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61.  ドラゴン・タトゥーの女 《ネタバレ》 恋愛映画でした。男は彼女の奇抜な容姿をみても偏見を持たなかった。彼女は生まれてはじめて他人から頼りにされることに喜びを感じた。それが恋愛感情につながった。原作はスウェーデン語で「女を憎む男たち」その男たちとは、後見人のデブ野郎、リスベットの鬼畜パパ、女殺しが趣味の変態親子・・である。リスベットの奇抜な恰好は、子供時代に性的暴力を受けてきた事と関係がある。彼女は、男たちから性的な対象と見られないようにするために、男のようにふるまってきた。両性愛者という設定などは、表面上のことに過ぎない。彼女はトラウマのために、男を演じてきたのです。すなわち、ドラゴンのタトゥーは、男に対する防御手段なのです。男という生き物はなぜか常に女を憎む。卑怯な男ほど、猫や鳩の虐殺と同じように、弱者を攻撃したがる。「女のくせに」とすぐ口走る男たち、その言葉の裏には「弱いくせに」という言葉が隠されている。お前らはネトウヨ以下だ。だからこの話は女であるがゆえに虐げられてきた女たちの物語なんだ。女のジハードなんだ。その執行人が、リスベットだったんだ。鬼畜パパは全身火まみれ、デブの後見人は拷問責め、犯人のパパは水死、犯人は車内で大炎上、バカ男たちの殺され方はどれも痛快無比です。共感できました。私とリスベットが、何かつながってるってゆう感じ?そういうふうに感じたのは初めてだし、だいたいそういうの大嫌いな私ですが、彼女を自分の娘のように応援できたのは収穫でした、娘なんていませんけどね。できれば女性に観てほしい映画です。[DVD(字幕)] 8点(2012-08-19 21:24:01)(良:2票)

62.  メランコリア 《ネタバレ》 トリアーの作品の多くは、神経の弱ったアウトローの人間を、まわりの複数の人間たちが、「もっと周りの人間たちと協調しなさい」と注意したり、「かわいそう」と同情したり、憎んだりする描写が中心に描かれている。鬱とは何か?それについて他人は「悩むな」とアドバイスを与える。「もっと頑張れ」とも言う。しかしそのアドバイスには、憎しみと軽蔑が含まれていることに、言っている本人たちが気が付いていない。これを偽善という。トリアーはこの「偽善」を描くために生きているようなものだ。社会の一員になれない異端児を攻撃する本能が、われわれ社会にはある。地球破滅願望の心理は単純です。今、鬱病の自分が持っている不安を凌駕する不安が起これば、小さな不安は消えるからです。しかもそれは自分だけの不安ではなく、自分に対して「もっと頑張れ」とアドバイスをおくる憎悪すべき人々まで巻き込むことができる。姉のクレアの「滅亡」に対する恐怖は、さぞかし主人公にとっては心地よかったと思います。反対にメランコリアが地球から離れていこうとしたとき、彼女は少しがっかりした様子さえ見せます。トリアーはどの作品でも一貫して、社会の一員になりきれない弱者を描いてきた。そしてそういう弱者を周りの我々が、同情や軽蔑によって攻撃する様子を、偽善を交えて描いてきた。偽善こそ憎むべき存在であり、それは人類そのものを意味する。メランコリアは主人公の期待通り、すなわち彼女の敵である我々を滅ぼすために、再び地球に接近する。そして滅亡!ついに出たよ、トリアー流のハッピーエンド。彼の頭の中は人類に対する復讐心でいっぱいなのでしょう。そして私はそういう彼に共感するのだ。勇気を持って爽快感を味わえる映画だと断言しておきます。[DVD(字幕)] 10点(2012-08-18 20:18:55)(良:1票)

63.  コクリコ坂から 《ネタバレ》 もはやジブリは誰が監督でもそれほど差はない。これはほめ言葉です。つまりアリエッティにせよ、コクリコ坂にせよ、ポニョにせよ、レベルはほぼ同じで高水準です。誰がメガホンをとろうがジブリはジブリであり、監督が違えども、選手は同じなのです。本作品をみて改めてジブリの絵は「ヘタウマ」に変化しつつあると思った。本当は俺たち、写真のようにリアルティのある絵を描けるんだぜ、だけどそういう路線には進まないんだぜ、とジブリは言っているのです。彼らの矜持にたいし、私は畏敬の念を感じずにはいられない。よくピカソの絵は下手なんじゃないの?という議論が持ち上がる。ひょっとしてジブリの創り出す絵はピカソ的方向に向かっているのではないか?つまり多視点への挑戦です。表現力の追及です。さらに古き良き時代がノスタルジーとして描かれている。かといって単なる懐古主義に終始しているわけではなく、未来への希望が前面に打ち出されている。実は学園闘争の描写は「挑戦」に対するメタファーになっており、そこに人間賛歌が描かれている。しかも小難しいメッセージがない。もし駿が今映画を作っているならば、原発問題へのメッセージまでも織り込みそうでかえって怖い。我々映画ファンは、外国人に褒められるようなバカなアニメ映画はもうたくさんなのだ。ちなみにこの映画が楽しめるか否かの生命線は、ヒロインの海を応援できるか否かにかかっていると思います。海が母親から真相を聞いて泣き出すシーン。私は鼻水垂らして号泣でした。なぜ海は泣いたのか?その涙はうれし涙ではないと思う。張りつめていた不安や緊張感から一気に解放されたがゆえの涙だったに違いない。結ばれない恋愛と思いつつも私はあなたを好きになってよかったというあの気丈セリフ。君の一挙一動に私は涙で脱水症状寸前でした。ジブリの魅力はたしかに冒険もあるでしょう。しかし真のジブリの魅力とはヒロインの魅力に尽きる。時にはブタやババアを主役にして大コケすることはあるがナウシカ、シータ、キキ、トトロの姉妹、それら少女の人物描写こそジブリの財産であることをジブリ自身が自覚していることに私は安堵した。良い主人公だった。だから良い映画だったと心から思う。私の感想はそれに尽きる。[DVD(邦画)] 9点(2012-08-18 20:07:17)(良:1票)

