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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2020年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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141.  劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 《ネタバレ》 封切り3日間で46億円超の興収に至ったとか、映画館のタイムスケジュールが埋め尽くされているとか、あいも変わらずこの国の“ブーム”というものは節操がない。 とかなんとか思いつつも、公開されたその週末に自分自身子供二人を連れ立って、3,800円支払って、46億円の一端を担っているんだからざまあない。 ポップカルチャーに傾倒する者の一人として、社会現象まで巻き起こすような“ブーム”にはとりあえず乗ってみる主義なので、コロナ禍の最中、暇に乗じて手は出してみた。 ただし、ファーストインプレッションでは正直ピンと来ず、某配信サービスでアニメ版の第一話を観たきりしばらく放置してしまっていた。 これは今となっても変わらないが、正直なところもっと面白い漫画やアニメは山程あると思うし、週刊少年ジャンプの作品に限っても、「鬼滅の刃」に至る系譜の上には忘れがたき名作がひしめいている。 とはいえ、この作品が巻き起こすムーブメントはやはり大したものであり、それは子供と暮らしていると本当によく分かる。 小学三年生の長女と、幼稚園年長の長男が、揃って“鬼滅”にハマっていく様を目の当たりにして、一つのエンターテイメントとして「これは大したものだ」と率直に感じた。 そして、その子供たちが突き進む“沼”に引き込まれるように、僕自身も再びアニメシリーズを見進め、妻が借りてきた原作にも手を付けた。 そうして、いささかの抵抗もなく、封切りのタイミングでこの劇場版を鑑賞した次第。 結論から言うと、泣いた。そりゃあ、泣く。 週刊少年ジャンプ全盛期に、そこで連載されてきた数多くの漫画作品と共に育った者として、この漫画雑誌のテーマである「友情」「努力」「勝利」をどストレートに反映したこの漫画世界が織り成す物語に熱くならないわけはなく、二人の子を傍らに置いて鑑賞しつつも、涙は溢れた。 アニメシリーズを通じて今作を成功に至らしめたものは、アニメーションとしてのクオリティの高さだったと思う。 原作漫画も魅力的な作品であることは間違いないが、作画力は決して「上手」な部類ではないだろう。 アニメ作品では、その作画のクオリティを補完し、ハイスペックなビジュアルに昇華させている。そのことが、老若男女問わず幅広い層を熱狂させた要因となっているのは間違いない。 文字も読めない幼児から、中年世代に至るまで、「全集中 水の呼吸!」なんて嬉々として真似をしてしまうのは、ひとえにこのアニメーションのアニメーターや声優たちの功績だろうと思う。 ただその一方で感じた決して小さくないマイナス要因も今作は孕んでいる。 それは、ストーリーテリングにおける“フリ”の弱さと、“説明ゼリフ”の多さだ。 クライマックスに向けたキャラクターたちの対決や葛藤が大きくなればなるほど、本来そこで生じるべき大きなエモーションのための“前フリ”が欠如してしまっていることを感じずにはいられないし、重要な感情表現においてキャラクターたちに心情を語らせすぎるのは、原作漫画自体が持つウィークポイントだと思う。 一人ひとりのキャラクターは味方も敵方も含めてやはり非常に魅力的だと思う。が、しかし、その魅力的なキャラクターたちの熱い言動に対して、前フリやバックグラウンドの描き方がやや希薄に思え、彼らの決断や行為が極めて唐突に感じてしまうことは否めない。 例えば、この劇場版“無限列車編”では、本来の主人公・竈門炭治郎以上に、柱の剣士・煉獄杏寿郎が絶大な存在感を示すわけだが、彼の人生模様と、新たに共闘する炭治郎ら若き剣士たちとの関係性を深める描写がやはり希薄過ぎたと思う。 もちろん煉獄本人の回想シーンによって彼の過去は断片的に伝えられはするけれど、そこに炭治郎や伊之助らが介在することはなく、実際彼らの関係性が深まるようなくだりも無い。 