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【製作年 : 1990年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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61.  風の丘を越えて~西便制 《ネタバレ》 典型的な芸道ものなんだけど、新鮮に感じた。神話的な旅芸人を、素直に現実の中にはめ込んでいる。一族だけの至福感は、もう田舎道をやってくる長回しのシーンで満ちている。ここは本当に神話から抜け出してきたような雰囲気がある。一族の宴。けっきょくこれが彼らが一緒にいられた最後の時になるわけだけれども。このあとは、歌ってるとベサメムーチョの楽隊に音は消されていく。没落感覚。薬のPRしたり、お酌させられたり、兄弟弟子は麻薬に溺れていく。美しい文字絵も流行らなくなる。映画はただただ滅びる側に寄り添って、現実の中に埋没していく神話を記録していく。で失明。彼女が盲目になってからの風景描写は一段と凄味を増し、「蕭条」と言うんですか、芸の奥の世界へ分け入っていく感じ。現実の中から神話が蘇ってくる。そして更なる伝承を思わせる旅立ちのラスト。いつもは「湿っぽい」というのは、映画の感想としては否定的に使っていたものだが、これなんか実に「上品に湿っぽい」。どんな方向にも洗練されれば感動があるのだ。[映画館(字幕)] 8点(2010-07-06 12:10:24)(良:1票)

62.  ナチュラル・ボーン・キラーズ 70年代ふうニューシネマのパロディとも見られる。あの新しさとテレビの退屈さとが同じものであった、っていうか。二人の出会いの場が「ルーシー・ショー」ふうのコメディにされて出てくるあたりは実にワクワクした。あとアニメあり、ニュースふう事件再現あり、とごちゃまぜの文体で「テレビの国のユリシーズ」といった面白さ。二人は社会に対して特別に恨みつらみがあったわけじゃない、あったのは家族に対してだけ。この世はゲームの場となり、イノセントに殺人を続けていく。そこにリアルな感じがあった。マスコミ批判は戯画的になりすぎて、それほど印象に残らず。インディアンの場は、これだけ「裁き手」になってしまうのでつまらない。ナチの悪もアニメの悪も、ブラウン管の中では同質になってしまうって視点が大事なんだ。[映画館(字幕)] 8点(2010-07-03 11:45:03)(良:1票)

63.  こうのとり、たちずさんで 《ネタバレ》 硬質な、ドキュメンタリー的な画面の中で、登場人物が不意に詩を語り出す。国境に立つ兵士が点呼の中で川の流れについて語り、議会で政治家が雨音の背後から聞こえる音楽について語り出す。政治に追いつめられた人々が魂の中から語り出す言葉は、詩にならざるを得ないのか。ところがこの映画の重要な場面になってくると、その詩さえ消え失せてしまう。レポーターが娘に出会うバーでは、視線だけが交わされる。川越しの結婚式の場面では、向かい合う視線と伸ばされる手だけ。この作者はもう会話を信じていないのだ。詩の言葉はあっても会話は失われている。言葉の代わりにコミュニケーションの役割を担わされた視線と手は、しかし両者の距離を強調していく。マストロヤンニとモローが市場の橋の上で向かい合うとき、二人の間には見えない国境線が引かれているようだ。人々はなぜ引き離されたのか。一方が逃げ、一方がとどまったからだ。マストロヤンニは逃げ、モローはとどまった。花嫁は逃げ、花婿はとどまった。しかし逃げた者が自由になったわけではない。逃げ出した場所にはまた別の牢獄が待っている。永遠に繰り返されるだろう脱出の後に、無数の国境線が引き直され、出会えなくなる人々の沈黙だけが堆積していく。そして詩となった言葉はさらに沈黙へ傾斜し、映画はリアリズムから伝説に入っていく。「アレクサンダー大王」は群衆の中に消滅し、「シテール島」の老夫婦は漂い消え、本作の政治家も、幾人もの目撃者たちの中に分裂しながら、伝説の人物になっていく。ならばこの映画は敗北主義に浸されたフィルムなのだろうか。いや、タコの話を聞かされた少年に託されたかすかな希望がある。そして「黄色い人」がいる。アンゲロプロスの沈んだ世界に登場する原色の黄色は、前作でも目を引いたが、この作品でとうとう重要な役を割り振られた。危険な仕事に従事する移民労働者、戸籍も国籍もなく、アイデンティティからも追放されたような人々、顔さえ定かでない究極の自由へ漂い出した人々。言葉だけでなく視線も手も封じられ、しかしそういう彼らがどこかとどこかの間に電線を繫げようとしている。ぎりぎりのメランコリーの果てに監督がたどり着いた希望。国家というものが無効になった先へ張られていく電線。その背後の空には、おそらくこの映画で初めてだろう、厚い雲を割ってかすかではあるが青空が見えかけている。[映画館(字幕)] 8点(2010-07-01 12:14:46)(良:1票)

