みんなのシネマレビュー |
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701. 地獄でなぜ悪い いやあ狂ってる。「サイアク」な映画だ。でもだからこそ「サイコー」過ぎる。 こんなにも悪趣味極まりなく、とっ散らかった馬鹿映画なのに、目柱が熱くなっている自分に笑ってしまった。 自分自身がこの映画を楽しめる「馬鹿」だということに、幸福感を覚えた。 事実や現実という言葉ばかりが重要視される世の中。「虚像」というレッテルを貼られたものは、社会から一方的に排除される。 偽ることは褒められたことではない。でも、本当に真実だけを見ることばかりが正しいのか。 つくられた世界を愛しては駄目なのか。 この世そのものが、“作り物”で埋め尽くされた地獄なんじゃないのか。 作り物でなぜ悪い?地獄でなぜ悪い? もうそれは理屈じゃない。馬鹿と蔑まれようが、社会から排除されようが、その思いを貫き通したいすべての人々の、まるで怨念のように揺るがない信念だ。 その思いを「映画」という宝箱にぶち込み、撹拌し、無様な型で捻り出したこの映画を、愛さずになんていられない。 ミツコ(二階堂ふみ)の魔性と、平田(長谷川博己)の狂気を思い出しつつ、公次(星野源)の主題歌が延々とリフレインする。 しばらくはそういう日々が続きそうだ。[DVD(邦画)] 10点(2014-03-30 16:43:42)《改行有》 702. LIFE!(2013) 数ヶ月前にこの映画のインフォメーションを観た段階から、「好きな映画」だということは直感的に分かっていた。 人生の機微とそれに伴う悲喜劇を、こういう映画ならではの表現方法で展開させる作品には滅法弱い。 ストーリー自体にはそれほど目新しい趣向があるわけではないけれど、街並の中で表されたオープニングクレジットからエンドクレジットに至るまで終始楽しい映画だった。 平凡な中年男の主人公は、何も起こらない自分自身の人生を半ば諦め、日々空想にふける。 しかし、ふいに訪れた「転機」により一つの「行動」を起こした彼は、自分の人生に何も起こらないのは、自分が動いていないからだということにようやく気付く。 人生の転機は、ふいの気まぐれと共に偶然に訪れ、結果的にそれは必然となる。 この映画が良いのは、必ずしも「行動」によって大冒険を体験したことを賞賛するわけではなく、その結果として、主人公がこれまで歩んできた「人生」そのものに自信を持つことが出来たというところだと思う。 長年携わってきた自らの仕事に対して誇りを示し切らずにいた主人公が、自分の仕事を馬鹿にし続けたバカ上司に対して初めて啖呵を切った様こそが、この映画の最も熱い部分だ。 世界中の殆どすべての人は、「冒険」なんてすることはないだろう。何も無いような平凡な道を懸命に歩いて歩いて人生を終える。 でも、その何も無いような人生を卑下する必要など全くない。大切なことは、他の誰よりも自分自身が自分の「人生」を認めるということだと思える。 ユニークなオープニングクレジットが表している通り、人生の指針となる言葉はそこかしこに存在していて、それを一つでも気付けるかどうかが大切なのだろう。 壮大なようであり、とてもキュートで良い映画だ。溢れ出る映画的センスの高さは、ベン・スティラーという映画人の紛れもない質の高さを証明している。 観賞後に知ったが、今作は1947年の「虹を掴む男」という映画のリメイクらしい。70年近く前のオリジナルも機会があれば観てみたいものだ。[映画館(字幕)] 7点(2014-03-28 14:15:27)(良:1票) 《改行有》 703. サイド・エフェクト 「セックスと嘘とビデオテープ(1989)」で鮮烈なデビューを果たし、そのままハリウッドの頂点まで駆け上がった俊英スティーヴン・ソダーバーグ。 群雄割拠のハリウッドの中でも一際その天才ぶりを発揮し続けてきた映画監督の“一応の”「引退作品」という名目の今作は、集大成と呼ぶに相応しい作品精度の高さを感じると同時に、デビュー作との不思議なリンクも感じる映画に仕上がっている。 「サイド・エフェクト」という名のこの映画は、現代人の生活の中ではもはや切り離すことが出来ない「薬」にまつわる“あらゆる意味”での「サイド・エフェクト=副作用」を浮き彫りにする。 「薬」とそれに伴う「副作用」をスケープゴートにして描き出されるものは、現代社会そのものの病理性と、そこに救う人々の屈折した精神だった。 映画の序盤は、映し出される映画の世界観がなんだか薄ぼんやりとしている印象を受ける。 一体に何を主軸に描こうとしているのか掴みきれず、そのフォーカスの合わない感じに、居心地の悪さを覚えた。 しかし、それがある展開に伴い突如として転じる。みるみるフォーカスが合っていき、核心にピントが合っていく。 「偽り」を嫌う人は多い。何も偽ることなく生きていけるのであれば、それにこしたことはない。ただし、そういうわけにもいかないのが人生というもの。 自覚・無自覚はあるにせよ、誰だって、多かれ少なかれ何かを偽って生きているのではないかと思う。 もはや現代社会においては、それらは一方的に否定することすら不可能だ。 それこそ、常にセルフカウンセリングをして、理想と現実に対して折り合いをつけていくしかないのだろう。 そういう、この世界の“日常”に蔓延する思惑と疑心、野心と欲望、その諸々の病理渦巻く上質なサスペンスだと思う。 