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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  人生万歳! 《ネタバレ》 ウディ・アレン、久しぶりのアメリカ舞台の作品。アメリカを出て撮った数作のちょっとしたシリアス路線など無かったかのようないつものアレン映画。皮肉とジョークと良き音楽で魅せるアレンらしい映画だ。主演をラリー・デヴィッドに任せるも、あれはアレンの化身の他の何者でもない。 今回も「それでも恋するバルセロナ」の時に書いた様に、ある一点のみについて書いておこうと思う。それは尺取虫の母親が初めて写真を見せるシーンで写真のインサートを一切入れないのがアレンであるということだ。どんな写真なのかは必要な情報ではなく、その写真から始まる物語が重要であり、それはふたりと、ふたりがいる風景があればそれでいいのだということ。もし写真のインサートが入ると、その内容、尺取虫の娘のミスコンの情報が現れ、その物語が立ち上がってしまう。そうなると、あのふたりのこれからの物語に移行するのに遠回りになる。だから入れない。それで絶対的に正しいと思うのだ。 本作で監督作品40本目、そういった巧さを心得ているアレン、まだまだ枯れるはずなどない。[映画館(字幕)] 7点(2011-01-14 18:59:21)(良:1票) 《改行有》

2.  ブロンド少女は過激に美しく 《ネタバレ》 まず、この女はどこを見ているのだろうかって思う。しかしそれは実はやはり単純なことで、男はこの物語を語る人、女はこの物語を聞く人、つまり彼女のやるべきことは男に視線をおくることなんかじゃなくて、彼に耳を貸すこと。ただそれだけ。女の耳はいつも必ず物語が紡ぎ出される男の方を向いている。故に女の視線はまるで盲目のそれのような妙ちくりんなものとなってしまった。 そしてやはり、ルイザの脚だ。ルイザの片脚がぴょんとなる。それはキスするのに身長が足りなくて、背伸びして、片脚立ちになるから。これをオリヴェイラは、ごくありふれたキスをするふたりというショットなどよりも、その脚のみを選択し可愛らしく切り取るわけだけど、それって実はラストへの布石だった。 ルイザが大股開きでソファーに浅く腰を据えぐったりと項垂れる。この風景の威力というのはかなりのものだ。この映画が60分をかけて描いてきたものをすべて崩壊させてしまう。これというのは彼女が唯一ひとりになったときに見せる彼女の本性であり、「ちっくしょー、やっちまったなぁ・・」っていう態度だ。実は柄の悪いお嬢様だったと(本当にお嬢様であったかすらもよくわからなくなってくるわけだけど)。 この真逆といえる人格を、片脚ぴょんと大股開き、という脚だけで、しかもふたつのショットで描いてしまうというのは、単純でありながらも、これこそが映画の豊かさなんじゃないのかって、オリヴェイラの映画を観ると毎度のことながら必ず気付かされるのだ。[映画館(字幕)] 9点(2010-10-20 03:12:17)(良:1票) 《改行有》

3.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 何も新しいことなどない。このフィルムがスクリーンに映し出すもの殆どが既にどこかで観たことのあるようなものであり、その物語も驚くべき何かがあるものでもない。しかし、それでいいのだ。そこにはアメリカ映画が培ってきたアメリカ映画としての、そして映画そのものとしての喜びに満ち溢れているから。 人間の感情というのは複雑でありながらも単純なものでもあり「喜怒哀楽」などという四つの漢字を複合することで表現することもできる。しかしながらやはりその四つの間は複雑さという幾層ものグラデーションとなり、それを映画に於いて描くことがどれだけ困難であるかは過去の成功には至らなかった映画たちが雄弁に物語っている。しかしながらこの映画はそんな映画たちを尻目に、満ち溢れた幸福感から途方もない絶望感へという途轍もなく広いふり幅を限りなく単純ながら繊細に描き切ってしまう。そしてそのふり幅をも圧倒的に振り切る喜びと爽快さをこの映画は魅せつける。それがアメリカ映画の素晴らしさだ。 そう、アメリカ映画の素晴らしさ、それは勝つことでの感動ではなく、「We are No.2!」という負けても自分たちを肯定する美しさを描くこと。つまり負けても、それは本質的な負けではないということ。だからこそより感動的なのだ。[映画館(字幕)] 8点(2010-06-12 23:51:25)(良:2票) 《改行有》

