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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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【製作年 : 1950年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
評価順123
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1.  雨月物語 《ネタバレ》 映画を見ていて、「どうしてここでカットが変わるんだろう」とか、「何でこのポジションからの構図なんだろう」などと思う時がある。もちろんぼくは映画を撮ったこともない、ただの観客だ。けれど、この場面ならロングショットで見たかったな、とか、ここはぜひこの女優のクローズアップを見せてほしかった! という、たぶんに勝手な物言いもまた、「映画を見る」者にとっての権利ではあるまいか。 もっといえば、こっちが思いもかけない画面を見せてくれた瞬間から、その作品に惚れ込み、心底から評価したくなるのである。 この、「世界のミゾグチ」の代表作の1本を最初に見たのは随分と昔だけれど、見る前はいささか気負っていたのが、見終わってまず思ったのは「めちゃくちゃ面白い!」ということだった。それまでにも、それ以後にも見た他の溝口作品と比べても、この映画は単純に「面白さ」において際立っている。何よりそれは、ここに実現されているのが、天才的というより職人的な部分において「完璧」な映画づくりだということに他ならない。 ・・・映画の終盤近く、森雅之の主人公はようやくわが家へと帰る。妻の名前を呼びながら人気のない家の様子をうかがう夫をカメラは追い、もう一度戸口へとパンした時、さっきまで火の気のなかった囲炉裏に火が入り、そこには田中絹代扮する妻が煮物を炊いているのだ。この場面をワンカットで実現してみせたその技巧は、確かに驚くべきものがある。けれど、それはあくまで、すでにこの世の者ではない妻を描くという「物語」の要請ゆえに実現されたワンシーンワンカットなのである。 その他においても、溝口作品に対して誰もが口にする流麗な移動撮影の長回しというより、この場面を描くならこれしかあるまいと誰もが納得する映像(=ショット)をムダなく編集していく鮮やかさはどうだ。だからこそ、この映画が100分足らずの極めて簡潔な(「B級映画的な」と言いかえてもいい)上映時間におさまったというべきだろう。 『雨月物語』は、溝口健二監督が何より優れた職人的技量をもった「物語映画」の担い手であることを、どの作品にもまして雄弁に告げるものだ。実際、映画の歴史上これほど「面白い」作品も、世界中探したってそうはないのだから。[DVD(邦画)] 10点(2011-04-26 19:02:13)《改行有》

2.  血のバケツ 《ネタバレ》 “壁の中の黒猫”にはじまって、死体を彫刻の材料にするという『肉の蝋人形』の趣向をひとひねりし、当時の流行だったビートニクの芸術家かぶれを皮肉るという、まさに安直というか、適当にデッチ上げられた感はまぬがれない(実際、使い回しのセットを用いて、しかも撮影期間はたったの5日!)。けれど、芸術家たちのたまり場となっているカフェの、さり気なく飾られた絵画やオブジェはシロウト眼にもそれっぽく、意外にも“良い趣味”をしているのだ。 プロデューサーとしてのロジャー・コーマンはとにかく“ケチ”で有名らしい。が、少なくとも自分の監督作においては、どんなに低予算であろうと美術や小道具だけは周到に作り込まれている。どうやら監督としてのコーマンは、どんなストーリーや演技よりも、その「背景」こそ重要なのだと考えている。後はそこに人物を置くだけで、ストーリーは勝手に動き出す・・・と。実際この映画でも、少し頭の弱い主人公がいかに芸術家にあこがれ、偶然の事故からとはいえ“殺人彫刻(!)”にのめり込んでいったかを、彼が働く前述のカフェと、住まいである貧しいアパートの部屋の2ヵ所のセットだけで、きわめて説得的に浮かび上がらせているのだ。 加えて、殺人現場では直接的な描写を避け、次の場面で“彫刻”という形で「死体」を見せるという絶妙のソフィスティケーション! しかもこれが、ブラックな笑いに結びつくあたりも心憎いじゃないか。主人公の異常さにではなく、むしろ人間らしい“弱さ”に注目するこのスリラー・コメディは、初期作品の頃からロジャー・コーマンが実はいかに優れた「演出家」であるかを雄弁に語るものだと思う。 ・・・しかし、すべての発端となった、あの“ナイフが刺さった猫”の彫刻。何だか妙にカワイイです(笑)[DVD(字幕)] 9点(2010-05-26 17:52:48)(良:1票) 《改行有》

