みんなのシネマレビュー |
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661. サウンド・オブ・ノイズ “音楽犯罪映画”というアイデアは間違いなく新しく、映画ならではの娯楽性を秘めていると思う。 一方通行な芸術の過剰な追求は、時に“テロ”にすらなり得るというアプローチは、「音楽」という芸術の奥深さを表すと同時に、それに傾倒する人間、それに振り回される人間、両者を含めた社会や文化の滑稽さを導き出していた。 スウェーデンから届いたこの映画的な“新しさ”だけで、一定の評価はされるべき作品だとは思う。 ただし、その一方で登場人物たちの人物像が希薄だとも思えた。 主人公である敏腕刑事のキャラクターは立っていたと思う。 一流の音楽家系に生まれながら、生来の音痴、更には音楽を聴くと気分が悪くなるという体質を持つというキャラクターは、この題材の映画の相応しいユニークさを持っており、そんな彼が奇想天外な音楽犯罪に対峙するとうい構図は、映画的にも巧かったと思える。 しかし、その主人公以上に重要な“音楽犯罪一味”の描写が思ったよりも深まらなかった。 特にリーダー格で、映画におけるヒロインとも言えるキャラクターに今ひとつ深みが無い。 彼女が何故にこのような“音楽テロ”を巻き起こすのか、その発端となる動機が曖昧だったと思う。 「芸術の追求」と言ってしまえばそれまでだが、彼女の行為そのものが映画の主軸である以上、その理由は明確になるべきだったろうし、そんな彼女がラストの顛末を受け入れていく様もなんだか腑に落ちない。 題材が奇抜で面白いだけに、ストーリーテリングの薄さによって、それがただの“パフォーマンス”で終始してしまっているのは勿体ないと思う。[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-10-13 15:23:19)(良:1票) 《改行有》 662. ポセイドン(2006) 《ネタバレ》 ご存知1972年の傑作パニック映画「ポセイドン・アドベンチャー」のリメイク作品。 このリメイクにおいては、巨匠ウォルフガング・ペーターゼンの威光の残像にすがったのかもしれないが、映画自体は残念ながら「B級映画」の範疇に“しっかり”とおさまっている。 まあしかし、そのこと自体はある程度予想出来たことなので、パニック映画ファンとしては、序盤から繰広げられるこのジャンルの「予定調和」を逆に楽しむことに決めた。 そう開き直れば、全編通してそこそこ楽しめるB級パニック映画であったと思う。 オリジナルに対してストーリーテリングやキャラクター設定があまりに稚拙であることは目をつぶるしかない。 主人公をはじめ各キャラクターの人物背景の描写があまりに乏しいことも、少数パーティーに至るまでの半ば強引な展開も、まだ笑って済ませられる。 が、しかし、最終的には一つの顛末が大いなる違和感として突きつけられてしまった。 すなわち、「おい、おーい!アンタ何で生き残っちゃってるの!?」ってことである。 パニック映画において誰が死に、誰が生き残るという顛末は最重要の娯楽性でもあるので、勿論ネタバレは避けたいが、“死亡フラグ”完全無視のまさかのラストに面食らってしまった。 当該俳優が「絶対に死にたくない!」と言い張ったとしか思えない……。ラストのスクリューのシーンは絶好の“死に場”だったろうに……。 このあり得ない展開は、当然マイナス要因ではあるけれど、予想外であったことは間違いない。良い悪いは別にしてこの「予想外」は、ある意味観た価値があったとも言える。 ともあれ“お口直し”は絶対必要。近々、名作「ポセイドン・アドベンチャー」を観直そうと心に決めるには、充分な映画だった。[CS・衛星(字幕)] 4点(2014-10-11 01:26:03)《改行有》 663. 欲望の翼 レスリー・チャンが危うく、罪深い。 この俳優が自ら命を絶ってから10年が過ぎ、初めて観たこの映画で彼が演じた“ヨディ”という男と、彼自身に対して、まったく同じようにそう思う。 ウォン・カーウァイ×レスリー・チャンの組み合わせ思い出されるのは、やはり「ブエノスアイレス」か。 10年前に、俳優の訃報に触れ、初めて鑑賞に至ったことを覚えている。 当時、僕はまだまだ若輩者で、同性愛に対して軟弱な拒否感を持っていた頃に観たのだが、そんな拒否感など一蹴する色濃さに圧倒された。 久しぶりに、ウォン・カーウァイの映画世界に息づくレスリー・チャン、アンディ・ラウ、そして一寸だがトニー・レオンの姿を見て、胸が熱くなった。 そこには、性別の価値観を超えた憧れとときめきが満ち溢れている。60年代の香港の鬱蒼とした熱気と湿り気が、そういった感情を更に濃くしていく。 場当たり的なストーリー展開は、そのまま登場人物たちの錯綜する人生を表しているように見えた。 いつになく散文的でまとまらない。この思考がままならない感じも、この映画を観た後では相応しいとすら思える。 ラストふいに登場し、謎のシーンを残すトニー・レオン。彼が主演予定だったという幻の続編も観てみたかったな。