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【製作年 : 1950年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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141.  エル(1952) 《ネタバレ》 普通こういう話だったら、妻を主人公にするよね、スリラーとして。たしかに語りはおもに妻だけど、主人公としての焦点は狂ってく夫に絞られている。スリラーとしての楽しみもあるけど、それが精神病の症例記録ってリアリティも持ってて、なんとも得体の知れない手触りの映画になった。主人公は正義の人なんです、不正が許せない。祖父の代の土地問題を裁判していて、どうもかなり無理な訴訟らしいんだけど、自分が正しいという信念があって、正しいことが負けるはずがないと思い込んでいる(こういう訴訟を抱えている人は『昇天峠』にも登場した。ブニュエルの近辺に実在したのかな)。いいかげんに生きてる奴らへの軽蔑と憎悪が煮えたぎっている。ここに愛する人が登場し(というか愛する脚を所持する女性)、嫉妬の苦しみが生じる。自分の厳格で高貴な世界に彼女を囲い込みたい。嫉妬で荒れては、許しを求めてひざまずく、その繰り返し(落とした食器を拾おうとして妻の脚を見ると、許しを乞い出すの)。自信過剰と自己卑下の壮大な空中ブランコを眺めているような躍動感がある。教会の鐘楼に上って、いいかげんに生きている他人どもの世界を見下ろす、彼らに対する軽蔑だけならいいけれども、そういう他人どもとも生活していく上で接触しなければならない、そこで自分と妻の高潔が汚されるのが我慢ならないわけ、そりゃ追いつめられていきますわな。その果てに、階段で手すりの間を叩くシーンが来る。あそこは妻の立場に立って怖いのではなく、あくまで主人公が追い込まれている状況が怖い。そして街に飛び出すと、軽蔑して止まない他人たちが嘲笑を浴びせてくる…。狂おしいまでの愛の物語ってのは映画史上たくさんあるが、ここまで狂ってて、しかもそれを冷酷に観察してる作品ってのはあんまりないぞ。[映画館(字幕)] 8点(2010-03-18 12:09:25)

142.  次郎長三国志 第九部 荒神山 《ネタバレ》 前作からのつながりで、山に籠もってる、いう設定。土屋嘉男の農民が恨みから変わっていく展開がポイント。良いやくざとしての次郎長と悪いやくざとしての新辰、というはっきりとした図式が後の仁侠映画の定型をほうふつとさせる。それはまた何やら芝居がかってくるということでもあり、このシリーズ前半のアナーキーな味わいからは遠くに来てしまった。この映画、後半になると「荒神山完結篇」へ向けた布石がもっぱらになる。私はこれフィルムセンターで観たんだけど、「完結篇」の予告編ってのが付いていて、「撮影快調」だそうで、次郎長一家が樽みこしを担いでワッショイワッショイやっていたのが微笑ましかった。全体を通してでは、前半の、サークル的と言うか、気のあったもの同士がじゃれ合っていたあの感じが、このシリーズの良さだったのじゃないかと思える。やくざとしての一家の構えがはっきりしてしまうと、もう損得を考えない「馬鹿」で押していくのには無理があり、どうも気分がうまくノレない。後の仁侠映画のような「日蔭もん」という陰気なポーズをとって、衰滅なり崩壊なりを前提としたドラマを仕切り直さないとならない気がする。日本文化における「やくざ」というのは、実に微妙な位置取りにあるんだな。[映画館(邦画)] 6点(2010-02-20 11:57:36)