64.  英国王のスピーチ 《ネタバレ》 私は真面目すぎるのかもしれない。だが英国王がファック、チンポ、オッパイ、それはないだろうとおもった。それとも私の字幕が異常だったのか?仮にこれが真実に基づいたものであってもあまりに下品すぎる。日本の「テンノウ」で同じことをやってみせたらおそらくネトウヨは怒る。いや日本の全国民が激怒する。だからイギリスは寛容すぎるとおもった。吃音といえば日本人ならばやはり三島の小説「金閣寺」を連想します。吃音は自意識が過剰になる。自分が憐みの目で見られるのは吃音のせい、自分が好かれるのも吃音のせいで同情されているから。自意識の塊だった三島だからこそ生まれた奇跡の物語でした。しかしこの映画の吃音に対する心理描写は決して深くはなく、単にチンポと叫ぶ王様のキャラの一面として紹介しているだけでした。残念なことに私はその王様が好きになれませんでした。下品という理由だけではありません。彼は雇った平民に意見されたために激怒し、平民の父親の卑しい身分を持ち出して罵倒、その後、せっかく謝りにきた者にたいして、「王の謝罪を待つ者は長く待たなければならない」とあの腐ったセリフ。おまえ、何様だよ?もちろん王様だろう。オッパイと叫ぶクソ王様だ。聖人君子とは程遠い単なるバカ男だった。やるせない思いで映画を見終えたあと、私は冷静さを取り戻して静かに考えた─。今の不景気で暗い世の中において、誰が国民を勇気づけるメッセージを送れるか?国の王様か?テンノウか?それとも増税大魔王の野田首相か?または鈴木イチローか?なでしこか?自問自答による問題提起は2秒で結論が出た。やはり身分の高い人よりもスポーツ選手が国民に希望と誇りをもたらせてくれるとおもった。高貴な身分だけでは人は人を感動させることはできない。 [CS・衛星(字幕)] 1点(2012-05-06 22:46:36)(笑:3票) 《改行有》

65.  東京島 《ネタバレ》 十五少年漂流記のように、みんなで助け合って危機を乗り越えていくという涙ぐましい美談は1つもありません。エゴイズムの極致を追求したあらゆる描写が収斂されています。その象徴的な人間が清子とワタナベですね。ワタナベの変人ぶりは目に余るものがありますが、彼の他人に対する嘲笑や激しい復讐心の源泉は、他者との齟齬の自覚にあります。つまり過剰な自意識の裏返しなのです。だから彼は無人島で自意識が解放され、光り輝いたのです。清子は完全無敵のエゴイスト。生き抜くためにはどんな卑劣な手段を用いることも逡巡しない強さが秘められている。非力だがザバイバル能力はランボーすら凌駕する。清子とワタナベはまさにトウキョウ島の申し子であり、2人は水を得た魚のごとく一瀉千里の勢いで活き活きと島をかけめぐる。その描写はじつに素晴らしいものがある。人が秘める本能を「食欲」と「性欲」の描写を執拗に描くことによって炙り出すこと成功した。人間にとって「社会」とは摩擦相克の場だということも分かるかと思います。ちなみに東京島のオトコ連中は、この世の男尊女卑の思想を代表する愚か者たちなのである。現実問題としても、この世は男女平等を謳いながら男尊女卑がまかり通っている。罵るときは「バカ」だけでいいのに、わざわざ「バカ女」と言ったり、女性の弁護士にわざわざ「女弁護士」とつける。その根底には女性差別が含まれているのだ。「東京島」が痛快なのは男尊主義者たちが怒りで失神しそうな内容の物語だからだ。清子は女性軽視のバカな男たちを踏み台にして、ついに自分だけ無人島を脱出する。こんなに痛快な小説はあるだろうか?清子バンザイ!桐野の小説は、男をのこぎりで切ったことにより、男をばかにしていると批判されて直木賞を逃したこともあるが本当にばかな中年男たちは、人間の本質がわかっていないのだ。ハリウッドのリメイクではぜひ女優レニー・ゼルウィガーが清子役をしてもらいたい、第二候補は杉田かおるでよろしく頼む。[DVD(字幕)] 7点(2012-02-25 21:25:21)(良:1票)

