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Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1101.  白ゆき姫殺人事件 僕自身、何かの事件や事故の速報を見聞きした時、真っ先にtwitterでキーワード検索するクセがついてしまっている。 どこかの誰かがツイートしたその情報をそのまま鵜呑みにするつもりは毛頭ないのだけれど、情報伝達の速さ一点において言えば、一般大衆の「口コミ」に勝るものは今の時代無く、実際、緊急性の高い事故や災害などの情報は役に立つことも非常に多い。 醜聞や偏見を大いに孕んだ無責任な情報を仕入れること自体が、浅はかで、愚かであることは、きっと誰しも心の中では分かっている。 だけれども、人間は「知りたい」という欲望には勝てない。そういう生き物だからだ。もし人間にその欲望が無ければ、この社会の発展は無かっただろう。 だからこそ、twitterをはじめとするSNSにより、個々人が全世界に向けて極めてカンタンに情報を発信できるようになってしまったことは、人間の根幹となる欲望を丸裸にし、あまりに無防備な状態を生み出してしまっているのだと思う。 この映画は、一つの惨殺事件を発端として、この時代ならではのメディア批判を表面に描き出しつつ、欲望に裏打ちされた人間の弱さとおぞましさを大衆的に描き出すことに成功している。 特筆すべきはこの「大衆的」ということで、決して完成度は高くなく、高尚な描かれ方もされていないことが重要なのだと思える。 この映画から伝わってくる独特の軽薄な空気感、それは「ワイドショー」そのものだ。 劇中でも、「ミ○ネ屋」を彷彿とさせる(と言うよりもそのものの)ワイドショー番組が描かれるが、そのシーンのみではなく、この映画全体が一つのワイドショーとして、意図的な悪意に満ちた軽薄さで描き出されているように感じた。 配役も実にハマっている。 愚かな狂言回しのごとく立ち回る契約社員のTVディレクターに綾野剛。 この人気俳優は、こういう浅いのか深いのか定かではないという意味で底の見えない人間を演じるが巧い。 映画のファーストカットで惨殺体で登場するのは菜々緒。誰もが認める美人OL役を、類稀な美貌と、骨の髄から漂ってくるような悪女臭を存分に活かして好演している。このモデル出身の女優は、誰もが鼻につく印象を逆に売りにして、このところすっかり悪女役の地位を確立している。コレはコレで大したものだと思う。 また蓮佛美沙子、貫地谷しほりら実力派若手女優の配役も的確だった。 そして何と言っても、井上真央。 物語上で描き出される通りに地味で薄幸な“悲劇のヒロイン”を、大衆の想像上の犯行シーンも含めて見事に演じきっている。 印象的だったのは、この「城野美姫」という主人公が子供の頃から孕み続ける「闇」を、どの登場シーンにおいても表現できていたことだ。 物語上、「城野美姫」は“悲劇のヒロイン”として描き出されているように見える。 ただし、だ。実は事の真相は誰にも分からない。「真相」のようなものも、結局は浅はかなワイドショーで伝えられただけにすぎない。 特にこの主人公の「思惑」については、描き出された顛末以上の屈折した何かが、心の闇として見え隠れして見えた。 ラストシーンで、ヒロインは、打ちひしがれるTVディレクターに対して、「いいことがありますよ」と微笑む。 一見、「救い」のようなこのラストシーンを、額面通りに受け取ることが出来なかった。そこにこの映画が伝える本当のおぞましさが存在するように感じた。 それでも僕らはワイドショーの情報に好奇の眼差しを向け、twitterのつぶやきに踊らされ続けてしまうのだろうか。[インターネット(字幕)] 7点(2017-01-29 10:05:43)《改行有》

1102.  バイオハザード: ザ・ファイナル 感無量。臆面なく言わせてもらうならば、満足度は高い。 と言うと、真っ当な映画ファンとしては「馬鹿じゃないか」と思われるだろうが、実際そうなのだから致し方ない。 勿論、この映画単体を指して、エンターテイメント大作の傑作などとはお世辞にも言えるわけがない。 しかし、1997年の「フィフス・エレメント」からの主演女優ミラ・ジョヴォヴィッチの大ファンで、彼女のスーパーヒロイン女優としてのポジションを確立した2001年の「バイオハザード」から今作に至るまでのシリーズ全6作を「映画館」で観た“感染者”として、やはり「感無量」という言葉を使わざるを得ない。 前述の通り、今シリーズにおいては、とうの昔に“感染者”に成り下がっており、最新作に対する真っ当な「期待」などはとっくに無くなっていた。 それでも結果として映画館に足を運び続けた理由の大半は、ゾンビよろしく排他的な「惰性」と、主演女優の美貌を拝んでおかないとという慢性的な「欲情」に占められていたと思う。 そんな感じで、「ああやっぱりイマイチだったな……」だとか、「ああやっぱりジョヴォヴィッチはエロいな……」などと思いつつ、ゾンビのようにフラフラと劇場を後にし続けた。 極めて退廃的である。金も時間も無いのだからもっと良い映画を観ろよと我ながら思う。 だがしかし、その“退廃感”を味わうことこそが、このシリーズを観ることの目的となり、カタルシスにすらなっているように感じていた。 そうして期待感など毛頭なく臨んだシリーズ最終作。 “感染者”ならではの斜めからの視点、そして粘り強く観続けてきたファンとしての贔屓目は大いにあったろう。 「傑作」とは言わない。「佳作」とも言い切ることはできない。ただ、「良かった」と断言したい。 もはやシリーズ通じてのストーリーの整合性などは、端から無いものと高をくくっていたのだが、シリーズ最終作にして、ちゃんとストーリーの収拾をしてくれたと思う。 特に「Ⅲ」以降の迷走ぶりが甚だしかったアンブレラ社の陰謀の真意だったり、ずうっと曖昧で荒唐無稽だった主人公アリスの存在性とその意味が、曲がりなりにも明らかにされたことには、長年の胸のつっかえが取り除かれたようで、快感を覚えた。 当然ながら全く粗がないなんてことは言えるわけもないが、それでも破綻しまくっていた過去作を含んだストーリーの整合性を、ギリギリのところで再構築してみせたのではないかと思える。 また過去作に登場したアンデッドたちを再登場させたり、第一作の舞台となったアンブレラ社の地下研究所“ハイブ”を決着の場として設定するなど、シリーズファンに対してのサービスも嬉しかった。 そして、主人公アリスと共に、長年に渡りシリーズを支え続けた二人の悪役の最期も、非常に印象深かった。 特にアルバート・ウェスカーのラストの情けなさは、一会社員として無性に胸に迫るものがあった。 アイザックス博士の狂科学者と狂信者をミックスさせたラスボスぶりも、その始末のつけられ方も含めて良かったと思う。 と、概ね大満足に近いシリーズ最終作だったが、一つ大きすぎるマイナス要因がある。 それは過去作それぞれの優劣を決める最大のポイントともなっていた要素、即ち“エロティシズム”の有無だ。 第一作「バイオハザード」が成功した最大の要因は、勿論ミラ・ジョヴォヴィッチというスター性に溢れた女優がキャスティングされたことに尽きると思うが、それと同時に、主演女優によるエロティシズムが映画全編を通して全開だったことがあまりに大きい。 「バイオハザード」は、主人公アリスの“半裸”で始まり、魅惑的なコスチュームでアクションを繰り広げ、そして再び“半裸”で終幕したからこそ、唯一無二の娯楽大作として存在し得たのだと思っている。 ミラ・ジョヴォヴィッチが、撮影期間中に妊娠したことも多分に影響しているのだろうし、致し方ないことではあるのかもしれないが、今作において主人公アリスのセクシーカットが皆無だったことは、今シリーズ作に無くてはならない“エンターテイメント”の大いなる欠損だったと思う。 まあこれについては、何を隠そう今作の監督であるポール・W・S・アンダーソン自身が、ミラ・ジョヴォヴィッチの夫なわけだから、憤慨と嫉妬を込めて「ちゃんとしろよ……」と言いたい。 せめて、半裸とは言わないまでも、再び赤いドレスを身に纏ったアリスがコウモリのお化けと対峙するラストシーンで締められていたならば、この満足感は一気に振り切れたかもしれない。[映画館(字幕)] 7点(2017-01-18 09:27:54)《改行有》

