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【製作年 : 1930年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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81.  河内山宗俊 たまたま時代の設定が過去だったというだけで、会話だけ取り出せば昭和の現代劇の様相。かえって戦後の時代劇のほうが様式性が強くなってしまっているのかも知れない。直次郎はここではそこらにいるグレかけた気弱な少年だし、三千歳とはミッちゃんと呼びあっている。金子市の中村翫右衛門が傑作で、永年留年して大学に居着いてしまっているような雰囲気のある男、しかし実は死に場所を探していた余計もののニヒリズムも持っている、というあの時代の若者像をくっきりと代表している。“市井”という言葉がこんなにも似合うセットはそうそうなく、その中の住人としては雪の舞う世界などうっとりと見惚れていられるが、余計ものの目を通すと、唯一どぶだけが奥への逃げ路として続いている圧迫も感じられる、という素晴らしい造形。古女房のやきもちという、どちらかというと喜劇の要素を転換点に、ドラマが悲劇性を帯びていくのも、時代の影か。松江邸のニセ僧道海は、設定だけが歌舞伎と同じで、全然違うドラマに仕立てて読み換えの面白さになっている。見事な傑作だが、ただ音楽がうるさく、ラストの立ち回りで「ロミオとジュリエット」が流れ出すと、やはりのけぞる。[映画館(邦画)] 8点(2009-10-14 12:00:58)

82.  未完成交響楽(1933) 何通りもの対比を見られる。世間知らずのお坊ちゃんと、訳知りの大人。民衆の歌とサロン芸術。不器用とテダレ。そして絶対的な階級の違い。筋をたどれば、特権階級に奉仕するものに成り下がっていた芸術家から、人民へ奉仕する芸術家へと、大ざっぱに枠組みをまとめられるんだけど、この映画の感じのよさはそういうところにはなく、お坊ちゃんが嫌味なく描かれている作品として気持ちがいいんだろう。妹的な質屋の娘が、チラチラと姉的なものを見せるところもいい。けなげである。とっても柔らかなものを、大事に大事に傷つけないように描いているこの映画が、ヒトラーが首相になった年に製作されてるってのは、皮肉な偶然というより、社会の気分が均衡をとろうとする必然なのかもしれない。[映画館(字幕)] 7点(2009-09-16 11:57:57)

83.  藤原義江のふるさと はじめて映画が“音”を手に入れたとき、“歌”や“音楽”を使おうと考えるのは、まあ自然でしょうなあ。“騒音”って発想に至った『マダムと女房』の方がかなりひねくれてる。で歌手を主人公にして、しかし役者全般がどう声を出していいか困ってて、「とりあえず新派でいこう」って感じだったのだろうか。テナーと新派的物語。メロドラマではあるが、やや傾向映画的な香りもあり、資本家に踊らされるテナーをたしなめる妻は、印刷工となる。工場への道を歩きながら新聞を読む場など、労働者の匂いが立ちこめる。一方頽廃のパーティシーンではカメラがけっこうくねくねと回り込み、あの時代の撮影機器ではそうとう大変だったのではないか、そうでもないのかな。テープが乱舞し。この時代の映画で忠告する友人となると、まず小杉勇なのだ。このパターンは、グレかけたけど立ち直る不良少年ものにも通じる。[映画館(邦画)] 5点(2009-07-22 11:57:00)

84.  風の中の子供 《ネタバレ》 勉強していた三平が母親のほうをうかがい、するとディゾルブで消え、外からターザンのおたけびが聞こえてくる。金太の言ったことで漠然とした不安が漂い、家の前をお巡りさんが通過する。弁当を曲げないようにお父さんのところへ届ける。飛び上がって帽子かけの帽子をとる…。子どものスケッチのひとつひとつが生き生きしている。これは監督の技術でもあるが、当時の松竹という会社のトーンでもあったのだろう。刑事を自分の家に導いてしまう三平。世界に対して不安・警戒が広がる。留守番しているとき雨戸を締め切ってしまう。兄弟でのオリンピック水泳中継。で三平は坂本武おじさんのところへ。残った善太がひとりでかくれんぼをしている半ば幻想シーンが凄い。もういいか~い、もういいよ~、の声が家の中にうつろに響き、一方三平もカッパの池のさざなみを見つめている。説明抜きで、兄弟の心情が伝わってくる。おじさんちから帰ってきて、働こうと思っても、小さな子どもには大きな犬の世話は出来ない。自分が子どもであることの悔しさ。子どもの心のスケッチ集として、パラパラめくってはちょっと見入る感じの作品になっている。ロケではしばしば道の中央にカメラを据え、シンメトリーを作る。アップは使わない。ひと夏の物語は、入道雲のように堂々としている。[映画館(邦画)] 7点(2009-07-09 12:03:58)(良:1票)