4.  コロンブス 永遠の海 こういう映画こそが、豊かな映画だなぁって思えるのは、潤沢なバジェットだとか、一流の役者の起用とか、大規模なオープンセットや海外ロケとかとは無縁なところで、時間と大陸を軽々と飛び越えてしまうからで、それが正に映画の魔術とか奇跡とか、まぁなんでもいいんだけど、映画ってそういうもんじゃんってことだと思う。 学のない自分なんかは、この映画って一体何の映画なんだかさっぱりわからんわけで、ハネムーンの前くらいまではこの映画って何についての映画なんだったけかと本当に疑問だったりして、コロンブスはコロンって呼んでねとか、ポルトガルの偉人の像を建てようぜだとか、更にはご老人たちのロマンスまで絡まっちゃって、最後はノスタルジアな曲を歌い出して、でも根本的にはアメリカ映画なんじゃないのかって思えたりして、でも本当にこれ何の映画なんですかって聞きたくなるのだけど、まぁそんなことは実際にはどーでもいいっちゃどーでもよくて、ちゃんと物語もやってるし、というのも、基本的にオリヴェイラの映画は歴史を物語るというよりは、歴史が物語ってくれるという感じで、それっぽいけど、出鱈目な風景の連続を映画の中に落とし込むことで、それで事実としちゃってるから、いつも、映画なんてそんなもんでしょって納得させられちゃうのだ。 101歳(撮影時は98歳か?)の老体が車を運転している姿が映画になるっていうのも恐ろしいことだし、霧の処理の仕方とか、信号の件とか、まぁ終始驚かされっ放しだったというのが正直なところだし、やっぱ笑っちゃうよね。[映画館(字幕)] 8点(2010-05-30 11:35:16)《改行有》

5.  息もできない 《ネタバレ》 暴力を振るう者はいつしか必ず暴力を振るわれる側になるのだということを、この映画はタイトルが出る前で既に語り、そして台詞として語り、そして全編を通して語り尽くす。暴力は暴力を生むこと、暴力の連鎖を食い止めることの困難さを示す。暴力を捨てたサンフンに彼が今まで振るい続けた暴力がまとめて返って来るのだし、それは実質的な暴力のみならず、辿り着きたい所に辿り着けなくなるという、暴力より遥かに過酷な罰となり我に返って来る。この映画もやはり暴力を振るった者である場合、愛や家族、そういったものであれど、彼を暴力という柵からは解き放つことは出来ないと示す。 しかしそれはそれであるが、そうであって欲しくはないというのが、希望や許しであり、勿論この映画もそれを描かずにはいられない。 ヨニはサンフンが何故泣くのか理由を知らないのだし、またサンフンもヨニが何故泣くのかを知らない。互いの理由を知らぬふたりが、全く違う理由のようで、根底は実は同じである理由で、共に涙をする姿をワンショットで撮る。つまりワンショットの中には結果のみが集約されているのだが、それと同時に観客のみがそのどちらの理由をも知っているということがこの漢江でのシーンの美しさを際立たせる。 そして焼肉店でのクロースアップ、クロースアップ、クロースアップ・・の連続は、サンフンの視点である。彼の姿形こそそこには存在し得ないのだが、彼の望んだ結末を、彼が望んだ光景を、彼に代わり、我々観客が目の当たりにする。その幸福感を共有した我々は涙を流さずにはいられない。その涙は勿論我々の涙だが、同時にその涙はサンフンの涙となる。この瞬間、映画はスクリーンなどというものを飛び出し、観客と一体化するのだ。傑作。[映画館(字幕)] 9点(2010-04-19 23:57:41)(良:3票) 《改行有》

6.  第9地区 《ネタバレ》 既に言われているのが、この映画と「アバター」との類似である。それは、大袈裟に言えば、異星人を肯定的に、人間的に描き、寧ろ人間自体の存在を否定的に描いているという点だ。というのも「アバター」に登場する異星人とこの映画の ”エビ” は観客が受け入れ難いほどの奇妙な造型で、明らかに人間の敵なのではと思わせるが、彼等に人間を滅ぼすという強い意思などはまるでない。話が進むに連れ、この映画で言うならば ”エビ” たちはただ故郷に帰りたいと願うだけなのに対して、人間の利益という欲望が醜く見えはじめることにより、観客は寧ろ異星人たちに感情移入し始め、人間なんて糞ったれた存在だと感じ始める。そしてその中間地点に置かれる主人公が、異星人の姿形になってしまうことで、このふたつの映画はより観客の感情を異星人側へと導こうとする。 かつて映画で描かれてきた殆どの異星人というのは地球を滅ぼす敵であった。そして姿形を異星人へと変化させた人間は死ぬか、元に戻ってお終いとなるものが殆どだ。しかしこの2本の映画が決定的に違うのは最後に主人公は死にもしなければ元にも戻らない。寧ろ、それを受け入れ、そしてそれとして生きる。ただ「アバター」とこの映画の大きな違いはここからにある。この映画の主人公は「アバター」の主人公のように何も好き好んで ”エビ” の姿形を選んだわけではなく、寧ろ元に戻りたいのだ。妻を愛している。この映画のラストショットを見れば一目瞭然「アバター」より遥かにセンチメンタルに溢れているではないか。 またこの映画のはっきりとした意思というのは、友情と約束である。人間と異星人の間に微かながらも友情が芽生え、約束が結ばれるが、果して人間同士というのはどうなのか。この映画の舞台に南アを選択したのにはそういった意味もあるのだろう(それは南アが現在でも抱えてる問題、世界最悪と言われる治安やタウンシップとかもあるし、あとはアメリカでは起き得ないことでも南アであれば納得させやすいという理由もあるだろうが)。少なくともこの映画はそういった教訓を描いている。しかしそれは決して押し付けがましいものでなく、それ以前に立派なエンターテイメントとして仕上がっている。 また利害関係とは全く別で、ただ愚直に人間様という思いだけで、敵である異星人を片っ端から始末する軍人がどちらの映画にも存在するというのが見逃せないところだ。[映画館(字幕)] 7点(2010-04-15 06:10:24)(良:1票) 《改行有》

