みんなのシネマレビュー |
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841. ザ・レッジ -12時の死刑台- 何よりもまず言いたいのは、「リヴ・タイラーがいい」ということ。彼女のファンならば、そりゃあ必ず観るべきだろうし、必ずしも彼女のファンでなくても気になる存在感を見せてくれるだろうし、三十代半ばにさしかかったこの女優の雰囲気に対して、思わず「エロい!」と言わずにはいられなくなることは間違いない。 はっきり言って、そういう要素だけでこの映画に“価値”はある。 そのリヴ・タイラー演じる人妻の滲み出る“エロさ”こそが、ある意味この映画の裏テーマでもあるのだ 決して完成度の高い映画ではないということは否めないが、どういうスタンスでこの映画を見始めるかによって、観賞後の満足度は大いに変動するだろうと思う。 不幸にも日本版のトレーラーやイントロダクションを鵜呑みにしてしまって、今風のソリッドシチュエーション的なサスペンスだと思っていると、大いに肩透かしを食うだろう。 僕は幸運にも観賞後にトレーラーを観たので良かったが、明らかに映画の内容を無視し、部分的には改ざんすら見られるトレーラーの内容は噴飯ものだった。 日本版のイントロダクションには、「この4人のうち死ぬのは1人」などと阿呆かと思わせるキャッチコピーを掲げたりしてしまっているが、そもそもこの映画はそういうタイプのものではない。 この映画がテーマとするものは個々人における「信条」との関係性であり、登場自分のそれぞれが「信じるもの」に対して、ある者は積極的に、ある者は強制的に対峙させられる様を描いた物語であると思う。 それを少々サスペンスじみたストーリー展開で彩っているに過ぎない。 登場人物たちが、それぞれ経てきた人生を礎にして、進むべき道を決断させられる様は興味深く、部分的には胸に迫るものもあった。 ただし、先述の通りだからと言ってこの映画の完成度が高いというわけではない。 最終的に振り返ってみれば、結局何だったんだという程度のお話で、設定や展開があまりに腑に落ちない部分も多い。 4人の主要人物が登場するが、それぞれが結構苦いトラウマを抱えているわりには、どうも人間が薄っぺらく見える。ドラマ性を深める要素は多分にあるのに、今ひとつ感情移入が伴わないのは勿体ない。 ともあれ、リヴ・タイラーの貞淑さの奥から徐々に滲み出てくる“淫靡さ”を受け、主人公たち同様に恋狂うことを楽しむべき映画だと思う。[DVD(字幕)] 6点(2012-12-01 21:50:56)(良:1票) 《改行有》 842. 黄金を抱いて翔べ 《ネタバレ》 終盤、無造作に置かれた古い聖書が映し出される。その描写が象徴するように、この映画には、目に見えるストーリーのすぐ裏側の部分で登場人物たちのあらゆる「懺悔」が溢れている。 幼年期の罪に対する懺悔、息子の不遇に対する懺悔、祖国に残した家族に対する懺悔、そして、夫を裏切ったことのへの懺悔と、おそらくはそれと同時に兄を裏切ったことへの懺悔……。 日本映画としては珍しい程に卓越した娯楽性の中で、人間たちのバックグランドを含めたドラマ性が深く映し込まれる。 実は、井筒監督作品を観たのは初めてだったが、様々な映画に“毒づく”だけあって、流石に骨太で濃ゆい映画世界を見せてくれたと思う。 原作は未読だが、映像的に表現されていない部分も含めて、物語の世界観と人間模様を忠実に描き出せているのではないかと思えた。 それぞれの登場人物たちの映されていない部分の言動やドラマが、ありありと想像出来ることが、映画として原作の持つテーマの核心を引き出せている証明だろうと思う。 冗長な回想シーンを羅列したり、説明描写を延々と繰り広げたりするダサい日本映画が多い中、 主要人物たちの犯罪への動機や人間関係の説明的な描写は極力排して、犯罪計画そのものにスポットをあてた構成は、非常にシンプルかつ映画としてのリアリティに溢れていた。 その卓越した映画世界の中に息づく俳優陣も主要キャストから脇役・端役に至るまで、とても“気合い”が入っていて素晴らしかったと思う。 何かが起こる派手なシーンだけでなく、酒を酌み交わしたり、ハンバーガーショップで計画を練るシーンに至るまでもれなく蔓延る緊張感は、俳優たちの優れた演技の賜物だ。 ハードボイルドやバイオレンスにただただ突っ走った映画は多い。しかし、それに相応しい娯楽性を伴った日本映画は数少ない。この映画が素晴らしいのはまさにそういう部分だと思う。 ハードボイルド、バイオレンス、サスペンス、幅広い娯楽を抱き、見事にエンターテイメント映画として飛翔してみせている。[映画館(邦画)] 7点(2012-11-30 23:25:37)《改行有》 843. ヤング≒アダルト 僕自身、より広い世界で何かを成してみたいという望みはあった。そういう望みをがすべて消えてしまったわけではないけれど、いつの間にか生まれ育った土地で結婚をし子供が生まれ、日を追うごとに人生の方向性が確定し始めている。「幸福だ」ということに疑いはないつもりだけれど、完全に割り切れてもいない。 そんな三十一歳になったばかりの男にとっても、この映画が伝えるものは、色々な意味でイタく突き刺さる。 シャーリーズ・セロン演じるこの主人公のことを「馬鹿女」と一蹴してしまうことは簡単だし、とても楽だ。 実際彼女が馬鹿でイタい女であることは見紛うことなく確かなことだ。 