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プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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【製作年 : 1990年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  新ドイツ零年 主人公のレミー・コーション(主演のエディ・コンスタンチーヌは、ゴダールの『アルファヴィル』でもこの“レミー・コーション”役を演じている。そこでは「探偵」として、だったが)は、東ドイツに何十年も潜伏していた西側のスパイ。しかし社会主義体制が崩壊し、東西ドイツが統一されたことで自らの「存在理由」を喪い、かつて自分が属していた[場所(=世界)]へ戻ろうとする…。 この映画を見て、まず何よりも鮮烈に印象づけられるもの。それは、主人公の「孤独」の深さだろう。かつて『アルファヴィル』において、「言葉=思考」を人々から奪い絶対的服従を強いる全体主義世界を破壊し、アンナ・カリーナ扮するヒロインとともにさっそうと車で画面から消え去っていったレミー・コーション。その“英雄”がここでは、まったく役立たずの老スパイとして登場する。しかも、その任を解かれた今となっては、彼という「存在」はまったくの無に等しい。これまでの何十年かが、ベルリンの壁が消え去ったのと同時に“零”となってしまった。もはや彼は何者でもなく、何物も持ってはいない。その深い、深い「孤独」こそが、本作のトーンを決定している。 実際、この映画は1980年代以降のゴダール作品にあって、最も沈鬱で、内省的で、夢想的だ。レミー・コーションの独白(モノローグ)は、そこで何が語られているかではなく、その言葉がどこへも行きつかず、誰によっても受け止められないことの悲哀によってこそ「意味」を持つだろう。彼は、車ではなく徒歩によって移動する。おぼつかない足どりで、凍った湖を渡り、息をきらして道ばたにへたり込む。その歩みに過去の映画の断片や歴史的映像がコラージュされる時、映画は、この老いた男こそがドイツの、ひいては西欧の「歴史」そのものの[アレゴリー(寓意)]であると観客に示そうとしているのだ。東西ドイツの統一に湧く当時にあって、そっと西欧の“黄昏”を奏でるゴダール。だからタイトルの「零年」とは、“終わりの始まり”を意味するのに違いない。 そしてそういったこと以上に、ここにはゴダール自身の心情が、その「孤独」が、これまでにないほど吐露されているのだと思う。…映画の中で、「帝国は唯一であることをめざし、人は二人でいることを夢見る」というような台詞があった。「孤独」を定義するのに、これほど美しい言葉をぼくは知らない。[映画館(字幕)] 10点(2005-03-31 19:28:45)(良:3票) 《改行有》

2.  最後通告 《ネタバレ》 「子ども」という《概念》が登場したのは、近世になってからのことだ。それまでの社会は、子どもたちのことを、「大人になる前の“半端”な存在」としか認識していなかった。「子ども」が無垢で、大人たちとは“断絶”した彼らだけの「世界」に生きているなどという「子ども観」は、少子化をむかえ、「少なく産んで大切に育てる」ことが可能になった近代に成立したイデオロギーにすぎない。中世までの「数多く産んで、生き残った者を育てる」という、あの頃の医療水準では仕方のないことだった状況からは出てくるはずもないのだ。それまでの彼らは、「死んだらまた産めばいい」程度の存在でしかなかったのだった…。 昨今の、世界中で繰り広げられる子どもたちへの“受難”を見るにつけ、この世は、ふたたび中世以前に逆行しているとしか思えない。ささいなことでわが子を虐待し、死に至らしめる親たち。無抵抗ゆえに、平気でテロの対象として殺戮していく大人たち。…むしろ中世以上に、今のほうが子どもたちの命を軽く見ているのではあるまいか。 この映画の中で、子どもたちは理由もなく失踪していく。大人たちはただ戸惑い、嘆き、必死に失踪の謎を追う。しかし、結局、誰が、どこへ連れ去ったのかは分からない。 けれど、映画を見るぼくたちは、彼らが不思議な黒人少年に誘われ、この世界を捨てて“あちらの「世界」”に行ったことを了解する。子どもたちは、“どこでもない「子ども」だけの世界”に消えていったのだと。でも、なぜ? さらに問う観客に、映画は最後まで答えようとしない。そして、ラストに、まもなく世界中の子どもたちが“こちらの「世界」”から消え去ってしまうことを暗示した「数字」を、ただ見せるだけなのである…。 このラストは、本当に戦慄的だ。この世界から子どもが消えていく…そんな世に、当然ながら未来はない。ゆえにそれは、まさにひとつの黙示録的《終末》を告げるものとしてあるだろう。この、とことんダークで不気味な「ピーターパン(!)物語」は、子どもたちへの“受難”が続く現代だからこそ、極めて鋭く、絶望的な寓話であり、警鐘として見る者を撃つのだ。 子どもたちが、この「世界(=大人たち)」を見捨てていく。…ファンタジーでありながら、何て「リアル」な恐ろしさ、哀しさ。 10点(2004-09-24 15:11:16)(良:1票) 《改行有》