85.  新しき土 《ネタバレ》 桜のタヲヤメぶりと、活火山のマスラヲぶりを順に見せて、これぞ日本。そういうアイテムの一つとして「侍の娘」ってのもあるわけだ。日本とヨーロッパの分かりやすい混淆。ジャズが流れる酒場に、新内流しのような女を立たせて三味線を響かせる。洋酒と日本酒。この分かりやすさがちょっと気持ち悪いけど、一番気持ち悪いのが話の本筋。小杉勇はヨーロッパの自由主義を捨て、妹のような娘と結婚し、満洲の開拓民になる、という展開に、作者が意図してなくても、時代のグロテスクがハッキリと記録されていたのではないか。国粋ということを煮詰めていけば、外部への絶対的な拒否になり、それはついには近親相姦的な歪みを抱えることになる。妹のような娘と結婚するのは、国粋の必然なのだ。もっとも山岳映画人の興味をひいたのは、同盟国としてよりも火山国としての日本だった。地震のある国。心理的背景はどうであれ、原節子と小杉勇の山のシーンは充実しており、「侍の娘の矜持」なんていう取ってつけたような解釈を越えた力が、画面にみなぎっていたように思う。[映画館(邦画)] 6点(2009-07-05 12:02:32)

86.  夜の鳩 市井風俗ものってのは、その場所の気分のスケッチが大事、というか、それこそが作品の中心。これなんか、ストーリーよりも、そこに漂う気分だけで一編の映画にしてしまい、しかも成功している。浅草老舗の料理屋なんだけど、しだいに質が落ちている、一の酉なのにあまり客がいない。そこの女たちの話。いちおう主人公は竹久千恵子、昔は看板娘だったが、いまはトウがたってしまった。ひいきにしてくれていた月形龍之介も最近は妹のほうに向いている。あと義父のヤクザに妾に行けと言われている娘や、オタフクのためにお燗番しかさせられない娘や、女たちの世界が静かに展開していく。年の瀬の雰囲気も加わって、全体が衰滅に向かっている気分がひしひしと伝わる。ジンタの音も流れてくる。作者の視線は、この滅んでいくものを記憶にとどめといてやろう、といった感じ。もうたぶん反復されないここでの最後の年の瀬を味わい尽くそう、って。ただただひたるための映画。こういう元気が出ないモロ後ろ向きの映画って、日本でだけ異様に洗練されていった気がする。右肩下がりに独特の情緒を感じてしまう国民性なんだな。無常観とかワビサビとかとつながってるのか。原作は武田麟太郎の小説「一の酉」で脚色も作家本人。このころからもう老人役の高堂国典は、当時「黒天」と表記していたらしい。[映画館(邦画)] 8点(2009-06-29 12:04:18)

87.  噂の娘 《ネタバレ》 『妻よ薔薇のやうに』の年の暮れの作品で、設定もお妾さん絡みでちょっと似ている。ただし娘は姉妹で、和装の姉は同情的、洋装の妹は反発している。それに家業の酒屋の没落が絡む。婿の頑張りも限界、遊んでいるおやじのほうも元気一杯というわけではなく(釣りはいらねえぜ、と言ったものの釣りを受け取ったり)、全体が衰弱していく気分に包まれている。その気分そのものがこの映画の味わいであって、特別モダンな妹に希望を託すわけでもない。酒がマガイモノでだんだん質を落としていくような衰弱感に、映画もひたされている。見合いのあと橋の上をトボトボとやや俯き加減で歩く千葉早智子のあたりに成瀬のトーン。ラストで家庭内の緊張が高まり、妾が店たたんでやってきて、妹が誕生パーティで父と喧嘩し、カットが細かくなり、カメラの向きが変わって、そこで警察=外部が入ってきて、という展開のリズムの妙。向かいの床屋の「次は何になるかねえ」という冷たい言葉でサッと締める厳しさ。何が噂の娘だかよく分からないけど、一番描きたかったのは“姉”の寂しい笑顔だったのだろう。一家を支えて頑張るぞ、って感じじゃなく、家の滅びに殉じてもいいのよ、という微笑み。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-24 12:08:17)

