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【製作年 : 1930年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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61.  魔人ドラキュラ 恐れる村人たち、迷信を笑う若者、霧が流れて古城へ向かう道、と何度も見てきたような筋運び。でもこれがドラキュラとしては一番最初なんだろ。伯爵家のセットがなかなかよい。高い天井、右からさす月光、走り回る怪しのネズミ。蜘蛛の巣を通り抜けてしまう伯爵。このゆっくりとしたしゃべりと歩きは何なんだろう。もうほとんど能の世界。死ぬことを許されぬ者は、世の東西に関わらずこうなるのか。「ゆっくり」のモチーフは手の動きも支配する。常に最初に出てくるのは手なの。棺から出てくるのもまず手から(フランケンシュタインの怪物で最初にピクピクし出すのも右手だった)。手は「つかむ」に通じ、ゆっくり追い詰めていく手、って感じが怖いんだろう。おそらく人体の中では最も速く動かせるものが手で、それが相手に気づかれぬようにゆっくりつかむ準備をしている、って怖さか。もう確実に確保し終えてしまっていて、あとはゆっくり賞味するだけだ、という感じもあるな。それと怪人ものでは、特色ある弱点がいい。魔除けの草、十字架、昼の光、等々。弱点ではないが、鏡に映らない、ってのも大事だね。[映画館(字幕)] 7点(2011-08-16 10:08:37)

62.  女学生と与太者 《ネタバレ》 昭和ひとけたの邦画はギャングやヨタモノが跳梁していて嬉しい。アメリカ映画の影響か。でも冒頭の夜の街の移動から宝石泥棒に至るタッチは、ドイツ映画の『アスファルト』を連想させられる。ビビッてる阿部正三郎の前のテーブルにカッとナイフが刺さったりする。話の本筋は、水久保澄子を姫として、与太者三人組が騎士道的に仕えるという話。そこにO・ヘンリーが重なったりするのだが、どこか日本的なものもあって、そのチグハグ具合がおかしい。ラストの金庫あけなんかまるっきりイタダキなんだが「きれいになって出直さなくちゃならない」なんてとこは、任侠もの的な日本の匂いがする。みんな元気よく走る。走るだけでなく、電柱に上ったり、終わりのほうでは自転車で東京へ疾駆する。これに水久保嬢の洋裁学校でのいじめが絡み、ここの女教師で洋服姿の飯田蝶子が見られるのも珍しい。とにかく戦前の町並みが映るだけで嬉しくなってしまうもので。[映画館(邦画)] 7点(2011-05-19 09:56:14)

63.  踊らん哉 《ネタバレ》 今回はクラシックバレーという制約を与えて、作品の個性を作る。なにかの制約を与えて「型」に刺激を与え、マンネリを防ごうとしている。タップダンスってのが「滑って転びそうになるが手足をバタバタさせてしぶとく粘ってる」ってようなユーモアをもともとたたえていて、それと大仰なバレーのポーズとの対比。ローラースケートはいてタップさせる、ってのもそういうアイデアでしょう。レコードで練習してると針が飛んじゃって、同じところを繰り返すというギャグの落ちは、もちろんどんどんテンポが落ちていってしまって床にへたり込む、というもの。いいのは、船の機関との掛け合いの妙。そしてナイトクラブシーン。最初は仏頂面のロジャース、その周りを大袈裟にバレー風にまずアステアが飛び回る。ロジャースはただボーっと立ってるだけ。でも音楽が変わってステップ踏みながら前に歩み出すあたりから揃ってきて、あとは一気呵成。作品に個性を与えるために制約を入れるのも大事だが、ここぞというとこで定型の芯を見せるのも大事。溜飲が下がるというか、実に晴れ晴れとする。ラストのバレーで始まるショーがこの対比の集大成で、みんなロジャースのお面をつけて踊る。人形のモチーフから自然に受け入れられますね。またそれが愛の表明にもなっており、その中に一人本物が入ってるという趣向。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2011-05-04 10:18:38)