7.  ハート・ロッカー 最低である。最悪でもある。 みんなで頑張って爆弾処理に行こう、イラクに泊まろう、みたいな映画である。あるいは、USアーミー爆弾処理班の仕事紹介のイメージビデオだ。それでも俺は戦場に行く、というメッセージか。明らかに戦闘意欲を昂揚させている。反戦とかそういうこととは別に、軍隊に入ろう、爆弾処理の記録を作ってヒーローになろうみたいな糞みたいなことを2時間以上も観せられた。もはや拷問だ。 戦争に行ったことのない女監督が、さも戦争知ってますみたいな面して、これが真実、現実です、みたいに押し付けてくる映画を作っちゃたっていう最悪な出来事だ。彼女は恐らく戦争が麻薬とかそんなことには大して興味はなくて、USアーミー辛いけど頑張れくらいの労いの気持でこの映画を作っている。それがいけないんだ。それが駄目なんだ。それが糞ったれなんだよ。こんなところには真実も現実もない。それらは戦争を体験した人以外にはわからない。映画で戦争をやるならそれなりの覚悟が必要だってこと理解しなければならない。これはスーパーマーケットで沢山あるシリアルの中からお気に入りのシリアル買ってるような女がやっちまった惨事だ。そもそも映画なんかに真実や現実なんかあるわけがない。戦争を経験してない人間は主人公の妻みたいに押し黙ってるしかできないんだよ。素早い反応なんて出来ないんだよ。だって経験してないんだから。童貞やバージンがセックスについて語れないのと同じようなもんだ。しかし、自分にも責任があるってことを忘れては駄目なんだよ。それは戦争を知らない人々にも罪はなくとも責任はあるからで、罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからってことだ。 爆発すると映画的にも華があっていいよね。人間関係、対立とか、友情とか、信頼とか中途半端に描いて何がしたいのかね。物語も放棄して、ただ映像繋げて垂れ流して、あと何日とかいう何の効果もないチャプター分けして、手持ちかスタビで、クウィックズームで臨場感ですか?立派だねぇ。嗚呼立派だ。まさか21世紀初頭、こんなプロパガンダにアカデミー賞をあげるなんて、アメリカという国はまだまだ異国で糞垂らしまくる気なんだな。本当に立派な国だ。 アメリカ映画の面汚し的愚作。中指立てて差し上げます。  [映画館(字幕)] 1点(2010-03-13 00:00:18)(良:1票) 《改行有》

8.  インビクタス/負けざる者たち 《ネタバレ》 久しぶりに死の影をほとんど感じさせないクリント・イーストウッドの映画であったわけだが、彼の映画における「幽霊」という存在はこの映画でも健在であった。マット・デイモン演じるフランソワが皆を引き連れてロベン島に行くが、そのときに独居房や採掘上に現れるモーガン・フリーマン演じるマンデラは、生きる魂、正に生霊的である。そう、肉体を魅せるのではなく、魂を描くことこそがイーストウッドの映画なのだ。 冒頭、黒と白という二項対立構図を一本の道を挟んだだけの俯瞰ショットで描き、その黒と白は徐々に混ざり合っていくのだが、それが決して図式的に陥らず(肉体ではなく魂を描くからこそ図式的に成らない)、さも現実的であるかのように描き切ること、それもまたやはりイーストウッドである。しかし実際、全く現実的とは思えない。例えば、過労で倒れるマンデラや負傷してしまったチェスターが、何のきっかけもなく突如として全快してしまうという全く真実味を感じさせない流れ。しかしその流れに何も違和感を感じさせない力があるのは一体何なのだろうか。それは本作がとにかく簡潔であるからだ。無駄なものなどすべて根こそぎ削り取られ、そこには出来事のみが集約されている。彼がカメラを向けた瞬間にそれはさも現実的であるかのように立ち上がり、出来事が起こり、フィルムに定着し、映画と成り、そしてそれは「あったこと」となってしまう。それは力強く、そして熱く、凛として感涙的な事実と成ってスクリーンに投影されるのだ。 それにしても最後の試合のシーンは凄い。選手たちの動きのみならず、審判が時計を確認して笛を吹き鳴らす瞬間までハイスピードで撮影している。更には選手たちがぶつかり合う音までもが間延びしているのだから凄い。ここまで間延びさせると逆に躍動感を失いそうなものだが、平然とそれを乗り越えて、心震え上がるようなシーンに仕上げてしまう手腕にはやはりただ驚愕するばかりだった。[映画館(字幕)] 8点(2010-02-22 23:53:57)(良:3票) 《改行有》