キーパーソンを演じるキャサリン・ゼタ=ジョーンズの美貌と艶が最高。 ルーニー・マーラの悪女ぶりも恐ろしい。 彼女たちに人生を揺さぶられまくるジュード・ロウとチャニング・テイタムに痛く同情してしまうと共に、男など本当に無力だなと思えてならなかった。 スティーヴン・ソダーバーグの卓越した映画術に感嘆した。この映画監督の才能を再認識し、その映画世界に陶酔した。 これが最後?信じないけどね。 [DVD(字幕)] 8点(2014-03-24 23:17:02)《改行有》 704. ホワイトハウス・ダウン はっきり言って「サイコー」だった。まずそれを断言したい。 久しぶりにローランド・エメリッヒ監督らしい大仰でどストレートな娯楽映画を心から堪能出来たことに、満足感を超えて幸福感すら覚える。 1996年公開の「インデペンデンス・デイ」を観て以来、誰が何と言おうと僕はこのドイツ人映画監督のファンだ。そのことを再確認出来たこともまた嬉しかった。 ホワイトハウスがテロリストに襲われ、そこに偶然居合わせた主人公が現職大統領とタッグを組みつつ絶体絶命の危機に挑むというプロット。実際に描かれるストーリーの大筋にそれ以上のひねりなどは正直無い。おそらく大抵の人が容易に予想できる大団円を迎えて映画は終幕する。 だが、「サイコー」なのだから仕方ない。ストーリーの顛末が読めようが予想通りだろうが、それでも面白いのだから何の問題もない。 僕が長らくこの大味なエンターテイメント映画ばかりを作り続ける監督が好きなのはまさにその部分で、「娯楽」の王道を貫き通した愛すべきベタ映画を見せてくれるからに他ならない。 それは言い換えれば、「俺たちが観たいアメリカ映画」を見せてくれるということだとも思う。 「インデペンデンス・デイ」と同様に、今作も紛れもない“アメリカ万歳”映画である。 自国が発端で巻き起こった世界的な危機を、世界中の誰が見ても“分かりやすい”崇高なる意地とプライドで挑み、駆逐する。 「どうだい、やっぱりこの国は凄いだろう!?最高だろう!?」と極めて直接的に訴えてくる。 その工夫の無い娯楽性、あまりに現実的ではない映画世界に対して、現実の世界情勢などを引き合いに出しつつ否定し嫌悪感すら覚える人も多々いることは理解できる。 ただし、そういう否定的感情と同時に、それでも世界中の人々がこの超大国に対して多大な“あこがれ”を抱いていることも事実。 映画を観て、空想と現実の狭間で揶揄しつつも、心の中では「こういうアメリカであってほしい」「アメリカはこうでなくちゃ」という感情が少なからず存在するのだと思う。 このドイツ人映画監督が長いフィルモグラフィーを通じて、“アメリカ万歳”の娯楽映画をひたすらに作り続けている意味は、まさにそういうことだと思える。 ともかく、小難しい感情は一旦抜き去って、馬鹿らしいアクション映画の世界にただ浸ることが、この映画に対しての正しい在り方だ。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2014-03-22 01:53:46)(良:1票) 《改行有》 705. キャプテン・フィリップス あらゆる側面において、真っ当な映画だったと思う。 実話を元に描いているとはいえ、これほどまでに徹底的に描くべきことをきちんと描ける映画はそれ程多くない。 先ずはこの映画の主演にトム・ハンクスをキャスティングした真っ当さ。 ヒーロー役が似合う華やかなスター俳優などを起用してしまったならば、分かりやすい娯楽性は高まるだろうが、この映画が求めるべきリアリティは著しく損なわれてしまったことだろう。 (勿論、この名優に華がないというわけではない) 絶体絶命の危機の中で、この主人公が見せるリーダーシップと勇気と智恵、そして執拗に突きつけられる恐怖感、そういったものを決して大袈裟すぎない絶妙なバランスで表現できる俳優は、やはりトム・ハンクスを置いて他にいなかったろうと思う。 次にソマリア海賊を演じた無名俳優たちのリアリティを追求した真っ当さ。 本当にソマリア出身の人材を見出し、主要キャストに配したことは、この映画の類い稀な説得力と成り得ている。 特に海賊側のリーダーを演じたバーカッド・アブディの存在感は抜群だった。風貌から喋り方に至るまで、映画におけるその支配力は時に名優トム・ハンクスをも凌駕していたと思う。 そして、ポール・グリーンダグラス監督による演出の真っ当さ。 元々、抑制の利いたリアルな描写が巧い監督ではあるが、今作でもその演出力は際立っている。 もっとエンターテイメントに走ったり、船長と海賊両者のバッググラウンドをドラマティックに描き出すことも容易だった筈だ。 しかしそれをせず、ひたすらに実際に起こったであろう描写のみを連ねた構成は、映画として極めて潔く、特筆すべき緊迫感を終始観る者に与え続ける。 その潔さは、今この瞬間も起こり得ている事実を描いているということへの責任と覚悟の表れだと思える。 無政府状態のソマリア、世界中の人々に荒らされた漁場、行き場を失った漁民たち……。 劣悪な環境の中で叩き起こされ、“彼ら”は海賊行為に駆り出される。 最初から彼らに「後退」という選択肢は無かったのだろう。 勿論、海賊行為を続ける彼らに対して肯定も同情もするつもりはない。 ただ、米国海軍の圧倒的な兵力の前に、完全敗北を喫した海賊のリーダーからは、茫然自失の中に一寸の安堵感が垣間見えた気がした。 [ブルーレイ(字幕)] 8点(2014-03-21 01:39:03)(良:1票) 《改行有》 706. 舟を編む 10年以上かけて延々と辞書をつくる。ただひたすらに言葉を集め、編纂する。 おびただしい言葉の海に放り込まれ、漂い、もがき、“向こう側”に辿り着こうとする映画。 極めて地味な映画である。でも、なんとも愛らしい映画だった。 「言葉」そのものを敬い、愛する日本人ならではの物語だと思う。 また、「仕事」に一生をかけることへの憧れと羨望の描き出し方も、日本人ならではの特性をくすぐるものだった。 そういう意味では、とても日本人らしい映画だと思うし、この国の人々の普遍的な一側面を世界に対して理解してもらうにも有意義な映画だとも思う。 映画としては非常にオーソドックスで面白味が薄いようにも見えるけれど、一つ一つの画づくりはとても丁寧だった。 たとえば、編集室の書類の積み重なり方や、主人公の下宿の佇まいに至るまで、登場人物たちが息づく空間の空気感がちゃんと伝わってくる。 作り込まれた映画の世界観は、時に秀逸なアニメーションに通じる雰囲気を覚えた。 特に主人公とヒロインが出会うシーンなどは、ありふれた描写ではあるけれど、とてもキュートでファンタジックだった。 主演の松田龍平は地味な物語の地味な主人公を、彼の愛妻が言うように「面白く」魅力的に演じていた。 宮﨑あおい、オダギリジョー、小林薫ら脇を固める俳優たちの存在感もそれぞれ素晴らしく、味わい深い人間模様を見せてくれた。 映画的工夫の軽微な欠如は感じ、物語の核となる「言葉」や「料理」などにもう少し効果的にフォーカスを合わせてみても良かったように思える。 そうすれば更に芳醇な映画になったかもしれないけれど、そのいきすぎない「真面目さ」がこの映画のあり方だろうし、それはひいてはこの国が見つめ直すべきあり方に繋がるものなのだろうと思う。[DVD(邦画)] 7点(2014-03-16 10:15:57)(良:1票) 《改行有》 707. キック・アス ジャスティス・フォーエバー 衝撃の問題作でありながら、その類い稀なエンターテイメント性を世界中が“スルー不可避”だった前作「キック・アス」。 その待ちに待った続編に対しては、当然誰しもが、4年前の衝撃の再熱を期待しただろう。 前作で一躍若手女優のトップスターとなったクロエ嬢をはじめ、主要キャストをきちんと再結集させ、ジム・キャリー、ジョン・レグイザモら魅力的な新キャストを揃え、体制は万全だったと言える。 おそらく、前作の“二番煎じ”をすれば、大多数の観客は分かりやすく再び熱狂しただろう。 が、前作監督のマシュー・ボーンの後を引き継いだジェフ・ワドロウなる無名監督は、果敢にもその「既定路線」をハズしにかかった。 もしかすると、この続編に対して、前作ファンの多くは「愚かな」と否定するのかもしれない。自分自身、呆気にとられた感は否めない。 けれど、結果として大多数に受け入れられるか否かは別にして、この無名監督の挑戦(暴挙)は正しかったと思う。 別の言い方をすると、この「キック・アス」という映画素材において、「既定路線」と辿ることこそが愚かなことであり、どんな形であれ観客の思惑をハズしてなんぼということなのだと思えてならない。 前作の奇跡的な娯楽性に対してこの続編が遠く及ばないことは否定しない。 ただし、前作があってこそ描き出された今作であり、この映画世界が抱える本質的な魂みたいなものは決してハズレていない。ならば「続編」としてこれほど相応しい作品もないのではないかと思える。 詰めれば詰めるほど粗だらけの映画であることは間違いないし、そもそもこの映画の製作陣は“真っ当”に作ろうとなんて端からしていない。完全に独りよがりだったとしても、ただただ自分たちが作りたい(見たい)モノの構築に没頭している。 ならば観客は、前作の余韻を引きずりながら、前作にも増して歪な映画世界の中で再度クロエ・グレース・モレッツの「支配力」にただひたすらにうつつを抜かす。 それがこの映画の正しい鑑賞のしかただ。 ただし!ジム・キャリーの使い方はあまりに勿体なかった……。[映画館(字幕)] 7点(2014-03-10 00:00:16)《改行有》 708. アメリカン・ハッスル 「詐欺師映画」として見たならば、ストーリーテリングは正直弱い。特にラストの顛末などはもっと手際の良い展開で、小気味良く見せるべきだったと思う。 しかし、実在の詐欺師と実際の事件を元にしているが、この映画は決して真っ当な詐欺師映画ではないのだと思う。 この映画の主題は、心の屈折を抱えた人間たちの人間模様であり、滑稽で愚かで愛おしい愛憎劇だ。 それであれば、“騙し合い”を主軸にしたストーリーの小気味良さなんて二の次で、手際の良さを敢えてハズして、「人間」ならではのまどろっこしい“関わり合い”が終始繰り広げられるのも納得出来る。 クリスチャン・ベール扮する詐欺師が、丹念に“自家製”のカツラを仕上げる様から始まるこの映画は、登場するキャラクターの全員が誰かを欺こうとしている。 ただし、その最たる対象は他の誰でもない自分自身であるように見えた。主要キャラクターの四者が四様に虚栄を張り、自らを欺いている。 その姿は滑稽で愚かに見えるけれど、きっと世界中の誰しもがそういう“偽り”を抱えているのだと思えた。 そして、こういう屈折した人間模様を撮らせたら、今やデヴィッド・O・ラッセルの右に出る映画監督はいない。 