3.  西鶴一代女 《ネタバレ》 随分と昔に見た時、偉大な名作というよりも、正直いって“実にヘンな映画!”という印象を抱いたものだった・・・。 同じ溝口監督の『山椒大夫』や『雨月物語』あたりに比べても、本作はどこか観客を奇妙な「居心地の悪さ」のなかに置き続け、結局そのまま置いてきぼりにしてしまう。感動というより、途方に暮れてしまう・・・といった印象。たぶんそれは、田中絹代演じるヒロインの、あまりといえばあまりすぎる「不運ぶり」とその転落人生を、徹底して突き放しながらも凝視する映画(というより、監督である溝口健二)の眼差しの“強度”に、見ているこちらが思わずたじろいでしまうからではあるまいか。 宮仕えの身から、最後は夜鷹という最底辺の売春婦にまで堕ちてしまう女。その次々と襲いかかる不幸の連続は、確かに封建的な時代の理不尽さや、女性に対する社会の酷薄さという戦後作品における「溝口的主題」を反映しているかに見える。が、この映画におけるヒロインの「怒濤の不運ぶり」たるや、ほとんど「喜劇」と紙一重だ(実際ぼくは、不謹慎と思いつつ見ながら何度も頭の中で爆笑してしまった・・・)。人生をクローズアップで見たら悲劇、ロングショットで見たなら喜劇だといったのはチャップリンだけれど、まさにこの映画は、ロングショットで見られた“世にも不幸な女の人生”そのものではないか。 しかし、本作を見ながらじわじわと迫るのは、田中絹代演じるヒロインを次々と不運にさらし、追い込み、堕ちさせるのが、他でもないこの映画(と、作り手の溝口)自身だという実感だろう。明らかにここでの溝口監督は、彼女をとことん汚し、堕としめることだけに精魂を傾けている。そしてこの、とことん堕ちた女に魅了されている(年増の夜鷹となった田中絹代の、凄絶なまでに美と醜がせめぎ合う様・・・!)。逆にいうなら、徹底して汚れきった女にしか表し得ない「美」があること、それを表現するためになら、人ひとりくらい平気で不幸のどん底へ突き落としてみせる。そういう気迫と「残酷さ」が、ぼくたちをただ圧倒するんである。 そして、そんな溝口の妥協なき「残酷さ」を全身で受けとめ体現しきった、田中絹代という女優の凄さ・・・やはりこれは、鳥肌ものの映画であります。[ビデオ(邦画)] 10点(2010-02-26 14:37:10)《改行有》

4.  二十四の瞳(1954) 映画の中盤以降、主人公である大石先生はことある毎に泣いている。最後には、子供たちからも「泣きみそ先生」とあだ名される始末だ。でも、大石先生の流すその涙にこそ、昭和という歴史への、つまりは「戦争」というものへの“異議申し立て”があることを、この映画の作り手たちはまちがいなく自覚的である。それはただ悲しいからでも、つらいからでもない、「くやしい」からこそ流された涙だ。時代に翻弄され、押し流されながらなすすべもない時、人はそういう状況に追い込んだものたちに怒り、しかしそ気持ちの持って行き場がないから、泣く。そこには単なる「被害者意識」ではなく、もっと烈しい告発の意志がある。だからこそそれは、時代を超えて見る者の心を揺さぶり続けるのだと思う。 ・・・以上、ずっと以前に録画してあったビデオで、先日久しぶりに再見した感想。昔は単なる感傷と、いかにも日本人的な諦観にいろどられたもの、という印象を抱いていたのだけれど、今回見てコロリと考えがかわりました。やっぱり映画は、何回も見直すべきだなという反省と自戒をこめて、ここに記す次第です。木下恵介監督、ゴメンナサイ。 そして素晴らしい映画をありがとうございます。[ビデオ(邦画)] 10点(2009-02-03 20:06:26)(良:1票) 《改行有》

5.  愛妻記 う~む、書きたかったことはほぼ全て青観さんに書き尽くされてしまったので、それ以上付け加えることもないんだけど・・・まあ、小生もちょこっとコメントさせていただきます。 それにしても、この映画の司葉子は本当に素晴らしい。女学生時代の友人をたよって郷里の金沢から東京に出てきたという彼女は、まさに天真爛漫でいながら、それがたまらなくコケットリー(誘惑的)だ。しかも、そのことに彼女自身がまったく無自覚であること。その“無垢[ウブ]”なところが実に実に良いのであります。たぶんそれは、この昭和初期にあってもじゅうぶんに魅力的だったんだろう。だからこそフランキー堺の主人公が魅かれ、一緒になろうと決意したことも、素直に納得できる。そして、こんな貧乏作家のところに喜んで嫁いでくれる彼女のような奥さんと出会えた主人公に、大いに「嫉妬(笑)」してしまうんである! そんなふたりが、はじめて“結ばれた”シークエンスも忘れがたい。とはいえ、もちろんベッドシーン(というか、この時代じゃ“床入り”か)があるわけじゃない。司葉子がフランキー堺の下宿にやって来て、彼の部屋で朝を迎える。その明け方の場面。おたがいきちんと着物姿でありながら、それまでになかった彼女の恥じらいを含んだ様子ひとつで、ふたりがその晩に結ばれたことを、ぼくたち観客はハッキリと知ることになる。案の定、そこでフランキー堺は(貧乏作家のくせに!)「所帯を持とう」と切り出すのだ。・・・このあたりの“奥ゆかしさ”こそ、本作の美質であり、久松静児という監督の持ち味なんだろう。 ともあれ、まだ戦争の影がさしていない昭和初期の生活風景をていねいに素描しつつ、これほど魅力的なヒロイン像を造型し得ただけでも、ぼくにとってこの映画は忘れられない1本になったです。記録よりも、記憶に残り続ける映画。・・・そう、ひとりの映画ファンにとって、それこそが真の「名画」であり、宝物なのだから。 《追記》ユーカラさんのおっしゃる「軍国化」のくだりは、え、そうだったの? と思いもよりませんでした。さすがスルドイ。ただ木下恵介ならともかく、この映画の場合、ああいう兵隊たちや警察の横柄さも含めて当時の日常というかあたりまえの「空気感」であるという、それ以上の含意はないのでは・・・とも思うのですが、どうでしょう? でも、この映画って愛されてるんですねぇ。シミジミ[CS・衛星(邦画)] 8点(2008-08-21 13:48:08)(良:1票) 《改行有》