[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-09-28 01:57:25)《改行有》 664. 崖っぷちの男 「え?え?何するの?何するのーッ!?」てな感じの主人公のクライマックスでの“アクション”で、この映画のリアリティーラインは確定される。 そのライン設定は想定外ではあったが、それならそれで楽しい映画だったと言えよう。 同時期に公開された「ザ・レッジ -12時の死刑台-」という映画があり、その映画も一人の男がビルの縁に立つということから端を発するサスペンスだった。 着想は極めて類似しているが、描き出されたテイストは大いに異なっており、比較してみると結構ユニークだ。 「ザ・レッジ」は、色香に溢れた人妻役のリブ・タイラーを巡る色情濃サスペンスで、これはこれで想定外な映画世界に見応えがあった。 そして今作はというと、これまた想定外の“ケイパーもの”。繰広げられる強奪計画はフレッシュで充分な娯楽性を備えていたと思う。 勿論、手放しには褒められない粗はある。 ルパン三世ばりの綿密な強奪計画を、一介の刑事だった男が考えたというのはちょっと無理がある。 ただそこで冒頭に記したリアリティーラインが効いてくる。 こういうリアリティの映画であれば、少々無理目な強奪計画もまかり通るというもの。 強奪計画の実行犯を請け負う主人公の弟とその彼女のキャラクターも良く、それぞれが受け持つコメディ要素とセクシー要素は、この映画の娯楽性において意外な程に重要なものになり得ている。 底の浅い悪役にキャスティングされているエド・ハリスは勿体なかったが、全体的にはバランスの良いお手軽なエンターテイメントだと思う。[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-09-21 23:57:50)(良:1票) 《改行有》 665. 殺人の告白 この韓国映画のタイトルとイントロダクションからどうしても想像してしまうのは、名匠ポン・ジュノの「殺人の追憶」。 かの傑作並みのクオリティーをそのまま期待することは無謀だろうが、連続殺人事件の真犯人と追っていくというプロットも類似しており、同様のテイストを期待していた。 雨音から始まるオープニング、期待は更にググッと高まった。 時間軸を超えて現在から過去、そして過去から現在へとオーバーラップさせる演出は、なかなか凝っており、韓国映画の素地の確かさを感じさせる。 ただ、冒頭から繰広げられるアクションシーンがやや演出過剰で、リアルでないことが先ず気になった。 その危惧は映画が展開されるにつれ更に際立ってくる。 挟み込まれるアクションシーンがことごとく無駄に派手なばかりで、その演出があまりに陳腐だった。 特に、カーアクションは明らかに蛇足。「ジャッキー・チェン映画じゃないんだから」と突っ込みたくなるリアリティーラインが破綻した描写の羅列は、明らかに作品のあるべきテイストと乖離していて、途中で観るのをやめたくなるほどだった。 「あー思ったのと全然違う映画だった……」とただ落胆することが出来ればある意味簡単だったのだけれど、そこから盛り返してくるから、逆に始末が悪い。 連続殺人鬼によって人生を狂わされた主人公の刑事、時効成立後「自分が真犯人だ」と告白する美青年、そして連続殺人の遺族たち、複数の思惑が入り乱れサスペンスフルなストーリーが展開していく。 その主軸となるストーリーテリング自体は、キャラクター描写も含めて非常に巧みで、真相に辿り着くクライマックスでは思わず息を呑んだ。 結果的には「面白い映画だ」と言えなくはない。 けれども、やはり陳腐で無駄なアクションシーンの連続が我慢ならない。 ラストで更に挟み込まれるアクションシーンもただただ蛇足。 どうせあのような結末にするならば、真相が判明したテレビ局の場面で終わらせるべきだったと思う。 過剰なアクションシーンの連続は作り手のサービス精神だったのかもしれないけれど、無用なサービスはただ「迷惑」なだけである。 もっとオーソドックスに韓国映画らしい良い意味での重苦しさを貫き通してくれたなら、それこそ「殺人の追憶」並みの傑作になり得たかもしれない。非常に勿体ない。その思いに尽きる。[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-09-21 23:42:57)(良:2票) 《改行有》 666. 清須会議 ここ数年の“彼”の作品に対しては殆どすべてに共通して感じることだが、この小心者の劇作家は忙し過ぎるのだ。 数年前に原作小説が書店に並んだ時の期待感はよく覚えている。 三谷幸喜が描く時代劇、それも“会議もの”。「12人の優しい日本人」をはじめ、“密室劇”こそがこの劇作家の最も特異とする舞台設定であることは明らかで、ようやく三谷幸喜がそこに帰ってきたのかと喜んだ。 その時点で原作小説を読んでも良かったのだが、同時に映画化決定という報を聞き、我慢することにした。 そうして鑑賞。 題材自体は極めて面白いし、描き出そうとした人間描写とテーマ性も興味深い。 