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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  かいじゅうたちのいるところ 《ネタバレ》 スパイク・ジョーンズ監督の映画には、見かけの軽薄さや皮肉な笑いのなかに、いつも不思議なメランコリーがたゆたっている。見ているうちに、何だかこっちまでやるせないっていうか、切ない気持ちになってくるんである。それはたぶん、映画のなかで描かれる主人公の男たちが、誰もかれもみんな本質的に〈孤独〉でひとりぼっちであるからだ。 『マルコヴィッチの穴』のジョン・キューザックにしても、『アダプテーション』のニコラス・ケイジにしても、彼らは、誰かと一緒にいても、いや、一緒にいるからこそ〈孤独感〉がますます深まっていく。だから、懸命に相手のことを理解しようとしたりされたがったり、愛そうとしたりされたがったりする。逆に言うなら、愛や友情や思いやりとは、人が〈孤独〉だからこそ産み出され、育まれてきたものなのかもしれない。その、どこかウディ・アレンの映画をもっとキテレツ(!)にしたような神経症的なドタバタ劇こそが、「スパイク・ジョーンズ映画」の変わらない主調音なのだった。 この映画の少年マックスと、そのオルターエゴというか“分身”そのものである「かいじゅう」キャロルたちもまた、〈孤独〉であるからこそ、これ以上傷つくまいとして乱暴をはたらいたり、暴言を吐いたりしてしまう。そうして、余計に傷ついてしまうのだ。このあたり、原作絵本が“かいじゅう化していく少年マックス”を描くのに対し、映画の方は逆にかいじゅうたちの方があまりにも“人間的でありすぎる”ともいえる。みかけはオソロシクも愛きょうたっぷりなくせに、キャロルやその仲間たちは、ぼくやアナタのなかにもあってたぶん他人にあまり触れられたくない部分ーーそう“弱さ”そのものをむき出しにして、見せつけてくるのだ(ゆえに、見ていてけっこうツライ気分になってくるのも確かでは、ある)。 ・・・結局、「かいじゅうたち」と一緒にいることで、自分の内なる〈孤独〉に向き合うことを学んだマックス。センダックの絵本ファンや、年少の子どもたちにはいろいろ“不満”もあるだろうけれど、不思議な陰影に彩られた独特の映像のなか、高度に内省的だけれど実にピュアな寓意劇として、この映画は、凡百のファンタジーとは一線を画するものだ。断固支持。[CS・衛星(吹替)] 10点(2012-05-26 19:47:54)《改行有》

2.  BALLAD 名もなき恋のうた 《ネタバレ》 映画の中で、人々が「記念写真」を撮る場面は、どうしていつも感動的なのか。それは、たぶん人物の写真を撮ったり撮られたりすることが、まもなく彼や彼女たちに訪れる“別れ”を暗示し、予告するものだからだ。・・・小津の『麦秋』や侯孝賢の『悲情城市』における家族写真、『少年時代』の主人公と村のガキ大将が撮った2人だけの写真、等々。『二十四の瞳』でも、大石先生と子どもたちが撮った写真は、いくつもの別離のたびにその悲しみを深めるものだった。  この『BALLAD』にも、「記念写真」の場面が登場する。それは武将・又兵衛とその配下の武士たちが、明朝に敵陣を強襲する前に、未来から来た少年・真一の父親が「写真を撮りましょう」と提案する場面だ。初めての写真に、緊張する又兵衛たち。だが、思い思いのポーズをとったりふざけあいながら、彼らは、楽しげに撮影に臨む。そして又兵衛は、「これで、この世に生きたというあかしを残せた」と感謝するだろう。 この場面は、こよなく美しい。それは、死地へとおもむく者たちを描くための、ただの感傷的な設定に過ぎないのかもしれない。だが、監督・脚本の山崎貴の意図がどこにあったにしろ、わざわざ真一の父親の職業を「(売れない)カメラマン」にしてまで盛り込んだ、この、原作アニメにもなかった場面があるからこそ、ぼくにとって『BALLAD』は忘れがたい作品となったのだった。山崎監督は、映画において「愛する人々の写真を撮る」ことの悲劇性を、ここできっちりと見据えている。タイムスリップを題材とした荒唐無稽な時代劇が、先に挙げた小津や侯孝賢作品をはじめとするひとつの「映画(史)的記憶」に満ち満ちたものとしてあることへの驚き・・・。 もちろん、そういった小賢しい贅言を弄さずとも、その美しさは、『非情城市』や『麦秋』がそうだったように、誰の胸をも打つものだとぼくは信じる。確かに、少年の成長物語としても、姫と武将の悲恋ものとしても、この映画はただただナイーブにすぎて、「オトナ」である貴方は嘲笑するばかりかもしれない。しかし、そういった作品が一方で、驚くほど豊かな「感情[エモーション]」と「表現」を実現していること。その事実をぼくたち観客も、見る、あるいは感じ取る“責任(!)”があるとつくづく思う。 というワケで、満点献上でも良いのだけれど、やはりここは原作アニメに敬意を表して・・・[映画館(邦画)] 9点(2011-09-02 18:05:58)(良:4票) 《改行有》