88.  人妻椿[前後篇](1936) 《ネタバレ》 『愛染かつら』より、こっちのほうが先なんだ。これのヒロインが横浜の波止場へ駆けつけていくシーンをまねて、あっちの田中絹代も走ったのだろう。こっちは川崎弘子。もうあらゆる悲劇を背負い込むんだけど、はたからだと魔性の女にも見え、だって彼女の行くとこ行くとこ不幸を招き寄せていくんだもん。お父さんのところに帰れば嵐、デパートに行けば火事、彼女は不幸の女として流転の日々を送る。バーのマダムやら、芸者やら、次々と衣装を替えていくのも、いま言うところのコスプレ的趣向か。そもそもの不幸のきっかけであるギャングが死ぬシーンは笑った。「ほー、撃てるもんなら撃ってみろ」と不敵に笑って撃たれて死んじゃうの。このマヌケな奴のために佐分利信はチベット(!)に逃げねばならず、ヒロインは流転しなければならなくなる。笠智衆が珍しくヒロインに岡惚れするという生臭い役で、吉川満子に諭されたりするが、あれはただの通りすがりのおばさんだったのかな。なんせ、総集編的なフィルムでだいぶカットがあるらしく、いろいろ想像で補いながら見なければならない。忠義な飯田蝶子がずっと付き従うってのは、時代劇のお姫様とお付きの婆やを思わせる。ときどきクラシックが不似合いに流れ、夫婦別れの場のシューベルトのセレナーデは、まあ納得がいくが、シューマンのピアノ五重奏が、墓場で(だったと記憶している)流れたのには驚いた。シューマンは『ウルトラセブン』の最終回にピアノ協奏曲が流れるという使われ方もしたしなあ。メロドラマで使用可能な不幸の索引のような映画で(もちろん子どもも病気になる)、でもメロドラマの代表作と呼ぶには躊躇する。[映画館(邦画)] 5点(2009-06-20 12:03:28)

89.  女人哀愁 《ネタバレ》 あたしは古い女だから、と言ってる主人公、でもレコード売り場で働くってのは、この時代そう古くさいわけでなく、モガの素質はあったわけだ。古い古いって言われてるから、ズルズルと古い見合い結婚してしまったようなところがあり(イトコが好きなんだけど近すぎてうまくいかない)、結婚なんてこういうものなんだ、と自分に言い聞かせ、成るように成ると流して冷たい夫と暮らした日々が、最後に爆発に至るってな話。あたしだってダンスぐらい踊れるわ、とイトコの妹と踊る場なんか、彼女の心の深層を見せハッとさせる。若い世代は平気でジャレあえ、もうそこまで無邪気になれないヒロインとイトコの二人と対照させる。大事に大事にこきつかう(襖のあけたて・弟の算数の宿題)夫と、金はないが愛はある妹の愛人がまた対照される。じっと耐えてきた入江が、ついに妹の愛人に加担することで自己主張する展開、どこか仁侠映画にも似た情動がある。ラストでビルの屋上にイトコと立ち、「ズルズルはいけないわ」ってなことを言う。成瀬映画の基本モチーフって「ズルズル」だと思ってる私としては面白かった。ズルズルはいけないと思いつつ、ズルズルしてしまう人生の味わいを描くことにかけて、天才的な監督だったと思っているもので。三浦光雄の撮影に逆光の美しさあり。[映画館(邦画)] 6点(2009-06-18 12:03:37)