決して面白くない映画ではないと思う。 ただし、物語としての作劇が浅く、故に後に残るものがとても薄い。 辿り着いた結論としては、結局冒頭の一文に尽きる。 もっとしっかりと時間と労力をかけてストーリーテリングの作り込みに注力したなら、歴史的にも、人間的にも、深みが備わった喜劇に仕上がった筈だ。 過剰なほどに豪華なキャスティングが悪いとは言わない。 けれども、揃いも揃った豪勢な俳優陣を並べ立てたはいいものの、それに対してただ浮き足立つばかりで、目先の陳腐なコメディに走っていては、本末転倒もいいところ。 残念ながらこの劇作家には、これほどの豪華キャストを“監督”としてさばくだけの度量は見受けられない。 西田敏行や天海祐希をせっかく呼んだけど思ったよりも面白いシーンにならなかったから、カットしよう!くらいの剛胆さがなければ、このキャスティングが逆に勿体ない。 三谷幸喜は、監督業に早々に見切りを付けて、今一度“脚本家”としての原点回帰をしてみるべきだと改めて思う。 そして、西村雅彦、梶原善、相島一之ら劇団時代からのメンバーで再構成された舞台版「清須会議」が観てみたい。 あ、大泉洋はTEAM NACSからの“客演”として秀吉役を続投で良いよ。[CS・衛星(邦画)] 5点(2014-09-17 00:17:36)(良:2票) 《改行有》 667. パララックス・ビュー この映画、冒頭からラストまであらゆる場面でキョトンとしてしまう。「え…?」という絶句に近い反応をしてしまうシーンが連なる。 それは決して安直に奇をてらっているというわけではなく、娯楽映画の予定調和がひたすらに崩されていくことに対しての違和感だと思う。 でもそれこそが、逆接的に「現実」と直結しているように感じられ、ぞわぞわと恐怖感が沸き上がってくる。 「俺たちに明日はない」のウォーレン・ベイティが、野心的でアウトローな記者を演じていて、この主人公が辿る運命の描かれ方には、まさに“アメリカン・ニューシネマ”のムーヴメントの中で生まれた作品らしい辛辣な味わい深さを感じた。 とても“変な映画”であることは間違いないので、ちょっとでもそりが合わなければ、まったく入り込めない類いの作品だと思う。 そもそも主人公の「動機」は何だったのだろうか。 陰謀に対する記者としての使命感か正義感か功名心か、はたまた元恋人(らしい)を殺されたことに対する怒りか、悲しみか。その心情は結局最後まで明確にならぬまま終幕する。 混沌とする主人公と目線を同じくして、観客も陰謀の渦に放り込まれ、そのまま放置された感覚を覚えた。 迫っているようで、迫っていない。迫っていないようで、迫っている。真実は近づいては離れていくの繰り返し。更には、すべては主人公の妄想という可能性も捨てさせない映画的なウマさも孕んでいる。 結局、映画として面白いのか面白くないのかも判別を付け辛いが、総てを突き放すようなラストシーンは「見事」と言わざるを得ない。 本編中盤で映し出される「適性テスト」の映像の錯綜、正体が見えない巨悪の不穏、そういったえも言われぬ心地の悪さを終始覚える。ただ一方では、70年代のアメリカの建築美や様式美が印象的に残る。映画としての完成度以上に、カルト的な魅力が詰まった作品だった。[CS・衛星(字幕)] 8点(2014-09-17 00:12:57)《改行有》 668. イントゥ・ザ・ストーム 乱立する巨大竜巻に襲われる町、あらゆるものが吹き飛ばされていく中で、さりげなく“牛”の看板が飛ばされていく。 これは明らかに「ツイスター」オマージュであり、今作はそのオマージュを捧げるに相応しい“竜巻映画”に仕上がっている。 3ヶ月前に竜巻映画の金字塔である「ツイスター」を鑑賞し直したばかりだったので、類似点や相違点を比較することも楽しかった。 「ツイスター」が、竜巻ハンターの男女を主人公に配していることに対して、今作は竜巻ハンターも含まれていはいるが、あくまでも竜巻被害を受ける市井の人々を主軸にしており、「ディザスター映画(災害映画)」としての立ち位置としては、今作の方が正統だと思う。 全く予測可能な“モンスター”として描き出される今作は、竜巻という災害の恐怖感をより一層増幅させてみせていると思う。 ファウンド・フッテージを主軸にした撮影手法も、臨場感を効果的に高めている。 若者たちがiPhoneやハンディカムで延々と“恐怖”を映しとっていく様は、あながち非現実的ではなく、あまりにも巨大過ぎる事象を目の当たりにして衝動的にカメラを手にし続けてしまうことは、人間の心理として理解出来ることだろう。 映画のジャンルとしては、災害もののB級映画という範疇を超えていないかもしれない。 けれど、安直に過小評価することははばかられる程、意外にも完成度の高い映画だったと思う。 三連休中日にも関わらず鑑賞した上映回は、幸か不幸か“お一人様”状態だった。 映画館内でたった一人、まさに悪魔的な強風に襲われる登場人物たちを目の前にして、思わず座席の手すりを強く握ってしまった。 ディザスター映画好きであれば、そりゃマストな作品であることは間違いない。