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【製作年 : 1940年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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61.  ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー これ全編、ヤンキー精神の国威発揚映画。同時期の日本の国策映画と違って明るいのなんの。成功物語の型。随所にひらめく星条旗。リパブリック讃歌のあとは、リンカーン像に手を差し伸べ、シルクハットかぶった女性二人を脇にJ・キャグニーがステップ踏めば、アンクルサムと自由の女神が登場してきて、もう恐れ入るよりほかはない。ナショナリズムの高揚。こうすればアメリカは興奮するという手本のような映画ですな。この人が踊るんで驚いたけど、あちらの役者は「歌って踊れる」ってのはもう基本なのね(ふーん、ギャング役じゃなくて、これでアカデミーの主演男優賞獲ってるんか)。老人のふりして恋人と出会い、突然の軽やかなステップ、なんて鮮やか。この人は背が低いので、ステップも爪先立ちしたのを多用してた気がする。それが軽やかさを引き立てた。船から上がった花火がスポットライトになる舞台演出の妙。街中のネオンサインをクネクネと経巡って成功の歴史をワンカットで描いてしまう。アッパレというほかはない。日本では悲壮感漂う国策映画が多く作られ、またそういうのが効果のある国民だったが、あっちは明るくイケイケで盛り上がる国民。やっぱそっちのほうが戦争は勝つよね。[映画館(字幕なし「原語」)] 6点(2011-01-20 10:09:40)

62.  ピノキオ(1940) 《ネタバレ》 無生物と半生物と生物の描き分けが、芸の見せどころ。『白雪姫』で滑らかな動きを見せた後で、こういうギクシャクした人形や時計をやってみたくなったのだろう。星の女神の動きなんかは、モロ白雪姫の線。人形小屋のシーンなんか、ピノキオと人形の動きを絡ませてなかなか憎い。でもこの映画の目玉は、玉突きしている仲間がロバになってしまうホラーシーンだ。後ろ向きで耳が飛び出し、尻尾が生え、顔が変わり、気づいた本人がピノキオに助けを求める手がヒヅメになっていく。これはそうとう怖い。アニメならではの成果。鼻が伸びるのもそうだな。あれ、嘘をつくといつかこのように覆い隠せなくなってしまうという、教訓比喩付だったのね。そして怪物クジラの量感。はたしてピノキオは今度は学校へ行けるのだろうか。[映画館(吹替)] 8点(2010-12-19 09:47:01)

63.  チャップリンの独裁者 あんなにもトーキーに抵抗しパントマイム芸の優位を説いていたチャップリンが、ただ顔のアップだけでしゃべり続けること。そのことの衝撃も、広い意味での「芸」であろう。おどおどしたものが勇気を出す、という、キートンやロイドとも共通したアメリカ理想の型を使って、演説に持っていった。なにより感心するのは、このときアメリカはまだドイツと戦争していないのだ。そしてドイツは一番威勢のいいときなのだ。もしこのままドイツがヨーロッパを圧伏したら、アメリカはドイツと外交交渉によってその後の世界を探っていく可能性もあった。そのときこんな映画を作っていた作家は、困難な立場に追い込まれたことだろう。それでも発言した勇気、これは開戦後に「安心」して量産された反ナチ映画と一緒にしてはならない。この勇気の前には、作品としてどうこう言うのもはばかられ、とにかく映画史が持った偉大なフィルムであることは間違いない。ただ映画芸術史の流れで捉えると、なんか、音楽史におけるベートーヴェンの「第九」に相当するんじゃないかと思うことがある。純粋な律動を楽しむ芸術であった西洋の器楽曲、しかし第九のラストに演説のように登場する合唱で、不純な言葉=意味が入り込んできた。そしてバロック・古典派という、天上の世界を写し取って頂点に達していた音楽史は、ロマン派という作曲家個人の心の内面を歌う地上の世界に下降してくる。映画史も、このラストの演説を切り替えどきにしたように、天上のパントマイム芸から地上のセリフ芝居へと移ろっていく。もちろんそれでいいのだ、歴史とはそういう変化を受け入れ展開していくものなのだから、それでいいのだけれど、あの無垢な無声の時代がやたら懐かしくなるときも当然あるわけで。[映画館(字幕)] 8点(2010-12-16 10:03:43)(良:1票)