66.  ヤコブへの手紙 《ネタバレ》 まず特徴的なことは登場人物が極端に少ないことです。盲目の牧師、人殺しの女、そして郵便配達人。この3人のみです。ヤコブは終始痛々しい。盲目であり、身内もいなく、家はボロボロで、自分自身の体もボロボロ。案の定、彼はすぐくたばる。人生は理不尽であり「白い犬」などいないのだ。そんな老人のことを、関取の豊響にちょっと似ている女は、終始傍若無人な態度で、よぼよぼの善人のじいさんに接する。特にヤコブの手紙を読むのが面倒臭いという理由で捨ててしまうシーンなどはかなり残酷でした。しかも金まで盗んで出て行こうとする。そんな女でも、タクシーに乗って家から出ようとしたとき、急にある事実に気が付きます。「自分には行く場所がない。」という事実に─。女は自殺しようとする。この瞬間、私は彼女を赦した。そしてラストシーン、絶望したときに発したヤコブの言葉─「わたしは神のために、手紙を読んで、そして人を救っていると思っていた。しかし神がわたしのために手紙を与えてくれていたのだ」と。人は生かされているという事実─。どんなに信仰を持った信者でもなかなかそれを意識することは難しい。むしろ信者や神父だからこそわかるはずもない真実なのだ。人は努力して頑張っているときほど、頑張っている自分が偉いのだと思いこんでいる。そして大抵は人がみえない恩恵を受けている事実に気が付くときは、その恩恵を失ってからだ。人間は愚かだ。失って気が付くのが人間だ。人を救うことすら、救う人間にたいして、自分自身が救われている。人の役に立ちたい、誰かのために生きる、という考えも、ある意味では人間の驕りなのかもしれません。女の苦しみを救った瞬間の、ヤコブのあの嬉しそうな顔─。救われたのはじつはヤコブでした。神がヤコブを救うために、ヤコブの前に豊響を遣したのだとおもいます。ヤコブの手紙には宗教問題にかかわらず、すべての人間に当てはまる普遍的なテーマが描かれているとおもいます。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2012-02-20 23:21:34)《改行有》

67.  ソーシャル・ネットワーク 《ネタバレ》 マークの心理描写は120分中、冒頭の7分弱で終わる。その後、マークの側にいたサベリンの心理描写が克明に描かれている。「おれが最初にマークを評価したんだ、おれがマークと一緒に成功するんだ!」という彼の焦燥感が伝わってきました。それなのに双子の資産家や山師のショーンがあとからやってきて、マークという宝の山の奪い合いをはじめる。金の匂いに敏感なやつらだ。勝者は嗅覚が優れている。比喩的な表現になりますが彼ら勝ち組は、マークという名の錬金術師を見つけたのです。そして政治家顔負けの謀略を繰り広げ、そのなかでサベリンが見事に脱落してしまった。この男の孤独が痛いほどわかる・・そしてこんなときのマークの心理描写は意図的に省略されている。すなわち製作者は、マークを物質的な「金のなる木」と見立てている。それゆえに主観は極力排除されている。彼は単なる金、もしくは宝の山の象徴なのだ。この手法により「金」に群がる者たちの人間模様─、右往左往し、そして一喜一憂するヒューマンドラマを描くことに成功した。そして裁判。どんな判決が出ても、けっして勝者がいない裁判。果たしてこれは本当に成功者の物語なのか?ハーバード連中の勝ち組の物語のようにみえて一筋縄にはいかないそんな曲者ぶりがこの作品には終始漂っている。ソーシャルネットワークという事象に限らず、才能溢れる人のまわりでは、常に大金が動き、独特の嗅覚をした奴らがそこに群がってきやがる。冗談じゃない。この映画はフェイスブックだとか、起業家の実像なんていう話はどうでもよくて、宝の山に群がる人間たちの人間模様を描きたかったのだとおもう。そしてその試みはじつに見事に成功したものだと考えます。 [DVD(字幕)] 9点(2012-01-27 22:29:37)(良:3票) 《改行有》

68.  デビル(2010) 《ネタバレ》 逆さま映像から始まる。カメラは見えない何かを追っているかのごとく、奇妙な動きを繰り返し、問題のビルに照準をあわせピタリととまる。その瞬間、ビルから人間が落下。ついにデビルがこのビルに狙いを定め、「仕事」を開始したことを表現している。アイデアは最高だった。密室エレベーターの中で、人が次から次へと死んでいく怪奇現象、その現象を監視カメラを通して、なすすべもなく見つめる部外者たち、彼らの声はエレベーター内には聞こえるが一方通行となっている。この絶妙な設定により、刑事による素性調べが抜群に面白くなった。刑事がビル内を走り回って彼らの素性を調べたら、なんと被害者全員が罪を抱える人たちだった。ここで観客はだれが犯人なのか?と焦燥感を覚えるだろう。しかしである。シャマランゆえに、犯人探しがテーマではない。「デビル」という怪奇現象をメタファーとして表現することに重点が置かれているのだ。それを私なりに解釈してみる。エレベーター内の人間たちはこの世の縮図だ、人は外見では判断できないが、誰もが罪を抱えて生きている。自分に罪がないと思っている人間がいますか?いたら手をあげてください。はい、素直に手をあげてくれた人、あなたは間違いなくデビルに秒殺されます。「悪人」がデビルの標的にされたのではない。罪に無自覚な者が標的にされたのだ。デビルの魔の手から逃れた男は、己の罪を自覚した─。ゆえあの刑事は赦しの感情が芽生えた─。もし、誰もが己の罪を自覚して生きれば、もっと他人にやさしい世の中になっている、違いますか?私はそう思う。映画の究極のメッセージはここに濃縮されている。赦しの本質はそこにある。宗教的な言い方をすれば、罪を背負って生きていく決意をした男の命が救われたのだ。そしてラスト。映像は逆さまから元に戻る。この映像のみでデビルが去ったことを暗示させている。いかにもシャマラン風味。想像こそ映画の醍醐味だと改めて感じさせてくれる。 [DVD(字幕)] 10点(2012-01-27 22:05:49)《改行有》