[映画館(字幕)] 7点(2014-09-14 09:20:52)《改行有》 669. ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー 主人公が古臭いウォークマンを取り出し70年代のヒット曲を目一杯流しつつ、荒廃した惑星を探検する。このオープニングシーンが先ずアガる。 ただ一方で、自分自身がもっと70年代のヒットチャートに造詣が深い趣向や世代であれば、もっと幸福な「体感」としてこの映画は記憶されるだろうなと、少し残念にも思えた。 娯楽映画として全く申し分はないのだけれど、生じた高揚感がスペシャルなものにならなかったのは、そういう世代差的な要因は大いにあるように思える。 「アベンジャーズ」と世界観を共有するマーベルコミックの新シリーズだが、主要キャラクターにおいて、スター俳優の「出演」はほぼ無い。 ただ登場するキャラクターは総じて魅力的で、決して番外編的なストーリーラインではないと感じた。 キレッキレのブラッドリー・クーパーのアライグマぶりに燃え、セリフが”2パターン”しかないヴィン・ディーゼルの大木野郎ぶりに泣けた。 “腰フリ作戦”で宇宙を救うという「愛嬌」は、この新ヒーローたちに相応しい愛すべき英雄像であり、ふざけてはいるけれど素直に胸熱だった。 ただし、善玉も悪玉もキャラクターが総じて魅力的な分、彼らのバックグランドや互いの関係性の描写が少々物足りなかったことは否めない。 実際、意識的に描き残しているキャラクター描写もあったと思うので、今回の物足りなさについては次作に期待したい。 そして、彼らが今後「アベンジャーズ」にどう絡んでくるのかも、期待大だ。[映画館(字幕)] 7点(2014-09-14 09:14:17)(良:1票) 《改行有》 670. 言の葉の庭 7年前に観た「秒速5センチメートル」は、最高に好きだった。 観たことが無い程のクオリティーのアニメーションによる美しさと儚さに胸が詰まった。 “新海誠”というクリエイターに類い稀な美意識と可能性を感じた。 が、残念ながらこの作品では、以前のような感動を殆ど感じることが出来なかった。 映し出される映像世界は相変わらず美しい。むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並は、さめざめ物悲しくもあり、美しい。 ただ、正直なところ、特筆すべきはそれだけの作品に終始してしまっている。 ネックとなった要素は、「青臭い」の一言に尽きる。 雨に濡れた新緑の臭いがそのまま漂ってくるように、ただただ青臭い。 経験に乏しい多感な高校生を描いているわけだから、そうなってしまうことはある意味必然だったとは思う。勿論、青臭くても良い映画は沢山ある。 でも、今作においてはその未成熟さが、どこまでいってもただ“浅はか”に映るだけで、徐々に不愉快にさえ見えてくる。 そしてそれは、次第に制作者自身の青臭さに直結しているように見え、紡ぎ出される言葉も、映し出される映像も、安直な自己満足に見えてきてしまった。 ただそれは、自分自身もしばしば陥ってしまいがちな“語り口”で、己の感受性の豊かさを他者に示したいという素人臭い願望の表れの重なるようで、少々身につまされた。 まあ、そんな”素人臭さ”と重なるようでは、やはり駄目なわけで。 主人公の高校生は、密かに靴職人を目指していて、そんな自分の夢と現実社会の厳しさ(のようなもの)との狭間で思い悩んでいる。 その描かれ方は、いかにも夢と現実の折り合いをつけている風だが、実際のところは決してそうではなく、その“折り合い”も含めて葛藤している自分自身に酔っているように見えて仕方なかった。 「靴職人」ってそこまで特殊な仕事かよと思うし、それなら「ヴァイオリン職人」を目指して“青臭さ”全開で突っ走る“天沢聖司”の方がよっぽど偉いわ!とまったく関係ない比較をしてしまった。 とにかく、現実の辛辣さを描くふりばかりで、結局は綺麗事を並び立てたばかりに見える映画世界に対して、まったく感情移入が出来なかった。[CS・衛星(邦画)] 2点(2014-09-08 00:03:44)《改行有》 671. LEGO ムービー 「LEGO ムービー」なんてタイトルを見知った時点で、「なんだこのチープな企画は……」と早々に鑑賞対象外にしてしまったことを激しく後悔しなければならなかった。 子ども時代の僕が、“LEGO派”ではなく、“ダイヤブロック派”だったから……というわけではなく、このタイトルで、そのまんまブロック玩具で構築された映画が、まさかこんなに面白いとは思えなかった。 (まったく、これだけ映画を観てきておいて、自分自身の浅はかさがいやになる……) 序盤は、LEGOの人形そのままの主人公がひたすらにカクカクと動く描写がただチープに見えてしまう。 なんだ、やっぱりLEGOファンによるLEGOファンのためだけの映画か……とトーンダウンしそうになる。 しかし、次第に、LEGOというブロック玩具の世界観を、実際のリアルな玩具で再現出来得るだろう範囲内で、際限なく広げていく様に、驚き、ついには唖然としてしまう。 