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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2020年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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121.  ONE PIECE FILM RED 《ネタバレ》 「ONE PIECE」の映画作品の鑑賞は、「STRONG WORLD」、「FILM Z」に続いて3作目。 原作漫画ファンなので、アニメシリーズは殆ど見ておらず、映画作品も公開時に評判の良かった前述の2作品を観たきりだった。 ただ、今年になって小2の息子がアニメに夢中になっており、シーズン1から延々と観続けている。 そんなこともあり、夏休みどこにも行けず暇を持て余していた子どもたちを連れて、4DXで観てきた。 本作のテーマは、「歌」を通じた「自由」という渇望とその危うさ。 「自由」とは何か? 抑圧や支配、苦しみや悲しみを安直に拒否し、それらが皆無の限られた世界に閉じ籠もることは、果たして自由か。 自由の渇望とは実はとても曖昧な概念であり、それを悪意はなくとも浅く捉えてしまったとき、自由の追求そのものが独善的な狂気になり得るということ。 これは決して大仰なテーマではなく、僕たちの普通の生活や人生の中でも、往々にして起こることだと思う。 歌手のAdoを歌唱パフォーマンスにキャスティングし、ほぼアテ書きのと思われる「UTA」というオリジナルキャラクターを造形することで、歌い手のパフォーマンスに振り切り、そういうテーマの浮き彫りに絞ったストーリーテリングは好感が持てた。 そのテーマとストーリーは、Adoを世に出したヒット曲「うっせぇわ」のセルフアンサーのようにも感じ、作品としての立体感につながっていたと思う。 オリジナルストーリーの映画であるがゆえに、キャラクター設定やストーリー展開の強引さはある。 避けられない不運が重なったとはいえ、シャンクスが娘同然の少女を十数年も放置していたことには違和感があるし、それによってウタが辿った運命は悲痛すぎる。(そのあたりについては、せめて連載漫画の扉絵シリーズなどでフォローしてほしい) とはいえ、25年に渡って「ONE PIECE」を読み続けているファンとしては、ほぼ初披露と思われるシャンクスをはじめとする赤髪海賊団の面々のバトルシーンと、従来の敵味方が入り混じった“ドリームチーム”に、想像以上に興奮した。(まさかブルーノが萌キャラとして登場するとはな)[映画館(邦画)] 6点(2022-08-12 22:29:04)《改行有》

122.  フリー・ガイ ゲーム(仮想現実)の世界を“救世主”が救う。 そのプロットは、この20年程の間で数々の映画で何度も描き出されてきた。 「マトリックス」を皮切りに、「シュガー・ラッシュ」、「LEGO® ムービー」、そして「レディ・プレイヤー1」に至るまで、主人公たちは広大で果てしないゲームの世界を縦横無尽に巡り、その世界の真理を見出していく。 そしてその救世主となる主人公たちに共通していること。それは、彼らがゲームの中の小さなプログラムの一つ、詰まるところの“モブキャラ”に過ぎない存在だったということだ。 泡沫のプログラムが、世界を構築する巨大なプログラムを“書き換え”影響を及ぼしていく。 それは、一つ一つの小さな生命が蠢き、社会を構築するこの現実(リアル)世界にも直結する要素であり、そこに人々は熱くなるのだろう。 僕自身も含め、世界中の殆どすべての人間たちが、社会という巨大なプログラムの歯車の一つである以上、プログラムの反抗というプロットに熱狂せずにはいられないのだと思う。 そしてここに、“熱狂”不可避の新たな“救世主”が誕生した。 ゲームの中のモブキャラがヒーローになるというストーリーテリングは、「マトリックス」から20数年が経過した現在においては、もはやベタベタであるが、だからこそ娯楽映画としての安定感は保証されているとも言える。 更には、主人公を演じるのがライアン・レイノルズとくれば、このニューヒーローが幾つもの「見えない壁」を越えてくれることは折り紙付きであり、そういう娯楽映画の文脈を踏まえたメタ要素も含めて楽しい映画だった。 ただ、ディズニー資本の影響からか、良い意味でも悪い意味でも毒っ気がないことも否めない。ライアン・レイノルズ主演のコメディ映画なのだから、もっと風刺的な要素も欲しかったところだ。 ベタなストーリーの王道は良しとしても、「想定の範囲」から少しも脱線することが無いので、一定以上の高揚感には欠けたと思う。 そういえば、正規プログラムのヒーロー役にチャニング・テイタムがキャスティングされていが、冒頭シーン以降登場しなかったのは残念。終盤もう少し上手い使い方があったのではないかな。[インターネット(字幕)] 6点(2022-01-30 01:57:38)《改行有》

123.  ワイルド・スピード/ジェットブレイク 「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」という邦題だとつい忘れがちになってしまうが、「Fast & Furious 9」という原題を見ると“第9作目”という事実に少々唖然としてしまう。 「007」のようにキャストが刷新されたり、「スター・ウォーズ」のように章立てられた物語が時代を跨いで続いているシリーズは思いつくが、単一の時系列の中でほぼ同じ主要キャストによってシリーズ作が作り続けられているハリウッド大作が他にあるだろうか。 無論、人気のない作品がこれほどシリーズ作を積み重ねられるわけもなく、紆余曲折を経ているとはいえ、世界中から愛されている映画であることは、先ず称賛されるべきだと思える。 かくいう自分自身も、この娯楽大作シリーズを愛するファンの一人であり、最新作を楽しみにし続けている。 ファンとして敢えて断言するが、9作目にして完全なる「バカ映画」が爆誕している!と思う。 いや、とうの昔からバカ映画シリーズなんだけれども、本作はいよいよそのバカさ加減のメーターが振り切っている。 ストーリー展開や、物語のおける過去作との整合性云々は、もはや突っ込みだしたら泥沼にハマってしまうのでやめておこう。 そんなことよりも、味方のキャラクターが生身でどんなに吹き飛ばされても車のボンネットや天井で受け止めたら無傷で済むという謎ルールや、世界各国の路駐されている車はすべて無人で破壊し放題という治外法権ぶりや、宇宙航行を可能にする車体の超科学的頑丈さ等々を、「磁力最強!カッケー!」言いながら馬鹿になって楽しむべきだ。 そして、世界中の映画ファンが悲しみと共に納得し、諦めているのに、それでも彼の名前を呼び、彼の“席”を空け、彼を生き続けさせるこの映画のあまりにも熱い「家族愛」を見せつけられては、どんなにバカ映画の連作となろうとも、僕はこの映画シリーズを愛さずにはいられない。[インターネット(字幕)] 6点(2021-12-30 00:35:31)(良:1票) 《改行有》