よくよく考えてみれば、この映画の中で描かれるストーリーは、炭治郎らと煉獄杏寿郎がほぼ初対面の状態から突如として死闘に至る極めて短い時間を描いているわけで、絆が深まる余裕などそもそもない。 そうなると、ラストのあの文字通りに“熱い”顛末も、どうしてもエモーショナルに欠け、鼻白んでしまう。 そういう弱点を感じつつも、それでも泣いてしまったことは事実だし、このエンターテイメントに理屈ではない魅力が溢れていることは否定しない。 この“無限列車編”、そして“煉獄の死”そのものが、この漫画世界全体の“前フリ”であることを期待しつつ、この先の展開も子どもたちと一緒に楽しみたいと思う。[映画館(邦画)] 7点(2020-10-24 12:12:33)(良:1票) 《改行有》

142.  エノーラ・ホームズの事件簿 秋の夜長、赤ワインを傍らに、ある意味において“現代版”の「シャーロック・ホームズ」を鑑賞。 “現代版”と言っても、ベネディクト・カンバーバッチの「SHERLOCK」のように現代のロンドンを舞台にしているわけではなく、コナン・ドイルが描いた19世紀後半のシャーロック・ホームズがそのまま登場する。 異なるのは、シャーロック・ホームズ本人が主人公ではなく、彼の“妹”が主人公であり、彼の“母親”がキーパーソンであるということ。 シャーロック・ホームズに“妹”がいたなんて話は聞いたことがないけれど、彼だって人の子、いくら架空のキャラクターであろうとなんだろうと、当然“母親”は存在する。もしかしたら“妹”もいたのかもしれない。 ただ、もしそういう家族構成だったとしても、原作小説の中で、“母親”や“妹”のキャラクター描写がピックアップされただろうか。 おそらくは、ただ一文節で紹介される程度だったのではなかろうか。 少なくとも、シャーロック本人にも勝るとも劣らない頭脳明晰なキャラクターとしては描かれることはなかっただろう。と、思う。 なぜそう思うのか? それは、“そういう時代”だったからだ。 今この時代に、シャーロック・ホームズ本人を脇に追いやって、彼の“妹”と“母親”を「女性」の代表として、映画世界の中で雄弁に語らせる意義。 それもまた、“そういう時代”だからこそようやく成立し得たテーマだったと思う。 だからこそ、原作同様に19世紀後半のロンドンを描いたこの作品が、“現代版シャーロック・ホームズ”と思えたのだ。 重要なのは、登場人物たちを現代人として描き直すのではなく、あくまでも当時の時代設定のままで、当時の社会の中で生きる人間として描いていることだ。 それは、女性蔑視や性格差に対する問題意識や発言や行動が、何も現代社会に限って巻き起こっているものではないというメッセージに他ならない。 100年前から、いやもっと前から、女性たちは、与えられるべき正当な権利と、認められるべき自由な生き方を主張し続けているのだ。 聡明な母は、「ひどい未来を残すのは耐えられなかった」と、愛する娘が16歳になったタイミングで姿を消す。 それはまさに、過去から現代に至るまで、世界中の女性たちが胸に秘め続ける思いではないか。 この意欲的で独創的な映画もまた「Netflix」映画である。 Netflixで独占配信される作品には、社会的、思想的、政治的なメッセージをダイレクトに強くぶつけてくる作品が多い。 映画作品としては、その主張の強さが時にアンバランスに感じる時もあるけれど、それも、“この時代”が必要とせざるを得ない表現方法であり、手段の一つなのではないかと思う。[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 15:53:46)(良:2票) 《改行有》

143.  TENET テネット 文字通り縦横無尽に行き交い混濁する時間の渦に放り込まれた名もなき主人公が、世界を救うために奔走する。 「行為→結果」の理が反転する時間逆行の世界の中で、彼が救うのは「未来」なのか「過去」なのか。 論理的に考えれば考えようとするほど、矛盾は幾重にもパラドックスを生み、堂々巡りから抜け出せなくなる。 このタイムパラドックスもの特有の“堂々巡り”、僕は大好物である。 そして、時間逆行の概念をビジュアル化し、この上ない“活動的”な映像世界を構築した試みと成果は、充分に評価に値すると思う。 