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【製作年 : 1930年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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61.  夜ごとの夢(1933) 《ネタバレ》 成瀬の映画を観て、よし明日から力強く生きよう、と励まされることはまずない。励まされるというより、愚痴を聞いてもらう気分に近い。出てくる男も、だいたい生活力がなさそうだが、これの斎藤達雄などその最たるもの。ダテなヒゲをつけてるところが、ますますダメソー感を強めている。子どもの亀のオモチャのマネしたりしてる。その彼がやっぱりダメだった、という、弱虫! いくじなし! で終わる話だ。その彼が人生で唯一楽しんだ草野球の場が、みずみずしく素晴らしい。ちょいと遊んでおいでな、と放り上げるみかんが野球のボールになるという、『2001年』を先取りしたようなツナギで入ってくるシーン。振り返ればどうしようもない人生だったけど、あの子どもと遊んだ一日を楽しめたならそれでいいか、と思っちゃう。どうも力強く生きられないんです、と愚痴を言ったら、いやいや、こんな男もいるよ、と答えてくれたような映画。[映画館(邦画)] 7点(2010-10-28 10:17:49)

62.  大学の若旦那 《ネタバレ》 アメリカ風大学文化と、日本風若旦那文化の融合ですな。ラグビーやってお父さんが顔しかめるなんてのと、落語なんかに登場する遊興三昧の若旦那とが、うまく混ざってるんですよ。昭和初期にこういうあちらの大学生ものが自然に流れ込んできたのは、ちゃんと江戸時代からその下地をなす文化が存在してたからなんだな。斎藤達雄の義弟と一緒になって遊ぶ、あの感じがいい。この若旦那を延ばしていくと『小原庄助さん』になっていくのかも知れない。コセコセしない駘蕩とした世界を尊重するの。サウンド版なので、手拍子を店の前でやるシーンなんかが演出できる。内と外で音の大きさを変えて。大勢の拍手と一人の拍手との差とか。親が学校に、まだ部活動やってたほうが遊ばなくていいと申し出るようになるわけ。妹が坪内美子に水久保澄子、フレッシュボーイが三井弘次で、その姉が逢初夢子といった松竹蒲田の味たっぷり。[映画館(邦画)] 7点(2010-10-17 09:44:34)

63.  限りなき舗道 原作が通俗小説ってこともあるんだろうけど、ここに展開する「地道」観ってずいぶん堅苦しい。いいとこに嫁いだって女優になったって、地道な暮らしはできると思うんだけど、弟の面倒見ながらカフェで働かないと「地道」とは言えないらしいの(なんか寅さんの説教みたい)。傾向映画の影響かね。映画会社に入ることがやくざな生き方だ、と映画で言っているこの屈折。一番嬉しかったのは銀座の町並みだな。オバアサンが立ってるカットが良かった。スポークンタイトルのバックにも夜景が使われたりする。嫁いだ家での視線の交錯はかなりドラマチック、あおって天井を映したりもする。自動車事故で話が展開するとこ・男が二人とも実にだらしないとこが成瀬らしいとは言えるが(そもそもこの時代、交通事故という都合のいい手段が小説家たちによって発見されつつあったというだけのことか? かつての「肺病」のように)、あんまり気合いの感じられない作品。それもそうで、どの監督も引き受けないのでたらい回しされてきた企画だったそう。でやんなって、これを最後に松竹からPCLに移る。そういう意味では成瀬にとって記念すべき作品ではある。[映画館(邦画)] 6点(2010-10-15 09:54:55)