69.  ブラック・スワン 《ネタバレ》 ナタリーポートマンの簡単な経歴です。ハーバード大卒(日本で言えば東大)、テストは常に90点以上、4歳から英才教育。そして彼女が常に野心的な作品に出演し、ディカプリオ同様に悲願のオスカー獲得に執念を燃やしてきたことも周知の事実です。その点を踏まえると、白鳥の湖の主演に抜擢されることに執念を燃やす秀才バレリーナのニナは、オスカー獲得に執念を燃やす秀才女優のナタリーと見事に重なってくる。テーマは、「優等生キャラからの脱却」 すなわち秀才から黒鳥への変貌でオスカー獲得です。すべての女優は、美人であることは当然で、その上にプラスアルファー(+α)が求められている。当該+αの隠喩が黒鳥であり、女優のだれもが黒鳥を目指して演技しているのだと思う。演技力NO1の努力家バレリーナーのニナに不足しているものは、酒場で、リリーの周りに自然と男たちが集ってくるあの状況、つまり男を魅了する才能が不足していた。「魅力」は努力では克服できない。コーチはただのスケベやろうではなく、ニナに「女」になることを求めていた。彼は仕事人としては、本質を見抜く力のある優秀な男だった。しかしニナは母の作った箱の中でしか生きてこなかった、ゆえに自分を解放する術を見出すことができなかった、白鳥が限界だった、黒鳥にはなれなかった。その反動が殺意となって母親に向った。さらに秀才の主人公を襲った恐怖は、目の前に黒鳥になれる自由人のリリーが登場したことに他ならない。ちなみに母親やリリーの、主人公に対する嫉妬はありえない。それはあくまで主人公の被害妄想だと私はみる。被害妄想にとらわれた主人公は、白鳥にしかなれない自分を殺すことによって黒鳥に生まれ変わろうとしたのだ。そしてその行為そのものが悲劇を意味している。万年ノミネートどまりの秀才女優のナタリーが、ついにオスカー女優(黒鳥)に変貌した。これがナタリーのメタファーに満ちた純小説だと言われても私は驚かない。[DVD(字幕)] 9点(2012-01-04 20:23:59)(良:4票)

70.  闇の列車、光の旅 《ネタバレ》 個人的な話で申しわけありませんが私はクソ男が嫌いだ。その「クソ男」が主役でした。主役はクソギャング。クソがクソったれの男の子をギャングに勧誘したことがきっかけで、そのクソの男の子に殺されてしまうというクソドラマなのです・・。救いようがありません。普段なら躊躇なく0点ですね。ただ、映像が恐ろしいほど綺麗でした。こんな綺麗な映像は、タイトルは忘れましたが、台湾の監督が作った日本の北海道を舞台にしたあの映画を彷彿とさせるほど素晴らしかったです。こうみえても私も18切符を使って四国一周旅行をしたことがあるのですが、「闇の列車、光の旅」で、主役のクソとヒロインがアメリカへ行こうとしているその列車の描写は、まさにその「四国」と一緒な印象を受けました。主役のクソは悪党でした。しかし彼は「愛」を知って、理不尽な行動に出る。それが悪の頂点にたつクソボスを殺すという暴挙です。「愛」は見境がなくて怖い。しかし「愛」は損得なんて忘れてしまう。主役のクソはなんと「愛」のせいで、ギャングから「善人」になってしまった・・。それゆえに殺されてしまう。そんな物語、私の知る限り、何百回も観てきた・・。しかし何度観てもやはり切ない。悪が善になったがために自滅するという話・・。久しぶりにクソ男に同情して好感を持ってしまいました。想像を絶する綺麗な映像に乾杯!ワウワウに乾杯!クソ男に乾杯! [CS・衛星(字幕)] 8点(2011-11-13 21:12:30)《改行有》