124.  クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園 子どもたちの夏休み真っ只中、例によってコロナ禍の影響で“春休み公開”から順延になった“クレしん”映画最新作を我が子らと共に鑑賞。 今作のテーマはずばり「青春」と「エリート」、シリーズ初の“学園ミステリー”なストーリーテリングの中で、“クレしん”らしいおバカなコメディと、時にハッとしたり、グッとくる展開が用意されていた。 元来エリート志向の強い風間くんに誘われて、かすかべ防衛隊の面々が、最新鋭の超エリート学園に体験入学する。 過剰にオートメーション化された評価システムに支配された学園を舞台にしたハチャメチャな展開は、クレしん映画らしく楽しい。 体験入学する冒頭シーンなどは、大晦日のバラエティ番組の定番「笑ってはいけないシリーズ」まんまであり、映画らしい大冒険展開は無い。ストーリー的にはとても小規模であり、多少話運びは雑多で稚拙だったけれど、ミニマムなコメディに振り切っていたとは思う。 ただそんな小規模なストーリー展開の中でも、“エリート”の育成に固執するあまりに闇と悲劇を生み出しかねない現代社会の縮図のような学園模様が描き出されていた。 そのあたりは、2018年の「爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜」でも、かすかべ防衛隊の活躍を主体にして「正義」を掲げることの功罪を深く浮き彫りにした、高橋渉監督+うえのきみこ脚本のコンビネーションが、今作でも発揮されていたと思う。 “エリート”という言葉に縛り付けられることで、子どもたちも、大人たちも見失ってしまったものは何なのか、その功罪を表しつつも、それでも風間くんがエリートを目指し続けること自体は否定せず、尊重する帰着が、実にクレしん映画らしく好感が持てた。 そして、その中であわせて描かれる「青春」というもののキラメキ。 形の無いものに憧れ、悩み、苦しみ、だからこそ光り輝く若者たちの姿は、ベタベタではあったけれど、ストレートに感動した。 まだまだ無限の可能性を持つ自分の子どもたちを横目にしながら、願わくばきらめく青春の日々を送ってほしいと強く思った。[映画館(邦画)] 6点(2021-08-10 23:23:40)《改行有》

125.  ブラック・ウィドウ(2020) 兎にも角にも、まずは、「おかえり、ナターシャ」と心の中で唱えずにはいられない。 コロナ禍の影響も重なり、実に2年ぶりのMCU映画の劇場鑑賞。 スクリーンに映し出される「MARVEL」のお決まりのオープニングクレジットを目の当たりにした瞬間、高揚感が一気に高まり、思っていた以上に自分がMCUの新作映画を“欲していたこと”を痛感した。 正直なところ、その高揚感を感じつつ、MCU“フェーズ4”の幕開けを迎えられただけで、一定の満足感は得られたことは否定できない。 このブラック・ウィドウ単独主役作品を、ドラマシリーズとしてではなく単体映画作品として製作し、コロナ禍により数々の映画作品が劇場公開を諦めネット配信に切り替わっていく中においても、何とか劇場公開(+プレミア配信)にこぎつけたのは、何と言ってもブラック・ウィドウ(a.k.a ナターシャ・ロマノフ)というキャラクターのMCUシリーズを通じた貢献度の高さと、演じたスカーレット・ヨハンソンに対するリスペクト故だろう。 MCUシリーズ作の中で都度垣間見えたブラック・ウィドウの過去を踏まえると、彼女を主役にした単独映画が、シリアスな女性スパイ映画になるであろうことは想像に難くなかった。 壮絶かつ残酷な生い立ちや、スパイとしての成長描写を踏みつつ、スタイリッシュなスパイ・アクションを期待していた。 結果的に、その想像と期待は、半分当たり、半分外れたと言える。 まず意外だったのは、思ったよりもコメディ演出が多かったことだ。 主人公のナターシャも、フローレンス・ピュー演じる“妹”のエレーナも、そのあまりにも非人道的な生い立ちに反比例するかのように、自らの半生をシニカルに半笑いで語る。 そして、こちらも壮絶な人生観と業を孕んでいるはずの、“父”と“母”のキャラクター性も、どこか間が抜けていて、思わず吹き出してしまうシーンが多々あった。 その映画的テイストは、近年各国の映画作品で表現されている女性スパイ映画の悲愴や苛烈さというよりも、ずばりスパイ映画の王道である「007」シリーズの系譜だった。 MCUの中で描き出される女性スパイ映画として、そのバランス感は結果的に適していたと思う。 スパイ映画としての娯楽の本流を貫きつつも、現代的な問題意識を根底に敷き詰めたストーリーテリングに対しては、「流石MCU」の一言に尽きる。 ただし、だ。 今作を、MCUの大河の中で、アベンジャーズの面々の中でも常に中心に存在し続けたナターシャ・ロナマノフ(=ブラック・ウィドウ)の映画であることを捉えると、どうしても腑に落ちない要素も大きい。 最も納得できないのは、「インフィニティ・ウォー」の後、「エンドゲーム」冒頭の彼女の孤独感についてだ。 サノスに敗れ去り、完全に崩壊したアベンジャーズが、彼女にとっての“唯一の家族”だとナターシャは孤独感に苛まれつつも、光の見えない可能性を模索していた。 でも、今作の結末を踏まえると、彼女には“もう一つの家族”が確実に存在していたことになり、「エンドゲーム」の冒頭で描かれていた孤独感が揺らいでしまう。 サノスの“指パッチン”により、実は存在していた「家族」たちも同時に失ったという風にも捉えられるかもしれないが、どうしても後付感が拭えない。 要は、今作の結末が、ちょっと“ハッピーエンド”過ぎるのではないかと思うのだ。 今作は、主人公が過去に失った「疑似家族」と再び巡り合うと同時に、そこの孕む罪と罰と向き合い、贖罪を誓う物語であるはずだ。 であるならば、その業を背負った“家族”全員が結果的に無事に存在し続けるというのは、少々都合が良すぎるのではないかと思えてしまう。 特に、“父”と“母”は、どう取り繕ったとしても“悪”の根幹を担っていたことは否定できない事実であり、何かしらの「禊」が描き出されて然るべきだったのではないか。 今作の結末で、その然るべき“悲しみ”を背負っていたのならば、ナターシャの「インフィニティ・ウォー」に臨む悲壮感も、「エンドゲーム」おける孤独感も、もっと説得力のあるものとして高まったと思う。 とはいえ、冒頭にも記したとおり、ブラック・ウィドウの最後の勇姿をしっかりとスクリーンで堪能できたことは満足だ。 どうやらこれで完全にスカーレット・ヨハンソンはMCU卒業ということのようなので、トニー・スターク同様に、ナターシャ・ロマノフにもこの言葉を捧げたい。 Thank you Natasha,3000[映画館(字幕)] 6点(2021-07-15 23:49:13)(良:1票) 《改行有》

126.  劇場版ポケットモンスター ココ 息子があと1ヶ月ほどで小学生になる。 休日は自宅でアニメを観るのが好きで、一丁前にAmazon Prime VideoやNetflixを駆使して、TVアニメやアニメ映画を延々と観ている(ただの出不精のような気もするが……)。 世の中のトレンドの例に漏れず「鬼滅の刃」の熱狂が一段落した後、このところは「ポケットモンスター」に、姉(9歳)と共にご執心だ。 そんな息子を隣に、僕自身初めて“ポケモン映画”を劇場鑑賞した。 “ポケモン”自体、もはや歴史の長いエンターテイメントなので、僕自身ギリギリ触れていてもおかしくはない世代ではあるが、ゲーム、アニメとも殆ど接した機会がなく、完全なる無頼漢だった。 現在放送中のアニメシリーズ最新版を子どもたちが熱心に観るようになって、ようやく“ピカチュウ”以外のモンスターたちの固有名詞を幾つか覚えた程度である。 そんなわけで、僕自身は“ポケモン”自体にさほど興味があるわけではないのだが、今作は、プロモーションを見る限り、シリーズの大筋のストーリーラインとは少し独立した物語のようであり、紛れもなく親子の物語を描いていることは明らかだったので、せっかくだし子どもたちと一緒に観てみたいと思った。 そして映画は、想像通り、てらいなくあまりにもド直球な“親子”の物語を描いていた。 そこにストーリー的な工夫や、目新しい踏み込みはほぼ無く、話の筋としては王道であり、ベタベタであったと言えよう。 映画ファンとして、「面白かった!」と言える作品ではないかも知れない。だがしかし、だ。 愛情とそれ故の対立。尊敬と敬愛。そして、旅立ち(巣立ち)。 父と息子、その普遍的なストーリーを、己の息子と共に目の当たりにして、涙せずにはいられなかった。 またアニメーションとしてのクオリティは想像していたよりもずっと高品質で、木漏れ日や、水しぶきや、空気の揺れに至るまで、ジャングルを舞台にした映画世界を見事に表現していたと思う。 この映画に登場する「父親」と同じく、僕自身、まだまだ本当に父親になりきれているのかは甚だ疑問だし、不安に思うことも多い。 おそらく、この思いは僕が父親であり続ける限りずうっと存在するものなのかもしれないし、子に限らず、親も様々な状況からの巣立ちを重ねて成長していくものなのかもしれない。[映画館(邦画)] 6点(2021-03-04 12:55:16)《改行有》