64.  コンチネンタル なかなかウキウキしたダンスを見せない。アステアが最初にタップを踏むのは、自分がダンサーであることをレストランで証明するためのもので、いやいや踊る。いつものミュージカルの、ウキウキした気分から自然に身体が動き出す、というのの逆という趣向。ロジャースのほうも、最初はスカートをはさまれ身動きできない状態で登場する。アステアは着替えるときにウキウキ気分をちょっと出すが、前半はおおむねタメてタメて、二人の心が通じ合う「ナイト・アンド・デイ」までもたせる。こういう愛の確認場面ではタップではなく、組んで踊る優美なダンス、というのが決まり(しかもその前に、同じ場で若者たちの群舞を入れて、こっちのしっとり感を強調)。こういうときはテーブルを乗り越えたりしないの。どちらかというと、ミュージカル映画では、タップやテーブル乗り越えたりする振り付けのほうが見せ場なんだけど、こういう愛の確認の場では、それやっちゃいけないことになっている。前半でタメていたおかげで、解放感。愛の表現として、向かい合うことと追いかけることを同時に踊ると、回転のダンスになるのだろう。この映画では回転のモチーフが繰り返され、回転扉やレコードの上の紙人形の回転へと広がっている。後半の見せ場「コンチネンタル」も、部屋に閉じ込められそうになって抜け出してのダンスということで、やはり解放感が満ちる。この「コンチネンタル」、タップリで見事ではあるが、音楽は切れずに続いているのに、群舞のほうは画面が編集されててつながらない振り付けになってたりして、ちょっとつまずく。ラストの二人はもうしっとりの愛ではなくウキウキ気分の愛だから、テーブルに乗ったりして踊ってもOK。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2010-10-09 09:46:04)

65.  気まま時代 《ネタバレ》 字幕なし・あらすじ配布なし、という苛酷な条件下での鑑賞だったが(アテネ・フランセ)、かつてはほかに観る手段がなく、ヒアリング能力が劇的に劣る私でもミュージカルだと楽しめるから嬉しかった。最初の見せ場はゴルフ場、クラブやボールを小道具に使ってフル回転、パッとポーズを決めるのだが肝心のジンジャー嬢はすでにベランダから姿を消しているというオチがついている。ジンジャー嬢の夢、スローモーションになったりする。ミュージカルでわざわざ夢を入れるのは野暮みたいなものだが(現実が変形するから面白いはず)、この場合は精神分析に絡んでいくからいいの。一番の見せ場は、板敷きのホールみたいなとこで、部屋から部屋へまわりながら踊り続けるシーン。いやあ堪能堪能。ほかの部屋へ踊りながら移れる、ってところにミュージカル映画の楽しみの核がありそう。視点の身軽さってことかなあ、もっと映画の本質と関係がありそうなんだけど。あとは婚約発表のときの催眠術的振り付けによるシーンか。オカシくなってるジンジャー嬢が街をさまようあたりが楽しい。ガラスを割りそうでいてなかなか遂げられず(スパナを握ると梯子の上の職人さんに、どうもと受け取られる)、お巡りさんの警棒のスイングであっさり割っちゃうとことか。射撃場でのパニック。女性が銃を構えると、たいていピシッと決まるのはなぜなんだろう。ラストはかなり強引ながらもメデタシメデタシ。[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2010-09-15 09:58:17)

66.  菊五郎の鏡獅子 これの英語版ってやつもスクリーンで観ているが、「ライオンダンス」なんだな。舞台の長唄連中は「バンドマン」さ。彼ら自分がバンドマンだったとは気がつくまい。太鼓は「ドラム」だったか。これはあくまで六代目菊五郎(今の勘三郎の母方のおじいさん)の記録ということに重心が置かれてしまうフィルムで、さして小津めいたものを探しても意味はあるまい(このちょっと後に撮った『淑女は何を忘れたか』に歌舞伎座のシーンがあるけど)。六代目はこの記録を気に入らなかったらしく、「俺はこんなに下手かい」と人に言っていたそうだ。もっぱら正面と上手より斜めからのと二つの視点に、ときに上からのカメラも加わる。花道はまた別。空襲にやられる前の、戦前の歌舞伎座の内装が記録されてもいる、と思ってるんだけど、これ本当にあそこなんだろうな。借り切って深夜に撮影したって話はよく聞いた。でも獅子頭に引きずられて花道を引くところなど、花道より下手側の客席がなかったように記憶してて、というか花道が壁ぎわにあって、…あれ? 桟敷席ってのは戦前もあったんだろ? 映ってたかな? などと混乱している。冒頭のバンドマンたちが、説明的な画面もなく消えてしまうのも不親切。[映画館(邦画)] 6点(2010-07-04 12:04:38)