1103.  インフェルノ(2016) 《ネタバレ》 ご存知ラングドン教授が、ヨーロッパの宗教史、美術史を辿りつつ、「謎」から「謎」を奔走する。 この映画はもはや、ミステリーに彩られたストーリーを追うものではなく、「謎解き」そのものを娯楽として楽しむべき豪華絢爛な“ジャンルムービー”なのだと思う。 ストーリーテリングが強引で粗があろうと、物語としての整合性があろうがなかろうが、「謎解き」そのものに対するカタルシスが得られれば、それでいいというスタンスなのだ。 娯楽の趣向としては、映画というよりも、ゲーム「レイトン教授」シリーズに近いものを感じた。まあ勿論、アチラのゲームが、この映画なり原作なりに着想を得ているのだろうけれど。 というわけで、年末の慌ただしい中、レイトショーで観た映画としては、面白過ぎるわけでもないし、駄作過ぎるわけでもなく、ちょうどいい塩梅で楽しめた。 前述の通り、ストーリー展開については苦笑を禁じ得ない稚拙な展開が目につく。 首謀者の計画の意味不明な遠回り感や、クライマックスの描写のグダグダ感など、サスペンス映画としての完成度は決して高くはない。 ただし、ロン・ハワードの監督の流石に洗練されたカメラワークや、三度ラングドン教授を演じたトム・ハンクスの安定感が、映画の表面的なクオリティーの高さをキープしている。 またこの映画の場合は“ヒロイン”の立て方がユニークで、大きな見どころとなっている。 ストーリー展開の中で入れ替わり立ち替わり存在する“ヒロイン”を巡る顛末こそが、今作の最大のサスペンスだと言えるかもしれない。 アカデミー賞ノミネートされた「博士と彼女のセオリー」の演技も記憶に新しいフェリシティ・ジョーンズの、“ある表情”の転換が見事だった。[映画館(字幕)] 7点(2016-12-14 09:22:20)《改行有》

1104.  ちはやふる 上の句 並べられた50枚のかるた札を前に座し、彼女は大きく息を吐く。髪をかきあげ耳を澄ます。真っ直ぐに見据える。 そのヒロインの一挙手一投足が、この映画の絶対的に揺るがない見どころだ。 “競技かるた”を題材にした人気原作漫画の映画化として、想像よりも随分と真っ当な青春映画に仕上がっていると思う。 マイナー競技を題材としたスポ根映画としては、「シコふんじゃった。」や「ウォーターボーイズ」等の過去作と比較して決して目新しい要素はないけれど、だからこそ「王道」を貫いていると言え、素直に感動的だった。 また“競技かるた”という“スポーツ”の競技性も、想像以上にアクション性に富んでおり、諸々の駆け引きや技術論の妙は、映像化されることでその「面白味」が引き出されていたと思う。 スポーツと文学とが文字通り「合体」したこの競技の持つ特性は、日本人だからこそ高められた独自性豊かな文化のようにも感じ、とても興味深かった。そして映画の構成上でも、その特性が巧くエンターテイメントとして表現されていたと思う。 と、作品そのものが青春スポ根映画として充分に及第点なのだが、それを二の次にしてしまう魅力を放っているのが、前述のヒロインを演じた「広瀬すず」に他ならない。 その圧倒的な美少女ぶりを武器にして、今彼女は数々の映画に引く手数多だ。特に今作のような漫画原作映画のヒロインでのキャスティングが立て続けである。 “流行りのアイドル女優”というレッテルを否定的に貼り付ける風潮も一部見受けられる。 今の「広瀬すず」が“アイドル女優”であることは否定しない。 ただしその“アイドル女優”としての格は、日本映画史上において、かなりとんでもないレベルに達していると思う。 かつての「宮沢りえ」や「原田知世」、「薬師丸ひろ子」らそうそうたる歴代アイドル女優の系譜に並び立ち、同年齢時での比較では彼女たちを凌駕する存在に成っているのではないか。 それが、一映画ファンとして、昨年「海街diary」を観て、今年「怒り」を観て、「確信」したことだ。 類まれな美貌もさることながら、「広瀬すず」の女優力の根源には、そこらの若手女優と比較してずば抜けた身体能力の高さと勘の鋭さがあると思う。 特に今作にはそれらの要素が存分に表れていて、彼女以外がこの映画のヒロインを演じたならば、“競技かるた”というスポーツが内包する迫力と魅力は、現状の半分も表現されなかっただろうと思える。 今作ではスーパースローが多用されているが、アクション描写における瞬発力や身体の動かし方、弾いた札を追う目線に至るまで、しっかりと「表現」が出来ているのは、この女優の身体能力と勘の良さがあってこそだと思う。 そういった演技力云々以前の存在感の強さとそれに伴う絶対的な輝きが、「広瀬すず」という女優が特別な理由だと僕は思う。 この先、この女優は多くの人に認められ、そして多くの人に嫌われることだろう。スキャンダルにも苦しめられるかもしれない。 眩しすぎる光は、往々にして、羨望や嫉妬と共に拒まれるものだ。 そういうものを全部ひっくるめて、「広瀬すず」という大女優の原石が背負った宿命だと思えてならない。[DVD(邦画)] 7点(2016-12-07 00:15:35)(良:1票) 《改行有》