近年の彼の作品に出演し、その才能を引き出されたスター俳優たちの競演はもはや「オールスター」と言って過言でなかろう。 その上、ロバード・デ・ニーロが彼の十八番的な役柄登場するのだからたまらない。 考えてみれば、クリスチャン・ベールは、今もっとも“デ・ニーロ・アプローチ”に秀でた俳優と言え、彼が本物のロバート・デ・ニーロと対峙するシーンは映画世界内の設定を超越して感慨深い。 軽薄で愚かなFBI捜査官を演じたブラッドリー・クーパーも、出演作を重ねるごとに俳優としての安定感が備わってきていることは明らか。 Wヒロインとして対立するエイミー・アダムスとジェニファー・ローレンスの女優同士のせめぎ合いもサイコーだった。 ストーリーテリングの弱さを補って余りある文字通りの「競演」は、おそらく繰り返し噛み砕く程に味が深くなるだろう。[映画館(字幕)] 8点(2014-02-13 00:23:45)(良:1票) 《改行有》 709. ウルフ・オブ・ウォールストリート 乱れ飛ぶ欲望とドラッグ、そして3時間の尺を目一杯使って映し出される人間という生物の下衆の極みの様に、序盤から偏頭痛を覚える程にクラクラしっぱなしだった。 こんな人物のこんな人生が実在して、この悪行の果てに今ものうのうと生きているということに「世も末だ」と感じる。 が、それと同時にまったく逆接的な感情が、この映画を観ているにつれ大きく膨らんでいることに気付いた。 それは、実は世界中の誰しもが、この人物のこんな人生に憧れを禁じ得ないのではないのかということ。 勿論、世界中の殆どの人間は、彼の人格と生き様を否定するだろう、いや否定したいのだろう。 ただそれは同時に、彼のような生き方が絶対に出来ないことに対しての、人間という生物としての「嫉妬」ではないか。 “善悪”という価値観以前に、この世界に巣食うすべての人間は強欲なのだ。 強者が弱者を喰らうのは、至極当たり前のことであり、世界が彼を否定出来るのは、ただ単に彼の行動論理が、大多数の価値観に反しているからだ。 勿論それが社会の秩序というものであり、彼の行為を肯定する理由にはまったくならないのだが、この映画はそういう人間が本来隠し持っている真理をあぶり出しているように見えた。 一旦は失墜した主人公の言葉に群がり陶酔する大衆の眼差しを映し出すラストシーンは、人間のその愚かしい真理を如実に見せつけられているようで、思わず目を背けたくなった。 このあまりに荒削りで猛々しい映画が、71歳の大巨匠の最新作であることには驚きを越えて唖然としてしまう。 マーティン・スコセッシという生ける伝説は、映画監督という表現者の極みすらも通り越し、若返っているように思えてならない。 そして最後に言及しておかなければならないのは、勿論主演俳優レオナルド・ディカプリオ。 もはやハリウッドの頂点と言って過言ではないこの俳優が“汚れられる”ようになって久しいが、今作での汚れっぷりは尋常ではなく、どこまでも滑稽で、どこまでも凄まじい。 彼のキャリアはまだこれからも長く長く続くだろうが、このジョーダン・ベルフォート役が現時点での集大成であることは間違いない。 ともあれ、ジョーダン・ベルフォートという人物が最低最悪のクソ野郎であることは、最も間違いないことだけれど。[映画館(字幕)] 9点(2014-02-11 13:54:28)(良:1票) 《改行有》 710. 大脱出(2013) シルベスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガー、この二人が正真正銘の「競演」を果たした。 その映画的価値が身に染み入るように分かる世代の映画ファンにとって、この“大雑把”な映画を卑下する要素など微塵も見つけることが出来ない。 ストーリーが穴だらけ?当たり前じゃないか! 御都合主義のオンパレード?当たり前じゃないか!! 設定自体に整合性がない?当たり前じゃないか!!! 映画そのものが大味過ぎる?当たり前じゃないか!!!! それが、頂点を極めたこの二人だけ許された唯一無二の“娯楽性”なんだよ!なめんなよ! それにしても、監獄の「正体」をモロバレしちまっている国内のプロモーションには怒りを通り越して呆れしかない。なんだってそんな決断に至るのだ。理解不能……。[映画館(字幕)] 8点(2014-01-23 23:55:09)(笑:1票) (良:1票) 《改行有》 711. モンスターズ・ユニバーシティ 長い正月休みの暴飲暴食の狭間で唯一観た2014年の第一号は、愛娘のクリスマスプレゼントに購入した今作。 初めて愛娘と一緒に観る映画として買ったのだけれど、彼女との鑑賞時が初見とはしたくないというのは、映画ファンの我儘か。 前作「モンスターズ・インク」は、それまで若干穿った捉え方をしていたピクサーのCGアニメーションのクオリティーの高さに打ちのめされ、一気にピクサーファンに至らしめた個人的にエポックメイキングな映画だった。 それ故に、12年ぶりの続編である今作に対しては、高揚もした反面、「下手をうたなければいいけれど」と不安もあった。 特に、前作に対しての“前日譚”を描くという方向性には、「モンスターズ・インク」のストーリーテリングを踏まえると無謀とすら思えた。 ま、結果的にはそういう諸々の不安は一蹴されたと言っていい。 