3.  リトル・ランボーズ 《ネタバレ》 英国映画の「男の子」たちは、いつもオトナや社会と〈葛藤〉している。階級差や家族関係、あるいは抑圧的な学校と教師たちなど、文字通り“四面楚歌[スクエア]”な現実に対して闘争、あるいは逃走し、自分たちだけの「(精神の)ユートピア」を築こうとするのだった。たとえば『小さな恋のメロディ』しかり、『リトル・ダンサー』しかり・・・。  ・・・そこにあるのは、ともに家庭に問題をかかえ、孤独だった少年たちが、いっしょに何かを成し遂げようとすることで心のきずなを結んでいく姿だ。だからこそ、スタローンの『ランボー』に熱狂し、自分たちだけで“リメイク(!)”しようとする11歳の少年ならではの奇想天外・抱腹絶倒・天衣無縫な撮影シーンは、大笑いさせられながらもあれほどみずみずしく、感動的なのである。同時にそれは、ふたりをとりまく家庭や社会や学校からの“逃避”であり、その時彼らが創ろうとしていたのは、映画である以上に、家庭や学校や教会から唯一自由になれるふたりだけの「ユートピア」に他ならないのだった。 やがて、そんなふたりだけの「ユートピア」に割り込んでくる大人びたフランス人少年の登場で、ウィルとカーターのあいだに決定的な“溝”ができる。文字通り身も心もカーターを傷つけてしまったウィルは、もう一度カーターとの心のきずなを築き直そうとするだろう。なぜなら、友だちへの裏切りこそ最も恥ずべきことであり、その回復こそが男の子たちにとって至上の〈倫理〉なのだから。 「友情はセックスのない恋愛である」といったのは、作家の橋本治だった。そのことの意味を、この映画ほど実感させてくれるものもないだろう。それは、どんな美男美女が演じる「恋愛ドラマ」よりも純粋[ウブ]で、歓喜に満ち、痛ましく、そして感動的だ。・・・この映画の原題『Son of Rambow(ランボーの息子)』の“Rambow”は、本当なら“Rambo”の綴り間違いだが、ぼくはそれを“Rainbow”と見まちがえた。しかし映画を見終わって、“ランボーの「息子」たち”は、“虹[レインボウ]”こそがふさわしいじゃないかと、思い直したのだった。そう、「男の子」であるのは、まさに虹のようにはかない一瞬であり、だからこそ美しいのだ。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 12:16:28)(良:2票) 《改行有》

4.  お家をさがそう 《ネタバレ》 保険の仲介とイラストの仕事で、何とかしのいでいるらしい主人公のカップル。そんな彼らに、子供ができた。赤ん坊を産むための「理想的な生活の場所」を見つけるため、ふたりはアメリカ各地に暮らす知人や友人たちを訪ねる旅に出る・・・。 『アメリカン・ビューティー』以来、現代アメリカの家庭像とその崩壊するさまを、どこまでもシニカルに描いてきたサム・メンデス監督。人間の卑小さゆえの「悲劇」を突き放しつつ見つめ、むしろ“滑稽”なものとして浮き彫りにする。そこにあるのは、そういった「悲劇」すらも、笑えない「喜劇」にしかなり得ないという、苦い認識だろう。我々はそういう時代を生きているのだ、と。それこそが彼の作品の一貫したモチーフなのだった。 しかし、この映画では何かが決定的に異なっている。これまでは物語や人物に対して超越的な“観察者”としての立場をとってきたサム・メンデスの映画だが、ここでは、あきらかに主人公のカップルの視点に同調[シンクロ]しているのである。彼らの眼を通じて、現代アメリカの様々な家庭像を見つめようとするのだ。 そしてこの主人公たちは、純粋にお互いのことを愛している。その“まっすぐさ”において、彼らはほとんど「天使的存在」だといって良いだろう。そんな彼らがアメリカ大陸横断の旅で出会うのは、様々なトラブルや問題を抱えた家庭の光景だ。しかし、これまでなら家庭の崩壊劇のそれこそ見本市(!)となっていただろう展開を、この主人公カップルの存在が救済する。彼らがその光景に怒り・とまどい・呆れ・胸を痛めながら、そういったひとつひとつの反応や心の機微の“まっとうさ”が、これまでのサム・メンデス作品になかった「ぬくもり」を、この映画にもたらすことになった。 結局、自分たちにとって「理想の場所」とは最も身近なところにあった…という結末は、いささか安易かつ「保守的」なメンタリティにすぎるという気がしないでもない。けれど主人公のカップル、とりわけ男の方の、彼女のことはもちろん出会う人々のことを不器用ながら本当に思いやれるその“いいひと”ぶりに、ぼくは心から感動した。彼こそはフランク・キャプラ作品のジェームズ・スチュワートに連なる、アメリカ映画の“いいひと”路線の正統なる後継者だろう。 正直あまり好きになれずにいたサム・メンデス監督だが、この映画だけは、心から乾杯![映画館(字幕)] 8点(2011-04-22 10:48:22)(良:1票) 《改行有》

5.  半分の月がのぼる空 《ネタバレ》 主人公の高校生・裕一は、病院の屋上ではじめてヒロインの里香と出会う。そこでは洗濯物の白いシーツが風に揺れはためき、そのシーツの合間から見え隠れする彼女。・・・運命的な出会いというにはあまりにもさり気ないこの場面は、だがこよなく美しい。 その“シーツ”は映画の中盤、里香が裕一の病室に忍び込みベッドのシーツの中で語り合う場面へと引き継がれ(・・・ほの淡い光につつまれたふたりの、何という感動的な姿!)、さらに終盤ちかく、もうひとりの主人公である医師・夏目のマンションのベランダで揺れるカーテンへとつながっていくことになる(・・・夏目は、それに導かれるようにして亡き妻との想い出の場所へと向かい、映画はクライマックスを迎えるだろう)。 ここに至って、ぼくたちはこの“風に揺れるシーツ”の変奏こそが「裕一と里香(と夏目)の物語」を支える〈仕掛け(=演出)〉となっていることに気づかされる。それは特権的なイメージの突出ではなく、あくまでこの映画の「物語」に奉仕するものとしてあったのだ。 冒頭の、自転車で夜の商店街を疾走する主人公を捉えた縦移動の長回し場面や、過去と現在が“交差”する一瞬でドラマの流れを変える鮮やかさ。さらに濱田マリ演じる看護婦の、単なるコメディリリーフ的な役回りに終わらせない味のあるキャラクターづくりなど、この映画の“巧さ”をぼくたちはいくつも見出せるだろう。けれど、それを決してあざとさやこれみよがしな技巧の披瀝に終わらせるのじゃなく、ただ、“いかにこの「物語」を魅力的に語り得るか”という語り口において機能させること。そういう作り手の“誠実さ”が、この「難病ものの純愛ドラマ」というウンザリするほどワンパターンな題材を、真に「映画」として輝かせることになったのだと思う。 そう、愛する者の死と、それを受け入れて再生する者たちのドラマなど、確かにありふれている。けれど、過去が美しければ美しいほど、現在が色褪せ耐えがたいものであるのに、それでも我々は生きていかなければならない。なぜなら、それこそが死んでいった愛する者たちからの「命令」であり、残された(=生き残った)者たちの果たすべき「責任」なのだから。・・・お涙頂戴映画は腐るほどあっても、そういう〈倫理〉を説く映画は本当に少ない。だからこそ、ぼくはこの作品を高く評価する。[映画館(邦画)] 10点(2010-08-27 17:54:15)《改行有》