6.  火星探検 《ネタバレ》 冒頭、月着陸を計画した博士や宇宙飛行士たちの記者会見の模様が延々と続き、これがやたら長い。いいかげん観客が焦れてくる頃、ようやくアタフタと出発(笑)。しかし航行中、燃料の計算ミスで推進力が低下したとかで、今度は紙に鉛筆(!)で受験生みたく延々と計算し直す場面が続くんである。その挙げ句、突然の加速(またも計算間違いで?)宇宙船は軌道をはずれ、失神した乗組員とともに月ではなく火星に到達。ううむ、いったい彼らはどれだけの時間気を失っていたんだ? ・・・まったく、隕石群の飛来とか、核戦争の末に退化したらしい火星人の襲撃などといった見せ場より、この映画はそういった地味な(そしていささかおマヌケな)場面にこそ焦点を当てているかのようだ。 1950年代のアメリカ映画にあって、特にこの手の「B級」(とはいえ本作、赤狩りの当事者ゆえノン・クレジットだが脚本にダルトン・トランボ! 撮影監督や音楽にも驚くべき名前がクレジットされている)SFは、宇宙人や怪物たち(とは、冷戦と「共産主義者」の暗喩的存在だ)とのヒロイックな戦いを描き、無邪気なまでに「自由主義」礼賛を謳いあげたものだった。けれど一見「おバカ映画」な本作は、そういったプリミティヴな「思想的偏向」ではなく、実のところ極めて屈折したかたちで「愛」を描こうとする。というかこれは、オザ・マッセン演じる女性科学者こそを主人公とした「女性映画」、一種の『ニノチカ』の変奏(!)として見るべき作品なのだと思う。 ロイド・ブリッジスの好意にも冷ややかだった“科学がすべて”である彼女が、いかにして「女性」としての自己を取り戻し、「愛」の言葉を口にするかーー。それを、ルビッチ作品のような諧謔とフモール(ユーモア)ではなく、これも「ドイツ的」といえなくもない生真面目さとともに、「宇宙冒険もの」というカテゴリーにしのび込ませる。しかも、彼女が「愛することの歓び」に目覚めると同時に悲劇が訪れるという、驚くべき〈運命愛〉的な結末・・・。 おいおい冗談だろ、と申すなかれ。この名もないドイツ出身監督による低予算SF映画は、間違いなくもうひとつの「別の物語」を語っている。それが「ルビッチ」という“偉大なドイツ出身監督”の作品を想起させてくれただけでも、少なくともぼくにとって、実に刺激的な映画体験をもたらしてくれたのだった。 [DVD(字幕)] 7点(2008-05-19 11:56:59)(良:1票) 《改行有》

7.  オモニと少年 この映画を小生が見たのはもう30ウン年前のことです。まだ小学4,5年生だった時に、学校の授業(!)として講堂で上映されました。あの頃は半年に1回くらいそんな上映会があって、中にはディズニーの『南海漂流』みたいなものもあったけれど、ほとんどがいわゆる「教育映画」というヤツ。本作も、まさにそういった映画のひとつです。 地方の炭坑町で、父親を亡くしてひとりぼっちになった少年。そんな彼を、隣に住む朝鮮人のおばさんが引き取って世話をする。小学校で「ニンニク臭い」と級友にからかわれたり、はじめは嫌々だったおばさんとの生活だが、次第に心を開いていく少年。おばさんも、戦争中に日本へやって来たものの、夫と子供に死なれた身の上で、この少年が愛おしくてたまらない。やがて少年は、くず屋のリヤカーを引くおばさんを手伝いはじるようになる。けれど、東京に少年の親戚がいることが分かって・・・というお話。 まあ、いかにも「教育的」であり「良心的」な内容だ、と揶揄したくなる向きもあるでしょう。日本人と「在日」の人々との間にある様々な問題を、こんな安易なかたちで描くことは一種の“偽善”にすぎない、と。しかし、映画のなかで少年を「お前も朝鮮人になったんだ!」とはやし立てる級友たちの、無邪気さゆえにかえって残酷な心なさは、まちがいなく自分も“級友たちの側”にいただろうあの当時の自分を、深く恥じ入らせ、胸を痛めさせるのに十分だった。そして朝鮮人のおばさんが、日本人の少年に注ぐその愛情の純粋さ、広さと深さを、青洟たらしたガキだった小生も、素直に信じ、受けとめることができたこともまた確かなのです。 それは思うに、この映画が、当時の日本の「貧しさ」をきちんと描いていたからではないでしょうか。ぼくが見た1970年頃ですら、まだ社会にはかろうじて「貧しさ」の痕跡が残されていた。1958年に制作された本作は、まず何よりも人々の生活のなかに、意識のなかにあった物質的・精神的な「貧困」というものを、しっかりと見つめ捉えている。そのあたりが、1時間にも満たないこの小品を、単なる感傷的かつ「道徳的」なメッセージ映画に終わらせなかったのだ、と(そして忘れてならないのが、朝鮮人のおばさんを演じた北林谷栄の、圧倒的な素晴らしさ!)。 ・・・『ALWAYS 三丁目の夕日』の作り手たちは、まずこの映画こそを見るべきだった。[映画館(邦画)] 8点(2006-06-08 12:59:52)《改行有》

