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プロフィール
コメント数 2627
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  蜘蛛巣城 今年(2024年)は、日本の時代劇文化にとっては分岐点となり得る一年だった。 何と言っても最大のトピックスは、アメリカで真田広之が手掛けたドラマシリーズ「SHOGUN 将軍」が、エミー賞受賞をはじめ世界を席巻したことだろう。勿論、「SHOGUN 将軍」自体は日本産の時代劇ではないけれど、“時代劇”を経て俳優として大成した真田広之が、多大な熱量とこだわりをもって創り上げた作品が、国境も時代も越えて、人々の心を掴んだことは、やはり“時代劇”としての快挙だと思う。 一方日本国内でも、「十一人の賊軍」や、未見だけれど「侍タイムスリッパー」など意欲的な時代劇作品が制作され、評価を得ていることは、長年新旧の“時代劇”を好んで鑑賞してきた一映画ファンとしても嬉しい。 そんな折、秋深まる深夜、古い時代劇を観ようと、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」に行き着く。 ウィリアム・シェイクスピアの「マクベス」を、日本の時代劇に置き換えた本作は、まさにシェイクスピアの舞台劇そのものだった。(まあ、シェイクスピアの舞台なんて観たコトはないけど) 自然風景の描写の中を舞台劇のように幾度も行き交う演出や、三船敏郎をはじめとする俳優たちの意図的なオーバーアクトがとても印象的だった。独特のテンションやリズムは、強烈な違和感として観る者を引き付け、物語の主人公同様に異世界への引き込まれたような感覚に陥った。 三船敏郎演じる鷲津と、その妻・浅茅を演じる山田五十鈴が、掛け合うシーンは特に舞台劇のようであり、「能」の表現を取り入れた演出も融合し、異様な空気感を醸し出していた。 なかでも、山田五十鈴の風貌と演技が「奇怪」そのものであり、彼女の強硬な野心を秘めた助言と誘導が、主人公を破滅へと導く展開がとても不気味だった。 黒澤明監督らしい、自然のロケーションを最大限に用いて映し出される映像世界は、モノクロの古い映像でもありながらもその優雅さと豪華さを存分に感じさせる。 白眉だったのは、三船敏郎演じる主人公らが山林を馬で駆け巡るシーン。雨、風、霧といった自然的要素を画面の中に躊躇なく盛り込み、人物の心理を巧みに表現すると共に、当時の撮影技術の高さと俳優たちの力量を如実に感じさせてくれる。 ただし、その一方で、場面展開が鈍重で、深夜帯の鑑賞時間において瞼が重くなってしまったことも否定できない。 黒澤明らしい唯我独尊的な自然描写や独特な空気感が、ストーリー展開の停滞として感じてしまったのだろう。自分自身、もう少し体調も含めて鑑賞環境を整えて鑑賞すべきだったなと反省している。 とはいえ、“時代劇”の復権の兆しは嬉しい限りだ。今の時代に日本国内のみで、黒澤作品レベルの潤沢な製作環境を得ることは難しいだろう。しかい、逆に今の時代だからこそ、真田広之が成し遂げたように、海外資本を上手く利用して理想を実現するプロセスがあることも事実だと思う。 熱量に溢れた“時代劇”が再び量産されることを望まずにはいられない。[インターネット(邦画)] 6点(2024-11-25 21:51:47)(良:1票)