64.  飾窓の女 《ネタバレ》 もう不安がいっぱい。唐突な殺人から雨あがりの街へ。死体を運び出そうとすると帰ってくる住人、公園の入り口の料金所、ザザッと降ってくる木の露、信号がストップになって笑いかけてくる警官。しかしホントに怖くなるのは死体が発見されてからで、友人から捜査の進展が逐一報告されてくるの。女を突き止めたそうだと言われたとこで話が中断されたりするジラシ。ラジオのニュースの前に胃薬のCMが入るジラシ。こうやってジラすのがうまい。つい喋りすぎてしまう、というパターンは少し使いすぎたか。現場検証の場が一つのヤマ。「何の缶詰でした?」。尾行がついていたはずだ、とまず会話でユスリ屋を登場させるのもいい。このユスリ屋が部屋の中を探し回るのが次のヤマ。やけにきれいだねえ、とテーブルをなでたり、クネクネした動きが実にいやらしい。最も甘美な夢は、実は悪夢である、ということ。[映画館(字幕)] 8点(2010-11-10 10:08:10)

65.  王将(1948) 大阪・浪花の典型ですな。上品なもの(東京的なもの)に対するもう理屈抜きの反感、人間臭さ、八方破れといったものの肯定、「男ドアホ」の世界であります。女房への甘えかかりも、あんな人ひとりで生きていけへんやろ、で釣り合いが取れちゃう。本物の坂田三吉は、それほど野人じゃなかったそうだが、一つの型がもう出来ちゃったもんね、この映画のせいなのか。阪妻はかなりクサいことやってるんだけど、浪花ってことでちゃんと型になっちゃう。これ江戸っ子だったら、ちょっとカナワンナアになるんじゃないか。蒸気機関車が走り抜けていく長屋の人懐っこい雰囲気も、浪花的。ちっとも「移動大好き」じゃないじゃないか、と思ってたら、会場から家へ走って帰るところでカメラが走った。三島雅夫と夜、縁台で昼の試合をやり直しているシーンなんか、いい。私のこれのノートの最後に、「ライオツ歯磨」とだけ書き込んであるんだけど、こりゃいったい何だったんだろう。[映画館(邦画)] 7点(2010-11-08 09:54:27)

66.  黄金(1948) 《ネタバレ》 今だったらタランティーノばりの三すくみになるドラマになるんだろうけど、この時代は違う。悪と善、というより、疑心暗鬼に捉われるケツの穴の小さい男としっかりした男と、さらにそれらを見越している人生経験豊富なジイサン、という三人になる。このジイサンが押さえになって、実に安定した三角を作る。また前者の二人も単純ではなく、最初はボギーもケツの穴を大きくして出資金を提供しているし、相棒もボギーが落盤事故にあったときちょっと魔がさしそうになる描写がある。イイモンの方にもそういう負い目を持たせて、ボギーの疑心暗鬼だけを突出させず、徐々に粘つかせていく。それがうまい。その粘つきが限界にきて銃が発射されるわけだ。ボギーがいちいち内心を新劇の舞台のようにモノローグするのはちょっと困るけど、そういう粘っこさがあるので、最期のあっけなさがより効果的になったのかもしれない。炎天下の「あっけなさ」ってのが、ひとつのモチーフとしてあるようで、第四の男や山賊の処刑など(帽子へのこだわりが印象深い)人々はあっけなく死んでいく。その果てに風に吹き散らされる砂金があるんだろう。そのあっけなさと対比されるのは子どもの蘇生で、丹念に腕を上下させて命を呼び戻している。またそれは、山の渇きと水のあるインディオ村の対比にもなっていて、ラストのジイサンの豪快な笑い(けっして苦笑ではない)は、欲望を越え最後は水の村に至った者にのみ与えられた正しい笑いなのである。[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-10-24 09:59:30)(良:3票)