8.  砂漠の救出作戦 自分で登録しておきながらナンなのだけど、う~ん、何書いたらいいのやら…(笑) とりあえず、これ、欧米の好き者の間ではカルト化している(らしい)『ジャングルの裸女』という“女ターザンもの”の続編です。でもって、日本じゃ劇場未公開。小生もテレビ放映で見ました。 映画が始まると、タイトルも出ないうちにいきなりアフリカ奥地の村落で、トップレス姿の黒人娘(オバサンも、少々)たちがドンドコ踊っています。と、そこにふんどし一丁の白人少女が現れ、激しく、妖しく踊りだす! 長い金髪で胸を隠しているものの、ちょっと見はすっぽんぽん!1950年代にこの大胆さはさすが旧・西ドイツじゃわい…と、もうこの時点で大満足(…もっとも、よく見ると白人少女は、乳首のところに飾り物つけているんですけどね。アフリカの現地女性たちは丸見えだってのに、このあたり、昔の“エセ秘境もの”記録映画で、原住民の秘部ならボカシなしで公開していたニッポン国に通じる「差別観」がモロ)。主役のマリオン・ミハエル嬢は、まだ10代だったそうな。 踊りの最後、彼女はトランス状態になって大股開き(!)で倒れ、キャメラはそれを真正面から捉えます。ウ~ン、なんてスケベなアングルなんだっ! と、その頃にゃもうすっかり小生の視線は、キャメラと同化(笑)しておりました。 その後も、このストリップ…もとい、ダンス場面は、物語とはまるで関係なく2、3回登場し、マリオン嬢は、たとえ街の場面で普通の服に着替えていても、お股に食い込む短パン姿で、通りを行くオトコたち(と、小生)の眼差しにさらされまくり。いやぁ~、もうたまりまへんです。 …そりゃあ、『シーナ』のタニア・ロバーツや『類人猿ターザン』のボー・デレクの方が、文字通りの“裸女”だったけどサ。この映画のマリオン嬢って、実に天真爛漫というか、無垢というか、イノセントな“処女性”に輝いているのね。だからイイんですっ!。それは、前作が実のところ「ターザン」というより「アルプスの少女ハイジ」的な展開だった(すみません、未見です)ことを考えると、作り手の意識が決してスケベ心だけじゃなく、彼女を通して「アフリカ」という“処女地”に対する西欧人のロマンチックな憧れを描きたかったということなのかも。 でもやっぱり、これはマリオン嬢を鑑賞するため(だけ)の映画ですけどネ。6点(2004-11-20 17:18:07)《改行有》

9.  脱走四万キロ 《ネタバレ》 ロイ(・ウォード)・ベイカー監督と言えば、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』でもかなり“参照”されたとおぼしい『SOSタイタニック』や、あるいはハマー・フィルムのドラキュラ映画でご存知の方も多い(?)のでは。実を言うと、ある時期まで(いや、実は今なお)このベイカー監督の名前は、ぼくにとって、例えば同じイギリスのデヴィッド・リーンなんかよりもずっと“偉大(!)”だったんである… この監督の映画は、「ドキュメンタリー的」な面と「ドラマ性」とが融合し、時には対立しながら、あるひとつの濃密な“劇的空間”を画面に構築していく。そして題材やストーリーによって、「ドキュメンタリー的」な要素が勝ったり「ドラマ性」が大きくなったりする、そのバランス感覚においても傑出してたんだと思う(…後年、ハマーのゲテ物ホラー映画を撮る頃には、そういったバランスなどほとんど“放棄”しているかのようだったが…)。 例えば、この『脱走四万キロ』だ。イギリス映画でありながら実在したドイツ軍パイロットを主人公とし、しかもまんまとイギリス軍の収容所から脱走するまでの顛末を描くという本作。冒頭の空中戦から、主人公が不時着して捕虜となるまでのくだりにおいて、実写フィルムを巧みに織りまぜながら見る者を一挙に「ドラマ」へと引っ張り込んでいく。その後は、何回も脱走を繰り返すパイロットの“一人舞台”となるのだけれど、特に後半、厳冬のカナダの収容所に送られた彼が、雪の平原や森、凍った河を逃亡する描写は、ひたすらロングに引いた苛酷な自然の中にポツンと映る主人公の姿を延々と追うだけでありながら(ほとんどセリフすらない)、本当に血沸き肉躍る、いっときも眼が離せない、スリリングな冒険譚になっているんである! …昨今の大げさな設定やらCGによるド派手な映像やらがなくても、この地味なモノクロ映画は、主人公の置かれた“状況”をキャメラで捉えるだけで、かくも濃密な「ドラマ」が描きうることを教えてくれる(そんなベイカー監督の才能が遺憾なく発揮されたのが、本作の翌年に作られた『SOSタイタニック』に他ならないだろう)。何も「ドキュメンタル」な撮り方だから良いんじゃない、その“状況”の描写力において傑出しているからこそ、素晴らしいのだった。 この監督をきちんと再評価してくれる評論家センセイ、誰かおられませんかねぇ…9点(2004-11-20 15:58:23)(良:1票) 《改行有》