90.  阿部一族(1938) これは原作の謎でもあるのだけど、何を否定し何を肯定してるのかが、簡単には割り切れない話だ。たしかに侍の世界の馬鹿馬鹿しさは描かれているが、その馬鹿馬鹿しさをより高い目で肯定しているようにもとれる。冒頭の淡々と日常の中で殉死していく者たち、腹の据わった者たちと見つつ、やはり気味悪い。悲壮な討ち死にをあっぱれと思い、また愚かだと思う。女たちの涙を批判とも見られるし、浄化とも見られる。我々日本人には、けっきょく自分たちが肯定したがってるのか否定したがってるのかよく分からない情動があり、どうもそれがせめぎ合うところが好き、という困った趣味があるようなのだ。義理と人情、とか。映画の中の言葉で言えば「情は情、義は義」。そこらへんがボヤけたまま、この国は数年後に阿部一族のように全世界に対して立て籠もったわけだ。監督は戦時中右翼団体を主宰していたくらいの人で、おそらく肯定的に彼らを見ていたのだろう。武家屋敷の美しさの見事さなど、精神性を託されているよう。縁側を渡りに見立てて、先代が自死の場へ飄然と謡いつつゆき、滅びの前に翫右衛門がそれを繰り返す。死のために親類一同が法事か何かのように集まってくる、あの気分の延長に一億玉砕の思想が生まれてくるんだなあ。そういった美しくも危ない気分が正直に表現されている映画です。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-11 12:08:21)

91.  路傍の石(1938) 《ネタバレ》 おそらく現在見て一番嬉しいのは、明治の風俗の再現であろう。物売りや子どもの遊びや、昭和13年の時点でまだナマな記憶が残っていたであろう頃の再現だ。文献史料を元にした再現じゃなく、そこらにいるスタッフのだれかれに話を聞けた。大昔ではなかった、というか、現在『三丁目の夕日』を回顧しているぐらいの時間的距離だろう、いや、もっと近過去だったかな。勉学による立身ということが、何の疑いも曇りも持たずに輝いていた幸福な明治。旧弊なものはことごとく阻害者としてあり、たとえば父の山本礼三郎、あるいは伊勢屋の主人と丁稚のシステム(かつてひいきにしてくれた伊勢屋のお嬢ちゃんが、吾一が丁稚に来て吾助となったとたん横柄になる)。未来を拓いていく者は、文学青年教師の小林勇であり、絵描きの青年江川宇礼雄でありとモダンで、旧弊な側とはっきり二分されている。これはそのまま田舎と東京という二分でもあり、ラストでランプを割って電気の街に出ていくことになるわけだ。名場面としては、吾一が母の封筒貼りを手伝って間違えてしまうところ、自分に対する悔しさが渦巻くあのエピソードは本当に切ない。あとは母親の死を暗示するシーン、タルコフスキー『惑星ソラリス』の冒頭を先取りしたような、水草のゆらぎの美しいこと。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-07 12:02:41)

92.  その前夜(1939) 《ネタバレ》 幕末の京都、池田屋の近所、大原屋の物語という設定がアイデアの基本。市中を威張って歩いている新撰組に対し、絵描きら町人が「そういう時代なんですよ」と息を殺している気分は、映画製作時の軍部と重なって見えてくる。原作の山中貞雄は前年に死んでいる。でも、勤王が善で新撰組が悪という単純なものでもないところが、この映画のいいとこで、どちらかというと、政治的なものと政治的でないものとの対比なのじゃないか。絵描きが勤王派の妻をかくまうのも、ある種の親しみの感情からで、「どうも政治向きのことは…」と自分でも言っている。新撰組を狙う河野秋武(当時は山崎進蔵)も、別に長州脱藩でなくイデオロギーとは無縁、個人として辱しめられた怨みによって行動している。新撰組にも加東大介(当時は市川莚司)のような気のいい奴はいるのであり、しかし「イデオロギーなんか関係ないっすよ」というようなことを飲み屋で他藩の人間と語り合ったために切腹させられる者もいる。中村翫右衛門は、とにかく働いて上昇するためなら新撰組にだって取り入る、という町人気質の人物、川原で染めものの水洗いをしているとき、加東大介と話し合うあたりのノンキな気分がいい。別にリアリズム狙いの映画ではないが、とかくピリピリと張りつめて描かれる幕末の京都に、案外こんな気分もあっただろうなと思わせる手応えがあった。[映画館(邦画)] 7点(2009-06-06 12:03:56)