3.  エンジェル・アット・マイ・テーブル ↑の【ひのと】さんの作品紹介で、あることを思い出した。リルケもまた、かつてセイシンブンレツビョウと呼ばれていた“心の病い”のぎりぎり寸前で、常に踏み止まり続けていたことを。 統合失調症の危機を迎えた人は、ある時、それまで散々悩まされてきた幻聴や幻覚などがふいに治まってしまうのだという。とは言え、それは治癒ではなく、逆に症状が激烈に悪化する直前の状態…「嵐の前の静けさ」にすぎない。たいてい、この状態はたちまちにして終わってしまう。しかしリルケは、例外的にこの状態のまま生き続けたのだった。 その「静けさ」とは、ちょうど夏休みの学校の誰もいない校庭のセミしぐれが、不思議と静かな印象を与える、あの感じに似ているんだろうか? ひしめきやざわめきが、むしろ世界の「沈黙」を際立たせる…。リルケの詩とは、そんな「沈黙」から産まれた。 この映画の主人公であるジャネット・フレイムも、実はそうしたざわめきと「沈黙」のはざまにとどまり続けた人だったのではないか。実際に彼女はセイシンブンレツビョウとされ、病院で何年にもわたって過酷な…というより非人道的な“治療”を受けさせられる。普通なら、これだけで精神が荒廃しかねないほどの仕打ちを。しかし、彼女はこの「沈黙」に耳をすませ続け、それを言葉にした。 ジェーン・カンピオンのこの映画は、そんな彼女が聞いた「沈黙」を、ひしめきとざわめきの中からうまれる「静けさ」を、フィルムにとどめようとする。そしてそれは、確かに成し遂げられたのだと思う。何故なら、ぼくもまたこの映画を見ている間じゅう、その「沈黙」を、あの、詩が産まれる前の声なき「言葉」を、聞いたように思えたのだから。 …その「沈黙」、その声なき「言葉」こそが“天使”のものであるのなら、この映画は天使たちのそうした「沈黙」や「言葉」で満たされている。ぼくたちはそんな「沈黙」を聞き、「言葉」を感じ取ることができるだろう。画面の端々に、“天使たちの息吹き”を感じ取ることができるだろう。だからこそこんなにも悲しく、美しく、そして強いのだ。 これは、ひとつの“エピファニー(顕現)”としてこの世に遣わされた「天使的作品」 にほかならない。10点(2004-06-26 13:40:50)《改行有》