64.  フォレスト・ガンプ/一期一会 この主人公は単に無垢なアメリカってだけじゃなく、意志を持たない、というか、何者にもなろうとしない、ってところがポイント。アメリカ映画の主人公って、無垢な人物が何かに向かって突き進むのが好きだったのだが、彼の場合はどちらかというと逃げるために走っている。無垢かもしれないが、その名前にはアメリカの原罪が刻印されている。なにかアメリカの変化を感じた作品だった。目的に向かって突っ走らない生き方に憧れを感じ出しているのか(でもその後のアメリカを見ると、変わらなかったんだけどね)。映画としては前半の密度の高さが圧倒的。逃げることによって、アメリカ現代史に立ち会い続けてしまう主人公。プレスリーからウォーターゲイトまで。逃げの走りを、周囲が思想にしてしまう。後ろにぞろぞろ、「あ、とまったぞ、何か言うぞ」って。SFXの使い方も、この頃はだいぶ幅が出てきて内実を得た。そういう意味でも記念碑的な作品。[映画館(字幕)] 8点(2010-06-28 11:58:08)

65.  ナイトメアー・ビフォア・クリスマス 《ネタバレ》 人形アニメとしての丁寧さもいいが、設定もいい。「怖がらす」ことを極めてしまって、なんとはないウツロに捉えられているジャック、ふとクリスマスを覗いてしまって、今度は「喜ばす」ってことをやろうとする。一生懸命科学的に分析しようとしたりして。何ら悪意がないところに、「フランケンシュタインの怪物」的哀しみが潜んでいる。これは下手すると「己れの分際を知れ」って反動的なメッセージになってしまいかねないところ、ジャックが「とにかく俺はやったんだ」ってな歌を朗々と歌い上げて、そうはならない。ここが大事。キャラクターもよくできていて、市長は二つの顔がクルクル替わるし、ヒロインは体が分解する。手だけでサンタを助けたり。何か頭部がドロドロネバネバのやつもいたなあ。トランプのキング。中身が虫のカタマリのやつ。人を怖がらせる国に比べてクリスマスの国の退屈な暖色、これは日本でも地獄絵の豊穣と極楽絵の退屈と、どんな文化圏でも同じ傾向があるな。ハロウィン・クリスマス文化の浸透している国だともっと楽しめるのだろう。[映画館(字幕)] 8点(2010-06-06 12:04:54)(良:1票)

66.  アウトブレイク 《ネタバレ》 ペストの時代から疫病というのは半分社会問題であった。D・サザーランドが「言ってみれば、この人々は名誉の戦死なのだ」という論理。彼が常に口にする「センチメンタル」という批評、ここらへんに一番の怖さがあった。日本にもよく「センチメンタル」で切り捨てる知事がいるでしょ。多数と少数の問題。多数の側に立てば、あらゆる人道的発想はセンチメンタルとして扱われるだろう。小さな町が軍に封鎖されてからが本筋。なあに脅しだけさ、と逃げた車が容赦なく爆破される。不意に少数の側に区分けされてしまった市民、こっちの側に立てば「センチメンタル」などと言ってられないのだ。そうは言っても多数の側に立てば、やっぱり安全を考えちゃうだろうし。そこらへんの問題。多数はこういった少数の集積であるって考えが大事なんだろうね。アメリカ映画でいいのは、主人公が組織の問題児ってところ。勇気ってことも絡んでくる。それと責任ってことか、責任から逃げない。そういう本筋の健全さが偉い。D・ホフマンをつかまえにきた軍に、レネ・ルッソが「背の高い男よ」と教えるところは、もっと笑っていいんじゃないか。[映画館(字幕)] 8点(2010-04-19 12:00:10)(良:1票)