映画監督として、「誰も見たことが無いもの」を追求し続けるクリストファー・ノーランの立ち位置は孤高であり、彼が世界の映画産業のトップランナーであるこは間違いないと思える。 ただし、だ。 この作品が映画として「完璧か?」と問われると、正直素直に「YES」とは言い難い。 非常に意欲的でセンセーショナルな映画作品であることを十二分に認める一方で、「成功」とは言い切れないフラストレーションを大いに感じている。 肝となる時間逆行のプロセスや設定が破綻しているとは思わない。 多少の整合性の無さや、細かい理屈を度外視したマクガフィンの存在などは、この手のタイプの映画にはあって然るべきだと思うし、そういう「粗」こそが娯楽になり得ると思う。 僕が感じたフラストレーションの最たる原因は、詰まるところ「分かりにくさ」だと思う。 「難解」が売りのこの映画に対して「分かりにくい!」などと言うことは、本末転倒も甚だしい。 しかし、この「分かりにくさ」は、時間軸が入り乱れるストーリーテリングや設定についてではない。 映像作品としての“見せ方”が非常に分かりにくすぎると思ったのだ。特にアクションシーンにおいては、きっぱりと「下手」と言わざるを得ない。 視覚効果を極力廃して、生身の人間、実物セットでこの映像世界を構築したキャストやスタッフの尽力は痛いほど伝わってくる。 この映画に携わる総ての映画人たちが極めてアグレッシブに映画づくりに臨んでいることは明らかだ。 だが、この難解なストーリーテリングをベースにした映画世界の構築においては、時にもっとシンプルに、もっと手際よく映像を紡ぎ出すこともまた必要だったのではないかと感じる。 そういう意味においては、アクションシーンの映像的な描き方が実はそれほど上手ではないクリストファー・ノーランの数少ない“弱点”が露呈してしまっているように思える。 順行と逆行の時間軸が同一画面上で入り交じるという破天荒な映像世界を表現するためには、敢えて仰々しいまでの乱雑さを意識することは必要だろうし、その映像的な“カオス”も含めてこの映画の魅力となっていることも確かだ。 でも、今作の物語を決する重要な局面においては、そのような過剰な演出は不要だったのではないかと思う。 特に、クライマックスについては、あのように大部隊が入り乱れる戦場シーンにする必要はなかったのではないか。 この作品の物語が実は紡いでいた熱い友情と気高い決断、そして事の真相が一気に明らかになるシークエンスにおいて、戦場シーンの混沌と混乱は不要だった。 画面上に登場する人物を主人公とキーとなるキャラクター数人に絞って、シンプルに映し出したほうが、クライマックスの緊張感とエモーションがもっと高まったと思うし、クリストファー・ノーランの監督としての資質にも合致していたのではないかと思える。 (ただ、ノーランはああいう大合戦シーンを撮りたがる。「ダークナイト ラジング」でもあったなあ……) 方々の“考察”も見聞きしつつ、ストーリーが整理できてくるほどに、決して目新しい話ではないということに気づく。 ストーリーそのものはある意味とてもシンプルだし、諸々の設定やストーリーテリングについても、「藤子・F・不二雄」をはじめ古今東西のタイムパラドックスものを好んで見尽くしている者にとっては、むしろ王道的であった。 そういうプロットを、クリストファー・ノーランだからこそ許される孤高の美学で貫き通した映画世界構築は、もちろん称賛に値する。 ただ、物語にきちんと備わっていたエモーショナルをもう少ししっかりと描きぬいてくれていたなら、鑑賞後の満足感は大違いだったように思う。 同じく難解で大胆なSF映画だった「インターステラー」が、忘れがたき傑作になり得たのは、映画的な“エモさ”に溢れていたからだと思うのだ。[映画館(字幕)] 7点(2020-10-02 23:36:31)《改行有》