4.  フラットライナーズ(1990) 映画の中で、臨死体験ののちに様々な過去のトラウマの「実体化(!)」に悩まされる医学生たち。その中のひとり、子どもの頃にいじめた女の子への罪の意識に追い立てられるケビン・ベ-コン扮する青年は、あらためて彼女の家を訪ね、心から赦しをこう…。 彼女が青年の謝罪を受け入れて、ぎこちなく微笑を浮かべた時、ぼくは不覚にも涙がとまらなかった。…そう、ぼくもそんな「女の子」を知っている。小学6年生の時の同級生で、クラス全員の男子から嫌われいじめられていた彼女。ぼくもまた、友人がふざけて頭に被せた彼女のカーディガン(赤い色だったこと、左わきのところが少しほころんでいたいたことまで覚えている…)を、床に叩き付けたことがあった。その時は何も思わなかったのに、笑っている友人たちの顔と、黙ってそれを拾い上げる彼女のことは、その後もふとしたことで蘇ってくる。…繰り返し、何回も、何回も。 …あまりにも「個人的」な、他人にとっても、映画にとってもどうでもいいことだろう。けれど、ぼくにとっては何よりも切実な「記憶」にこの作品が触れたこと、そして、映画のなかであの青年が赦された時、ぼくもまた「救われた」気がしたことだけは記しておきたいと思う。ぼくには、あの彼女の所に赴き、昔のことを謝罪する“勇気”などない。しかし(というか、だからこそ)青年に自分を重ねあわせ、見ている間だけは自分も「赦された」と思えたことを映画に感謝したいのである(もっとも、あれから一度も見直していない。やっぱり、つらすぎるので)。 ありふれた流行歌が、どんな言葉にもまして深い“なぐさめ”を与えてくれることがあるように、とるに足りないようなただの娯楽映画が、ある者にとってどんな高尚な芸術作品よりも人生の「真実」を開示してくれることがある。だからぼくたちは、映画をこんなにも愛し、あるいは求めてしまうんだろう。 ぼくも死ぬ直前に、「K.H」さんに“会う”のだろうか。その時、あの赤いカーディガンを着ているんだろうか。ぼくはきちんと謝れるんだろうか。… 10点(2004-06-13 18:06:22)(良:3票) 《改行有》

5.  岸和田少年愚連隊 ただひたすら喧嘩を繰り返す。やったらやり返され、やり返されたらまたやることの繰り返し。いくら「岸和田」とはいえ、こんな中学生どもがおるかいっ! …と思う前に、その徹底した「反復」の“無意味さ”こそに井筒カントクは勝負を賭けたのだな、と思う。ナイナイ演じる主人公たちは、その際限のない喧嘩の「反復」の中で決して人生(!)を学んだり、人間的に成長(!!)したりしない。主人公の父親と祖父がいつも見ている、テレビの動物番組の野生動物みたく、果てなき闘争だけがどんどん“肥大化”していくだけだ(主人公たちを動物番組で暗喩する、心憎い語り口!)。しかし、一方で彼らは、この「反復」の外へ出なければならないことにも薄々と気づいている。だのに「出口」が見つけられないことの焦躁と無力感が、この一見ハチャメチャな土着(?)コメディに微妙な陰影を与えていることは間違いないだろう。…悪い冗談ではなく、この映画は何かとてつもなく「悲劇的なるもの」を漂わせていると、ぼくは本気で信じている。シジフォスの神話を思い出すまでもなく、果てしない堂々巡りを生きざるを得ないこと、無意味であることを承知しながらもその円環から抜けだせない“無間地獄”に陥ること、そういった「反復」こそが真に「悲劇的」でなくて何だろう。…たぶんカントク自身が「そんな屁理屈はいらんわいっ!」とおっしゃるだろうゲロ、ぼくはそれゆえに本作を“畏怖”し、愛するッパ! (←ゴメン、ぐるぐるさん。つい…)10点(2004-04-16 16:39:05)(良:4票)