67.  ギルダ 《ネタバレ》 リタ・ヘイワース。どこか退屈したような投げやりなような美女。妖婦。ただ、動いているのを見ると、意外と線が細い印象。話は後半グズグズになっていくんだけど、ナチに関係した人物ってのは、背筋がピンと伸びてるんだ。「大火事も大地震もみんなメイムのせい」とかいう歌がいい、有名なのかな。ラストのハッピーエンドは、たとえば、ジョニーを不幸にした女に災いあれ、という伏線を無視したもので、これがハリウッドなんでしょうなあ。「ジョニーって名前、覚えづらくて」なんてのもあった。いいねえ、ハードボイルドタッチ・ハリウッド映画のセリフは。[映画館(字幕)] 6点(2010-09-09 10:05:27)

68.  水玉の幻想 おっとこんな映画も登録されていたのか。これ『盗まれた飛行船』の併映で公開された短編。ガラス製のアニメーション。すごく面倒なことやってるんじゃないか。油絵のアニメってのもあったけど、こっちのほうがさらに手間がかかってるだろう。タンポポの男がパッとガラス=氷の壁にさえぎられるとこ、それが割れて流氷のように流れ出す、なんてのがよかった。一滴の水玉の中にも小宇宙、という発想。いまはCGの全盛、たしかにどんどん進歩していて、布の質感や肌の質感もかなりきめ細かく表わせるようになった。しかしそれはいいことなんだろうか。CGは、そのノッペリした質感が必要とされるときに一番生きている。変わった素材を十分生かしてそれぞれに合った新たな作品を作るという試みが、CG万能になるとすたれてしまいそう。シンセサイザーが生まれても、オーケストラはなくならなかった。こういう「ガラスでアニメ」なんていう無茶な試みをする人も、アニメ全体の表現を維持確保するためには、必要なんだと思う。[映画館(字幕)] 7点(2010-07-13 11:58:56)

69.  象を喰った連中 《ネタバレ》 戦後のすぐのころの日本の「公式な名作」って、ちょっと民主主義啓蒙臭が強く、それはそれで時代の高揚感の記録にもなっているのだが、やや固い。そこいくとベストテンに入ってないような映画は自然体というか、『東京五人男』とか『銀座カンカン娘』とか、作品自体で自由な時代の喜びを歌ってて、捨て難い。本作なんか、民主主義啓蒙とは関係なく、教訓を得ようとするなら「得体の知れない肉を食べるときは必ず火を通そう」ってぐらいで、この年の吉村の代表作としては『安城家の舞踏会』を押す方が正しいとは思うけど、こっちの肩に力が入ってない感じも好きなんだなあ。日守新一がズルッと鼻水を垂らして一同が緊張するとこ、原保美が田舎に帰って母親とモーツァルトの子守歌をデュエットするとこなんか、かなり当時として新しい笑いの取り方だっただろう。安部徹が奥さんと気を紛らそうと観に行った劇場で踊り子の歌が象にかわるとこ、神田隆のピクニックの最中「象なんか食べるのは大馬鹿ですよ」と奥さんに言われたり。当時一番喜ばれたのはこの軽い笑いなんじゃないか。人々は民主主義の旗を振り回されるより、この軽くなった自在感を楽しみたかったんじゃないか。そして後世の者にとっては、みなが「得体の知れない肉」を食べていた時代の空気を体感できる。[映画館(邦画)] 7点(2010-05-17 12:02:41)