93.  右門捕物帖 拾万両秘聞 《ネタバレ》 ああそうか、金田一シリーズの加藤武のルーツは、この志村喬の“あば敬”にあったのかもしれない。ヨシッ、分かった、とひとり合点し、見当違いの人間をしょっぴいていっちゃう、という役柄。志村喬の軽躁さと対照的に、アラカンはずっと大きな動きを見せずにムッツリ考え続け、「伝六、カゴを呼べ」で一気に動き出す。序破急の呼吸。時代劇でヒーローが悪漢を捕らえるときって、眉間にしわをよせ大仰に何かをこらえる表情をするのは、「てめえのような悪漢を含む世界全体を憂えてるんだ」ってポーズなのかなあ。それぐらい悲壮感に満ち満ちた表情になる。それとも「てめえのような汚ねえ野郎とは、仕事だからいやいや関わってるんだ」という軽蔑なのか。半世紀以上たってもテレビ時代劇の松平健あたりにまでつながっている伝統の眉間のしわだ。ドラマとしては、冒頭に刻限を決めた約束があり、ラストで切腹からのぎりぎりの救出があって、整えられている。十万両奪取の動機が複雑な政治的陰謀ではなく、恋のもつれというのがアッケラカンと分かりやすい。芝居小屋は時代劇ではよく背景に使われるが、味わいがあっていい。これでは犯罪で使われたシビレ煙幕と芝居の児雷也の仕掛け煙幕とが絡んでくる趣向で、ドラマの悪にも芝居の悪のようなおおどかな気分が添う。[映画館(邦画)] 6点(2009-05-30 11:58:39)

94.  冬の宿 《ネタバレ》 前半はキリスト教狂いの妻とその夫の、ユーモアものみたいな展開。酒を飲んで帰ってくる亭主が、うがいをして匂いを消したり気をつかっている。恐妻家コメディの型で進みながら、しだいに話は深刻になっていく。最初にコメディタッチだっただけに、その深刻への傾斜が効いている。亭主、会社をクビになり、なのに見栄を張って宴会やったりする。地元の工場を処分してできた金を、キャバレーで散財してしまう。競馬で取り返そうとしてスッカラカンになる。コメディだったら愛すべき豪放な性格、ということでそれで済んでしまうんだけど、実際にはこういう“愛すべき性格”は、身内にとっては生活破綻者であって迷惑至極なわけだ。近所にこういう人がいても、いい人なんですけどね、と同情はするが、積極的に手を差し伸べはしない。そこらへんの、笑顔がしだいに強ばっていく展開が、見ているほうでも納得がいくだけにけっこう怖い。これを演じた勝見庸太郎も絶品だった。一見優しく見守っていたような作者の視線が、じつはヒンヤリと観察している。子どもたちに、そっちに行っちゃいけないよ、と言っていた貧民窟への坂を下っていくラストの厳しさ、まるで時代の下り坂と重ね合わされるふうで、ゾクッとした。前年の内田吐夢『限りなき前進』の暗さをちょっと思わせ、豊田四郎の文芸ものの中でも、重要な作品ではないだろうか。原作、阿部知二。[映画館(邦画)] 8点(2009-05-09 12:12:42)

95.  争闘阿修羅街 《ネタバレ》 最近何かと注目を浴びている戦前のB級量産会社、大都映画の一本。アクションスター、ハヤフサヒデトの最盛期のサイレント映画は現在これしか残っていないそうだ(監督の八代毅というのはハヤフサ本人)。博士の新発明とスパイ、それにオキャンな博士の娘が絡むという、後の子ども向けテレビドラマにつながっていく定番の世界。前半の主人公は三枚目のサエない速記記者で、編集長に怒鳴られてばっかり。事件は夜、博士の別荘番のせむし男がモゾモゾ動き回り、女中の大山デブ子が悲鳴を上げ、博士がさらわれて、突然ヒーローになる。煙突の上のロープから滑り下り、ビルからビルへ跳んでは悪漢の車を追う。『ロイドの要心無用』といい、ビルが映画の文法の発明に果たした役割りは大きい。舞台の芝居では演出できない“高さ”というものをドラマの中に導き入れ、アクションに上下のスリルをもたらした。映画の時代とビルの時代が重なるのは当然のことだったのだろう(このロープでの滑り下りが彼のウリらしく、今世紀に入って発見された戦後の作品『怪傑ハヤブサ』でも、必然性を無視してやたらビルから滑り下りていた)。そして主人公は走る車の下に張り付いたりして、悪をやっつけるのだった。活劇の精神は古びることを知らない。いつの時代でもかっこいいものは同じようにかっこいい。もっとハヤフサの映画を見たいものだが、新たに発掘される可能性はあんまり高くないだろう。[映画館(邦画)] 7点(2009-05-08 12:06:19)