1105.  10 クローバーフィールド・レーン 「クローバーフィールド」は、個人的にその年の「No.1映画」に選出するくらい大好きな映画だった。 「怪獣映画」を文字通りに“新たな視点”で描き出した大傑作だったと思う。 その「クローバーフィールド」の“続編?”“番外編?”と、例によってJ・J・エイブラムスによるシークレットで彩られたプロモーションで発表された今作を期待せずにはいられなかった。 真っ当な続編というわけではないだろうことは想定していたが、その想定を超えて面食らう映画だった。 “裏切られ感”と“コレジャナイ感”も大いに漂うなかなかのトンデモB級映画だったと言わざるをえない。 ただし、その唐突なトンデモぶりも、芳しいB級臭も、概ね製作者の意図通りだろう。 ならば、この映画は成功していると言っていいのだと思う。 “前作”のファンとしては想定外のストーリー展開と顛末に対して戸惑ってしまったことは否めない。 けれど、この異色の映画世界を全編にわたって楽しめていたことも事実。 「こうなるのかな?」という予想をことごとく覆し、まさかのエンディングに繋げた映画構成は、良作と駄作の境界線上を際どく駆け抜けるようで、色々な意味でスリリングだったことは間違いない。 SFパニックと密室スリラーを“PPAP”ばりに強引に合体させた奇妙な映画世界に素直に没頭し、巨漢界の名優ジョン・グッドマンの怪演を堪能すべき娯楽映画だ。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2016-12-03 23:36:13)(良:1票) 《改行有》

1106.  陸軍中野学校 雲一号指令 冒頭、スパイと成った市川雷蔵演じる椎名次郎は、北京に向かって朝鮮半島を北上している。 きな臭さが立ち込める時代、いよいよ“スパイ・椎名次郎”の暗躍が始まるのかと高揚感が生じる前に、主人公は本国に呼び戻される。そして、神戸港で相次ぐ輸送船の爆破事件の調査を命じられる主人公。地元の憲兵と衝突しつつも、首謀者を暴いていく。 スケール的には小規模なストーリー展開にまとまったシリーズ第二作。 ストーリーテリングとしてもそれほど際立った驚きはなく、ジャンルムービー的に展開し、良い意味でも悪い意味でも落ち着いて観られる作品に仕上がっている。 そんな中、見どころとなるのはやはり「市川雷蔵」その人だろう。 前作で自らの人生を捨て去り“スパイ道”を邁進することを決めた主人公・椎名次郎の能面のように美しい無表情が、二作目にしてもはや癖になる。 徹底されたポーカーフェイスの中にさりげなくも絶妙に表れる怒りや悲しみ。垣間見せる人間らしい感情を瞬時に押し殺す椎名次郎の葛藤こそが、この作品の味わい深さの肝だろう。 また今作においては、スパイ活動の中で演じ分ける大阪商人ぶりも見逃せない。 軽薄な商社マンになりきって、反逆者の懐に入り込むシーンは、国産スパイ映画ならではの面白味を、市川雷蔵の芸達者ぶりとあわせて楽しめる場面だと思う。 さてこれから主人公が、開戦前のきな臭い時代をスパイとしてどのよう生きていくのか。 また幾つもの屍を乗り越えて、椎名次郎は、スパイの道を歩んでいく。[CS・衛星(邦画)] 7点(2016-11-12 23:22:42)《改行有》

1107.  スター・トレック/BEYOND 「亡き友へ」 と、死んでいったクルーたちを悼み、カーク艦長が献杯をする。 このラストシーンのシークエンスは、一体どの段階でシナリオに組み込まれていたのだろうか。 劇中、襲撃されたエンタープライズ号の多くのクルーたちが命を落としてしまう展開はあるので、最初から用意されていたシーンなのかもしれないが、このシーンの持つ「意味」が悲運にも深まってしまったことに、映画ファンとして泣くしかなかった。 往年のTVシリーズからスポックを演じ続けたレナード・ニモイの死、そして、不慮の自動車事故で今作の撮影直後に亡くなってしまったチェコフ役のアントン・イェルチンの死に、惜別の思いばかりが募った。 二人の俳優の死が重なってしまったことも多分に影響しているのかもしれないが、リブート版第三弾となる今作には、全編通して「死」そのものと、それに伴うそこはかとない“別れ”の悲しさが漂っている。 「宇宙」というあまりに壮大で果てしない空間の中で突如として生じる空虚感と望郷の念も、冒頭のカーク艦長の心情描写に端を発して随所に表されており、表面的な大エンターテイメントのすぐ裏に垣間見える「宇宙」そのものの“深淵”が興味深い仕上がりだった。 僕自身は、この新しいリブート版シリーズからのファンで、残念ながらTVシリーズは観られていないのだが、その宇宙に対する深淵なる哲学性こそが、「スター・トレック」の本質的な魅力なのだろうと思える。 そして、いつの日か“人類”が宇宙で生命を紡ぎ蔓延ることに想像をめぐらし、そうなった時に、我々人類が辿り着く「境地」までもを創造したことが、このシリーズの凄さなのだろう。 J・J・エイブラムスから引き継ぎ新監督を務めたジャスティン・リンは、想定以上にそつなくシリーズ3作目を纏め上げたと思う。 「ワイルド・スピード」シリーズで磨き抜かれたチェイスシーンの安定感は言わずもがなの出来栄え。 また、アジア系キャラの“ヒカル・スールー”の見せ場を増やし、彼のキャラクターにゲイという要素を加味したことなどは、新鮮だったし、そのキャラクター像の広げ方は、長きに渡り“多様性”をテーマとして謳ってきた同シリーズにとって相応しいものだったと思う。 英語を理解しない日本人として少々残念だったのは、今作から脚本にも参加しているサイモン・ペッグが繰り広げているのであろう台詞回しの妙が、字幕では今ひとつ伝わらなかったことだ。きっと随所で意味深で愉快な言い回しがあったに違いない。 喪失し、破壊され、それでもエンタープライズ号は旅を続ける。 引き続き、最新作を心待ちにはしたい。 しかしながら、もうそこにはチェコフ君がいないことを思うと、やはり寂しくて仕方がない。[映画館(字幕)] 7点(2016-10-29 23:27:11)(良:1票) 《改行有》

