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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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【製作年 : 1990年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ツイスター 《ネタバレ》 何とか女から逃げようとする天才科学者と、何がなんでもその男をモノにしようとする女。女は男の人生をシッチャカメッチャカにかき回す。そんなふたりの間を結果的にとりもつことになるのが、かたや「大怪獣」で、こちらは「大竜巻」なのだった、という次第。 ・・・ローランド・エメリッヒ監督のアメリカ版『ゴジラ』は、当初ヤン・デ・ボンが監督にオファーされていたことを知る者にとって、この『ツイスター』という映画は示唆的だ。エメリッヒがどこまでヤン・デ・ボン監督の構想していた『ゴジラ』を踏襲したかは不明だが、この2本の作品、実はほとんど“同じ構造”によって成り立っている。そう、これらは往年のハリウッド映画の十八番だった「スクリューボール・コメディ」を再現したものだ。というか、その体裁[パターン]を「モンスター映画」としてしつらえたものなのである。 監督デビュー作『スピード』の大成功以来、その後どうもパッとしないといわれるヤン・デ・ボン監督の作品。だが、『スピード2』や『ホーンティング』(『トゥームレイダー2』は未見)でも、そこには古き良き「ハリウッド映画」への思い入れと、それをよりスペキュタクラーに“再現”しようとする意志を感じられないか。実際これらの監督作品にある「ソフィスティケーション」(とは、ひとりの男と女を“くっつける”展開の妙、といったくらいの意味だが)に、時代錯誤的な魅力をぼくは感じる者だ。 モンダイはそれが、観客が期待するものとは別の映画で成立させようとしてしまう、そういう意味での「(商業的な)センスのなさ」だろう。・・・たぶんこの監督は、現代的なアクション映画やSF映画なんぞより、アナクロニックなミュージカル映画あたりを撮るべきなのだと思う。 けれどこの『ツイスター』は、ヤン・デ・ボンが撮りたい映画と、観客が見たい映画との“ずれ”が少ないものといえるかもしれない。劇中に『オズの魔法使い』のヒロイン名“ドロシー”を持ち出したり、ハワード・ホークスの名作コメディ『赤ちゃん教育』あたりへの強烈な愛着を感じさせつつ、大災害スペクタクル映画としても成立している。まあ、このあたりは、確かに「スピルバーグ製作」の功績だという気がしないでもないけれど。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 18:04:23)《改行有》

2.  ユニバーサル・ソルジャー ザ・リターン 《ネタバレ》 ヴァン・ダムを愛することにかけては誰にも負けないつもりの小生ですが、この映画だけはずっと見逃したまま(というか、実は見るのが怖かった・・・笑)。しかし、某地方TV局で放映したものを録画し、とうとう見ることと相成ったわけです。 冒頭、ミシシッピーとおぼしき沼沢地での水上チェイスシーンで、何より銃撃であがる水柱が絵的に格好良く、さすがスタントやアクション場面の第二班監督として場数を踏んだミック・ロジャースだけのことはあるわい、とニンマリ。こういうディテールひとつで、アクションシーンはがぜん活きてくるんだよなぁ!  と思っていたものの、その後はまさに“陸に上がったカッパ”のごときヘナヘナと勢いを失い、「自我を持って暴走するスーパーコンピュータ」だの、圧倒的に強大な敵(演じるのは、せっかく主演した『スポーン』があの結果で“あぼーん”されたマイケル・ジェイ・ホワイトだ)を倒すのに超低温でナニしてどうこうだの、『ターミネーター』シリーズから安易に設定の数々をパクるに及んで、ああ、やっぱり・・・と、脱力。初期のヴァン・ダム作品も確かに相当チープだったけれど、それでも、“いかにヴァン・ダムのアクションを美しく見せ(=魅せ)るか”を考え、工夫する設定や演出が凝らされていた。けれどここでのヴァン・ダムは、ただ右往左往するだけのデクノボウでしかない。そしてその結果、他の方もおっしゃっているように、爆発シーンだけで予算も吹っ飛んだかのような、後は予算も才能もけた違いのメジャー大作を安っぽく模倣したイミテーションに堕してしまっている(せめてTVリポーター役のヒロインだけでも、もう少し魅力的であれば・・・)。 まあ、それでも、アメリカでも劇場未公開のDVDリリースのみといった最近のヴァン・ダム作品に比べたら、まだマシじゃんだって? とんでもない! たとえばリンゴ・ラムや、古くからの盟友シェルドン・ルティックなどの監督と組んだいくつかの作品は、かつてのヴァン・ダム作品の輝きが垣間見られたものだ(特に『レプリカント』!)。それだけに本作の志の低さこそが糾弾されてしまるべきだろう。 あの、『その男ヴァン・ダム』という自己言及的なメタ映画でひと皮むけた存在感を見せてくれた今こそ、真の復活を切に望んでいるのは小生だけではあるまい!(だけか?)。起て! ヴァン・ダム!! [地上波(吹替)] 4点(2009-09-04 17:17:17)《改行有》