6.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 映画のはじまり近く、主人公がはじめてローラーガールズたちに出会い魅了される場面。ローラースケートでさっそうと現れるその姿を主人公が見つめる、そのまなざしひとつで映画(=物語)が動き出すことが予感され、その高揚感に思わず涙腺がゆるんでしまう。 そして間もなく、彼女はローラーゲーム・チームのオーディションを受けようと、ひとりバスに乗り込む。車窓からはバイト先の店が望め、働く親友の娘や、いつもからかって憂さ晴らしをしている新米店長の姿が見える。主人公は手を振るが、当然ながら気づかれない・・・。この場面の繊細な作り込み方に、今度は本気で泣かされてしまった次第。 田舎町で満たされない日々をおくっていた少女が、自分の進むべき道を見出して新たな世界へと旅だっていく。そんな「ありふれた物語」を監督デビュー作に選んだドリュー・バリモア。しかし主人公が、愛すべき荒くれ女たちとともにケチャップやパイまみれの大乱闘を繰りひろげ、誰もいない夜のプール内で恋人と戯れあい、ファイトむき出しのライバルチーム・キャプテンと渡り合うなかで、ついに母親と真に向かい合えたこと。たぶん、そこにドリューにとって本作を撮るべき“切実”なモチーフがあった。 監督としてのドリュー・バリモアが撮ろうとしたのは、ひとりの少女の成長物語であり、家族との葛藤と和解劇だった。主人公がチームと家族、この2つの「ファミリー」とのきずなを深めていく姿に、同じく名優一族の家と映画界という2つの「ファミリー」のなかで育ってきたドリュー自身を重ねても、あながち穿ちすぎじゃあるまい。むしろ不幸なものだった自身の10代を、この映画によってあらためて肯定的に「生き直す」こと・・・   けれども作品は、そんなメロドラマ的感傷とも無縁のまま、ある時は西部劇&スラップスティック喜劇のように、ある時はエスター・ウィリアムスの優雅な水中レビュー映画のように、ある時はハワード・ホークス監督の『レッドライン7000』のように、ある時は“スモール・タウンもの”と呼ばれる田舎町を舞台にした一連の映画のように、つまりは「アメリカ映画」そのものとして、あっけらかんと現前している。それを実現した監督ドリュー・バリモアの繊細さと大胆さ・・・。そう、これが本物の「才能」というものだ。[映画館(字幕)] 10点(2010-08-24 16:30:50)(良:1票) 《改行有》

7.  HACHI/約束の犬 《ネタバレ》 映画の冒頭、秋田県? らしき日本の風景が映し出され、子犬のハチが今まさにアメリカへと送り届けられようとしている。つまりここで、ハチが純然たる“日本の犬”であることが強調されているわけだ。当初は「?」なこの場面だけれど、見ていくうちにナルホドと納得させられるだろう。そうか、これはハチを通して「日本」を見つめようとする映画でもあったんだ、と。 投げたボールを取りにいかなかったり(あのスヌーピーですら条件反射的に追いかけるというのに!)、このリメイク版では、オリジナルの『ハチ公物語』にはない秋田犬ならではの性格が強調されている。こうした、“西洋人の眼から見た日本の犬”のストイックさと、しかし主人を全身全霊で慕うさまを、映画は、リチャード・ギア演じる大学教授と同じ驚きと愛情に満ちた眼差しで追い続けるのだ。そして、教授が文字通り「帰らぬ人」になった後、ハチがそれでも毎日駅に教授を迎えに行く。その忠誠心や忠義の徹底ぶりとは、まさに「無償の愛」そのものだ。そんなハチは、映画の作り手たちにとってたぶん、「サムライ」そのものだった・・・。 武士の心得を説いた書『葉隠』は、主君に仕える者(=侍)の関係を「黙って死ぬまでつき従う」ことの「究極の愛」としている。この定義ほどハチにふさわしいものはない(だからこそ戦前の日本で「忠君愛国」のイデオロギーにハチも取り込まれ、プロパガンダに利用されたのだった・・・)。それはしかし、主人が死んだからそれに殉じるというのでは断じてない。主人の死後もずっと慕い待ち続けるその「無私の愛」によって、洋の東西を問わず普遍的な感動を呼ぶのだと思う。本作の作り手はそこに、死の美学化ではない「武士道」の真髄を重ねているのだ。 それを、西洋人の単なる「日本幻想(オリエンタリズム)」というのはたやすい。でもこれは、アメリカから「日本(犬)」に贈り届けられた、慎ましくも美しい一編の“ラブレター”に他ならない。そして、そういった彼らの視点からこの忠犬物語を見直す時、ぼくたちはあらためて「ハチ」の生きざまを、純粋に愛おしむことが可能になるのだ。 HACHIィ~![映画館(字幕)] 7点(2009-08-21 14:33:12)(良:1票) 《改行有》