10.  大怪獣出現 《ネタバレ》 この映画は、まだ中学生だった頃テレビで見ました。その後、数年してもう一度再見。なかなかのインパクトを与えてくれる出来映えで、未だに強烈な印象が残っています。(日本では、大幅にカットされた短縮版でのみ公開とか。でも、近年WOWOWで「完全版」を放映したんですって? …いいなあ、見たかった!) ストーリー的には、1950年代に流行した“放射能によって変形・巨大化したモンスターもの”のひとつ。海底で甦った古代のカタツムリ(と、いろんな文献で紹介されているけれど、どうみてもトンボの幼虫のヤゴかイモムシやんか)軍団と、アメリカ海軍との攻防がメインになっているあたり、特に『放射能X』に似ている。 とは言え、パラシュート訓練中に海で行方不明になった兵士をめぐる冒頭(捜索中、血を吸われたミイラ状の死体が、突然海上に浮かんでくるショック演出の巧さ!)から、映画はサスペンスを途切れさせることなく見る者をグイグイと引き込んでいきます。何よりモンスターの、醜悪さと昆虫的攻撃性が見事に表現された造型の素晴らしさ!(…後に『魔獣大陸』とかいう映画を見たら、ソックリな顔したモンスターが登場していた記憶がある。この怪物クン、意外とあちらじゃ「有名」なのかしらん) どうにか彼らの巣を見つけて爆破し、やれやれと思ったら、調査用に回収してあった研究室の卵がふ化してヒロイン(と、その幼い娘)が絶体絶命のピンチというのも、ありきたりな展開ではありながら、伏線の張り方やその語り口がうまいものだから、思わず手に汗にぎってしまう。いやぁ、この映画の脚本と演出は、間違いなく一級品です。 当時のこの手の作品には、明らかに「政治的」寓意性(アカ狩り、冷戦といった“共産主義”のメタファーとして、当時の「モンスター」や「エイリアン」たちは描かれていたものだ)を持っていたり、「核」と“放射能”への恐怖を煽るものが大半だったのに対し、本作は、そういうイデオロギー臭や社会ヒステリー的な要素をほとんど意に介していない。その上でただ純粋に「怪獣映画」としての面白さ、それだけを主眼とした潔さこそが、ぼくには好ましい(皆さんがバカにするローランド・エメリッヒ監督の映画も、同じ意味でぼくは評価しています)。作品的には単なる「B級モンスター映画」なれど、山椒は小粒でもピリリと辛い、とは、こんな作品のことを言うんすよね!8点(2004-11-20 14:25:12)(良:1票) 《改行有》