1108.  百日紅 ~Miss HOKUSAI~ 「絵師」というものは、いつの時代も、どの国においても、この世とあの世の狭間で生きる人種なのかもしれない。 故に彼らの生き様は、ときに刹那的であり、一方で悠久たる時流の中でゆらりゆらりと漂っているようでもある。 主人公は、葛飾北斎の娘「お栄」。23歳。父をも凌駕する才能を垣間見せながら、彼女の若く瑞々しい視点を軸にして、魅惑の都市「江戸」が描き出される。 視覚や聴覚は勿論、触覚や臭覚、味覚に至るまで、五感の総てで浮世絵師たちが見た「風景」を表現しようとする趣向と、それに成功したアニメーションが見事だ。 特に、目の見えない主人公の妹の感覚を通じた、触覚や嗅覚の表現が白眉だったと思う。 秀逸なアニメーションによって表現された「江戸」は、楽しくもあり、妖しくもあり、悲しくもあり、そこに生きる人々の喜怒哀楽の総てをひっくるめてわらわらと賑わっている。 これ程までに「江戸」という時代と場所を描くにあたり、それそのものを「娯楽」として表した作品はなかなか無いのではないかと思う。 登場人物も総じて魅力的である。 特に、主人公のお栄は、絵師としての才気をほとばしらせながら颯爽と江戸を往く様が何とも格好良く、一方で垣間見せる未熟な乙女ぶりが何とも可愛い。そして、終始勝ち気な口ぶりを見せながらも、父と母と妹を常に気にかける慈愛の深さが感動を生む。声を担当した女優の杏は、まさに適役だったと思う。 惜しむらくは、オムニバス調のストーリーテリングが良くも悪くも散文的で、連なりに欠けていたところだ。 これだけ魅力的な舞台と人物の表現が出来ているのだから、ストーリー的にはもう少し踏み込んだ物語性を用意して欲しかった。 そうであったならば、絵師たちの人生観と江戸という世界観が、もっと深く混ざり合い、更に唯一無二の作品に仕上がっていたのではないかと思う。 確固たる良作であるが故に惜しい。[DVD(邦画)] 7点(2016-10-17 23:10:42)《改行有》

1109.  ソロモンの偽証 前篇・事件 子どもたちの「顔」が皆良い映画だった。 こういう演技経験の浅い若い俳優たちが主要人物となる映画においてもっとも重要な事は、特別な演技の巧さでもなければ、リアルな実在感などでもなく、彼ら一人一人の顔つきだと思う。 演技がヘタクソなのは当たり前、実際にこんな子どもたちがいないことも当たり前である。顔つき一つで映画としての見応えになり得るかどうか。 この映画において、それは最も重要な要素であり、見事にクリアしていると思う。制作陣が“クラスメイト”を集めるためのオーディションをどれだけ真剣に取り組んだかも明らかだ。 その中でも特に印象的だったのは、やはり主演を務めた藤野涼子だろう。 主人公名と同名で女優デビューを果たしたこの若い女優の存在感と、溢れ出る可能性が素晴らしかったと思う。これはまた磨きがいのある新たな原石が現れたものだと思う。 この宮部みゆき原作の映画化作品がどういう作品かというと、“血塗られた中学生日記”という言い方がしっくりくる。 冒頭のクラスメイトの転落死体発見から始まり、いじめられっ子の事故死と、分岐点となるトピックスは衝撃的だが、ストーリーテリングとしてはそれらを軸として、純真で無知で激情な中学生たちが、動揺し、葛藤し、意見を述べ合うという、かつてNHKで放送されていた「中学生日記」がありありと思い出された。 残酷で不可解なサスペンスを孕んではいるが、本質的にはオーソドックスな学園ドラマであり、家族ドラマであった。 その歪さが、良い意味で独特であり、大林宣彦を髣髴とさせる成島出の極端な演出方法も手伝って、想定外の見応えがあったと思う。 クラスメイトたちの死を立て続けに目の当たりにし、打ちひしがれた主人公は、自分自身を責め、最悪の決意に歩みかける。 ギリギリのところで思いとどまり、幼くも純粋な自身の「正義」にすがるようにして、進みだそうとする様はエモーショナルで、“若さ”の価値と熱量に溢れていた。 “犯人”を探し罰したいわけではなく、真実を突き止め、自分たちが抱える混乱を自分たち自身で収拾するために「裁判」を行う。 後編に繋がるそのくだりは、少年少女たちが越えるべき通過儀礼に対して覚悟を決めたようにも見え、サスペンスの真相解明そのものよりもずっと期待感に溢れた。[ブルーレイ(邦画)] 7点(2016-09-10 00:02:58)《改行有》

1110.  インビクタス/負けざる者たち 「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもの。 歴史上におけるトピックスと成り得る出来事は、往々にして、「創作」における「遠慮」を容易に飛び越えていく。 もしこの映画のストーリー展開が、完全なる創作だったとしたならば、「なんて安直で都合のいいストーリーだ」と批判は避けられないだろう。でも、事実なのだから、ストーリー展開そのものに対しては、批判のしようがないというものだ。 この映画は、二人のリーダーの話である。 一人は、ラグビー南アフリカ代表チーム“スプリングボクス”のキャプテンであったフランソワ・ピナール。そしてもう一人は、南アフリカ共和国という国そのものを率いたネルソン・マンデラ大統領その人だ。 特に際立っていたのは、モーガン・フリーマンが演じるネルソン・マンデラという「指導者」の、使命感と人生観だった。 27年間に及ぶ獄中生活を経てからの大統領就任。その初日の描写からこの映画は始まる。 当然あるはずの怒りや憎しみを抑えこみ、融和と寛容によって国家の混乱を治めようとする指導者の姿には、南アフリカ共和国にかぎらず、世界中総ての人々が教訓とすべき“在り方”が示されていたと思う。 そして、その偉大な指導者の人間性に触れ、国内において微妙な立ち位置の代表チームの主将として、「勝利」することの価値の大きさに共鳴していくフランソワ・ピナールの振る舞いが印象的だった。 偉大なリーダーの信念によって、人が、チームが、国が変わっていくということの本質を、この映画は伝えるのだと思う。 劇中、マンデラ大統領がこう言う。 「変わるべき時に私自身が変わられないなら、人々に変化を求められません」 必ずしもリーダーという立場にあろうがなかろうが、変わるべきは常に自分自身ということなのだろう。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2016-09-04 18:49:16)(良:1票) 《改行有》