96.  チョコレートと兵隊 《ネタバレ》 これは戦時中、日本研究のために米軍がいくつか取り寄せた日本映画の中の一つで、これは反戦映画なんじゃないか、と疑問に思われたといういわく付きの作品。藤原釜足演じるいいお父さんが、戦争に行って死んでしまう話だから、向こうの人から見たらそう思えるかも知れないし、戦後の反戦映画のプロットにもなりうる設定だ。でも当時の日本人は、こんないいお父さんを死なせた敵を許すまじ、ってふうになったのだろう。これを逆に考えれば、戦後作られた反戦映画も、視点を変えれば戦中の国策映画になってしまうわけで、怒る対象の不在ってところが日本の反戦映画の問題点なんだと思う。そういうメッセージ以外のところは丁寧な生活描写で、藤原釜足もよく、いい出来の映画だと思った。実はこの映画で一番ハッとしたのは、夫に赤紙が来て妻の沢村貞子が「しかたがないや」なんてセリフを言うところ。戦前の映画見てて一番不自然なのは、召集令状が来ると内輪の場面でも家族が「おめでとう」とか「やっとこれでお国のためにたてます」とか、建て前の反応しか見せないところで、そこらへんに対しては特に検閲が厳しかったんだなあ、と思ってたんだけど、この作品では消極的ながらも、肩を落とし溜め息をつく気分が描かれていた。昭和13年というまだ比較的ゆとりがあった時期のゆえか、それともけっこうこの程度の表現はほかにもあって私が目にしてないだけなのか、「しかたがない」のを乗り越えるところに検閲官は意義を見いだしたのか、分からない。しかしそういうシーンが戦前にもあったことを知って、ちょっとホッとした気持ちになれた。[映画館(邦画)] 7点(2009-05-02 11:59:29)

97.  かごや判官 チャンバラより推理ドラマ仕立ての体裁。けっこう戦前って推理ものの時代劇が盛んだったんだ。戦中の名作、マキノ正博の『待って居た男』なんて現在の推理ドラマよりはるかに出来がいい。もっともこれはあんまり期待しないでね。推理より演出。死体からカメラが動いて、塀を乗り越え、外で騒いでいる町人にまで移動していく、なんて同時代の溝口健二というより、半世紀後の相米慎二を思わせる。取り調べでしゃべる女の声に合わせて、回想画面の人物の口が合う、なんてのもかなりシャレている。演出として成功しているかどうかは別にして、楽しい。長屋での権三の夫婦げんかと、助十の兄弟げんかがパラレルに描かれたり。このころは時代劇もモダンの風に吹かれていたのだ。もちろん歌も歌う。馬鹿が愛嬌の江戸町人。でもこの作品の製作は江戸でなく、松竹京都創立15周年記念映画。[映画館(邦画)] 6点(2009-04-23 12:00:14)

98.  与太者と海水浴 《ネタバレ》 たぶん私が見た高峰秀子の中で、『東京の合唱』の次に古いものだと思う。9歳。『東京の合唱』では、まだ子ども一般という感じで個性は認められなかったが、ここに至って後の大女優に通じる個性が生まれている。と言っても、敏行君という、金持ちの坊ちゃん役。女の子が男の子を演じるのは、美空ひばりや松島トモ子が杉作をやったりと、最近の香港映画『ミラクル7号』に至るまでけっこうあり、芝居で男の子役を若い女優が演じるしきたりとつながってるキマリなのかもしれないけど、高峰で見られたのはこれだけ(あと『麗人』という島津保次郎作品で、岩夫君・6歳・てのを演じたのがフィルムセンターに残っているそうだ)。自伝によると高峰はこの時期男の子役のほうが多かったそうで、五所平之助監督は後になっても彼女のことを「坊や」と呼んでいたという。で、この映画だが、この金持ちの子どもと庶民の子どもの友情が軸の海辺コメディ。庶民の子どもを演じたのが『生れてはみたけれど』の金持ちの坊ちゃんだったのがおかしい。この時代にしてはかなり長い水中撮影がある。水中で汗を拭いたり、水中でその手拭いを絞ったりするギャグをやってた。パーティーの席で、魚屋が出された魚を、ついナイフで三枚にさばいてしまうギャグもよかった。この魚屋を演じたのは阿部正三郎というコメディアンで、この与太者シリーズでは磯野秋雄、三井秀男(弘次)とともに常連だったが、戦争に引っ張られて帰ってこなかったという。戦前の映画を見ていてつらいのは、幾多の才能がフッと途切れてしまうこと。さらに思えば、戦後花開いたに違いないもっと多くの名優や名監督の卵も、ガダルカナルやインパールで無意味に失われているのだろう。[映画館(邦画)] 6点(2009-04-14 12:18:57)