前作のキャラクターをそのまま復活させる代わりに、彼らの年齢設定を“学生時代”にまでぐっと下げることによって、ある種普遍的な人格の「成長」を描くことに成功していると思う。 大学生活におけるヒエラルキー、持って生まれた「才能」というものの明確な有無、が想像以上に辛辣に描きつけられるため、前作のファニー感と一転して明らかなビター感も印象的だ。 モンスターたちの世界という、アニメならではの世界観なのだから、いくらでも「夢物語」や「御都合主義」を描くことは許された筈だが、それらには決して逃げない崇高さ。 それが、世界一のアニメーションスタジオのプライドだと思えた。 ようやく2歳半の愛娘には、そんなこの映画の辛辣さなど到底理解できないだろう。 でも、それでいいのだと思う。 彼女がこれから歩んでいく人生の中で、幾度も幾度もこの映画を観て、自らの成長と共にいつか映画が描く本当の意味に気がつくのだろう。 それこそが幸福な「映画体験」だ。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2014-01-07 22:32:36)(良:1票) 《改行有》 712. 世界にひとつのプレイブック 想像以上に愛らしい映画だった。 年の瀬、描かれる映画世界の時候的にも、本質的なテーマ的にも、この頃合いに観るに相応しい映画であったことを幸運に思う。 人は人により傷つく。ならば人との関わりなんて持ちたくないと思いがちだけれども、その傷を癒すのも、また人との関わり合いだ。 面倒で、大変なことだけれど、その繰り返しがなければ、生きてはいけない。 その人間ならではの弱さと脆さ、愛すべき滑稽さを雄弁に語る映画だったと思う。 物語はそれぞれに心に傷を負い、精神をこじらせた男と女を軸に描き出される。 この映画が巧いのは、“こじらせている”のは決してこの主人公たちばかりではないということ。 彼らを取り巻く家族や友人、街の人々も、それぞれが心に何らかの問題を抱え、時にそれを仕舞い込み、時にそれを吐き出しつつ、生きている。 それは即ち、決して主人公の二人が特異なわけではなく、世の中全体が抱える普遍的な病理性なのだ。 ほんの少し切り口を変えたなら、容易にもっと悲劇的なお話にもなるだろう。 しかし、この映画は、その社会全体が抱える心の闇を豪快に笑い飛ばしている。 それはとても勇敢で、幸福なアプローチであると思う。 アカデミー賞の俳優部門のすべてにノミネートされるに相応しく、俳優たちの演技はそれぞれ素晴らしい。 その中でもやはり特筆すべきは、主演女優賞を勝ち取ったジェニファー・ローレンスだろう。 この若い女優の存在感には、この映画が持つ愛らしさと繊細さと勇敢さのすべてが満ち溢れていて、あまりに魅力的だった。 彼女がこの先さらにどのようなキャリアを辿っていくのか、映画ファンとして楽しみでならない。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-30 14:20:35)《改行有》 713. ワイルド・スピード/EURO MISSION 《ネタバレ》 この娯楽映画シリーズのファンとしては、相応しいタイミングでこの最新作を見ることができたと思う。それは、とても嬉しいことでもあり、あまりにも悲しいことでもあった。 今年の夏に、シリーズ中で唯一観られていなかった「3」見たばかりだった。 シリーズのファンなら周知の通り、“東京”を舞台に描かれる「3」は、シリーズの番外編的なニュアンスが強く、レギュラーキャストは殆ど登場しない。 そして、その中で唯一主要キャストとして登場する“ハン”の悲劇的な末路が描かれている。「3」を観た段階では、なぜ彼が独り東京に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染めているのかの説明もなく理解し難い部分があった。 が、それを裏打ちするエピソードが、この最新作では描かれている。 “或る人物”の突然の登場に驚愕するエンドクレジット後のシーンからも明らかな通り、今作は、いささか変則的に繋がっていた「3」をシリーズの本流に結びつけ、次作に向けての新展開への起点となるシリーズの中でも非常に重要な作品に仕上がっていた。 シリーズも6作目となり、正直「一見さんお断り」な状況になっていることは否めないけれど、「EURO MISSION」という軽薄な邦題にミスリードされて、劇場鑑賞を見送ってしまったことをファンとしては甚だ悔しく思う。 ハン&ジゼルの悲しい運命に対して、想定外に胸を締め付けられたことは、この娯楽映画シリーズが少しずつ培ってきた“チーム感”の結晶とも言え、ますますド派手になっているアクションシーン以上の付加価値だったと思う。 あと、タイミング的には、「エージェント・マロリー」も今年観たばかりだったので、ジーナ・カラーノのナイスなキャスティングも嬉しかった。復活したミシェル・ロドリゲス嬢との“肉弾戦”は白眉だった。 そして、2013年11月30日、ポール・ウォーカーの突然の訃報。 そのあまりに悲しくショッキングな出来事が、この映画シリーズに与える影響は当然計り知れない。 映画スターの死が、その人の周囲の人間は勿論のこと、世界中の映画ファンに悲しみを与えるということを改めて思い知った。 心より冥福を祈りたい。 ただ、叶うことなら、撮影中だったシリーズ最新作「7」の完成を待って、彼の最期の姿を心に焼きつけたい。