彼女がああなってしまった原因の大部分は、彼女自身の人間性によるものであり、自業自得でもある。 しかし、その主人公の馬鹿でイタい言動の始終を追って呆れる反面、誰にも彼女を蔑む権利などないとも思える。 誰だってかつては彼女のように立ち振る舞いたかったはずだし、彼女自身、周囲がそうあることを望んだからこそ、無意識の強迫観念の中で自らの人間性を構築していったのだろうと思う。 ただそのまま歳を重ねるだけ重ね、一般的な価値観における「大人」になれなかっただけのことだ。 もちろん、社会の中で生きていく上で“ただそれだけのこと”では済まなくなる部分は多い。しかし、それを批判出来ることが出来るのは、何も知らない他人などではなく、彼女自身に他ならないと思った。 言い換えれば、辛かろうが、苦しかろうが、彼女自身が「それで良い」と心の底から割り切れれば、それが「正解」なのだと思う。 脚本も演出も素晴らしいが、敢えて特筆したくなるのはやはりシャーリーズ・セロン。 37歳のバツイチ女の荒み切った生活感を惜しげもなく表現したかと思えば、ある種狂信的なドレスアップ後には完璧な美しさを見せる。一人の女の中のこの激しいギャップが、殊更に主人公の悲哀を強め、キャラクターのオリジナリティーを高めている。“はまり役”といえばまさにそうだが、衝撃の“ヌーブラ姿”も含めて見事だったと思う。 この映画は、馬鹿でイタいオトナの女が、「痛み」を経て成長する物語……などではない。 己の馬鹿さもイタさもすべて抱えて、今一度「自分一人が大切だ」ということを噛み締め、髪を掻きむしりながらボロボロの体と心でそれでも前へ走り出す、そういう映画だ。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-11-30 16:14:05)《改行有》 844. キリング・ショット ブルース・ウィリスの意味深な台詞回によるファーストカット、郊外のドライブインでの軽妙っぽいガールズトークから突如始まる銃撃戦、静止画によるキャラクター名表示に、時間軸を行ったり来たりする場面転換……etc。 冒頭から立て続けて映し出されるそれらの要素に対して、「あーハイハイ、“彼”のような映画にしたいのね」と苦笑いが出るのに時間はかからなかった。 “彼”とはもちろん、“クエンティン・タランティーノ”である。 不思議なもので、明らかに“タランティーノっぽい”映画づくりになっているのに、そう思わせるシーンが登場する度に何だか「ダサい」と感じずにはいられなかった。 真似はどこまでいっても真似だし、クエンティン・タランティーノ以上の映画オタクでない限り、いくら真似たところであの世界観は導き出せないということだろう。 元も子もないことを言ってしまえば、タランティーノ映画はタランティーノにしか作れないという至極当たり前な結論を痛感してしまった。 クエンティン・タランティーノの映画を全く見たことがない人ならば、それなりに楽しめるのかもしれないが、“オリジナル”を経てきている以上、この映画は決して褒められたものではない。 何やらミステリアスな真相を秘めたようにストーリーは展開していくが、蓋を開けてみれば中身は空っぽに近く、雰囲気だけで切羽詰まった感を強引に出しているに過ぎなかった。 キャラクター描写も今ひとつ中途半端で、マリン・アッカーマン演じる主人公は映画内の設定程美人に見えないし、アカデミー賞俳優フォレスト・ウィッテカーが演じる殺し屋は「狂気」が空回りしていてただの馬鹿みたいに見えた。 パッケージに大写しになっているブルース・ウィリスに関しては、ある程度予想はしていたが、“キーパーソン”という肩書きの完全な脇役。 この人は相変わらず小金稼ぎが上手い大物俳優だと思う。こういうしょうもない映画にも出るし、脇役も端役も厭わない一方で、話題の大作映画にも主演し続ける。さらには日本のCMにも顔を出すのだから、本当に俳優としての商魂が逞しい。[ブルーレイ(字幕)] 4点(2012-11-29 17:55:15)(良:1票) 《改行有》 845. ペントハウス 高揚感を煽る音楽の中、ベン・スティラー演じる主人公が、絶妙な笑みを浮かべながら“あるところ”を歩いていく。そのラストカットを見ながら、思わずにんまりと親指を立てたくなった。 イントロダクション通りのストーリーで、辿り着く顛末も大体想像通り。それでも、これだけの満足感を観客に与えるのは、アメリカのコメディ映画界が大衆を喜ばせるための「基本」を常に全うしているからだと思う。 もはやアメリカコメディ映画の世界では二大俳優といっていいベン・スティラーとエディ・マーフィの競演については、当然のことながら安心して見られる。 特にベン・スティラーというコメディ映画俳優の存在感は凄い。 主演作の殆どにおいて、彼の演じるキャラクターはあまり笑わない。主人公が真剣になればなるほど、彼を取り巻く環境は大揺れを起こし、可笑しさが生まれる。 それは、すべての人間が真剣に生きているこの現実の世界こそに、本当の可笑しさが潜んでいるということの証明であり。だからこそ、ベン・スティラーの主演映画は面白いのだろう。 が、その一方でこの二大俳優が組んで、しかも一応“幼なじみ”という設定の割には、ふたりの掛け合いが少なく、連携もイマイチだったようにも思えた。 ストーリー構成的には、ベン・スティラーの単独主演で、エディ・マーフィは脇役という印象が強く、勿体ないと感じた。 