144.  オールド・ガード 不可思議にも不死身の肉体を得てしまった戦士たちが、文字通り終わりのない死闘を繰り広げる物語。 “不死身の暗殺集団”という中二病的設定は、馬鹿馬鹿しくも感じるが、安直故に容易に想像できる彼らの「虚無感」を思うとグッとくる要素もあったのでまあ良しとしたい。 この映画の面白い部分はまさにその「虚無感」であり、何百年にも渡って死闘を繰り返すあまり、もはや何のために闘っているのかその意味を見いだせなくなっている彼らの悲哀が、アクションの激しさに反比例するようにやるせない気持ちにさせる。 不死身とはいえ、彼らの本質的な能力は生身の人間であり、致命傷を受ければ相応の痛みと苦しみを味わう。そして律儀にも「死」に至った後に、蘇る。 重要なのは、決して“死なない”のではなく、「死」という明確な経験を経た上で、半ば強引に“蘇らされている”ということだ。 無論、僕は「死」というものを経験したことはないので、想像の域を出ないけれど、「死」の恐怖は、まさに息絶えるその瞬間にピークを迎えるものではなかろうか。 それを経た上で蘇る彼らは、勿論「無敵」ではあるけれど、これこそ「無間地獄」そのものであり、そのさまはあまりにも痛々しく、惨たらしい。 「世界を救う」という盲目的な使命感のみで彼らは文字通りの「生き地獄」を歩み続けているわけだが、肝心のその世界がちっとも良くならず、何百年にも渡って同じような戦争や殺戮に身を投じるはめになれば、そりゃあ心を病む。 映画のストーリー的にも、実際に登場する悪役は完全に噛ませ犬的な存在であり、真に対峙すべきは彼ら自身の苦悩そのものという焦点の当て方も、題材に対しては適切だったと思う。 そもそもの設定が安直な分、当然ながらツッコミどころには枚挙にいとまがない。 例によって配信映画とは思えない豪華な作りではあるが、良い意味でも悪い意味でもNetflix映画特有のライトさは全編通して感じる。(シリーズ化への目論見は明確なので、続編での補完の仕方次第では今作の評価も上下変動するだろうと思う) とはいえ、主題である「虚無感」を全身に帯びつつも、相変わらず“男前”過ぎるセロン姐さんに対しては、映画世界の設定を超越して「永遠なり」と思えた。[インターネット(字幕)] 7点(2020-09-20 00:31:14)(良:1票) 《改行有》

145.  僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46 《ネタバレ》 まず率直に感じたことは、良い悪いは別にして、彼女たちの“本音”が表れている映画ではなかったなということ。 「嘘と真実」というタイトルが表していたものは、秘められていたコトがこのドキュメンタリーでつまびらかにされるということではなく、この映画で語られる言葉そのものが、「真実」でもあり「嘘」でもあるということだったのではないかと思う。 彼女たちが発する「言葉」は、今まで数々のメディアで発信されてきたものと同様に、やはりどこか拙く、意識的にも、無意識的にも、本当のコトを吐き出しきれていない印象を覚えた。 それに相反するように、劇中で映し出される数々のライブパフォーマンスでは、彼女たちの内情が激しく吐き出されているように見えた。 そして、気付く。この映画のタイトルが「僕たちの嘘と真実」であるということの意味に。 “私たち”ではなく、“僕たち”である。 即ち、このドキュメンタリー映画で映し出されているもの、または映し出そうとしたものは、「欅坂46」というアイドルグループを構成する“彼女たち”のありのままの姿などではなく、彼女たちが作品の中で表現してきた「主人公=“僕”」の真の姿だった。 平手友梨奈というカリスマを象徴的に中心に据え、「欅坂46」という群れが一体となって作品の中で体現し続けてきた「僕」。 作品に登場する「僕」とは、どのような存在だったのか? 彼女たちにとって「僕」とは、どのような存在だったのか? この映画が突き詰めようとしたことは、そういうことだったのだ。 メンバーたちの虚空を掴むようなどこかぼやけた言葉の理由も、ライブパフォーマンス描写の中でのみくっきりと浮かび上がってくる輪郭も、その対象が「僕」であったことを踏まえると途端に腑に落ちる。 ただ、そこに「意味」はあっただろうか。 少なくとも、この“終幕”のタイミングで遂に公開されたドキュメンタリー映画として、このアプローチが意義深いものだったとは思えなかった。 なぜなら、多くのファンにとってこの映画で伝えられたことは、既に理解しつくしているコトだったからだ。 作品の中に登場する「僕」の存在性と、彼が内包する葛藤と矛盾、それらすべてを体現する平手友梨奈の苦悩、そして「欅坂46」との関係性。 それらは、「欅坂46」の作品やパフォーマンスを通じて、表現され続け、伝えられ続けてきたものであり、もはや概念的なものである。 5年という年月の中で、「欅坂46」が作品を通して表現し創造してきた概念。 