67.  出来ごころ 《ネタバレ》 昔の労働者はいかに始業時間を知ったのか、ってのが気になってた。工場でサイレンを鳴らしただろうが、しだいに居住区が広がっていくと、この映画のように労働者が各自時計を持つようになったのだろう。富坊の部屋に時計があるのは子どもは早起きってことなのか、それとも喜八は文字盤を読めないってことなのか。昔の映画って、細部までいろいろ考えさせてくれるから嬉しい。で喜八と次郎と春江の三人の心模様が進行していく。恩の義理と心情と。「隣の大将をコケにさせるような真似はよしてくれ」なんてあたりに、かえって次郎の心情を暗示させている。ヤマ場は盆栽をめぐる場。喜八がぶつたびに富坊はそこを掻く。別に痛くもないやあ、という不貞腐れの表現。そして逆襲、「新聞も読めないで」。喜八ぶつ、富坊掻く、ののち、富坊が喜八をぶつ。やがてされるままになる喜八。子どもにぶたれるにまかせる親、ってのはしばしば小津作品に現われるモチーフだが、ここらへんの侘しさは一級品ですなあ。自分は字が読めない、この子は勉強できる、春江に惚れるのがカアヤンに笑われるほどの歳になっている、自分が惨めに見えてきて、でもその自分を父とする子どもが目の前にいて…。そういったあれこれが凝り固まった場。で「贖罪」で与えた五十銭玉で、富坊の病気を導く。病院代の工面、「こんなときでもなきゃ、あたしなんか御恩返しができませんもの」と春江。喜八は「そう言ってくれるだけでも、ガキぐれえ殺したって」、でも春江が一番言いたかったのは次郎に対する「どうせあたしなんか構わないんじゃないの」。こんなシーンは映画史上いっぱいあったと思うんだけど、段取りよく次郎と春江の愛の確認につなげていくうまさゆえか、泣けちゃう。盆栽からここまでの流れの自然さ、昔のシナリオ術ってのはこういうところが眼目だったんだろう。で北海道行き、かつて子どもに殴られるにまかせていた喜八は、次郎を殴る。しかし喜八をかっこよくし過ぎないようにと、ズボンをシワシワにして脱いでいた描写を、反復させる場を用意する。小津の喜劇の才と、侘しさを描く才とが、不可分に絡み合っている傑作。[映画館(邦画)] 9点(2010-06-22 09:58:38)

68.  一人息子 《ネタバレ》 小津の作品で「過去」が描かれた部分があるのは珍しい。大正末の信州シーンから始まる。ランプ。そこで人物を設定しておいてから、現代の東京に母が上京してくる。嫁は下宿の近所の娘だったそうで、なにやら小津の学園ものコメディを思い出す。あの青春を謳歌していた学生たちのその後。しかし現在の夜学の生徒たちはかつての学園ものと違って、坊主刈りだし生気がない。家ではずっと近所の工場の音が続いているのが、初トーキー作品ならでは。それで支那ソバのシーンでしたか。ちょいと隣の家によって「ひょっくり出てきちゃって弱ってますよ」なんてところ。これを夫婦で語ると深刻になってしまう。隣りのおばさんに軽く言って「まあ(そんなこと言っちゃバチがあたりますよ)」ってな調子で受けてもらいたいという主人公の側の期待も含まれている。つまり愚痴。こういうとこがうまい。そして埋立地のシュールな、後のアントニオーニめいた茫漠とした風景。ひばりの空との対比。夜の不満の爆発。母の性根論もむなしく響くぐらい、風景のうつろさが家族を取り囲んでいる。富坊が馬に蹴られるエピソードがあって、これで母が「お前もお大尽にならないでよかった」と結論づけようとする哀れさ。小津の主要なモチーフとして「不如意」があるが、これをすぐ「諦念」に結びつけるのは危険だと思う。どうして挫折するのか、どうして家族は一緒にいられないのか、どちらかというと小津は諦めるというより苛立ってたんじゃないか。これを「人生の味わい」なんて片づけさせないぞ、ってな意気込みを感じる、少なくとも戦前の作品では。私は基本的には明るい小津が好きなのだが、しかし本作の侘しさはコメディのネガとしてズッシリと記憶に残された。[映画館(邦画)] 9点(2010-06-18 12:03:27)