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-23 14:59:00)(良:1票) 《改行有》 714. ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 ついに進退窮まった最後の局面において、主人公は「これは誰のせいでもない」と達観する。 それはすべてをやり尽くした上での諦めの境地のようにも見えるが、やはり、彼女がようやく辿り着いた“生きる”ということに対しての強い覚悟の表れだったと思える。 子を亡くし人生に打ちひしがれた主人公は、自分に与えられた仕事にひたすらに没頭し、その結果気がつくと「宇宙空間」に居たのだと思う。 それは彼女にとっては逃避に近い行動だったのだろう。 そこに訪れた文字通りに絶体絶命の危機。 無重力の怖さ、無音の怖さ、無酸素の怖さ、どこまでも広がる「無限」の怖さ、宇宙空間の虚無的なリアリティとそれに伴う絶対的な恐怖を描き抜いたこの映画は、一人の人間の弱さと脆さ、そして「生」に対しての神々しいまでの「執着」を導き出していく。 「宇宙」というものに少しでも興味を持った人ならば誰しも、あの「空間」に放り出されることを想像し、その恐怖に総毛立ったことがあるはず。 この映画の発端は、まさにその誰しもが覚えた恐怖感であり、紡ぎ出されるストーリーも極めてシンプルだと言える。 しかし、シンプルだからこそ、その徹底された無重力世界の描き込みの総てにおいて驚嘆せずにはいられなかった。 登場するキャラクターはほぼ2人きり。しかも映画の大部分は、サンドラ・ブロックによる“孤独感”のみで描かれる。 余計な人物描写や回想なんて完全に排して、今その瞬間の「現実」と、それにさらされた主人公の等身大の姿のみで描き切ったこの91分の映画の潔さが素晴らしい。 「結末」は誰しも容易に想像できる。 それでも、繰り広げられるスペクタクルの一つ一つに例外なく息を呑み、終始主人公と同様に息苦しさすら覚え続けた。 そして無重力下で球体化する彼女の涙を見て、こちらも涙がこぼれた。 果てに、彼女は地上に降り立ち、地球の地面に屈服する。 紛れもない重力に喜びを感じ思わず笑みを浮かべる。 赤土を握りしめ、彼女は再び立ち上がる。 映画全編に渡るあらゆる比喩は、彼女が「再誕」したことを如実に表現している。 凄い。本当に凄い映画だ。[映画館(字幕)] 10点(2013-12-14 15:16:04)(良:6票) 《改行有》 715. 悪の法則 《ネタバレ》 ラストシーン、或る人物が「お腹がすいた」と一言発し、暗転、この映画は終焉する。 その瞳は、愉悦を覚えているようにも見えるし、欲望を満たすことを続けなければこの「世界」では生き続けられないということを、この映画に登場する誰よりも“正確”に理解している人間故の深く暗い悲哀に溢れているようにも見えた。 非常に哲学的で、極めて奇妙な映画であることは間違いない。 豪華キャスト勢揃いによる麻薬取引を軸にした“犯罪エンターテイメント”と高を括って観てしまうと、虚をつかれることは避けられないだろう。 マイケル・ファスベンダー演じる主人公が、終始ただ「カウンセラー(弁護士)」と呼称されることに表れている通り、この映画ではキャラクターのバックグラウンドに踏み込むような描写は一切無い。 それどころか、彼らがどういう経緯と理由で「悪」に手を染めているのかということも明確にならないし、描き出されるストーリーの“顛末”においても、「誰がどうしたからどうなった」という、普通の娯楽映画であれば当然ある筈の「事の真相」も抜け落ちている。 もちろんそれは描き手の明確な意図によるものであり、この映画で真に描き出したいことが、表面的にショッキングなバイオレンス描写やセックス描写などではなく、善悪の境界すらも超越した、彼らが生きる「世界」の本質的な「仕組み」の話であることに他ならない。 それはまさに、野うさぎを本能的に追うチーターの姿と何ら変わりない。 「捕食者」と「被食者」というたった二つの立場しか許されないピラミッドの縮図と、その真理だ。 そこには慈悲もなければ、憎しみすらない。ただどちらかが生きるために、どちらかが死ぬという極めてシンプルな「法則」があるだけ。 そのあまりに意欲的で野心的な映画世界を、「最新作」として送り出す大巨星リドリー・スコットの映画監督しての意識の“若々しさ”と“雄々しさ”には、毎度のことながら感服せずにはいられない。 映画作品としてのクオリティーを鑑みればそんじょそこらの映画監督が撮れる作品でないことは明らかだが、御歳76歳の大巨匠が描き出すような類いの作品ではないこともまた然り。 「衰え知らず」とは、まさにこの人のためにある言葉だと言っていい。 とても誤解されやすいタイプの映画だとは思うが、だからこそ、含まれた「真意」に対しての戦慄は殊更に際立つ。[映画館(字幕)] 9点(2013-12-08 22:47:11)(良:1票) 《改行有》 716. オーメン(1976) よりによって妻子が実家に泊まり誰もいないひとりぼっちの夜に、この有名過ぎるホラー映画を観なければならなかった一週間レンタルの最終日。 ホラー映画に限ってはまだまだ“ビギナー”なので、どうなることかとビクビクしながら観すすめたが、流石はホラーというジャンルを超えた「名作」の呼び名に相応しく、“しっかり”と面白かった。 “恐ろしい”映画であることは言わずもがなだが、描き出される物語をどう「解釈」するかによって、この映画の“恐ろしさ”は大いに様変わりすると思う。 映画が伝える雰囲気のまま、悪魔の申し子“ダミアン”の禍々しさに恐怖することも勿論正しかろう。 一方で僕は、この映画が伝える「恐怖」のもう一つの側面に震えた。 それは即ち、この映画において、ダミアンは「実は何もしていない」という事実だ。 描き出される“おぞましさ”の殆どは、彼を崇める悪魔崇拝者の言動によるものであり、主人公のグレゴリー・ペックらを襲う恐怖の正体も、神にしろ悪魔にしろ狂信者たちの煽動によって導かれたものに過ぎないのではないかということ。 ラストの顛末に明らかなように、端から見れば、主人公の姿は完全に気が狂った父親にしか見えず、この映画が描く本当の恐怖は、「悪魔」の存在などではなく、人間が元来持っている不安定さとそれに伴う危うさそのものであることに気付かされる。 ジェリー・ゴールドスミスの荘厳な調べに誘われて、深く暗い「恐怖」というエンターテイメントを堪能した夜だった。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-03 01:01:37)(良:2票) 《改行有》 717. ザ・マスター ホアキン・フェニックスの「風貌」が全部すごい。 眉間の深い皺、深く窪んだ目、背中の曲がり具合、腰に手を当てる独特の姿勢、主演俳優の完璧な“役作り”そのものが、この映画のハイライトであることは間違いない。 映画とは「人間」を描くものであり、時には、そこに息づく人間の姿そのものが、ストーリーを凌駕して脳裏に焼き付く。この映画は、そういうタイプの作品だったと思う。 「映画」として面白かったかというと、必ずしもそうとは言い難い。想像以上に分かりにくく、腑に落ちない要素が多い作品だったと言える。 主として描かれるのは、トラウマを抱えた帰還兵である主人公と、彼が師事した新興宗教の教祖、この二人の人間模様である。 この二人をはじめとして登場人物は限られており、極めて限定的な人間関係を描いているにも関わらず、主人公らの言動の真意が非常に汲みづらかった。 ふいに出会った二人が明確な理由なく惹かれ合っていく最初の船室での対峙シーンには、見応えと説得力があった。 ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンという、ハリウッドでも指折りの巧い俳優同士の抜群の演技力を堪能できるシーンだったと思う。 ただし、そこから繰り広げられるこの二人の男の衝突と絆の様には、意思が読み取れない部分が多々あり、一転して説得力に欠けて見えた。 己の理解力の無さも勿論あるのだろうけれど、やはり脚本が脆弱性も多分にあると思わざるを得ない。 俳優らの演技は終始素晴らしいし、卓越したカメラワークによって映し出されたシーンはどれも心に染み入ってくる。 ポール・トーマス・アンダーソンの映画を観るのはこれでまだ3作目だが、1970年生まれのこの監督が、「巨匠」と呼ばれ始めるのにもはやそう時間はかからないことは明らかだろう。 だからこそ、今作についても、脚本にもうほんの少しの訴求力があったなら、きっと「傑作」になったに違いないと思える。惜しい。 ただ、この映画のホアキン・フェニックスはきっぱり凄い。それだけは何度でも言いたくなる。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-12-03 01:00:19)《改行有》 718. ラストスタンド おかえりなさい。シュワルツェネッガー。 と、エンドロールを待たずして言いたくなった。 脱走した麻薬王が、最速のコルベットに乗り込み、メキシコ国境突破を図る。 その極悪人を、国境最後の小さな町で保安官をしている主人公が、迎え撃つ。 あれほど用意周到な脱走計画を駆使したのに、なぜわざわざ車に乗り込み強行突破をするのか。 普通、この映画を誰しもが考える突っ込みどころだ。 しかし、この映画にそのような突っ込みは、ナンセンス以外のなにものでもない。 なぜなら、これは、アーノルド・シュワルツェネッガーの映画なのだから。 80年代から90年代にかけて、映画を観始めて、常にエンターテイメント映画の中心に「彼」が居続けた世代の映画ファンにとっては、もうその一言で、この映画を否定する余地は全く無くなるだろう。 確かに「老い」は隠せず、完全に初老の風貌の稀代アクションスターに対して、若干の寂しさは覚える。 シルベスター・スタローンやブルース・ウィリスらしのぎを削った同時代の他のスターたちに比べても、長年俳優業にブランクがあった分、アクションシーンに関わらず演技そのものにキレがないことも否定できない。 しかし、腐っても鯛とは言わないが、それでもアーノルド・シュワルツェネッガーはアーノルド・シュワルツェネッガーだった。 重火器を振り回し、体術なんて完全無視でひたすらに拳を打ち付け、悪党に立ちはだかる。 アクションシーンに説得力や格好良さなどないけれど、その姿そのものが確固たるエンターテイメントなのだ。 この復帰作を観て、そのことを久しぶりに思い出し、懐かしく、嬉しかった。 ハリウッドデビューとなった韓国人監督キム・ジウンの力量も確かなものだ。 新しい環境で決して思い通りの映画づくりが出来たわけではなかろうが、この映画が目指すべき娯楽性の方向性をしっかりと見据え、大物俳優を主演に迎えてもぶれることなく仕上げたことは、自国の映画界で培った実績の賜物であろうし、称賛に値すると思う。 