6.  PNDC-エル・パトレイロ 赤茶けた荒野を貫くハイウェイ。石と泥土の家並み。峡谷に架かる吊り橋。そして、突発的に繰り広げられる銃撃戦…。どこまでもドライでありながら、ここには「西部劇」への愛、「メキシコ」の地への愛が満ち満ちている。若く正義感に燃えた新米パトロール警官が、またたく間に“堕落”していく姿を、アレックス・コックス監督は一見ノンシャランないつもの「軽さ」と醒めた眼差しで追う。が、そこには、これまたこの監督独特の冷笑(シニシズム)と厭世(ニヒリズム)を超えた“叙情(リリシズム)”がかすかに、しかし確かに画面から漂ってくるかのようなのだ。だからぼくたちは、この主人公に対してコックス作品としては例外的(!)に感情移入できるのだろう。彼の抱える虚無感や閉塞感は、この現代を生きる我々にとっても実にリアルかつストレートに迫ってくる。その中で、なお人間性を見失わずに「生きる」ことは可能なのか…。単純で薄っぺらな「アクション(なんて言えたもんじゃありませんが…)映画」のようで、実に様々な“思索”へと見る者を誘う、これは小さな大傑作だ。…少なくとも、小生にとって。10点(2004-03-03 12:25:50)

7.  アイアン・ジャイアント 何の予備知識もなく、「どうせアメリカのおたくが日本のアニメの影響を受けて作った、巨大ロボットものなんだろ」とタカをくくっていたものだから、作品の冒頭、人類初の人工衛星スプートニクが登場するところで思わず虚を突かれる。ああ、これって米ソの「冷戦」を背景にした、1950年代SF映画へのオマージュであり、ノスタルジーなんだ。つまり、まさに“アメリカン・オリジナル”なんだと。だから、あの執拗に巨大ロボットを追う捜査官にも、当時の狂信的な「赤狩り」的風潮を読み取れるし、主人公の父親がおそらく朝鮮戦争で戦死したことをさり気なく写真一枚で語らせるあたりの見事な演出も、1957年という時代設定だからこその巧みさ。そしてそれゆえ、宇宙から飛来した巨大ロボットに《ハート》があり、地球の少年と心通わせるという『E.T』あたりのスピルバ-グ風展開にも、よりいっそう豊かな陰影を与え得たというべきだろう。これは、真に「知的」な映画、本物の映画です。間違っても“アニメ”だからと馬鹿にしてはいけない。これだけ豊かな映画的センスと、それ以上に「歴史意識」をもった作品など、ただアドレナリン湧出の量だけを競うかのような、今の幼児化した「痴的」なほとんどのアメリカ映画において、きわめて稀れなのだから。…ウチの息子にとっても、本作のDVDはまたとない「財産」になってくれそうです。10点(2004-02-16 16:10:40)(良:5票)

8.  モンド どこからやってきたのか、南仏の小さな街に現れた子犬のようなジプシーの男の子が、人々の孤独な心を癒し、ふたたびどこへともなく消えていく。ただそれだけのストーリーなのに、全編を繊細で美しい詩的イメージが包み込み、一度見たらいつまでも忘れられない余韻を与えてくれる珠玉の作品です。ともすれば、この少年を「天使」的存在として描くところなのに、あくまで「子犬のようなひとりのジプシーの男の子」であるのがいいんですよね。と言うか、彼は本当に「子犬」だったんじゃないかと思わせるフシがある(何故なら、この男の子が最も恐れるのが、野犬狩りの男たちだから…)。そう考えると、その人なつこさといい、孤独な心を優しくなぐさめる姿といい、納得がいくところがあるし。ともあれ、いつしか見ているぼくたちをも癒してくれる、慎ましいけれど実に豊かな包容力にあふれたファンタジーですね。そう言えば、あのフランス文壇の大家であるル・クレジオも、この映画を心から絶賛していたっけ。だからと言うんじゃないけど、ぜひ多くの人にみていただきたい1本であります。10点(2003-11-27 15:39:16)(良:1票)