69.  生さぬ仲(1932) 《ネタバレ》 まあ悪い意味で少女小説的な話で、メロドラマと言っても監督が後に得意としたそれとは大分違う。かっぱらいの街角のシーンから始まり、順に岡田嘉子(産みの母)に近づいていく。次いで子どものほうを描く。両者を並行して描いていって、子どもを強引に連れていっちゃう展開。デパートに勤める母(育ての)とこの子どもが会ってしまいそうになる三越のシーンのあたりに、晩年のサスペンス作家をほうふつとさせるものがなくもない。母があわてて追いかけると、エレベーターの戸が閉まって下降を始めるあたり。階段とエレベーターの追いかけ。車の後部座席から子どもが母を見かけるが、すぐ目隠しをされてしまうとか。豪邸の子どもと、借家の母との共感シーンなんかもいい。何かを感じ合うみたいなところ。この後で子どもは外に忍び出て酒屋の自転車にぶつかってしまう。後年自動車事故を好んだ監督は、この頃は自転車で我慢した。この酒屋が私のノートによると三井弘次(当時なら秀男)。いまざっと調べた範囲では確認できなかったが、前年から与太者トリオのシリーズが始まって人気が出ており、トリオの一人安部正三郎が本作に出てるのは確認できたから、三井が出てても自然。いま残ってるフィルムのうちでもかなり初期の三井ではないか。で話のほうは満洲浪人の髭面男が出てきて善玉として仕切る(たぶんこれ岡譲二って、小津の『非常線の女』の人)。当時のヒーロー像ってのが分かる。監督これが長編三作目だそうだが、岡田嘉子を使えるほど期待されていたわけだ。[映画館(邦画)] 6点(2010-06-14 12:19:05)

70.  落第はしたけれど 《ネタバレ》 これはギャグの豊富さでは、現存する小津作品の中でも一二を争う。試験場のカンニングをめぐる連発の密度の高さといったらない。四番を教えて、の合図が飛び交う感じ。教授の背中のカンニングペーパーを取り損なって、腕時計に耳を当てるリズム。あるいは下宿の仲間たちのワイワイやってる内輪の雰囲気。それらを通して「腐る」感情と「意気揚々」とした感情が交錯する(泣いてた突貫小僧がサンドイッチもらうと手をピンと伸ばして意気揚々と退出なんてのもあった)。小津のサイレント期のシナリオを読むと、失われた作品も含めて「腐る」というトガキがやたら目に付く(しばしば斎藤達雄の役どころで)。そうなのだ、小津作品とは「主人公が腐る」ドラマなのだ。意気揚々としたい学生生活・サラリーマン生活が、なんらかの障害に遭い、腐らざるを得なくなる。不機嫌を抱えたまま誰かに甘えかかって解消しようとし、活動が停滞する。それをスラプスティックな笑いに持っていってしまうところが小津の天才。止められた大きな動きは、小さな無意識の動作となって現われてくる。本作では、机にのせた足のリズム、角砂糖を放り上げて口でキャッチする遊び、などなどに。そして卒業したほうが「腐り」、落第したほうが「意気揚々」とすることになる。それだって問題が解消されたわけでなく、単なる延期ってところが苦い。純粋にコメディとしても傑作だが、時代の記録としても優れた作品。[映画館(邦画)] 9点(2010-05-31 12:04:32)