67.  恋人までの距離(ディスタンス) 会話する二人の自然さの引き出しかたにこそ映画の命がある、っていう姿勢。ちょっとした反応なんか、どこまでが監督の指示なのか分からないけど、素晴らしい。他人だった二人がどこか探り合いながら親しんでいく経過、これほどドラマチックなものはないと監督は確信している。喋っている言葉より、そこにある空気をこそ映画ならば捉えたい、と。「時は流れ去る」というテーマが底にずっとあって、時間をいとおしみ出したときに静かにナガシのウィンナワルツが流れ込んでくるあたり、時というものをハッと意識させられる。駅で今日の日付けが6月16日と分かる。これはジョイスの「ユリシーズ」の日ではないか。あのダブリンをウィーンに移して街歩きをやらせたという趣向なのか。そして泣けるのが、二人が歩き回った場所のそれぞれの朝を捉えたカット、これがいい。最後にヒロインは徹夜の後の眠りに入っていく。実に自然ななんの感情もない純粋な眠りに見えるのが、またいい。[映画館(字幕)] 8点(2010-02-25 12:07:50)(良:3票)

68.  プレタポルテ 配役の贅沢さだけで、お祭り的な楽しみがある。そしてこの人の場合「お祭り的」ってこと自体が狙い目なので、大事なんだよね。つまり主役級の人たちに全員脇役をやらせている映画とも言えるわけで、アルトマンの人生観が見えてくる気がする。「すべての人は主役である」とはよく言われるけど、この人は「すべての人は脇役でもある」って言いたいんじゃないか。するとなんか、肩の力が抜けるというか、周囲に構えないで生きていけそうな気がする。主役のつもりでファッションモデルのように気取って歩いても、ほら足元には犬のクソ。虚飾を剥ぐ、などという大層なものではなく、人の世のおかしみ。マストロヤンニは、ホント、こういう役やるといいですな。ヒョコヒョコした忍び足やらせると絶品っていう名優も珍しい。[映画館(字幕)] 8点(2010-02-22 11:57:10)

69.  ジュラシック・パーク この映画の怖さのポイントは「舞台がテーマパーク」という設定だと思う。かつてのモンスターものは、怪獣たちが日常生活に闖入し蹂躙していくのが定番だった。私たちは、日常生活が破壊される恐怖と、日常生活が破壊される快感を同時に味わえた。私たちが私たちの世界に怪獣を迎え入れていた。しかし本作では、私たちが恐竜の世界に入っていく。もちろんこれは初めてのことではなく『ロストワールド』も『キングコング』もあったわけだが、それは「探検」の物語だった。だがこれは「探検ごっこ」である。この「ごっこ」の部分にとても現代性が感じられる。完全に制御されたスリルの場としての遊園地、日常と冒険とが奇妙にねじくれながら絡み合っている場としての遊園地、どんな危険も「ごっこ」の中で牙を抜かれてしまっていたはずのところで、不意に危険と私たちの境の網が破られてしまう。最初の襲撃のシークエンスが白眉だろう。テーマパークに入っていくときの浮き浮きした気分をたっぷり描き、おとなしい草食恐竜だけを見せて、肉食の方は気配だけに抑える。そして素早く「ごっこ」の部分を抜き去ってしまう。ヤギが消えていたり、コップの水が振動で揺れたりのスピルバーグお手のものの演出。しかし何よりも主人公たちが剥き出しにされている感覚、心理的に恐怖にじかに晒されている感覚が怖い。人類はひ弱だが知恵がある、という我々最大の自信が、つまるところ金網一枚だけで支えられていた程度のものだった、という発見が怖いのだ。[映画館(字幕)] 8点(2010-02-07 12:07:14)(良:1票)