1111.  インデペンデンス・デイ: リサージェンス 大味である。真っ当なオトナが観る映画としては、馬鹿馬鹿しくて、粗いことは間違いない。 だがしかし、「そんなことどうでもいい!」と思えるくらいに、鑑賞中の多幸感が勝った。 それが、「ID4」の20年来の大ファンにとっての正直な気持ちである。 “あの独立記念日”を祝い、20年の歳月を経て、再び人類が滅ぶか否かの“独立記念日”を迎えた登場人物たちの「人生」そのものを思い、涙が出た。 誰がなんと言おうと、20年前の愛すべきSF超大作の、“愛すべき続編”だとまず断言したい。 何と言っても、20年前の独立記念日に世界を救った者たちの傍らに寄り添っていた子どもたちが、成長し、父親の後を継ぐかのうように世界を救うという、良い意味で恥も外聞もないベタな設定が「ID4」の大ファンとしてはたまらないのだ。 そう「ID4」という娯楽大作の最大の醍醐味は、そのベタさであり、王道っぷりであり、世界中の映画ファンが一度は憧れた「アメリカ万歳!」という精神なのだと思う。 前作が公開された1996年当時にして、「この映画は20世紀最後の幸福なアメリカ万歳映画」と評されていた。 それから20年、自身が巻き起こした世界の混迷とともに、かの超大国の世界的な権威は下降の一途を辿っている。 昨今の世界情勢を“普通”に捉えられている者ならば、冗談でも「アメリカ万歳!」などとは言えないのが実情である。 ただし、それは=それを決して言いたくないということではない。 世界中の多くの人たち、特にかつてアメリカという大国に対して何かしらの“憧れ”を抱いた人たちは、アメリカが再び真の意味で世界的な権威を取り戻すことを心の底では願っているのではないか。 ローランド・エメリッヒというドイツ人監督が生み出す超大作は、冒頭に記した通り、いつも大味で馬鹿馬鹿しいけれども、そういった拭い去れない“かつての憧れ”に対する思いが溢れている。 だから僕は、同じ思いを持つ者の一人として、この監督の作品を決して嫌いになれないのだとも思う。 1996年公開の前作も、大ヒット作品ではあるが、世間的には決して手放しで褒め称えられた作品ではなかった。 ただし、好きになった者の愛着の強さは、他のSF超大作に比べても類を見ないものだったと思う。 それはどうやら出演者たちにとっても同様だったようで、多くの主要キャストの続投に表れている。 “20年ぶりの続編”において、登場人物たちの再登場こそが、最大の娯楽性であることは間違いない。 ジェフ・ゴールドブラム、ビル・プルマンら主演キャストは勿論、ジャド・ハーシュやヴィヴィカ・A・フォックスら脇役陣もしっかり登場し、それぞれが、泣きどころ、笑いどころの見せ場を与えられていることが嬉しかった。 ウィル・スミスのキャスティングが叶わなかったことは残念だが、もはや大ハリウッドスターの彼が出演してしまうと、群像劇のバランスが崩れ、作品のテイスト自体に影響が出てしまっただろう。 彼が演じたヒラー大尉の成長した息子を主役級に配したことで、映画世界の中で世代が受け継がれていく様が鮮明になったとも思う。 受け継がれるといえば、ビル・プルマン演じるホイットモア元大統領の愛娘の凛々しく成長した姿も忘れてはならない。 前作での最大の落涙ポイントは、大統領夫人の死去シーンである。愛する妻を亡くし、悲しみの淵に沈みつつ、「ママは眠った」と幼い娘を抱き寄せるホイットモア大統領の姿は涙なしでは見られない。 そして、当時は母親の死を理解しきれない幼子だった娘が、今作において父の跡を継ぐようにパイロットとしてエイリアンに向かっていく様は、なんとも感慨深い。 一方でもっと登場させてほしかったキャラクターもいる。 前作において主役級の3人以上の“ヒーロー”であったケイス飛行士の子どもたちは、是非とも登場させて欲しかった。 またロバート・ロッジアが演じたグレイ将軍の登場シーンは嬉しかったが、それならばジェームズ・レブホーンが演じた途中解任された国防長官も1カットでもいいので登場させてあげてほしかったと思う。 そして、ヒロインの一人だったデヴィッドの奥さんは何処に行ってしまったのか……。 とかなんとかと、マニアックな“ほじくり”が尽きないのは、やはり僕自身がこの続編を充分に“堪能”したことの表れだと思う。 どうやら、今作の成功いかんで「3」の製作が決まるらしい。 今作のラストで触れられているように、今度は逃げるエイリアンの尻を追って更に馬鹿げた大風呂敷が広がっていくことは明らかなようだ。 仕方がない。大いに期待しよう。[映画館(字幕)] 7点(2016-07-18 19:19:48)(良:3票) 《改行有》

1112.  デッドプール 「反則技」というものは、“フツー”は非難の対象であろうが、同時に確固たる“エンターテイメント性”を孕んでいるものだ。悪役レスラーしかり、マラドーナの神の手しかり、人々は「反則」を非難しつつも、往々にしてそれに魅了される。 デッドプールというアメコミ映画におけるニューヒーローは、まさにそういう存在であろう。その存在性と魅力そのものが、きっぱり「反則」だと思う。 冒頭、タクシー移動をする“俺ちゃん”が、うっかりガムの食べかすを指につけてしまいそこかしこにこすりつけようとする。ふいに鑑賞者側にひょいっと腕を伸ばし、“存在しないことになっている”カメラのレンズにガムをこすりつける。これぞこの“赤マスク”に全身を包んだヒーローの最も特徴的な特殊能力「第四の壁の突破」である。 その後も赤マスクは、どんなに緊迫感が高まっている場面であっても構わず我々(鑑賞者)に向かって話しかけてくる。(最後の最後まで) 本来、こんなキャラクターが存在していいわけないのである。まさに反則。故に唯一無二に魅力的なのだ。 今回の映画化にあたっては、ここに至るまでの製作的な“文脈”にも注目したい。 文字通りの紆余曲折を経て待望のデッドプール役に“返り咲いた”主演俳優ライアン・レイノルズの執念が、このヒーロー映画にユニークな味わい深さを加味している。 何年も前からこのキャラクターを演じてみたいと切望し、「ウルヴァリン:X-MEN ZERO(2009)」で念願のデッドプール役を手に入れたはいいものの、用意されたキャラクターは原作とはあまりに乖離していたため酷評の的となってしまった。(今思い返してみたら、それでもレイノルズはいいパフォーマンスをしていたと思うけれど) その後も、「グリーン・ランタン」「R.I.P.D」とコミックヒーローを演じるがヒットには至らず嘲笑されるばかり。 そんなライアン・レイノルズのフィルモグラフィーは、「第四の壁の突破」という“メタ構造”がまかり通るこの映画において、格好のイジりネタであり、故に彼以上の適役はいないわけである。 絶え間ない軽口、飛び散る血しぶきと肉片、アメリカ的ジョークのオンパレードに仕上がっているこの映画化は、間違いなく大成功だろう。 ただし、だ。アチラの“馬鹿ウケ”は、イコール日本人の感覚では全面的に受け入れることが難しいということも事実。 愉快に笑えた映画ではあったが、諸手を上げて大はしゃぎとまではいかなかったことは否めない。 「X-MEN」シリーズはそれなりに成功を収めてはいるが、リブート版「ファンタスティック・フォー」の失敗も記憶に新しい20世紀フォックスでは、それほど莫大な予算組みが出来なかったのであろうことは、容易に想像できる。 “例の学園”に訪れたデッドプールが、二人だけしか登場しないX-MENに対して「予算がないのかな」と自虐するのだが、まさにその通りなのだろう。(せっかくネタにもしていたのだから、“スチュワートの方”のプロフェッサーXくらいはカメオ出演してほしかったな) そのせいもあってか、描き出される場面は非常にミニマムになっていて、ストーリーテリングにも広がりが無かった。 回想も織り交ぜながら、上手く「デッドプール誕生秘話」を描き出していたとは思うが、期待を膨らませて散々見てきた予告編から伝わってくるもの以上の物語性が無かったことは、少々残念だった。 とはいえ、「バットマンVSスーパーマン」「シビル・ウォー」と立て続けに公開され、「X-MEN アポカリプス」の公開も間近に控えるという、アメコミ映画ファンにとっては盛りだくさんすぎてオーバーヒートしそうな中で、今作が丁度いい潤滑油になったことは言うまでもなく、このニューヒーローの“独自性”が、群雄割拠のアメコミヒーロー映画界における“新ジャンル”になったことは間違いないと思う。 (レイノルズにとっては念願の)世界的大ヒットによって続編の製作は必至。次回はビッグバジェットも確保できるだろうから、より一層大々的に、馬鹿馬鹿しく、毒々しい“俺ちゃん”の活躍に期待大。[映画館(字幕)] 7点(2016-06-16 14:18:02)《改行有》