64.  腰弁頑張れ 成瀬が第二の小津と言われたのは、あくまで小市民の哀歓という題材によるのであって、フィルムはもう完全に異質。窓から室内を見たり、保険の話を妻としている時にその話題の家族のインサートカットがナウく入ってきたり、表現主義風のところなんかネガまで使っている。病室のシーン、ぽたんぽたん手術皿に水がしたたってそこで蝿が溺れかけているなんてナーヴァスに迫ったかと思うと、逆光で母がうろうろしているとこの光と闇の美しいこと。こういったものは全部小津にはない。そして成瀬の特徴とも言えるトボトボ歩きがある。画面の右上に向ってやや俯瞰気味で少年がトボトボと歩いていく。この情感は成瀬独自のもので、この現存最古のフィルムにも「成瀬ウォーク」が確認できたのは嬉しい(同年に作られた『ねえ興奮しちゃいやよ』ってののフィルム、どっかから出てこないかなあ)。外界が目に入らぬ人物と、その人物をそっくり包み込んでいる外界、どこへ行こうという歩行ではなく、自分自身を稀薄に溶かしてしまおうとしているような歩行。これが本当にいいんだなあ。PCLに移る前から、松竹の習作時代から、もう成瀬はナルセだったのだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-11-06 16:01:09)(良:1票)

65.  空中レビュー時代 《ネタバレ》 アステアの陽気な脇役時代。レビューショーの映像化から映画独自のものが生まれてくるミュージカル史が分かって面白い。ホテルショーってのが必要条件だったよう。だから主人公はだいたい芸人に設定され、メインは個人芸よりも群舞になる。キャリオカ。ピアノをつないで円形の小さな舞台を作るの。ナンバーの中で画面を平気でワイプでつなげる。みんながいろいろ踊っているんだよ、という感じで、流れの不自然さはあまり意識してないみたい。さて見どころは題名にもなっている空中レビューだ。ダンスよりも、まだ見世物的要素が強かったことが分かる。みんなニコニコ笑いながら翼の下で空中ブランコやってくれるのには爆笑。落っこちて、別の飛行機の翼に引っかかったり、というオマケもつく。まだサイレントコメディ時代のスペクタクルな味わいを残している。そのスペクタクル性は群舞ともつながり、その中から個人のタップ芸に焦点が当たりつつあった過渡期ってことなんだろう。製作者サイドが、ああいう個人芸でも「華やかさ」を出せそうだな、と発見しつつあった時点。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2010-11-03 10:00:27)

66.  夜ごとの夢(1933) 《ネタバレ》 成瀬の映画を観て、よし明日から力強く生きよう、と励まされることはまずない。励まされるというより、愚痴を聞いてもらう気分に近い。出てくる男も、だいたい生活力がなさそうだが、これの斎藤達雄などその最たるもの。ダテなヒゲをつけてるところが、ますますダメソー感を強めている。子どもの亀のオモチャのマネしたりしてる。その彼がやっぱりダメだった、という、弱虫! いくじなし! で終わる話だ。その彼が人生で唯一楽しんだ草野球の場が、みずみずしく素晴らしい。ちょいと遊んでおいでな、と放り上げるみかんが野球のボールになるという、『2001年』を先取りしたようなツナギで入ってくるシーン。振り返ればどうしようもない人生だったけど、あの子どもと遊んだ一日を楽しめたならそれでいいか、と思っちゃう。どうも力強く生きられないんです、と愚痴を言ったら、いやいや、こんな男もいるよ、と答えてくれたような映画。[映画館(邦画)] 7点(2010-10-28 10:17:49)

67.  大学の若旦那 《ネタバレ》 アメリカ風大学文化と、日本風若旦那文化の融合ですな。ラグビーやってお父さんが顔しかめるなんてのと、落語なんかに登場する遊興三昧の若旦那とが、うまく混ざってるんですよ。昭和初期にこういうあちらの大学生ものが自然に流れ込んできたのは、ちゃんと江戸時代からその下地をなす文化が存在してたからなんだな。斎藤達雄の義弟と一緒になって遊ぶ、あの感じがいい。この若旦那を延ばしていくと『小原庄助さん』になっていくのかも知れない。コセコセしない駘蕩とした世界を尊重するの。サウンド版なので、手拍子を店の前でやるシーンなんかが演出できる。内と外で音の大きさを変えて。大勢の拍手と一人の拍手との差とか。親が学校に、まだ部活動やってたほうが遊ばなくていいと申し出るようになるわけ。妹が坪内美子に水久保澄子、フレッシュボーイが三井弘次で、その姉が逢初夢子といった松竹蒲田の味たっぷり。[映画館(邦画)] 7点(2010-10-17 09:44:34)