3.  地獄の女スーパーコップ<OV> 《ネタバレ》 先ほど、『小さな恋のメロディ』のコメントを書いてたら、この映画のことを思い出した(理由は・・・問わないでください・笑)。正直なところ、確かに見事なくらいツマラナイ映画なんだけれど、同じトレーシー・ローズ主演=チャールズ・T・カンガニス監督のコンビによる『クライム・To・ダイ』なんかも見るにつけ、ちょっとした興趣をそそられなくもない。というのも、本作にしろ『クライム~』にしろ、とにかく“男”がどこまでも貶められ、唾棄され、挙げ句の果てに惨めな最期を迎えることで共通しているのだ。 この映画では、ローズ嬢が演じるタフな女刑事(には全然見えないけれど、おちょぼ口をトンがらせて精いっぱいタフぶってます。愛おしいです)をめぐって男ふたりがさやあてを繰り広げるのだけれど、いずれもが終盤あっさりと殺されてしまう! その唐突さは、ドラマの意外性を狙ったというより、どこか“男性憎悪(!)”めいた異様さを感じさせるんである(そのあたりは、もう1本の『クライム・To・ダイ』でさらに過激かつ徹底して表面化している)。そこに、元ハードコア・ポルノ女優であるローズ嬢と、同じくポルノ映画監督だったカンガニスにおける一種の“意趣返し”を見てとることはできないだろうか。 女性を商品(=モノ)化し「消費」することで成立するハードコア・ポルノ出身の女優と監督のコンビが、今度は男どもを単なる「消耗品」扱いする映画を撮る。そのことに、彼らは間違いなく自覚的だ。それはまるで、ご立派ぶっているものの、ひと皮むけば同じような“女性嫌い[ミソジニー]”な社会的伝統を暗に通底させた「アメリカ映画」への、最底辺からの皮肉であり批判であり嘲笑とすら思えなくもない。オマエらの撮る映画にしても、オレたちと結局同じじゃないか、と。そう考える時、この単なるC級アクション映画は、過激な「フェミニズム的」作品とも、メジャー作品への痛烈なアンチテーゼとも見えてくるだろう。 ・・・と、かつてトレーシー・ローズを愛した者としては、無理やりでも理屈をこねまわして、本作を前に感涙にむせぶのであります(笑)。 (点数はあくまでも個人的な思い入れゆえのものです。念の為。) 《追記》 とは言え、やはり「8」はないかな・・・と1日たって反省&自粛し、泣く泣く「5」ということで。スミマセン![ビデオ(字幕)] 5点(2009-09-01 16:35:22)《改行有》

4.  エコーズ 《ネタバレ》 催眠術にかけられたことがきっかけで、それまで5歳の息子にしか見えていなかった少女霊が見えるようになった主人公。はじめは混乱し恐怖するものの、やがてそれは、幽霊の訴えようとしていることを解き明かすべく、自分に課せられた「使命」なのだと思うようになる。そして、仕事や家庭もかえりみず、霊のメッセージの解明にのめり込んでいく…。 この展開は、ぼくたちにある別の作品を思い起こさせないだろうか? そう、これは、UFOを目撃して以来「何かに導かれている」という想念が頭から離れず、遂には妻子に去られる男を主人公にした『未知との遭遇』と似ている。というか、これは「同じ物語」じゃないか! それはこの『エコーズ』の中で、ケヴィン・ベーコンの主人公が庭中に穴を掘り、奥さんが怒って息子とともに車で去っていく場面によって、ほとんどぼくにとって“確信”となったのだった。 そう、『エコーズ』も『未知との遭遇』も、かたや“霊”こなた“UFO”に憑かれた「オブセッション」をめぐるドラマに他ならない。ひとつの〈想念=妄執〉に憑かれ、そのことだけに突っ走っていくこと。これは『激突!』から『JAWS』、『未知との遭遇』までの“初期スピルバーグ映画”のドラマツルギーの根幹を成すものだ(そしてそれは、先の『宇宙戦争』によって突然甦った…)。それを『エコーズ』の監督・脚本家デヴィッド・コープは、このミステリー仕立ての心霊映画で忠実に「踏襲」してみせる。『ジュラシックパーク』や『宇宙戦争』の脚本家でもあるコープは、実のところスピルバーグにとっての「アルターエゴ(!)」なのではあるまいか。 正直、ホラーとしてもミステリーとしてもいささか中途半端な印象が拭えない『エコーズ』だけれど、コープとスピルバーグの「関係=関連」を考える上で、これは実に貴重で興味深い作品であるに違いない。[映画館(字幕)] 7点(2005-11-22 15:53:06)(良:1票) 《改行有》