71.  [リミット] 《ネタバレ》 ダイハードのマクレーン刑事を思い出した。警察は基本的に犯人の要求に従おうとする。特に日本はそうだ。なのにアメリカは違う。人命を尊重し、犯人の要求に従おうとすると、なぜかその行動はテロリストのいいなりだ、弱腰だ、というスタンスで描かれてしまう。そんな弱腰の組織に対しあのバカ者のマクレーン刑事は「テロに屈するな!」とほざいて孤軍奮闘する。そしてテロリストを叩きのめす。そのおかげで人質は殺されまくりだ。飛行機の大爆発なんて人質の乗客が何百人死んでいるんだよ。この映画、じつはその「人質」たちの声を代弁した物語になっている。正義の理不尽さを描いているだけなのだ。その人質の1人はこう言う。おまえらが正義を実行するのは構わないが、殺されるこっちの立場にもなってくれ、頼むから身代金を払ってくれと。あぁ・・でもそれじゃ正義はカタルシスを得ることができないし、観客も満足できないのだ。監督の言いたいことはよく分かる。名もなきトラックの運転手が殺されたという事実。そんな事実は正義のヒーローが悪を倒したあとでは、歓喜の声でかき消されて忘れ去られてしまう。むしろ、名もなき人質が悪人に殺されたほうがモチベーションが上がる。最後にテロ人質対策のオジサンが「ごめん・・救出場所を間違えちゃった」と平謝りしていたが、しかしこの後、彼は仇討ちを行う。むしろ仇討ちを行うことのために人質とは死ななくてはいけない暗黙のルールがある。そして救出者が悪を倒す英雄へと変わるのだ。英雄は歓喜の声をあげ、こう叫ぶ。正義は勝つ!! 運転手はどうしても死ななくてはいけなかった。でなければこの漆黒のメッセージは成立しなかったのだ。こういう映画、たまらなく好きだ。[地上波(吹替)] 7点(2011-11-05 23:19:56)

72.  シークレット・サンシャイン 《ネタバレ》 神はいるのか?という叫び声が聞こえてきました。この世に神がいるならなぜ悪党の犠牲になる人がいるのか?こういうケースでは、多くの宗教の考え方は、人間の持つ業に目をつけ、かりに不幸が我が身に訪れた場合でも、これは己の業に対する神の試練だ、といって耐えることを教え諭すのです。しかし業のない子供はどうなる?すなわち罪の無い子供が殺されるという事実。これが神の御心なのか?神は罪のない人間を裁くのか?もしそんな神がいたらクソだ。その子供の死─。この事実こそが、神が存在しないことを、見事に立証しているではないか。しかしである。神がいないと、どうやって人間は善人になれる? だから宗教は生まれた。我々が万引きしないのは法律が怖いからではないのだ。それは無意識の罰を自覚しているからである。神を信じなくなれば人は欲望の権化と化す。もはやその時は法律など意味は無い。世紀末は近い。しかし、俺は無宗教だけど善人だと思うと出張する日本人よ、では君らは初詣に行って誰に祈っている?交通祈願、受験祈願しかり。人は常に祈るのだ!神と意識ないうちに神に対して。刑務所で信者になり神から赦された殺人犯─、むしろ罪を自覚した彼こそ真の信者。これに対し主人公の女性─、なぜ人は─、特に信者たちは「罪の意識」が希薄なのか?すべての人間は罪人だからこそ我々は人生の過程において罰という試練を受ける、そして己の罪を自覚し、他人の罪を受け入れる土壌ができる、その先に、汝の敵を愛せ、という赦しの思想が生じる。他人を赦すという行為は、善人が、悪人に対し、高い立場から優越感を抱いて下すものではない。同じ罪を抱える意識がなくては成立しない。酷なことを言えば主人公は被害者だからこそ罪の意識がなかった。他者に対する激しい憎みの源泉は、己の罪の希薄さを象徴している。(だからといって被害者は責められない)結論を言おう。被害者ほど信仰は不可能に等しい。反対に、犯罪者ほど、キリストの教えの本質に近づける。これが私のこの映画を観た感想でした。しかし、救いようがないようで、この映画にも救いはある。つくづく映画はラストがとても大切なのだと改めて実感させられました。まさにシークレットサンシャイン。最後は涙が止まりませんでした。[DVD(字幕)] 9点(2011-10-12 19:53:38)

73.  約束の旅路 《ネタバレ》 混乱必死なので簡潔にまとめます。◎イスラエル人(ヘブライ人)・・イスラエルを祖国とする人たち。。◎ユダヤ人・・ユダヤ教を信仰している人たち。イスラエル人の中には、他宗教を信仰する者もいるし、無宗教の左派もいる。従ってユダヤ人=イスラエル人ではない。いずれにせよモーセ作戦の対象者である彼らは、エジプト人からはよそ者と言われ、ユダヤ人からは「黒人」と言われてしまうわけです。黒人で、キリスト教徒で、しかもユダヤ人を偽るエチオピア人の主人公は悩みます。(この設定が難解だ)彼は叫ぶ。自分の祖国はどこ?自分は何人?しかし手紙を書く宗教家のおじさんや、養家の祖父の愛情があまりにも深すぎて号泣してしまう。彼らは主人公の正体を知っていたはずだ。しかしそれでも彼を愛していたのだ。青年に成長した主人公が警察で自分の正体を告白するシーンは、あたかも「罪と罰」のラスコーリニコフであり、彼は正体を隠す自分を罪人と思い込んでいた。恋人のサラだけは主人公の正体を知らなかったのでショックを受けた。だが彼女は言う。「白だろうか、黒だろうが、ユダヤだろうが、エジプトだろうが、わたしには関係ねえんだよ。おい、わたしはあなたという人間を愛していたのだ、なぜ10年間も言ってくれなかったのか?」この女、虚言癖が激しいが、じつは非常にいいヤツで本気で泣けてくる。差別というのは、知らない人が、知らない人を評価するときに生まれる。知らないからこそ、民族や肌の色、デブハゲなど、容姿で判断してしまう。しかし人が人と接するうちに、そんな記号の偏見は消える。差別があるから愛せないのではない。知らないから差別するのだ。母親は、我が子を捨てることで命を救った。その子は遠い場所でずっと母を想いつづけた。そしてラスト。主人公がエチオピアに帰還し、自分を捨て、同時に命を救った母親を抱きしめたラストシーン。ただ、ただ、ひたすら号泣した・・。もう言葉もない。紛れもなく名作だ。 [DVD(字幕)] 10点(2011-09-20 19:39:45)《改行有》