143.  次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊 《ネタバレ》 豚松の母親の嘆きなど、「カタギ」と「馬鹿」が対比される。やくざというのは、つまり「馬鹿」の開き直りってことなのか。馬鹿の石松は吃らなくなり、死ぬときには左目が開く。死んで治る馬鹿もあるのだ。嵐の祭りの夜、お面が乱れ走るあたりが映画として美しいところ。今まで命を粗末にしてきた馬鹿が、恋をして、俺は今死ねねえんだよう、と言いながら死んでいくところが哀切のポイントで、こういうのは後の仁侠映画の脇筋でもしばしば使われることになるわけだ。ラストは、石松の死、身請けされて晴れ晴れと道中の夕顔、青空、そして怒りに燃えて海辺を走っていく次郎長一家の面々、というシーンをバッバッと並べただけでバタンと終える切迫。シリーズ全部を通して言えるんだけど、仇役に対して映画はほとんど興味を見せない。仇が現われたとき、この身内がどんな反応をするかってことのほうが眼目になる。視点は一家の外でなく、内にある。唐突だけど、これはかつての日本の国策戦争映画の特徴とも重なっている。そういう余分なことを考えちゃうと、石松の死を、ただ哀切として味わっていいんだろうか、という気分にもなるんだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-19 11:59:30)

144.  次郎長三国志 第七部 初祝い清水港 《ネタバレ》 正月映画らしい道具立てで、忠臣蔵の七段目をベースにしたような一編。もっとも大石はリコウがバカの振りをして浮かれていたのに対し、俺たちゃバカがバカやって、とぼやいたりはする。お蝶の百ヶ日までは我慢して、その後で千葉信男との対決という寸法。「バカ」というのは「企てる」のが下手、ってことだろう。だとするとフグ中毒を偽装するのはあんまり合ってないことになるのだが、バカがバカなりに企てて、という面白さと思えばいいのか。バカは間が持たない、とも言う。佐太郎が小料理屋を開く、大政の妻がやってくる(武家言葉とのちぐはぐさで笑わせる落語的要素)、など「周囲のその後」で話の隙間を埋める。千葉信男の手下たちが夜の街を巡礼の鈴を鳴らして走り回る妖しさ。やはり久慈・越路の姐さんたちが決まっていて良い。最後、尻もちをついている久六に対してイットーサンたちが割りゼリフで決めるのも、歌舞伎的で正月映画らしい。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-18 12:00:42)

145.  次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家 《ネタバレ》 御詠歌を流す巡礼で始まり、一転渋い一編となる。逃げ回り野に伏す日々。石松が思わず吃らずに嘆いてしまったりする。男泣きの場が多い。「こらえる」ってところがポイントのようで、これにさらに磨きを掛けたのが後の仁侠映画になるのだろう。流れ流れて貧しい小松の七五郎のところに身を寄せる。雰囲気としては二作目の佐太郎の場に似通っているが、意外と女房役の越路吹雪のきっぷの良さがいい。考えてみれば久慈あさみも結構そうだが、非時代劇的なバタくさい顔は、人情濃い女に仕立てやすいのかも知れない。金の工面のために身を売ろうとする話を、彼女のキャラクターが救っている。鬼吉がカタギの両親を泣かせて金を融通する、大政がもとの女房と会う、など過去との接触もあるのが本編の特徴。ヤクザはカタギに迷惑かけちゃあいけねえんだ。若山セツ子のお蝶の死が訪れる。いかにも「幸薄い」キャラクターで、これを観たのが彼女の自殺の後だったためか、より薄幸さが迫ったものだった。次郎長も、しかたなくいやいや人を斬ったことを、おびえてうなされたりする。やはり暗い。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-17 11:08:47)