実際この映画はフルCGによるアニメーションなのだが、映し出されるブロック玩具の質感はリアルそのもので、アナログ感に溢れ、フルCGであることに逆に驚きを感じた。 立ち並ぶビル群、荒野、天空世界、海原、宇宙……そのすべてが本当にブロックのみで表現されていて、そのビジュアルは圧巻の一言に尽きる。 そして、すべてをリアルで精密な“LEGO描写”で構築された世界に隠された意図。 描き出されたテーマは、決して子どもだましではなく、自己と他者の関係性を導き出したあまりに普遍的で深い人間同士の在り方だった。 ストーリーテリングと映画の世界構造の巧みさに脱帽するしか無かった。 とはいえ、“LEGO”というおもちゃそのものは、まず子どものためにあるべきだろう。 子どもたちは、「すべてはサイコー♪」とごきげんな歌を口ずさみながら、主人公たちのアドベンチャーを心から楽しんでほしい。 すなわちこの映画の根幹にあるものは、子どもの想像力と大人の想像力の融合なのだと思う。 それはあまりにハッピーなイマジネーションの結晶だったと言える。[ブルーレイ(吹替)] 9点(2014-08-27 23:51:06)《改行有》 672. 怪獣島の決戦 ゴジラの息子 過去の様々な“風評”を見聞きする限り、ゴジラシリーズきっての“とんでも映画”なのだろうと高を括っていた。 大体、「息子」って何だよ!?という話である。 「ゴジラ」という怪獣の存在性を完全に無視した明らかな茶番的設定は、長らく敬遠せずにはいられない要素だった。 しかし、実際に観てみると「おや?」と思った。平日の深夜に観始めて、いつ眠くなっても良いやというスタンスだったのだが、意外にもまどろみも無く最後までしっかりと観られた。 やはりゴジラに息子がいるという設定はチャンチャラおかしいし、ゴジラ版ファミリー映画のような描写も馬鹿馬鹿しいと思う。 この作品が「ゴジラ映画」として“間違っている”ということは確かだろう。 しかし、一方ではこの映画の娯楽性そのものは、公開時において必ずしも的外れではなかったのではないかとも思えた。 勿論、当時映画館で観た人々の中にも、同じような違和感や不満感を持った人は多かったろう。 でも、同時にこの作品が放つ「娯楽」をちゃんと楽しんだ人も多かったのだろう。 それはもはや価値観の違いに関係してくる。 これほどまで長い時間の中で、数多くの人たちに愛された映画シリーズだからこそ、「ゴジラ」という映画に求める娯楽性も人それぞれなのだと思う。 ゴジラやミニラの滑稽なビジュアルを今となって嘲笑することは簡単だ。 ただ同時に、クモンガやカマキラスの操演の見事さや、東宝特撮映画常連のオールスターキャストの豪華さ、前田美波里の美しさを堪能した方が有意義だと思う。 ラスト、熱帯の島が一転して雪に閉ざされていく中、寄り添い抱き合いながら静かな眠りに就くゴジラ親子の姿は、この時代の真っ当な娯楽性そのものに思える。[DVD(邦画)] 6点(2014-08-26 07:30:41)《改行有》 673. スノーピアサー 韓国が誇る名匠ポン・ジュノの世界進出作品として、期待は高く、是が非でも映画館で観たかったのだけれど、地方の映画館では公開されず悔しい思いをした。ヒットに伴う順次公開を望んでいたのだが、どうやら興行成績的にも振るわなかったようで……。 思ったよりも良い評判も耳にすることがなかったので、失敗作なのかと危惧もしていたけれど、いざ観てみれば何のことはない、しっかりと面白かった。というよりも、しっかりと“変な映画”だった。流石、ポン・ジュノである。 SF映画としても、サバイバル映画としても、“ほころび”は多いが、それを補って余りあるポン・ジュノ監督らしい独特の“痛み”が全面に押し出されたエモーショナルなディストピア映画に仕上がっていたと思う。 舞台は近未来、進退窮まった地球温暖化を食い止めるために或る化学薬品が世界中に散布され、結果地球全土が雪と氷に覆われてしまった世界。生き残った僅かな人類は、永久的に世界中を巡り続ける列車“スノーピアサー”に乗り込み何とか生き延びている……。 という舞台設定は、何とも荒唐無稽で漫画的だ。それもそのはず原作はフランスのグラフィックノベルなのだから当然のことだろう。 原作は勿論未読だけれど、フランス産のSFグラフィックノベルの退廃感と絶望感は、この監督の作風に良い塩梅で合致したのではないかと想像できる。 列車の最後尾から先頭車両へ向かう闘いの中で、主人公が目の当たりにした“真実”の絶望と虚無は、そのまま現実世界の“真実”と重なり合い、とても心苦しく、おぞましい。 あまりに絶望的な真実を突きつけられた主人公は、そのまま虚無の深淵に陥りそうになる。 しかし、ぎりぎりのところで留まり、“希望”を繋ぎ止めようとする。 その様は確かに安直で、真実を携え生き続けてきた者から見れば、愚かにすら見えたろう。 ただ、「素敵だね」と、嘲笑を携えつつ発した最期の一言には、一抹の安堵感も垣間見れた。 どの場面においても突っ込みどころは多く、咀嚼し切れない“異物感”は終始感じる。 