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【製作年 : 1970年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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61.  ポセイドン・アドベンチャー(1972) 《ネタバレ》 ひっくり返るシーンは、当時はとてもドキドキさせられた。「普段でないものを見せる」というエンタテイメント映画の基本を確認させてくれた。今見ても「天井」のテーブルにぶら下がる人たち、ってのはインパクトある。でも脱出行になると、あんまり「さかさま」が生きてこないんだ。いちおう非常灯が脱出行の床(つまりかつての天井)で照ってるんだけど、この時代のフィルムの感度ではその光だけをくっきりとは印象づけられなかったのか、あるいは当時の映画作法として画面を暗めにするのは客に対し礼儀に欠けるということだったのか、全体がぼんやりと明るくなってて、光源による「さかさま」感は出せていない。ま、そんなことはともかく、一番懐かしかったのは牧師の感じ悪さ。もしかするとこの映画を観たおかげで、私の「信念の人嫌い」が決定的になったのかも知れない。根拠のあまりはっきりしない自信満々で次々行動を決定していく。いや、一応言ってるんだ、「海水が流れ込んでくる」とか。でも「という考えもあるなあ」じゃなくて、確信になってる。ほとんど信念。ベトナム戦争で自信喪失してたアメリカにとって、こうパッパ決断していく強いリーダー願望みたいなものが、下地としてあったんでしょうな。アメリカ精神の基本を「感じ悪さ」とともに納得させられたという点で、私にとって名作でした。救助隊の人に「船首に逃げた人は助からなかった」ってまでわざわざ言わせて牧師の行動を補強するシナリオにしてんなら、ついでのもひとつ「皆さんがここまで来て船底をドンドン叩いてくれなかったら帰っちゃうとこでした」ぐらい言ってもらいたい。あそこまで行ったことに意義がなくちゃ、刑事の妻リンダのどたんばでの死があまりにも不憫じゃないか。[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-03-14 10:15:46)

62.  チャイニーズ・ブッキーを殺した男 《ネタバレ》 いっぱしワルぶっている小悪党がズルズルとはまっていく穴。そう悪人ってわけでもないんだ。ストリップクラブのオーナー。やっと自分の店となって、一国一城の主だ、といい気分。そこでポーカー賭博ではしゃぎ大負けしてしまう。このだんだんヤバくなっていくところを、黒人の愛人の表情で見せていく。街の騒音と街の光。白人と黒人と東洋人とがもつれあう。やはり「ステージ」「芸人」「演じること」「気楽になること」といったモチーフがぐるぐると巡っていく。自分が憎んでもいない男を殺しに行くまでの経過。道路の中で車を止め、犬用のハンバーガー、タクシーを呼び、店にショーの進行を尋ねる電話をいれ(俺がいないとダメだ)、ここらへんの逼迫感。この悪役俳優監督は夫婦の確執をフィルム・ノワールのようなタッチで描いたが、実際の犯罪を描いたのは少なく、これは正真正銘のフィルム・ノワール。[映画館(字幕)] 7点(2011-11-18 10:33:55)

