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【製作年 : 1960年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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141.  夕陽に赤い俺の顔 「殺し屋」というイメージが持っているある種の情緒(ニヒルで・孤独で・斜に構えた)を、無効にしたい思いが感じられる。ちょうどヨーロッパ映画などでもポップな風潮が流行ってきたころで、その流れに乗ったのか。本来なら背反されるものが一緒にあることの「肩透かし感」みたいなもの。ドクターは医者と殺し屋を両立させていて、殺された人物に「ご臨終です」と宣告する。(当時の)近代的な団地をそれぞれの変装で行くおかしさ(殺し屋たちの個性が弱いのが残念、和風やくざの三井弘次なんかもっとうまく使えなかったか)。寺山の特徴は、情緒を排斥したい気分と、情緒にひたりたいウェットな志向とが重なっているポップ感で、殺し屋たちはドライにコンクールで腕を見極めようとするが、彼らが歌う歌は船頭小唄の替え歌で「俺は下町殺し屋さ~」となる。もちろんこの対比のおかしさがポップでもあるんだけど、情緒纏綿とした大正歌謡や下町という風土の肌合いへの志向は、ただ対比のために持ち出されたものでなく、彼の好みでもあったはずだ。監督篠田は松竹ヌーベルバーグとして括るのとは別に、鈴木清順と同時代人という(今まで考えたこともなかったが)世界的なポップの風潮での括りもあるんだなあ、と発見した。[CS・衛星(邦画)] 6点(2013-02-25 09:58:21)

142.  ひばりの森の石松 冒頭、大量の茶摘娘が茶畑から出たり引っ込んだりするのに圧倒され身を乗り出したものの、本編に入っての石松のそそっかしさの描写が一本調子で、そのハイテンションぶりにややゲンナリ気味だったが、丸亀のお家騒動が絡んできて盲目のお姫様が登場したり(夕焼けをバックにしたやけに叙情的なシーンも時代劇の一景としてちゃんとハマる)、スリの三次なんてのも絡んできて「時代劇」の雰囲気が濃くなってくると再び嬉しくなった。茶摘娘以外にもエキストラをケチってなく、時代劇のエキストラは最低でもカツラと衣装が必要で現代劇の何倍もの経費が掛かるんだろうが、そこは映画黄金時代の贅沢さ、たっぷり堪能。三十石船のくだりはオーソドックスに見せ、しかしそのあとに竜宮城での里見浩太郎とひばりのレビューシーンが続くという緩急自在、ついで宿場ボーリング場での立ち回りになだれ込む弾けっぷり。かつで時代劇の器はこんなにも大きかったんだ、とうらやましくなったり、その喪失を哀しんだり。 [CS・衛星(邦画)] 6点(2012-12-13 09:58:45)《改行有》

143.  拝啓天皇陛下様 日本の戦争映画では学徒兵などインテリを主人公にしているのが多く、いかに彼らが古参兵にいじめられたかを繰り返し描いてきた。そもそも兵隊の記録がインテリによって綴られてきたせいで、軍隊の大半を占めていた農民あがりの兵の視点が弱く、もっぱら悪役として扱われるパターンが出来てしまっていた。本作はその偏向を是正する作品。元学生にとってはキツかった軍隊生活も、食うや食わずの元農民にとっては極楽だったという視点、イデオロギーではなく極楽の采配者としての天皇への帰依。そういう視点の新鮮さはいいのだが、それが十分に生かされていたかどうか。エピソードに分解されたあれこれはあまり新鮮でなく、インテリの記録とさして違わなかった気もする。けっきょく記録を採ったのはインテリの作家の語り手によるわけで、そこらへん仕方なかったのか。こういう視点からもっと戦争を深くえぐれる映画が生まれた可能性もあっただろう(極楽の軍隊に馴染みすぎたせいで、戦後の日常に不適応になってしまうあたり、もっと突っ込めなかったかな)。渥美清と藤山寛美という東西の天才喜劇役者を揃えたのに、なんかもったいない使い方をしている(あの授業のエピソードはいいんだけど、この顔合わせで期待させるものとは違うんじゃないか、という気分)。嬉しいのは当時の映画を回顧するシークエンス、水中撮影でやっているのが『与太者と海水浴』。これは高峰秀子が男の子を演じたうち残っている数少ない一本。豚を追いかけているのが『子宝騒動』。斎藤寅次郎のサイレントコメディの水準の高さを現在に伝える貴重な作品。二本ともフィルムは揃って残っているので、機会があれば御覧になれます。[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-09-10 09:52:28)