146.  次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路 《ネタバレ》 まず祭り。陽気な爆発。路地の中にゆっくりと踊りながら入り込んでくるおせんちゃんのカット。お囃子が聞こえ続ける中の、お蝶の馴れ初めを語るおのろけ、ぼんやりと手を踊らせながら語る。こういうおのろけは不吉な予感でもあるわけだ。で、そのはしゃぎの中に悪い知らせが来て緊張になる。お仲を救うために殴り込みにいく。三度笠に合羽の男どもが道を行く風景はそれだけで美しく、しかも罠と知っても行く「男いき」の心情によって増幅される。振り分けの荷を捨てる。目潰しの粉は、木洩れ日をより美しく見せるためだろう。なんら複雑なものはない。ここでは仇すらあってなきが如きもので、ただただ次郎長親分とそれを信じてついていく子分の関係のみが重要らしい。豚松は死に際に「親分が好きだ」と繰り返す。この「馬鹿」ぶりは現実世界では批判されなければならないと思うんだけど、それを美しいと見る文化が厳として存在し、それに洗練も加わっているので、私なども「嫌だなあ」と思う気持ちと、ホロッとしてしまう心情とが、入り混じった状態になる。カラッと陽気な世界は本作までで、以降しだいに湿り気を帯びていく。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-16 12:10:04)

147.  次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港 豚松(加東大介)とカタギとの関係が今回のポイント。豚松(個人)は次郎長の子分(集団)に入りたいが許されない。立派な魚獲りとヤクザもんという身分の高低のタテマエがあり、しかし個人の集団への憧れが逆方向にある。このカッコつけは仁侠映画でも常にあるもので、彼らの屈折した美意識かも知れない。豚松の対極にいるのが三五郎で、はっきりと所属しない一匹狼的傾向、ここに「ニヒル」が生まれる。さらに「裏切り」ってことがポイントになってくるんだけど、これがこれまでワッショイワッショイやる陽気な連中からは排除されていたものだった。でもこのシリーズではあくまでワッショイ派が主で一匹狼派は従。ラストで初めて本格的なチャンチャンバラバラが訪れる。人情的味わいとしては、やや劣る一篇か。[映画館(邦画)] 6点(2010-02-15 12:07:01)

148.  次郎長三国志 第三部 次郎長と石松 追分三五郎の小泉博と石松の森繁とのロードムービー的要素あり。こういうコンビは「さぶ」とか「ハツカネズミと人間」とか、「計画するリコーと純情のバカ」といった普遍的な安定したコンビであって、しかも女が絡む。女はバカを肯定するが、しかし好きにはなれない。で、男同士はやっぱりいいなあ、となるわけ。次郎長のほうも男だらけで、牢屋の中でもワッショイワッショイで勢いつけて牢名主に対する。このワッショイの陽気さ志向こそ、このシリーズの眼目で、好き嫌いは別にして男の集団の一つの原型ではある。彼らがそれぞれに黒駒の勝蔵と向かい合っていくことになる展開。壷ふり女の美しさってのがとりわけ映画で際立つのは、壷を置くまでの素早い「動」から「静」の緊張に至り、上目づかいで見据える顔が実にキマるところにあるんだろう。田舎の湯治場の狭い道を、お仲が歩いていくシーンなんかなぜか懐かしい。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-14 10:45:56)(良:1票)

149.  次郎長三国志 第二部 次郎長初旅 《ネタバレ》 小堀明男の笑いって、いわゆる親分的な不敵な笑いのなかにちょっと「はにかみ」のようなものも感じられ、未来の裕次郎を予告していないか。つまり日本における理想的な「不良」の型。権威に対する軽蔑、イキがっても興奮を抑える。堺左千夫の一家の歓待が主。少しの酒で酔った振りをし、佐太郎のほうもそれを了解している、そういう一見まわりくどい「分かり合い」の儀礼。とても日本的。博打で大勝ちを続けているところだけを見せて、それだけでスッちゃうとこを暗示させ、あとは身ぐるみ剥がされて寒い朝ヒョコヒョコ帰ってくるロングカットになる。河原のケンカも囲まれるところで、チャンチャンバラバラは見せないで、ちゃっきり節唄いながらの陽気な道中になってしまうのだ。この省略の味わい。ラストで森繁の石松が顔を出す。吃音を十分溜めたあとで立て板に水の口上を述べ、最後にまた吃って締める。実に鮮やかな登場ぶり。つまりこの一家、江戸言葉、尾張言葉、大阪弁などの地方言葉にさらに吃音まで加わって、多言語世界を構築するんだ。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-13 12:10:24)

