆる人々にとって楽しい映画を作り、同時に大きな付加価値を付けることに成功している。見事。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-03-11 11:12:22)《改行有》

649.  ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン 数年前、自分自身の結婚式を控えた頃、YouTubeで結婚式のスピーチ関連の動画を検索していて、何処かの誰かの結婚式での花嫁の親友らしい女性のお決まりのテンションのスピーチ動画に、妻共々笑ってしまった。 映画の中で登場する、花嫁の親友同士の“スピーチ合戦”は、そういった結婚式における“女の友情あるある”を彷彿とさせ、笑いが止まらない。 商売には失敗し、恋愛偏差値は下がる一方の“いきおくれ”の主人公が、幼馴染みの親友の花嫁介添人のまとめ役をまかされたことにより、益々精神不安が加速していく。 男性が主人公のこの手の“イタさ”と“下ネタ”オンパレードの極めて“アメリカ的”なコメディ青春映画は多々あるけれど、女性が主人公でここまでぶっ飛んでいる映画はあまりない。 それ故に、男性目線からだと特に、時にえげつくなく、時に際限なく下品ではあったけれど、好事家たちの評判に違わず、サイコーに愉快で、サイコーにキュートな映画だったと思う。 映画として上手いなと思うのは、主人公一人の葛藤だけを描いているわけではないということ。 花嫁の親友たちで構成された5人の花嫁介添人たち(ブライズメイズ)。花嫁自身も含め、立場も生活環境も違う6人の女たちそれぞれが抱える葛藤を、遠慮のないコメディ描写の中でしっかりと描き出し、最終的には6人全員が好きになってくる。 男性として、女性の友情にはどうしても懐疑的な部分があるのだけれど、この映画を観ると、男同士のそれには無いドギツさとコワさを感じる一方で、女同士の友情に初めて羨ましさを覚えた。 とにもかくにも、それぞれがそれぞれに個性的でパワフルな女性が6人も集えば、周辺の男性陣はただただ右往左往するしか無いわけで。観客の男もその一人として、ただ笑い続けるしか無い。 結婚式を控える女性、結婚式を終えた女性、そして特に結婚式の予定なんてない女性、面と向かって勧める勇気はないけれど、そういったすべての女性のための映画だと思う。 この映画は、明らかに相性が悪いのであろう男との爆笑必至のセックスシーンから始まる。 この“笑撃”的なファーストシーンは、主人公が陥っている状況を端的に表すとともに、この映画の“振り切れ具合”を潔く表していた。 それは「この映画、こんなカンジて突っ走るよ?ついてきてね」と観客に対してのある種の宣戦布告だったのかもしれない。[DVD(字幕)] 8点(2013-03-08 17:17:24)(良:2票) 《改行有》