5.  新ドイツ零年 主人公のレミー・コーション(主演のエディ・コンスタンチーヌは、ゴダールの『アルファヴィル』でもこの“レミー・コーション”役を演じている。そこでは「探偵」として、だったが)は、東ドイツに何十年も潜伏していた西側のスパイ。しかし社会主義体制が崩壊し、東西ドイツが統一されたことで自らの「存在理由」を喪い、かつて自分が属していた[場所(=世界)]へ戻ろうとする…。 この映画を見て、まず何よりも鮮烈に印象づけられるもの。それは、主人公の「孤独」の深さだろう。かつて『アルファヴィル』において、「言葉=思考」を人々から奪い絶対的服従を強いる全体主義世界を破壊し、アンナ・カリーナ扮するヒロインとともにさっそうと車で画面から消え去っていったレミー・コーション。その“英雄”がここでは、まったく役立たずの老スパイとして登場する。しかも、その任を解かれた今となっては、彼という「存在」はまったくの無に等しい。これまでの何十年かが、ベルリンの壁が消え去ったのと同時に“零”となってしまった。もはや彼は何者でもなく、何物も持ってはいない。その深い、深い「孤独」こそが、本作のトーンを決定している。 実際、この映画は1980年代以降のゴダール作品にあって、最も沈鬱で、内省的で、夢想的だ。レミー・コーションの独白(モノローグ)は、そこで何が語られているかではなく、その言葉がどこへも行きつかず、誰によっても受け止められないことの悲哀によってこそ「意味」を持つだろう。彼は、車ではなく徒歩によって移動する。おぼつかない足どりで、凍った湖を渡り、息をきらして道ばたにへたり込む。その歩みに過去の映画の断片や歴史的映像がコラージュされる時、映画は、この老いた男こそがドイツの、ひいては西欧の「歴史」そのものの[アレゴリー(寓意)]であると観客に示そうとしているのだ。東西ドイツの統一に湧く当時にあって、そっと西欧の“黄昏”を奏でるゴダール。だからタイトルの「零年」とは、“終わりの始まり”を意味するのに違いない。 そしてそういったこと以上に、ここにはゴダール自身の心情が、その「孤独」が、これまでにないほど吐露されているのだと思う。…映画の中で、「帝国は唯一であることをめざし、人は二人でいることを夢見る」というような台詞があった。「孤独」を定義するのに、これほど美しい言葉をぼくは知らない。[映画館(字幕)] 10点(2005-03-31 19:28:45)(良:3票) 《改行有》

6.  ラブ・アンド・ウォー 劇場公開当時に見たっきりなので、きちんとしたレビューが書けそうにありません。でも、少し思うところがあるので、ちょっとだけコメントさせてください。 …この映画で未だ印象に残っているのは、サンドラ・ブロック扮する看護婦が、常に“小声”でしゃべっていたことです。いや、彼女だけじゃない。年下の青年ヘミングウェイも、その他の登場人物も、誰もが決して大声を出したり、怒鳴ったりしなかったんじゃないか。第1次世界大戦の戦場を舞台としながらも、そこでは、みんなが小さな声で愛を告白し、喜び、嘆き、生き、死んでいく…。まるで、人々がすべておのれの「運命」をあらかじめ知り、受け入れているかのような、そんな小声。そしてそこから醸し出される、不思議な哀しみの感情。 たぶんそれは、この映画の物語が、ヒロインである看護婦の視点から描かれているからだろうと思います。それも、遠い昔の出来事として振り返る者のまなざしによって。 …単に懐かしいんじゃなく、今も悲哀と心の痛みをともなった「過去」を想い返すとき、それはきっとこうした“小声”の光景に他ならない。大声で泣いたり、わめいたりするより、こんな風に静かな声で語られる「過去」の方が、より深く、哀しく、その感情を伝えられるのではないか…。 ちょっとだけ、と言いながら例によってまた長くなりましたが(笑)、ぼくにはこれが、そういった“小声”のデリカシーを持った最近では稀有な映画だという「感動」が今なお鮮明に残っているんです。美しいメロドラマだと想います。8点(2005-03-25 12:08:40)《改行有》

7.  怪人プチオの密かな愉しみ 第2次世界大戦下のパリに実在した、医者のプチオ先生。ユダヤ人の亡命を手助けすると言っては彼らを騙し、次々と殺害しては金品を盗む…といった最低の殺人鬼であります。しかもこの大先生、ワクチンと称して遅効性の毒薬を注射し、のぞき穴から被害者の苦しみもがく姿を嬉々として眺めるのが何よりの愉しみ。そして遺体を焼却炉で焼き、残された遺品に高価な品があるとウヒャヒャとばかりに踊り出す始末。全編にわたって、映画は彼のこうした鬼畜ぶりの繰り返しなんですよね。…そして見ているぼくたちは、いったい人間とはここまでハレンチなまでに良心をなくし、ほとんど滑稽なまでに「残忍」になれるのかと、思わず茫然自失してしまうこと間違いなしでありましょう。 ただ、それだけのことなら、『主婦マリーのしたこと』や『ルシアンの青春』をはじめ、単なる“占領下のフランス人裏面史もの”のひとつにすぎない。フランス映画には、自国の「レジスタンス神話」の欺瞞をあばき、自分たちの戦争犯罪に向き合おうとする一連の映画や小説などが存在していて、これもその、かなり地味でマイナーな1本であるには違いありません。 けれどこの映画が本当の意味で衝撃的なのは、主人公のプチオ医師の行為を、まさにナチスによるユダヤ人完全抹殺計画(ホロコースト)の完璧な「アナロジー(類似)」として描こうとしていることでしょう。あの人類史上に例のない大虐殺は、何もナチスという集団だけの“例外的な狂気”によるものものじゃない。このプチオみたく、個人の欲望のなかにすでに存在するものとしてある…。つまり、「ホロコースト」は誰の中にも起こしうる可能性(!)があること、ひいてはナチスの虐殺に対して万人が決して「無関係」ではあり得ないことを、この映画は、卑小な殺人鬼の姿を通じてぼくたちに突きつけている。…ほら、アウシュビッツの責任者だったアイヒマンだって、“素顔”は平凡すぎるくらい平凡な人間だったじゃないか、と。 正直言って、映画としてはミシェル・セローの悪趣味なまでに誇張された演技が、ブラックなユーモアを漂わせていること以外、見ていて「面白い」と言える代物ではありません。が、ほとんど露悪的なまでに人間性の根源的な「悪」を凝視した監督のまなざしの仮借なさを、ぼくは高く評価したく思います。確かに「つまんない(!)」映画だけど、刺激的です。 一見をおすすめします。9点(2005-03-07 16:07:17)《改行有》