また、よくよく突き詰めれば、整合性がない部分もチラホラ目につくし、説明不足な展開もある。 そういう部分が、最終的な満足感のわりに作品としてのグレードを幾分か下げてしまっていることは否めない。 しかしながら、この手の映画に“こなれている”俳優たちのアンサンブルは極めて安定していて、気を削がれるようなことは決してない。 “人種のるつぼ”であるアメリカ社会が抱える格差や経済の問題意識もベースに敷きつつ、バランスの良いエンターテイメントに仕上げる“地力”が流石だと思う。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-11-28 23:54:57)(良:1票) 《改行有》 846. 私が、生きる肌 ペドロ・アルモドバル、このスペイン人監督の映画を観るのには、いつも「覚悟」が要る。 多くの場合、彼の映画を観ていると途中激しい嫌悪感を覚える。「まさか……」と思わせるおぞましい程にショッキングな展開が、現実となり画面に繰り広げられる。 目を背けたい衝動にかられるけれど、実際はその衝動に反するかのようにより食い入るように画面を凝視していることに気付く。 それは、この映画監督が追求し描き出しているものが、“人間”が“人間”として深層心理の奥底で「見てみたい」と思っている“人間”の姿だからだと思う。 だからこそ、自分自身の生半可な倫理観を蹴散らして、画面から目を離すことが出来なくなるのだろう。 この映画で描き出される人間の物語は、もはや「悲劇」などという一言ではおさまらない。 そんなものは早々に超越し、人間の「存在」と「是非」そのものに対して疑問を投げかけてくるような感覚を覚えた。 アントニオ・バンデラス演じる哀しきマッドサイエンティストの倒錯した生き様と死に様には、“鑑賞者”としてあらゆる感情が渦巻く。一体、彼の行動をどう捉えるべきなのか、最終的な部分で自分の答えを導き出すことが出来なかった。 吐き気を覚える程のおぞましさを感じたかと思えば、次の瞬間には息をのむ程の美しさを目の当たりにする。 そんな異様な映画世界に対峙してまともな判断ができるはずはないのかもしれない。 ああ、何とか言葉を尽くそうとする程に、自分の表現力の無さを痛感し、すべての言葉が陳腐に思えてくる……。 手塚治虫の短編集「空気の底」の一編に紛れ込んでいてもおかしくないような世界観に対して、好きか嫌いかの判別もつかぬまま、主人公たちと同様にただただ倒錯する。[DVD(字幕)] 8点(2012-11-27 15:33:24)《改行有》 847. 裏切りのサーカス 《ネタバレ》 ゲイリー・オールドマンの秘めた感情が読めない瞳が、眼鏡の奥で硝子玉のように鈍く光る。 彼が演じるスマイリーという男が、この物語の中で貫き通したものは一体なんだったのだろう。 それは正義だったのか、野心だったのか、それとも暗恨か、嫉妬か。 ラストカットで主人公が携えた微笑には、彼が抑え込んできた様々な感情が一瞬垣間見えたように思えた。 インフォメーションから伝わっていたようなストーリー的な難解さは実はない。 人と思惑が入り交じり、いかにも入り組んでいるように見えるが、最終的に解きほぐされた顛末は、呆気ない程に単純で驚きはなかった。このキャスティングで、“彼”が裏切り者では工夫がなさ過ぎると思った。 正直なところ、その呆気なさに対して満足度が高まり切らなかったことも事実。人物関係の説明描写が明らかに不足したまま固有名詞を並び立てる語り口は、ストーリーをただ無意味に難解じみさせているようで、サスペンスとしてアンフェアに感じた。 そのことが映画として必要な娯楽性の不足に直結していることは否めない。 ただし、“研ぎすまされた”という表現がまさに相応しい俳優の演技と、映像構築も含めた演出は、文句なしに際立っている。 さめざめしくも美しい陰影の濃い映像世界はこの物語に相応しく、そこに息づく俳優たちはそれぞれ最高のパフォーマンスを見せていたと思う。 特筆すべきは、やはり主演したゲイリー・オールドマンの素晴らしい存在感だろう。 一貫して感情を高ぶらせることのないこの映画の主人公は、彼のフィルモグラフィーの中でも最も「静的」なキャラクターだったのではないかと思う。 終始、淡々とした佇まいの中でも、決して平坦ではない、深い人物像を構築してみせたと思う。 ゲイリー・オールドマンは、今作でアカデミー主演男優賞も有力候補だったので是非穫ってほしかった。 そして、ナタリー・ポートマンもとい“マチルダ”から“スタンフィールド”へのオスカー授与シーンが見たかった![ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-11-24 10:36:58)(良:1票) 《改行有》 848. 007/ゴールデンアイ 5代目ジェームズ・ボンドとなったピアース・ブロスナン版「007」シリーズの第一作目。自分自身の世代的には(1981年生)、最も馴染み深い「007」映画であってもいいはずだろうが、ようやく初鑑賞に至った。 今作の後の「トゥモロー・ネバー・ダイ」と「ワールド・イズ・ノット・イナフ」は公開時に観ていて、正直なところそれぞれ満足度が低かったことが、ブロスナン版の「007」に対する評価を確定付け、ひいては同シリーズ全体に対しての魅力減に繋がっていたように思う。 