650.  ヤング≒アダルト 僕自身、より広い世界で何かを成してみたいという望みはあった。そういう望みをがすべて消えてしまったわけではないけれど、いつの間にか生まれ育った土地で結婚をし子供が生まれ、日を追うごとに人生の方向性が確定し始めている。「幸福だ」ということに疑いはないつもりだけれど、完全に割り切れてもいない。 そんな三十一歳になったばかりの男にとっても、この映画が伝えるものは、色々な意味でイタく突き刺さる。 シャーリーズ・セロン演じるこの主人公のことを「馬鹿女」と一蹴してしまうことは簡単だし、とても楽だ。 実際彼女が馬鹿でイタい女であることは見紛うことなく確かなことだ。 彼女がああなってしまった原因の大部分は、彼女自身の人間性によるものであり、自業自得でもある。 しかし、その主人公の馬鹿でイタい言動の始終を追って呆れる反面、誰にも彼女を蔑む権利などないとも思える。 誰だってかつては彼女のように立ち振る舞いたかったはずだし、彼女自身、周囲がそうあることを望んだからこそ、無意識の強迫観念の中で自らの人間性を構築していったのだろうと思う。 ただそのまま歳を重ねるだけ重ね、一般的な価値観における「大人」になれなかっただけのことだ。 もちろん、社会の中で生きていく上で“ただそれだけのこと”では済まなくなる部分は多い。しかし、それを批判出来ることが出来るのは、何も知らない他人などではなく、彼女自身に他ならないと思った。 言い換えれば、辛かろうが、苦しかろうが、彼女自身が「それで良い」と心の底から割り切れれば、それが「正解」なのだと思う。 脚本も演出も素晴らしいが、敢えて特筆したくなるのはやはりシャーリーズ・セロン。 37歳のバツイチ女の荒み切った生活感を惜しげもなく表現したかと思えば、ある種狂信的なドレスアップ後には完璧な美しさを見せる。一人の女の中のこの激しいギャップが、殊更に主人公の悲哀を強め、キャラクターのオリジナリティーを高めている。“はまり役”といえばまさにそうだが、衝撃の“ヌーブラ姿”も含めて見事だったと思う。 この映画は、馬鹿でイタいオトナの女が、「痛み」を経て成長する物語……などではない。 己の馬鹿さもイタさもすべて抱えて、今一度「自分一人が大切だ」ということを噛み締め、髪を掻きむしりながらボロボロの体と心でそれでも前へ走り出す、そういう映画だ。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-11-30 16:14:05)《改行有》

651.  私が、生きる肌 ペドロ・アルモドバル、このスペイン人監督の映画を観るのには、いつも「覚悟」が要る。 多くの場合、彼の映画を観ていると途中激しい嫌悪感を覚える。「まさか……」と思わせるおぞましい程にショッキングな展開が、現実となり画面に繰り広げられる。 目を背けたい衝動にかられるけれど、実際はその衝動に反するかのようにより食い入るように画面を凝視していることに気付く。 それは、この映画監督が追求し描き出しているものが、“人間”が“人間”として深層心理の奥底で「見てみたい」と思っている“人間”の姿だからだと思う。 だからこそ、自分自身の生半可な倫理観を蹴散らして、画面から目を離すことが出来なくなるのだろう。 この映画で描き出される人間の物語は、もはや「悲劇」などという一言ではおさまらない。 そんなものは早々に超越し、人間の「存在」と「是非」そのものに対して疑問を投げかけてくるような感覚を覚えた。 アントニオ・バンデラス演じる哀しきマッドサイエンティストの倒錯した生き様と死に様には、“鑑賞者”としてあらゆる感情が渦巻く。一体、彼の行動をどう捉えるべきなのか、最終的な部分で自分の答えを導き出すことが出来なかった。 吐き気を覚える程のおぞましさを感じたかと思えば、次の瞬間には息をのむ程の美しさを目の当たりにする。 そんな異様な映画世界に対峙してまともな判断ができるはずはないのかもしれない。 ああ、何とか言葉を尽くそうとする程に、自分の表現力の無さを痛感し、すべての言葉が陳腐に思えてくる……。 手塚治虫の短編集「空気の底」の一編に紛れ込んでいてもおかしくないような世界観に対して、好きか嫌いかの判別もつかぬまま、主人公たちと同様にただただ倒錯する。[DVD(字幕)] 8点(2012-11-27 15:33:24)《改行有》