63.  牧野物語 峠 これには真壁仁さんという詩人が出てくる。この人の詩人としての仕事はよく分からない。この元農民詩人と現役の農民の顔とが交互に現われると、なんか違うんだなあ。けっしてこの人の顔がダメって言うんじゃないけど、非小川的な顔なんだ。カメラと接する気分の違いなんだろうか。写されることに慣れている、というか、構えがない。そこに違和感が生まれてしまう。それは『千年刻みの日時計』で職業俳優の顔に感じた違和感を思い出させた(あっちのほうを先に観てたので)。ああそうか、この『牧野物語』の「養蚕編」「峠」の二本の関係は、『古屋敷村』と『千年刻み』の関係と同じなんだ。技術的な「文明」への関心に集中する前者の仕事と、それから生まれる「文化」への関心に広がっていく後者の仕事。そういう段取り。もちろんそうきれいに分かれているわけではないが、関心のありどころが推移しているみたい。私としては技術の記録のほうに興味がわく。本作でも面白かったのは、その技術への関心を引きずっている部分。ワラのめぐみさん。叩いてサンダルのようなものも作れるし、ミノカサも出来る。一式を着込んでみせる木村さん。/小川監督は『牧野物語』シリーズというものを考えていたようで、最期には「牧野物語・紅柿編」というのの撮りかけが残された(これは後に中国の女流監督により『満山紅柿』として完成される)。でも彼の後期の作品は全部「牧野物語」と呼べ、実際『千年刻みの日時計』にも「牧野村物語」という副題が付いており、彼の構想がはっきり確認できない以上、ジャンルに「シリーズもの」を入れるのは躊躇われた。[映画館(邦画)] 7点(2011-11-01 10:43:31)

64.  デルス・ウザーラ 彼のカラー作品はどちらかというと色が強烈に使われることが多いなかで、本作は秋の沈んだ黄色など渋く美しい。やはり本作の見どころは湖畔で迷う場。それまでずっと視界が閉じた森林を抜けてきて、初めてだだっ広いところに出、その広さの中で迷うという段取りがいい。一つ一つの画面が「画家黒澤」って感じで素晴らしいが、日没へ向けた時間の推移を織り込んでサスペンスにしているところがやはり映画の監督。暗くなっていくことが、一番ドキドキさせる。草を刈るシーンの緊迫に比べると吹雪はやや落ちるけど、一番のエピソード。これ第一部と第二部の間に日露戦争を挟んでるんだな。そして第一次世界大戦も切迫している。まあヨーロッパは遠かっただろうけど、ソ連の映画なら近づいている革命の気分をちょっとだけでも出しそうなものだが、そういうものは一切ない。あの時代の測量隊ってのは時代背景を見ればかなりキナ臭い存在だったわけで、そういう異臭を出させないように慎重に大自然との物語だけに絞ったのかと思うと、途中に中途半端に匪賊が現われたりする。そこらへんの意図が分からなかった。そのようにエピソードのまとまりには欠けるものの、黒澤ならではの鉈で削ったような大柄な味わいはあり、その味を決めているのはデルスの語彙の少ないしゃべりだろう。単純なしかし的確な言葉の連鎖、修飾する語彙を持たない芯だけの言葉、黒澤もこういうデルスの語りのような映画が作れたらいいなと思い続けていたのだろう。[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-10-02 09:58:25)

65.  牧野物語 養蚕篇 -映画のための映画- 『ニッポン国古屋敷村』への準備のような二本。『三里塚・辺田部落』でつかんだ「農業の死」というテーマを展開していく。日本でいま進行している米作りの死の前に、養蚕業の死ってのがあったわけだ。国の柱としてもてはやされながら見捨てられていった産業と、それに付随する技術、それを記録しておきたいという気持ち、そういったことを表には全然出さないけれど、小川の仕事を通して眺めると、この「お蚕(こ)さま」への視線に当然のようにそれが見えてくる。手間を掛けることが楽しみになっていくような仕事のありよう。現在はいかに仕事から手間を省いていくか、ということに努力しているが、それが仕事を「苦役」にしてしまっている。また仕事の内容も完成の手応えの感じられないほど細分化され、工夫しようのない「苦役」になっているのだが。かつての労働が苦役ではなかった時代、品質が上がること・生産の効率が上がることへの手間をかける工夫が、そのまま楽しみになっていた時代。もちろん上部による搾取など経済的な苦しみはいつの時代もあったが、少なくとも仕事の現場では理想的なありようが、ここにはあったのではないか。冒頭、木村サトさんのおかあさんが伝説を語る。最初のうちは一生懸命標準語に近く話そうとしているのだけど、次第に地元の言葉に変わっていくのが楽しい。火事をきっかけに上の代がサトさんの代に替わった、そういうカッチリとした村社会の切り替え。かつての華やかなころの思い出を語らせるのも好きで、絹の服で学校に通った、とか。蚕が上に集まると蚕棚(?)がぐるっと回転する仕掛け、こういった工夫の楽しみこそが、本来の労働の手応えだと言っているよう。『三里塚・第二砦の人々』で、地下壕の換気口を工夫している農民の自慢げな顔を思い出した。[映画館(邦画)] 7点(2011-08-26 09:52:37)(良:1票)