8.  ターミネーター4 《ネタバレ》 まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。 それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。 そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。 それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。 結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。[映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票) 《改行有》

9.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 イーストウッドが、玄関ポーチにすっくと立っている。それだけで、そこに“荒野”が出現するのだ。イーストウッドが、街の不良どもに凄みをきかせる。その時そこにいるのは、まぎれもなく“ダーティハリー”その人だ。イーストウッド自身が最後の出演作というこの映画は、彼これまで演じてきたアンチ・ヒーローな「ヒーロー像」の集大成であり、それへのオトシマエに他ならない。 この映画から様々な政治的・社会的な寓意やら見解を見出すことは容易だろう(そこから、アメリカにおけるマイノリティの問題を皮相的に扱ったとか、不良少年たちの側の「問題」の背景を見ずに単なる悪役として描いている・・・等の批判も出てくるわけだ)。が、そんなこと以上に、『許されざる者』が「最後の西部劇」だったようにこれは「最後のイーストウッド映画」なのである。「監督」としてのイーストウッドは、「役者」としてのイーストウッドのキャリアをここに完結させ、“封印”してみせた。ジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』が、まさにそうだったように。 クライマックスの、両手を広げて地面に横たわる主人公は、ほとんどキリスト(!)のようだ。ここでもまた観客は、この“聖人画(イコン)”から様々な解釈やら印象を語ることができるのかもしれない。しかしそれが、「最高の死に場所」を得た主人公を映画が“祝福”するものであること、そして「役者」イーストウッドの最後の勇姿への“餞(はなむけ)”であること、ただそれだけのことだとぼくは信じて疑わない。本作の主人公であるとともに「役者」イーストウッドそのものである彼は、ここで映画に、そして「監督」イーストウッドによって召された。それをこういう形で目撃できたぼくたち観客は、何と幸福なことだろう・・・  そう、何よりもこれは「幸福」な映画なのである。だからぼくたちも、心からの祝福と“歓喜の涙”で応えてあげようじゃないか。[映画館(字幕)] 10点(2009-04-27 16:45:40)(良:7票) 《改行有》

10.  パッチギ! LOVE&PEACE 《ネタバレ》 ここでは3世代にわたっての、とある「在日」一家の生きるーーというか、“生き抜く”姿が描かれている。祖父の世代は苛酷な戦火のなかを、泥と血にまみれながら。二・三世である父母とその子供たちは、貧困と差別のなかを。そして四世となる男の子は、不治の病に対して。彼らはそれぞれの逆境を、時にのろい、時に怒り、時に嘆き傷つきながら、それでも生き抜こうとするのだ。 もちろん、彼らをそういった状況に追い込み、追いつめたのが日本という国家であり、その国民であることを、映画は真正面から描くだろう。けれど映画のなかの一家は、そんなことを告発や断罪する前に、とにかく必死に生きる、懸命に生きる。その姿を前にする時、「日本人」たちの何と卑小でみじめなことだろう・・・! そこでは藤井隆扮する「良い日本人」ですら、どこまでもひ弱で無力な存在でしかない(もっとも、彼は彼なりにーー愛ゆえに?--「意地」を通すのだけれど)。たぶん、彼らは我々にこう言うだろう。差別するなり反省するなり勝手にやってろ! と。 前作『パッチギ!』では、そういった「生」のエネルギーのほとばしりを高校生たちの群像ドラマに託しつつ、一方でそれを「在日」という言葉(=観念)に収斂させてしまうことで実に「上質」な(ということは、「映画賞の取れる」ような!)作品を撮りあげた井筒監督ら作り手たち。だが今回は、「政治」だの「歴史」だのといった観念性をブッちぎり、映画としての体裁すらブッこわしてまでも、主人公とその家族の「生」を、それだけを映像におさめようとした。そしてそれは、見事に成功したといえるだろう。何故なら、前作とうって変わってのこの「低評価」こそがその証じゃないか! だが、これでいいのだ。映画が「生きるもの」たちの姿を、その輝きこそを映し撮るものだとするなら、これこそが正真正銘の「映画」そのものなのだから。 ・・・映画の最後、難病の男の子が、自転車にはじめて乗ることに成功する。彼は助からないかもしれない。しかし、それでもやっぱり生き抜こうとしている。その姿にふたたび家族がひとつになる。 何て美しい光景だろう。[映画館(邦画)] 10点(2009-03-31 17:30:36)(良:1票) 《改行有》

11.  明日への遺言 連日、厳しく罪状を追及してくるアメリカ人検事に、主人公はある朝、こんな風に声をかける。 「おはよう、検事殿」 あくまで何気なく、何のふくみもない平凡な朝の挨拶。それに対して検事は、思わずニッコリと微笑むのだ。 時間にして1秒にも満たないかのような、検事の微笑。そこから、全編が裁判所内というこの映画のなかの「空気」は、少しずつ“軽さ”をーーあるいは“すがすがしさ”へと変わっていく。それは、「裁く/裁かれる」という対立の構図ではなく、かつては(あるいはその時も)敵同士だった者たちのあいだに、連帯が、むしろ〈友愛〉そのものがうまれたからである。 そう、藤田まこと演じる主人公の岡田中将は、何も部下たちを救ったからだとか、日本人としての「品格」とやらを示したから称賛されるのではない。この映画はそんな程度のもの(と、言ってしまおう)を描こうとしているのではあるまい。ここには、戦争犯罪人という立場でありながら、日本人とアメリカ人、原告と被告、敗戦国と戦勝国、正義と悪といった対立軸を超えて、この法廷をただ正々堂々と戦い抜こうとする岡田中将と、同じく正々堂々と戦うアメリカ側という〈構図〉があるばかりだ。その〈構図〉を、フェアネスな“空気”を実現してみせたことにこそ、岡田中将という人の真の偉大さがあった。 映画は冒頭で、醜悪で悲惨な戦争の非人間性を記録フィルムで観客に示す。そのことで、岡田中将の“もうひとつの「戦争」”が、むしろ「人間性」をあらためて信じ、取り戻すためのものであったことを、この映画は見る者の心に鮮明に焼きつける。そう、この映画は人を(あるいは国家を、歴史を)裁くのでも、告発するのでもない。日本側・連合国側を問わずこの法廷にいる者たちは、人間というものの持つ真の「崇高さ」のために、共に共闘しているのだ。そういった姿を通して、人間というものの「美しさ」を、ただそれだけを映し出そうとしたものだったと、今ぼくは確信している。  確かに、一見すると地味で派手さのかけらもない、「映画的」ですらないと思われもするかもしれない。しかし、映画がここまで「人間」の美しさ、その精神の「崇高さ」を見つめようとしたことにおいて、本作は、ぼくにとってたとえばジャン・ルノワールの作品に比するものだ。 ・・・最後に。小泉堯史監督、貴方の映画と同時代の観客でいられて、ぼくは本当に幸福です。[映画館(邦画)] 10点(2009-02-03 19:23:13)(良:1票) 《改行有》