68.  コンチネンタル なかなかウキウキしたダンスを見せない。アステアが最初にタップを踏むのは、自分がダンサーであることをレストランで証明するためのもので、いやいや踊る。いつものミュージカルの、ウキウキした気分から自然に身体が動き出す、というのの逆という趣向。ロジャースのほうも、最初はスカートをはさまれ身動きできない状態で登場する。アステアは着替えるときにウキウキ気分をちょっと出すが、前半はおおむねタメてタメて、二人の心が通じ合う「ナイト・アンド・デイ」までもたせる。こういう愛の確認場面ではタップではなく、組んで踊る優美なダンス、というのが決まり(しかもその前に、同じ場で若者たちの群舞を入れて、こっちのしっとり感を強調)。こういうときはテーブルを乗り越えたりしないの。どちらかというと、ミュージカル映画では、タップやテーブル乗り越えたりする振り付けのほうが見せ場なんだけど、こういう愛の確認の場では、それやっちゃいけないことになっている。前半でタメていたおかげで、解放感。愛の表現として、向かい合うことと追いかけることを同時に踊ると、回転のダンスになるのだろう。この映画では回転のモチーフが繰り返され、回転扉やレコードの上の紙人形の回転へと広がっている。後半の見せ場「コンチネンタル」も、部屋に閉じ込められそうになって抜け出してのダンスということで、やはり解放感が満ちる。この「コンチネンタル」、タップリで見事ではあるが、音楽は切れずに続いているのに、群舞のほうは画面が編集されててつながらない振り付けになってたりして、ちょっとつまずく。ラストの二人はもうしっとりの愛ではなくウキウキ気分の愛だから、テーブルに乗ったりして踊ってもOK。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2010-10-09 09:46:04)

69.  支那事変後方記録 上海 戦争の日常とはこのようなものであろうか。兵士の顔の表情など実に新鮮である。つまりごく普通の表情をしている(ドラマの戦争の役者の気合いが入り過ぎている表情との違い)。だからその普通の顔との対比で、いくつかの場面がさらにショッキングになる。川下りで延々と廃墟を見せる場面、市街戦のあと。無神経に万歳を叫びつつ行軍する日本兵士を見つめる無言の顔の列。なるほど、これが戦争なんだな、と納得がいく。これ、亀井文夫は編集だけのようで、そこで彼のモンタージュの代表作ってことになってるらしいんだけど、撮影・三木茂の視点も素晴らしいんじゃないか。抗日運動に対する態度も非常にクールで、よく軍が許したなと時に思うほど公平な立場だった。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-18 09:30:40)

70.  鶴八鶴次郎(1938) しっくりいかない・どこか食い違いつつ腐れ縁が続く男女の物語ってとこは、『浮雲』にもつながる成瀬の定番だ。意地っ張りの純情、喧嘩友だち。うじうじ嫉妬に悩みながら、長谷川一夫が路地から路地へボーッと歩いていくロングの場など、成瀬のサインを見ているよう。その先に旅回りの日々のわびしさが、これまた成瀬の好きな世界。似合わない芸道ものの話でありながら、隅から隅まで成瀬の世界になっている。それと明治から大正にかけての寄席芸が見られるのも楽しい。コマから水が飛び散るのや、火のついた棒を投げるのや。山田のドタドタと体が左右に振れる歩き方が印象的だが、あれは着物着たときの自然な歩き方なのだろうか。山田五十鈴って大スターでありながら、それほど主演作を持っていない不思議な人だ。といって「名脇役」とは呼ばれないし。名脇役藤原釜足は、このころからフケをやってたんだなあ。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-04 12:04:03)

71.  嵐ケ丘(1939) これはもうあちらの『忠臣蔵』というか、いろんな版があり、このほかにブニュエルの、吉田喜重の、J・ビノシュのヒロインで坂本龍一が音楽やったの、を観てるが(リヴェットのは未見)、どれも独自の趣向を凝らして面白いけど、何か物足りないのも事実。これ、映画よりも連続ドラマに向いてる話なんじゃないかなあ。ヒースクリフの帰還までにモッタイをつけたいところが、映画だとそれが出来ず、キャシーとヒースクリフの愛憎のごちゃごちゃをこちらでほぐして味わう時間が足りない。キャシーがただのヒステリーに見えてきてしまう。時間を強制されたくないストーリーってこと。それでも多くの名だたる監督たちを魅了してしまう魔が、この小説にはあるんだ。この戦前白黒のワイラー版が余分な解釈のない分、基本の位置を確保していて見応えがある。私はヒースクリフなのよ、って叫ぶあたりはやはりコワい。ロウソクのゆらぎで盗み聞きしていたヒースクリフの退場を知る、なんて演出。[映画館(字幕)] 7点(2009-11-05 12:02:27)(良:1票)