144.  帝銀事件 死刑囚 事件や裁判を再現した部分はおおむね面白いんだけど、おまけの部分がつまらない。イライラした新聞記者同士が殴り合ったあとで、笑ったり。731から占領軍にという部分で告発があるんだけど、弱いんだな。漠とさせたまま、「俺は怒ってるんだ」という姿勢を見せただけで満足してしまっている。本気で詰めようとしてない。ま、警察の捜査方針が変えられていったとこなどを具体的に見せただけ、社会派映画ではいいほうかもしれない。元731の手紙を途中で中断し、これは書けない、と額にしわを寄せるような思わせぶりの新聞記者の正義感はヤだった。もちろんドキュメンタリー映画ではなく、原作があるものをドラマ化してるだけなんだから、そういうことに文句を言うのは筋違いかもしれないが、映画人としてそういう広報係に自分を固定しきってしまっているのが、なんかもどかしい。[映画館(邦画)] 6点(2012-09-06 10:30:18)

145.  パリで一緒に オリジナルはデュヴィヴィエの映画だそうで、私は未見。デュヴィヴィエよりクレールって感じがしたが、ともかくいかにもフランス映画のエスプリは感じられ、それをうまくアメリカ映画のユーモアに変換すればいいわけだったんだろうが、なんかうまくいってない。この設定を本気で生かそうとしてない。想像の中の「エッフェル塔を盗んだ女」のタイトルのあたりなんかは、結構、いや相当ワクワクした。ちゃんとタイトルがそれらしく出ていき、シナトラ歌う主題歌が流れ、オスカー獲ったら「影の功労者」たちの名を挙げよう、と脚本家の妄想が広がっていくあたり、とても楽しい。しかしその映画の展開がギクシャクし、もちろん「なかなか書けない」という話なんだからその方向はいいんだけど、この『パリで一緒に』という映画そのものがギクシャクしていってしまった。大スターたちを使ってオワライ映画でいいんだろうか、ってな踏ん切り切れない姿勢が、いろんなジャンルを渡っていくだけの安易な展開にし、かえって笑いの水準を下げてしまったということはないか。T・カーチスの「チョイ役」役なんかはかなりおかしいんだけど。[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-08-04 09:54:32)

146.  ティファニーで朝食を 《ネタバレ》 不幸の影のある過去、離れた家族(弟)への愛情、囚人の連絡係に知らずになってしまうお人よしというか少々オツムの弱い「可愛い女」、といったもろもろは、どちらかというとモンローの世界だった。モンローが亡くなるのはこの翌年。なんか時代が決定的に移ろったことを思わせる作品だ。一番それを感じたのはファーストシーン。早朝のニューヨーク、ひとけのない街角に車から降り立つオードリー、開店前のティファニーを覗きながらパンをかじる。まだ名前のつけられていない野良猫のようなヒロインを画面に収めながら、ムーンリバーが流れていくあのシーンで、アメリカ映画は60年代に入っている。このトーンは70年代にもつながっていく。しかしモンローの50年代とははっきり質が変わったように思う。都会生活者のコメディってのはずっとあったが、人間主体でどこの都市でもかまわないようなものだった気がする。しかし60年代になって都市そのものにも重心が掛かってきたんじゃないか。これはニューヨークの安アパートが舞台でなければならない映画だ(『アパートの鍵貸します』も60年)。相手役のG・ペパードってのがつまらないとか、M・ルーニーの“ゆによし”さんが一人で40年代やってる、とか不満はいくらもあるが、時代が変わったことを告げる冒頭シーンの抒情は捨て難い。それと猫で収めていくラストの情感、きっとあの猫にも名前がつけられることだろう。[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-07-31 09:44:38)