12.  その男ヴァン・ダム 《ネタバレ》 思えば、ヴァン・ダムくらい一人二役にこだわるスターも珍しい。『ダブル・インパクト』にはじまって、『マキシマム・リスク』や『レプリカント』まで、双子だのクローン人間だのを嬉々として(?)演じている。『タイムコップ』でも、過去の自分を未来から来たヴァン・ダムが見つめるという場面があったはずだ。そして本作もまた、「ヴァン・ダムがヴァン・ダム自身を演じる」という意味で、やはり一人二役をめぐる彼の“オブセッション”的主題を反復しているんである。 落ち目の人気スター「ヴァン・ダム」が郵便局強盗にまきこまれ、包囲する警官隊から犯人と間違われるという喜劇的設定ながら、全編を覆うシリアスな、重苦しい空気感。そのなかで、これまで演じてきたヒーローのようにはいかず成すすべもないヴァン・ダムの、疲れきった表情がまず素晴らしい。そして皆さんもご指摘の、あの独白・・・  ヴァン・ダムが突然カメラに向かって「これは俺の映画だ」と語りはじめ、これまでの人生やドラッグに溺れた事実などを告白し、最後に「そう、これは俺の現実だ」と告げて、ふたたびドラマへと戻る、ワンカットで撮られた長いモノローグ場面。そこにあるのは、単なるメタフィクションとしての面白さを超えて、映画(=虚構)と現実が交差することのスリリングさだ。そう、この映画はまさしくヴァン・ダム版『サンセット大通り』(!)とでもいうべき、現実のヴァン・ダムと虚構(=イメージ)としての「ヴァン・ダム」という“一人二役”を自ら演じてみせた作品として、その〈二重性〉に賭けられたものに他ならない。 ただ、これでもう少しヴァン・ダム=「ヴァン・ダム」の悲喜劇性を際立たせることができたなら、この映画はかなりの傑作になっていたにちがいない。と思わせる、映画としての“弱さ”は確かに認めよう。けれど何度もいうけれど、本作のヴァン・ダムは本当に良い。素晴らしい! これを契機にひと皮むけたヴァン・ダムの、今後に期待をもたせてくれただけでも、ファンとしては大いに感謝しようじゃないか。[映画館(字幕)] 7点(2009-01-28 15:31:20)(良:1票) 《改行有》

13.  しあわせのかおり 《ネタバレ》 映画の冒頭、ガスコンロに火がつく「ボッ」という音にはじまって、食材を炒める、揚げる、煮る、蒸すといった音が、調理する光景とともにーーいや、それ以上に音こそが強調されてぼくたち観客をとらえる。そしてその中華鍋をおたまで攪拌する音、中華包丁で刻む音の、何というリズミカルな響き・・・。そんな音たちの連なりの果てに、眼にも鮮やかで艶やかな料理が画面いっぱいに映し出されるのだ。 そう、料理を創ること・食べることが半分近くを占めているこの映画は、そういった「料理」を“音”によって表象する。いかに見事な音を奏でるか、それが料理それ自体の映像に、官能的なまでの〈美味しさ〉を与えることになるというわけなのである。・・・結局のところ映像は、料理の味も匂いも伝えることができない。けれどその官能性を、一種の「音楽」として聴かせることは可能だろう。音が創り出され、そのリズムやハーモニーが結果として料理を、その〈美味しさ〉を産み出す。本作が単なる「グルメ映画」と一線を画すのは、これがむしろ“音と音の響きあう”映画、まさしく「音楽映画」であるからにちがいない。 たとえば、藤竜也が演じる料理人の王さんは、その「音楽」を見事に奏でることで「名人」であることを体現し、我々を納得させるのだし、中谷美紀による主人公は、はじめはたどたどしかった“音”が徐々に「音楽」となっていくことで、料理人としての成長を実感させる。・・・クライマックスとなる食事会。それぞれ夫を亡くしたシングルマザーと妻と娘に先立たれた孤独な料理人であるふたりが、二人三脚で“ひとつの「音楽」”を創り出す料理場面は、中華鍋をふるう所作ひとつをとっても、これが一種の“ミュージカル映画”でもありうることをぼくたちにハッキリと見せつけてくれるだろう(その食事会の終わりに歌われる「ホーム・スウィートホーム」は、だからそういったふたりが奏でる「音楽」への“返歌”としてあったのだ)。 まるでホウ・シャオシエン監督の『戯夢人生』や『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のような、沈黙と、ひとつの乾杯で締めくくられる長いワンカットのラストまで、この一見つつましい、およそオリジナリティを主張しないかのような「地味」な映画が、実は最近の日本映画のなかでも最も「滋味」豊かなものであること。そのことこそを、ぼくは高く、高く評価したいと思う。[試写会(邦画)] 10点(2008-10-16 12:04:21)(良:1票) 《改行有》