72.  未完成交響楽(1933) 何通りもの対比を見られる。世間知らずのお坊ちゃんと、訳知りの大人。民衆の歌とサロン芸術。不器用とテダレ。そして絶対的な階級の違い。筋をたどれば、特権階級に奉仕するものに成り下がっていた芸術家から、人民へ奉仕する芸術家へと、大ざっぱに枠組みをまとめられるんだけど、この映画の感じのよさはそういうところにはなく、お坊ちゃんが嫌味なく描かれている作品として気持ちがいいんだろう。妹的な質屋の娘が、チラチラと姉的なものを見せるところもいい。けなげである。とっても柔らかなものを、大事に大事に傷つけないように描いているこの映画が、ヒトラーが首相になった年に製作されてるってのは、皮肉な偶然というより、社会の気分が均衡をとろうとする必然なのかもしれない。[映画館(字幕)] 7点(2009-09-16 11:57:57)

73.  風の中の子供 《ネタバレ》 勉強していた三平が母親のほうをうかがい、するとディゾルブで消え、外からターザンのおたけびが聞こえてくる。金太の言ったことで漠然とした不安が漂い、家の前をお巡りさんが通過する。弁当を曲げないようにお父さんのところへ届ける。飛び上がって帽子かけの帽子をとる…。子どものスケッチのひとつひとつが生き生きしている。これは監督の技術でもあるが、当時の松竹という会社のトーンでもあったのだろう。刑事を自分の家に導いてしまう三平。世界に対して不安・警戒が広がる。留守番しているとき雨戸を締め切ってしまう。兄弟でのオリンピック水泳中継。で三平は坂本武おじさんのところへ。残った善太がひとりでかくれんぼをしている半ば幻想シーンが凄い。もういいか~い、もういいよ~、の声が家の中にうつろに響き、一方三平もカッパの池のさざなみを見つめている。説明抜きで、兄弟の心情が伝わってくる。おじさんちから帰ってきて、働こうと思っても、小さな子どもには大きな犬の世話は出来ない。自分が子どもであることの悔しさ。子どもの心のスケッチ集として、パラパラめくってはちょっと見入る感じの作品になっている。ロケではしばしば道の中央にカメラを据え、シンメトリーを作る。アップは使わない。ひと夏の物語は、入道雲のように堂々としている。[映画館(邦画)] 7点(2009-07-09 12:03:58)(良:1票)

74.  噂の娘 《ネタバレ》 『妻よ薔薇のやうに』の年の暮れの作品で、設定もお妾さん絡みでちょっと似ている。ただし娘は姉妹で、和装の姉は同情的、洋装の妹は反発している。それに家業の酒屋の没落が絡む。婿の頑張りも限界、遊んでいるおやじのほうも元気一杯というわけではなく(釣りはいらねえぜ、と言ったものの釣りを受け取ったり)、全体が衰弱していく気分に包まれている。その気分そのものがこの映画の味わいであって、特別モダンな妹に希望を託すわけでもない。酒がマガイモノでだんだん質を落としていくような衰弱感に、映画もひたされている。見合いのあと橋の上をトボトボとやや俯き加減で歩く千葉早智子のあたりに成瀬のトーン。ラストで家庭内の緊張が高まり、妾が店たたんでやってきて、妹が誕生パーティで父と喧嘩し、カットが細かくなり、カメラの向きが変わって、そこで警察=外部が入ってきて、という展開のリズムの妙。向かいの床屋の「次は何になるかねえ」という冷たい言葉でサッと締める厳しさ。何が噂の娘だかよく分からないけど、一番描きたかったのは“姉”の寂しい笑顔だったのだろう。一家を支えて頑張るぞ、って感じじゃなく、家の滅びに殉じてもいいのよ、という微笑み。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-24 12:08:17)