150.  次郎長三国志 第一部 次郎長売出す 「馬鹿」な男たち、ってのも“男”の一つの原型で、のちの任侠もののストイックとは違い、無邪気にジャレあっているような連中。侍の大政が、武士社会の窮屈さから逃げ出して飛び込んでいきたくなるようなところ。大変だ大変だ、と両手をブンブン振り回して走っていき、ワッショイワッショイと川を往復し、なんて言うのかなあ、とにかくなんにも「企てていない」人間たち。冒頭の親分が尻ッパショリしながら後ろ向きに家を抜け出していくような、ああいう姿勢のイキさ。いろんな個性を持った連中が次々に集まってくる楽しさ(『七人の侍』の二年前か)。でも、棺桶を担いでケンカの口上に走る田崎潤のように、どこか死が近くにあるんだな。次郎長とまだ侍の大政が真剣で稽古を始めてみたり。陽気さやはしゃぎの背景に死が控えている。とりあえず仲裁という死を回避させる行為で名を挙げるまでなのだが。ラストで田中春男が予告編的に登場。[映画館(邦画)] 7点(2010-02-12 12:04:54)

151.  びっくり五十三次 このタイトル見ると道中ものだと思うじゃないか。最初はそうなんだけど、映画の大半は金谷の宿にいて、全然「五十三次」じゃないの。森の石松やお染久松を絡めて賑やかにはしている(お染はまだ林玉緒時代の中村玉緒、誕生日前なら14歳か)が、タイトルから期待した道中ものの晴れ晴れとした気分は味わえなかった。高田浩吉が二枚目半の役どころでこっちが主役、ひばりは画面に出てはいるんだけど、あんまりドラマの進行に積極的な意味を持ってなく、脇にいるだけで手持ち無沙汰という印象だった。とにかく出ていて歌えばファンは納得したのだろう。のちのこの監督の才気はうかがえなかった。バックの音楽が童謡・唱歌をはじめいろいろ何でも流れてくるのが楽しくはあった。夫婦が別れの場では「花も嵐も~」、妹探しの道中では「上海帰りのリル」、お祭りのシーンでは当然「お祭りマンボ」、飯田蝶子と左卜全の場では「オールド・ブラック・ジョー」。これはおそらく年寄りということで使われたので、飯田蝶子の名作、小津の『一人息子』でも使われてたこととは無関係であろう。[DVD(邦画)] 5点(2010-02-11 12:02:47)

152.  満員電車 《ネタバレ》 乾いたユーモア、人工的なセリフ回し、と特徴は備えているけど、けっこう暗い作品。音楽のせいもあるか。冒頭の傘の卒業式からして「混み合っている」イメージで統一されていく。バスがすれ違うところ、電車、通勤風景、街頭。つらい人生をこれでもかこれでもかと強調する。タッチはユーモアなのに、暗い。気づいた構図として、部外者のこっち向きの顔を隅に置いておくというのがある。時計屋でメガネをのぞいている男とか、船越英二の部屋での川口浩とか、ちょっと不気味な神経症的雰囲気。それと室内の照明、独身寮の空漠さを出すために過度にしたり、影を強調するために低くから当てたり(川崎敬三が訪ねていったときの小田原の実家、そしてこういう低い照明は晩年に至るまでずっと彼の好みになる)、デフォルメの効果。もっとハメを外してもいいんじゃないかと思うところもあるけど、その時代における貴重な一歩を踏み出している映画であったことはよく分かる。ラスト、小さな掘っ立て小屋を主人公は母と一緒に悲壮になって守り抜こうとしているのである。[映画館(邦画)] 7点(2010-01-28 11:59:18)