147.  マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺 長い題名ということで、よく『博士の異常な愛情』とセットで思い出される映画。題名のインパクトのほうが記憶されてる作品とも言える。ピーター・ブルックは前作『蝿の王』では、いつも狭い舞台でやってた反動でか実景にこだわったそうだが(私は未見)、こっちは演劇的な舞台の興奮を煮詰めてみたよう。閉ざされた精神病院のさらに舞台(病棟)という狭いところへ押し込めた圧力に意味がある設定らしい。このややこしい設定によって、被圧迫者の革命と挫折(分断)を描いたらしいと見たが、フランス革命についての知識不足が災いしてしまった。マラーのほうが急進的で、暗殺者の女性のほうが穏健派なんだっけ。そのマラーとサドが対論を交わしたりするんだけど、私が理解できた範囲内で言うと、被管理者として甘えてしまう民衆に対する絶望みたいのが根底に感じられた。これ60年代ならではの熱さね。全体にリズムの良さが感じられるのは、もう舞台で手馴れていたからだろう。役者も長ゼリフに耐えていた。逆光が美しい。光=外界への希求を暗示してたんだろうな。精神病院の外への、革命の先への。[映画館(字幕)] 6点(2012-05-30 10:35:49)

148.  フレンチ・ドレッシング(1964) 60年代ってのは、ポップの時代ってことで世界的にトーンが一貫してますなあ。『ナック』『茂みの中の欲望』などイギリスだけでなく、ヌーベルバーグだって、あれポップのバリエーションと見ることが出来るんじゃないか。ヨーロッパの伝統の重みから身軽になりたい、って気分。K・ラッセルの異才もルーツをたどると普遍的なポップという土壌に行き着きそう(本人によるとなんでもジャック・タチ・スタイルを意識したそう)。これをギトギトケバケバに煮詰めていったところに、独特の作家性が生まれたんでしょう。で本編がデビュー作。この人の好きな四角い舞台(ボクシングとか)が、もうこれのローラースケート場で出てくる。式典性。盛装をチャカす。パレードの舞台の歴史劇。それを見ていたヒナ壇がズルズルと後退して…。このひなびた田舎町に英国の自画像を見ているみたい。自嘲でもあるか。ガールフレンドのジュディはこの時代の子ですなあ。長い髪を風になびかせてボーイッシュで健康的で。[映画館(字幕)] 6点(2012-02-21 09:51:42)

149.  唇からナイフ マンガを一流の役者・一流の監督で映画化する、ってののハシリか。ポップな感覚。壁の模様なんかはいいけど、演出のほうはシラケ気味。ラストのアラブの騎馬軍団の疾走と甘美なラブソングの交錯のみ、色褪せずにイキイキしていた。役者ではモニカ・ビッティはよくやってたけど、『ベニスに死す』ダーク・ボガードと『コレクター』テレンス・スタンプは浮いてた。とりわけ後者。こういう役者たちをパロディで使うってアイデアは悪くないのに、残念、外れた。当時観てればパロディとしての力がより感じられたのかも知れない。スパイ映画のいい加減さを笑う、って。でも007のほうはいま観ても面白いのに、それを笑ったパロディのほうはいま観るとつまんない。パロディの哀しみ。イギリスという国では、こういう喜劇ができないと一流監督と思われなくて、J・ロージーが慣れないのに一生懸命やってみた、って感じもある。[映画館(字幕)] 6点(2011-11-08 09:59:01)