66.  特別な一日 変にひとけがない感じがいい。『黒いオルフェ』では、カーニバルの賑わいの裏道の静けさってのが生かされてたけど、あれを思い出した。ファシストの集会にみなが出払った後のアパートの静まり。この設定がファシストおばさんとホモおじさんの出会いに必要だった。自分で女は劣っていると思い込んでいるほど素直にファシストの言葉を信じているヒロイン。公園でムッソリーニを見かけて気絶しちゃったってんだもの。あの当時のこういう素朴な一般庶民てのはなかなか映画で主役をやらせてもらったことなかったんだよな。ムッソリーニは貧困をもたらす敵だったのではなく、彼らにとって希望の象徴だった。小道具、九官鳥からルンバの足形、砂のオモリつけた電球、などなどが生きている。管理人のおばさんも重要。世間そのものといったような無垢な残酷さ。ラジオによる沿道の賑わいの中継が生きる。管理人のおばさんが大きな音で聞いているの。[映画館(字幕)] 7点(2011-05-20 09:46:40)(良:1票)

67.  天国の日々 映像は美しいですなあ。揺れるようなサン・サーンスの「水族館」に乗せられて、陰影の多い自然光。なんでも旧約聖書が下敷きになってるそうだが、そういった「語られたお話」という印象の濃いストーリー。社会派ではない。ただ映画としての流れがも一つうねってくれなかった。ジワジワと破局に向って進んではいるんだけど、こういう映画はこれでいいのかな、もう少し細工が欲しかった、ってこと。イナゴから火事へのシーンは迫力。けっきょくみんな、良くなろう・浮き上がろう・寂しくなくなろう、として不幸を呼び寄せていってしまう。それを憐れむ者の視点ね。ああ、やっぱり聖書なんだ。[映画館(字幕)] 7点(2011-03-10 12:19:03)

68.  ファンタスティック・プラネット はっきり人間の視点から見た世界と支配者から見た世界とに、分かれるの。その支配者側から見た人間の群衆の動きなんか丁寧だった。まとまって動いたりなんかしない。大量殺戮シーンで球が人をくっつけていっちゃうのが怖かった。踏み潰すシーンとか。映画を見てるほうはその時々でどっちの側にも感情移入しちゃってる。ペット時代なんかはどっちかって言うと飼う側から見てたな。この設定、植民地の比喩と見ることも出来るけど、いろんなイメージに溺れる楽しみがこのアニメの核。だんだん引いていく議場の広さ。瞑想で体がマゼコゼになってしまうとこ。ホースがくねってるような大地で、雨が降ると各所が持ち上がるとこ。夜の発光。ネバネバのしずくを垂らす植物。そしてラストの像のダンス。まあよくいろいろ思いついたもんです。締めが物足りないって気もするけど。[映画館(字幕)] 7点(2011-02-23 10:57:55)(良:1票)