127.  #生きている ホラー映画は苦手だが、アクション性の高い“ゾンビ映画”であれば何とか見られる怖がり映画ファンにとっては、程よく恐ろしく、程よくエキサイティングな映画だった。 韓国映画とゾンビ映画の相性の良さは、昨年鑑賞した「新感染 ファイナル・エクスプレス」でも確認済みだったので、一定のクオリティは期待でき、実際そつなく仕上がっているし、終始ドキドキ、ハラハラしながら鑑賞することはできた。 主人公の設定が、団地に住みオンラインゲームに熱中する男子高校生ということは、韓国の現代の社会性をストーリーの中に反映する上で、効果的だったと思う。 舞台設定を主人公が済む団地の室内及び敷地内に限定して最後まで描き切ったことも、過剰なスペクタクル演出に頼らずに、突如として日常生活が一変したパニックを描き出すことができた要因だろう。 また、今年(2020年)に公開された映画に相応しく、“コロナ禍”による今現在進行中の「混乱」や「制限」を風刺する描写もあり、この映画がこの年に製作され、劇場公開中止の憂き目にあいつつも、Netflix配信で何とか世界配信に至ったことには意義があったと思う。 ただ、その一方で、タイムリーな題材、フレッシュな設定に対して、もう一歩、二歩、踏み込みが足りなかったとも思う。 アプローチこそ新しかったが、描き出されたストーリー展開や、その帰着は、あまりにもオーソドックスなものであり、ホラー映画としても、ゾンビ映画としても、サバイバル映画としても、捻りが足りないなと思ってしまった。 安易などんでん返しというようなことではなく、何かハッとさせられるラストの顛末が見たかったなと思う。 まあそれは、韓国映画の“土壌”が豊かであることをよく知っているからこその贅沢な注文なのだろうけれど。[インターネット(字幕)] 6点(2020-12-19 22:11:48)《改行有》

128.  ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey 2016年の「スーサイド・スクワッド」は、その年の期待値No.1クラスのエンターテイメント大作だったけれど、率直な感想としては、「“ハーレイ・クイン”に扮したマーゴット・ロビーがサイコーなだけの映画」であり、もし彼女の存在が無かったとしたら年間ワースト級の作品として記憶されていたに違いない映画だった。 恐らくその感想は、世界中の多くの映画ファンにとっての共通認識だったようで、映画作品としての失敗をよそに、割と早い段階で、“ハーレイ・クイン”の単独映画の企画は持ち上がっていたような気がする。 そういうわけで、今作に至っては、問答無用に「ハーレイ・クインがワルくて、カワイイだけでサイコー!」な映画になるはずだった。 そして、概ね、そのような映画に仕上がっているとは思う。 映画の鑑賞中は、作品の主人公らしく終始大立ち回りを繰り広げる我らがダークヒロインの活躍を楽しく見ることができた。 ただ、エンドロールを終えて芽生えていた感情は、一抹の物足りなさだった。いや、一抹では足りないかもしれない。時間が経つほどに、二抹も、三抹も、“求めていたもの”との乖離に気づき、不満として膨らんでいる。 ある程度時間が経ち、冷静になってみると、不満の出どころは明確だった。 詰まるところ、前作「スーサイド・スクワッド」に登場した“ハーレイ・クイン”と比較して、今回の彼女はその“悪辣さ”がまったくもって希薄になってしまっている。 前作のハーレイ・クインは、もっと悪く、もっとイカれていて、だからこそそこに同居する文字通り悪魔的なキュートさが堪らなかった。 そもそもが「バットマン」に登場するヴィランズの一人であるわけだから、悪くてナンボ、イカれててナンボのキャラクターだろう。 しかし、今作では主人公らしく振る舞いすぎており、彼女の感情が露わになるほど、その魅力が半減していくように感じた。 いくら原作アメコミとは一線を画する単独のスピンオフ映画だとはいえ、キャラクターとしての性質そのものがブレ過ぎだったのではないかと思う。 ただ、彼女がそういう“らしくない”キャラクターに陥ってしまった理由も至極簡単で明らかだ。 ずばり、“ジョーカー”との破局により、恋狂う対象が不在だったことにほかならない。 “ハーレイ・クイン”というキャラクターは、立ち位置が悪役だろうが、正義の味方だろうが、主人公であろうが、先ず第一に悪のプリンス“ジョーカー”に恋し、狂っていなければ、成立しないのだ。 もしこのスピンオフ映画の企画において、昨今の映画のストーリーテリングにおける一つの潮流とも言える、独立した女性像、男に媚びない女性像、そういう類のテーマを定型的に掲げていたのだとしたら、それはお門違いで、ナンセンスだったと思う。 たとえディズニーのプリンセス映画が、「王子様不要!」「ありのままで!」と力強く氷の牙城を建てたとしても、ハーレイ・クインだけは、誰に馬鹿だと言われようと、誰に愚かなだと言われようとも、ひたすらに恋に溺れ、乱れ、破滅的に暴れまわり、ひたすらに“王子様”の愛を求める。 それこそが、僕たちが彼女に求めた「娯楽」だったのではないかと思う。 「恋愛至上主義」という生き方が小馬鹿にされる時代だからこそ、悪も正義もないがしろにして、只々惚れた男のためにバットを振り回す姿を見たかったなと。 来年(2021年)公開予定のリブート版「ザ・スーサイド・スクワッド」においても、マーゴット・ロビーは“ハーレイ・クイン”役として続投が決定しているとのこと。そして監督はジェームズ・ガン! 過剰に品行方正を求めるちょっと窮屈な時代だからこそ、ぶっ飛んだダークコメディ、そして、また悪魔的に魅力的なハーレイ・クインを観たい。[インターネット(字幕)] 6点(2020-12-06 00:30:14)(良:1票) 《改行有》