150.  パリところどころ 《ネタバレ》 1。サン=ドニ街。おどおどした青年と堂々とした娼婦との空間。見つめる先祖(父?)の肖像。ピーター・ローレの感じ。真正面から撮る食事(スパゲッティ)のシーンが特徴的。2。北駅。長回しの試み。途中エレベーターの闇でつないでたけど。朝の支度と並行する夫婦喧嘩。謎のなくなった夫に対して、行きずりの男は謎だらけ。3。サンジェルマン。アメリカ娘と、メキシコ大使の息子を名乗る男と、ホンモノとのうつろい。メキシコに去ったはずの男が…というお笑いつき。4。エトワール広場。これが一番面白かった。まず広場の解説から始まって、やたら車道を渡らなければならない仕組み。そして主人公の出勤が一通り描かれて、これが大事。そして運命の日。列車の中で靴を踏まれてからリズムが狂う。変人に絡まれて傘で倒してしまう。ずれると常に赤信号になっている歩道を渡っての出勤となり、そして…と、彼の小心ぶりをメデる話になっていく。弱点を肯定する精神と言うか、いかにもフランスなコント。切り口を楽しめる。最後、傘が女性と絡まって紳士的に挨拶するエンディングまで粋である。5。モンパルナス。二人の鉄板をばんばん叩く男に速達を間違えて出したと思った女の悲劇。これもコント。かえって彼女の正直さが浮かぶ趣向。中断される叙情的なメロディ。6。ラ=ミュエット。耳栓を詰めて家庭内の音が消える少年の世界。猫をかわいがっているような、いじめているような。母が階段落ちても気がつかないって話。どれも社会規模に拡大しない小さな世界をスケッチしてきれいにまとめている。フランス的ってそういうことなんだな。[映画館(字幕)] 6点(2011-10-12 10:24:30)

151.  ガス人間第一号 《ネタバレ》 日舞の家元とガス人間と銀行強盗との三題噺、って感じで、家元とガス人間の悲恋、ガス人間銀行強盗のスリラーってのはそれぞれドラマを構成できてるんだけど、家元と銀行強盗がどうもトーンとしてつながってない。いえね、東宝はいつもキャバレーを背景にしてて、たまには古典芸能で別の味を出そうか、という新しいことやってみる冒険は立派よ。最初に荒れ屋に八千草薫が登場するあたりは悪くないんだけど、どうもなあ、家元が発表会を出来るようにガス人間が銀行強盗をやる、って展開はなんとも不安定。映画におけるミスマッチってのは、どちらかというと好きなほうで、よくやったと誉めてもいいんだけど、後半ヘンに湿度が上がってしまう。新しい冒険をしたようでけっきょく古い型に寄りかかったというか。銀行強盗もそうだよな。社会的犯罪を絡めなくちゃいけない、という決まりが東宝社内にあったのかな。事件だけならまだいいのよ。中盤で土屋嘉男が自首してくるあたりはすごくいいし、その後の銀行での事件の再現もワクワクさせる。胸に手を当てて精神統一するポーズもいいな。ふんわり浮き上がった札束がこちらに飛んできてバラけるの。でもそういったことが、日本舞踊の発表会を成功させるためってのには、どうも無理が感じられるんだ。せっかく化け物にされた側から描いているのに、即犯罪者に仕立てるのはどうなんだろう。あと一つ、ガス人間を出せとわめく発表会場の乱入者たち、ガス人間の落ち着き・紳士的と対比させたんだろうが、なにもあんなチンピラにしなくてもいいのに。あそこは普通の「良識ある一般市民顔の人々」にしたほうが、効果がある場面じゃないか。[DVD(邦画)] 6点(2011-10-05 10:09:28)

152.  反逆児(1961) 《ネタバレ》 ヤマトタケルや義経にも通じる「一族に使い捨てにされるりりしい若者」という日本古来の悲劇の伝統、と錦ちゃん側から見ると古典劇的な設定なんだが、ドラマの展開の軸はどちらかというと女たちの心理ドラマで、だから杉村春子・岩崎加根子ら新劇俳優のほうが生き生き演じている。だいたい「忠臣蔵」でも、大石は旧劇系、吉良は新劇系という配役になるもので、複雑な心理を演じるとなると新劇系に託される。だからこれは時代劇ではあるけれど新劇なので、するとラストの介錯の刀がためらうあたりの大時代な演出はシッカリ浮いてしまう。いっそ女のドラマと割り切った作りにしてしまえばスッキリしただろう(ま、ポスターのトップは錦之助でなければならなかったんだろうが)。杉村・岩崎に加えて桜町弘子も、あの時代の「コマとして使われる女の悲劇」を演じていた。グレートマザーに滅ぼされていく若者を「反逆児」とわざわざ持ち上げなくても良かろう。このタイトルは「反逆児になれなかった坊ちゃんの悲劇」の略なのか。錦ちゃんて、悲憤慷慨する場面で歯を剥くといつも笑ってるように見えるので昔は戸惑ったが、慣れてくるとその笑ったような怒ったような不思議な表情が「なるほど、屈折した悲憤慷慨なんだなあ」と味わえるようになったものだ。[CS・衛星(邦画)] 6点(2011-05-18 12:14:35)(良:1票)