ファンの一人一人がそれぞれに受け取り、理解してきたその真理を、敢えてドキュメンタリー映画の中で伝える必要があっただろうか。 それは、彼女たちが文字通り魂をすり減らして生み出してきた作品の世界観と、それに共鳴してきたファンの心情を侵害するものではなかったか。 ならばドキュメンタリー映画なんて観なければいいと言われそうだが、それも少し違う。 個人的に、このドキュメンタリー映画で観たかったものは、やはり、「欅坂46」というアイドルグループを表現してきた彼女たち一人一人の「声」であり、人間としての「姿」だった。 卒業・脱退メンバーも含めて、彼女たちのこの5年間における表立っていない「声」や「姿」をもっと反映してほしかったと思う。 無論、そうしたからと言って、彼女たちの“本音”のすべてが聞こえるとは思わない。 それでも、「黒い羊」のMV撮影終わりに、他のメンバーと乖離するように一人立ち尽くす鈴本美愉しかり、インタビュー中「ここでは話せない」と吐露する小林由依しかり、センターに君臨する平手友梨奈のカリスマ性を嫉妬と敬意をにじませながらじっと見つめる今泉佑唯しかり、表現しきれていない彼女たちの何かしらの思いは、今作の端々からも伝わってくる。 ファンが欲したのは、「僕たちの嘘と真実」ではなく、「私たちの嘘と真実」だったと思うのだ。 このドキュメンタリー映画鑑賞後の数日間、複雑な感情が入り混じりながら、「欅坂46」の5年間に思いを巡らせた。 「発信力」という観点に絞るなら、良い意味でも、悪い意味でも、彼女たちは作品を通じた“パフォーマンス”がすべてだった。 そのことがアイドルグループとしての“ひずみ”や“鬱積”、そして危ういバランスに繋がっていったことは否めない。 それは、類まれな才能に酔ってしまい、「運営」としてコントロールすることを放棄した大人たちの責任でもあろうし、一つのイメージから殻を破ることが出来なかった彼女たち自身の責任でもあろう。 ただ、その危うい偏りが、あのエモーショナルを生んだのであれば、それは圧倒的に正しいことであり、やっぱり「正義」だったと思うのだ。[映画館(邦画)] 6点(2020-09-11 23:42:55)《改行有》

146.  ザ・ファイブ・ブラッズ 世界は相も変わらず混迷している。 黒人男性銃撃による世界的波紋と怒り、トランプ政権への信を問われ二分するアメリカ、そして、チャドウィック・ボーズマンの突然すぎる訃報。 一体“何”に向けてこの鬱積を晴らしたらいいものか分らぬまま、この映画を観た。 スパイク・リー監督の映画なので、良い意味でも悪い意味でも“一つの方向”に偏り、振り切った作品ではある。 が、同時に、今このタイミングで観なければどうしようもない映画であることも間違いない。 社会に対する怒り、歴史に対する怒り、世界に対する怒り。夥しい悲しみの累積の上に渦巻く黒人もとい“すべての人間”の怒りがぶちまけられている。 ベトナム帰還兵の老人4人が、数十年ぶりに再度ベトナムに集い、かつての戦場に残された埋蔵金と戦死した隊長の亡骸を探す冒険に挑むというくだりは、娯楽性に溢れており、楽しい。 しかし、かつての戦場を辿るアドベンチャーは、徐々に確実に彼らの心の奥底に巣食うトラウマと、今なお生々しく残る現地の災禍を呼び起こしていく。 黒人兵たちは、ベトナムの過酷な戦場で、自分たちが白人に良いように使われ、都合よく使い捨てられている現実に気付き、憤る。 だがしかし、数十年ぶりの“行軍”によって目の当たりにしたものは、自分たち自身の「罪」と「罰」だった。 戦時を振り返る回想シーンにおいて、4人の老人が画像加工なくそのままの風貌で描き出されている意図は、彼らが「罪」を抱えたまま老いてしまったことの象徴なのだろう。 黒人の人種、社会に対する差別、迫害は、アメリカのみならず、人類史の汚点であり、人類全体が恥ずべき闇であることは間違いない。 ただし、だ。 だからといって、黒人が常に歴史における“被害者”であったかというと、無論そんなことはない。 肌の色に関わらず、すべての人種、すべての人間は、“被害者”であり、“加害者”でもある。それが、歴史の紛れもない事実であろう。 虚無的にすら感じるその憎しみの連鎖と、終着点がない怒りの螺旋こそが、人類の本当の闇なのだと思う。 想像以上に過酷な行軍の果て、年老いた黒人帰還兵たちが掴み取ったものは、黄金でも、亡き隊長の尊厳でもなく、戦地に置き忘れてきた「罪」そのものだったのかもしれない。 2020年8月28日。誇り高き“ワカンダ国王”の訃報が、多大な悲しみと共に世界中を駆け巡った。 享年43歳、スター俳優のあまりにも早過ぎる死をいまだ受け入れることができない。 聞けば、2016年から闘病を続けていたというから、本作はもちろん、“ブラックパンサー”として登場したすべてのMCU作品も大病の只中で演じ切っていたということだ。 悲しみは尽きないけれど、今はただ、戦い切った偉大な戦士の安らかな眠りを祈りたい。[インターネット(字幕)] 8点(2020-09-02 23:46:03)《改行有》