69.  イレイザーヘッド こういう悪夢ものってのは、非日常の世界に拉致されてそして日常の世界に戻ってきてヤレヤレってなるのが多いと思うんだけど、これ逆ね。日常のほうが悪夢なの。そしてラストで非日常の側に身を投げ出していってしまう。生活・暮らしそのものが悪夢だって言うんだよね。子どもに代表される鬱陶しさ。夜泣き・保護の義務、生活するってことはなんて鬱陶しいことなんだろう、というイメージを繰り返し見せつけてくる。子どもは積極的には主人公を攻めない、ただ弱々しく泣き続けるだけ、これがポイント。『エレファント・マン』でも舞台のイメージを重視していたけど、ここでも理想郷をそれで表現している。非生活の理想郷としての舞台。それと音響効果。スチームの音とか、遠くの工場の音とか、雑音がざわついている。妻がまぶたをグリグリやる音まで聞こえてくる。それとヌルヌルドロドロのイメージ。変な太ったヒルみたいのがピルンピルン動いていく。この人も好きですねえ。首から消しゴムなんて、どういう発想してるのか。コナをさっと払うとこがなんとも残酷・酷薄な感じ。全編を覆ううんざり感はハンパでなかった。D・リンチは日本ではまず『エレファント・マン』のヒューマンな監督として登場したのだが、次にこの処女作が紹介され、すぐに誤解が解けたのだった。[映画館(字幕)] 7点(2011-02-22 10:16:18)

70.  ファイブ・イージー・ピーセス 《ネタバレ》 前半はかなりかったるかった。うんざりしている日々を、そのままうんざりさせて描くんだ。実家に帰ってからが面白くなる。カレン・ブラックが家にやってくるあたりの雰囲気がいいね。別に軽蔑とかそういうことじゃなく、まったく世界が違うってことかな。ただとにかくうんざりなんだ、っていう気持ち。ドロップアウトって言えばそれまでなんだけど、それがもう必然というふうに説得力を持っているのが強み。渋滞のトラックの荷台でピアノを弾きつつ別の道へ曲がっていってしまう、なんてシーンがあった。アラスカは清潔だから行く、と言うヒッピーをやや離れて風刺的に見ている。チキンサンドのチキン抜き、という頑固さ。おそらく今までのアメリカ映画なら、堅苦しい音楽家の家庭から自由になったことを単純に謳歌して、それが結論になったんだろうが、それだけではない人生も描けなくちゃならぬ、と思い始めた時期だったんでしょうね。[映画館(字幕)] 7点(2011-02-03 10:11:24)

71.  忍ぶ川 とりわけ前半がいい。州崎パラダイスのあたりの美術(木村威夫)なんか丁寧で。木場での兄さん(井川比佐志)の最後の表情とか。奥のほうにピントが合ったまま、主人公がこっちに来るってのもあったね、浅草のシーンだったか。カモメを見る少年のシーンとか。メロドラマってのは、こうそれにふさわしい情景の中に、美男美女のアップがポンポンと入らないといけないんだ。リアリティを追及した演技じゃなくていいんです。美男美女であることを自覚している立ち居振る舞いが求められている。栗原小巻って、ちょっと下あごを突き出すと、ちあきなおみなのね。ときどきひどくドンくさく見えるカットがあるんだけど、男(加藤剛)はこういうところがいとおしいんだろうなあ、と思わされちゃうのがメロドラマの魔力。[映画館(邦画)] 7点(2011-01-14 10:29:21)

72.  フレンジー 《ネタバレ》 詳しく知ってるわけじゃないけど、死後硬直の始まった死体とじゃが芋の手触りって、なんか似てる気はする。カボチャほど固くはないものの、簡単に踏み潰されたり齧られたりする果物よりは固そう。じゃが芋と死体の取り合わせって、すごく似合ってる。そして凝ったフランス料理。食材ってものは、考えてみれば「死骸」でもあるわけで、テーブルの前に死骸が陳列されているわけだ。それを皿によそうときの、ドロッとした感じ。暗い色調で撮ってあり、普通の料理を食べたい警部の悩ましさがこの「ドロッ感」に濃縮されていた。料理のアップだけでこれだけ笑わせることが出来るとは。この食材を絡めたブラックユーモアが絶品で、いかにも英国風。ほかにも、つくづくヒッチは変態だなあと思わせる最初の殺人のねちっこさとか、「タイプなんだ」という絞殺魔のセリフのあとヤベーという感じで階段を後ずさりしてくるカメラとか、楽しめた。警部の妻をはじめ、被害者となる女性たちも、陰惨な事件を別のユーモアの次元に転嫁できる造形になっている。これシナリオ、アンソニー・シェーファーだったのね。『探偵スルース』の原作者(『アマデウス』のピーター・シェーファーは双子の兄弟)。ヒッチコックでは、『疑惑の影』に、やはり劇作家のソーントン・ワイルダー(名作「わが町」はもう演劇の古典)が加わってたり、けっこういろんな大物が関わってる。[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-01-01 11:59:15)(良:1票)