153.  白い馬(1952) 《ネタバレ》 いやあ、けっこう現実否定的な厭世観だなあ。なんかいくつかのスペイン映画思い出すし、こういうのってカトリックの世界観と関係あるのか。またこれ、仏教の浄土信仰も思い合わされる。言ってみればフダラク渡海でしょ、このラスト。この世を改革するよりは、あの世で幸せになりましょう、って感じ。負け犬となった負け馬が、孤独な少年と浄土に渡っていく、ってけっこう抹香臭い話だよね。ちょっとそこが引っかかるも、馬が走るとそれだけで興奮してしまう者なので、許せた。少年を引きずっていくとこなど、西部劇のノリ、このガッツで馬が少年を認めるって展開もいい。水辺という地理条件も映像に生かしている。馬と鉄道と車が存在しなかったら、映画はずいぶんつまらないものになっていただろうが、車よりは鉄道、鉄道よりは馬が、よりドキドキさせてくれる。[DVD(字幕)] 7点(2010-01-23 12:36:12)

154.  ベリッシマ イタリア語が氾濫すると、もう恍惚となってしまう。喧騒がカタルシスを呼ぶ言語なんてほかにあんまりないんじゃないか。内臓まで陽を浴びているような健康的な雰囲気。母親が娘にはいい暮らしをさせたい、という熱情に動かされているところがやはりネオ・リアリズムなんだろう。ただ母の娘への溺愛という一般化されるドラマの前に、社会というものが絡んでくる。映画会社の男(蟻を数えてらっしゃい)が母の期待の重荷を語るところ、あるいはスターだったのが今は編集にまわっているところ、などで広がりを感じさせる。このネオ・リアリズム監督だったころからもうバート・ランカスターに興味を持っていたことが分かって、それも興味深い、上流階級を扱うようになってから見いだしたわけではなかったのだ。でもともかく本作は、イタリアのお母さんを凝縮したようなアンナ・マニャーニの張きりぶりを眺めているだけで、もう十分に満足。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-15 11:58:51)

155.  現代人 《ネタバレ》 これ山田五十鈴の特集で観たせいか、『浪花悲歌』との類似に思いがいった。転落することによる告発。社会派映画の得意とした型だ。どこかで主人公は割り切って、世の中へタカを括ったはずなのに、ラスト近くで「俺は甘かった」とモノローグしなければならなくなる。この「甘い」ってとこ、その弱さに、渋谷はずっとこだわっていると思う。人間の、徹底できないとこが好きなんだな。純粋な悪も描かないかわりに、健全な庶民も描かない。池部の実家、寿司を買ってくるとみながもそもそと起きてきて、ガード下で電灯は揺れ、寿司の取り合いがあり、ほっぽり出された赤ん坊は泣いている。これだけの描写で主人公の悪への転換を納得させてしまうんだけど、この実家アカホンを売ってるわけで、マットウな庶民と胸を張れるほどのものではない。ここらへんの弱点の配置がうまいし面白い。動きとしての面白さは、この実家の場をはじめ、酔って五十鈴のバーに入り込んでいき、しゃがんで椅子がわりになり五十鈴が酒を取り出すあたり、手切れ金の小切手を池部の顔にペタンと突き返すとこ、池部と多々良が屋上へ出て喧嘩しかけてやめるとこ、などなど。とにかく昭和20年代末の東京、おもに銀座がたっぷりと出てくるのが嬉しい。屋上で食事してたのはどこなんだろう。[映画館(邦画)] 7点(2009-12-07 12:04:04)