70.  信濃風土記より 小林一茶 イランでは、児童映画というジャンルを使って自由な表現の場所が開拓されていってたが、そういうことは、いつの時代どこでも起こっていたことで、たとえば昭和16年日本のこれ。長野県の観光文化映画というジャンルだが、小林一茶を触媒にして、厳しい農民の世界のルポにじわじわと近づいていく。月、仏、そば、といった穏やかな観光的題材から順繰りに、農村の荒廃に導いていくあたりがスリリング。そばから土地の利用法の話へ、さらには桑畑を襲う霜害へと本腰が入っていく。なにも最初から一茶をダシに使ってやろうと思ったのでもないだろう。亀井は戦後には企業のPR映画でも誠実に作っていった人だ。長野県の注文に添って誠実に製作しながら、彼の中の別の誠実さがジャンルを超えた表現を求め出したのではないか。そこらへんの微妙さが、今観ると、あの時代の表現者の記録としてとても面白い。いや、面白いなんて言ってはいけないな、彼はこの直後治安維持法違反で検挙されるのだった。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-11 12:05:20)

71.  怒りの葡萄 《ネタバレ》 ラストの決意がちょっと抽象的に跳びすぎていたように思うんだけど、でもパン買うシーンが(実に具体的で)大好きなので、忘れられない映画です。主人公の一家が旅の途中15セントのパンを10セント分だけ売ってくれって言うと、いいよ全部持っていきな、と店主が言う。老人は乞食じゃないんだと反撥するわけ。そこで店主は古いパンだからと「譲歩」するの。と子どもが飴ほしそうにしていて、これ1本1セントかね、って聞くと、パン売るときはしぶしぶそうだった女店員が、2本1セントです、って答えるの。一家が去ったあと別の客が、1本5セントじゃねえかよ、と笑って、釣りはいらねえぜ、と勘定をすませる。店員が金額を見て、まああの人ったら、というように微笑む。人情ドラマの一景として完璧でしょ。山田洋次が『家族』で笠智衆に似たようなエピソードやらせたのは、これへのオマージュなんじゃないかと思ってる。アメリカ映画って、けっこうウエットなところあるんだよね。ペキンパーなんかにも感じるし。そこらへん太平洋をはさんで日本と共通する感性があるみたい。[映画館(字幕)] 7点(2010-01-05 12:06:18)(良:1票)

72.  歌行燈(1943) 戦時中はなぜか芸道ものはよく作られていて、これが当局にとってどう国威発揚とつながっていたのか分からないが、後世の映画ファンにとってはありがたいことだ。脚色が久保田万太郎である。芸道ものの典型である「慢心によるしくじり」のドラマ、より完璧な境地を目指す者のトラブル。新内流しに落ちて門付けして回るあたりのわびしさ、それほど芸道ものが得意という監督ではないかも知れないが、こういう“わびしさ”を描くとなると一級である。彼と対になるように仕舞いをする芸者を置いて、彼女も芸に関していわば「しくじって」おり、そのしくじり同士が、松林の木洩れ陽の中で稽古をするわけだ。このシーンの美しさ。おっとその前に、そのお袖の消息を初めて喜多八が耳にする舟着き場のシーンがある。なんでもない舟待ちの人々のカットなんだけど、いいんだ。風。ドラマの中では、人と人が芸を媒介にして行動する。あるいは自殺に追いやられ、あるいは再会し、そしてすべてがラストで一部屋に集められるのも“芸”ゆえのこと。父が呼んだ芸者が仕舞いをし、その中に息子の署名を見、この鼓の音を喜多八が聞きつけアンマの幻から逃れてくる。その中心で舞うお袖の仕舞いが無表情ってのが、シマるんだなあ。観つつ、舞台となった明治と製作された昭和18年の双方に思いがいって、胸が詰まった。[映画館(邦画)] 7点(2009-12-31 12:14:56)