652.  エクスペンダブルズ2 クライマックス、シルベスター・スタローンの太い腕がナイフを地面に突き立てる。 その“腕の太さ”は、単純な筋肉の誇示ではなく、この映画俳優が長年に渡り培ってきた成功と苦労の象徴のように見えた。 満を持してこの映画を観た翌日の日曜日、実家にて庭作業をする父親を手伝った。自分自身が育った分、当然ながら父親は確実に歳をとっている。その父親の腕と、前日に見た老アクションスターの腕が、見た目的にも、意味合い的にも、何だか重なって見えた。 もちろん良いところばかりではないが、自分がこの“腕”によって育てられてきたことは紛れもない事実であり、感謝をしなければならない。 そして、「映画鑑賞」という人生経験においても、この映画に勢揃ったアクションスターたちの“太い腕”によって育てられたということは、たぶん間違いないことだと思う。 つまるところ、この映画が世界中のアクション映画ファンにとっての「夢」そのものであることは明らかだ。 そんな「夢」の実現、そして彼らがそれぞれに苦心して経てきた映画人生そのものに、まず感謝せずにはいられない。 もちろん「完璧」などという形容が相応しい映画ではない。ただ、敢えて言うならば、「完璧」ではないことが「完璧!」と断言できる。 スタローンとシュワルツェネッガーとウィリスが、見紛うことなくそろい踏み、惜しげもなく銃器をぶっ放す。 ヴァン・ダムが、代名詞のハイキックを見事に繰り出し、極悪非道を演じる。 ステイサムは、洗練された格闘とナイフアクションで、“現トップスター”の意地を見せる。 そして御歳“72歳!”のチャック・ノリスが、“伝説的”な立ち位置でオイシいところをかっさらう。 ストーリーにおける粗なんて本当にどうでもいい。これだけの要素が盛り込まれていて、他に何が要るのかという話だ。 「良い!」と思う全てのシーンにもれなく付随する“ほつれ”も含めて、この映画の不完全な完全さだと思う。 「大人の事情」を感じてしまうジェット・リーの序盤での“里帰り”や、“マギー・チャン”役には何とかマギー・チャンを出してほしかったなどなど細かな物足りなさはあるにはある。 そして、セガールにスナイプスにヴィン・ディーゼル、見たいヤツらはまだまだいる。 「5」あたりで超グダグダになることまで、アクション映画シリーズの“お約束”と想定に入れて、まだまだ“祭り”が観たい![映画館(字幕)] 8点(2012-11-18 23:55:26)(良:3票) 《改行有》

653.  網走番外地(1965) 最新作での映画復帰で改めてその存在感が際立っている俳優「高倉健」。 そんな高倉健の映画が観たくなり、タイトルの認知はあったけど全く観たことがなかった「網走番外地」シリーズの第一作目の鑑賞に至った。 高倉健の主演映画は今まで何作か観てきたが、今作の高倉健は他の数多の作品と比べ「異色」と言えるのではないか。 いや「異色」というのはやや語弊があるかもしれない。もっと簡単な言い方をするならば、明らかに「若い」高倉健が観られる映画だと言っていい。 この映画の高倉健は、生来の優しい性根を垣間見せつつも、荒々しいまでにぶっきらぼうで、プライドが高く、若さ故の“愚かさ”を幾重にも積み重ねる。丹波哲郎じゃなくても、彼の言動に対しては思わず「大馬鹿!」と叫びたくなる。 現在に至るまでの主演映画の多くで、高倉健演じる主人公は、過去に何かしらの過ちや後悔を携えて生きている場合が多い。 そんな“彼ら”の若かりし日の姿こそ、この映画の高倉健そのものだと言われると、妙にしっくりとくる。 そんなことを考えてみると、映画俳優としてのフィルモグラフィー自体が、“高倉健”という日本が誇る俳優の“生き様”そのものに見えてくる。 長年に渡って活躍する俳優にとってフィルモグラフィーが人生の系譜であることは、ある意味当然のことかもしれない。しかし、高倉健ほどそこに人間としての厚みが備わり、現実と非現実の「境界」の見極めが困難な程にリンクしている俳優は居ないだろうと思う。 と、思わず映画の内容そっちのけで「高倉健」という俳優の存在感ばかりに目がいき、その名前を連呼せずにはいられない。 この映画は、稀代の映画俳優の「若さ」を剛胆に描きとった価値ある意欲作だ。[DVD(邦画)] 8点(2012-11-06 00:27:04)《改行有》