今作は、当時低迷していた同シリーズの人気を回復させ、批評的にも興行的にも成功したという評価だったので、今さらながら期待して観た。 結論としては、決して悪くはないけれど、特筆して「面白い!」ということも決してないというところか。 映画を構成する様々な要素があまりに“見慣れている”ということに尽きる。 事件の発端も、悪者の企みも、主人公のピンチとそれの回避方法も、あらゆる場面で「まあそうなるんだろうな」と容易に予測がついてしまう。 当然ながら目新しいワクワクハラハラなんてあるわけがなかった。 またこのシリーズの特徴からすれば、“ボンド・ガール”に色気がないことも致命的だったかもしれない。イザベラ・スコルプコ演じるキャラクターは、コンピュータ技師という設定もあってか、終始露出が少なく、「007」ならではの娯楽的要素を欠いてしまっていたと思う。 敵方の“裏・ボンドガール”を演じたファムケ・ヤンセンは、分かりやすいほどにエロい言動を繰り広げ色気はあるのだが、“超ハードS”なキャラクターなのでちょっと引いてしまった。 ショーン・コネリー版やロジャー・ムーア版の過去のシリーズ作品のように、もう少し時が経てば、オールディーな風合いが加味されるのかもしれない。 しかし、今の時点では中途半端な古臭さばかりが目につき、マイナス要素の方が大きいことは否めない。[DVD(字幕)] 5点(2012-11-23 02:21:02)《改行有》 849. 007/私を愛したスパイ 《ネタバレ》 ロジャー・ムーア版の「007」を初めて観た。 自分の両親の世代では、「誰のジェームズ・ボンドが一番か?」という質問に対して、ショーン・コネリーとロジャー・ムーアで二分するようだ。 もはや死語として風化しつつあるこの時代ならではの“ダンディズム”こそが、“ジェームズ・ボンド”というキャラクターに与えられた性質であり、確かに両者ともタイプは違うが演技から溢れ出んばかりのダンディズムが印象的な俳優だと思う。個人的には、ショーン・コネリー版に一票入れたい。 アクションシーンについては、現代の最新作と比べるとやはり愚鈍に見えてしまうことは否めない。しかし、「面白いアクションを見せよう!」という気概は充分に伝わってきて、その気概こそがこの映画シリーズの娯楽性そのものだと思えた。 ジェームズ・ボンドが雪山からダイビングしユニオンジャックのパラシュートが爽快に開くアバンタイトルにアガり、 “ボンド・カー”のロータス・エスプリが水中を突き進んでいく様にアガり、 “ボンド・ガール”として終始主人公と同伴するソ連の女スパイの格好がいちいちエロいことにアガる。 また悪役キャラクターの存在感も際立っており、アクションシリーズならではのエンターテイメント性を高めていると思う。 今回のボンド・ガールにとってジェームズ・ボンドは恋人の仇のはずなのに、結局最後はなし崩し的に“よろしく”やっちゃう顛末も、「なんでやねん!」と突っ込みを入れつつも、問答無用に親指を立てたくなった。 過去作の良いとこ取りな感じで、様々な要素や描写が盛り込まれているタイプの映画なので、その分尺がいささか長めだけれど、もし自分がこの映画を1977年当時に映画館に観に行ったとしたならば、やっぱりこれくらいのボリュームは欲しいと思うところだろう。[DVD(吹替)] 7点(2012-11-23 02:18:05)《改行有》 850. エクスペンダブルズ2 クライマックス、シルベスター・スタローンの太い腕がナイフを地面に突き立てる。 その“腕の太さ”は、単純な筋肉の誇示ではなく、この映画俳優が長年に渡り培ってきた成功と苦労の象徴のように見えた。 満を持してこの映画を観た翌日の日曜日、実家にて庭作業をする父親を手伝った。自分自身が育った分、当然ながら父親は確実に歳をとっている。その父親の腕と、前日に見た老アクションスターの腕が、見た目的にも、意味合い的にも、何だか重なって見えた。 もちろん良いところばかりではないが、自分がこの“腕”によって育てられてきたことは紛れもない事実であり、感謝をしなければならない。 そして、「映画鑑賞」という人生経験においても、この映画に勢揃ったアクションスターたちの“太い腕”によって育てられたということは、たぶん間違いないことだと思う。 つまるところ、この映画が世界中のアクション映画ファンにとっての「夢」そのものであることは明らかだ。 そんな「夢」の実現、そして彼らがそれぞれに苦心して経てきた映画人生そのものに、まず感謝せずにはいられない。 もちろん「完璧」などという形容が相応しい映画ではない。ただ、敢えて言うならば、「完璧」ではないことが「完璧!」と断言できる。 スタローンとシュワルツェネッガーとウィリスが、見紛うことなくそろい踏み、惜しげもなく銃器をぶっ放す。 ヴァン・ダムが、代名詞のハイキックを見事に繰り出し、極悪非道を演じる。 ステイサムは、洗練された格闘とナイフアクションで、“現トップスター”の意地を見せる。 そして御歳“72歳!”のチャック・ノリスが、“伝説的”な立ち位置でオイシいところをかっさらう。 ストーリーにおける粗なんて本当にどうでもいい。これだけの要素が盛り込まれていて、他に何が要るのかという話だ。 「良い!」と思う全てのシーンにもれなく付随する“ほつれ”も含めて、この映画の不完全な完全さだと思う。 「大人の事情」を感じてしまうジェット・リーの序盤での“里帰り”や、“マギー・チャン”役には何とかマギー・チャンを出してほしかったなどなど細かな物足りなさはあるにはある。 