11.  第7騎兵隊 《ネタバレ》 たぶん↓のお二人と同様、関西の地方局によるテレビ放映で見ました(こんな古い西部劇を流してくれるあたり、ほんと“ビバ! サンテレ”ですよね。サイケデリコンさん)。でもって、確かにご両人のおっしゃる通り、お話的にはどうにも盛り上がらない。だって、カスタ-将軍の第七騎兵隊が全滅した“リトルビッグホーンの戦い”は、生き残った騎兵隊員の口で語られるだけだし、クライマックスにしても、結局のところインディアン対騎兵隊の銃撃戦などないまま、1頭の馬(!)の出現があっさりと戦闘を解決してしまう。派手なドンパチだけを期待する向きには、やはりおすすめ出来ません。 ただ、映画のはじめ近く、人の気配のない砦の様子をさぐるランドルフ・スコットの主人公が、砦の内部を見渡す場面がある。カメラは主人公の視線のままぐる~りと360度パンしていくんだけど、最後に映し出すのが主人公のスコットの顔! …人は鏡でもない限り、決して自分の顔を見ることはできないよね。だのに、はじめは明らかに彼の“眼”としてあったカメラが、最後に自分自身を見るといったこのシーンは、あくまでさりげなく、けれど実に大胆なものだと思わずぼくは興奮させられましたです(強いて言うなら、アラン・レネの『去年マリエンバートで』の名高い360度パンに匹敵するくらいの…マジっすよ!)。 さらに、この映画は西部劇のくせに室内場面が多いのだけど、手前の人物と、背景の両方にカメラのピントが合っているパンフォーカスで撮られている。それだけでなくテーブルなどの小道具と壁の色が統一されているなどの演出により、この「壁」が何とも生々しいっていうか、異様にぼくたち観客の眼差しをひきつけてやまないっていう点も、指摘しておきたいと思う。こんなに「壁」を意識させられたのは、これも大げさな例をもってくるなら、カール・ドライヤーの『奇跡』以来じゃないかな。ホンマっすよ! …これが鈴木清順の映画とかなら、「なるほどスゴイや」と感嘆すると同時に納得もさせられるそういう画面の“突出ぶり”を、こんな日本未公開の名もないB級西部劇で目撃させられることの驚き。そのことにこそ、ぼくは興奮したいと思う。たとえこの映画の監督が、一部ではカルト的な人気と評価を得ていることを知らなくても、テレビのモニターからでさえ作品の“特異さ”はひしひしと伝わってくるのだから。ただただ、スゴイです。10点(2004-10-20 13:00:12)(良:1票) 《改行有》

12.  初春狸御殿 すでに『祇園囃子』と『赤線地帯』という溝口健二晩年の傑作で、すれっからしの現代っ娘ぶりを見せつけてくれた若尾文子が、なんと純情可憐なおぼこ娘と、ちょいとわがままだけど根はやっぱり純な姫君の二役を演じるなんて! しかも、どちらもその正体はタヌキ!! …まさに、見ているこちらが“化かされた(笑)”思いであります。でも、この奇天烈な「和製ミュージカル・コメディ(!)」の魅力の大半は、彼女の見事なカマトト演技と、市川雷蔵のこれまた呆れたくらいのバカ殿…もとい若殿ぶりにあること。さらにふたりを囲む芸達者な名優たちが、思う存分の怪演ぶりを見せてくれることにあるのは間違いないところでありませう。こ~んなにクダラナイ(失礼!)内容に、これだけの役者やスタッフが揃っているってことにも、「日本映画の黄金時代」だけに許された“贅沢さ”や“矜持”が感じられる。…やはりぼくたち映画ファンは、生まれる時代を間違えたのかもしれないなぁ。あと、これは余談だけど、映画の中に出て来るメス河童たちって…トップレス!? だったら、まさに小島功のマンガそのまんまやん♪ とっても気になります。艶っぽいです。いいねぇ~(笑)。7点(2004-05-14 21:12:26)(笑:1票)

13.  恋は巴里で パリを舞台に、アメリカの外交官の娘とGIのロマンスを描くラブ・コメディ。オリビア・デ・ハヴィランドは、“娘”というにはトウがたち過ぎている感もあるけれど、なんの十分チャーミングです。お相手のジョン・フォーサイスも、無骨だが純情な兵士にハマっているし。そして、いささか地味なこの2人をもり立てるマーナ・ロイやアドルフ・マンジューほか、名優を揃えた助演陣がなかなかの充実ぶり。ああ、ハリウッド黄金時代の息吹きを伝えてくれる、小品ながら「贅沢感」を与えてくれる作品といえましょう。…ヒロインは、自分をパリの売れないモデルと偽り(それにはちょっとした理由があり…)、そのため、彼女が父親の知り合いの上院議員と一緒にいるところを目撃したGIは、彼女のことを“金持ちのジジイに取り入るとんだ食わせ者”と勘違い。このあたりのスッタモンダも、今の眼で見たなら馬鹿馬鹿しいほどたわい無いと映るんでしょう。が、ここにはまだ世界も映画も今より“単純”だった時代の「幸福感」が、香っている。まだまだたわい無いことで笑ったり泣いたりできた頃の、まったりとした「空気」に満ちている。たぶん、本作が作られた1956年当時にあっても、そういった「幸福感」や「空気」は、もはや“時代おくれ”になりつつあったのでしょう。しかし、脚本・監督の大ベテラン、ノーマン・クラスナー(『ホワイト・クリスマス』などの脚本家として著名)はあえてそういったアナクロニズムを恐れることなく、この、ただただ上品でアンティーク(骨董品的)な、言葉の正しい意味での「恋愛喜劇」を作り上げた…。確かに『ローマの休日』や『麗しのサブリナ』等の名作とは比べるべくもない映画だけど、こんな現代を生きざるを得ないぼくという人間に、つかの間の“古き良き”慰安を与えてくれました。点数は「7」だけど、ぼくはこの映画を愛しています。7点(2004-04-28 18:16:12)