129.  僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46 《ネタバレ》 まず率直に感じたことは、良い悪いは別にして、彼女たちの“本音”が表れている映画ではなかったなということ。 「嘘と真実」というタイトルが表していたものは、秘められていたコトがこのドキュメンタリーでつまびらかにされるということではなく、この映画で語られる言葉そのものが、「真実」でもあり「嘘」でもあるということだったのではないかと思う。 彼女たちが発する「言葉」は、今まで数々のメディアで発信されてきたものと同様に、やはりどこか拙く、意識的にも、無意識的にも、本当のコトを吐き出しきれていない印象を覚えた。 それに相反するように、劇中で映し出される数々のライブパフォーマンスでは、彼女たちの内情が激しく吐き出されているように見えた。 そして、気付く。この映画のタイトルが「僕たちの嘘と真実」であるということの意味に。 “私たち”ではなく、“僕たち”である。 即ち、このドキュメンタリー映画で映し出されているもの、または映し出そうとしたものは、「欅坂46」というアイドルグループを構成する“彼女たち”のありのままの姿などではなく、彼女たちが作品の中で表現してきた「主人公=“僕”」の真の姿だった。 平手友梨奈というカリスマを象徴的に中心に据え、「欅坂46」という群れが一体となって作品の中で体現し続けてきた「僕」。 作品に登場する「僕」とは、どのような存在だったのか? 彼女たちにとって「僕」とは、どのような存在だったのか? この映画が突き詰めようとしたことは、そういうことだったのだ。 メンバーたちの虚空を掴むようなどこかぼやけた言葉の理由も、ライブパフォーマンス描写の中でのみくっきりと浮かび上がってくる輪郭も、その対象が「僕」であったことを踏まえると途端に腑に落ちる。 ただ、そこに「意味」はあっただろうか。 少なくとも、この“終幕”のタイミングで遂に公開されたドキュメンタリー映画として、このアプローチが意義深いものだったとは思えなかった。 なぜなら、多くのファンにとってこの映画で伝えられたことは、既に理解しつくしているコトだったからだ。 作品の中に登場する「僕」の存在性と、彼が内包する葛藤と矛盾、それらすべてを体現する平手友梨奈の苦悩、そして「欅坂46」との関係性。 それらは、「欅坂46」の作品やパフォーマンスを通じて、表現され続け、伝えられ続けてきたものであり、もはや概念的なものである。 5年という年月の中で、「欅坂46」が作品を通して表現し創造してきた概念。 ファンの一人一人がそれぞれに受け取り、理解してきたその真理を、敢えてドキュメンタリー映画の中で伝える必要があっただろうか。 それは、彼女たちが文字通り魂をすり減らして生み出してきた作品の世界観と、それに共鳴してきたファンの心情を侵害するものではなかったか。 ならばドキュメンタリー映画なんて観なければいいと言われそうだが、それも少し違う。 個人的に、このドキュメンタリー映画で観たかったものは、やはり、「欅坂46」というアイドルグループを表現してきた彼女たち一人一人の「声」であり、人間としての「姿」だった。 卒業・脱退メンバーも含めて、彼女たちのこの5年間における表立っていない「声」や「姿」をもっと反映してほしかったと思う。 無論、そうしたからと言って、彼女たちの“本音”のすべてが聞こえるとは思わない。 それでも、「黒い羊」のMV撮影終わりに、他のメンバーと乖離するように一人立ち尽くす鈴本美愉しかり、インタビュー中「ここでは話せない」と吐露する小林由依しかり、センターに君臨する平手友梨奈のカリスマ性を嫉妬と敬意をにじませながらじっと見つめる今泉佑唯しかり、表現しきれていない彼女たちの何かしらの思いは、今作の端々からも伝わってくる。 ファンが欲したのは、「僕たちの嘘と真実」ではなく、「私たちの嘘と真実」だったと思うのだ。 このドキュメンタリー映画鑑賞後の数日間、複雑な感情が入り混じりながら、「欅坂46」の5年間に思いを巡らせた。 「発信力」という観点に絞るなら、良い意味でも、悪い意味でも、彼女たちは作品を通じた“パフォーマンス”がすべてだった。 そのことがアイドルグループとしての“ひずみ”や“鬱積”、そして危ういバランスに繋がっていったことは否めない。 それは、類まれな才能に酔ってしまい、「運営」としてコントロールすることを放棄した大人たちの責任でもあろうし、一つのイメージから殻を破ることが出来なかった彼女たち自身の責任でもあろう。 ただ、その危うい偏りが、あのエモーショナルを生んだのであれば、それは圧倒的に正しいことであり、やっぱり「正義」だったと思うのだ。[映画館(邦画)] 6点(2020-09-06 23:54:09)《改行有》

130.  劇場版 からかい上手の高木さん 「からかい上手の高木さん」は、原作を長らく漫画アプリで無料で読んでいたのだけれど、四十路を超えた立派なおじさんである私は、次第に二人が織りなす甘酸っぱさと眩しさにたまらなくなってしまい、先日ついに単行本を購入し始めた。 動画配信サービスでも観られるTVアニメシリーズも気になってはいたのだけれど、アニメシリーズを観る習慣があまりないので、スルーしてしまっていた。 この劇場版で同作のアニメーションを初めて観て、瑞々しい二人の日常がアニメで観られる事自体は嬉しかったけれど、世界観の性質上、やはり長編作品には向いていないかもなという印象を覚えた。 原作自体がショートストーリーの連作なので、やっぱりアニメシリーズで展開される方が適していたのだろう。 授業中に教師の目を盗んでコソコソとするやり取り、放課後に一緒に帰る時間、休みの日に偶然出会った束の間、そんな短くて他愛もないささやかな“時間”を、丁寧に描き、連ねているからこそ、原作漫画は、何にも代え難い“価値”を創出しているのだと思う。 私自身の中学生時代に、彼らのようなキュートな記憶は無いはずだけれど、それでも遥か遠くに過ぎ去った大切な時間に思いをめぐらし、高木さんの“からかい”に対して西片目線でドギマギするのも悪くない。[インターネット(邦画)] 5点(2024-04-28 23:39:41)《改行有》

131.  アクアマン/失われた王国 前作「アクアマン」は、アメコミヒーロー映画史上においても屈指の傑作であり、最高の娯楽映画だった。MCU隆盛の最中にあって、DCEU(DCエクステンデット・ユニバース)の“反撃”として、「ワンダーウーマン」に続く強烈な一撃だった。 が、残念ながらDCEUは結果的には方向性が定まらず、実質的には本作が同ユニバースとしては最終作となってしまうようだ。 確かに、MCUもとい“アベンジャーズ”の強固な結束力と比較すると、“ジャスティス・リーグ”の面々をはじめとするDCEUのヒーローたちは、個性的過ぎてまとまりに欠けていたことは否めない。ただ、超個性派集団であったことが、時に独創的で娯楽性が溢れ出る作品を生み出していたことも事実であり、彼らの活躍がもう観られないのは、やはり悲しい。 そして、当の本作も、DCEUという沈みゆく船の最終作からなのか、一作目と比べると様々な要素でレベルが低下してしまっていることは否定できなかった。 個人的に最も期待外れだったのは、海中シーンが前作よりも大幅に減っているように感じたこと。前作において白眉だったのは、やはり何と言ってもイマジネーション溢れる海底世界のビジュアルと、そこで繰り広げられる文字通り縦横無尽のアクションシーンだった。ジェームズ・ワン監督が描き出した豪胆かつ繊細な海中アクションは、IMAX3Dとの相性も極めて高く、極上の映画鑑賞体験をもたらせてくれた。 なのに本作では、その肝心の海中シーンが少なく、主要なアクションシーンの殆どが“陸上”で繰り広げられる。前作ではヴィランだった弟オームとのバディシーンを描くに当たっても、同じ海底人同士として海中アクションの妙をもっと追求すべきだったろうと思うし、“血”を受け継いだ赤ん坊の息子にも海中で何かしらの力を発揮させる様を見せるべきだったろう(クジラの大群を呼び寄せるのは息子でも良かったのでは?) 勿論、ストーリー的にも、完全に「マイティー・ソー」の二番煎じだとか、「ブラック・パンサー」の流用と感じる展開は随所に見受けられるし、「失われた王国」というサブタイトルや設定自体が、数多のヒーロー映画やファンタジー映画で使い古された要素だとは思う。 でもそれらは、相互に“真似”をしあいながらヒーローキャラクターや世界観の創造を競ってきたDCコミックとマーベルコミックの歴史を振り返れば、ある意味必然的なことだとも思うし、ストーリーがありきたりであっても面白いヒーロー映画は沢山ある。ことヒーロー映画においては、「王道」と「ベタ」は紙一重だろう。 本作においても、ジェイソン・モモア演じるアクアマンのキャラクター性や魅力は健在だったと思う。パトリック・ウィルソン演じる弟オームとの絡みも、まんま“ソーとロキ”ではあったけれど楽しかったので良いと思う。 結局は、前作と比較してケレン味のあるアクションシーンを再構築しきれなかったことが致命的な敗因だった。実情はよくわからないけれど、製作費不足、リソース不足は明らかだろう。 兎にも角にも、これでDCEUは終焉し、ジェームズ・ガン主導による新たなユニバースへとリブートされる。その中に、ジェイソン・モモアのアクアマンや、ガル・ガドットのワンダーウーマンが、再登場しないのはあまりにも残念すぎる。どうにかジェームズ・ガンによる「救済」を期待したい。[映画館(字幕)] 5点(2024-01-17 20:51:05)《改行有》