9.  アバター(2009) 殆どのことを棚上げし、「アバター」という映画をIMAXデジタル3Dで観るという体験についてのみを書こう。 創成期、映画は体験された。リュミエール兄弟が初めて「ラ・シオタ駅への列車の到着」を上映したとき、観客は列車がスクリーンから飛び出てくるのではないかと驚いて逃げ出しだという逸話がある。これの真偽は確かではないが、正に映画を体験するという言葉通りの話である。 現代、そういう逸話が産まれることは決してないだろう。しかしこの映画にはそれに匹敵するような圧倒的な映像がある。それは実に映画的な体験として観た者の感性に刻み込まれるに違いない。 この映画はほぼ実写ではない。だから映画ではない、ただのお絵描きだといういうような愚言などは正直どーでもよい。問題は映画を魅せつけるための、アングル、引き画、寄り画、トラヴェリングショット、カット割り、光と影があるかということだ。この「アバター」にはそれが映画史百年が培ってきた証として刻まれている。これはお絵描きをしてきただけで到達でるものではないのだ。 映画はついに実写と(モーションキャプチャーによる役者の演技があってこそ成り立つ)CGIが何の違和感もなく同じフレームに収まり、感動的な出逢いをする瞬間を迎えたのだ。CGIが実写を抱え上げ、涙し、実写はCGIの頬をそっと撫で、また涙する。これはあるひとつの映画の到達点だ。 (物語などはさて置)誰もが圧倒的な映像に打ちのめされ感嘆させられるだろう。これを単なるCGIだと言うのであれば、それは自分の感性を呪詛するべきだ。 IMAXデジタル3Dで観るという体験はひとつの体験として実に新鮮であり、破格のものである。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-26 04:04:08)(良:1票) 《改行有》

10.  パブリック・エネミーズ 《ネタバレ》 フィルムのみならず、小さなビデオカメラも手にしたマイケル・マンのカメラワークは自由自在で狭い部屋の中も縦横無尽に動き回る。冒頭の脱獄シーン、車で仲間の手を離すまでの一連のカット割なども見事であり、そういう角度にカメラを入れるのかと感嘆する。勿論、熱を持った銃声だけが響き渡る森の中での銃撃戦の音響処理はいつも通り見事であり、マイケル・マンの映画である烙印だ。この銃撃戦のシーン、音楽も一切排し、緩慢に間延びしきっている。しきってはいるが、それが退屈へと陥らず、ぎりぎりのところでサスペンスとして完璧に成立しているのだ。これもまたマイケル・マンの烙印と言っていいだろう。そして単純ながらもジョニー・デップ演じるデリンジャーとマリオン・コティヤール演じるビリーのカットバックを撮ること。これがこの映画のすべてなのだ。 だからこそ最後が泣きなのだ。 デリンジャーは映画館でクラーク・ゲーブルが演じるブラッキーの潔い死に際を目にする。これは「男の世界」という映画だが、電気椅子を自ら選ぶブラッキーに、ウィリアム・パウエル演じるジムが「Bye Bye Blackie」と言うのだ。デリンジャーとブラッキーというカットバック、デリンジャーは何を想い、映画館の席を立ったのだろうか。そして彼は最期を迎える。彼の死に際のひとことをスティーヴン・ラング演じるウィンステッドがビリーに伝えにやってくる。「Bye Bye Blackbird」。これがアメリカ映画の本質的な泣きの瞬間だと信じてならない。そして涙を流すビリーのクロースアップ。映画はそこで幕を降ろすと思わせるが、最後にもうワンショットある。ビリーのPOV。素晴らしいではないか。[映画館(字幕)] 8点(2009-12-23 20:04:30)(良:2票) 《改行有》