70.  ヨーロッパ 《ネタバレ》 この監督で初めて観たのが『エレメント・オブ・クライム』だった。タルコフスキーを思わせる水への惑溺、水中で馬の死骸がゆらゆら揺れているあたりは陰気なブニュエルといった感じ。次の『エピデミック』ってのは字幕なしのビデオ公開で観られたが、これはドライヤーのトーン。この人独自のタッチがも一つつかめなかったものの、どちらも催眠術シーンがあることで共通していた。そしたら本作も催眠術で始まった。映画全体も催眠術のような夢魔の連続である。室内の鉄道模型を俯瞰していたカメラが引いていってその家から出、本物の列車の中に入ったかと思うとそれが走り出していくまでをワンカット、とか、カメラがバスルームのドアの上にゆっくりとねじれのぼっていくと、ドアの内側の血の洪水が見えてくる、とか、並行して走る列車越しの会話がやがて二つに分かれていくところ、とか、スクリーン・プロセスを使って背景とその前とで同じ人物が出たり入ったりするところ、とか。話は、戦後のドイツの復興の役に立とうとやってきたドイツ系アメリカ人の車掌としての放浪譚。カフカの「アメリカ」を裏返しにした設定ではないのかな。もっともあれ、カフカとしては珍しく爽やかな小説だったが、こっちは深いメランコリーを滲み出している。ヨーロッパの映画でよく感じるのは、こういったメランコリー。アンゲロプロスの登場人物が国境線の手前で遠い目をしているように、アントニオーニの登場人物がここではないどこかへ憧れ続けているように、タルコフスキーのノスタルジーのように。文化の伝統を重く背負い続け、そういう風土への憎悪と愛着とが常に憂鬱という気分を導き、そのメランコリーを文化の一つの型として自分たちの中に公認することで、彼らはなんとか耐えているのかも知れない。アメリカ育ちの主人公が単純に考えていた国家の再建というイメージは、列車の旅とともに複雑にグロテスクに屈折していく。ナチの残党が国家再建という大命題の前でうまく生き残っていく状況も、政治的メッセージとしては語られない。ナチズムという明瞭な傷口でさえ、ヒリヒリとしみわたる感覚ではなく、鈍痛のうずきに変わってしまう底なし沼のようなヨーロッパの風土、それをこの映画は捉えていたと思う。このタッチで先もやっていってみてほしかったんだけど、また次から変えてっちゃうんだな。[映画館(字幕)] 8点(2010-01-08 12:10:41)

71.  パリのランデブー 《ネタバレ》 常に二人の人がいて、でラストでは一人になる、という話が3つ。それを街角のシャンソンがつなぐ。第1話は、ヒロインと恋人・ヒロインと告げ口する男友だち・ヒロインと友人・ヒロインの一人での悩みのシーンが挟まって、ヒロインと歯痛男・ヒロインと財布を拾った女・そして過剰な3人の場がヤマになって、その緊張のために3人は散り散りになり、最後は一人の歯痛男で断ち切る。この無駄のなさ、良くできたコントの味。結局ほとんどの登場人物の心に傷がつくんだけど、そのゆえに喜劇になってるんだなあ。人の心が傷つかない喜劇なんてないのかも知れない。第3話の、運命の一目惚れも楽しい。その女性に聞こえるように、どうでもいい連れに美術館で解説するあたりの涙ぐましさ。またこの彼女、アトリエにまで来てお話までしてくれる。罪作りな女。でも別にからかってるって訳じゃなく、そこにこの男も魅かれてるんだろうけど。そう悪くない一日だった、と最後に男は言うんだ。大げさに言えばこういう一日があるから人生も楽しい、って気持ちになる。うまくいってるカップルってのは、この映画一つも登場しない。[映画館(字幕)] 8点(2010-01-02 10:29:58)