そして、セガールにスナイプスにヴィン・ディーゼル、見たいヤツらはまだまだいる。 「5」あたりで超グダグダになることまで、アクション映画シリーズの“お約束”と想定に入れて、まだまだ“祭り”が観たい![映画館(字幕)] 8点(2012-11-18 23:55:26)(良:3票) 《改行有》 851. ルパン三世 東方見聞録 ~アナザーページ~<TVM> ルパンと次元以外の主要キャラクター声優陣の入れ替えからまだ日は浅いが、既に“馴染んでいる”と感じられたことは、極めて高いハードルに挑んだ新しい声優陣を賞賛すべき要素だと思う。 先だって放送されたテレビアニメシリーズ「LUPIN the Third -峰不二子という女-」の成功を経て、新キャストチームの結束が順調に固まっていることは、ファンとして喜ぶべきことだろう。 今回のテレビスペシャル版には、「LUPIN the Third -峰不二子という女-」で見せた淫靡で挑戦的な趣向は一切無く、毎度おなじみのテレビスペシャル版という趣だった。 プロット的には、「いったい何番煎じ?」と思わずにはいられないお決まりのパターン。 不二子にそそのかされたルパン一味があるお宝にまつわる謎を追求する中で、謎を解明する核心となるヒロインが絡み、ヒロインを守りつつ謎を解き明かしお宝の正体に辿り着く。 最終的には、“カリオストロ”以来定番の「俺のポケットには大き過ぎらぁ~」的展開で、ルパンは何も手に入れぬまま、銭形警部に追われつつ去って行く。。。 目新しさなんて何もなく、もはやそういうことをこのテレビスペシャル版で求めることはお門違いにも思えてくる。 ここまでくれば「水戸黄門」と同じ領域であり、決まりきったプロットを受け入れ、楽しむ努力をしなければならないのかもしれない。 と、なんとか許容したい気持ちの一方で、「名探偵コナン」のアニメスタッフが担ったらしいアニメーションの造形は極めて安っぽく、画的な格好良さがまるでないことは、大きなマイナス要素と言わざるを得ない。 「LUPIN the Third -峰不二子という女-」のテイストでの続編か映画版は、引き続き激しく希望。[地上波(邦画)] 3点(2012-11-18 00:51:44)(良:1票) 《改行有》 852. 007/ゴールドフィンガー 今のダニエル・クレイグ版の「007」シリーズは大好きで、公開を控える最新作も今年最注目のアクション映画の一つだ。 一方で、往年のシリーズ作品も何作かは観たけれど、それほど面白さを感じてこれなかった。古いアクション映画ならではの愚鈍さが目についてしまい、“世界トップクラスのスパイ”という主人公のキャラクター設定において説得力を感じなかったことが大きな要因だと思う。 しかし、シリーズ第3作目となる今作においては、任務そっちのけで状況やところ構わず方々の美女に“色目”を使うショーン・コネリー扮するジェームズ・ボンドの“らしい”キャラクター性が際立っていて良かった。 “うつつ”を抜かす対象となるボンドガールたちも、それぞれ美しく魅力的だった。囚われの身の中で、飛行機内の東洋系のメイドにまで好色の目を見せるショーン・コネリーのニヤケ面が可笑しかった。 ただし、今作の場合、悪のボスのキャラクターについては、ただの“成金デブオヤジ”でしかなく、悪役として特筆すべき卑劣さや恐怖感を微塵も感じなかったことは残念だ。 また、その後に予定されている展開ありきのボンドカーの秘密機能など、諸々のご都合主義な部分は多く、突っ込みどころは枚挙に暇が無い。 まあしかし、ただの古めかしいアクション映画の範疇には留まらないこのシリーズの魅力と、それに伴う娯楽性は充分に堪能出来ると思う。 シリーズ第3作目にして、あらゆる「定番」が確立した作品でもあるらしいので、様々な"お決まりごと”を楽しむことを前提として観ることができれば、何の問題もない。 惜しむらくは、ラストはこの作品のタイトルに相応しく、黄金漬けになり死に絶えた悪役の指のアップかなんかで終わってほしかった。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-11-15 00:12:03)《改行有》 853. フレンチ・コネクション こういう映画を観ると、自分は映画という娯楽に根本的な部分では「精巧な虚構」を求めているのだなと思う。 ザラつく画面に映し出されるリアルな息づかい、決してトントン拍子には運ばない物事の顛末、そして正義を司る者が常に「完勝」するなんてことはあり得ないという現実感。 その唐突な映画の終焉に対して「え、終わり?」と不満を禁じ得なかった自分は、この作品の持つ価値を感じつつも、どうしても最終的に「面白かった」とは思えなかった。 非常にどっちつかずな言い方になるが、それはイコールこの映画が「面白くなかった」ということではない。 ブルックリンの刑事たちの生々しい姿が延々と描き出される映画世界に対して、終始惹き付けられたことは間違いない。 怒濤のカーチェイスシーンから、映画史に残る有名な“背後からの射殺”シーンと、見所と見応えは枚挙に暇がない映画であった。 では何が自分自身の好みに沿わなかったのか。それは即ち、この映画の最大の売りである“リアリズム”に他ならないように思える。 この映画のモデルは実在の刑事であり、その元刑事の生き様を描き出したノンフィクションが原作である。 