654.  アウトレイジ ビヨンド 《ネタバレ》 冒頭から小日向文世演じる悪徳マル暴刑事が小蠅のように方々に飛び回っては、「ケジメ、ケジメ」と五月蝿い。 その描写が象徴するように、この続編作品は前作「アウトレイジ」から持ち越された「ケジメ」をひたすらに取ったり、取らされたりする映画だ。 前作において、”甘い汁”を吸った者、“煮え湯”を呑まされた者、各々が再び入り交じり、血で血を洗っていく。 その仰々しいまでの“愚かしさ”が、前作同様に極上のエンターテイメントとして画面一杯に映し出され、きっちりと締めくくられた。 非常に満足度は高い映画であることは間違いない。 それを前提にして敢えて言うならば、前作程の“アク”の強さはなかったかなと思う。 「全員悪人」と銘打たれて揃った面々が入り乱れ、一体誰がどうなるのかとストーリーの顛末自体に見通しがきかない面白さに溢れていた前作に対し、今作ではわりと予定調和的に各キャラクターに対しての“おとしまえ”がつけられていくため、ヒリヒリするような緊迫感が薄れていた。 また、前作では、ビートたけし演じる「大友」がこの映画世界の一応の主人公ではあったが、それぞれの思惑と野心を持った極道たちの群像劇色が強く、それがこの映画世界独特の面白味だったと思う。 しかし、今作では「大友」がいかにもな主人公然とした立ち位置で描かれるため、それ以外のキャラクターの印象が弱まってしまった。 同時に、その主人公自体も前作の流れを経て、表面的な荒々しさが薄れた描写が多く、狙い通りではあるだろうが全体的な迫力不足に繋がってしまっていることは否めない。 新たに登場する西田敏行ら“関西勢”は良い味を出していたけれど、"切った張った”の中心には絡んでこないので、トータル的なインパクトに欠けてしまったと思う。 と、前作とそのまま比較してしまうと、どうしても物足りなさが先行しがちな感想が出てきてしまうが、このジャンルの娯楽映画として水準を大きく超えている映画であることは言うまでもない。 五月蝿い小蠅に対して、望み通りきっちりと「ケジメ」をつけて締めくくられたラストカットに、高揚感は極まった。[映画館(邦画)] 8点(2012-10-06 16:19:19)(良:3票) 《改行有》

655.  大奥(2010) 驚いた。まさかこんなに“ちゃんとした映画”になっているとは思っていなかった。 「二宮和也主演はないだろう」という違和感が、実際に鑑賞に至るまでずうっとつきまとっていた。 このアイドル俳優の演技力を認めつつも、原作漫画とのビジュアルのあまりのかけ離れ具合を受け付けられず、人気取りだけを見込んだ安直なキャスティングだと思わざるを得なかった。 結果として、「映画化」を熱望していた原作ファンにも関わらず、相反する失望を恐れて劇場に足を運ぶことはなく、今の今までスルーしてきた。 詰まる所、非常に「後悔」している。予想通りに一般の評価は極めて低いようだが、はっきり言って見事な「漫画の映画化」だ。原作ファンだからこそ自信を持ってそう言いたい。 よしながふみが描き出す原作漫画の画風に対して、人物のビジュアルが乖離してしまっていることは確かだ。 特に主人公の「水野」はもっと分かりやすく美男秀麗であるべきだとは思う。はっきり言ってしまえば、二宮くんは明らかに“チビ”すぎる……。 しかし、そういった表面的なキャラクター描写については、わりと早い段階でどうでも良くなった。 主演の二宮和也をはじめ、俳優たちの演技がそれぞれ与えられたキャラクターに対して的を得ており、“正しい”演技を見せてくれるからだ。 「吉宗」役の柴咲コウも大きな不安要素の一つだったけれど、気丈で明晰なこの物語ならではの吉宗像を見事に体現していた。発声や目線に至るまで、細かい演技にまで説得力があったと思う。原作漫画には特に描かれていなかった、城内を“早足”で闊歩する様などは、このキャラクターの決断力を如実に表す良い演出だったと思う。 その他の俳優もパフォーマンスがことごとく良かった。 そして、それぞれのキャラクターにおいてきちっと“見せ場”を作る演出も的確だったと思う。 所々、原作漫画には無いエピソードや細かい描写も付与され、それらが効果的にドラマ性を高めていた。 そもそもが荒唐無稽な設定の上にエグさやタブー的な描写を多分に含んだ物語なので、好き嫌いが大いに分かれる原作である。故にこの映画においても“拒否感”を拭えない人も多いと思う。 が、この映画の方向性は圧倒的に正しい。その意外な真っ当さに対して驚きと喜びを感じずにはいられなかった。[DVD(邦画)] 8点(2012-10-05 23:12:03)《改行有》