14.  グランド・キャニオンの対決 極端な“引き(ロングショット)”と、人物のバストショットを交互に組み合わせただけの、いたってシンプルな画面。だのに、何でここまで惹き付けられるんだろう…。グランドキャニオンの圧倒的な景観の中で繰り広げられる、連続殺人。捜査を担当する保安官の周囲の人物がどれも怪しいっていう、思わせぶりな展開の割には意外性のない犯人ってのがご愛嬌だけど、クライマックスのゴンドラ上での対決は、テレビで見る分にも実にスリリングです。まだ「B級」時代のドン・シ-ゲル作品とはいうものの、簡潔さに徹したその「経済的」な語り口は、ぜい肉だらけの「A級」大作か、箸にも棒にもかからない「C級」のジャンクに二極分解した感のある昨今のアメリカ映画を思う時、あらためて「映画の真髄」というものをかいま見せてくれる。そう、映画にゃ思想も詩想もいらん、きっちりと意味内容を提示するショット(映像の断片)を撮って、それをムダなく編集していきゃいいのだ…と。この「カツドウ屋精神」こそが、やはり映画そのものなのだ。8点(2004-04-13 14:57:54)(良:3票)

15.  足ながおじさん 相変わらず優雅な、あまりにも優雅なフレッド・アステアの踊りと、『リリー』に続いて“孤児”を演じるレスリー・キャロン、うぶで、でもはつらつと舞うレスリー・キャロンのバレエとが、画面のなかでひとつになる時、ぼくたちは間違いなく「この世で最も高貴なもの」を目撃することになる。あの抽象画めいたシンプルなセット(思えば、20世紀フォックス社のミュージカル映画は、常にミュージカルナンバーのセットが奇妙に「モダン」で、それが面白かったり、物足りなくあったりするんだけど…)をふたりが踊る、舞う、ひとつになる。もう、それだけで、ぼくにとってこの映画は永遠です。傑作であるとか、駄作であるとか、もうそんなことを超越したところで、ぼくはこの映画を愛する。アステアとレスリー・キャロンの存在ゆえに、この先何度でも見て、陶然としたいと思う。…そりゃ、確かに2時間以上あるってのは長過ぎるかもしれない。ドラマ部分が、今や淡白すぎてタイクツする向きもあるだろう(けれど、ニューヨークのホテルのペントハウスにおける朝食のシーンなど、『プリティウーマン』に引用されていたことをぼくはうれしく思い出す)。しかし、ぼくが映画において本当に見たいのは、もはや作り手の才能や思惑を超えたところに、何かの間違いのように時として実現してしまう「奇蹟的瞬間」なんです。そして、この映画の場合(もちろん全編すべてに、とは言わないけれど…)ふたりの偉大なダンサーがそういった「奇蹟」をぼくたちに見せてくれる。当然の満点です。10点(2004-03-09 12:42:05)(良:1票)

16.  汚れなき悪戯 映画の初めの方で、主人公の男の子マルセリーノが、道ばたで架空の友だち「マニュエル」と遊ぶシーン。“マニュエル、それはね…”とか、“マニュエル、ほら…”とか言いながら独りで遊ぶそのマルセリーノの姿は、あまりにも無邪気で、無垢で、愛しくて、そして悲しくて、もう、涙なくしては見られなかった…。最後に見てからもう10年以上は経っているはずなのに、いまだこの映画(から受けた感動)はありありと鮮明に覚えている。それはきっと、この映画が、キャメラだの、構図だの、カット割りだのといったものにとらわれることなく、ただ「小さな奇蹟」をあるがままに物語ろうとした、その“てらいのない「純粋さ」”ゆえじゃないでしょうか。そんな眼差しの中でなら、たとえ屋根裏のキリスト像がマルセリーノの“相手”をしてあげるために動きだそうとも、ぼくたち観客は素直に納得させられてしまう。もはや宗教的な意図を越えて、このひとりぼっちの幼い男の子のために彼(キリスト)は“復活”したのだと納得させられる。そのために、この子が神の国へと召されることになっても、ひとりの「天使」がふたたび天上へと帰っていったのだと、たとえキリスト教とは何の関係もないぼくたちですら、素直に心打たれ、祝福できるのでしょう…。芸術であるとか、娯楽であるとかいったこと以上に、「映画」というメディアは、時に“この世で最も美しい何か”を現出するという「奇蹟」を実現してみせる。それを《神の顕現(エピファニー)》と言いうるのなら、ここにはまさしく「神」が宿っている。…にしても、「7歳までは神のうち」という箴言は、洋の東西を問わないんですね…。10点(2004-03-05 12:56:53)(良:3票)

17.  廃墟の守備隊 冒頭、いきなりコマンチ族による町のせん滅場面! 続いては、生き残った騎兵隊員数名と駅馬車の面々が、砂漠にある教会の廃墟に立てこもって、インディアンたちとの攻防戦!! …いやぁ~、この当時のB級西部劇にしてはメリハリの効いた演出とアクションで、特に↓のM・R・サイケデリコンさんも書かれておられるように、ダイナマイトによる爆破シーンは「おおっ!」と、今の眼で見てもかなりのスペクタクルです。主演がでっぷり体型の親父ブロデリック・クロフォードなんで、女性が登場に及んでもロマンスに発展しようはずもなく、そのへんの“硬派”ぶりも好感度大。アンドレ・ド・トス監督、なかなかの才能と見ました。こういうキッチリとした職人芸を、名作でも何でもない「普通(スタンダード)」な作品に見出せるところが、1950年代アメリカ映画の実力であり、懐の深さと言えるんじゃないかな。 《追記》スミマセン、あろうことかサイケデリコンさんのお名前を間違ってました…。慎んで正しい表記に訂正の上、小生もこっそり点数を8→9点へと変更させていただきます。ホント、これはかなりの快作っすよ! ねっ!![映画館(字幕)] 9点(2004-02-21 17:10:16)