132.  FALL/フォール 「高所」という原始的恐怖心にひたすらにフォーカスして、極めてスリリングなスリラーアクションとして仕上げたこのジャンル映画の“立ち位置”は正しい。もし劇場で本作を観られたならば、その恐怖心は最大限に増幅されていたことだろう。 まず舞台となる600メートル超の鉄塔(テレビ塔)の存在感が良い。 荒野の真ん中でひょろりと伸びるその風貌は、あまりにも現実離れしていて、いい意味で馬鹿馬鹿しくもあり、それでいて恐怖の象徴として明確な説得力も孕んでいた。 その常軌を逸した鉄塔のビジュアルと、そこで繰り広げられるサバイバルを、低予算ながらもとても卓越した画作りと編集で映し出したクリエイティブは素晴らしかったと思う。 テンポよく、潔く、メイン舞台に主人公たちを運び、高所でのサバイバルを描き出した展開自体は的確だったと思う。 冒頭部分での細かい描写が、しっかりと後半での伏線として張り巡らされ、下手をすればアイデア一発で内容の乏しい展開になってしまいそうな題材を、終始緊張感を持続させたスリラーへと昇華させていたことは間違いない。 「恐怖映画」として、狙い通りの恐怖を具現化し、限られた予算で一定レベル以上の娯楽を生み出している本作は、褒められて然るべきだろう。 ただ、個人的には冒頭部分からどうしても主人公たちの心情に共感できない要素があり、それが結局最後まで雑音となってしまい、“手放し”で高評価というわけにはいかなかった。 それは、登場自分たちの危機管理の薄さというか、危険回避能力のある種病的な欠如に他ならない。 オープニングの断崖絶壁でのフリークライミングシーンからそう。主人公はそこで夫を亡くしてしまい、それがこのドラマの起因となるわけだが、あのような危険行為にまったくもって魅力も共感も感じることができない者としては、そりゃあそんなことしてたらいつか死ぬだろうよと、鼻白むことしかできなかった。 そのくせ、いざその危険行為によって人を亡くしたら、1年以上も他者を遮断し自暴自棄に落ち込むとうい主人公のあまりにも覚悟の無い心情にも違和感を覚えた。 詰まる所、主人公たちの身体や、精神構造に、あのように危険極まりないクライミングを繰り広げる人物像としての説得力があまりにも欠如していたように思える。 あれほどまで危険なクライミング行為を自らするのであれば、身体的にはもっと鍛え上げれていて然るべきだろうし、自他を含めた人間の「死」そのものに対してももっと達観した思考があるべきだったろうと思う。 1年以上も酒に溺れていたくせに、何の準備もなく親友の誘いに乗って地上600メートルの鉄塔に挑むという言動は、完全に主人公の「自殺願望」の表れだろうと思ったし、そんな無謀な誘いをする親友も何かしらの「思惑」があるに違いないと、訝しくストーリーを追ってしまった。それくらい、彼らの言動には常軌を逸した違和感と不自然さを感じた。 例えば、デヴィッド・フィンチャー監督の「ゲーム」のようなどんでん返し的な“オチ”を、どこかで期待していたのかもしれない。 しかし、親友はある秘密を抱えてはいたが、主人公にとってはかけがえのない普通にいいヤツ。最後には疎遠だった父との絆を取り戻し、地上に生還するという展開は、安直という印象を通り越して、「何だコイツら」と、やはり最後まで理解と共感が及ばなかった。 シンプルではあるが非常にクオリティの高い「恐怖」を創造できていただけに、取ってつけたようなドラマ性や、違和感たっぷりの人間描写が、必要以上に大きな不協和音として鳴り響いてしまった。[インターネット(字幕)] 5点(2023-10-29 00:07:46)(良:1票) 《改行有》

133.  スパイダーヘッド イントロダクションと映画世界への導入はとても良かった。 孤島に建設されている近代美術館のような刑務所施設の出で立ち、無機質な室内空間、そしてクリス・ヘムズワースの渇いた笑顔。 敢えて、意識的にポップに仕立てられたオープニングクレジットは、逆説的にこの映画世界の不穏さを雄弁に物語っており、興味をそそられた。 「とても面白そうな映画」 それは、Netflixオリジナル映画の一つの特徴となりつつある。 もちろん、映画の予告編やあらすじを見せて、「面白そう!」と感じさせることは極めて大切なことだ。 特に、映画に限らず、これだけありとあらゆる娯楽コンテンツが溢れ返っている現代社会においては、何を置いても、「再生ボタンをクリックさせる」というユーザーアクションの創出以上に重要なことなどないのかもしれない。 “面白そう”なオリジナル作品が常にラインナップされる以上、映画ファンの一人として、“そこ”から離れることはなかなか難しい。 が、結果的には、面白そうな映画で、実際面白い部分もあったけれど、ガツンと心に残り続ける作品に仕上がっていることが少ない。というのが、Netflixオリジナル映画の実態だ。 本作も、前述の通り、非常に興味をそそる映画世界を構築していたのだけれど、最終的な印象としては、極めて薄っぺらく感じた。 結局は、ストーリーが“ありきたり”の範疇を出ておらず、話が進むにつれて尻つぼみになっていった。 この手のストーリー展開にリアリティなんて求めても仕方ないことだし、近未来を舞台にしたディストピア設定なのだから、もっと振り切った展開を見せるべきだったろうと思う。 “ソー”からの「脳筋」イメージ脱却を図るクリス・ヘムズワースは、大いに屈折した製薬会社の人間を怪演していたと思うし、今年は「トップガン マーヴェリック」の記憶がまだまだ鮮烈なマイルズ・テラーも印象的な雰囲気を醸し出していたとは思う。 ただ、それぞれのキャラクター性も今ひとつ踏み込みきれぬままストーリーが収束していくので、何とも中途半端な人間描写に留まってしまっている。 それこそ、本作の監督は「トップガン マーヴェリック」のジョセフ・コシンスキーなわけで。 同じ監督、同じキャストであっても、何か要素が異なれば、映画的なエネルギーはここまで差が出てしまうということ。 詰まるところ、それが「トップガン」でトム・クルーズがエゴイスティックに拘り抜いたことであり、Netflixに限らず配信作品に何か物足りなさを感じてしまう要因なのではないかと思える。[インターネット(字幕)] 5点(2022-09-17 22:15:05)《改行有》