そして監督は、リアリティを徹底しドキュメンタリー的手法でこの映画を構築していったという。 その徹底したリアリズムが、個人的にキツかったのかもしれない。 それは、あまりに生々しい描写の連続で観るに耐えないというような分かりやすいキツさではない。 ありとあらゆる情報網が張り巡らされ、別に知りたくもない現実が次々に明るみになる現代社会に生きる者として、映画の世界にまで"現実感”を求めることに疲れたという表現が正しいように思う。 このハードボイルドな刑事映画に描かれていることとその方法は、圧倒的に正しいのだろう。 ただ、楽しくはない。とどのつまりそういうことだ。 奇しくもこの映画の公開と同じ年、もう一つのハードボイルド映画の中でもう一人の刑事が登場した。 今作のポパイ刑事と同様に、正義の名の下に問答無用に悪を葬るその刑事の通称は“ダーティ・ハリー”。 この二人のアウトロー刑事のスタンスは極めて似通ってはいる。 しかし、同じ丸腰の悪党に対してでも、背後から撃ち殺すポパイよりも、正面から堂々と撃ち殺すハリーの方が、やっぱり格好良い。[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-11-11 20:32:16)(良:1票) 《改行有》 854. ダーティハリー サンフランシスコの深い青空を背景にして、ライフルの漆黒の銃身が伸びる。遠く照準の先には、真っ青なプールに映える黄色い水着を着た美女。冷淡な凶弾は音もなく美女を襲いあっさりとその命を奪う。 オープニングクレジットと共にサングラスをかけた“スター俳優”が颯爽と事件現場に現れ、映画が始まる。 冒頭数分間のこのシークエンスで、一気に映画の世界に引き込まれた。 「凄い映画だ」ということは、その時点で確信できた。そして、今この瞬間までこの映画を"未経験”だったことを後悔した。 あまりに有名なハードボイルド映画の「傑作」であることはもちろん知っていたけれど、今この時代に初めて観て、これほどまでに心底「格好良い」とあらゆる意味で思える映画だとは思わなかった。 全編に渡るカメラワークの格好良さ、音楽の格好良さ、台詞回しの格好良さ、そして何と言っても“クリント・イーストウッドの格好良さ”もうそれに尽きる。 世代的にクリント・イーストウッドという映画人に対して、“ベテラン名俳優”そして“名匠映画監督”としての認識が大部分を占めるので、“スター俳優”としての馴染みが実際無かった。 時を越えてようやく、クリント・イーストウッドという稀代のスター俳優に邂逅できた気分だ。 映画史に残る「傑作」故に、この映画の価値と見所は多岐に渡ると思う。 時代に楔を打つバイオレンス性、正義と法の矛盾に対しての憤り、娯楽映画における警察像の変遷、この映画を観たのは初めてだが、おそらく観る程に新しい発見があり面白味が深まるだろうと思える。 でも、個人的に何よりも重要視したいことは、やはり主人公の魅力に尽きると思う。 演じた主演俳優の時代を越える格好良さ、そして彼が演じたキャラクターの映画史上に残るアイコン性。 登場した瞬間に、当然の如く「ああ、ダーティハリーだ!」と初めて見る者にすら思わせるその強烈な個性。 この映画の主人公に、クリント・イーストウッドという俳優が起用されたのは、決して既定路線ではなく、様々な巡り合わせが重なった上でのことらしい。 だからこそ、その「誕生」は映画史にとって奇跡的なことだったと思う。[CS・衛星(吹替)] 10点(2012-11-11 01:12:40)(良:1票) 《改行有》 855. 恐怖の報酬(1953) 大量のニトログリセリンを荷台に積んで悪路を延々運転する主人公に、同乗する相棒が言う「2000ドルは運転の報酬だけではない、恐怖に対する報酬でもあるのだ」と。 それはまさにその通りで、後半の主人公は年老いて恐怖におののく相棒を罵倒し続け、「お荷物だ」と悪態をつくが、もし一人であれば到底この任務を全う出来る筈はなく、早々に逃げ出していたことだろう。 そういう極限状態の中で左右される人間の心理が、巧みな演出の中に盛り込まれた映画だったと思う。 有名な映画なので、タイトルはもちろん「ニトログリセリンを運ぶ」という大体のプロットも認知していた。 そのことも影響したのか、主人公たちが置かれている環境と人間関係をつぶさに描いた導入部分は、少々冗長に感じてしまい、「いつニトロが出てくるんだ?」と間延びしてしまった印象は否めない。 序盤の人間模様が不要だとは思わないが、このストーリーで約150分の尺はやはり長過ぎると思えた。 “オチ”をああするのであれば、もっとシンプルな構成にした方が、「恐怖」とそれに伴う人間の心理が際立ち、映画としての娯楽性が高まったのではないかと思う。 ただ、繰り返しに成るが、中盤以降の演出は極めて巧みだ。 度重なるハプニングがバランスよく配置され、ニトログリセリンを運搬するトラックを二台描き出すことにより、どちらがいつ危機を迎えるのかという緊張感が効果的に持続された。 決して主人公のみをヒーロー的に描き出すのではなく、運搬にあたる4人それぞれの人間性をしっかりと描き、彼らが陥っている生活環境と、非人道的ですらある危険任務に自ら身を捧げざるを得なかった状況が、ドラマの中にきちんと盛り込まれていた。 最大の危険を乗り越え、一服しようとした瞬間、フッと巻き煙草が飛び散る。的を得た非常に良い演出だったと思う。 