73.  タワーリング・インフェルノ 『ポセイドン・アドベンチャー』が、出口という「上がり」へ向けた「すごろく」みたいな展開だったのに対して、こっちは「パーティー会場から動けない」という状況で見せる。最初は遠く離れた火だったのが、徐々に迫ってくる怖さ。その遠さが「大きくなり過ぎた建築物」を印象づける。恐竜は尻尾の先の痛みを脳が感じるまで1秒以上もかかる、とかいう話を思い出した。エレベーターから火だるまの人がころがり出てきて安全の結界が破られ、ガラスが割られ外の風がじかに吹き込んでくる。着飾ったドレスが汚れてくる。くつろぎのパーティー会場にどんどん外部が入り込んでくる。映画の基本が見世物だとしたら、観客が一番喜ぶのは火事場の野次馬になってもらうことだ、と製作者に見抜かれてしまっているのは悔しいが、たしかにそうなんだ。ワクワクして野次馬になりきってしまう。『ポセイドン』では観客はある程度登場人物と一体化して観ていたが、こちらは少し離れて野次馬の立場から、街の名士たちのオタオタぶりを眺めている。でもこのころはあんまり高層ビルもなかったが、今では林立していて、観客のほうも当事者になり得る可能性が高まっている。非常階段にコンクリの残滓がヒョイと捨ててあるなんて、似たようなことアリソーだし(最近の日本でも飛行場の工事で産廃が滑走路の下に埋められてたってのがあった。非常階段が倉庫がわりになってた、ってのは歌舞伎町の火事だったっけ?)、手抜き工事の話は枚挙にいとまがない。そうそう安全な野次馬の立場ばかりでもいられなくなっているのだ。この映画の忠告は、現在いっそう切実になっている。下からインフェルノの劫火と天からの大洪水、あちらの人にとってはキリスト教的な構図でもあるんだろうな。[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-11-26 10:08:07)(良:1票)

74.  白夜(1971) なんて言うんだろう、針金だけでできているような映画。人物に厚みがない(これ普通はけなすときに使うんだけど、そうじゃないんだ)。現実を慎重に薄~く切った結果なのか。憑かれているものの薄さとも言える。抽象画の友人の忠告に対して、こちらは古城のロマネスクに徹してる。女性を追いかけるのも、なにかに憑かれている感じ。だから全体から見ると消極的な生き方なのだが、その「一筋」に関しては豊かこの上ないわけ。実にぶっきらぼうな唐突性のなかに、あのボサノバの船がゆったりと流れていく豊かさと照合できますか。この人の映画は、針金の鋭さで描き切るのが多いけど、本作ではその針金を通して、豊かでロマネスクなものが匂い立っている。こういう世界も隠し持っていたのか。ドアの開閉のリズムなんかに抑えに抑えた美しさがあって。テープに「マルト」と吹き込んで、バスの中でかけたりして、ほんとなら突き放したくなっちゃう主人公なんだけど、ブレッソンの文脈の中だと、憑かれた崇高さが出てくるから不思議。[映画館(字幕)] 7点(2010-09-26 10:11:16)