134.  モービウス 《ネタバレ》 夏時期になると自宅の周りにコウモリが多くて困っている。 以前などは、いつの間にか室内に入り込んでいて、恐怖におののいた。 本作で、主人公モービウスがコウモリの化け物に変態してしまって、天井の片隅に張り付いている様は、その時のおぞましさを思い出すとともに、禍々しくて良かったと思う。 作品全体を総じて、ハイセンスなビジュアルは流麗で独創的だったと思えた。 怪物化したモービウスが煙のような形態で、縦横無尽に飛び回り襲いかかる描写も、美しさと禍々しさを併せ持った印象的なビジュアル表現だった。 主演のジャレッド・レトは、“変態前後”で見事な肉体改造を見せ、新たなダークヒーローを熱演している。 主人公の親友でありヴィランとなる“マイロ”を演じたマット・スミスも、独特な風貌と佇まいで好演していたと思う。ヒロイン役のアドリア・アルホナも良かった。 映像表現も、キャストのパフォーマンスも優れていたのだが、いかんせん話運びが稚拙で上手くない。 ストーリー展開が破綻しているということはないし、主人公やその親友の悲痛な人生や、ヒロインとの関係性など、エンターテイメント映画として高揚感や感動を生む要素は確実に孕んでいたと思える。 適切なストーリーテリングで深めるポイントを間違わなければ、もっとストレートに胸に響く味わい深い作品になっていたのではないかと思う。 MCU作品「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」でのマルチバース展開を経て、ソニー・ピクチャーズに舞台を移した新たなユニバース展開を広げていくためのポストクレジットシーンも、少々物足りない。 マイケル・キートン演じるトゥームスの登場自体は良いが、それだけではやはり弱いし、本作における主人公の帰着に対して違和感は拭えなかったなと。 残念ながら満足感の高い作品では無いが、続編と計画されているユニバースの展開には期待したい。 本作のモービウスのケムリ移動に、スパイダーマンやヴェノムのアクションが入り混じった光景は、想像するだけでもアメージングだ。 何よりも、ジャレッド・レトには、アメコミ映画におけるせっかくの熱演・好演が報われなかった過去(無きものにされた元祖“スーサイド”)があるので、今回は何とか報われてほしい。[インターネット(字幕)] 5点(2022-08-28 00:05:40)《改行有》

135.  ソー:ラブ&サンダー 《ネタバレ》 思わず声を出して笑ってしまったシーンはあったし、楽しくない映画だったとは言わないけれど、期待していた映画的価値の創出できていないなというのが、正直な印象。 タイカ・ワイティティ監督らしいエキセントリックな表現やキャラクターたちの言動はユニークだけれど、ストーリーの根幹に存在すべきテーマがひどく散漫で、愛すべき“おふざけ”がただの“緩み”のまま終始してしまっており、中身の乏しい映画に仕上がってしまっている。 これがタイカ・ワイティティ監督の初めてのビッグタイトルということであれば、また面白い監督が出てきたなと好意的に見れたかもしれないが、既に前作「マイティ・ソー/バトルロイヤル」で一躍頭角を表し、「ジョジョ・ラビット」で映画監督としての地位を固めた実績を踏まえると、本作の仕上がりについては“お粗末”と言わざるを得ない。 MCUがフェーズ4に入り、その世界観が際限なく広がってしまったことが、本作の立ち位置を見失わせてしまった最たる要因だと思う。 フェーズ3までは、サノスとの決戦を終着点として、あくまでも“地球”ベースで各映画作品が連なっており、その中では、“神々の騒動”を描いた「マイティ・ソー」シリーズはある種「異質」であり、その毛色の違いが魅力だったと思える。 だが、フェーズ4に突入し、「エターナルズ」「シャン・チー」等の神話的世界観が乱立するようになり、更には「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」や「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」で“多元宇宙”の領域までMCU全体の世界観が無際限に広がってしまった今となっては、我らが“ソー”を軸にした神々の世界の独創性もすっかり薄れてしまっている。 そんな中で、改めて“神同士”の諍いや、“神殺し”との対決を繰り広げられても、今更感が拭えず、新たな高揚感を見出すことができなかった。 ナタリー・ポートマンのシリーズ復帰、クリスチャン・ベールの存在感は、本作において大きな要素であり、それぞれ一流俳優としての魅力を遺憾なく見せてくれていたと思う。 クリスチャン・ベール演じるヴィラン“ゴア”は溢れ出る禍々しさと悲痛を見事に体現していたと思うし、ナタリー・ポートマンは、それこそベール顔負けの肉体改造で強く美しい新マイティ・ソーと非情な運命を受け入れるジェーン・フォスターを演じきり、ヒーローとヒロインを同時に演じ分けていた。 しかし、両者とも、中身の無いストーリー展開の中で上手く噛み合っていたとは言えず、とても勿体ない印象を受けた。(御大ラッセル・クロウもほぼギャグ要員で残念) これほど影響が出るとは思っていなかったけれど、観終わった今となっては、やはり「ロキの不在」が、本シリーズにおいてはあまりにも大きなマイナス要素となることを証明してしまっている。 期待していた“ガーディアンズ”との絡みも冒頭のみで取って付けたような感じだったし、他の並行するMCU作品との絡みも皆無だったことも、本作を浮かせてしまっている要因だろう。 単独作としてはシリーズ4作目であり、MCUの中でも最多となっている本シリーズだが、更に続編に挑むのであれば、「バトルロイヤル」の時のようなテコ入れが必須だろうと思う。 劇中劇で再登場する“ビッグスター”たちには大いに笑わせてもらった。 あの舞台役者たちは、アスガルド崩壊やサノス襲撃からも生き残っていたんだな、と思うと妙に感慨深いものがある。[映画館(字幕)] 5点(2022-07-09 22:06:18)《改行有》

136.  ナイル殺人事件(2020) 《ネタバレ》 梅雨の日曜日。特に天気が悪いわけではなかったが、前夜の深酒がたたり午後になっても二日酔いが辛かったので、部屋に引きこもって映画を観ることにした。 随分前から動画配信サービスのマイリストに入りっぱなしになっていたケネス・ブラナー版の「オリエント急行殺人事件」を鑑賞し、立て続けにその続編である本作「ナイル殺人事件」を鑑賞。 異国情緒溢れる豪華絢爛な映画世界をトータル4時間分堪能して、取り敢えず満腹感は大きい。 「オリエント急行殺人事件」と同様に、本作の原作「ナイルに死す」も過去幾度も映像化された作品。ピーター・ユスティノフがポワロを演じた1978年の映画作品も鑑賞済みだった。ストーリーテリングの細かい部分の記憶が薄れていたので、ミステリが展開していく流れについては新鮮に楽しめた。 がしかし、最終的に残った感想としては、1978年版を鑑賞した時と同じ不満を覚えた。 それは、「さすがに3人は殺されすぎじゃないか?名探偵さんよ」ということ。 無論のことながら、そもそも殺人事件が起きなければ「名探偵」というキャラクターは成立しないわけで、それはシャーロック・ホームズから江戸川コナンに至るまで古今東西の名探偵キャラの宿命であり苦悩であろう。 ただこのナイル川における連続殺人については、ポワロの失態と言わざるを得ない。 “オリエンタル急行”の場合は、殺人が計画されていた車両にあくまでも「偶然」乗り合わせた状態だったろうが、今回の場合は全く異なる。 身の危険を感じていた被害者本人から依頼され、「危険人物」とされる人間の存在も確認していながら、まんまと依頼人は殺され、第2、第3と惨劇は続き、最終的にはそれ以上の死人を生む悲劇へ終着してしまう。 しかも、大富豪御用達の豪華客船とはいえ、それほど巨大とは言えない船内での事件なので、ご自慢の“灰色の脳細胞”をフル回転させれば、惨劇を最小限に食い止める方法はいくらでもあっただろうと思ってしまう。 更に今回のリメイクでは、原作からの改変により、第3の被害者がポアロ自身の友人に変更されている。 目の前で殺人が行われた上に、大切な友人まで失う始末。嗚呼、なんと不憫な名探偵だろうか。 ケネス・ブラナー監督自身が、エルキュール・ポアロを演じるという大車輪の活躍を見せるこの新シリーズは、過去の作品よりもより一層ポアロという人間そのものの内面を抉り出そうとしている。 また人種問題をより浮き彫りにさせたり、ジェンダー問題を想起させるキャラ設定の追加をしたりと、決して小さくない改変に挑んでいる。 現代においてリメイクするにあたって、その意欲的な試み自体は評価したいところだけれど、それが作品世界の中で効果的に作用しているとは言い難い。 改変箇所が単なる「違和感」と感じてしまう部分は少なくない。 当初は計画していたエジプトロケが叶わず、シーンの大半をCG合成に頼らざるを得なかったことなど、作品全体から垣間見える「歪さ」は、製作における苦労は多分に物語っている。 そんな中でも、この原作に相応しい絢爛豪華な「雰囲気」だけはきっちりと保って、娯楽性を保っていることは、ケネス・ブラナーの堅実な尽力によるものだろう。 次作のプロジェクトもまだ残っているようなので、“髭”を蓄え直してどうか頑張ってほしい。[インターネット(字幕)] 5点(2022-06-26 23:22:43)《改行有》