72.  ハワーズ・エンド 大雑把に言うと英国の上・中・下の階級が繰り広げていくドラマ。「下」というとちょっと極端な表現になってしまい、銀行に勤めている普通の勤労者階級だが、一応このドラマの中では「下」の位置に置かせてもらう。そこで面白いのは、普通だとこの「上」と「下」が対立するでしょ、滅びゆく上流階級と勃興する労働者階級って感じで。ところがここでは対立しない。「下」が、「上」を引っ繰り返すような力をまるで持っていないデリケートな弱々しい青年で現われてくる。労働歌を歌うより、花畑の中を散策しながら詩を口ずさむ手合いなの。この世ならぬものへの憧れに生きている彼は、上流階級のヴァネッサ・レッドグレイヴと対になっているような存在。本来なら対立すべき「上」と「下」が現実に背を向ける地点で寄り添い出してしまい、ドラマの軸を統制するのは「中」の役割りになる。夢見る「上」と「下」に挟まれて、「中」は現実を生きていく。しかしこれが「生きざま」などという語感からは程遠い「いい感じ」のもので、この映画はそのいい感じの味わいに尽きると言ってもいい。「上」と「下」との仕切り役に自分の役割りを定め、控え目にも過ぎず出しゃばりもせず、天真爛漫でありながら周囲に気配りも十分という、おそらくイギリスの長い社交の伝統が培ってきた中流階級の美点が、エマ・トンプソンに結実している。上流階級の洗練も英国の自慢だろうが、こういう愛すべき人物を育てた中流階級も自慢させてほしい、という感じ。ここには対立のドラマのダイナミズムはないが、そのかわり一点から緩く渦を巻き、そしてそれぞれの居どころへ静かに落ち着いていく上品な舞踏のような味わいがある。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-10 12:09:48)(良:2票)

73.  注文の多い料理店 まず静かな林の夕方の気配が美しい。葉がきらめいているのか、チカチカしている感じや風の肌触りがよく出ている。しかし見事なのは「山猫軒」だ。あの原作からこんな広大な建造物を想像した人はいなかっただろう。外観ではない、複雑な構造が内側に組み込んでいく迷宮としての山猫軒。迷宮がもともと持つ、地図を失った心細さが、ここでは裏返された探検への期待として展開していく。薄暗さと静けさ。狭い廊下から鏡の間に抜け、蝶が乱舞したかと思うと、さらに地下深くの運河を越えたりもする。観客も耳を澄まし、足音を忍ばせて猟人の彼らに従っているような気分。イメージの展開は奔放だが少しもはしゃいだ気分はなく、一つ一つの場面の底には、必ず美しい寂しさが横たわっている。原作にあった恐怖感は薄められ、この作品では山猫軒で最後に出会うものへの期待が、この寂しさの中でしだいに高められているような感じすらある。それはもう単においしい料理への期待などを越えた、何やら分からないが荘厳で偉大なものの気配、孤独を通り抜けて初めて見上げることのできる巨大な何かである。二人の猟人はその最後に待っているものがもしかすると死かも知れないとうすうす気づきながらも、自分自身に調味料を振りかけながら、魅入られるようにしてこの迷宮の奥深く、山猫たちの舞踏の場まで来てしまうのではないだろうか。遺作となる作品にしばしば見られる澄明感が、ここにも満ちている。漠然と遠くに感じられていたゴール、その死がごく身近な自分だけの終着点として感じられたとき、いま生きている現実の世界はもしかすると、その死を包み込んだ寂しく美しい迷宮となって見えてくる。若い健康な者にとっては抽象性のカバーをかけられてしまう死が、その迷宮を通過することによって具体的な手触りを帯び、親しみさえ感じられてくるような気分。この映画はその気分を、すぐれた原作を得て、まれに見る凝集度で提示した。原作の中心に置かれていた、食べる=食べられるで組み立てられた世界観は、さらに死の要素を加えて、畏れる=魅せられるのベクトルをも持つようになり、奥行きの深まった限りなく美しい小宇宙を構成したのであろう。[映画館(邦画)] 8点(2009-11-10 12:13:32)