74.  チェイサー (2008) 《ネタバレ》 身体上の理由から女性を愛せないと思い込んだバカ男が、女性を激しく憎む。このようなクズは韓国だけではなく世の中には必ずいるものだ。女性を、性欲の対象としか見えていないのだ、女性を心がない人形だと思い込んでいるのだ、セックスできないならば不要なゴミだと思い込んでいるのだ。おまえらは弱者でありながらさらに非力な弱者を見つけ出して痛めつけているクズだ。さっさとくたばれよ。映画は物語だ。どんなに残酷で、救いようがない実話であっても、一縷の望みというものが描かれていないならば、それは映画ではなく、事実をなぞるだけの新聞と同じだ。あのラストは醜悪だ。まるでダンサーインザダークだ。観客に対して、あと1歩で助かりますよと宣言しておきながら、「はい残念でした。くやしいですか(嘲笑)」という手法は、あたかも虚無主義に等しい。これが意表をつく衝撃のラストだって?そんな衝撃などクソ食らえだ。私は彼女が助からなくて悔しかった。怒りに震えた。監督よ、これで満足か?我々観客は、現実の厳しさは知っているつもりだ。しかしその現実の厳しさを、映画のなかで再確認するために映画館に足を運んでいるわけではない。欲しいのは救いだ。夢だ。希望だ。罪なき女性が何人も殺されたという事実、しかし殺人は100%成功するわけではなく、その中には未遂も当然含まれている。ニュースで報道されていなかっただけで、やはり生き延びた女性がいたはずだ。そんな女性の1人が、命を賭して逃げ出し、そして娘と抱き合って喜びを爆発させる─。これが映画なのだ。現実では救えなかった人を物語の中で救い、観客にカタルシスを与える─。私はこの映画を許さない。 [DVD(字幕)] 0点(2011-09-19 10:21:43)(良:1票) 《改行有》

75.  ハート・ロッカー 《ネタバレ》 あの軍曹は戦地から帰ってくれば、オーラは消え、ただの凡人になってしまう理由は、彼が簿記の資格を持っていないことや、社労士の資格を持っていないことにも少しだけ関係があるのですが、ようするに戦地では優秀な軍曹が、ネクタイをして会社に出勤すれば、年下の大卒のガキから「仕事が遅いぞ!」と叱責されてしまうわけで、つまり軍人としてのスキルは最高のものを持っているが、サラリーマンとしてのスキルは雑魚に等しいということ、それだったら、もう一度、戦地に行き、栄光の軍曹さまとして、他人に尊敬されたいと思う気持ちが芽生えるのは自然な成り行きなのですね。特にアメリカのばあい、戦地から帰ってきた退役軍人の大半が、うつ病で苦しんでいる現状があるのですから、帰還した兵士の自殺が異常に多くて、その事実を知って欲しくて私が言いたいことは「戦争が麻薬」というキャッチコピーは少し誤解されやすいと思うことです。けっして彼らは戦争がしたいわけではなく、戦争しか自分の存在意義を見出せないという社会的な問題がそこに見え隠れするのです。それからこの映画をみていて日本の神風特攻を思い出しました。「イスラムの自爆テロと、神風を一緒にするなヨ!」と思うかもしれませんが、敗者の論理など、この際どうでも良いのです。アメリカの視点では、イラクも、日本も、自爆も、神風も、クソも、全部同じであり、率直に表現すれば、それはクレイジーなのである。そういえば日本には、男はつらいよ、という映画が昔ありましたね?さしずめ、この映画は「アメリカ人はつらいよ」というニュアンスが込められていました。すべての人間は相対的な悲劇を抱えている。これが世の法則なり。最後に爆弾を抱えて出てきたイラク人、彼は被害者でしょう。むしろ善人でしょう。しかしアメリカの視点では、彼は変人扱いなのです。突然、車で侵入してきたイラク人もしかり。映像のなかでイラク人が全員テロリストに見える、それはけっして客観性を排除した手法ではなく、あくまでも、アメリカの視点にたった、アメリカ兵の、消耗しきった心理状態を表現している。アメリカの病み具合がワカリマスカ?分からない?それならそれで良いです。この映画、けっこう難しいですよ。 [DVD(字幕)] 9点(2011-09-14 20:48:21)(良:1票) 《改行有》