73.  芝居道 『歌行燈』の翌年だが、同じ芸道ものでもかなり作りの状況が厳しくなっているのが分かる。まずアタマに「撃ちてし止まむ」がドーンと出て、タイトルのあとキャスティングが出ない(あるいは後にカットされたのか)。ロッパが愛国を啓蒙しようとしてもあんまり効き目があったとは思えない、そういうことに最も似合わないキャラクターだろう。長谷川一夫の役者の、傲慢から成長していく経過が話の芯。ラスト近くロッパは「興行師は時代に後れても時代におもねってもあきまへんのや」てなことを言う。昭和19年では、この映画なんかは、まだ「おもねってない」方なのかも知れない。おこそ頭巾をかぶって路地をこちらにやってくる山田五十鈴、その向こうに長谷川一夫を乗せた人力車が停まる、なんてシーンは、実に戦時を忘れさせてくれる。山田は『鶴八鶴次郎』の新内、『歌行燈』の仕舞いに続いて、今回は女義太夫と諸芸万端、のちの舞台での「たぬき」などの下地は戦前からすでにあったのだ。[映画館(邦画)] 6点(2009-12-28 12:00:14)

74.  昨日消えた男(1941) 《ネタバレ》 本格推理ものの設定が珍しく、一同揃っての解決篇に至る礼儀正しさ。第二の犯行のとき、犯人に影で姿を現わさせるのも正しい。そして間にはさまれるオトボケの数々、「アホウもの、汝の名は女」とか「あなた~と呼べ~ば」とか「助けられたり助けたり」と、きっと当時の場内は沸いたであろう。時局を思わせるものと言えば、まあ悪漢が実は転覆を図る大塩平八郎の一味、ってことぐらいで、それだってそれほど「スパイに注意しよう」ってメッセージと感じられるほどのものではない。つまり至って娯楽主義に徹していて、立派なほど国策に非協力的。長屋の連中のなかには、自分で作った人形にうっとりしている人形師などもいて、ちょっと前のモダニズム時代の猟奇変態ものの空気を残していたりもする。雨の長屋で始まり、雪を経て快晴の長屋で終わる正しさ。目明しが雪の庭を調べていて、カメラが左へ動いていくと、塀の上に文吉がしゃがんでいてやりとりがあり、そのあと文吉と一緒に塀を越えるまでがワンカット。ただ渡辺篤・サトウロクローの「なるほどね」「いやまったく」は、売れない漫才が一生懸命言葉を流行らせようと反復しているようなミジメさが漂った。[映画館(邦画)] 7点(2009-12-24 12:03:55)

75.  待って居た男 《ネタバレ》 山田五十鈴がはしゃいで探偵気取り、旦那の長谷川一夫がこっそり解決、って形。全然戦争中の気配がないシャレたタッチ。単純にまだノンキだったのか、意識的に娯楽に徹したのか(翌年の『ハナ子さん』となると、娯楽ではあるが戦時色濃厚)。なかなか主人公たちを登場させず、若奥さんの周囲に起こる不安な出来事で雰囲気を作っていく、材木が倒れたりとか。前作の犯人役の使い方もにくい。前作の駕篭かきにあたるお笑い担当は岡っ引二名、これが山田の手下となって走り回る。一方がもう一方をまね、犯人を捕まえたぞー、って一階と二階の廊下を走り回る場面はワクワクする。さらに金太のエノケンも登場、いろいろ教えてくれてありがとう、を繰り返すが、そう破天荒なトリックスターではなく、おとなしい役どころ。どちらも超主役級でありながらトーンのかなり違う長谷川一夫とエノケンが同一画面内にいると奇妙な感じである。あと言いたいことはいくつかあるが、犯人あてのものなので勘のいい人には分かっちゃうことを言っちゃいそうなので黙ってる。ちゃんと人妻役はお歯黒をつけていた。[映画館(邦画)] 7点(2009-12-17 12:01:34)