9.  ラブ&デス いやあ、これはもう絶品ものの面白さ! 徹底してスクエア(頑固者)な英国の初老の小説家が、間違って入った映画館でアメリカの超クダラナイ青春コメディを見るはめになり、だのに、そこに出演している青年スター(『ビバリーヒルズ青春白書』のジェーソン・プリーストリー! まさにハマリ役)にひと目ボレ…。何とこのセンセイ、彼を追ってロングアイランドまで引っ越しちゃうのでありました。で、自分が高名な作家であることを利用して何とかこの、頭の悪そうな青年に近づこうと悪戦苦闘する作家センセイの涙ぐましき姿とは、そう、あの『ベニスに死す』のパロディだったという次第。あら筋だけじゃあ、何か気色悪い感ありだけど、作品はこの哀れな小説家の滑稽と悲哀を描いて、実に知的なウィットてんこ盛り! 終始クスクス笑いながら、最後には爽やかな余韻すら残してくれます。いや~、この絶妙な語り口のバランス感覚は、たとえて言うなら、ビリー・ワイルダーが現代に蘇ったならきっと嫉妬したであろう素晴らしさ(…とは、ちと大袈裟か)。ついでに書き添えるなら、原作本も映画に輪をかけた面白さです。必見! 必読!10点(2003-11-25 13:22:53)

10.  まあだだよ 完全主義者と言われながら、実は観客という「他者」と、「自己」の芸術表現のいずれをも満足させたいという葛藤こそが、黒澤明作品に複雑な陰影を与えていた…と、ぼくは思う。そんな彼が、たぶん最も純粋に「自分」だけのために撮っ作品が、この『まあだだよ』じゃないでしょうか。本来なら、会話のニュアンスや視線、小道具などで表象する登場人物たちの関係や心理のあやが、ここでは徹底的に欠落している。誰もがバカ笑いし、泣く時にはワンワン泣き、すべては「笑う」「泣く」「怒る」…という《記号》に還元されている。でも、それこそが黒澤監督が到達した境地というか、「人間観」だったのではないか。つまり、愛だの何だのといっても、人の世なんてものはすべてこういった「型」でしかないのだという、無常観こそがこの映画の主題だったのでは…。それは、一見まるで正反対の地点から出発して、小津安二郎(!)と同じ「場所」に到達してしまったということに他ならない。この、いずれ劣らぬ稀有な映画作家同士の、正反対のベクトルからの思いがけない結びつきこそ、「映画」というものの不可思議さであり、深淵さでしょう。ともあれ本作は、ぼくにとってまたとない“スリリング”なクロサワ作品でした。10点(2003-11-04 18:32:39)(良:2票)

11.  恋人までの距離(ディスタンス) 旅先の列車の中で知り合った男女が、1日中とりとめのないおしゃべりを続け、別れて(?)いく。ただそれだけのストーリーなのに、見終わった後の至福感ときたら…! 多分に実験的なスタイルの作品なんだけど、それ以上にピュアな感情と、スマートな知性に溢れていて、ホントこれは小さな大傑作じゃないでしょうか。主演のふたり、イーサン・ホークもジュリー・デルピーもいい。イーサンは、ユマ・サーマンよりもデルピーの方が実生活でもパートナーがお似合いなんじゃないか…そう思わせるリアリティが、このカップルにはあったもの。10点(2003-10-18 14:07:40)(良:1票)