137.  シン・ウルトラマン まず個人的な立ち位置から言うと、僕自身はいわゆる「ウルトラマン世代」ではなくて、再放送やソフトも含めてちゃんと「ウルトラマン」を観た記憶は殆どない。 特撮映画は大好きであり、ゴジラシリーズを始めとする東宝特撮映画は殆ど鑑賞してきたし、樋口真嗣が特撮監督を勤め上げた平成ガメラシリーズ(特に「G2」)も“崇拝レベル”で何度も観ている。 そんな趣向の者が、「ウルトラマン」に触れてこなかったというのは、自分自身不思議に思う。 本作「シン・ウルトラマン」の公開に先立ち、ベースとなる「ウルトラQ」や初代「ウルトラマン」のTVシリーズで“勉強”しておこうかとも思ったが、門外漢であるならば門外漢なりの楽しみ方もあるだろうと思い、予習なしで“ウルトラマンデビュー”してみることにした。 鑑賞後率直に思った感想は、良い意味でも悪い意味でも“ぶっ飛んだ”映画だったな、ということ。 それは「空想特撮映画」とこれ見よがしに掲げるこの作品の性質に相応しい、とは思った。 ただ、それと同時に、「これは映画として成功しているのか?」と、疑問とモヤモヤも存在していることに気づいた。 鑑賞から一夜明けて一個人として定まった結論は、「失敗作」だった。 決して駄作だとは言わないし、興味深い要素やユニークな表現も溢れた作品だったとは思うけれど、この映画がたどり着くべき姿はコレではなかったんじゃないかと思う。 前述の通り僕自身はウルトラマン世代ではなく、オリジナルシリーズもまともに観ていないので正確なことは言えないけれど、おそらくは「ウルトラマン愛」が各シーン、各描写、各台詞に散りばめられた作品なのだろう。 YouTubeの解説動画で聞きかじった限りでは、ストーリー展開においても、オリジナルシリーズの人気エピソードを軸にして構成されており、それらを未鑑賞の者としても、随所にオマージュやリスペクトが溢れているのであろうことは感じられた。 だが、それ以上の驚きやそれに伴うエモーショナルが感じられなかったというのが正直なところ。 この映画に携わった一流クリエイターたちにとっての“バイブル”とも言える「ウルトラマン」に対する尊敬と憧れ、あまりにも大きな「愛」が溢れ出る一方で、今この時代に「再誕」させるに当たってのテーマ性や価値を追求しきれていないように感じてしまった。 雑な言い方をしてしまえば、それはやはりやや一方的過ぎる「懐古主義」であり、僕のような門外漢や、今この時代の子どもたちにとっては“楽しみづらいモノ”になってしまっていると思える。 また、冒頭のタイトルクレジットでも表現されている通り、本作は「シン・ゴジラ」の同じ世界線ではないものの、一つの並行世界が舞台になっていると思われ、登場するキャラクターや日本政府、社会環境など類似する要素が多い。 それ故にどうしても比較をしてしまうが、本作は圧倒的に予算不足が露呈している。 それは、脇役・端役を含めた出演者数や場面数の少なさからも明らかだが、一番問題なのは、そのことが“映画づくり”そのもののクオリティ低下に繋がってしまっていることだろう。 ドラマシーンのカメラワークが一辺倒だったり、意図的にiPhoneで撮影されたカットが単にチープな映像に見えてしまっているなど、予算の少なさが「丁寧さ」の低減に影響してしまっていることは致命的だ。 予算がないならそれなりに映像作品としてのあり方自体を見直すべきだったのではないかと思う。 過去作のエピソードを連ねて一つの映画としてやや強引にストーリー展開をするくらいなら、オリジナルと同様にドラマシリーズでも良かったのではないか。 それこそ、NetflixやAmazon Prime等で、全6話くらいの構成の配信作品にした方が、潤沢な制作費も得られやすく、より尖った作品に仕上がっていたのではないかと、映画ファンとしては邪な思いも生まれてしまう。 一説によると、「監督」として現場を取り仕切った樋口真嗣と、「総監修」として作品全体の指揮権を持った庵野秀明との間で、「責任」のバランスが取れていなかったのではないかとも聞く。 両者ともバイブル「ウルトラマン」に対する「愛」は強く揺るがないものだったはずだ。それ故に、その表現方法において乖離も生じてしまったのだろう。 「愛」を語るに当たって、やっぱり人任せにしてはいけないし、少しでも思いが離れてしまったその表現は、ちゃんと伝わることはないなと思う。 少なくとも、僕にとっては、ウルトラマンの一連の活躍や、身を挺して孤軍奮闘する長澤まさみよりも、「赤坂さん(仮名)」の登場が最たる激アツポイントだった時点で、「シン・ゴジラ」に遠く及ばない作品であったことは間違いない。[映画館(邦画)] 5点(2022-05-15 00:31:03)《改行有》