1113.  ジョン・ウィック 「容姿端麗」 それは映画スターにとっては最低条件とも言える素養の一つであるわけだが、そうであることが当たり前過ぎて、俳優としての評価においてしばしばないがしろにされがちだ。 その形容がもっともよく当てはまり、ハリウッドにおいて長くそれを担ってきた映画スター、それがキアヌ・リーヴスだと思う。 正直なところ、彼の出演作は当たり外れが激しく、そのビジュアル的な秀麗さのみが際立ってしまい、「キアヌ・リーヴスが格好いいだけの映画」という揶揄が生じる作品は数多い。 ただし、まず言及したいのは、「格好いいだけ」という感想を20年以上に渡って映画ファンに言わせているキアヌ・リーヴスという俳優の在り方は、圧倒的に正しいということだ。 キアヌ・リーヴスの出世作「スピード(1994)」から22年。彼はもう51歳である。 それでも尚、観客に「格好いい」という第一印象を持たせ続けていることは、スター俳優としての絶対的な資質と絶え間ぬ努力以外の何ものでもないと思う。 僕はただそれだけでも、この俳優は「エライ!」と思えるし、信頼できる。 主演俳優の世間的評価への不満が先行してしまったが、この最新作のキアヌ・リーヴスももはや当然のように格好良い。 今作においては、決して「キアヌ・リーヴスが格好いいだけ」の映画ではない。 アクション映画としての格好良さとユニークさ、そして主演俳優を筆頭としたつくり手の意欲に溢れている。 怒らせた相手(主人公)が殺人マシーンだった。というストーリー展開はこの近年特に多発されていて、ジャンル映画としての一つの流行りのようになっている。 今作についてもストーリー自体は、その流行りのままで、特別なオリジナリティがあるわけではない。 ただ主人公が織りなすアクション性には独創性があり、フィクショナルな映画世界にありながら圧倒的な説得力が備わっていた。 ありふれたストーリーテリングの中で、登場人物たちが生きる「世界」の設定の細やかな作りこみが、多くのこの手のジャンル映画とは一線を画する仕上がりを見せているのだと思う。 そして、何よりも、主演俳優の映画映えする類まれな風貌と、役づくりのための鍛錬が、「ジョン・ウィック」というニューヒーローを生み出したのだろう。 時折伝わってくる海外ゴシップで、一人寂しく路上で佇んでいたり、悪質なストーカー女による迷惑を被ったり、激太りしたりと、不憫な私生活の様を見聞きする限り、キアヌ・リーヴスという人は決して世渡り上手ではないのだろう。 でも、不器用ではあるが、映画人として誠実であることは、作品自体の善し悪しは別にして彼のフィルモグラフィーから伝わってくる。 そんな中でまさしく起死回生の一打となった「ジョン・ウィック」。続編の撮影も順調な様子。大いに期待したい。[ブルーレイ(字幕)] 7点(2016-05-03 21:52:53)《改行有》

1114.  シェフ 三ツ星フードトラック始めました ストーリーは非常にオーソドックス。王道的ではあるが、ひねりがないと言われれば否定は出来ない。 最近のコメディ映画としては珍しいくらいに、登場人物たちが揃いも揃って基本的には”いいやつ”であることも、“ど真ん中”過ぎて逆に戸惑うくらいだ。 映画としてのストーリーテリングのみを捉えれば、「凡庸」の一言でスルーされても致し方ない今作が、巷の好事家たちの目に止まった理由は、一にも二にもこの映画が製作された「文脈」に他ならない。 ジョン・ファブローという映画監督が、敢えて自らを主演に配して臨んだ意欲的な”小作”。 「アイアンマン3」の監督を降りて、この小さな映画を作り上げたこの映画監督のありのままの「生の声」が如実に表れている。 主人公のシェフが、雇い主の命に従い自分の意に反して送り出した料理が「大批判」を浴びる。 大いなる失望と憤慨と共にフラストレーションに苛まれる主人公。 その姿はまさに、「アイアンマン2」から「カウボーイ&エイリアン」と立て続けに批判を浴びたジョン・ファブロー監督自身の姿にピタリと重なる。 ここで重要なことは、ダスティン・ホフマンが演じる雇い主の考え方も、まったくもって間違ってはいないということだ。 店のオーナーである彼の立場からすれば、自分が雇っているシェフに対してあのような命令を下すことは、実は至極真っ当であるし、彼の言い分はつくづくごもっともである。 詰まるところ、この映画でジョン・ファブローが表したかったことは、自分の思い通りに創造できないことほどクリエイターにとって苦しいことはないということ。そして、その反面、“スポンサー”の意見は絶対であり、それを叶えた上で世の好評を得ることがプロフェッショナルの務めであるという、非常にやっかいな不文律だったのだと思う。 そういうことを踏まえると、この映画は、プロの映画監督である以上受け入れる他ない「批判」と「失敗」の反省を踏まえた上で、それでも行き場のないフラストレーションを吐き出すために、自らが用意した「井戸」だったのだと思う。 そんなジョン・ファブロー監督の最新作は、ディズニーが手掛ける娯楽大作「ジャングル・ブック」。 果たしてその出来栄えは。「文脈」の続きが気になる。[CS・衛星(字幕)] 7点(2016-04-16 23:59:20)《改行有》