153.  社長漫遊記 《ネタバレ》 オリンピックの前年いうことで、社長のアメリカかぶれはもっと生々しい皮肉になってたのかも知れない。役者のちょっとした仕種なんかにくすぐられるところが多い。これ小林桂樹のトーク付きで観たんだけど(成瀬巳喜男の『女のなかの他人』と、筧正典の『新しい背広』ってほのぼの小品と、小林桂樹が出てるという以外共通点を見つけづらい風変わりな三本立てだった)、かなりアドリブ的に入れたところがあると言ってた。一番光ってたのはやはり三木のり平で、ときにすごく残忍な表情を浮かべながら、それを全体の喜劇トーンにうまく溶かし込んでいる。社長と刺々しくやりあったり、ちょっとした独のあるセリフを付け加えたりするのが、わさび的に絶妙。森繁も、無理にフォークでそばを食べるとこなんか、わざとらしさの極致なんだけど、笑ってしまう。尊大さと、ふっとした卑小さとをくるくる交換するおかしさ。フランキー堺の三世(?)言葉のおかしさ、こんな程度のことで笑ってはいけないと思いつつ、これも笑ってしまう。チームワークの良さで、場そのものが生き生きしてるってことなんだろう。池内淳子の消防芸者ってのは、火事があると野次馬で見に走り出してしまうっての。[映画館(邦画)] 6点(2011-03-15 12:28:23)

154.  関東無宿 松原智恵子はどこ行ったんだ。時代がよく分からない。物語で捉えようとすると変なまとまりのない話で、清順監督でなかったら、そのことだけでダメって言っちゃうんだけど、それが魅力になるから困るんだ、この人。親分もきたねえ、子分もきたねえ、と一人で嘆いている男が主人公なの。面白かったのは、ドンツクドンドンツクツクのリズムがだんだん激しくなっていって、中原早苗の危機と重なるところ。伊藤雄之助とのサシでの花札勝負もいい。一番の見せ場は、やはり賭場を荒らされて逆に斬るところね。歌舞伎的な趣向だもんで、ロングの舞台風の画面が生きる。どこか安っぽさがつきまとうんだけど、この監督は「安っぽさ」を突き詰めようとしているところがあって、それがちゃんと滲みてくるときもあれば、ただ軽く見えてしまうときもある。監督のしたり顔がスクリーンの背後でちらついて見えてしまったりするとダメ(伊藤弘子とのシーンで、外だけ照明が落ちたり中だけ落ちたりする心のうつろいも似たようなもの)。もうちょっと見せ場を長くしてクラクラさせるとこまで行ってくれればもっと良かった。[映画館(邦画)] 6点(2011-02-16 12:26:20)

155.  殺しの烙印 正直言って、日活首脳部の気持ちもちょっと分かるな。どの程度までギャグとして見ていいかわかんないから困っちゃうとこあんのよね。水道管のシーン。飯の匂いを嗅ぐ、ってのもそういうとこあるし。ライター広告からの狙撃はマジでしょ。アドバルーンは△ね。南原君と二人の対決シークエンスなんか、荷物に腕組んでドアに立つなんてとこは生き生きしてんの。迷いなく純粋にいいなと思ったとこは、波止場のシーンで撃たれた相手が落ちて縄に引っかかるところ。蝶だらけの部屋とか、8ミリ映像との会話とか、変に凝ったとこはかえって軽く見えてしまった。といってこの監督は「変に凝る」ところをみな楽しみに観てるんだから、気分が合わなかったってことかもしれない。この人の映画は、観るときの気分が大事なんだ。だいたい様式的なものってのはみなそう。たとえばミュージカル観て、なんでこいつら急に踊り出すんだ、なんて気分になったら、即、中止したほうがいい。[映画館(邦画)] 6点(2011-02-14 09:43:32)