大ラスの言葉の通りの“オチ”については賛否が分かれるところだろう。実際、思わず呆気にとられてしまった。 しかし、この作品がフランス映画あることを思い出すと、ある意味「真っ当」な顛末のようにも思えた。[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-11-09 16:01:10)《改行有》 856. 網走番外地(1965) 最新作での映画復帰で改めてその存在感が際立っている俳優「高倉健」。 そんな高倉健の映画が観たくなり、タイトルの認知はあったけど全く観たことがなかった「網走番外地」シリーズの第一作目の鑑賞に至った。 高倉健の主演映画は今まで何作か観てきたが、今作の高倉健は他の数多の作品と比べ「異色」と言えるのではないか。 いや「異色」というのはやや語弊があるかもしれない。もっと簡単な言い方をするならば、明らかに「若い」高倉健が観られる映画だと言っていい。 この映画の高倉健は、生来の優しい性根を垣間見せつつも、荒々しいまでにぶっきらぼうで、プライドが高く、若さ故の“愚かさ”を幾重にも積み重ねる。丹波哲郎じゃなくても、彼の言動に対しては思わず「大馬鹿!」と叫びたくなる。 現在に至るまでの主演映画の多くで、高倉健演じる主人公は、過去に何かしらの過ちや後悔を携えて生きている場合が多い。 そんな“彼ら”の若かりし日の姿こそ、この映画の高倉健そのものだと言われると、妙にしっくりとくる。 そんなことを考えてみると、映画俳優としてのフィルモグラフィー自体が、“高倉健”という日本が誇る俳優の“生き様”そのものに見えてくる。 長年に渡って活躍する俳優にとってフィルモグラフィーが人生の系譜であることは、ある意味当然のことかもしれない。しかし、高倉健ほどそこに人間としての厚みが備わり、現実と非現実の「境界」の見極めが困難な程にリンクしている俳優は居ないだろうと思う。 と、思わず映画の内容そっちのけで「高倉健」という俳優の存在感ばかりに目がいき、その名前を連呼せずにはいられない。 この映画は、稀代の映画俳優の「若さ」を剛胆に描きとった価値ある意欲作だ。[DVD(邦画)] 8点(2012-11-06 00:27:04)《改行有》 857. 仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ 「仮面ライダー」なんてまともに観たのはもう何年ぶりだろうか。 人によれば、ある程度大人になっても好んで見続けている人も多いようだが、個人的にはそれほどこの“ヒーローもの”にハマったという記憶はないので、映画版なんて観たのはもうほんとうに幼少期以来だろうと思う。 まず感じたのは、最近の仮面ライダーはこれでもかという程“派手”だということ。しかも、この「W」というシリーズはコンセプトがピザ屋で言うところの“ハーフ&ハーフ”なので、そのビジュアルの派手かましさはこの上ない。 「BLACK」だとか「RX」の比較的シンプルなデザインの仮面ライダー世代の者としては、どうしても「これ、カッコいいのか?」と疑問符を投げかけてしまうが、これが今の世代の子供たちにウケているのであれば、それが正解なのだろう。 近年の特撮ヒーローものの中では、「アクションシーンが抜群に良い」という評判をあちこちで聞いたので鑑賞に至った。 なるほど、確かに各アクションの切れ味は良く迫力があった。前日にドニー・イェンの映画を観た直後でも充分に鑑賞に堪えたことを踏まえても、そのクオリティーの高さは間違いないだろう。 ただ、仮面ライダーに限らず、昨今の特撮ヒーローもののワンシーンを時々観て常々感じることだが、「変身」のために必要なメカやツールがあまりにゴチャゴチャとし過ぎじゃないかと思ってしまう。 この仮面ライダーシリーズに至っても、タイトルにもある“ガイアメモリ”という大きめのUSBメモリーみたいなツールが変身のための要となるわけだが、それが敵味方両方で入り乱れるように行き交い、次第にこれは一体何の戦いなんだと思ってしまった。 こういうのは、明らかに玩具メーカーの策略で、関連グッズを子供たちにバンバン買ってもらおうという魂胆が見え見えなので、ついつい訝しく見えてしまう。 まあそういうつまらない“大人目線”をしてしまう時点で、もうこういう特撮ヒーローものを観る「資格」はないのかもしれない。[DVD(邦画)] 5点(2012-11-05 17:38:33)《改行有》 858. アポロ18 17号を最後に計画終了となった筈のアポロ計画には、隠された「18号」の存在があったという導入から始まるフェイクドキュメンタリー。 そのイントロダクションは非常に興味深く、どのような映像世界が繰り広げられるのか、好奇心を駆り立てられた。 映像の精度はとても素晴らしかったと思う。 終始一貫、残された記録映像を繋ぎ合わせた風のフェイクドキュメンタリーの映像の完成度は高く、何故ここまで克明な記録映像が残されたのかという“理由付け”も含めて充分な説得力を備えていたと思う。 念願のアポロ計画に選抜され意気揚々と月面に向かう3人の宇宙飛行士が、目の当たりにする「真実」とは何なのか? その核心に向けて映画は適度な緊張感と不穏さを伴って、比較的テンポよく展開される。 と、いい塩梅のサスペンスフルな展開を楽しめてはいた。 が、結果的には得られた顛末に対して「満足」とはまでは遠く及ばなかったと言える。 