14.  紀元前1万年 《ネタバレ》 神話や伝説なんかに接する時、往々にしてその「語り」の飛躍ぶりやご都合主義、デタラメさに驚かされる。そこでは人と動物が対等にコトバを交わし、何年もの時間がひと言で片付けられたりする。そして語り手(とは、その神話なり伝説を産んだ「集団的(無)意識」の具現化した存在=声に他ならないんだけれど)の思惑や気分(!)により、平気で展開や細部が変更・改変されることも常のことだ。でも、だからこそその「語り」は現代のような、緻密さと物語の整合性、テーマに汲々とした「神経症」的な息苦しさから解放された、あるすがすがしさや味わいがあるのだと思う。 オマー・シャリフの「語り」で物語が進行する『紀元前1万年』は、何よりも先ず、そうした「神話的・伝説的」な叙述[ナラティヴ]を映像化する試みとしてぼくは見た。というかこれは、最新のCG技術やらテクノロジーを駆使しつつ、しかし徹底して「現代的」な物語の叙述から身を離そうとする映画以外の何物でもないのじゃないか。だからこそ登場人物の「内面」やら心理的葛藤なんぞは、あっさりとナレーションで語られる程度なのだし(・・・例えばペーターゼン監督の『トロイ』は、登場人物たちの内面に寄りすぎたその「現代的」な演出ゆえに魅力を欠いたのだ、とすら言ってしまいたい)、死んだヒロインの“蘇生”場面にしても、あくまでそういった「語り」の要請に忠実だったゆえなのだ。すべてに成功している映画だとは思わないけれど(人々を支配する神のごとき存在がWASP風の「白人」だったというオチの、いささか安易な寓意性はむしろ不要だろう・・・)、その“大胆さ”こそ本作を真に興味深い作品にしているのではあるまいか。 そう、エメリッヒ監督の映画は、これまでもそのどこか反=時代的な「語り」のおおらかさこそが魅力なのだった(まあ、それを「バカバカしさ」ととる向きもあるんだが)。本作は、そういった「語り」そのものに監督自身がのめりこんでいるかのようだ。それゆえ、彼の映画としてはあまりに“作家性(!)”がオモテに出すぎた感がなくもない。が、「神経症」めいた映画にどこかイヤ気をさしていた観客にとって、これほど映画ごころを慰撫され、ホッとできる作品もないだろう。 エメリッヒ、やはり断固支持![映画館(字幕)] 8点(2008-06-03 16:03:59)(良:2票) 《改行有》

15.  映画ドラえもん のび太と緑の巨人伝 《ネタバレ》 声優が一新されてからのドラえもん映画は、常に「のび太」という11歳の少年のメンタリティに寄り添うかたちで創られている。この少年の、11歳という年齢だけが持つ「まっすぐさ」、たぶんそれだけを(とは、まぁ極論だけれど)描こうとしているのだと思う。 そして映画の中で、のび太は、自分にとって“何より大切なもの”のために、11歳の男の子としてのありったけの努力と勇気をふりしぼって、その“大切なもの”を守り抜こうとする。その時ジャイアンやしずかちゃん、スネ夫たちもまた、のび太といっしょにがんばり抜き、最後まで行動をともにするだろう。彼らは、「友だちであり続けること」というもうひとつの“大切なこと”のために、やはり「まっすぐ」がんばるのだ。そう、友だち同士(=同志!)として。 だからドラえもんも、映画では、“頼れる存在”というよりあくまでコメディリリーフ的役割というか、のび太たちを「あたたかい眼(笑)」で見守る立場だ。特に今回の映画では、ひみつ道具すらあまり登場しない。その分、のび太たちの「まっすぐ」ながんばりがクローズアップされることになる。・・・そのことに、いいトシをした親父であるぼくは感動し、不覚にもナミダしてしまう。 確かに、植物星人たちが地球を攻撃する後半は、いささか状況が分かりにくいかもしれない。でもその中で、のび太がキー坊を懸命に助けようとする姿と、それを見た植物星のお姫さまも手助けしようとする、この場面にこそ、映画版ドラえもんを貫く主題ーーと言って大層ならば“精神(ハート)”があるにちがいない。そう、ドラえもんの道具でも、悲壮感たっぷりのヒロイズムでもない、「ぼくにはこれしか出来ないから…」と大切なものを守ろうとする11歳の少年の「まっすぐさ」こそが、世界を救うことになるのだ。その、何という清々しさ・・・。 そうした「11歳の心(ハート)」を、「まっすぐさ」という彼らの〈倫理〉をドラえもん映画が失わないかぎり、ぼくもこのシリーズを見続けていこうと思う。どんなにトシをとろうとも、のび太たちの「まっすぐさ」を見守り続けることは、子どもたちにとってはもちろん、大人にとってもまちがいなく大切なことだから。 以上、レビューというよりひとり語り、スミマセン・・・。 <(_ _)>[映画館(邦画)] 10点(2008-03-12 19:22:10)(良:2票) 《改行有》