11.  倫敦から来た男 《ネタバレ》 冒頭の長回され続けるあのショットの途中、船上で男ふたりが何やら会話をする。記憶が既に朧げだが「2分経ったら・・」とか「Be Careful・・」といった会話をするが、このときの台詞がオンでいいのか疑問だ。少なくとも硝子越しに撮られているのだし、これがオンだとあの密談が主役の男、マロワンに聞こえていたということになる。勿論、その後の大声での騒動などは、大声であり、マロワンの目撃のショットであるからオンで正しい。しかし、あの密談はオフでなければならないはずだ。 長回しというのは断絶されない時間の証明だ。それは映像だけでなく音にも同じ意味になる。であるからこそ、ひとつのショットの中で定まらぬ音の演出がされているということ、これは明らかに間違っていると断言できるものだ。 そんな冒頭の緩慢な長回しを見ているだけで疲労感覚えた。シンメトリーにフレーミングされた船の先端を途轍もない遅さでクレーンアップしていくのに何の意味があるのか。何の意味もない。あまりにも緩慢なカメラの動きと人物の動きは物語やサスペンス性を宙吊りにし、ただ、ハイコントラストなモノクロームの世界を演出するだけだ。しかしそれはそれで正しいのだ。これがタル・ベーラのスタイルだからだ。 タル・ベーラと言えば450分の「サタンタンゴ」や鯨が出てくる「ヴェルクマイスター・ハーモニー」といった映画が有名であるがいずれもモノクロである。彼は自分のスタイルというものに忠実である。1.66:1、モノクロ、長回し、長尺。いずれも時代性としては後退的なものだと言っても過言でない。自分の世界にのみ生きる閉ざされた映画作家であると見られることも恐れず、スタイルを忠実に貫く。映画はこういった作家を受け入れるが、個人的にはそこに何も感じないわけで、一刀両断にしてしまえば、アンゲロプロスのほうが巧く、より感動的であるということだ。[映画館(字幕)] 6点(2009-12-22 01:02:03)(良:1票) 《改行有》

12.  イングロリアス・バスターズ 《ネタバレ》  大傑作。 スクリーンに映し出される多量の空薬莢とその前に積み上げられたナイトレイト・フィルム。 フィルムが発火し、スクリーンが燃え上がり、観客は撃ち殺され、映画館は爆破される。 映画そのものが燃えて、すべてが灰と化していくのだ。 映画への冒涜、あるいは尊崇。 崩壊していく館内、ショシャナの高笑いだけがサウンドトラックを通して響き渡る。 しかし映画は決して死なない。 やがてスクリーンがあった場所にかつては映画であった残骸たちが白煙となり舞い上がる。 そして蒼白な光が投影される。 そのショシャナの顔は幽霊そのものであるが、またそれと同時に優麗でもある。 これは彼女の復讐劇であり、映画の復讐劇でもある。 糞ったれた史実を、バット一本で完膚なきに滅多打ち、血生臭いフィクションをその上に張り付ける。 生と死の上に積み上げられた、新たなる歴史という名のフィルムは正に映画である。 間違いなくこれが彼の最高傑作。[映画館(字幕)] 10点(2009-12-01 19:15:49)(良:4票) 《改行有》

13.  スペル 《ネタバレ》 サム・ライミという監督が登場した当時のUNIVERSALのロゴマークで始まる本作は、彼がこの映画で何を描きたいのかということの表明だ。「死霊のはらわた」が処女作の彼は、ホラーというジャンル映画の監督の枠で収まることなく、西部劇や野球ものを描き、そして「スパイダーマン」という大衆向け商業映画を大成功に導いた。そうやって培ってきた映画的感性を自分の原点にフィードバックさせた、原点回帰がこの映画である。 風や物音、カーテンに映るシルエット、蠅などの虫や、体内から吹き出るどろどろな液体の数々など、もはや使い古された手段ばかりがスクリーンを駆け巡るが、彼の円熟の域に達した演出力は決してそれを飽きさせない。 白い封筒の中に丸い何かが入っているというそれだけでラストのサスペンスを盛り上げていく巧さなど見事だ。車中でアリソン・ローマン演じるクリスティンが誤った封筒を手にした瞬間、誰もがそれに入っているのはボタンではないくコインであると気付く。その真実を知るのは観客のみであるというところにサスペンスの巧さがある。つまりコインは重要で、だからこそ、ジャスティン・ロング演じるクレイと彼の父親との会話の中にもさりげなく登場させ、その存在を決して観客に忘れさせないのだ。 またクリスティンがローナ・レイヴァー演じるガーナシュ老婆の口に白い封筒を突き刺す泥々のシーンを雨で浄化させていき、そのままフェードでシャワーシーンに移行するところから始まり、彼女のハッピーエンドを期待させるような明るいシーンの連続はホラー映画だけを撮り続ける監督では出来ない晴れ晴れしさであり、また、地獄への素晴らしい前ふりであった。 そして彼女がいきなりコートを買う。これがおかしい。このシーンを見ているとき、何故ここでこんなシーン挿むのか不思議でならなかった。確かにとても大切な旅行だ。しかし突拍子もない。だがそれは、ボタンが入った封筒を出すきっかけへの絶妙な伏線だったのだ。あざとさをまったく感じさせない巧さだ。 そして謝れば許されるという結論には決して辿り着かせない潔さ。何があってもクリスティンを守ると誓ったはずなのに、彼女を守れなかったクレイのクロースアップ。そしてスクリーンいっぱいに映し出される「DRAG ME TO HELL」の文字。「俺も地獄に連れて行ってくれ!」素晴らしいではないか。 真のアメリカ映画とはこういう映画のことだ。[映画館(字幕)] 8点(2009-11-29 01:47:24)(良:4票) 《改行有》