76.  ディセント2 《ネタバレ》 女が強い映画である。彼女たちが男の腕を切り落として逃げるシーンはディセントシリーズが、どんな映画であるかを印象付けた貴重なシーンでした。つまり「男」はシリーズを通して、一貫として脇役なのです。強い女といえば、エイリアンと戦うリプリーや、ゾンビと戦うアリスを思い出す。地底人と戦うサラは、この偉大な女性たちに近づこうとしているように感じる。一番すがすがしいのは、サラが「またこんな地獄に連れてきやがったのかよ!」と愚痴ったりせずに、すぐに前向きに脱出しようと考えているところです。強い女たちは最初から強いわけではない。シリーズを通して成長し強くなっていく。ではサラが戦う相手である地底人と何者なのか?彼らはもともと人間であったという噂もあります。真意はパート3以降に判明するでしょう。このモンスターは、エイリアンのような強さは持っていない。しかしゾンビのように数にものを言わせて攻めてくる。対抗策は声を出さないこと。サラのライバルであるジュノが、声を出したらぶっ殺すぞクソジジイという怖い顔をして保安官を脅したときや、彼女が左手を挙げる仕草はカッコよすぎる。一生あなたについていきます!と叫びそうになりました。女が強いって素晴らしい。ラストは明らかに続編を意識した終わり方になっている。おそらくサラは死んでいない。ジュノのように、さらにベテになって、地底人を殺しまくっていることでしょう。一番気の毒なのはむしろ地底人たちかもしれません。地底に借り暮らしのサラに対して、早く出て行ってくれ!と思っているかもしれません。血まみれの顔で絶叫するサラの顔は、明らかに地底人よりも恐かったです。 [DVD(字幕)] 8点(2011-09-04 12:51:30)(笑:1票) 《改行有》

77.  キック・アス 《ネタバレ》 ヒットガール。彼女はすばらしいロリコン女だった。彼女が主役だ。なるほど製作者は、ターゲットの客層を、マニアック層に絞ったわけだ。よだれが出るほどの魅力的な暴力描写。そして弱き男のマゾ心をくすぶる未成熟な少女のバトルシーン。焦点を絞ったこの2点はじつにうまい。それにしても腑に落ちないのは、これはカッコイイ暴力なのだろうか?私は最近、ネットカフェに数年ぶりに行って、マンガを見ていたら、首が切り落とされたり、血がびゅんびゅん飛び散る漫画がいやに増えたなぁと実感したよ。おそらく残虐シーンのなかでもカッコイイ惨殺シーンと、ダサい惨殺シーンがあるのだろう。しかし私はそんなことは知らないし、知りたくもない。だからこの映画のように「センスの良い暴力シーン」や、「人の殺しかたがクールじゃん」という話にはあまり興味がなかった。ただ1つこの映画をみて勉強したことは、これじゃ、捨て猫を惨殺したり、口ではとても言えない残酷なことをするサイコヤロウも増えるはずだと思ったことだ。世の中は刺激を求めている。「キックアス」から得られた感想はそれに尽きる。ヒーロー映画という建前のもとで、弱い生き物を切り刻んで、めちゃくちゃにしたいという一部の人間の、抑えがたい欲望を満たした素晴らしい映画であった。この映画はヒットガール、ロリ、ヒットガール、ロリ。この1点を執拗に追及している。製作者の一貫としたマーケット戦略と、そのすがすがしさを私は高く評価したい。現代の人間の心は荒んでいるのだ。そのニーズに監督は見事に応えたのだ。映画とはこのように「客層」をあらかじめ設定して作るべきである。残念なのは、私は、つくり手が意図する観客ではなかったということだ。その点に関しては私は、かえって恐縮してしまう。生まれてきてごめんさない、よろしく、まちがって映画を見てごめんさなさい、と言っておこう。ロリ女が、血を吹き飛ばしながら人を惨殺するシーンを見て、カッコイイ!楽しい!と狂喜できる人間になれなかった。こんな私がこの映画を観てしまったのは間違いであった。[DVD(字幕)] 0点(2011-08-27 21:46:43)(良:3票)