その“異物感”こそが、文字通りに地獄のような世界を生き続ける人間たちの殆ど崩壊しかけている精神を描き出したことの証明だとも思える。 それにしても、アカデミー賞女優ティルダ・スウィントンは、ほんとうに汚れることも老いることも惜しまない女優だな。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2014-08-24 23:59:59)《改行有》 674. アナと雪の女王 ついに“本性”を他者に知られてしまった女王が、失意の中走り出す。 港湾の海面を一歩ずつ凍らせて、雪の中にに消えていく。 とても悲しく、でもあまりに美しいこの序盤のシーンを観て、この映画は“アメージング!”その一言に尽きると思った。 物凄い興行成績を叩き出している大ヒットぶり自体は、明らかに大衆の過剰反応だと思えたので、必然的に超ロングラン公開を横目に結局劇場鑑賞は敬遠してしまった。 ただその流行ぶりはやはり物凄く、どれくらい凄いかというと、当然映画なんて観てもいない3歳の愛娘が、「ありの~ままで~♪」と歌い出すほど。 そんなわけで、愛娘に見せてあげたい気持ちも先行し、レンタルショップに走った次第。 大ヒットの要因は誰が観ても明らかで、一にも二にも音楽とビジュアルのクオリティーの高さだろう。 主題歌「Let it Go」は、その音楽性も、綴られるメッセージ性も含めて、名曲が溢れるディズニー映画史上においても屈指の名曲だと思える。 音楽とビジュアルでこれほどの満足感を世界中に与えられた時点で、その映画的な価値は揺るがないだろう。 一方で、描き出されるストーリー性も、クラシックストーリーの中に常に「時代」を映し出してきたディズニー映画らしく、新たな価値観が導き出されている。 個々人の「特性」をオープンにすることの難しさと、正しさ。 ディズニーの新たなマスターピースが描き出したストーリーのテーマは、恋物語でも姉妹愛でもなく、“固定観念からの脱却”そのものだったと思う。 お姫様が幸せになるために“王子のキス”なんて必要ではない。 この時代において必要なことは、自分と異なる他者を寛容することと、自分の運命は自分で決めるという意志だということを高らかに宣言しているように思えた。 個人的には、もっと女王が悪役に陥る淵まで描いても良かったとは思うし、ラストの顛末などはあまりに御都合主義だと思う。 「少しも寒くないわ」と氷の中に閉じこもろうとする女王の様は冷ややかではあるが、とても魅力的だった。 彼女が彼女らしく盲進する様をもうしばらく描いて、そこから彼女自身が妹を含めた他者を寛容する様を描き出してくれたなら、この映画はもっと感動的になったと思えなくもない。 ただし、そんなことは、ようやく作品自体も観た上で「ありの~ままで~♪」と得意気に歌う愛娘にはどうでもいいことだ。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2014-08-24 01:04:50)(良:1票) 《改行有》 675. her 世界でひとつの彼女 《ネタバレ》 とどのつまり人はみな孤独である。 ただそこには同時に、人はみな何かに寄り添い生きていくことしか出来ない、という逆接的な意味合いを孕んでいると思う。 独りでは生きていけないからこそ、「孤独」という状況に対して過敏に反応し、失意に暮れるのだろう。 「喪失」を携え、“親友”の男と女が肩を寄せ合い、夜景を眺めるラストシーンを見送り、エンドロールを眺めながら、まずそういうことを思った。 “男”が望み欲したものは、必ずしも新しい恋などではなかったと思う。 この物語は、もちろんラブストーリーであるとは思うけれど、それはあくまで一側面で、その領域はもっと広く、一人の人間の人生観そのものを描き出していると思えた。 また、お洒落で洗練されたビジュアルに覆われているけれど、この映画の確固たるSF性の深さも興味深い。 “人格”を持つまでに進化したOSの「彼女」。“声”のみのキャラクターに過ぎない彼女の存在感が、男との関わり合いが深まりにつれより一層に際立ってくる。 プログラムが進化し人格を持つという科学的空想は、もはや絵空事とは言えず、とても身近なことに思える。 果たして「彼女」が辿り着いた結論は、プログラムが明確な「意志」を持ったことの表れであり、その描写はとてもとても深淵で、科学的な神秘性に満ち溢れていた。 主人公の男は、実は、元々決して不幸なわけではなかった。 愛した妻と別れなければならない状況であったとしても、仕事上では信頼を受け、心を許せる親友もいる。 でも、人は誰でも「孤独」と隣り合わせで、ふとしたきっかけでそれに覆い尽くされる。 そんな時に出会った「彼女」との出会いと別れは、誰かと寄り添い生きていくという、人間の脆さと素晴らしさを再確認させてくれたのだろう。それはきっと幸せことだったと思う。 「何かに寄り添い やがて生命が終わるまで」 とは漫画「寄生獣」の最後の言葉だが、この映画の“サマンサ”と寄生生物“ミギー”が選んだ道には、とても似通ったものを感じた。 