18.  リオ・ブラボー 冒頭、ヨレヨレのディーン・マーチンが悪党の放り投げた痰つぼの中の銭を拾おうとする情けない姿にはじまって、ジョン・ウエインの保安官が、この殺人を犯した悪党を逮捕するまでのシーン。確か、ウエインが「貴様を逮捕する」と言うまで台詞がなかったのでは? …いったいどんなハードな西部劇になるのかと思いきや、映画は、歌あり、男の浪花節(?)的友情あり、カッチョいいガンプレイあり(リッキー・ネルソンの投げたライフル銃をウエインが受け取り、間髪入れずブッ放つあの名場面!)、アンジ-・ディッキンソン姐御の脚線美あり、とどめにダイナマイトの「玉屋ぁ~」的なドンパチあり…と、もうアレヨアレヨの快調ぶり。ああ、映画ってこんなに“幸福”なものだったんだと、思わず知らず「うれし涙」がにじんでくるほどです。そして最後に「キミを逮捕する!」の台詞でしめくくる洒落っ気のイキなことといったら…。問答無用の痛快西部劇でありながら、こういったソフィスティケーションもかねそなているところこそ、ハワ-ド・ホ-クス監督ならではなんだろうな。もし、まだこの映画をご覧になっていないなら、アナタは幸せ者だ。だって、これからこの素ッ晴らしい楽しさ、映画の至福ともいうべき体験ができるのだから。そしてジョン・ウエイン! ぼくはあなたが誰よりも好きだっ!!!10点(2004-01-14 20:01:45)(良:2票)

19.  ローマの休日 これはもう誰かがご指摘なさっておられるかとも思うのですが、デビュー間もない頃のオードリー・ヘプバーンって、相手役がグレゴリー・ペックであり、ハンフリー・ボガートであり、フレッド・アステアやゲイリー・クーパーであり…と、父親みたいな「おじさま」ばかりですよねえ。たぶん、彼女にはそういった”エレクトラ・コンプレックス(簡単に言うと、ファザコンです)”を感じさせる部分があって、それが特に日本の女性ファンの親近感を呼んだのでは。そして、そんなオードリーを見つめる素敵な「おじさま」男優たちの背後には、彼女をまさに父親的な慈愛で見守る「おじさま」の監督たちがいて…。実際、本作のウィリアム・ワイラー監督にしろ、ビリー・ワイルダーやスタンリー・ドーネンにしろ、誰もが理想のパパ然として、優しく、上品で、包容力のある演出力を、これ以上なく発揮している。この『ローマの休日』が歴史に残る作品たり得たのは、そうした”オードリー(娘)と「おじさま」監督&男優(父親)の理想的な関係”を完璧なまでに確立してみせたという点においてでしょう。一体誰が、この映画のオードリーを性の対象(!)として見るもんですか。男の観客はみんな彼女のことを、いつしか「父親」として見ている自分に気づく。よね、ご同輩?10点(2003-12-15 12:59:34)(良:1票)

20.  世紀の怪物/タランチュラの襲撃 実は、クモがこの世で最も恐ろしいんです。だから、最初の方で、研究所のモニターか何かにクモの大きなシルエットが映し出されたときには卒倒しそうになりました…。じゃ、何でそこまでして見たのかって? だって、若き日のイーストウッドが出演していると聞いたもんだから…。でもそのイーストウッドが、ラスト近くでようやく登場したと思ったら、ずっと酸素ボンベみたいなもので顔を覆ったままだなんて(あのパイロットが彼だと知ったのは、呆然と見終わってからだった)。…今までに最も苦痛を伴った映画鑑賞を、どうもありがとう(涙)。とにかく、本物のタランチュラを合成した本作は、世の”アラクノフォビア(クモ恐怖症)”にとって永遠の「No1ホラー」のひとつでありましょう。 《追記》その後、“最恐のクモ映画”の座を『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』に譲ることになったものの(いい歳して、マジでチビリそうになった…)、今思い返してもなかなかのSFホラーだったんじゃないかなぁ。「巨大クモが砂漠に現れ、街を襲う寸前にジェット戦闘機のナパーム弾に焼き殺される」とひと言で要約できる単純なストーリーを、フラッシュバックによる過去のシーンと現在を巧みに組み合わせた語り口が、見事にサスペンスを持続させていたっけ。二度と見たくない、でも見直してみたい1本であります。7点(2003-11-27 16:16:59)(笑:1票)

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