71.  残菊物語(1939) 最初は溝口って、まだるっこしくって苦手だった。もっぱら画面の美しさや長回しの楽しさを見てた。黒澤や小津みたいにストレートには熱狂できなかった。でこれが転換点だったな。やってることは新派の男女悲劇なんだけど、その男女の関係が違って見えた。名古屋のシーン、簾越しに見守る友人、奈落で祈るお徳さん。陰影の凄味も効いてるんだけど、この舞台上の菊之助とそれを下で支える女の情念の関係、「一歩下がって陰で支える女の道」ってモロ新派的なところだが、男が地下の女に支配されているとも見えたんだ。芸術家と批評家の関係でもあったんだけど、それよりもケモノと調教師に思えた。そうしたら、今まで観てきた溝口作品の多くも、調教師とケモノの物語に思えてきて、突然溝口作品がスーッと心に沁み込んできた(まあ溝口の男はケモノってほど猛々しくはないんだけど)。世間とか社会に対する調教師とケモノコンビの意地の物語。古めかしい女と男の物語でありつつ、その二人が一緒に世間と戦ってる能動的な物語にも見えてくる。これが一体になっている。本作のラスト、男の出世のために身をひく、と同時に、もう調教師は必要なくなった、という厳しい自己認識が女にある。以前の下宿を再訪するシーンの美しさは、その厳しさもあってノスタルジーがより磨かれているんじゃないか。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-21 10:16:49)

72.  鴛鴦歌合戦 ミュージカル映画観てると、ときに思わぬ人が歌ってるのに出会うことがある。最近では『ヘアスプレー』でのクリストファー・ウォーケンか。かつて『ロシュフォールの恋人たち』では、ミシェル・ピコリが歌ってるのを目撃した。でもやっぱり一番驚いたのは、これの志村喬、片岡千恵蔵の連発だなあ。しかも時代が時代だし。なんかここらへんの映画の軽薄な陽気さって、好き。こういう「軽薄の力」が、中国大陸で無茶やってんのと同時進行で生きていたんだ。日本が、この片岡千恵蔵まで歌わせる軽薄さの側にしがみついて、眼を吊り上げるような馬鹿真面目を排除し、心を入れ替え地道に軽薄し続けていたら、日本現代史はあんな陰惨なものにならなかったんじゃないか。別に「時代の不安」の裏返しのヒステリックな笑いじゃないの。ただただ健康な陽気さが満ちている。伴奏が入ってくるあたりのムズムズ感がたまらない。こういう映画が作られていたことをアメリカが知ったらどう思うだろう、とふと考えたものだが、その後、日系人収容所描いた『愛と哀しみの旅路』というすごい邦題のハリウッド映画の中で、デニス・クエイドがこれ観てディック・ミネを真似て歌い踊るシーンを目にした。アメリカに勝ったと思った。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-03 12:16:48)(良:1票)

73.  東京の宿 《ネタバレ》 たぶん小津作品で一番貧窮した人たちの話。そのせいか屋外シーンの比率の高さでも、一番じゃないか。そして犯罪が描かれた最後の作品だろう。『東京暮色』で警察は出るけど。子どものシーンはやっぱりうまいなあ。帽子買っちゃうとこ。思わず買ってしまった帽子が重荷になっていく感じ。父のとこに戻るときは弟にかぶせてんの。「ちゃん怒るぞ」と言いながら兄弟が歩いていく感じ。ふっと振り返ったのをきっかけに、ワーッと走り出していく。あるいは風呂敷包みを互いの責任にして道に置き捨ててきちゃうとこ。意地の張り合い。あそこらへんの子どもの心理はなかなか描けないもんですよ。ぺこぺこしてる親に「あんな守衛殴っちゃえばいいんだよ」と子どもは言う。『生れてはみたけれど』の視線。岡田嘉子は突然画面を横切って登場するんだな。けっきょく喜八は人のいいおっちょこちょいなわけで、女に「落ちぶれてはいけない」と諭しつつ自分が盗みに行ってしまう(ほとんど寅だけど、寅は犯罪にまでは踏み切れない)。『出来ごころ』的な“いいかっこしい”の場面もあり、その裏には、かあやんへの甘えがある。ここらへんの関係の作り方がうまい。『自転車泥棒』より10年以上も前の作品なわけだ。[映画館(邦画)] 8点(2010-04-25 11:59:28)