156.  どん底(1957) 《ネタバレ》 音楽はアタマに鐘、ラストにピーッと能管、あとは中のバカバヤシ。『隠し砦』の踊りや、『夢』の葬列もあるが、けっこうミュージカル的な様式を感じさせる作品だ。冒頭はやはり門、黒澤映画で門は繰り返されるモチーフだが、ただ門の内と外のドラマではなくて、これは門の下の人々なの。門の内と外での争いからも脱落し、赤ひげのような“父”的人物もいない世界。これに近いのは『どですかでん』だろうが(どちらにも珍しく志村喬が出ない)、あちらは底に肯定の気分が感じられるのに、こちらにはない。みな嘘の自伝や夢に飲み込まれてやっと生きている。俺は職人なんだと最後まで世間の基準にすがっていた東野英治郎も、ラストではバカバヤシに加わる。その中で不意に現実の寒気を感じてしまった役者が首をくくり、三井弘次のアップ「踊り(夢)を邪魔された」で幕となるわけだ。陽だまり→風→雨と天気の移ろいも的確。職人の鍋をカリカリ引っ掻く音がいらいらを表現する。構図としては直線が直角に交わらない世界、平行四辺形が、圧力下にある世界を感じさせる(美術は先日亡くなられた村木与四郎、あなたの仕事は永遠に残ります)。暗い話を、どうだ暗いだろう、とじめじめ溺れずシャープに描いていて、このあたりの黒澤作品はとりわけ映画としての純度が高い。それにしても左卜全は貴重な役者だった、同じヒョウヒョウでも笠智衆だとマジメ一方だが、こちらはしたたかなずるさも含んでいる。あと個人的なことを言わせてもらうと、これと『蜘蛛巣城』の二本立てが、私が初めて東京池袋の文芸地下という名画座で観た映画でした。その後かなりお世話になって私の映画好きの下地はだいたいここで形成されたもの、その意味でも忘れられない作品なんです、これ。[映画館(邦画)] 8点(2009-11-29 12:12:57)

157.  青銅の基督 《ネタバレ》 滝沢修の新劇臭プンプンの熱演にはまいるが、隠れキリシタンの集会の場など舞台的な場面では、新劇臭もそれほど気にならない。滝沢が弾くオルガンを壁へだてた向かいで、堺駿二が空気送ってるあたりに渋谷の味。でも渋谷が好んで描いた“人の弱さ”は、こういう転向といった大げさなものより、普通の生活でチラリと見せるズルさみたいなのの方が得意だったんで、やっぱりこれは新劇なんだな。原作読んでないからよくは分からないけど、この転びバテレンは、苦悶と裏切りとがうまくつながって感じられなかった。面白かったのは信仰のテーマより芸術論のほうで、実にプライベートな感情から立派な鋳物をこしらえ、それによって裁かれてしまう岡田英次、それと信欣三の対比が面白かった。クリスチャンではない山田五十鈴はその絵の芸術性のゆえに(まあ男に惚れているわけだが)踏めぬと言う。またワイセツ画の絵師の信欣三は、火あぶりになっていく香川京子をせっせと写生していく、という対比。岡田英次の声は実に不思議な味を持っていて、日本映画の黄金時代に初期の社会派から『砂の女』などまで数多くの作品に出演し、レネの『二十四時間の情事』もあるが、そのキャラクターを十分に生かしきった作品についに出会えなかったのでは、という残念な思いもちょっとある。いつもながら三井弘次がいい。[映画館(邦画)] 6点(2009-11-23 11:58:35)

158.  プーサン 《ネタバレ》 昭和20年代末の社会批評映画として私が観た中では、木下恵介の『カルメン純情す』と渋谷実の『勲章』とこれが三大傑作だと思う。社会批評がそのまま芸術ともなり得た稀有な時代だ。笑ったところは、交番で「もっと神経を太く持たなきゃあ」と諭されていると、ピストル持った男や刃物持った女が次々と自首してくるところ。ニヒルな医者が弁当食べてるとこに重い肺病患者が咳するところ。美人の下着姿自殺未遂のほうにワッと警官が来て、野の首吊りのほうは寂しくブラブラしてるところ。菅井一郎の「牢獄記」の立て看板、などなど。きびきびした画面だが、まだ編集の独特のリズムは生まれていない。ただし税理士の目が疲れると0の行列が欄外に出ていく、なんてアニメも使っている。上っ調子で斜面を滑っていくような社会を、やや外に立つ主人公が眺め、巻き込まれていく展開の映画だ。これが10年たつと“無責任時代”となって、主人公のほうが調子よく社会を滑っていくようになる。[映画館(邦画)] 8点(2009-11-22 12:05:27)