アーノルド・シュワルツェネッガーの時代なんてとっくに終わった。と、多くの人が思っているだろうし、僕自身もそう思っていた。 しかし、まだまだ「彼」を観たい。そう改めさせるこの人のスター性は、やはり特別なものだと思う。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2013-11-28 17:12:24)(良:1票) 《改行有》 719. かぐや姫の物語 今まで観たことがないアニメーション表現、そして、それに伴う今まで感じ得たことのないエモーションを感じられる、日本の、いや世界のアニメーション映画史に残る作品であることは、間違いない。 線と色、そして空白からなるアニメーションの「真髄」を導き出し、そのまま象ったかのように構築された類い稀な映画であろう。 何の迷いも無く、「賞賛」に値する。 しかし、「じゃあ、面白かったか?」と問われると、素直に首を縦に振ることは出来なかった。 映画とは、奥深く、難しいものだと、つくづく思う。 もちろん、他のジブリ映画の例に漏れず、この映画もこの先何度も繰り返し観ることだろう。 そして、他の多くの作品と同じように、観返す度に新しい発見をし、評価が深まるに違いない。 しかしながら、映画鑑賞という行為の価値は、初見時に集約され、殆どの作品はそれに決するということもまた事実。 であるならば、この“初見”で真っ先に頂いた感情を誤摩化すわけにもいかず、「物足りない」と言わざるを得ない。 期待し、想像を膨らませていたイメージよりも、ずっと普通の「竹取物語」だった。 「かぐや姫の物語」と堂々と銘打っているわけだから、描かれるものが「竹取物語」で悪いはずもなく、製作者の真っ当な意向に難癖を付けることは、甚だお門違いだとは思う。 ただ、個人的な期待感は、これまで見たことが無い“かぐや姫”の物語、そして知り得なかった「竹取物語」の真相のようなものに対して突っ走ってしまっていたのだと思う。 だから、あまりに真っ当な「竹取物語」を目の当たりにして、落胆に近い感情を持ってしまったのだと思う。 言うまでもないことだが、高畑勲という日本のアニメーション界の大巨星が渾身のエネルギーで生み出した世界観は、もちろん素晴らし過ぎる。 描写の一つ一つに息を呑み、感動したことは確かなことだ。老若男女問わず日本中の人が観て、愛されてほしい作品だとも思う。 ただし、一個人の勝手に違った方向に膨らみ過ぎた期待にほんの少し沿わなかったという、ただそれだけのことだ。 [映画館(邦画)] 7点(2013-11-28 17:10:37)《改行有》 720. ベルリンファイル 《ネタバレ》 洗練されたアバンタイトル、迫力と説得力に満ちたアクションシーン、俳優たちの優れた実在感。「スパイ映画」としての娯楽性を十二分に備え、しっかりと面白い映画世界に対して、“いつものように”羨望の眼差しを向けざるを得ない。 決して実績を積んでいるわけではない殆ど「新人」とカテゴライズされる若手監督が、これほどまでに“確かな”エンターテイメント作品を撮り上げてしまうのだから、相も変わらない韓国映画界の充実ぶりには、羨ましくて、よだれが出そうだ。 北朝鮮の諜報員である主人公が緊張感を携えて自宅へ戻る様をスタイリッシュに描いた冒頭のアバンタイトルを観た時点で、この映画が一定レベルのクオリティーを備えていることは明らかだった。 また一人、韓国映画界に世界レベルの「才能」持った映画監督が登場したことを認めざるを得ず、リュ・スンワン監督は、すぐにでもハリウッドで通用する映画が撮れるとすら思える。 卓越した映画世界に息づく俳優たちも、揃いも揃って良い。 主演のハ・ジョンウは、独特の素朴な風貌と内に秘めた危うさが、いい塩梅の雰囲気を醸し出し、得体の知れない「北側」のスパイを抜群の説得力もって演じていた。 もはや韓国を代表するベテラン俳優であるハン・ソッキュは、「南側」の諜報員として主人公と対峙し、やはり抜群の存在感を見せていた。彼の出世作でもある「シュリ」で演じたキャラクターの延長線上に今作のキャラクターを被せてみると、また違うドラマ性が見えてきて興味深かった。 主人公の妻を演じるのは、みんな大好きチョン・ジヒョン。ご多分に漏れず、「猟奇的な彼女」以来の彼女のファンだが、これまでの出演作とはまた違う表情を見せ、薄幸ではあるが芯の強い美女を好演していたと思う。 個人的に最も印象的だったのは、悪役のリュ・スンボムとうい俳優。登場時は軽薄なチンピラ風情で、完全にやられ役だと思えたが、ストーリーが進むにつれて、まあイヤな感じの悪役に進化していった。クライマックスのある展開など、彼がこの映画に一つのインパクトを与えていることは間違いないと思う。 韓国映画らしく、血なまぐさく、シリアスな展開も踏まえて、ラストはしっかり高揚させてくれる。 こういう映画的なセンスの高さは、やっぱり羨ましい。 なお、“ウラジオストク”の位置が曖昧な人は、鑑賞前にGoogleマップを確認しておくことをお勧めする。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-11-27 00:15:43)《改行有》
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