16.  東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(2007) 主人公のボクが、仕送りを飲み倒し、電話でカネの催促をする場面。その時、オカンは電話口でどこか中空の一点を見据えたまま「おかしーねー、送ったはずなんやけどねー、何でかいねー、…」と独り言みたいに繰り返す。ここでの樹木希林は、あまりにも見事に「母親なるもの」を体現している。息子が嘘をついていることを分かっていながら、分かっていないふりをする。その愛情の深さと、一方で、否定できない鬱陶しさ。そう、確かに「母親」とは、こういった両義性によって息子を「抑圧(!)」するものではないか。 そして、とある温泉施設(?)で、オカンが幼い日のボクを置いて男と“消えた”エピソード。しかしその時以来、オカンは「女」としての自分を決定的に“捨てた”。そして彼女は、ボクの「オカン」として生きることにした。しかし繰り返すが、それは一種の「抑圧」以外の何物でもない。けれど、ボクはそれを受け入れる。・・・彼が松たか子演じる恋人と別れることの背景にも、あるいはこの母子の“関係”が影響していたのかもしれない。なぜならそこに、第三者の立ち入る隙などありはしないのだから。 もちろんそれを、エディプスコンプレックスだの「近親相姦」的な文脈で語ろうなどと言ってるんじゃない。そうではなく、表向きは微温的で心優しいこの映画が、実のところ、平然と「母」を捨てることで「女」を選んだ成瀬巳喜男の『秋立ちぬ』とは真逆のベクトルから、「母と子」というものの関係性を、いかに母親は真の意味で「母親」となり息子は「息子」となるかを、冷徹に見据えたものであること。ボクとオカンの間には、もはやオトンですら立ち入ることの出来ない関係性が築かれている。そのことを、良いとも悪いとも裁定することなく描いたものであると、ぼくは思っている。 松岡錠司監督は、平凡な人間のなかの「のっぴきならない関係性」という物語を、決してあからさまにではなく、けれどくっきりと画面に、あるいは役者のたたずまいそのものに語らせる。もちろん才能や映画の質は全然ちがうけれど、ふとぼくは彼のその確固たる繊細さに「ああ、成瀬だ…」とつぶやいてしまう。これはそういった松岡監督の類い稀な資質が、慎ましくも豊に発揮された映画だと信じる。・・・本作を単なるメロドラマとしか見られないとしたら、我々はその“「物語」に対する不感症”こそを反省しなければならないだろう。[映画館(邦画)] 9点(2007-07-20 13:57:07)《改行有》

17.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 『硫黄島からの手紙』のなかで、負傷して日本軍の捕虜になったアメリカ兵の青年が登場する。彼は手厚い看護を受けたものの、結局息を引き取る。けれど、彼が持っていた母親からの手紙の内容に、今までアメリカ人を“鬼畜”だと信じ込んできた日本兵たちは、「彼らも俺たちと同じじゃないか…」と愕然とするんである。 この場面は、本作のなかでもとりわけ感動的で、美しい。その時、日本兵たちは、目の前のアメリカ人青年をただ殺すべき〈敵〉ではなく、はじめて〈人間〉として認識した。と同時に、ぼくたち観客もまた気づかされるのだ。この映画そのものが、『父親たちの星条旗』にあってまったく「顔」を与えられなかった日本兵たちを、ふたたび個々の〈人間〉として見出すものであったこと。そのために、どしてもこれが「二部作」であらねばならなかったことを。 『星条旗』が、「憎悪と敵意」「政治」という「戦争の本質」こそを描くものだったとするなら、本作は、常にそういった「戦争」のなかで見失われてしまう〈人間〉を回復する試みである、といって良いかもしれない。・・・戦場にあって、ただお互いを殺し・殺されるだけの兵士たち。「憎悪と敵意」の対象でしかなかった〈敵〉同士を、イーストウッドの本作は、あらためて〈人間〉として描こうとする。それこそが、戦争の“消耗品”として歴史に埋もれ、顧みられることのない彼らを、あくまで一個の人間として追悼することになるからだ。だから、「戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在だ」というイーストウッド自身の言葉は、決して彼の「右翼的」な信条=心情から出たものではあるまい。むしろ彼は、現在に至るまで時の為政者(ブッシュ!)たちが「自分たちは正義の側で、悪と戦う」と唱え、戦争を肯定することへの断固としたアンチテーゼとして、兵士たちを1人1人〈個人〉として「戦争」から“帰還”させようとしているのだから。 この、全編のほとんどを日本人の役者ばかりが登場する「日本(語)映画」を、アメリカのジャーナリズムが高く評価するのも、おそらくその一点においてであるだろう。・・・これが、監督イーストウッドの最高傑作かどうかは分からない(し、どうでもいい)。けれど、戦争の「本質」を描き、兵士たちをふたたび〈人間〉の側に取り戻そうとする「硫黄島二部作」は、現代最高の「(戦争)映画」であること。それだけは間違いない。[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 18:31:23)(良:4票) 《改行有》

18.  父親たちの星条旗 18世紀プロシアの軍人クラウゼヴィッツは、その古典的著書『戦争論』で言っている。戦争の「本領」とは、「憎悪と敵意」を伴って遂行される暴力行為だ、と。 戦場において国民(=兵士)たちは、ただこの「憎悪と敵意」を増幅することだけを課せられ、そのエスカレーションとともに相手国民(=兵士)を殺し・殺される。そして、そんな「憎悪と敵意」をむけるべき〈敵〉としてのみ、本作の日本兵たちは描かれるのだ。だから、彼らは「顔」がない。徹底して得体のしれない“脅威”としてのみ、アメリカ兵たちの前に現れる。その時『父親たちの星条旗』は、これ以上なく端的に戦争の「本領」をぼくたち観客に見せつけているのである・・・。 一方クラウゼヴィッツは、「戦争とは異なる手段をもってする政治の継続である」とも言っている。「憎悪と敵意」をぶつけ合う戦場とは別に、国家にとって戦争とはあくまで政治的な「外交(!)」の手段なのだ、ということか。事実、映画のなかで政治家たちは戦争を継続するために、何とか戦場から生還した兵士たちを、国民が国債を買うための“道具”として利用する。兵士たちは、否応なくもうひとつの戦争の「本領」に巻き込まれてしまう。いわば、彼らは「憎悪と敵意」と「政治」という二重の「戦争」を戦うハメになったのだ。 そう、これまで常に〈体制〉からハミ出した「個人(アウトサイダー)」を演じ・描き続けてきたイーストウッドは、そんな「個」を単なる“道具=消耗品”としてしか扱わない戦争そのものの〈本質〉、ただそれだけをこの映画のなかで表出しようとした。声高に「反戦」を叫んだり、賛美・正当化する「反動」に走ったりするのではなく、いかに戦争が〈個人〉をないがしろにすることで遂行=継続されるものであるかを、ある痛み(と、悼み)とともに観客へと伝えようとしたのだと思う。同時にその時、本作が、ジョン・フォード監督の『コレヒドール戦記』(原題は、「They Were Expendable(彼らは消耗品)」だ…)に呼応し共鳴しあうものであることも、ぼくは深い感動とともに確信する。  その上で、『硫黄島からの手紙』を撮ることによって、あらためて「兵士たち」を人間として、〈個人〉として追悼しようとしたイーストウッド・・・。この「硫黄島二部作」において、彼はジョン・フォードをすら“超えた。この2作品と「今」出会えたことを、ぼくはただただ幸福に思う。[映画館(字幕)] 10点(2007-01-17 15:43:55)(良:2票) 《改行有》