世界中の誰しもが人生の中で幾度も味わうであろう、心の「喪失」と「修復」。 本来同時進行ではあり得ないその心情の機微を、等しく、あまりに眩く描き出した傑作だと思う。[映画館(字幕)] 9点(2014-08-24 01:03:05)(良:1票) 《改行有》 676. 96時間 リベンジ 《ネタバレ》 “超神経質最恐親父活劇”第二弾。 完全な二番煎じではあるが、前作が生み出したオリジナリティは継承されており、その部分の娯楽性だけは評価できるし、アクション映画はそういう娯楽要素があればそれでいいとも言える。 そのオリジナリティとは、もちろんリーアム・ニーソン演じる主人公の“親父(元CIA)”の超絶なキャラクター性に他ならない。 愛娘の運転練習のために迎えに行くという日常から、その超神経質な精神は張りつめられ、ただ一カ所のウィンドウのくもりも、一秒の遅刻も許さない彼のスタンスは、明らかに「異常」と言ってしまっていい。 ただし、その途切れることが無い危機管理意識が、「危険」との邂逅の瞬間に何の迷いも無く発動され、ピンチを乗り越えてゆく。 突如巻き起こった危機に、本来何の事前準備も無い状態から、どう対処し、どう回避していくかということをつぶさに映し出す描写こそが、このシリーズのハイライトであり、クライマックスで悪を駆逐しく様自体は、はっきり言って“おまけ”と言ってしまっていい。 そういうある意味割り切った構成が今作のオリジナリティである一方で、やはり”それだけ”という希薄さが残ることも事実ではある。 特にこの第二作については、登場する悪党の規模も前作に対して明らかにトーンダウンしてしまっているので、終盤に欠けての迫力の無さは欠陥と言わざるを得ない。 前作から引きずった“憎しみの螺旋”を結局断ち切れぬまま、映画は軽薄なハッピーエンドを迎える始末。 もしかして、今度は“孫”まで登場させる第三弾を目論んでるんじゃあるまいな……。[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-08-17 22:35:49)《改行有》 677. 終戦のエンペラー 69回目の終戦記念日に、この映画を観たことには、意味があったと思える。 つくづく思うことは、やはりこの国の人々は、自国での「戦争」のことを知らな過ぎるんではないかということだ。 知らないというよりも、目を背け続けていると言う方が正しいかもしれない。 戦争体験者も、未経験者も、まるで持って生まれた「体質」が無意識にそうさせているように、言及し、追求することを避け続けているように思える。 それは、時間の経過と共に、より一層に“語り継ぐ”ということの重要性が叫ばれている今となってもだ。 体験としての悲劇が語られる場合はまだ多い。しかし、なぜあの戦争が起こったのか、なぜあの戦争が終わったのか。その核心的な部分については、まだまだひた隠しにされている「事実」が多過ぎるように思わざるを得ない。 それが、この映画の主題としても描かれる、日本人の性質に直結するものかどうかということも興味深いし、一つの可能性として描かれる「史実」もとても興味深かった。 昭和天皇とマッカーサー元帥並ぶあまりに有名な一枚の写真。 あの不穏さと互いの所在なさを感じる歴史的な写真の裏に隠された事実は何だったのだろうか。 日本という国にとって、マッカーサーとはどういう人間だったのか。 日本人という民にとって、天皇“裕仁”とはどういう人間だったのか。 この映画で描かれている物語が総て真実だとは思わない。 しかし、この国が守り続けた美徳も、それに伴う愚かさも、その描かれ方は、決して過剰なわけではなく、確かな一側面を描いていると思える。 そういう意味で、この映画の演出、俳優たち演技は、それぞれ真っ当だったと思う。 ストーリーテリングや編集に稚拙さを感じることは禁じ得ない。 でも、多くの人が“タブー”として目を背けがちである事実を、アメリカと日本の人々が供託して追求したことの価値は高いと思う。[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-08-16 00:23:38)(良:1票) 《改行有》 678. 脳男 日本の大作映画特有の不細工なエンターテイメントなんだろうとスルーを決め込んでいたのだが、ドハマリ中の“二階堂ふみ”目当てに鑑賞。 粗や難点は多いけれど、それを補って余りある娯楽性に溢れいていた。江戸川乱歩賞受賞作が原作らしく、想像以上にエキセントリックな物語の世界観は見応えがあった。(二階堂ふみの畜生ぶりも、想像以上にエキセントリックだった!) 原作は未読だが、映画化にあたり生み出されたオリジナルのキャラクター設定が効いていたと思う。 悪役の性別を男性から女性に変えるなんて、普通は失敗しがちなんだけれど、今作に限ってはそれが功を奏し、主人公である“脳男”との合わせ鏡としての対比が際立っていた。 そして何と言っても、主演の生田斗真のパフォーマンスは素晴らしかった。 絞り込まれた肉体と、無機質且つ美しい無表情は、“脳男”という「異質」を表現するに相応しく、彼以上の適役は居なかったろうと思わせる。 