74.  支那事変後方記録 上海 戦争の日常とはこのようなものであろうか。兵士の顔の表情など実に新鮮である。つまりごく普通の表情をしている(ドラマの戦争の役者の気合いが入り過ぎている表情との違い)。だからその普通の顔との対比で、いくつかの場面がさらにショッキングになる。川下りで延々と廃墟を見せる場面、市街戦のあと。無神経に万歳を叫びつつ行軍する日本兵士を見つめる無言の顔の列。なるほど、これが戦争なんだな、と納得がいく。これ、亀井文夫は編集だけのようで、そこで彼のモンタージュの代表作ってことになってるらしいんだけど、撮影・三木茂の視点も素晴らしいんじゃないか。抗日運動に対する態度も非常にクールで、よく軍が許したなと時に思うほど公平な立場だった。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-18 09:30:40)

75.  浪華悲歌 考えてみればこれ完全に「傾向映画」というジャンルに含まれる作品なんだなあ。題名「何が彼女をさうさせたか」だっていいんだ。ただヒロインが一方的に受難するのではなく、彼女なりに企て、対決しようとする。そこらへんで「傾向映画」というジャンルから抜け出たか。ヒロインが決断するところを飛ばすのがいい。会社からも家からもいなくなって、モダンなアパートに移る。昔の恋人がアパートを訪れるシーン、カーテンの外から山田を捉えていたカメラが下がり入り口の男、そのまま階段を上がっていくのを追い、もとの窓までワンカット。『祇園の姉妹』では、ちょっとラストが取って付けた気分になるんだけど、こっちのラストはしっくりくる。署に引っ張られ、情けない男は逃げ、家に帰れば、自分が金を工面してやった兄、妹にうとまれ、実情を知っている父も黙ったまま。社会も家庭も大きく壁として立ち塞がってきて、それと拮抗するぐらいにヒロインは不貞腐れる。それまでヒロインの“闘争”を観てきた者にとって、戦いに敗れた後に彼女ができることは「不貞腐れること」しかないと納得できる。ぜんぜん「いじけ」た気分のない不貞腐れ。こうならねばならない、という道を突き進む迫力。転落することのエネルギーが満ちている。これって面白いことに、がむしゃらに成り上がる話とどこか気分が似ているんだ。[映画館(邦画)] 8点(2010-01-10 12:11:09)

76.   戦前の日本のリアリズムは、ちっとも戦後のイタリアに負けてなかった。演技、顔の表情も素晴らしい。背景に土地を含む構図も見事。いくつかの場面を思い返してみよう。風見章子が友だちを見送る場面、川原で木を拾っているその荒涼とした風景、遠くの舟との呼びかけあい。表情を抑えているところがいい。夏の水運び、つまずいて転んだりは決してしない、そういうときは桶を置いて休むのだ、それだけ水は大事に扱う、リアリズムの精神はこういうところで発揮される。雨乞いの太鼓をずっとバックで鳴らし続ける。収穫、苦しい場面を続けざまに押しつけるのではなく、仕事の喜びもちゃんと伝えてくれる。年貢(?)を運んで、その家で恐縮してご馳走になりながら帯の値段を尋ねる場面とか、火事のエピソード(長いショットで丹念に撮った迫力、知らせるのに田圃まで遠いいの)、人の家に飛び火してしまったことの疚しさのほうが先に来る、こんなところに村社会が見えてくる。セリフがよく聞き取れないのだが、父と婿の確執も重要そう。不完全なフィルム状態のままでも、傑作と言っていいだろう。[映画館(邦画)] 8点(2010-01-07 12:01:09)(良:1票)