8.  アルマゲドン(1998) これをリブ・タイラー出演シーン中心にまとめ直し、あのムサイ男優たちのクサイ熱演ぶりを極力削って、無理矢理にでも感動させよう&カッチョイイ映像で決めようとしていることがそもそも救いがたくダサイ演出部分を編集でカットしたなら、文句なく10点を献上いたしましょう。 それくらい、本作のタイラー嬢は美しい。あのほんのりと赤みのさした頬(しかもテレビじゃよく分からないけれど、映画館で見た時は、まだ桃のごとく産毛が残っているそのみずみずしさに陶然としたものだ…)も、じっと真直ぐ見据えられた意志的て大きな瞳も、すらりと長い手足をもてあますかのような立ち姿も、何よりあの、アンジェリーナ・ジョリーのごとき時にエゲツない“攻撃性”とは対極にある、無防備なまでに優しく柔らかなくちびるも、この映画においてひときわ魅力的に思えたのだった。それは、たぶん、きっと、それなりに迫力があるものの所詮はそらぞらしい「絵空事」のCGによるカタストロフィ場面を含め、映画自体があまりにもぼくという観客にとって「どうでもいい」程度の代物でしかなかったからだろう。他に見るべき部分が何にもないものだから、逆にリブ・タイラーだけを心置きなく愛で、慈しむことができたという… それにしても、男ならなんでリブ・タイラーを残して、ブルース・ウィリスはじめあの汗臭いオヤジどもと宇宙なんぞに行けるものか!(あの女性飛行士は、ちょいとソソッたけど・笑) ぼくなら間違いなく彼女と抱き合いながら「アルマゲドン(終末の時)」を迎えるぞ! それこそが男の“本望”ってもんだろっ、ベン・アフレック! こんなに魅力的な女優を出演させといて、「つまらん“男気(「ヒロイズム」ともいう)”なんか、糞食らえ!」という映画を作れないところが、まあ、ブラッカイマーという御仁の“限界”なんでありましょう。 もう一度言っておこう。この映画のリブ・タイラー(だけ)は、何度も何度も見るに値する。というワケで、前言を撤回して(彼女のためだけに)満点献上!!!   《追記》一夜明けて冷静(?)に考えたなら、やはり「10」はあまりにもあまりですかね。イイカゲンですみません m(_ _)m3点(2005-02-09 16:45:38)(笑:2票) 《改行有》

9.  恋は舞い降りた。 《ネタバレ》 生死の境をさまよう唐沢寿明の主人公に、玉置浩二扮する死神(天使だっけ?)が、「これから最初に言葉を交わした女性を幸せにすると、あなたは生き返れます」と言う。で、その相手が、江角マキコ扮するバツイチ女…。でも、その時の唐沢寿明は、生きている人間には姿が見えないハズじゃないの? この明らかな“設定上のミス”あるいは説明不足に「あ~あ」と思う向きは、以後この映画のアラばかりが目についてしまうに違いない(事実、アラが多いのだから…)。 じゃあ、こう見方を変えてみよう。唐沢と江角の出会いそのものが、玉置の死神だか天使の仕組んだことだったとしたら? …と。 映画の中じゃまるでそういった説明や暗示すらないけれど、たぶん間違いないっ! そう考えることで本作は、「出来損ないのファンタジー」から「心優しいクリスマス映画」へと様変わりしてくれるでありましょう。 そう、不幸な男女が、運命(というか、それを操る神様や天使や“優しい”悪魔)の悪戯でスッタモンダの末に幸せを掴む。そんなささやかな“奇跡”を描くのが「クリスマス映画」と定義するなら、本作は日本映画史上最も正統的(!)な「クリスマス映画」だ。幼い頃、母親に捨てられた記憶から、愛を信じられない売れっ子ホストの主人公と、ダンナに浮気されて別れたヒロイン。共に愛することに臆病なふたりは、ハチャメチャな珍騒動を繰り広げつつも少しずつお互いの心を開いていく。その様子をヴィヴィッドに見つめていく眼差しは、「ああ、映画だなぁ…」という瞬間をいくつもぼくたちに用意してくれているのだ。いや、ホンマに。 つかこうへいゆかりのスタッフ・キャストが揃った本作には、確かに「小劇場っぽさ」が、例えば唐沢のセリフ回しなどにもうかがえる。けれど主人公が、今は社宅の賄い婦をやっている母親にそっと会いに行く場面をはじめ、人の心のひだをかくも深く、優しく描けるのは、やはり「映画」だけだ。そのことをあらためて教えてくれるこの作品は、ぼくにとって、ささやかだけれど忘れ難い「クリスマス映画」なのであります。 《追記》テレビ放映で再見。唐沢と江角の出会い、ちゃんと「見えるようにしときましたから!」という台詞があったんですね…(^^;) でも、やはりあれは玉置エンジェル(死神?)が、はじめっから仕組んでたんですよっ! そして、やっぱり「好き」です、この映画。[映画館(字幕)] 8点(2004-12-25 13:04:57)(良:1票) 《改行有》