156.  狼王ロボ 《ネタバレ》 家族が出来たロボがインディアンの廃墟に住む、ってのは原作がそうなってるのか。ロボより先に土地を追われたものへの視線は、どの程度意図的だったのだろう。60年代後半だと、そこに批評的な眼がありそうだが、この映画が作られた前半は微妙な時期。少なくとも現在観るものにとっては、インディアンとロボが重なって見えてくる。そして伝説に流れ込んでいくあたり、展開としてはうまい。シークエンスの間に入るロボの歌が、カウボーイの伝説としての味を出している。こういう動物ものってのは映画でしか出来ないな。舞台でぬいぐるみでやったら悲惨だし、人形劇だと舞台が狭く、伝説というより童話になってしまう。ま、放送劇ならなんとか可能かもしれないが、視覚を伴うとなれば、実写かアニメかの映画しかないだろう。それはやはりフィルムがもともと記録のためのものだからで、とりわけロボの子ども時代は物語よりも記録性が強く、こういう「語り」はフィルムでのみ可能だ。でもあくまでこれは劇映画であり、そこが割り切れているから、たとえばテレビの動物ドキュメントなどでよく見られる中途半端な擬人化による不潔感は、かえって感じなかった。とはいえ、この手の映像がさかんにテレビで流れる現在見るといささか素朴で、その懐かしい素朴さが味わいと言えば言える。ロボは、徒党を組んで牛を襲い賞金が出ていると解説的には知らされるが、映像ではもっぱら家族レベルで描かれてたので、ラストで急に仲間がわらわらと出てきたのには、ちょっとつながりが悪かった。でも締めとしては効果的なスペクタクル。そうそう、こういうのはずっと音楽が鳴りっぱなしなんだよね。ちょっとした動作にもそれに合った音楽がいちいち付いて(「逆ファンタジア」か)うるさくはあるけど、これもなんか懐かしい。[CS・衛星(吹替)] 6点(2011-02-09 09:59:26)

157.  イージー・ライダー なんか大昔のことみたいね、あの元気のないヒッピー・コミューンとか。ああいった人たちは今どこに行ってるんだろう。南部のいやらしいネトネトした部分だけ生き生きしてる。つまり「自由に生きる」というイメージの貧困さが、時を経てアラワになっちゃったってことか。結局あの時代のムーヴメントがたいした成果を残せなかったのも、そういう弱みを持ってたからだろう。オートバイの旅どまりじゃいけなかったのよ。もっと「寒さに震えるような自由」まで突き詰めるべきだったんだろう。あんな炎で祝福されるような死を与えてはいけなかった。全体に宗教に寄りかかっている気配もあった、それも限界。街のないアメリカ、風景だけのアメリカを見せてくれたっていう面はあった。などと不満をもっぱら述べたが、それも映画が時代を、作者の意図を越えて正確に写し取ってくれていたからで、これもフィルムの力だ。[映画館(字幕)] 6点(2011-02-07 09:50:24)