99.  花つみ日記 この時代の、夢見る少女の世界がたっぷり展開しているのに価値がある。吉屋信子調全開。舞台は大阪の花街で、東京から転校してきたミチルと花街の娘栄ちゃん(高峰秀子)の友情物語に、先生芦原邦子への憧れが絡む。ペギー葉山の「学生時代」のなかの“清い死を夢見た~”なんて、こんな感じなんだろうなあと思った。二人のイニシャルを織り込んだ刺繍もすれば、絶交よ、なんていじらしい喧嘩もする。外の世界で嵐が吹きかけている時代に、ひたすら乙女心の世界に閉じ籠もって、なにかしらか細いものを懸命に紡いでいる。世の中が、国とか民族とか大きなものを大声で叫びだした中で、吉屋信子は、ささやかなものに固執した。一応ミチルの兄さんの出征を入れることで、時局に対応してみせてはいる。意外とミュージカル的な演出があり、芸妓となった栄子とハイキングのミチルとが、こもごも同じ歌を歌いながら別々に描かれつつ出会うあたり、葦原の歌が窓の外の生徒らの合唱に受け継がれるあたり、冒頭の竹ぼうきで校庭を掃除しているあたりなど、石田民三ってこういうのもやるのか、と思った。ミチルを演じた清水美佐子って知らない俳優だったが、その影の薄さがこの作品に似合っててちょっと記憶に残ってたのだけど、後に中村メイ子の自伝を読んでいたら、メイ子の家に住み込むほど終生親しかった女性だった、と出ていた。[映画館(邦画)] 7点(2009-04-03 12:08:44)

100.  ゴルゴタの丘 キリスト物語って、地方の物語なんだ。政権の強いローマを離れて、地方の総督とかユダヤの議会や地域の王なんか、文化が複雑に衝突している周縁の話なんだな。あんまりそういうとこ考えたことなかったが、何か新しいものが生まれるってのは、そういう場所でなんだろう。ユダヤが“呪われた民”と見られるのは、これら“群衆”の象徴としてなんじゃないか、などと思った。セットや群衆に迫力があり、また丘の場の空の雲は、映画が舞台と違って天候を描けることの利点を改めて思い出させてくれる。裏切りに出ていくユダが振り返って目にする、窓の額縁の中の教団仲間の親密な光景が、ユダの孤独を浮き彫りにする。正直言って、キリスト話ってなんか倒錯(被虐加虐その他いろいろ)の匂いがしてあまり好きになれず、見るときはついユダのサイドから眺めてしまうんだけど、ヨーロッパ文明の底には確固としてこの倒錯が潜んでいるんだなあ、と思えば、やはり気にはなります。/なおこれでキリストを演じたロベール・ル・ヴィガンは、『地の果てを行く』や『どん底』にも出る個性派だが、占領下に対独協力派の放送局で働いていたため、『天井桟敷の人々』の古着売りの役を放棄してドイツに亡命し逃げ回り、戦後はアルゼンチンへ去った呪われた俳優。同じ経歴の、やはり呪われた作家セリーヌと一時一緒に逃げていたので、セリーヌの晩年の小説に登場してくる。セリーヌの小説に出てくるベベールという猫は、逃避行していたときこのヴィガンからもらったもの。ヴィガンのそういう後半生を知ると、受難のキリストを演じたことにも味わいが添う(国書刊行会刊・セリーヌ「城から城」の補注より経歴を引用)。[映画館(字幕)] 6点(2009-01-11 12:19:43)

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