74.  MEMORIES 「彼女の想いで」は、『2001年』的舞台で『ソラリス』やってる、って感じ。人間が考える宇宙の果ては、けっきょく人の心に行き着いてしまう。廃墟趣味がいっぱい。宇宙船の中のオペラハウス、そもそも調査艇が下降していく時に「ある晴れた日に」が流れていたのだった。ザザッと乱れの入るホモグラフ、青空に錆びた鉄骨が突き出してきてたり。ぱさぱさになる薔薇の花束。半分融けたようなピアノ、ポンと叩くと世界が変わる。拍手する手だけが見える。おそらくラストの宇宙に漂う飛行士は、故郷の夢を見ているのらしい。薔薇の花びらが浮遊している。こういうイメージの連続だけでいく話は、下手すると空回りになってしまう危険があるけど、これは45分という時間もいいのか、いっきにいけた。と、これが科学の果てに心に辿り着いたとすれば、「最臭兵器」は最も形而下的な“ニオイ”に復讐される話。地方都市の細密な再現。面白いのは花が咲いちゃうとこで、車がひっくり返ってる脇が花園になってたりする。ラストの後で花園になってる東京の場があるはずなんだけど。「大砲の街」は、全体主義社会の日常を淡々と描いていく。ここにあるのは、世界と拮抗するのではなく世界に組み込まれてしまった童夢。ファンタジーかも知れないが、これが現実になっている国もあるわけで、そこが苦い。2-3-1の順にしたほうが座りがいいような気がするけど、ま、好みの問題。[映画館(邦画)] 8点(2009-11-02 12:06:53)

75.  ゆりかごを揺らす手 《ネタバレ》 ネチネチとものごとを企む女。衝動的にことを起こすのではなく、自分の演出を楽しむようにゆっくりゆっくりと事件のネジを巻いていく。観客は被害者クレアの戦慄も体験できるが、犯人ペイトンの側から“企む快感”も味わえる。ここらへんがまず楽しい。動機も、「公」的には理不尽なんだけど、「私」的にはそれも分からなくはない、と微妙に観客に納得させるように仕組んである。彼女が狙うのは、赤ん坊の命ではなく赤ん坊の愛情、そして家庭を奪うこと。そこでシナリオのうまさが生きてくる。小道具やセリフが効いてくる。タバコのにおい、ぜんそくの発作、軒に吊るされた風鈴、自転車、イアリング、ライター。日常のなにげないものが一つ一つ緊張を持ち、ラストへ導いていく。音楽で盛り上げることもなく、淡々とシナリオに信頼を置いて話を進めていく。もう少しケレン味があってもいいんじゃないかと思うところもあるが(たとえばクレアが亀の図柄を産婦人科医の旧宅で見いだすところなど、ヒッチコック趣味の監督だったら階段をゆっくり上がっていくカメラが回り込んでいって捉えただろう)、このシナリオを大事にする姿勢が、ジワジワ攻めていくストーリー展開の場合よかった。身近にいてニコニコ笑っている人間が、考えてみると何を心に思っているのかよく分からないという不安。それが家庭という「最終的に安全であるべき砦」の中で起こることの怖さ。それは裏返すと「最終的に安全であるべき砦」を攻略していくスリルでもある。他人の家庭の中で、さらに小さな温室のトイレの中で、論文をびりびりに引き裂いて荒れるペイトンの俯瞰シーン、このとき観客は彼女の執念におののくだけでなく、たった一人敵地に乗り込んでいる兵士の孤独にもどこかで共鳴していたのだと思う。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-30 12:09:10)(良:2票)