12.  ボビー・フィッシャーを探して 《ネタバレ》 驚き。これって相当な傑作じゃないですか! ”もう1人のボビー・フィッシャー”である心優しい天才チェス少年とその周囲の人々を、描き込むんじゃなく、その日常の一瞬一瞬をスケッチしていくような展開が、まるで美しい「詩」を読むよう。それでいて、少年の心の機微が、ヴィヴィッドに伝わってくる。ステーブン・ザイリアンって、『シンドラーのリスト』とかの脚本家だった人だよね。ぜひまた監督作品を手掛けてほしい、そう思わずにはいられない映像感覚の持ち主だ。少なくとも、今のスピルバーグなんてめじゃないよ。 《追記》最近見直す機会があったんで、あらためて思ったことを書き加えておきたい。先に“美しい「詩」を読むよう”と書いたけれど、それはこの映画が、主人公の少年の日常風景と心象風景というふたつの“風景”を、ただ丁寧に切り取っていくことから産まれたものだ。公園の木漏れ日、雨にぬれる感触、夏の日射しや秋の肌寒さ、チェス会場の空気感、何よりもチェスの駒の音…。そういった感覚的なディテールを、まるで今まで見たことも感じたこともなかったもののような新鮮さとともに見つめていく。そしてぼくたち観客も、同じくこのありふれた日常のひとコマひとコマを、つまりはこの「世界」そのものを再発見していくことの感動に満たされるのだ。こういう体験は、滅多にできるもんじゃない。ましてやアメリカ映画で、「少年の成長」だの「家族愛」だのといった〈物語〉のパターンに回収されることのない作品が創られたことが、ぼくにはうれしいことだった。…今は日本で拘束中(2004.9.2現在)だという現実のボビー・フィッシャーも、この映画を見たんだろうか。そして、どう感じたことだろう。 《追々記》最近、よくこの映画を再見しています。クライマックスの決勝戦で、勝利ではなく、むしろ「引き分け」を望む主人公の少年。それを“偽善”や“勝者の傲慢”ととる向きがあるかもしれない。けれど、その「相手を思いやること」を知っている少年の姿(しかも彼が、“勝者を義務づけられた国”の少年であることを思い起こそう)は、ぼくという観客に何か〈救い〉めいた感動を与えてくれるものです。だから感謝を込めて、9→10ということで。本当に「美しい」映画です。[映画館(字幕)] 10点(2003-09-25 14:49:56)(良:1票) 《改行有》

13.  牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件(188分版) 見ている間じゅう、今オレはとてつもない「傑作」と出会っているんだ、という戦慄とも感動ともつかない“畏怖”の念を抱き続けていた…。そしてあの時の衝撃は、未だに心に残っている。…1人の少年が、1人の少女をナイフで殺してしまう。ただそれだけの「事件」を、台湾のある時代の《叙事詩》に仕立て上げたエドワード・ヤン監督。…言いたいことはいっぱいあるけどキリがない。ただもう、すべてに圧倒的な素晴らしさなんである。けれど、ひとつだけ言わせてもらうなら、最後に殺される少女の、決して特別可愛くも魅力もないのに、その暗い情念がいつしかいつしかひとりの「ファム・ファタル」として、映画(と、主人公の少年)に君臨していく。その一点だけにおいても、ただただ感嘆あるのみのぼくなのだった。10点(2003-09-16 15:54:36)(良:2票)

14.  ナイトメアー・ビフォア・クリスマス う~ん、素晴らしいなあ。何度見てもクスクス笑えて、ちょっと切なくて、どこかグロテスクなのにすべてのキャラたちが愛しく思えてくる。とにかくダニー・エルフマンの楽曲と、ティム・バートンのビジュアルセンスが見事に幸福な”ケミストリー”を果たしたという意味で、アニメとしては最高峰の1本でしょう。ああ、サリーのほころびをぼくが縫ってあげたい…10点(2003-09-13 15:17:47)(良:1票)

15.  遥かなる大地へ ロン・ハワードがいかに往年のハリウッド映画を愛し、その正統的な継承者であるかを見事に証明してみせた、彼の最大の野心作にして最高傑作。であるのに、なぜこうまで本国アメリカはもちろん、日本でも注目されないままなんだろう…。実際、「あっ、ここはハワード・ホークスだ!」とか、「これってジョン・フォードの『アイアン・ホース』そのままじゃん!」とか、単なるモノマネに終わらない引用が画面に豊かさをもたらし、トム・クルーズとニコール・キッドマンのふたりも大健闘しているっていうのに。クライマックスは、『シマロン』ばりのランドレースの大スペクタクル。これに興奮&感動できない向きとは、何も語る気にはなりませんっ!10点(2003-08-20 11:03:59)(良:1票)