159.  生きる 前半一人称、後半三人称、という仕組みは、たとえば死の直前を目撃した警察官が「とても楽しそうでした」というところで生きてくる。動き回る前半、室内ドラマの後半という対比は、後に引っ繰り返されて『天国と地獄』になるわけだ。黒澤作品で初めて主人公が死ぬ、ということでも重要な映画だし、立派な出来のフィルムだが、社会批評性の濃さが今となるとちょっともたれる。たしかに今でも社会はこのように、いや、もっと悪化してシステムに組み込まれているだろうし、助役が自分の名誉にしそれを下っ端がおだてるあたりの痛烈さは見事なんだけど、この映画で一番普遍性を持ち続けているところは、案外「初老の男の若い娘への傾斜」の部分かも知れない。その切実さと気味悪さがじっくりと迫るのだ。後に『どですかでん』でも養女にいたずらする父さんが出てくるが、ストイックな黒澤さんのなかにあるドロッとしたものを垣間見てしまったような感じがある。小田切は聖女的なものではない、主人公に再生の一言をハッピーバースディの歌をバックに投げるが、あとはもう登場しない。あの二人がもうしばらく付き合い続けたらどうなったか、という興味が少し残る。帽子がパリッとし、ラストで公園の土にまみれる、という小道具の使い方。ドンチャン騒ぎのあと老人の歌声が聞こえてくる不気味な感じ、ああいうとこはうまいなあ。[映画館(邦画)] 8点(2009-11-18 12:04:54)

160.  七変化狸御殿 狸御殿ものだけど、御殿が出るのはアタマの化けくらべ歌合戦のとこだけで、どちらかというと七変化道中ものがメイン。鬼ヶ峠を越えるワンシーンだけ桃太郎になったり、フランキー堺とのドラム・腹づつみ合戦では蝶の衣装になったりと、それぞれの場面に合わせて、コスプレしていく(もっとも蝶の衣装で歌ってたのは羊の歌だったが)。歌では、道中おてもやんメイクで“カラコロカラコロ…”と歌う「お祭りマンボ」調の軽快な曲がよかった(追記:あとで調べたら、米山正夫作詞・作曲「日和下駄」という歌だった。「美空ひばりゴールデンベスト」ってCDにも収録されてるぐらいだから有名なんだろう)。高田浩吉が、ひばりのヒット曲の替え歌で天の声を聞かせるって趣向もある。54年は『ゴジラ』の年で、こっちでも放射能雨が絡んでくるが、敵方のコウモリ集団が雨を避けようとコウモリ傘をあわててさす、ってギャグに使われるレベル。ひばりの相棒はポン吉の堺駿二で、ひばり相手のときはあまり弾まないが、舞台が長崎になって悪漢外人の伴淳とやりとり場になると生き生きする。やってることはほんとアチャラカなんだけど、舞台の喜劇人の呼吸が場面を活気づかせる。登場する喜劇人では敵役の有島一郎がコンスタントに良かった。でも一番笑わせてくれたのは高田浩吉の森の精で、頭に手拭いのせた粋な姿の似合う人が、ターバンみたいの巻いてマント着て出てくるの。ひばり七変化の最後は当然お姫様姿、笑って手を振る高田浩吉にこちらも円満に笑えた。有島やフランキーが出て、やたら群舞もあって、すごく東宝的なんだけど、これがなぜか松竹映画なんだな。[DVD(邦画)] 6点(2009-10-29 12:10:53)

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