76.  ユリシーズの瞳 前作のラストでは黄色い服を着た作業員たちが、絶望の中の希望を示唆していたけど、今回は黄色の補色の青に浸されていて、ラストは希望の中の絶望に見える。でもそれが希望であったのか絶望であったのかは、どこかに到着して初めてわかるので、いつもアンゲロプロスが描いているのは、途上で途方に暮れて立ちすくんでいる人々なんだ。路上で、あるいは岸辺で、帰還の途上ということだけがわかっていて、それがどこへの帰路なのかは分からない。20世紀史と映画史が重ねられた旅の途上、第一次世界大戦のサラエボから世紀末のサラエボ紛争への百年の旅の途上。映像としての緊張度は前半のほうが高かったけど、後半に込められた気迫のようなものの感動も、映画の感動として除外したくはない。歴史が凝縮されるお得意の手で、1944年の大晦日から1950年の新年までをワンカットで見せる踊りのシーンなど、やはりたまらない。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-27 12:06:11)

77.  美しき諍い女 《ネタバレ》 スランプに落ち入っていた芸術家が生涯の大作を完成させるまでの過程を、カメラが観察し続けていく。それはさながら、氷結していた河がゆっくりと解け出して再び怒涛の流れを起こすまでを、ずっと見守っているような興奮に似たものがある。動きそのものよりも、作動するときの時間のうねりにこそ感動があるらしいのだ。冒頭で画家が落ち入っているスランプは、それなりに安定した生活でもある。芸術家としての焦りさえなければ、安定した夫婦の関係と重なっていて、普通の夫婦ならこれが理想の生活なのである。しかしその穏やかさからは芸術が生まれてこない。そこで若い娘マリアンヌがモデルとして入り込んでくる。安定していたこの家の空気が、創作のほうへ傾き出す。妻としては夫の仕事の再開を喜ばなければならない。しかし、自分を通して完成されなかった絵が、若い娘の裸を通して完成されていくのを、アトリエの外で待っていなければならないとき、妻のほうでも、夫の創作に並行した心理のドラマが動き出す。そっとアトリエを覗いて見ると、以前描きかけだった自分の顔がマリアンヌのお尻の絵に塗り潰されてたりして。この二人に加え、さらにマリアンヌの時間もある。画家との間に生まれてくる緊張のドラマだ。最初はデッサン、ポーズもただ椅子に座っているもの。それから普通のヌード。背中。だんだんと外界の田園風景と隔絶した造形の奥へ、芸術の創造という魔の領域へ入り込んでいく。最初は丁寧に口で指示していたポーズも、ついには画家みずからの手でぐいぐいとマリアンヌをねじ曲げていくようになる。格闘と言ってもいい。人形のように解体されていくことへの抵抗と、心のどこかで感じている妻への勝利感が、マリアンヌのドラマを動かし出す。この三つの流れが絵の完成へ向けて合流し大河となっていくところ、安定の対極にある充実、芸術の完成という死の瞬間に向けられた沸騰、それをこの映画は描き尽くした。そのとき出来上がった絵などは、映画にとってもうどうでもいいのである。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-15 12:14:31)(良:2票)

78.  ナイト・オン・ザ・プラネット 同時刻の地球の異なる場所をつなげるってアイデアで、それを夜に設定したのが洒落てる。せっかくいろいろな国を回るのに、昼の風景を見せない。そのために観光映画になってしまう危険から逃れられた。昼を陸とするなら、夜は海だろう。夜は一つの大いなるものの顔をいろいろな角度から見せてくれる。昼の会話がつまるところ社会の会話になってしまうのに対して、夜は人が組織を離れてしゃべり出す。人間という大いなるものが、会話を始める。一番ジャームッシュらしさが出ていたのはNY篇だろうが、パリ篇のリリシズムが、彼の別の世界の発見として嬉しかった。差別の問題を微妙に隠しながら、夜のせいでちょっと饒舌になっている運転手と客の会話。たぶん昼だったら遠慮してしまうような話題にも触れ、しかし別に偏見に関する論議が始まるわけでもなく、被差別者同士で共感し合うわけでもなく、あくまで運転手と客の距離が節度を持って保たれながら、そのちょっと饒舌になってる気配がいい。べたつかないんだけど不誠実ではない会話。そこでこの車内に満ちてくるのが、これが面白いんだけども、もう一振れすれば怪談にでもなりそうな神秘的な雰囲気なのだ。運転手にとって後部座席ってのは、密室で後ろから見られ続けていてもともと気味の悪いものだろう。しかもこの盲人の客は、見られている以上に何かを見ているようなのだ。NY篇が不完全な言葉を通してのコミュニケーションの物語だったとすれば、このパリ篇は妨げられた視線を超えてのコミュニケーションの物語ということになる。これを怪談めいた雰囲気を通して叙情性に持っていったあたりがツボ。楽しかった。そしてヘルシンキ篇で夜明けを迎え、個人の時間が消え、時計の針がただ時を消化していく退屈な昼の半球に入っていく。そう、この時間日本では昼の12:07というリリシズムのかけらもない時間なのだ。せめてその時刻に合わせてレビューを登録するのが、この映画に対する敬意の表明になるだろう。[映画館(字幕)] 8点(2009-08-27 12:07:20)(良:1票)