14.  七夜待 《ネタバレ》 困ったものだ。上映時間90分、ほとんどずっと長谷川京子のおっぱいばかりを見てしまった。だからこの映画の内容とか、何の話だったのかとか殆ど理解できなかった。
 列車を降りて、タイの暑さからタンクトップ姿となりおっぱいを惜しげもなく露にする長谷川京子。そんなことは考えられても、タクシーの運転手を最初は怪しい人だと思わせるためにわざと字幕を出さず、実はいい人だったんだよという展開に持ち込んでから字幕を出すという卑怯さとか、脈略もなくぶつ切りに導入される日本での裸の長谷川京子と村上淳は一体なんなのかとか、深く思考することは出来ない。何故なら気になるのはおっぱいだからだ。 
ふと我を取り戻したのは、もはや長谷川京子がスクリーンから姿を消した後、エンドロールで流れる「愛」がどうたらとか言ってるあたりだ。この音声は最初は本編内でもあった水の三か国語の件の続きだ。それを聞いていて気付いたのは、この映画はもっと沢山素材を撮っていたということだ。そのドキュメンタリー風だかなんだか知らないスタイルで、沢山回して、そこからいいと思ったところを抜き取って使っているのだろう。だからすべてに脈略がなく、繋いだだけみたいなものなのだ。情報が乏しすぎるのは、河瀬直美本人が理解しているものはみんなも理解してよという感じの、映画を描く、のではなく、映画を撮りました、みたいな完結運動で消化されただけということ。つまり私ってこんなの撮れるのという河瀬直美の自己顕示欲の塊でしかない。それにシャンプティエおばさんが付き合ったら、最後のショットとか奇跡みたいなことが起こったが、恐らく河瀬直美が思うドキュメンタリー風みたいのというのは、演技ではなく自然体の人間みたいのを撮りたいのだろうが、それは自然体を作ろうとする明らかな作為だということに気付かずいつまでも錯誤を繰り返すばかりだが、結局ラストの奇跡的なあのショットはどう考えても偶然、でもその方が力強くて、自然体を装った作為溢れるあのけんかのシーンなんか吹っ飛ぶくらいそっちの方の良いのだから、つまりあのラストショットは完全に矛盾してるのだと思う。
 大体、あそこまで長谷川京子のおっぱいを強調しておいて脱がせることのできない、河瀬直美ってどうなの?[映画館(邦画)] 2点(2009-11-14 14:18:41)(良:1票) 《改行有》

15.  ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ 《ネタバレ》 こういう日本映画を観ると残念だと思うのは、やはり資本力に乏しい日本映画の現状に対してだろう。すべてをオープンセットで組めずどこか狭苦しい町並み、そして制限されてしまうカメラの動きは勿論、ヴィスタという選択であり、シネスコだったらどうか、むしろスタンダードを選ぶという潔さはないのかと感じた。 そしてあの時代というのを美術、撮影・照明、衣裳で、雰囲気を醸し出そう、つまり再現しようと試みる。今やこの日本に戦中戦後の日本の面影などはないからだ。そして役者の、巧さとは別の、過去には溶け込むことの出来ない彼らの現代に生きているという事実。妻夫木が工員だという説得性の希薄さ。これは決して妻夫木やキャスティングの責任ではない。あの若さの役柄など誰が演じようとも大差はないだろう。つまりこれらが抗えない時代性であるが故に、一昔前のはずが、ちょんまげ・ちゃんばらと並列の立派な時代劇となってしまうのだ。つまりそんな一昔前の話すらも時代劇であるから故に資金が必要となり日本映画の現状では再現しきれないということなのだ。 しかしながら田中陽造の台詞づくりの美しさと松たか子の台詞回しのうまさを堪能する、それだけでも充分な作品ではある。またこの作品における広末涼子は良い。もはや彼女に清純さなど求めていないわけで、すれた女、陰のあるの女、それこそが彼女の道なのではないか。松たか子の潤いに満ちた視線と、広末涼子の口角のつり上がった冷笑、どちらも実に良い。 結局、よくないのは根岸吉太郎の演出だ。警官が心中を佐知に伝えにくるシーン。我々観客は事実を知っているのだから、わざわざ店の外で事実を告げるシーンを挿む必要性はない。ちょっと外でとふたりで出て行って、伊武と室井のツーショットを挟んで、電話をしに佐知が戻ってくるというシーンへ飛ばすだけで充分だ。また佐知が辻の事務所を訪れるシーン。佐知のワンショットで足音が近づいているのに佐知なめの辻になったときの距離感の遠いこと限りない。そもそもこんなシーン、紅をさした佐知が辻の事務所を訪れ、台詞などなしで佐知が辻のカットバック、もう次は少し乱れた佐知が事務所の前に立っているで充分だ。しかし根岸吉太郎は丁寧すぎるからいけない。丁寧は丁寧でも馬鹿丁寧だと間が悪い。脚本にどう書いてあれ、いい塩梅を探るというのが監督の仕事であり、この映画はそこが欠落している。[映画館(邦画)] 6点(2009-11-06 23:41:47)(良:1票) 《改行有》