75.  阿部一族(1938) これは原作の謎でもあるのだけど、何を否定し何を肯定してるのかが、簡単には割り切れない話だ。たしかに侍の世界の馬鹿馬鹿しさは描かれているが、その馬鹿馬鹿しさをより高い目で肯定しているようにもとれる。冒頭の淡々と日常の中で殉死していく者たち、腹の据わった者たちと見つつ、やはり気味悪い。悲壮な討ち死にをあっぱれと思い、また愚かだと思う。女たちの涙を批判とも見られるし、浄化とも見られる。我々日本人には、けっきょく自分たちが肯定したがってるのか否定したがってるのかよく分からない情動があり、どうもそれがせめぎ合うところが好き、という困った趣味があるようなのだ。義理と人情、とか。映画の中の言葉で言えば「情は情、義は義」。そこらへんがボヤけたまま、この国は数年後に阿部一族のように全世界に対して立て籠もったわけだ。監督は戦時中右翼団体を主宰していたくらいの人で、おそらく肯定的に彼らを見ていたのだろう。武家屋敷の美しさの見事さなど、精神性を託されているよう。縁側を渡りに見立てて、先代が自死の場へ飄然と謡いつつゆき、滅びの前に翫右衛門がそれを繰り返す。死のために親類一同が法事か何かのように集まってくる、あの気分の延長に一億玉砕の思想が生まれてくるんだなあ。そういった美しくも危ない気分が正直に表現されている映画です。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-11 12:08:21)

76.  路傍の石(1938) 《ネタバレ》 おそらく現在見て一番嬉しいのは、明治の風俗の再現であろう。物売りや子どもの遊びや、昭和13年の時点でまだナマな記憶が残っていたであろう頃の再現だ。文献史料を元にした再現じゃなく、そこらにいるスタッフのだれかれに話を聞けた。大昔ではなかった、というか、現在『三丁目の夕日』を回顧しているぐらいの時間的距離だろう、いや、もっと近過去だったかな。勉学による立身ということが、何の疑いも曇りも持たずに輝いていた幸福な明治。旧弊なものはことごとく阻害者としてあり、たとえば父の山本礼三郎、あるいは伊勢屋の主人と丁稚のシステム(かつてひいきにしてくれた伊勢屋のお嬢ちゃんが、吾一が丁稚に来て吾助となったとたん横柄になる)。未来を拓いていく者は、文学青年教師の小林勇であり、絵描きの青年江川宇礼雄でありとモダンで、旧弊な側とはっきり二分されている。これはそのまま田舎と東京という二分でもあり、ラストでランプを割って電気の街に出ていくことになるわけだ。名場面としては、吾一が母の封筒貼りを手伝って間違えてしまうところ、自分に対する悔しさが渦巻くあのエピソードは本当に切ない。あとは母親の死を暗示するシーン、タルコフスキー『惑星ソラリス』の冒頭を先取りしたような、水草のゆらぎの美しいこと。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-07 12:02:41)

77.  その前夜(1939) 《ネタバレ》 幕末の京都、池田屋の近所、大原屋の物語という設定がアイデアの基本。市中を威張って歩いている新撰組に対し、絵描きら町人が「そういう時代なんですよ」と息を殺している気分は、映画製作時の軍部と重なって見えてくる。原作の山中貞雄は前年に死んでいる。でも、勤王が善で新撰組が悪という単純なものでもないところが、この映画のいいとこで、どちらかというと、政治的なものと政治的でないものとの対比なのじゃないか。絵描きが勤王派の妻をかくまうのも、ある種の親しみの感情からで、「どうも政治向きのことは…」と自分でも言っている。新撰組を狙う河野秋武(当時は山崎進蔵)も、別に長州脱藩でなくイデオロギーとは無縁、個人として辱しめられた怨みによって行動している。新撰組にも加東大介(当時は市川莚司)のような気のいい奴はいるのであり、しかし「イデオロギーなんか関係ないっすよ」というようなことを飲み屋で他藩の人間と語り合ったために切腹させられる者もいる。中村翫右衛門は、とにかく働いて上昇するためなら新撰組にだって取り入る、という町人気質の人物、川原で染めものの水洗いをしているとき、加東大介と話し合うあたりのノンキな気分がいい。別にリアリズム狙いの映画ではないが、とかくピリピリと張りつめて描かれる幕末の京都に、案外こんな気分もあっただろうなと思わせる手応えがあった。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-06 12:03:56)