76.  ファンタジア これはまさにファシズムの脅威のさなかに作られた作品なんだ。ラストの「はげ山の一夜」から「アヴェマリア」の祈りに移っていく構成は、おそらくそれを意識したものだっただろう。しかしそれだけでなく、おそらく意識しないで表われたところ、たとえば繰り返される洪水のイメージなどに、時代の空気をより感じることができる。「春の祭典」、壮大なスケールを持った作品で、地球の誕生から恐竜の滅亡までをナマの体験のように繰り広げてくれる。しかしここに哺乳類は現われない。恐竜が滅亡に向けて行進した後、不吉な日蝕が始まり、地震が襲い洪水が地を覆う。このイメージが浮かんできたとき、時代の影響はまったくなかっただろうか。肉食恐竜が暴力で支配したあと死に絶え、次の哺乳類の時代を暗示させることもなく幕が閉じられる。この暗さ。進化論の世界に天地創造神話が割り込んできたような大洪水は、過去のものとしてではなく、近未来のものとして切実に予感されていたのではないか(洪水はあと「魔法使いの弟子」があるし、「田園」でも葡萄酒が)。『ファンタジア』中の最高傑作「花のワルツ」、咲き乱れる花を描いた春ではなく、滅びへ向かう秋から冬が描かれる。落葉も、さやから出てくる種も、それを吹き飛ばす風も(映画館で観たときここで泣けた)、氷結する水面もどれもこれも実に美しいが、その美しさはどこか鋭角的な手ざわりのある美しさで、春に向かう気分はどこにもない(「春の祭典」に哺乳類が登場しないように)。すべてが厳しい冬へなだれ込んでいく。こんな美がほかのディズニー作品にあっただろうか。あるいは深読みに過ぎるかも知れないが、「魔法使いの弟子」で次第に増殖し、一つの命令だけを守って行動する顔のないほうきたちの群れに、ファシズム社会を見ることはできないか。この曲の映像化はディズニーの若い頃からの夢だったそうで、だからこの楽しい音楽物語を政治的な連想で汚してしまうのは不本意なのだが、あのほうきの切れ端が立ち上がってくるところの怖さは、当時の時代の雰囲気とまったく無縁に作られたとは思えないのだ。さいわい現在の私たちはこの傑作を純粋に音と映像のアニメーション作品として楽しむことができる。ささいな動きにまで気が配られている丁寧さに感嘆していればそれでいいので、野暮なことに頭を回す必要はないのだが、時代の記録としてもやはり傑作だということを言っておきたくて。[映画館(字幕)] 9点(2009-07-13 12:31:38)

77.  音楽大進軍 戦争中の馬鹿に陽気な映画というのに目がないもので、オルガン演奏による軍艦マーチで始まり、フルオーケストラに合唱付きの愛国行進曲で終わる、こういった典型的な国策映画がたまらない。ニュースで北朝鮮のテレビ番組が映るとつい見入ってしまうときの気分に近い(もちろんあの時代なり北朝鮮なりで暮らしたいわけでは全然ない)。おそらく当時の演奏家の記録(辻久子のヴァイオリンなど)として価値を持つフィルムだろうが、この映画自体だって立派な時代の記録だ。いちおう緑波と渡辺篤が慰問団を組織するために有名音楽家を説得して回る、という筋はあり、当時の放送局や撮影所風景が見られるし、また彼らの演奏が聴ける。でも東宝だからモダンなの。国粋風を吹かしていない(監督が戦後に撮った『明治天皇と日露大戦争』のほうがよっぽど国粋的)。日本的なものと言えば長谷川一夫が元禄花見踊りを踊るくらいで、あれだって国粋的とは言えずいたってノンキ。西欧風にシャレた藤原義江邸では女中さんたちがアリアを歌いながら花壇に水をやり、放牧場ではトスカ(盟友国イタリアのオペラ)を夫婦で歌う。何かの本で“全体主義は「黙れ」と言うのではなく「歌え」と命じる”と出ていたのが記憶に残っている。これなんか戦争下で明るさやノンキさを実際に「歌わされて」はいるけど、国策映画としての効果はあったんだろうかな、元禄花見踊りで。[映画館(邦画)] 5点(2009-04-19 12:12:10)