16.  パンドラの匣 《ネタバレ》 冨永監督作品の持つどこか得体の知れない軽さというのはひとが生きている上での軽薄さに似ている。またあるときその軽さはポップさに姿を変えるのだが、それはひとが生きている上での明るさにも通ずるだろう。 「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よーしきた」「いやらしい」「いじわる」「しるもんか」などと反復され続ける言葉、言葉、言葉と言葉で埋め尽くされた映画であるが故に、どれが真実の言葉であるかということは実に曖昧であり、ひばりが手紙で綴り続ける嘘という軽薄さがあり、即ち言葉自体の軽薄さだ。であるからこそ、その軽薄さというのがこの映画における徹底した同録からの回避というところに現れているのではないだろうか。ひとの本心と口から出てくる言葉や紙に綴られる言葉は必ずしも表裏一体ではないということだからだ。マア坊が布団部屋でひばりに詰め寄るシーンなどは言い方を変えただけの同じ台詞が多重録音され、どの言い方がマア坊の本心なのかなどさっぱりわからない。肉体と言葉が乖離するとき映像と台詞も乖離するのだ。 そしてやはり死と隣り合わせではあるものの、この作品は実にポップであり、生の明るさに満ちている。それは窓外を明るく飛ばし、全体をオーヴァーめにした撮影プランなどでもはっきりと伝わるのだし、それは実に清潔的で好感が持てる。しかしナイトシーンは実に情けない。夜は青くはない。夜は暗いのだ。べっとりと青く染まった人物の表情などは見るに耐えないものだった。 そして何よりも、歌手であり近年ではほとんど作家となっている川上未映子が女優として堂々と主演を勤めるわけだが、これが良い。贔屓目に見ても悪くない。ギターの演奏シーンなどは実に良い。このひとは一体どこへ向かっていくんだろうか。 この映画で冨永監督は太宰治の描くひとの軽薄さを軽やかに表現しているだろう。決して傑作というものではないが、太宰治の生誕百年を迎える今、作られるべき映画であったと言える佳作だった。[映画館(邦画)] 7点(2009-11-05 01:29:21)(良:2票) 《改行有》

17.  カイジ 人生逆転ゲーム 《ネタバレ》  説明過多というのは 正にこの映画のためにあるような言葉だ どいつも こいつも べらべらとよくしゃべる 台詞でべらべらしゃべり 思考もだらだらと垂れ流す 画で見たことを 台詞で言って 更にもう一度画で見せて これほど説明しないと観客全員に理解してもらうことができないだろうと この監督は観客を馬鹿にして作っているようだ 流石テレビ出身の演出家である 観客を思考停止に陥らせようとするのだから恐ろしい 恐らくこういう類いの監督はマスター撮って寄り寄りと撮っていくだろう であるから役者は同じ芝居を幾度もやらなければならない 最後のカードゲームの香川照之の物凄い形相なども 彼の顔の筋肉が引き攣ってしまうほどに何度もやらされているだろう さぞかしお疲れになられたことだろう そして藤原竜也演じるカイジのひらめきなどが あまりにも短絡的なフラッシュバックで表現される カイジがひらめいたというときにフラッシュバックするが つまりこの瞬間に観客には何かしらの情報が開示される 勘がいい観客であればそこで何をひらめいたのかがわかる であるからその通りの展開など見ても何も面白くない そして種明かしで何をひらめいたかを説明されたら 二度もフラッシュバックを見ているようなものだ こんな驚きもない展開などよくも描けるものだ わざわざフラッシュバックなどしなければ ひらめきを仕掛けられた山本太郎や香川照之 と同じ瞬間に観客も納得できるのではないのか こういったテレビ的な思考停止を誘導する演出 お茶の間で見てる誰にでも理解してもらいたい という馬鹿げた発想はもう終わりにしなければならない で 結局何が言いたいのかというと 美術セットや装飾のセンスが悪い 日本テレビアートだったか これがテレビ業界の実力なのか 技術というよりセンスに欠けている 天海祐希の相変わらずの木偶の坊ぶり むしろあっぱれ[映画館(邦画)] 3点(2009-10-17 22:51:09)(良:2票) 《改行有》