1115.  映画 プリキュアオールスターズ みんなで歌う♪奇跡の魔法! 4歳の愛娘と連れ添ってのプリキュア映画鑑賞も今作で3度目。既に父娘の恒例行事になりつつあることが、嬉しい。 ただし、このTVアニメシリーズが“原則的”には幼女向け作品である以上、この映画体験の「回数」は限られている。 それはある意味刹那的であり、だからこそ何にも代え難い。 さて映画はというと、新シリーズ放映開始直後のこの季節恒例の“オールスター映画”である。新シリーズの主人公たちを主軸にして、過去シリーズのプリキュアたちが勢揃いする。 娘がプリキュアを見始めてまだ2年程度なので、当然ながら僕自身のプリキュア歴もまだまだ浅いのだが、作品を問わずこういう類いのカテゴリーを越えた仲間たちが勢揃いして戦う様に弱く、問答無用にアガってしまうタチなので、昨年のオールスター映画同様に存分に楽しめた。 特に今作は、作品自体もミュージカル映画として手の込んだ仕上がりを見せており、“美少女アクション✕ミュージカル”という「プリキュア」だからこそ成立するエンターテイメントを提供してくれていると思った。 さて、あと何回、愛娘は一緒にプリキュア映画を観てくれるだろうか。既に、欲求の発信者は娘から父親に切り替わってしまっている。 とりあえず、過去の映画作品もレンタルしてきて一緒に観ようかと思う。 あ、どうでもいいが、“ソルシエール”は“黒い時”の方がキュートだったね。[映画館(邦画)] 7点(2016-03-29 00:03:38)(良:1票) 《改行有》

1116.  ザ・ウォーク この映画で描き出される物語は、終始主人公の“一人語り”で綴られる。 稀代の曲芸師の或る偉業を文字通り映し出した今作において、その手法自体は別段珍しくもなく、むしろありきたりなものだろうけれど、つくり手には明確な狙いがあったと思う。 端的に言ってしまえば、それは「孤独感」を浮かび上がらせることだ。 野心溢れる“ワイヤー・ウォーカー(綱渡師)”として、必然的に独り一本の綱の上に立ち続けた男の拭い去れない“孤独”が、彼自身による“語り”に表れていた。 主人公は、時に意気揚々と自身が果たした偉大なる挑戦の成功と、それにより得られた栄光を語っているように見えるけれど、彼が最終的に得たものは、一本の綱の上に“残された者”の物悲しさのように感じられた。 当時世界一の高さを誇ったワールド・トレード・センターの2棟のビルの間で綱渡りをした男の話。 はじめ、それはあまりにシンプル過ぎる話のように思えた。 この映画の監督が巨匠ロバート・ゼメキスだと知った時は、少々ミスマッチのようにも感じた。 ただ、結果としては、この映画には巨匠が挑むに相応しいテーマ性が備わっていたと思う。 むしろ、ハリウッドが誇る巨匠を持ってしても、難しさが残った仕上がりに思えた。決して完成度の高い映画だと言い切ることはできず、作品として物足りなさは残る。 もしこの映画を破天荒な主人公による破天荒な挑戦を描いた活劇として、馬鹿正直に撮っていたならば、もっと単純に愉快痛快な映画に仕上がっていたことだろう。 ある種のケイパー物として娯楽性豊かに描き出すことは、ロバート・ゼメキスほどの手練であれば至極容易だったはずだ。 しかし、巨匠の意図は端から違っていたと思う。 主人公を慕って集まった“共犯者”たちとの関係性を敢えて深く描きすぎず、“チーム感”を抑えることで、映画としての高揚感を意図的に封じ込めているように見える。 そうすることで先に記した通り、主人公の孤独感や、己の野心に対しての狂気が際立って見えてくる。 ただそれ故に、いささかバランスの悪いまさに“綱渡り”のような作品に仕上がってしまっていることも否めない。 そして、この映画を単純明快な娯楽映画に仕上げることが許されなかった最たる理由は、言うまでもなく、この物語の「舞台」となった場所が辿った運命に他ならない。 かの場所での偉業を讃えられた主人公は、「永遠」の有効期限を持ったパスを手に入れる。しかし、それを使うための美しく素晴らしい場所そのものが、ある日突然に、無くなってしまった。 あの「9月11日」、稀代の綱渡師が受けた失望と絶望はいかばかりだったろうか。 自ら語り部として登場する主人公が、自身の挑戦についての発端と顛末をとうとうと語り尽くした場所は、ワールド・トレード・センターを背景にした“自由の女神像”のトーチの上である。 彼の心中には、フランスから渡り、己の勇気と野望と“自由”を表現した愛おしい場所すらも消し去ってしまった愚かな暴力に対する怒りと悲しみが満ち溢れいてることにはたと気づく。[映画館(字幕)] 7点(2016-02-11 00:15:21)《改行有》

1117.  ホビット/決戦のゆくえ 正月三が日の中日深夜に鑑賞。正月休みも残り1日となり、気負うことなく豪華絢爛な映画を観たい気分で鑑賞。そういう意味では是非はともかくとしてちょうどいい映画だった。 「ホビット」三部作の最終作。「ロード・オブ・ザ・リング」の前日譚として、前シリーズ同様にピーター・ジャクソンが全監督を務め上げただけあって、世界観の統一感は文句無しに保たれていて、その映像世界の作りこみは全作品通じて圧巻だったと思える。 ただし、当然ながら、もはやファンタジー映画史の頂点に君臨する作品である「ロード・オブ・ザ・リング」の物語性と比べると物足りなさは否めない。 「ロード・オブ・ザ・リング」の熱心なファンであれば、そのストーリー性により深みを与えるために“追加”された豪華なスピンオフとして、存分に楽しめる映画シリーズだったとは思うが、そうではない者にとっては、それなりに楽しめる反面、ストーリーの面白さに欠ける作品として映ってしまっただろう。 英国人俳優マーティン・フリーマンを主人公に配したことは大正解だったと思う。この俳優の持つ“謙虚な存在感”は、やはり特別なもので、“前日譚の主人公”であるビルボ・バキンズというキャラクターが持つ性質にとても合っていたと思う。 ともかく、全6作品に及ぶあまりに膨大な映画世界を描き切ったピーター・ジャクソンには敬意を表したい。[CS・衛星(字幕)] 7点(2016-01-06 15:34:30)(良:1票) 《改行有》