656.  フェア・ゲーム(2010) エンドロールで流れる役名の一部が塗りつぶされていた。 この映画の主人公である実在の元CIAエージェントが綴った原作も、CIAの検閲の上で大部分が黒く塗りつぶされたまま出版されているそうだ。 それは、この物語が紛れもない事実であるということを如実に表しているもので、その“塗りつぶし”こそがこの作品の価値を揺るぎないものに高めている。 ブッシュ政権下におけるイラク戦争の勃発。その裏側に確実に存在した数人の権力者の「嘘」と「思惑」が、実に生々しく描かれる。 「ボーン・アイデンティティー」において、リアルなスパイアクションを撮ったダグ・リーマン監督が描くからこそ、“現実”のスパイの実像を描いた今作は、対比的に際立っていたと思う。 「大量破壊兵器は無い」ということを諜報活動によって導き出したCIAの報告が、時の政府によってねじ曲げられるという様には、「恐怖」という言葉では足りないおぞましさが満ちていた。 その絶対的とも言える巨大権力に対して真っ向から立ち向かい、自らの存在を貫き通した主人公夫婦は、勇気ある行動という表現ではおさまらず、やはり「無謀」に見えた。 この映画は、自分たちの“在り方”を守り通すために、敢えて「無謀」に走った夫婦の物語だと思えた。 ナオミ・ワッツとショーン・ペン演じる夫婦の関係性に焦点が絞られてくる後半においては、マクロ的な事の顛末よりも、彼らが夫婦としてどういう道程を選んでいくのかという事の方が気になってしまった。 往々にして、優秀過ぎる妻を持つ夫は、時に愚かな程身勝手に暴走してしまうものだ……。 クライマックス、妻に許しをこうショーン・ペンの情けない表情が、個人的に身に染みた。 そういった具合で、大局的な社会派ドラマの中に、パーソナルな人間ドラマを盛り込んだ構成は、映画的にも非常に巧みだったと思う。 多大な紆余曲折を経てきたとはいえ、実際にこれが映画として公開されている以上、この映画の中で描かれていることのすべてが「事実」であるという認識は間違いかもしれない。 本当に隠さなければならないことは、本当に隠されたままなのだとは思う。 しかし、たとえ真実のほんの一片であれ、当事者らが人生をかけてそれを明るみに出した行為と、映画というエンターテイメントの力で世界中に知らしめた事実は、賞賛に値する。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-27 14:29:18)(良:1票) 《改行有》

657.  スーパー・チューズデー ~正義を売った日~ ジョージ・クルーニーという映画人は、相変わらずプライベートはフラフラしているくせに、それに反するかのように、地に足着いた骨太な映画を生み出しやがるな。と、思った。 アメリカの大統領選の「裏側」で確実に巻き起こっているだろう“現実”を、真正面から切り取った佳作だった。 自らの政治に対しての「理想」が、甘く幼稚な「幻想」に過ぎないということを目の当たりにして、打ちひしがれる主人公。 絶望的な現実に対して、彼がついに“売った”正義とは何だったのか。 安直なヒロイズムに走らず、物語の結論そのものが、政治における現実に対しての痛烈な皮肉である着地点が面白い。 すべてを悟った主人公が、黒い瞳でテレビカメラに向かう印象的なラストカットは、彼の心情における闇と、この先も歩み続けるだろう過酷な運命を如実に表しているようで、意味深長だ。 舞台劇を礎にしているだけに、焦点が絞られた登場人物のそれぞれのキャスティングが素晴らしかった。 若き選挙参謀を演じるライアン・ゴズリングは、自身が売り出し中の俳優としてノリに乗っているということもあり、心揺れ動く理想主義で野心的な主人公を見事に演じ切っていた。 主人公の上司役でベテランのキャンペーン・マネージャーを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンも、本音と建前を巧みに使い分ける役柄を抜群の説得力をもって表現していた。 そして、カリスマ性を備えた大統領候補の政治家を演じたジョージ・クルーニーは、決してオイシくはない役柄において、絶対的な存在感をもって体現し、まさに実在しそうな政治家像を自らの演出によって巧みに導き出していた。 過剰な派手さがないことが、現実社会におけるリアルな不穏さに直結している。 いまアメリカでは、今年11月の大統領選を目の前にして、まったく同じようなことが水面下で繰り広げられていることだろう。 この作品はもちろん娯楽だが、それがそのまま現実に起きているということを想像すると、禍々しいおぞましさに包まれる。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-09-16 00:48:17)《改行有》