78.  争闘阿修羅街 《ネタバレ》 最近何かと注目を浴びている戦前のB級量産会社、大都映画の一本。アクションスター、ハヤフサヒデトの最盛期のサイレント映画は現在これしか残っていないそうだ(監督の八代毅というのはハヤフサ本人)。博士の新発明とスパイ、それにオキャンな博士の娘が絡むという、後の子ども向けテレビドラマにつながっていく定番の世界。前半の主人公は三枚目のサエない速記記者で、編集長に怒鳴られてばっかり。事件は夜、博士の別荘番のせむし男がモゾモゾ動き回り、女中の大山デブ子が悲鳴を上げ、博士がさらわれて、突然ヒーローになる。煙突の上のロープから滑り下り、ビルからビルへ跳んでは悪漢の車を追う。『ロイドの要心無用』といい、ビルが映画の文法の発明に果たした役割りは大きい。舞台の芝居では演出できない“高さ”というものをドラマの中に導き入れ、アクションに上下のスリルをもたらした。映画の時代とビルの時代が重なるのは当然のことだったのだろう(このロープでの滑り下りが彼のウリらしく、今世紀に入って発見された戦後の作品『怪傑ハヤブサ』でも、必然性を無視してやたらビルから滑り下りていた)。そして主人公は走る車の下に張り付いたりして、悪をやっつけるのだった。活劇の精神は古びることを知らない。いつの時代でもかっこいいものは同じようにかっこいい。もっとハヤフサの映画を見たいものだが、新たに発掘される可能性はあんまり高くないだろう。[映画館(邦画)] 7点(2009-05-08 12:06:19)

79.  チョコレートと兵隊 《ネタバレ》 これは戦時中、日本研究のために米軍がいくつか取り寄せた日本映画の中の一つで、これは反戦映画なんじゃないか、と疑問に思われたといういわく付きの作品。藤原釜足演じるいいお父さんが、戦争に行って死んでしまう話だから、向こうの人から見たらそう思えるかも知れないし、戦後の反戦映画のプロットにもなりうる設定だ。でも当時の日本人は、こんないいお父さんを死なせた敵を許すまじ、ってふうになったのだろう。これを逆に考えれば、戦後作られた反戦映画も、視点を変えれば戦中の国策映画になってしまうわけで、怒る対象の不在ってところが日本の反戦映画の問題点なんだと思う。そういうメッセージ以外のところは丁寧な生活描写で、藤原釜足もよく、いい出来の映画だと思った。実はこの映画で一番ハッとしたのは、夫に赤紙が来て妻の沢村貞子が「しかたがないや」なんてセリフを言うところ。戦前の映画見てて一番不自然なのは、召集令状が来ると内輪の場面でも家族が「おめでとう」とか「やっとこれでお国のためにたてます」とか、建て前の反応しか見せないところで、そこらへんに対しては特に検閲が厳しかったんだなあ、と思ってたんだけど、この作品では消極的ながらも、肩を落とし溜め息をつく気分が描かれていた。昭和13年というまだ比較的ゆとりがあった時期のゆえか、それともけっこうこの程度の表現はほかにもあって私が目にしてないだけなのか、「しかたがない」のを乗り越えるところに検閲官は意義を見いだしたのか、分からない。しかしそういうシーンが戦前にもあったことを知って、ちょっとホッとした気持ちになれた。[映画館(邦画)] 7点(2009-05-02 11:59:29)

80.  花つみ日記 この時代の、夢見る少女の世界がたっぷり展開しているのに価値がある。吉屋信子調全開。舞台は大阪の花街で、東京から転校してきたミチルと花街の娘栄ちゃん(高峰秀子)の友情物語に、先生芦原邦子への憧れが絡む。ペギー葉山の「学生時代」のなかの“清い死を夢見た~”なんて、こんな感じなんだろうなあと思った。二人のイニシャルを織り込んだ刺繍もすれば、絶交よ、なんていじらしい喧嘩もする。外の世界で嵐が吹きかけている時代に、ひたすら乙女心の世界に閉じ籠もって、なにかしらか細いものを懸命に紡いでいる。世の中が、国とか民族とか大きなものを大声で叫びだした中で、吉屋信子は、ささやかなものに固執した。一応ミチルの兄さんの出征を入れることで、時局に対応してみせてはいる。意外とミュージカル的な演出があり、芸妓となった栄子とハイキングのミチルとが、こもごも同じ歌を歌いながら別々に描かれつつ出会うあたり、葦原の歌が窓の外の生徒らの合唱に受け継がれるあたり、冒頭の竹ぼうきで校庭を掃除しているあたりなど、石田民三ってこういうのもやるのか、と思った。ミチルを演じた清水美佐子って知らない俳優だったが、その影の薄さがこの作品に似合っててちょっと記憶に残ってたのだけど、後に中村メイ子の自伝を読んでいたら、メイ子の家に住み込むほど終生親しかった女性だった、と出ていた。[映画館(邦画)] 7点(2009-04-03 12:08:44)

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