1118.  サボタージュ(2014) なんとも妙な映画だった。 どうやら撮影後に大幅なカット・編集を余儀なくされたようで、監督が想定していたストーリーテリングが出来なかったらしい。 ラストの顛末も大きく改変されたらしく、ストーリー的にはなんともちぐはぐで、サスペンスを主軸にしている以上、それが大きなマイナス要因になってしまっていることは否めない。 監督のデヴィッド・エアーにとっても、主演のアーノルド・シュワルツェネッガーにとっても、「不運」な映画になってしまっていることは間違いない。 ただし、だからと言ってこの映画、決して駄目な映画ではない。 手放しで「面白い!」と言える映画ではないけれど、随所に「面白味」はあり、「苦味」や「雑味」も含めて、特徴的な「味」は確実にある映画だと思える。 勿論、好き嫌いは大いにあるだろうけれど。 紛れも無い傑作になり得た可能性も大いに感じるからこそ、監督と主演俳優にとっては「不運」だったと思うのだ。 今作を語るにあたって特筆すべきは、結局のところ、アーノルド・シュワルツェネッガーだと思う。 往年の大アクションスターが、実人生での栄光と挫折を経て銀幕の世界に出戻ってきてはや数年。 復帰後の主演作品については、世間的に見ると賛否両論といったところのようだが、個人的には完全に“賛”に振れている。 当然ながら、アーノルド・シュワルツェネッガーにかつてのようなアクションスターとしての輝きは無い。風貌は完全に老いているし、若かりし頃の絶対的な無双感は消え去ってしまっている。 しかし、今のシュワルツネッガーには、それらの「喪失」を礎にした一俳優としての渋味が滲み出ている。 だから、映画自体の完成度の程度を度外視して、彼の存在性そのものに対してある種のエモーションを感じてしまう。 そして、その自らの現在の俳優としての在り方を的確に理解しているからこそ、復帰後のシュワルツネッガーの作品選びは、意外性がありつつも、決して間違ってはいないと思える。 今作の本来の結末は、もっと物語の性質に即したダークなものだったらしい。 主人公のキャラクター性とその到達点も、きっともっと限りなくブラックに近いグレーな色味を見せたに違いない。 それを演じきった“闇”にまみれたアーノルド・シュワルツェネッガーを観てみたかった。[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-12-06 22:46:17)《改行有》

1119.  フューリー(2014) 朝が来る。 朽ち果てた戦車と、そこで闘い果てた屍を越えて、兵たちは歩を進める。 まるで何もなかったかのような俯瞰で、残骸となった戦車を一つ残し、一つのストーリーが終わる。 「戦争」という、繰り返される人間の愚かな歴史の中で、同様のシーンが一体、幾千、幾万、繰り広げられてきたのだろうか。 その無残の極みの様に、胸が詰まる。 僕自身はミリタリー描写にそれほど熱い頓着が無いので、伝説的な戦車とその活躍の様を忠実に再現したという、この映画の触れ込みにもあまり興味を惹かれなかったことは否めない。 ただ、世の好事家たちはこぞって絶賛しているので、全編通して描き出される戦場シーンに一切の妥協はないのだろう。 冒頭に記した通り、戦争そのものに対する普遍的な無残さと、そこに携わった人間たちが抱える虚無感は、きちんと描かれている。 そして、ビジュアル的な説得力も充分に備わっている優れた戦争映画、なのだとは思う。 ただし、ひしひしと伝わってくる映画のクオリーティーの高さに反して、今ひとつ感情的に揺さぶられるものが少なかった。 ラストの決死戦などは、もっとエモーショナルな感覚を持ってしかるべきなのだと思うが、何となく淡々と観れてしまった。 人物描写の描き込みが希薄だったのか、そもそもミリタリー映画自体への愛着が薄いからか、単に精神的なタイミングが悪かっただけなのか。 この虚しさのような物足りになさに、戦争の空虚感を表現していたとしたら、それはそれで大したものだけれど。[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-11-01 00:26:37)《改行有》

1120.  オールド・ボーイ(2013) 2003年の韓国映画版が、世界的な評判に反してどうしようもなく受けつけられなかったことは、今でも“生々しく”覚えている。 「妥協のない凄まじい映画」だとは思ったが、それ以上に明確な嫌悪感が自分自身の価値観の中で際立ち、あまりに不快で救いがないラストの顛末に対して、ラストの主人公の心情とシンクロするように、嫌悪感を超えて反吐が出そうだった。 それなりに数多の映画を観てきているが、これほど明確に“嫌い”と言い切れる映画もなかなかなかった。 それ故に、このハリウッドリメイク版に対しても、高まる興味と相反して拒否感が先行してしまい、随分と遅れた鑑賞となってしまった。 結果としては、ストーリーに対する「嫌悪感」は、当然ながら韓国映画版と相違なかった。 だが、映画として同じように「嫌いか?」どうかと問われると、そうでもない。 むしろ、結構心に残る映画として鑑賞直後の心象が混乱とともに渦巻いている。 「衝撃的」とされる顛末を知っていたため、描き出される“禁忌”に対しての耐性はあったのかもしれない。 ただそれ以上に、韓国映画版に比べて随分と“受け入れられる”映画としてエンドロールを迎えたことが、不思議だった。 ストーリー展開自体は殆ど同じであるはずなのに、ちょっとした描かれ方の違いでこうも印象が変わるものなのか。 実際に何がどう違うのかということは、映画の詳細を忘れてしまっている韓国版を再度観直して検証したいものだが、こういう部分でも映画というものはつくづく奥深いものだと思える。 韓国映画版ではあまりに救いのない物語性に対して、テーマ的にも、登場人物の行動原理的にも、“アンフェア”に感じずにはいられなかったことが、嫌悪感の最たる要因だった。 ただこのリメイク作においては、同じラストの顛末において一抹の救いを感じることができた。 主人公が実は背負っていた罪と、その代償として背負わされた罪。 それが符号するとは決して思えないけれど、復讐する者と復讐される者それぞれの行動原理は理解できるような気がした。 それは、この映画における登場人物たちの描き出され方が“フェア”だったからに他ならない。 繰り返しになるが、今一度傑作とされる韓国映画版を再鑑賞して、両作品の真価を見極めたいと思う。[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-10-08 23:09:32)《改行有》

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