16.  ヒート マイケル・マン監督の、というより、この種のジャンル映画中でもおそらく最高傑作のひとつ。矜持、友情、裏切り、仁義、哀愁、葛藤、悲劇的な愛、…そんな、「ギャング・暗黒街もの」のすべてがこの1本に最上のかたちで詰まっている。ここまでスタイリッシュで、男も、女も、ここまでカッコ良い映画もない。とにかく必見! と小生は確信しているんだけどなあ…。デ・ニーロがとにかく儲け役で、ヴァル・キルマーなんて、助演ながら本作こそが代表作だよなあ。3時間以上あるものの、全編に不思議な静けさとエモーションがみなぎっているので、アッと言う間。間違いなく「大人の映画」です。あえて差別的・セクハラ的言辞を弄するなら、「女・コドモ」にゃ見せてあげたくない!(あ、なんか削除されそうなアブナイ発言か…)10点(2003-08-04 14:21:43)

17.  リフ・ラフ ケン・ローチの映画には、みんな満点をあげたい。それくらい好きだ、愛してる。リアルな日常生活の苦悩や社会の理不尽さ、人間の弱さ、哀しさ、そんなすべてをひっくるめて、「それでも人生は生きるに値いする」という彼の映画のメッセージに、どれだけ慰められ、力づけられたことか…。悲惨な毎日のなかにもユーモアがはじける瞬間があるってことも、特にこの作品でぼくは教えられたと思う。いろいろと悩める皆さん、ケン・ローチの映画には、そんなあなた自身がきっと生きているよ…。10点(2003-08-02 19:26:38)

18.  永遠と一日 必ずしもアンゲロプロスの映画なら何でも肯定する者じゃないけど、この作品だけは心の底から感動し、たぶん一生忘れられないだろうな。いつもは大文字の「歴史」が否応なく「個人」の運命を翻弄する…てな図式性=観念性が鼻につくところもなきにしもあらず。が、ここではひとりの知識人の内面の「孤独」だけが、きわめてヴィヴィッドに、そして人間的な共感を込めて描かれている。特に、主人公の初老の男が、去りゆく難民の少年に「もう少し一緒にいてくれ!」とすがる場面で胸が張り裂けそうになった…。先入観なしで見てください。ほんと、素直に”良い”映画ですから。10点(2003-07-15 14:51:24)

19.  学校の怪談4 あまりの低評価ぶりに、いささかカッとなっての満点献上。ホラーだとか、子供騙しだとか、そういった以前に切なく、そして心優しい珠玉作品じゃないですか! 何十年も前に死んだ子供たちは永遠に子供のままで、ひとり生き残った男の子が老人となって再会する。そこに生と死の間にあるどうしようもない”断絶”を漂わせて、でもそれを乗り越えるのが「死者を忘れないこと。記憶のなかで彼らは生き続ける」ということだ、と教える本作に、ぼくは感涙しきりだった。シリーズ中でも、最も地味な印象は否めないけど、ここ最近の日本映画じゃ最も美しい1本だと、ぼくは本気で信じております。松之助師匠、絶品!10点(2003-07-14 15:09:01)(良:3票)

20.  顔(1999) 藤山直美のパンツ丸出しの熱演には、皆さん同様ただ感服あるのみ。社会からハミ出すほどに輝いていく主人公像は阪本順治カントクならではだけど、ここまで豊かなキャラクターになったのは、ひとえに彼女のおかげです。淀川長治さんは、阪本カントクのことを「今にモダン溝口健二になる」とおっしゃったけれど、この映画なんかまさにそんな感じ。恐れ入りました。見事です、素晴らしいです。人の好みはそれぞれだとは思うけど、気に入らなかった方、お願いですからそんなに軽くケナさないでくれませんかねえ…。10点(2003-06-28 15:47:58)(笑:1票) (良:1票)

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