138.  キングスマン: ファースト・エージェント 元々、僕はこの人気シリーズとは“相性”が良くないらしく、過去2作とも割と期待感高く劇場鑑賞してきたけれど、いずれも悪ノリの面白さよりも、露悪的な表現によるストーリーの破綻の方に嫌悪感を感じてしまい、全くハマることが出来なかった。 マシュー・ヴォーン監督の出世作、「キック・アス」や「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は傑作だと思っているだけに、監督の個人趣味に突っ走った本シリーズは、余程自分の趣味に合わないのだろうと思う。 そんな経緯なので、「キングスマン」の“エピソード0”として製作されたこの最新作に対しても、特に期待感は無く、度重なる公開延期に対してもほぼスルー状態だった。 某配信サービスの最新作にリリースされたので取り合えず鑑賞してみたが、率直な感想としては、可もなく不可もなくといったところか。 過去2作に比べると、悪趣味な暴走ぶりは鳴りを潜めており、“見やすい”娯楽映画だとは思う。ただし、その代わりに特筆すべきエンターテイメント性が無いことも事実だろう。 特に物足りなかったのは、前作までの(個人的には)唯一にして最大のハイライトだったギミックの娯楽性がほぼ皆無だったことだ。 時代設定が第一次世界大戦前夜であるから、ハイテク機能を隠し持ったギミック満載のスパイ・ガジェットの登場は無理だったろうけれど、前二作に登場したガジェットの「原型」となった“秘密道具”くらいは駆使してほしかった。 ストーリーテリングや、登場人物の言動においても、説得力に欠ける点が多く、どうにも映画世界に入り込むことができなかった。 レイフ・ファインズ演じる主人公は、無論“THE紳士”なたたずまいでソレっぽいけれど、実際のところ彼の行動は行き当たりばったりなことが多く、決して理知的でもなければ、紳士的でもなかった。 挙句、何よりも大切な家族や友人たちをことごとく失くしてしまうわけだから、やはりヒーローとしての魅力や説得力に欠けてしまっていることは否めない。 やはりマシュー・ヴォーン監督においては、むしろ制約の多いハリウッド大作の中で、しがらみに雁字搦めになりながら、それでもギリギリの範囲で“悪趣味”を爆発させるくらいの方が、彼のセンスが際立つのではないか。 彼の出世作がいずれもアメコミ作品であることは言わずもがなだし、同じくアクの強い映画監督であるジェームズ・ガン監督が、MCUやDCのアメコミヒーロー映画で傑作を連発していることからも、進むべき道は明らかだと思うけれど。[インターネット(字幕)] 5点(2022-02-27 00:40:36)《改行有》

139.  竜とそばかすの姫 終幕後、何とも言えない神妙な面持ちを作らずにはいられなかった。 駄作だとは思わないし、エンターテイメントとしての複合的な意味合いでの華やかさと、エモーションを持つアニメーションだったとは思う。 だが、同時に、アニメ映画として誠実な傑作かと言うと、そうではないなと思う。 非常にアンバランスで、その不安定さが、とても下卑たものに見える瞬間も少なくはなかった。 主人公のアバター名が「ベル」であることをはじめ、ディズニー映画「美女と野獣」へのオマージュが多い映画だなとは序盤から感じたが、ストーリー展開を追うにつれその要素が大きくなり、オマージュというよりも、新しい解釈と新しいアニメーション表現を携えた“細田守版リメイク”、いうなれば「新世紀 美女と野獣」という趣向が強かったと思う。 圧倒的なビジュアルと音楽の融合によるイマジネーションの渦のようなアニメーション表現は圧倒的であり、独創性に溢れていた。 だが、あまりにも「美女と野獣」要素が強く、その独創性がイコール“オリジナリティ”の創出だったかと言われると、個人的には少々疑問が残った。 そういった超有名作との類似性も含めて、ストーリーそのものにおける“新しさ”はほぼ皆無だったのではないかと思える。 女子高生の主人公が抱える喪失と痛み、出会いと再生のプロセスは、極めてオーソドックスだったと言えよう。 そして、それを描いた現実世界の描写は、インターネット上の仮想世界の華やかさに対して、きっぱりと「地味」だった。 だがしかし、その「地味」な現実世界の描写こそが、このアニメ映画においては白眉のポイントだったとも思える。 少女の抱える傷心と、普遍的な心の機微が、高知県の田舎を舞台にしたアニメーションの中で、繊細にきっちりと描かれていた。 むしろ、それに対して派手で、壮大で、イマジネーションに溢れているはずの仮想世界の描写の方が、何だか既視感を覚え、面白みを感じづらかったと言える。 そういう意味では、田舎に住む女子高生の、地味でノスタルジックで瑞々しい現実世界の生活描写をもっと長く丁寧に描き出していてくれたなら、今作に対する印象はもっと変わったと思う。 そして、この映画における最大の“難点”は、やはり、最終的な決着の付け方だろう。 「児童虐待」という非常に重く切実な現実社会の闇を取り上げているにも関わらず、ストーリーの帰着があまりにも浅く、おざなりだったのではないか。 主人公のまるで合理的でない無鉄砲な自己犠牲的行動にも納得がいかないし、周囲の「大人」とされる人たちの存在の空虚さと無責任さにも不快感を覚えた。 実際に、同じような環境下、もしくはもっと劣悪な状況の中で虐待を受けてしまっている子どもたちは世界中に存在するわけで、それを主人公の“ファンタジー”的な言動であたかも解決したように見せてしまうことは、配慮に欠けるし、不誠実に見えて仕方がなかった。 もちろん、そういう題材を扱っている以上、製作者側にそんな適当な気持ちは無かったのだろうけれど、やはり誤解を生じてしまう描き方であったことは否めないし、根本的な作劇の軽薄さが露呈しまっていると思う。 前述している通り、大部分においてエモーショナルな映画ではあった。 インターネットの仮想世界におけるイマジネーションも、現実社会の風景を描いたノスタルジックも、秀逸なアニメーションで描き出すに相応しいものだった。 しかし、細田守という、いまやこの国を代表するアニメーション監督の作品である以上、主題となるストーリーの不誠実さや軽薄さは致命的であり、看過できるものではない。 商業的に巨大になってしまったブランドは、往々にして誠実な視点を見失いがちだ。細田守監督には、今一度、クリエイターとしてのエゴイズムを突き詰めて、唯一無二の作品作りに挑んでほしいなと思う。[映画館(邦画)] 5点(2021-07-17 18:29:52)(良:2票) 《改行有》

140.  新感染半島 ファイナル・ステージ 娯楽映画として、“楽しい”映画ではあったと思う。ただし、「新感染 ファイナル・エクスプレス」の続編として期待したならば、楽しみきれない。 前作は、韓国という国の社会性や人々の人間性を踏まえつつ、このジャンルの映画に相応しい「風刺」を併せ持ったゾンビ映画の傑作に仕上がっていた。列車を舞台にすることによる“パニック”の上乗せ加減も見事だったと思う。 しかし、この続編は、その後の世界を描きつつも、映画的なテイストはリセットされ、まったく別物の映画として作られていた。 前作が持っていた“韓国製ゾンビ映画”としてのフレッシュさを期待していた者としては、正直「思ってたんと違う」感は否めない。 文字通りの「地獄」に取り残された人間たちの狂気と、そこから生まれる恐怖やさらなる絶望を娯楽映画として描き出そうとした試み自体は興味深かったけれど、その世界観の作り込みがありきたりで希薄だったことが、「別物」の映画としても楽しみきれなかった要因だろう。 また、登場するキャラクターの一人ひとりは個性的で魅力的な要素を持っていたと思うけれど、それらをストーリー的にあまり活かしきれておらず、中途半端な人物描写に終始してしまっているとも感じた。 人がゾンビ化するウィルスの蔓延を止めることができず、4年間放置され、韓国国内のみマッドマックス的に崩壊しているという設定は豪胆で潔い。 北緯38度線(南北境界線)により、北朝鮮から先の大陸には感染が広がっていないという設定も無茶苦茶ではあるが、娯楽映画としては許容範囲だろうし、原題「Peninsula(半島)」が表す意図も際立っていると思う。 もう少しその「半島」というテーマが孕むこの国の特異性や、ある意味での孤立感みたいなものを、ストーリーに盛り込むことができていれば、このシリーズの続編としても、ゾンビ映画としても相応しい批評性が生まれたのではないか、と思う。[映画館(字幕)] 5点(2021-01-10 23:22:10)(良:1票) 《改行有》

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