18.  空気人形 《ネタバレ》 ぺ・ドゥナは素晴らしい 空気人形からひとへと徐々に姿を変化させていくとき 彼女が触れる物干し竿に滴る雨水のように透明で潤いに満ちている 李屏賓は侯孝賢の映画で切り取るような美しさをワンショット毎に魅せるのだし その中で動く彼女は躍動的である 彼女は輝きを放ち続けるのだが その反面 呟き続けるこころの虚無は実につまらない 空気が入っただけの人形があるときこころを持ってしまう 肉体を保持することなく精神だけを得るのだ しかしそのこころは真のこころではなく ひとの真似ごとであり 本当のこころとは何かと探し求める話であるようで そうではない 彼女は肉体を得ることのできない虚無であり 周囲は肉体を満足に使いこなせない虚無である それらを同列に挙げて社会の虚無を描くということが無理なのだ まずこころが空っぽなひとなどいない 空っぽということは何も無いということだ ひとは虚無というこころを持って生きている だからこそ辛いのだし乗り越えるのが困難なのだ 無いものを越えるなんて誰にでも出来る 虚無という過酷さはてっぺんが見えないほどに聳え立っているのだ であるから彼女が本当のこころを持ちたいと追い求めれば追い求めるほど ひとの本当のこころというのは実際は大概が虚無である という過酷さに堕ちていかなければならない しかし 恋をしました 恋をすることは辛いことです などという社会性の稀薄な問題などさっぱり過酷ではない 社会の虚無とは恋心などという甘ったるい幻想とは比較にならないほど過酷だ その過酷さに直面しなければ虚無の向う側は現れない どのひともそれぞれあーだこーだと事情を抱えていてるのは当たり前であるし 吉野弘の「生命は」という詩による人類愛を讃えるような青臭さ つまり虚無を他者に満たしてもらおうという甘ったれた結末 それでいいのかという疑問しか沸かない そんなことまったく興味がないし 2時間近く椅子に座って わざわざ映画なんかから教えてもらうことではない この映画では是枝監督が今まで描いたような人間の悪さという部分が欠落している その人間の悪さというのは当たり前のものなのにも関わらず それをわざわざ計算高く緻密に用意周到に描くから嫌いだったのだが いざ毒を抜いたら随分優しくなってしまったなという印象だった[映画館(邦画)] 5点(2009-10-16 23:36:51)《改行有》

19.  リミッツ・オブ・コントロール 《ネタバレ》  拳銃を使わない映画 セックスをしない映画 携帯電話を使わない映画 復讐すらも無意味な映画 そこにあるのはふたつのカップに注がれたエスプレッソ そして幾度も同じ台詞が繰り返される 目的はひとつ「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送る」こと そんな殺し屋の映画 物語の起伏となる要素をすべて排し ただただ淡々と時間だけが直線上に流れていく イザック・ド・バンコレ演じる孤独な殺し屋は 仕事中の堕落を一切禁じる またパス・デ・ラ・ウェルタ演じるヌードの女は すべてを破滅に導くファム・ファタールのような素振りだが ファム・ファタールとしてはまったく機能していない そしてティルダ・スウィントン演じるブロンドの女は 「上海から来た女」の話をし始める しかしラストのビル・マーレイと対峙するシーン 一面鏡張りの部屋にしたりはしない つまりこの映画はフィルム・ノワール的要素を散りばめながらも それらを一切禁欲する 新たなるフィルム・ノワールと言えるだろう ジム・ジャームッシュのスタイリッシュさはとても正しく どのアングルも どのカットの繋ぎも どのハイスピード撮影も どの音楽の挿入も すべて納得させられるものだ 想像力さえあれば 映画には限界はないし 映画の行く路を決めることなどできない[映画館(字幕)] 8点(2009-10-01 16:40:52)(良:3票) 《改行有》

20.  クリーン (2004) 《ネタバレ》 駅の中でマギー・チャンがニック・ノルティを探し回るシーン、長玉で軽く修正移動をかましながら、カメラが彼女を追っかけ回すが、とても素晴らしい。あれを李屏賓がやると超絶にうまいのだけど、ゴーティエは(彼の場合彼自身がオペレートしてるのかはわからないが)決して丁寧とはいえないし、寧ろ、雑、というか下手上手いというか、味があるとでもいったらいいのだろうか、あれがいいのだ。「イントゥ・ザ・ワイルド」でも長玉、手持ちとかでぶんぶん振り回すのだけど、それもまた雑でありながら、どこか味があってよい。 そのことはさておき、マギー・チャン演じるエミリーが友人の家に居候をするのだが、その友人が犬を連れ家を出て行くが、忘れ物をして家に戻ると、エミリーが涙を流しているというシーンなどは格段に素晴らしく優しい。ただひとりぼっちになってしまった孤独感で泣くというシーンだが、友人が外出し気が緩んだというこの見せてはいないが見えるワンクッションこそが素晴らしいだろう。このシーンまでは常にマギー・チャン、あるいはニック・ノルティを切り取るカメラが、ふいに友人を主軸に動き出すのだが、映っていないところでのエミリーの感情というのが友人が扉をそっと開けた時に一気に動き出すということだ。これこそが映画の巧みな演出だ。 そしてこの映画のニック・ノルティのまなざしこそがアサイヤスのまなざしで、見守るよという、やはり他のアサイヤスの映画同様にこの映画もまた優しさに溢れている。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-16 17:31:08)《改行有》

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