端的に言ってしまえば、物語の核心におけるアイデアが少々ありきたり過ぎた。 アイデア自体がありきたりなので、そこから導き出される映像的な表現も、どこかで観たという印象の範囲を出ず、驚きが無かった。 フェイクドキュメンタリーという手法に固執するあまり、現実感と非現実感の狭間で縮こまってしまっているような印象を覚えた。 この手の展開であれば、どう転んでも最終的に「これが真実かもしれない」と思う人はいないだろうから、もっと思い切った展開に踏み込んでも良かったろうにと思う。 結果的に、特筆する程の娯楽性は得られず、追求したはずのリアリティ感も薄れてしまったことは残念。 ただしかし、試み自体はとても面白かったと思うし、低予算であろう製作費の中で映像的なクオリティーは極めて高かった。 終盤までの緊迫感はなかなかのものだったと感じるだけに、ただただ惜しかったという印象。[ブルーレイ(字幕)] 6点(2012-11-05 17:37:48)《改行有》 859. 捜査官X 《ネタバレ》 「思ってたのとちがう」映画であることは間違いない。 「捜査官X」と邦題が銘打たれ、その捜査官役の金城武のビジュアルの方がメインにプロモーションされていた。切れ者の捜査官が、“謎”に溢れた事件とその中心にいた一人の男の“真実”を突き詰めていくという映画、だろうと思っていた。 もちろんそういう要素もあるにはあるが、それは映画の中の序章部分に過ぎない。 メインで描かれるのは、“謎の一人の男”の隠された心理と活劇。 つまるところこの映画は、いまナンバーワンの“カンフースター”ドニー・イェンのカンフー映画なのである。 思っていたのとは違ったが、ドニー・イェン演じる“主人公”の本質が徐々につまびらかになっていくにつれ、カンフー映画としての高揚感は爆発的に高まっていき、アジアが世界に誇るアクションエンターテイメントの真髄にハマっていった。 想定外の展開を見せられても不満無く観客を引き込んでいく。それくらいドニー・イェンの吸引力がもの凄い。 一見さえない風貌から突如繰り広げられるカンフーアクション、そのキレとスピード感は、ただそれだけで一級のエンターテイメントに成り得ている。 映像技術の発達により、いまや老若男女を問わず世界中の俳優が超人的なアクションシーンを“見せる”ことができるようになった。それにより、アクション俳優の“居場所”はどんどん狭められていっていると言っていい。 そういう現在の風潮も踏まえ、このカンフースターは、今一度アクションを“見せる”のではなく“魅せる”ということの価値と意味を追求しているように思えた。 ストーリーの辻褄なんて横に置いたとしても、アクションシーンの魅力だけで“魅せる”。この映画には、そういった娯楽映画のパワーが満ちていると思う。 そういう映画なので、金城武のキャラクターの比重が全体のバランスの悪さに繋がっていることも事実。 彼のキャラクターと演技自体は魅力的だったと思うが、あくまでも狂言回しとしての立ち位置に徹し、ミステリアスな主人公を引き立てるアクの強い脇役であってくれれば、映画としての質は更に高まったように思える。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-11-05 17:35:26)《改行有》 860. ロボット インド映画を観たのは、おそらく15年ぶり。そう、「ムトゥ/踊るマハラジャ」以来だ。 インド映画界の超スターであるラジニカーントが、謳って踊って戦いまくるあの“インド娯楽”の結晶的な映画から15年あまり。再び見たインド娯楽映画の絶対的な主人公が、同じくラジニカーントであることにまず驚く。 この人のインドにおけるスター性は、日本人が想像する以上に絶大で、その生活ぶりはもしかしたら彼の主演映画以上に“とんでもない”のかもしれない。 その片鱗は、現在60歳を超えているとは思えない“肌艶”に表れていると思う。 さて映画はというと、相変わらずのインド娯楽映画ならではのテンポとテンション、濃ゆい演出とカメラワークがこれでもかと並べ立てられた問答無用に楽しい映画だった。 粗や突っ込みどころなどを挙げたらキリはないが、それらは「普通」の映画であれば気になるもので、インド映画で、ラジニカーントの映画であれば、それら全部ひっくるめてエンターテイメントと言っていい。 わけがわからないくらいハチャメチャな娯楽性に彩られた映画ではあるけれど、プロットは極めてオーソドックスで、王道的なSFだったと思う。 天才ロボット博士と彼が生み出した超精巧なロボットの対峙による物語の構図は、往年の手塚治虫のSF漫画を彷彿とさせ、ロボットの悲哀と人間の業、それに伴う混沌と感動をきちんと描けていた。 と、想像以上に“真っ当な”映画という印象が強く残ったのは、僕が鑑賞したバージョンが137分の短縮版だったからかもしれない。 180分に渡る劇場公開の完全版には、更に破天荒で絢爛豪華なダンスシーンがこれでもかとぶち込まれているらしい。 やはり、そちらを観てこそ、インド娯楽映画を「堪能」したと言えるのかもしれないと思うと、悔やまれる。 インド本国公開版は、180分よりも更に更に長い“てんこ盛り”バージョンらしい……。世界は広い。[DVD(字幕)] 7点(2012-11-04 09:09:29)《改行有》
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