19.  16ブロック ニューヨーク市警の刑事で、どうやら離婚経験者である主人公。それを演じるのがブルース・ウィリスとくれば、誰だって『ダイ・ハード』シリーズを思い浮かべるだろう。事実この映画には、今は酒におぼれる自暴自棄な日々を送るジョン・マクレーン刑事の“後日談”めいた雰囲気がある。これを、シリアスに撮られた『ダイ・ハード4』だとすら言っていいかもしれない。 しかしあのシリーズが、<刑事もの>というジャンルを超えて、どんどん「見せ物(スペクタクル)性」をエスカレートさせていったのに対し、『16ブロック』は、あくまで<刑事もの>というジャンルにとどまり続ける。警察内部の腐敗や、護送中に心の絆がうまれる犯人と主人公の刑事といった、この手の映画の約束事というか定石を律儀なまでに踏襲していくのである。 それゆえこの映画は、一見すると地味で派手さに欠けた「普通」の映画、ひと昔もふた昔も前によくあった感じのありふれた映画にすぎないようにも思える。けれど、けれどそれは、作り手であるドナー監督自身によって意図的に選びとられたスタイルであり“戦略”に他ならない。わざと色調をおさえたトーンの荒い画面にしても、まさしく1970年代の映画のようなテイストをめざされたものであるだろう。ドナー監督は、あえて<ジャンル>に忠実というか自覚的な映画を撮ろうとした。何故か? たぶん<ジャンル>こそが、“映画が「映画」として成立する規範”であると、彼は信じているからだ。 CGの登場、あるいはルーカス=スピルバーグの登場によって、映画は<ジャンル>を逸脱することによる新たな「見せ物性(スペクタクル)」を開拓してきた。しかし一方でそれが、なんでもありの、「今まで見たことのない映像」を競うことの自堕落な増長を招いたことも確かだろう。だからドナーは、CGによる見せ場も、非現実的なアクションも禁欲(あの『リーサル・ウェポン』の監督が、だ)することで、あえて<ジャンル>への意識に満ち満ちた本作を撮った。映画そのものを、「アメリカ映画(!)」を“とりもどす”ために。そのことが、かろうじて「1970年代の(アメリカ)映画」にふれることができた年代の観客にとって、何より感動的なことなのだった。 そう、映画なんて、たとえば小道具に“小型ボイスレコーダー”ひとつあれば、充分なのだ・・・ [映画館(字幕)] 10点(2006-12-01 16:05:39)(良:3票) 《改行有》

20.  夜のピクニック 80kmという長い長い距離を歩き通すなか、極度の疲労が逆に心を開かせ、友人やクラスメートとの“距離”を縮めていく。けれど、物語の中心となるふたりだけは、どうしても自分たちの「ある秘密」ゆえにぎこちなく、その理由を、お互いに親友にもうち明けられない・・・。 そういった高校生たちの心情を点描していく部分は、演じる若手役者たちの好演もあって、小生のようなオヂサンにも素直に受けとめられる(特に多部未華子の、心の痛みを胸に閉じこめた、それでいて、笑うと世界が一瞬にして華やぐかのような表情の素晴らしさ!)。特に、今まで誰にも言わなかったその秘密を、一緒に歩いている友人がこともなげに口にした時の驚いた表情を、さりげない切り返しのショットで際立たせるあたり、本作の監督らしいデリカシーを感じさせてくれる瞬間だ。 けれど、それだけなんだなぁ。この映画が見せるべきだったのは、途方もなく長い「夜のピクニック」のなかで、高校生の少年少女たちの心のうちがどんどん“武装解除”されハダカになって、ようやく本当にふれあえることの幸福感であったんじゃないだろうか。だのに、かんじんの「ピクニック」が、その距離感も、歩く彼らの疲労感も、その果てのふっきれた解放感も、まるで描かれていない。というか、伝わってこない。主人公ふたりの「秘密」をあかす過去の場面も、いたずらに説明的なだけだ。ましてや、南果歩扮するヒロインの母親の言動に至っては、どう好意的にとろうとしても唐突だし、ありえないだろう。演じる若手たちがいかにがんばってはいても、この内容では、ほとんど「学芸会」レベルじゃないか・・・。 実際、エキストラ募集で参加したのだろう映画のなかの高校生たちは、事実まるで学園祭のように楽しそうだ。見る側も、そんな“参加者”になったつもりで、つまり学園祭のノリで楽しめばいいのかもしれない。これはそういった「イベント・ムーヴィー」として、価値があるんだろう。でも、本作の監督である長澤雅彦の、『ココニイルコト』の繊細な心優しい映像に魅せられた者のひとりとしては、その後1作ごとに「才能」を枯渇させていくかのようで、実に、実に、サミシイのであります。[映画館(邦画)] 5点(2006-10-20 12:31:34)《改行有》

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