75.  四畳半襖の裏張り しのび肌 《ネタバレ》 よくあんな気持ちの悪い少年を見つけてきたな、ほんとにタイコモチになれるのかいな。セピアの画面からサーッと川の青い水が広がるのが美しい。長回しでゴチャゴチャからむとこにこの監督、独特の粘り気があってよく、本作では映写技師の家のシーンがいい。『土と兵隊』の大きさに画面も縮まり、その狭い中で蒲団のかたまりがうごめく。脇で旦那がうつろな表情でただ横たわっている、なんて構図。ニヒリズムのようでいて、人懐こいようでいて、蒲団とはこういう味わいがあるものなのか、としみじみ眺めさせてもらった。少年が「デデンデンデンデンデン」と練習しながら、階段風の渡り廊下をゆくところなんかも印象深い。結局みんながオモチャのつもりで遊んでいた少年に、オモチャにされてしまったというようなラストがおかしい。それで男たちは満州に行ってしまう。時代に対してひどく閉じている世界を描いてきて、あの少年なんかもそういう閉じた環境の気色悪さを引きずっているんだけれども、その閉じていった果てにヒョイと向こう側に抜けてしまうもの、それが「男」であり、そうはならずに微温的に全体に通じ合っていってしまうもの、それが「女」、ってことか。[映画館(邦画)] 7点(2010-09-03 09:59:47)

76.  赫い髪の女 にっかつロマンポルノは70年代初めに青春の終わりを描くことから始まったが、ここに至ると、もう青春の終わりでなく、中年まっただ中。いいかげん落ち着かなくちゃいけない、って年頃も過ぎている。もうよそに働きに出ていく気にもなれないし、若いもんのようにカケオチなんかも出来ない。半分はそういう状況を受け入れてるんだけど、あとの半分でわだかまりを残している。やたら雨が降る。ガラス戸はずしちゃって室内にまで雨は流れ込んでくる。若いもんに赤髪女を貸してるときにも雨は降っている。狭い飲み屋のシーンなんか良かった。室内はひっくり返った電気ごたつの赤。若いもん同士は廃船で密会するのだが、この監督、船好きみたい。これまたうらぶれた風情を強めている。弱者を描くんだけど、そこからは強者への恨みも妬みも感じられない。革命の気配などトンとない。「わしらはわしらでやってんのや、ほっといてんか」ってことでしょうか。こういうニヒリズムに沈んでいく世界観が間違いなく70年代末のもので、60年代末の高揚から10年でここまで来てしまったという記念碑のようなフィルム。[映画館(邦画)] 7点(2010-08-31 09:51:50)

77.  ピクニックatハンギング・ロック 《ネタバレ》 前半が特にいい。ピクニックのまどろみの感じ、いつもと違う朝の空気。バレンタインデーは南半球では夏なわけ。バッハの平均率に乗って馬車が走り、町を抜けると手袋を外し、虫のさえずり、羽ばたく音。食べ残しのパンにたかる蟻。12時に止まる時計。このしだいに山の神秘に呑み込まれていく感じ、「美しい良い子」の少女たちは消えていかねばならないことを、映像で納得させてしまったのはすごい。消えていった少女たちにはほとんど個性が与えられていないのも正しく、少女の「普遍」なんだろう。これ少女期の終わりだけでなく、19世紀の終わりも重なっている。19世紀的な少女は消えていき、淘汰され、20世紀的な少女の時代になっていく。しばしば流れるベートーベンの「皇帝」の美しい第2楽章、これの初演が19世紀初頭、たぶんこれからはがさつな不協和音の時代になっていくのだろう。[映画館(字幕)] 7点(2010-06-27 11:57:29)(良:2票)