10.  最後通告 《ネタバレ》 「子ども」という《概念》が登場したのは、近世になってからのことだ。それまでの社会は、子どもたちのことを、「大人になる前の“半端”な存在」としか認識していなかった。「子ども」が無垢で、大人たちとは“断絶”した彼らだけの「世界」に生きているなどという「子ども観」は、少子化をむかえ、「少なく産んで大切に育てる」ことが可能になった近代に成立したイデオロギーにすぎない。中世までの「数多く産んで、生き残った者を育てる」という、あの頃の医療水準では仕方のないことだった状況からは出てくるはずもないのだ。それまでの彼らは、「死んだらまた産めばいい」程度の存在でしかなかったのだった…。 昨今の、世界中で繰り広げられる子どもたちへの“受難”を見るにつけ、この世は、ふたたび中世以前に逆行しているとしか思えない。ささいなことでわが子を虐待し、死に至らしめる親たち。無抵抗ゆえに、平気でテロの対象として殺戮していく大人たち。…むしろ中世以上に、今のほうが子どもたちの命を軽く見ているのではあるまいか。 この映画の中で、子どもたちは理由もなく失踪していく。大人たちはただ戸惑い、嘆き、必死に失踪の謎を追う。しかし、結局、誰が、どこへ連れ去ったのかは分からない。 けれど、映画を見るぼくたちは、彼らが不思議な黒人少年に誘われ、この世界を捨てて“あちらの「世界」”に行ったことを了解する。子どもたちは、“どこでもない「子ども」だけの世界”に消えていったのだと。でも、なぜ? さらに問う観客に、映画は最後まで答えようとしない。そして、ラストに、まもなく世界中の子どもたちが“こちらの「世界」”から消え去ってしまうことを暗示した「数字」を、ただ見せるだけなのである…。 このラストは、本当に戦慄的だ。この世界から子どもが消えていく…そんな世に、当然ながら未来はない。ゆえにそれは、まさにひとつの黙示録的《終末》を告げるものとしてあるだろう。この、とことんダークで不気味な「ピーターパン(!)物語」は、子どもたちへの“受難”が続く現代だからこそ、極めて鋭く、絶望的な寓話であり、警鐘として見る者を撃つのだ。 子どもたちが、この「世界(=大人たち)」を見捨てていく。…ファンタジーでありながら、何て「リアル」な恐ろしさ、哀しさ。 10点(2004-09-24 15:11:16)(良:1票) 《改行有》

11.  マングラー トビー・フーパーの映画は、たとえどんなに世評の悪い「失敗作」だろうと、必ず見る者の深層意識に冷んやりと、あるいはざらりと触れてくる“おぞましい”瞬間がある。それは、彼がただ単に“恐怖”を表現するのに長けているというんじゃなく、“恐怖とは何か”を本質的に知っているからなんだと思う。 その“おぞましさ”は、言うならば、見知らぬ穴に手を突っ込んで指先が何かぬるりとしたものに触れた瞬間みたいなもの、と言い換えてもいい。その時にぼくたちが感じるだろう不快感や恐怖心を、フーパーの映画は何気なくひょいと投げ出してくる。『悪魔のいけにえ』では、それこそ全編にわたって。『ポルターガイスト』のような映画であろうと、いかにもスピルバーグ風の「光」が画面を覆おうとも、例えば部屋の片隅の薄暗がりや、子役の少女の後ろ姿などにぬぐい難く。 この、悪魔が取り憑いた巨大洗濯用プレス機と人間の死闘を描くという、相当にバカバカしい、そしていかにもスティ-ブン・キング原作ならではのグロテスクさとユーモアに忠実であろうとした映画にあっても、ふとした場面に“フーパーらしさ”が顔を出すだろう。それは、主人公の刑事が深夜の死体安置所で時を過ごす何気ないシーンであったり、彼の義理の弟が住む家のテラスをとらえたショットに見ることができる。実際これらの映像は、プレス機が人間をきちんとプレスして折り畳んだり(!)、果ては動き回って大暴れするクライマックスなんぞよりもはるかに不気味で、不安で、おぞましい気配を漂わせているのだ。 フーパーは、「恐怖とは、人の心の“闇(=病み)”と直接触れる瞬間にある」ことを知っている。彼自身が、そのことに震え、おののいている。一方で、そんな「闇」を何とか「商業映画」として折り合いをつけようと苦闘し続けるフ-パ-作品は、それゆえの“いびつさ”が逆にスリリングであり、こう言ってよければ何よりも魅力なのだとぼくは信じて疑わない。8点(2004-09-06 18:59:57)《改行有》