658.  デジャヴ(2006) 《ネタバレ》 高揚感を覚えながら、この映画を観終えて、二つの「悔恨」を感じずにはいられなかった。 一つは、これほど映画的なエンターテイメント性に溢れた秀作を今の今まで鑑賞できていなかったこと。 そしてもう一つは、今作を描き出したトニー・スコットという映画監督の新作をもう観ることが出来ないということだ。 タイトルが指し示すもの以上に、ストーリーそのものは荒唐無稽であり得ない。下手をすれば相当に陳腐な映画に成り下がっていてもおかしくはないだろう。 でもこの映画は、与えられたすべての要素を最大限まで高め、上質で忘れ難い娯楽映画に仕上がっている。 これぞ長年に渡りハリウッドのエンターテイメントを牽引してきたトニー・スコットの真骨頂だと思えた。 悲劇的な爆破事件において、主人公は一人の女性の亡骸と“出逢う”。 その瞬間、妙な既視感と共に確実に生まれた恋心。この映画のすべては、この時の主人公の感情に端を発する。 即ちこれは紛れもない“ラブ・ストーリー”であり、まだ見ぬ自分が愛した人を、道理も常識もぶっ飛ばして「死」という事実から救い出そうとする破天荒なエンターテイメントだ。 無理もあるし、矛盾もあろう。けれど、そんなことはどうでも良いと心から思わせる映画としての「面白味」に溢れている。 「死体」としての姿がファーストカットとなるヒロインが、主人公に恋心を抱かせたシーンに、観客が「納得」した時点でこの映画の成功は約束されたとも言える。 そういう意味では、殆ど無名のポーラ・パットンという女優を抜擢し、彼女の魅力を引き出したことも、監督のファインプレーだったと思う。 そして、全編通して心理も言動もフル回転を余儀なくされる主人公をデンゼル・ワシントンがドスンと安定感たっぷりに演じている。これも中途半端な俳優が演じていたら、ただただ落ち着きの無いキャラクターになっていたことだろう。 レンタルショップにて、それこそデジャヴを感じる程に何度も何度もこの映画のパッケージを手に取っては、結局棚に戻し続けていた記憶が思い起こされる。 その時の自分に「さっさと観ろ!」とメモでも送ってやりたい。 最後に、愛すべき娯楽映画を生み出し続けたトニー・スコット監督の冥福を祈る。[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-09-07 14:26:25)(良:1票) 《改行有》