一瞬の微笑から再び深い無表情へと移り変わるラストカットは見事だった。 全体的なテンポの悪さと少々あざと過ぎる演出には改善の余地があるとは思うが、メリハリの効いたアクションシーンと、思わず目を背けたくなる程ハードな残酷描写には、日本映画らしからぬ迫力があった。 というわけで、国内の娯楽大作映画としては近年で随一の出来映えと言っても過言ではなく、大いに楽しめたことは間違いない。 個人的には、二階堂ふみと太田莉菜の“糸引きディープキス”が見られただけでも、この映画の価値は揺るがない![CS・衛星(邦画)] 8点(2014-08-15 00:50:15)(良:2票) 《改行有》 679. 思い出のマーニー 鉛筆が折れる。坂道を転がり落ちる。水辺のぬかるみにはまる。平坦な道で転ぶ。 12歳の少女は、ほとんどすべての場面で何かしらの“失敗”をしてしまい、益々自分の中に閉じ篭る。 でも、彼女はその小さな失敗を繰り返す程に成長し、少しずつ新しい世界に踏み出していく。 それはあまりにありきたりな成長譚のプロットだけれど、映し出された映画の世界観はただただ瑞々しくて不可思議。そして忘れられない美しい物語を紡いでいた。 大した期待もせぬまま、予備知識も殆ど入れずに雨の中、レイトショーを観に行った。 ふいに出会った少女たちの一夏の友情を描いたよくある話なんだろうと思っていた。 大筋は間違ってはいないし、似たような話は知っている筈だけれど、まったく新しい「世界」に触れられた気がした。 そう思えるくらいに、このアニメーション映画の表現は新鮮味に溢れ、かつ叙情的だった。 スタジオジブリが輩出した新しい才能は、見知ったジブリ色を根底に敷きつつも、新しい水の色、新しい太陽の色、新しいジブリ色を導き出してみせたと思う。 「あなたのことが大好き」 ふいに出会った少女二人。それぞれに悲しみと憂いを携えた彼女たちは、ある種盲目的にそう言い切る。 はじめそのやり取りは少々稚拙で安直に見える。 記憶の中で幼女時代の主人公が抱える人形の背中が、それに拍車をかける。 結果、それは見事なミスリードだった。 「大好き」と言い切れることの真意。それが描き出されたとき、この映画がありきたりなファンタジーを超えた「邂逅」を描いていることを知り、涙が溢れた。 主人公の少女は、自分は「普通」に生きられないと思っていて、「普通」という輪の外側にしかいられないと思い込んでしまっていた。 きっとそれは、彼女の辛い過去に起因するばかりではなく、誰しもが辿る思春期の少女の葛藤だろう。 一夏の“思い出”と、長らく封印されていた“記憶”がリンクしたとき、その思い込みは解放され、鉛筆書きだった彼女の絵には鮮やかな色彩が生まれた。 「なんだ、良い映画じゃないか」 降り続く夏の雨の中、家路に就きつつそう思った。[映画館(邦画)] 9点(2014-08-03 14:46:10)《改行有》 680. デンジャラス・ラン 冒頭のタイトルバックで初めてこの映画の原題が「Safe House」だと知る。 諜報機関の“隠れ家”であるセーフハウスの管理人(という役割を与えられているCIA職員)が主人公という設定はフレッシュで面白いと思った。 もっとそのフレッシュさと特性を生かして、セーフハウス自体を軸に物語を展開させられたなら、遥かにオリジナリティに富んだ映画になっていたかもしれない。 もはや敢えて怒りはしないが、邦題の付け方は相変わらずダサい。デンジャラスって……。 とはいえ、そういう苦肉の邦題を付けたくなる気持ちも分からなくはない。 “管理人”という設定を見せ終わってからは、ただただありきたりな逃亡劇が延々と続く。 ヨハネスブルグをを舞台にした逃亡シーンでは、独特の煩雑さとじっとりとした空気感が、切迫さを助長していたとは思うけれど、ストーリーに特筆する程の工夫が無いのでやはりダレてしまう。 デンゼル・ワシントンは、ここ数年すっかり板に付いた印象のあるでっぷりとふてぶてしいキャラクターを安定した演技力で見せてくれるが、その演技プランももはや新鮮味には欠け、彼の名優としての実力を踏まえれば、手抜き感は否めない。 彼が演じるキャラクター的には、最後までその謎めいた不穏さを貫き通してほしかったと思う。 最も腑に落ちなかったのはラストの顛末。 CIAの下級職員だった主人公は、絶体絶命の危機を生き抜き、諜報員として得難い「経験」をしたとは思う。 しかしだからと言って、蓄積された実績がまるでない主人公がラストシーンのその後を生き残れるとは決して思えない。 愛した見納め格好良く去った次の瞬間に頭を撃ち抜かれてるんじゃないかとすら思ってしまう。 まあ適度に緊張感はあるし、アクション映画としてのスピード感も悪くは無い。 暇つぶしには適当な映画だとは思う。[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-08-02 00:27:50)《改行有》
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