147.  ラストレター(2020) 《ネタバレ》 遅すぎた邂逅は、それでも何かを癒し、未来を生む。 いびつで、拙く、寓話のように非現実的だけれど、それは僕自身が「Love Letter」から25年来、愛し続けた世界観そのものであり、“優しい嘘”は、あの時と変わらずに心を揺らした。 僕が中学生の頃、「スワロウテイル」を観て、岩井俊二という映画監督の存在を初めて知った。 「映画」というものを自身の趣味として積極的に観始めたばかりの頃で、見識が浅い子供だった僕は、映し出されている映画世界のどこまでが現実で、どこからが非現実なのか、その境界線を判別できなくて、大きな戸惑い共に衝撃を受けた。 無論それは、あの“イェン・タウン”という異世界に対してリアリティを感じたというわけではなく、エキセントリックな「寓話」として映し出された空間に妙な生々しさと、現実世界と地続きの真理めいたものを感じたからだと思う。 以来僕は、二十数年に渡り、この映画監督が生み出す“世界”の虜になり、憧れ続けてきた。 時間は瞬く間に過ぎ去り、中学生の男子は、アラフォーのおじさんになった。 2016年の「リップヴァンウィンクルの花嫁」以来4年ぶりの最新作に対しては、少々気が引けていた部分があった。 「Love Letter」の二番煎じとまでは言わないまでも、何となく懐古的な雰囲気を携えたイントロダクションに懸念を感じていたこともあるが、何よりも僕自身が、“ラブストーリー”というものに対して、とんと縁遠くなってしまっていたことの影響が大きい。 四十路前のおじさんになってしまった自分が、中学生時代から憧れ続けてきた映画監督が新たに生み出したラブストーリーを目の当たりにして、照れずに、素直に受け入れることができるだろうか。そういう「危惧」が無意識下にあったように思う。 でも、そんな危惧や懸念は、序盤の何気ないシークエンスに触れた途端に消え去っていった。 少年少女たちの他愛もない台詞回し、どこか無防備な役者たちの自然体の演技、ただひたすらに美しい映像世界、ファーストカットからの一つ一つに対して、「ああ、岩井俊二の映画だな」とストンと腹に落ちる感覚を覚えた。 松たか子、福山雅治が演じる主人公たちは、奇しくも高校卒業から二十数年を経た“おばさん”、“おじさん”。 この上なくセンチメンタルで、ロマンティックなラブストーリーであることは間違いないけれど、この映画は、まさに「Love Letter」から25年が経った“僕たち”のための作品だった。 二十数年の年月は、劇中の登場人物たちにとっても、現実世界の僕たちにとっても、同じように長く、一口で語れるものではない。 色々なものを失い、色々なものを得るには充分な時間であろう。 過ぎ去った時間のあまりにも眩い「光」を愛するあまりに、逆にその呪縛から抜け出せずにいた売れない小説家の男。 不意に訪れた邂逅により、彼が突き付けられた“現実”はあまりにも厳しく、尽きせぬ悔恨と共に容赦なく「闇」の中に突き落とされる。 けれど、その邂逅は、男を呪縛から解き放ち、「闇」の中から新しい「光」へと導いてもいく。 “幻影”のように美しく光り輝く二人の少女に対峙した彼は、決して取り戻すことができない時間の無情さを痛感したと同時に、悔恨も、贖罪も、悲しみも、感謝も、すべてひっくるめて歩むべき「未来」を見出したのだろう。 “信奉者”としての贔屓目は多分にあろうとは思う。 ただ、岩井俊二の映画作品と共に、僕は僕なりに、二十数年の“紆余曲折”を経てきたわけで。 その上で得られたこの新たな感動を否定することなどできやしない。[映画館(邦画)] 9点(2020-01-21 23:05:14)(良:1票) 《改行有》

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