12.  スパイシー・ラブスープ 10代から50代までの各世代ごとに繰り広げられる、いずれも恋愛や結婚生活をめぐる5つの物語。とにかく、各世代ごとの女優はすべて超がつくべっぴんさん揃いだし、男優だってイヤんなるくらい男前ばかりです。そんな彼らが、別にトーキョーやニューヨーク、パリであってもまったく違和感がないような、まるでアーウィン・ショーの短編集みたく「都会的センス」のなか、ささやかな人生の機微を、その喜怒哀楽を、さらりと演じていく。…な~んだ、ひと頃の日本の「トレンディ・ドラマ(死語)」みたいなものじゃん。だって? うん、まあその通り。確かにこれは、「現代的」な、あまりに「現代的」な映画なんだから。 ただこれまでの中国映画が、どんなにこの現代の世相を描こうとも結局「国家」や「歴史」という“大きな〈物語〉”を語っているののに対して、この作品はあくまで現代(いま)を生きる「小市民」という“小さな〈現実〉”をスケッチしていく。それは、あらゆる意味でこれまでの中国映画のイメージを覆すものじゃないか。つまり、ただ「現代的センス」だけで何ひとつ〈メッセージ〉を発しないというだけで、これは中国映画として逆説的な「ラディカルさ」を獲得しているんじゃあるまいか。徹底して非ー政治的だからこそ、逆説的に極めて「政治的」なフィルムと言うか… 第1話の、同級生の少女の「声」に恋をした高校生のせつない初恋物語から、偶然出会った男女のすれ違う愛のゆくえを、ふたりのナレーションだけで綴ったマルグリット・デュラス(!)風の第5話まで、そこにはパーソナルな「個人」の内面だけが語られている。もはや「国家」も「歴史」も介入できない、「私だけの物語」を語ろうとするのだ。それも、ビックリするほど洗練されたタッチ(と美男美女のキャスト)で。 だから、10歳の男の子が流す涙のせつなさも、まもなく老境を迎えようとする婦人の慎ましやかな幸福も、彼ら彼女らのあくまで「個人的」なドラマであるからこそ、それらはヴィヴィッドにぼくたちの胸を打つ。「これは“ぼく”の物語だ」「あれは“わたし”自身よ」と、見る者ひとりひとりがそこに自分自身のドラマを見いだすのだ。 そう、これはささやかだけれど、人生そのもののように美しい映画だ。9点(2004-08-24 14:19:28)(良:3票) 《改行有》

13.  海の上のピアニスト この、「産まれてから一度も船を降りたことのない天才ピアニスト」をめぐる、美しくも儚い作品のイタリア語原題が『NOVECENTO』であると知った時、ああ、やっぱり…という感慨にとらわれたものだった。それは、ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』の原題と同じだであるからだ。 たぶん、それは決して単なる“偶然”ではないだろう… あのベルトルッチの大作は、イタリアの大地で繰り広げられた20世紀初頭から第2次世界大戦後までの激動の歴史を、壮大な《叙事詩》として謳いあげる。一方、トルナトーレによる本作は、同じく1900年から第2次世界大戦直後の‘46年までを背景としながら、世界恐慌とも、戦争とも(直接的には)まったく無縁の寓話を《叙情詩》として歌うのだ。 そこに、醜い地上の「歴史(ヒストリー)」を拒否し、あくまで美しい「物語(ストーリー)」を対置させようとするトルナトーレの作家的姿勢をぼくは見たいと思う。彼の『ニュー・シネマ・パラダイス』がそうだったように、彼は、常に“夢見る者”を肯定し、けれどその“夢”が結局は“現実”に押しつぶされるしかない儚(はかな)さを、深い哀悼とともに見送り続けるのだ。 本作における、あの、あくまで地上(=現実)を拒否して船もろとも消えていった主人公がまさにそうだったように… そんなトルナトーレの映画は、確かに甘く、美しく、“敗北”すらも甘美な「蜜の味」に変えてしまう。ただ、そういった現実逃避を、それ以上に現実を「拒否」するトルナトーレよりも、あくまで聖も俗も美も醜もいっしょくたになったこの現実こそを直視し、まるごと「肯定」するベルトルッチにこそぼくは組みしたい。 何故なら、ぼくらは「物語」ではなく「歴史」を生きざるを得ないのだから。ぼくらの生は、夢じゃなく現実の側にあるのだから。 そのことだけは、片時も忘れたくはないと思うのだ。6点(2004-07-26 16:30:27)(良:1票) 《改行有》

14.  キリコの風景 昔、失恋(笑)の痛手を抱え、函館で半年ほど暮らしたことがある。今思っても、温泉と、旨いサカナと、競馬場&競輪場がコンパクトにまとまったあの街は、「天国」だったなぁ…。 といった函館の空気感が、実に巧みに映像化されていることにまず好感大。小生同様この街が“大好き”らしい森田芳光の脚本によるシュールな世界を、これが初監督(だっけ?)の明石知幸は、あくまで日常的リアリズムで映像化しようとしている。そのシナリオと演出の緊張関係が画面から伝わってくるあたりも、実にスリリングです。 奇妙な精神的連帯を生きる3人の男たちが、どこか抽象的な、“地に足が着いていない”存在なら、そんな男どもが執着する小林聡美ふんするヒロインの、何ともアッケラカンとした“現実的生活感”あふれるドスコイぶりという対照の妙も、見事だと思うなぁ。 う~ん、やっぱり好きだなぁ。この映画。失恋して函館に行ったことのある人なら、きっと気に入っていただけるハズです(…そんな奇特な方がどれくらいいるのか、知らないけど)。8点(2004-07-14 21:12:36)《改行有》