78.  彗星に乗って 例の銅版画風タッチはやや控え目ながら、すっとぼけた語り口の妙には、やはり乗せられてしまう。一つの都市ごと彗星の引力に引っ張られて移ってしまうという設定からして、そうとうオカシイ。バラバラになって吸い上げられた建物が、また順番に積み上がっていくのが傑作。そのまま日常生活が何となく続いてしまうのがオオラカでよろしい。なんでも原作では女性を巡る二人の男の争いが話の中心になっているらしいが、それが映画では国家の争いに拡大され、そのぶん人間の演じる愚行に対するおかしみは倍化された。植民地支配を正当化したがる者に向けられた、東欧の視点。進化して後ろ足で歩いている魚がやがてイノシシになっていく。火星が近づいて世界の終わりになるというときに、一時的にユートピアが訪れるというあたりの風刺。海蛇の胴体がうねうねと続いているシーンの静かな美しさは、彗星に吸い上げられるシーンの激しい美しさと好対照。この人の奥行きのない世界は、影絵の世界に近いのではないか。崖から主人公が落ちるとことか、城壁からロープでヒロインを下ろしていくシーンなんか、影絵の雰囲気。一枚の絵葉書にすべてが還元していく締めくくりで、変なところもすべて納得してしまう。[映画館(字幕)] 7点(2010-05-19 11:59:50)

79.  ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 神話化の裏にある俗物的な部分がちろちろ見えるのが興味深かった。官尊民卑的なところがあった、との川口松太郎発言は、単純に「底辺からの視点」って誉め言葉でくくって済ましてしまう評価をえぐる(19世紀生まれの人の限界ということか)。中国へ行くときは将官待遇でなきゃやだ、とゴネたとか。あるいはヴェネチア映画祭のホテルで香を焚いて入賞を祈ってた、なんてのも面白い。なんとなく泰然とした印象を醸してた裏に、そういう人間味もあった。もちろんそういう人間だからこそ、あの美しくもネットリとした奥行きのある世界を構築できたのだろう。具体的なシーンについて発言しているときは、もっとオリジナル作品の映像を取り入れてほしいところだが、著作権とかで難しかったのか。ときにインタビューに誘導気味のところがあるような気がした。『雨月物語』の森の帰宅シーンの気合いの入り方を語る田中絹代のシーンは凄味があった。ぎりぎりのところで仕事をした人の貫禄と言うか。森さんがふっと煙草をくわえると、監督自らがライターを点したそうな。映画のそのシーンも美しいが、撮影現場のそのシーンも劣らず美しい。依田義賢が『雨月』『近松』はちょっとすましているところがある、と発言しているのには、なんとなく同感。[映画館(邦画)] 7点(2010-04-05 12:05:55)

80.  パンと裏通り 《ネタバレ》 なんかこれ、最も純粋なキアロスタミの世界なんじゃないか。ほとんどサイレント映画の精神。でももちろんトーキーで、オブラディオブラダに乗って、少年がカンを蹴りながら歩んでいく。犬の登場。陽気な音楽はゆるゆると消え、犬の目つき。その距離。無関係な自転車の通行人。老人(イヤホン)が登場。リズムに乗って一緒にいくと、犬の寸前で老人は左折してしまう。犬にパンを少しやると懐いてついてくる。一緒に並んでいく。門での別れ。犬はそこにうずくまる。犬はこうやって少しずつ歩んでいるのかも知れない。続いてミルクを持った少年がやってくる。…とこう書いていっても仕方がないんだけど、なんか書きたい気分にさせる映画なんだ。処女作でその作家の立脚点みたいのが分かるっていうけど、ほんとにそう。影の輪郭のはっきりした裏通りの気分を背景に、少年の心の変化をていねいに綴っている。おつかい帰りの浮き浮きした気分から緊張、そして友だちの発見、後ろ髪引かれる気分、と来て、しかしここで不意に犬の心に移るとこがすごい。等価なんだね。ここでワッと世界が広がる。映画における純度の高さってこういうのを言うんだろうなあ。[映画館(字幕)] 7点(2010-01-25 12:04:07)

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