77.  鶴八鶴次郎(1938) しっくりいかない・どこか食い違いつつ腐れ縁が続く男女の物語ってとこは、『浮雲』にもつながる成瀬の定番だ。意地っ張りの純情、喧嘩友だち。うじうじ嫉妬に悩みながら、長谷川一夫が路地から路地へボーッと歩いていくロングの場など、成瀬のサインを見ているよう。その先に旅回りの日々のわびしさが、これまた成瀬の好きな世界。似合わない芸道ものの話でありながら、隅から隅まで成瀬の世界になっている。それと明治から大正にかけての寄席芸が見られるのも楽しい。コマから水が飛び散るのや、火のついた棒を投げるのや。山田のドタドタと体が左右に振れる歩き方が印象的だが、あれは着物着たときの自然な歩き方なのだろうか。山田五十鈴って大スターでありながら、それほど主演作を持っていない不思議な人だ。といって「名脇役」とは呼ばれないし。名脇役藤原釜足は、このころからフケをやってたんだなあ。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-04 12:04:03)

78.  祇園の姉妹(1936) 溝口は、他の日本の名監督たちに比べてユーモアが苦手、って印象があるが、でもこれなんか傑作コメディだと思うよ。だいたい映画の本なんかだと、ラストの山田五十鈴を重視して、社会派のリアリズム映画に分類してしまってるんだけど、どっちかっていうとラストを観なかったことにして、コメディと分類したほうがスッキリするんじゃないかな。それぐらい志賀廼家弁慶と新藤英太郎が傑作で、男どもの卑小さを描いて傑出しているだけでなく、そこに上方文化の伝統にのっとった「愚かという徳」をも感じさせるあたりが、実に見応えがある(旦那が義太夫うなりながら乳母車をあやしてるとことか)。このユーモアセンスが監督の作品歴でもっと活かされても良かったんじゃないか、と私なんかは思う。それと上方女のキッパリ感を出した山田五十鈴の凄味、ラストでやや縮こまってしまう印象はあるがこれも見応え十分。どういういきさつがあるんだか知らないけど、戦後に溝口と山田が一緒の仕事をしなかったのは、日本文化における重大な損失だったと思う。[映画館(邦画)] 8点(2009-12-22 12:04:52)

79.  折鶴お千 サウンド解説版というヤツで、全編BGMが鳴り続けるのには閉口した。お千と宗さんが初めてヤクザものたちに歯向かうとこでなんでブランデンブルグ協奏曲の3番なのよ、この全然合わなさは見事と言うしかない。音楽を無視すれば、部屋の中でのいくつかの移動、向こうの部屋で演じられる芝居を隣りから捉えたりと、監督ならではのシーンはある。鏡花の男だから、いつもうつむき加減でクヨクヨするばかり、ご馳走が出てもその金の工面に思いを馳せず、情けない。明治の社会とはつまりこれだったという鏡花の皮肉か。生きる上での形而下的な部分をみな女に背負わせ、それを土台にして科学(医学)が進んでいく。しかし女はその医術では治せない病いになる、って。これはハッキリ“近代”の否定ですな。肉体の病気を扱う医術の向こうで、精神の破滅という犠牲があった、って。[映画館(邦画)] 6点(2009-11-21 11:50:30)

80.  嵐ケ丘(1939) これはもうあちらの『忠臣蔵』というか、いろんな版があり、このほかにブニュエルの、吉田喜重の、J・ビノシュのヒロインで坂本龍一が音楽やったの、を観てるが(リヴェットのは未見)、どれも独自の趣向を凝らして面白いけど、何か物足りないのも事実。これ、映画よりも連続ドラマに向いてる話なんじゃないかなあ。ヒースクリフの帰還までにモッタイをつけたいところが、映画だとそれが出来ず、キャシーとヒースクリフの愛憎のごちゃごちゃをこちらでほぐして味わう時間が足りない。キャシーがただのヒステリーに見えてきてしまう。時間を強制されたくないストーリーってこと。それでも多くの名だたる監督たちを魅了してしまう魔が、この小説にはあるんだ。この戦前白黒のワイラー版が余分な解釈のない分、基本の位置を確保していて見応えがある。私はヒースクリフなのよ、って叫ぶあたりはやはりコワい。ロウソクのゆらぎで盗み聞きしていたヒースクリフの退場を知る、なんて演出。[映画館(字幕)] 7点(2009-11-05 12:02:27)(良:1票)

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