15.  母の眠り いつも…というか、折にふれて思うのだけど、やはり母親ほど「強い」ものはない。そんな《真理》を、あらためて納得させられる映画。 幼い頃から大学教授の父親を尊敬し、家庭を守ることが幸せという母親を軽蔑していた娘が、末期癌の母を看病するため仕方なく実家に戻ってくる。あらためて生活を共にするなかで、娘は母の“平凡な人生の非凡さ”を学んでいく。 と書けば、いかにもありがちのピューリタン的な「オンナたちよ、家庭に還れ」と唱える保守主義プロパガンダ映画みたいだ。別にフェミニストを気取るワケじゃないけど、そういう言いぐさはあまりにも反動的だろう。実際この映画には、そういった面がないとは決して言えないんである。 けれど、メリル・ストリ-プ扮する母親が最後にとった選択を、「個人」としてでなく「母」としての“尊厳(!)”を守るためだとする主張は、その雄弁さ(というより、メリル・ストリープの名演)に、ぼくもほとんど説得されてしまった。「自分のために選ぶ〈死〉が、同時に家族をも救う」のなら、それもまた立派な「主体的」な生きざま(=死にざま)じゃないか、と。そう言われたなら、「…かもしれない」と考えこまされてしまわざるを得ない。そして、その答えは、この映画を見てもう何年もたつのに、未だぼくのなかで見つからないのだ。 前述の通り、メリルはもちろんのこと、レニー・ゼルウィガー、ウィリアム・ハートの主演3人ともが、素晴らしい。そして、こんな「重い」主題を扱いながら、まるで上質のフィルム・ノワールみたいな《倒除法》の語り口を駆使した技ありの脚本・演出もまた、見事だと思う。 …地味だけれど、クヤシイくらいに「巧い」映画だ。8点(2004-07-07 20:40:49)《改行有》

16.  エンジェル・アット・マイ・テーブル ↑の【ひのと】さんの作品紹介で、あることを思い出した。リルケもまた、かつてセイシンブンレツビョウと呼ばれていた“心の病い”のぎりぎり寸前で、常に踏み止まり続けていたことを。 統合失調症の危機を迎えた人は、ある時、それまで散々悩まされてきた幻聴や幻覚などがふいに治まってしまうのだという。とは言え、それは治癒ではなく、逆に症状が激烈に悪化する直前の状態…「嵐の前の静けさ」にすぎない。たいてい、この状態はたちまちにして終わってしまう。しかしリルケは、例外的にこの状態のまま生き続けたのだった。 その「静けさ」とは、ちょうど夏休みの学校の誰もいない校庭のセミしぐれが、不思議と静かな印象を与える、あの感じに似ているんだろうか? ひしめきやざわめきが、むしろ世界の「沈黙」を際立たせる…。リルケの詩とは、そんな「沈黙」から産まれた。 この映画の主人公であるジャネット・フレイムも、実はそうしたざわめきと「沈黙」のはざまにとどまり続けた人だったのではないか。実際に彼女はセイシンブンレツビョウとされ、病院で何年にもわたって過酷な…というより非人道的な“治療”を受けさせられる。普通なら、これだけで精神が荒廃しかねないほどの仕打ちを。しかし、彼女はこの「沈黙」に耳をすませ続け、それを言葉にした。 ジェーン・カンピオンのこの映画は、そんな彼女が聞いた「沈黙」を、ひしめきとざわめきの中からうまれる「静けさ」を、フィルムにとどめようとする。そしてそれは、確かに成し遂げられたのだと思う。何故なら、ぼくもまたこの映画を見ている間じゅう、その「沈黙」を、あの、詩が産まれる前の声なき「言葉」を、聞いたように思えたのだから。 …その「沈黙」、その声なき「言葉」こそが“天使”のものであるのなら、この映画は天使たちのそうした「沈黙」や「言葉」で満たされている。ぼくたちはそんな「沈黙」を聞き、「言葉」を感じ取ることができるだろう。画面の端々に、“天使たちの息吹き”を感じ取ることができるだろう。だからこそこんなにも悲しく、美しく、そして強いのだ。 これは、ひとつの“エピファニー(顕現)”としてこの世に遣わされた「天使的作品」 にほかならない。10点(2004-06-26 13:40:50)《改行有》

17.  フラットライナーズ(1990) 映画の中で、臨死体験ののちに様々な過去のトラウマの「実体化(!)」に悩まされる医学生たち。その中のひとり、子どもの頃にいじめた女の子への罪の意識に追い立てられるケビン・ベ-コン扮する青年は、あらためて彼女の家を訪ね、心から赦しをこう…。 彼女が青年の謝罪を受け入れて、ぎこちなく微笑を浮かべた時、ぼくは不覚にも涙がとまらなかった。…そう、ぼくもそんな「女の子」を知っている。小学6年生の時の同級生で、クラス全員の男子から嫌われいじめられていた彼女。ぼくもまた、友人がふざけて頭に被せた彼女のカーディガン(赤い色だったこと、左わきのところが少しほころんでいたいたことまで覚えている…)を、床に叩き付けたことがあった。その時は何も思わなかったのに、笑っている友人たちの顔と、黙ってそれを拾い上げる彼女のことは、その後もふとしたことで蘇ってくる。…繰り返し、何回も、何回も。 …あまりにも「個人的」な、他人にとっても、映画にとってもどうでもいいことだろう。けれど、ぼくにとっては何よりも切実な「記憶」にこの作品が触れたこと、そして、映画のなかであの青年が赦された時、ぼくもまた「救われた」気がしたことだけは記しておきたいと思う。ぼくには、あの彼女の所に赴き、昔のことを謝罪する“勇気”などない。しかし(というか、だからこそ)青年に自分を重ねあわせ、見ている間だけは自分も「赦された」と思えたことを映画に感謝したいのである(もっとも、あれから一度も見直していない。やっぱり、つらすぎるので)。 ありふれた流行歌が、どんな言葉にもまして深い“なぐさめ”を与えてくれることがあるように、とるに足りないようなただの娯楽映画が、ある者にとってどんな高尚な芸術作品よりも人生の「真実」を開示してくれることがある。だからぼくたちは、映画をこんなにも愛し、あるいは求めてしまうんだろう。 ぼくも死ぬ直前に、「K.H」さんに“会う”のだろうか。その時、あの赤いカーディガンを着ているんだろうか。ぼくはきちんと謝れるんだろうか。… 10点(2004-06-13 18:06:22)(良:3票) 《改行有》