78.  告白(2010) 《ネタバレ》 いじめが原因で復讐する話だと思ったがすこし違った。「いじめ」とはなにか?それは憎しみで相手をいじめるのではなく、面白くて楽しいからそれを実行する。怒りながらいじめる子供などいない。笑いながらいじめるのだ。それがいじめの本質である。まだ生まれて10年足らずの子供には心に傷が少ない。だから相手の痛みなどわからない。ただひたすら「笑い」と「楽しみ」だけがすべてに優先される。その先にいじめがある。子供の持つ明るさは残酷さと表裏一体である。それに対して娘殺しの犯人は、心に傷を負った少年であり、トラウマが原因の殺人だった。「告白」で何が一番嫌悪感を感じるか?それを自覚している人はいるでしょうか?もちろん犯人の2人ではない。それはボロボロに傷ついた犯人2人と、もっと深い傷を負った女教師をとりまくまわりの生徒たちの「明るさ」なのです。中島監督の演出は抜群だった。ダンスなど子供の天真爛漫な「明るさ」を全面に打ち出すことにより、いっそう子供の残酷さを印象づけ、観客の嫌悪感を募らせていく。社会では「子供の明るさ」を無邪気だと捉える。しかし中島監督は子供の明るさを、他人の痛みに鈍感な残酷さと捉えている。それはあの熱血教師にも当てはまる。あの脳なしのクソやろう!と誰もが思ったはずだ。人間が一番嫌いな人間は、凶悪犯罪者やヤクザではない。それは偽善者だ。かりに復讐を行なう女教師の描写として、娘を見殺しにした自責の念が描かれていたらどうなる?観客はこの女教師を偽善者だと憎むでしょう。しかし女は復讐を行なう自分をまぎれもなく「悪」だと自覚していた。反対に少年犯人を「悪者」として、制裁を加える生徒たちの醜さは、罪の自覚のない偽善者としての醜さだ。彼らをみていると、「ドッグヴィル」を思い出す。中島監督とラースフォントリアー監督が重なってくる。いわゆる性悪説バンザイ映画だ。なんという醜悪な映画だろうか。じゃあ私もこのさい「告白」しておこう。こういう映画はたまらなく好きだ。松たか子も好きだ。 [DVD(字幕)] 9点(2011-08-16 20:30:02)(良:4票) 《改行有》

79.  トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン 《ネタバレ》 数々の3D映画を観てきたがこの「3」はアバターに匹敵する3Dだという批評をよく耳にするが、むしろアバターを超えているとおもう。つまり現時点において、世界最高の映像なのである。もちろんストーリーにかんしては語るべきものではない。3D映像の、3D映像による、3D映像のための映画なのだ。私はこの映画を楽しめた。しかしそんな私でも味方のロボットの名前を1人も覚えていない。そもそも敵ロボットと味方ロボットの見分けは限りなく困難である。よだれをたらすロボットが敵のようだ。とりあえず、ガンダムみたいなのがリーダーで黄色い奴が主人公のダチということ以外は、むりに覚える必要はない。主人公の名前もヒロインの名前も覚えるな。それでも楽しめるのだ。むしろ今になって低ギャラ俳優に注文をつけてもまったく無意味である。この映画では、人間は永遠に脇役である。予算はすべて映像につぎ込まれているのだ。あのビルの崩壊シーンのすごさよ。浮世のくだらないしがらみなどすべて吹き飛ばしてくれるぞ。この監督の偉大な長所は、世界で一番モノを壊すことがうまいことである。とくにモグラロボットは芸術的だ。このロボットは職人のようにビルを滅茶苦茶にしてしまう。私はこの破壊の仕方にアートを感じる。さらにビル崩壊で主人公グループ全員に死亡フラグが立ちまくり状態。それでも死なない。なぜ死なないのか?と笑いがこみ上げてくる、どんだけ~と叫んでしまう。シカゴ決戦シーンは数ある宇宙人の地球侵略シーンでも例を見ない圧巻の攻防戦になっている。通常の2時間映画を、わざと目まいがするほどくだらない脇役主人公の就職活動をいれて157分の超大作にしてしまうところが心憎い。ベイだからこそこのくだらなさは必要なのだ。よくも悪くもトランスフォーマー3はもっともあつい娯楽大作である。 [映画館(字幕)] 8点(2011-08-16 12:53:31)(良:2票) 《改行有》

80.  借りぐらしのアリエッティ 《ネタバレ》 小人の大きさが、ありんこやだんごむしとさりげなく比較されている。つまり彼女は意外と大きいのだ。残念なのは冒険をしないことです。「冒険」あってのジブリだと思う。ラストでアリ子がナマズを見て興奮するシーンがあったが、本当の冒険はそこからはじまる予感があった。如何せん90分は短すぎる。翔くんが、小人にたいして「君は滅びる運命だ」と言った言葉は、多くの観客の顰蹙を買っているようだ。しかし、私はあえて彼を擁護しよう。そもそも翔くんは口下手だ。彼の言葉を超訳すると、「君らはぼくと同じ運命なんだ」ということ。この気持ち分かる?毎日、病気で苦しい思いをして、生きることに諦観を持った少年が、滅びることを認めないアリ子に対して、「どうせ頑張ってもぼくと一緒でムリなんだよ!」という怒気も含まれている。彼はただ、怖かっただけなのだ・・。翔くんがアリ子のことを心臓の一部だと言ったのは、アリ子をすべて理解した後である。これは人間の心臓を、生きるための原動力と捉えたメタファーなのだ。また私がこの台詞を超訳しよう。「君はぼくの生きるための原動力だ」と、翔くんはアリ子にお礼を言ったのだ。小人ゆえにアリ子の動きは常に何かによじ登ったり、ジャンプしたり、ダイナミズムだ。そんなダイナミズムな動きそのものが「生」を象徴している。そして生きることに諦観を持った翔くんは、生の象徴たるアリ子の姿をて、みるみるうちに再生していく。翔くんが自暴自棄で言った台詞→君はどうせ(ぼくと一緒に)滅びるんだよ。でもこの台詞を彼が口にすることは二度とないでしょう(泣)最後はもう涙ボロボロでした。 [ブルーレイ(邦画)] 9点(2011-08-15 11:01:20)(良:1票) 《改行有》

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