78.  孫悟空 前後篇(1940) 日中戦争下で、中国を題材にした物語を扱っているのに、全然時局に絡んだ気分がなく、全編圧倒的にバタ臭い路線。音楽もディズニーを含めアチラものが平気で鳴りまくる。中国風ではなくアメリカ風。三人の従者がいれば、時局がら「桃太郎」を連想させてもいいのに、これは「オズの魔法使い」のほうだ。衣装もキンキラのだったり、金角銀角はSF風。とにかく戦争の緊張とは遠く離れた世界が展開し、笑いもヒステリックではない。悟空が美女に変身しても声はエノケンのまま、なんてのがおかしかった。高勢実乗の魔ものたちの踊りもよかった。変身競争でカニになる。でフィナーレだ。美貌が戻った高峰秀子はニッコリと笑い、ハイホーハイホーに、ソードレミー、ファーラーレー、ソーシドレーミレ、ドーラーソーのメロディが重なって、賑やかに歌いつ踊りつの場になると、なぜかグッときてしまった。日本人てこんなにいい人たちなのに、と、これからの5年間の苦難を思ってしまう。山本嘉次郎監督はこの後『馬』を挟んで戦争三部作に向かい、エノケンとの映画はもう戦争中は作られない。[映画館(邦画)] 7点(2009-04-18 11:58:06)(良:1票)

79.  緑の大地 青島の運河建設をモチーフにした国策映画。大運河であり、大計画であり、大目標である、と藤田進はさかんに「大」を連発する。その「大」の前では、原節子の入江たか子への嫉妬など些細なこととなる。日常の煩雑さが、すべて「大」の前で消滅し、人生も世界も単純明快なものとなる。戦時下とは、そういう「大」の時代なのだ。「大」に関わる人物像も単純に磊落で、この監督の『隣りの八重ちゃん』の繊細なスケッチを愛する者としては、つらい。それとあと一つ、この時代の国策映画でよく見られる「親切を分かってもらえない」というパターン。『支那の夜』で典型的に見られたこのパターンは、反日運動の存在は否定できないので、「真意が伝わっていない」という形で納得しようとしてるわけだ。悪役をしっかりこしらえておいて、日本の汚点はそこに集中させておく。でもこの「誤解されてる」って言い訳は今でも政治家が失言問題起こしたときなんかによく使われ、もはや日本の伝統文化と言ってもいいだろう。よその土地に勝手に神社をこさえるのも、ここでは「善政」なのであり、それに反発されるのは「真意が伝わっていない」からなのである。[映画館(邦画)] 6点(2009-04-16 12:08:10)

80.  重慶から来た男 《ネタバレ》 防諜宣伝の国策映画。でも、スパイに注意しよう、ってことよりも、工員に頑張らせるための尻叩きとして作られた映画だろう。工場のものを持ち出したらスパイと疑われます、残業に不満を持つとスパイと疑われます、という精神的拘束の脅しとして製作されたように思われた。だって何年も潜んでいたスパイが、工場生産を低下させるために工員にビールを飲ませる、ってのは情けなさすぎる。露骨に在日華僑にスパイ組織を重ねていて、これじゃアメリカの日系人迫害をあんまり非難できない。でもこういう映画が、かえってその時代の空気を後世まで如実に伝えてくれているんだ。スパイにひきずられそうになる純朴青年を小林桂樹が演じていた。スパイは何やらひそかに暗号をつぶやき路上で情報を交換する、オルゴールの音符に秘められている指令を解読する、工員の勤勉さよりスパイの怪しさのほうがどうしたって魅力的に見えてしまうのが、映画というものの皮肉。この山本弘之という監督では、もうひとつ轟夕起子がスパイをやった『第五列の恐怖』ってのも見てるんだけど、そこでは指輪に仕込んだ隠しカメラで設計図を撮影したり、暗号を音符にしたピアノ演奏で通信したりしてた。調べるとこの監督、戦後も昭和33年になって一本だけ、藤田進の明智小五郎(!)で『蜘蛛男』を撮っている。[映画館(邦画)] 5点(2009-04-15 12:04:18)

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