158.  私は好奇心の強い女 いかにもあの時代にふさわしくインタビューで始まる。スウェーデンに階級は存在するか、って。ここらへんテキパキとしていて面白い。労組の事務所に行ったり、スペイン帰りの人にフランコについて尋ねたり。またパルメ教育相との実際の対話、マーチン・ルーサー・キングとの構成されたインタビューなども織り込まれる(パルメはベトナム反戦デモに大臣として参加し、アメリカ大使が抗議して本国に引き上げたのが68年。ついでに言うとパルメは首相になっても米軍の北爆を「ナチス以上の蛮行」と公言した。のちに暗殺される)。スウェーデンというとまず「フリーセックス」とくるのが当時の一般的認識傾向で、この映画もそういう「スケベ」の線で話題になったのだが、もうひとつ「ラジカルな平和主義」も忘れては悪い。この毛沢東主義に注目が集まっていた時代に、中ソにも否定的な意見を述べたくだりがあって、そういうとこ真面目。ボカシがはいると、テレビで「映像が不鮮明で申し訳ない」というアナウンスを入れるのがおかしい。非暴力主義の軍事訓練のパロディは、もひとつそっちの社会情勢が分からないので、笑えなかった。ヒッピー風の禁欲生活を対象化したおかしさもあった。懸賞付きクイズも入る。そういう、もうあの時代の匂いプンプンのポップな映画。しかしいろいろ政治の時代とその風俗をコラージュしながらも、政治の現場から遠い地点にいる若者たちのいらだたしさみたいなものを感じたが、当たっているかどうか。主役の女学生を演じたレナ・ニーマンと、ベルイマンの『秋のソナタ』で病気の妹を演じたレナ・ニーマンとが同一人物かどうか確認していない。[映画館(字幕)] 6点(2011-02-02 09:34:08)

159.  ラ・ジュテ 《ネタバレ》 剥製たち。静止画像だと、それが生きているのか剥製なのかの区別がつかない。そこが博物館だと知らされているので、過去に死んでいるので静止しているのだろうと思うが、こういう作りの映画だから動物園を描いても同じに見える。そこらへんの多義的な曖昧さが作品のポイント。寝ている女の顔の連続画像によるうつろいが美しく、そして静かに目をまたたく。実はこれ、昔スクリーンで、同じマルケスの『北京の日曜日』やレネの短編なんかと一緒に一度観てるんだけど、そのときの私のノートには「“過去の女”がまたたいたとこは動いた気がするが、巧妙なディゾルヴだったか」と自信なく記されている。今回は録画してあるので、観終わった後にさらにもう一度確認した。動いている。やっとはっきりしてスッキリした。このハッとさせる瞬間のために静止画映画という試みにしたのかも知れない。剥製のように静止していた過去のものが、生きてまたたくおののき。スッキリはしたが、スクリーンで何も知らずに観たときの、再確認できない・夢幻のような曖昧なまたたきの効果のほうが狙いだったのであって、余計な確認をしてしまったか、という気もした。[CS・衛星(字幕)] 6点(2010-12-25 15:02:54)

160.  続・忍びの者 《ネタバレ》 私なんか山村聡っていうとテレビでの「ホームドラマの穏和なお父さん」って印象が強いので、昔の映画で暗い役やってるのを見ると最初は意外な気がしてた。煩悶したり自殺したり、ものごとを悪い方へ悪い方へと考えがちな、知的で暗い人物の役が多く、監督やらせると『蟹工船』だったり。だもんで、光秀=戦国史上一番暗い男=山村とすんなりキャスティングされたんだろう。まだ私はホームドラマのお父さん気分が抜けきれてないもんだから、ちょっと戸惑った。若山富三郎の信長体型もかなり違和感だったし(こっちの方がよっぽど石川五右衛門)。でもそれらは見てるこちらの問題。忍者映画にしては忍びの者が無力すぎないか。本能寺で何をしたかっていうと、トドメは刺したものの、追い詰める手段としては床下で火を焚いてるだけなの。個人的な子の仇なら、光秀を離反させるなんて遠回しな政治力学に加担するより、好きなときに自分で忍んで寝てるとこ刺せばいいじゃないか、そんな簡単に忍び込めるんなら。人に使われることが染みついた下忍根性のフガイなさ、ってテーマに集約されてるわけでもなく、なんか無力感ばかりが募る(本能寺で学んで、次の聚楽第では前向きになったってこと?)。そして左翼監督の悪癖、弾圧されるシーンでの悲壮感への陶酔。なぜ敗北したのか、と建て直しに向けた論理的な検証はなく、弾圧されたこと自体が自分たちが正義である証明だとでも言うように酔ってしまう。弾圧された死者たちは、ただの記念碑になってしまう。これ左翼に限らず、日本において野党的なるものに共通している心情。[CS・衛星(邦画)] 6点(2010-12-06 10:29:28)

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