79.  JFK 「…ということを決して声高にではなく描いた秀作」ってのは多いが、声高に言わねばならないと思っていることを声高に叫んだ映画、ってのもあってほしい。これがそうだった。作者に言いたいことが過剰なまでに溢れているってことは、こんなにも気持ちのいいことだったのか。3時間、がなり立て続けるストーンは魅力的だ。証言が現われるごとに何度も繰り返される暗殺シーン、一本の作品としての流れなり盛り上がりなりを計算していく気持ちはまるでなく、手に入った絵の具からどんどんキャンバスに塗り重ねていく。その積み重ね自体を映画の魅力にしてしまっている。「あれはおかしい、これもおかしい」と、スクリーンに証拠を陳列していき、説得というより「これだけ疑問点があっても委員会の言うことを信じられるのか」と大声で脅されている気分。そのパッパと陳列していく手際でこちらも釣り込まれてしまう。この監督、役者の演技というものにも全く興味を見せてなく、ただセリフをしゃべるマシンか何かと思っているのだろう。ドナルド・サザーランドのような癖のある名優も、ただしゃべりまくらされる。監督が興味を見せるのは、証言の散文的な内容だけだ。一個の事件の周囲に、人がしゃべることによっていろいろなものが付着したり剥がれたりしていくその変容に面白味を感じているのであって、役者が本当は一番見せたい表情や仕種やらの微妙さは無視されてしまう。そういう微妙な味わいこそ映画の楽しみである、という“上品”な映画鑑賞法も一緒に無視されてしまう。「私はこれこれこういうことが面白い、こういうことにのみ興味を感じている」という自分の守備範囲をはっきりさせ、その中で好き勝手をやり、そのこと以外には媚を微塵も示さない。ストーンの映画に感じるのはその小気味よさである。自分のやってることに確信を持っているものの明朗さがある。[映画館(字幕)] 8点(2009-06-19 12:07:19)(良:2票)

80.  [Focus]/フォーカス(1996) 《ネタバレ》 浅野忠信っていいな、と思ったのがこの映画だった。強引なテレビ局の取材に押され、「えー」とか照れ笑い浮かべつつ、ストレスがたまっていくオタク青年の役。このテレビのディレクターやった白井晃がまた傑作で、強引かつ傲慢、口ばかり達者で他人を素材としてしか見られなくなっている人種を、誇張のようなリアリズムのようなきわどい線で怪演。ドラマとしては、そのオタク青年がキレ、がらっと変わるところが見せ場で、まあ落語の「らくだ」とか、そう珍しい企みではないのだけれど、ここでカメラマンの存在がだんだん怖くなってくるところがこの映画のポイントだ。カメラマンはこのクルーの中心にいるんだけど、加害者にも被害者にもならず、中立的な安全地帯を確保し、ただただ見続けているの。いや、中立を装いつつ、常に加害者の側に立ってんだな。もちろんそれは我々視聴者のことでもあって、けっして当人は傷つかない。実体験よりテレビ映像のほうに、より本物らしさを感じるようになった我々の、内なる加害者をあぶり出す。画面を経由しないと生々しくならない世界って、かなり不気味だ。[映画館(邦画)] 8点(2009-04-09 12:09:33)(良:2票)

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