659.  ダークナイト ライジング 見事、クリストファー・ノーラン。 ジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じるジョン・ブレイクの「本名」がさりげなく明かされるエピローグのシークエンスを観ながら、この新しいバットマンシリーズを完結させた鬼才監督を思わず賞賛したくなった。 「ビギンズ」でバットマンという周知のヒーローをまったく新しい「黒色」で塗り替え、様々な要素が重なり“伝説”とまでなった続編「ダークナイト」でその「黒色」を漆黒の闇にまで更に深めた同シリーズ。 否が応にも世界中の期待は高まり、ハードルはその分高まった完結編だったと思うが、ベールを脱いだその出来映えは素晴らしかったと思う。 165分と非常にボリュームのある長尺だが、決して「長い」と感じることはなかった。 序盤の展開に対して冗長な感覚も覚えたが、それらも含めてシリーズで描かれたことのすべてが、ラスト30分の怒濤のクライマックスで意味のあるものとして昇華される。 大富豪のブルース・ウェインが蝙蝠男のコスチュームを着て闘う理由は何なのか、この世界における「悪」とは何なのか、そして「ヒーロー」の意味とは何なのか。 シリーズを通して突き詰められてきたそれらのテーマが、過不足なく描きつけられていたと思う。 前作において完全に悪役に食われてしまったヒーローを、更に滅茶苦茶に打ちのめした上で「復活」させる。そういう娯楽映画としての王道をきちんとプロセスとして描きつつ、独特のシリアス性を併せ持たせる。 その卓越したエンターテイメント性が何を置いても素晴らしい。 “ジョーカー”により闇にまで深まったヒーローの黒い造型を丁寧に浮かび上がらせ、遂には白い光に転じさせてみせた。 一作目、二作目の両作を踏まえて描き出されたストーリーと顛末は、クリストファー・ノーランが導き出したこの世界観に合致したとても真っ当な「結論」だったと思う。まさに「THE DARK KNIGHT RISES」というタイトルに相応しい。[映画館(字幕)] 8点(2012-07-29 12:05:07)《改行有》

660.  宇宙人ポール 昨年「SUPER8」を観た時に、作品としての完成度には不満を持ちつつも、溢れる“映画愛”に対して無下に否定することが出来なかったことが思い出された。 あの映画と今作は、映画としての立ち位置はまったく違うように見えるけれど、本質的な“理念”はむしろ全く同じと言っていい。 即ち、かつて世界中が熱狂し愛したスティーブン・スピルバーグをはじめとする偉大な映画監督たちが生み出した数々のアメリカ娯楽映画に対する「敬愛」。まさにその一言に尽きる。 ただ、今作が「SUPER8」と少し違うところは、そんな理屈抜きにして問答無用に面白い映画であるということだ。 往年の娯楽映画に対するオマージュに溢れてはいるが、そんなものはあくまで“おまけ”であり、きっと誰が観たって「面白い!」そういう映画としてきっちりと成立している。それが、「娯楽映画」として最も素晴らしいことであることは言うまでもない。 英国の“ボンクラオタク男子”の二人組が、憧れのアメリカ旅行中に宇宙人に遭遇する。紆余曲折を経つつ意気投合し、宇宙人の彼を仲間の元へ送り届ける。 実際ただそれだけの話である。ただそれだけの話が極上の「娯楽」になる、だからこそ映画は素晴らしいのだということを、この映画は再確認させてくれる。 何と言っても、宇宙人“ポール”の存在感が凄い。 実写映画の中の一キャラクターをフルCGで描き出すという試み自体はもはや珍しくもない。 しかし、そこに娯楽映画の主人公に相応しい愛着と、周囲のキャラクターと同様に息づく存在感を持ち合わさせることは、並大抵のことではない。 決して仰々しくなく、さりげなく描き出されているように見えるが、このクオリティーの高さは「凄い」としか言いようがなく、それを生み出しているものこそが、製作スタッフの紛れも無い「映画愛」に他ならないと思えた。 最高に楽しくて良い映画だったと思う。ただし、惜しむらくは自分自身が“SF映画オタク”になりきれていないこと。 前述の通り、過去の名作SF映画を観ていなくても存分に楽しめる映画であることは間違いない。 しかし、オタクだったならばもっともっとはしゃげたんだろうと思うことも事実。 「ああ、これは何かの映画のオマージュなんだろうな」と気付きはするが、それが何なのか明確にならない悔しさは随所で感じてしまった。 とりあえず「未知との遭遇」は早急に観よう。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-07-14 22:54:32)(良:3票) 《改行有》

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