18.  地獄の処刑コップ/復讐の銃弾 この前、ビデオを整理していたら、以前に録画していたのを発見。で、あらためて拝見すると…。冒頭、いきなり至近距離からの2丁拳銃対軽マシンガンの大銃撃戦にはじまって、跳ぶは燃えるは爆発するは、もろジョン・ウー製香港ノワールのパクリまくり! もう、ほとんどカット割りに至るまで真似しちゃってます。さらに、主人公が殺された親友の仇を取るためトンデモな(とはいえ、『ショーシャンクの空に』とどっこいどっこいの)刑務所に潜入してからのあれこれも、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの『ブルージーン・コップ』をいただいちゃってるし。ほんと、よぉやるわ…と違う意味で感心してしまいます。確かに猿真似としちゃそれなりに達者だし、たぶん監督あたりがジョン・ウーの『新・男たちの挽歌/ハードボイルド』のビデオを一生懸命リピートしながら絵コンテ描いてる姿が浮かんでくるあたり、微笑ましいものが感じられなくもない。けれど、もしこの映画をカネ払って見たとしたら…。作り手が自分(たち)の映画にいささかの思い入れも矜持も感じられない作品は、この手のB級映画を追っかけているファンにとってもひたすらムナシイものだと、あらためて痛感した次第です。5点(2004-05-06 15:15:24)

19.  岸和田少年愚連隊 ただひたすら喧嘩を繰り返す。やったらやり返され、やり返されたらまたやることの繰り返し。いくら「岸和田」とはいえ、こんな中学生どもがおるかいっ! …と思う前に、その徹底した「反復」の“無意味さ”こそに井筒カントクは勝負を賭けたのだな、と思う。ナイナイ演じる主人公たちは、その際限のない喧嘩の「反復」の中で決して人生(!)を学んだり、人間的に成長(!!)したりしない。主人公の父親と祖父がいつも見ている、テレビの動物番組の野生動物みたく、果てなき闘争だけがどんどん“肥大化”していくだけだ(主人公たちを動物番組で暗喩する、心憎い語り口!)。しかし、一方で彼らは、この「反復」の外へ出なければならないことにも薄々と気づいている。だのに「出口」が見つけられないことの焦躁と無力感が、この一見ハチャメチャな土着(?)コメディに微妙な陰影を与えていることは間違いないだろう。…悪い冗談ではなく、この映画は何かとてつもなく「悲劇的なるもの」を漂わせていると、ぼくは本気で信じている。シジフォスの神話を思い出すまでもなく、果てしない堂々巡りを生きざるを得ないこと、無意味であることを承知しながらもその円環から抜けだせない“無間地獄”に陥ること、そういった「反復」こそが真に「悲劇的」でなくて何だろう。…たぶんカントク自身が「そんな屁理屈はいらんわいっ!」とおっしゃるだろうゲロ、ぼくはそれゆえに本作を“畏怖”し、愛するッパ! (←ゴメン、ぐるぐるさん。つい…)10点(2004-04-16 16:39:05)(良:4票)

20.  エンド・オブ・バイオレンス ヴェンダースの映画は、たとえどんなに「失敗作」であろうと否定しきれない。そこに、彼自身が途方に暮れながら、それでも懸命に映画と「格闘」した跡が生々しく残っているからだ。この徹底した管理=監視社会(上空からの監視カメラと、そこから発射される、必瞬時に人を抹殺するレーザー光線!)の恐怖を描く不条理SF映画にしても、そう。国家による人間性の抑圧と、それに抗う個人という、確かに現実的には切実なテーマではあるものの、いったいこの手のジョ-ジ・オ-ウェル「1984」的なディストピアものを、何故ヴェンダースが作らねばならんのだ? …という疑問が最後までぬぐえない。そんな意味で明らかな「失敗作」であるものの、特にガブリエル・バーンが醸し出す「孤独」な佇まいが、まさしくヴェンダ-ス映画ならではの肌理(きめ)を感じさせ、やっぱり心うたれる。もう、それだけで断固支持! と思ってしまう。そして、主人公の父親に扮し、黙々と冷めたピザを齧るサミュエル・フラーの姿に、(いかにも「映画マニア」的な独り善がりだと言われようと)思わずナミダが出てしまう…(確か、これがフラーの“遺作”じゃなかったか)。あまり万人にはおすすめできない(…というか、なまじな人におすすめしたくない!)映画だけど、これを「愛せる」方がおられたなら、アナタはぼくの心の友です…迷惑でしょうけど(笑)7点(2004-04-13 17:15:08)

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