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2.  十一人の賊軍 「とても良いから、とても惜しい」というのが、鑑賞後、一定の満足感と共に生じた本音だ。 幕末という時代を背景に、小藩や中間管理職の悲哀と狂気、そして崩壊寸前の武家社会の愚かさを描いた本作は、久しぶりにエネルギッシュな娯楽時代劇を観たという満足感を与えてくれた。 本作の物語に描かれる群像劇は時代劇の枠を超え、現代社会の多様な人間関係や、あらゆる組織構造、さらには現在進行中の国際的な軋轢の数々とも重なる。 どの選択肢を選んだとしても、誰かにとっては「地獄」となるというジレンマは、どの時代においても普遍的であり、すべての人間が完全に満足する世界は存在しないという現実を改めて突きつけてくる。 物語構造上、十一人の罪人たちは絶体絶命の苦境を乗り越え、「生」を見出そうとする英雄のように描かれている。しかし、これは人間社会における狭小な一側面に過ぎない。 復讐のため冒頭で主人公にあっさり殺される侍や、砦を攻める倒幕軍の兵士たちにも、それぞれ親や子、家族がいるはずだ。名前もなく散っていくキャラクターたちにも、それぞれの正義や思いがあったことは想像に難くない。 その象徴的な存在が、阿部サダヲ演じる家老・溝口だ。 ストーリー上では悪役として描かれているが、彼の言動のすべては「家老」という職務に準じたものだと言える。確かに彼の謀略や非道な行為の数々は狂気的ではあるが、それも城下を取り仕切る“位”にある侍としては当然の行動だったのだろう。城下での戦を避け、町民から慕われる姿はそれを物語っている。 町民らに向けて乾いた笑顔を見せた後に訪れる彼自身の最大の「悲劇」が、この男が背負っていた中間管理職としての苦悩を何よりも雄弁に物語っていたと思う。 また、山田孝之や仲野太賀をはじめとする“賊軍”の面々を演じた俳優陣のパフォーマンスも見事だった。彼らは一面的なヒーローとしてではなく、それぞれが抱える罪や愚かさ、悲しみを通じて、社会とそこに巣食う人間の本質を体現していた。このアプローチが、本作の奥行きを大きく広げ、娯楽性に深みをもたらしていたと思う。 だからこそ「惜しい」と思うのだ。 映画全体に漂うエネルギー、現代にも通じる物語性、俳優たちの見事な演技、そして的確な演出力が光るだけに、一人ひとりのキャラクターに対する描き込みがもっと深ければ、さらに印象的な作品になったはずだ。 特に賊軍のキャラクターたちの背景描写が物足りなかったように感じた。 それぞれがとても人間臭く、魅力的な存在感を放っていたからこそ、彼らがどのようなバックグラウンドを経て、あの牢の中に閉じ込められていたのか。そのドラマ性がもう少し丁寧に描きこまれていたならば、彼ら最後に放つ命の灯火、その熱さと輝きが、さらに深く刻まれたことだろう。[映画館(邦画)] 8点(2024-11-16 17:25:05)
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3.  モアナと伝説の海 まず何と言っても、「海」の描写力、表現力が凄い。 本作の映画世界の“テーマ”を踏まえた、このクリエイティブの結晶は、それだけでもこの作品に一見の価値をもたらしていると思う。 わりと最近の作品の認識だったが、それでも公開年は2016年、8年経って今年公開を控える続編は、きっとさらに映像的にアメージングな世界観を観せてくれるだろうと思える。 ディズニー映画らしい、非常に完成度の高い映像世界だった。 ただ、その一方で、ストーリー展開にはやや目新しさが無く、類型的だったことも否めない。 主人公モアナが“海”に選ばれる存在となった理由が明確に描かれず、少々ご都合主義的に見えたことが、物語全体を「寓話」の範疇に留め、ドラマとしての深みを感じられなかった最たる要因だったと思う。 また、ストーリー展開に伴い主人公のバディとなり、この物語の発端的存在でもある“マウイ”のキャラクター造形も少し希薄に思えた。変幻自在の“半神”として縦横無尽に活躍するキャラクターとしては、ビジュアル的にも、彼自身の言動的にも、中途半端な印象を拭えない。 同様のキャラクター的立ち位置としては、同じくディズニー映画の「アラジン」に登場するランプの魔人“ジーニー”が模範になったのではないか。マウイがジーニーに匹敵するくらいのキャラクター性とエンターテイメント性を放っていれば、本作の満足度は飛躍的に向上したと思う。 本作をプロローグとして、さらに世界観を広げるであろう続編では、主人公にまつわる真価の描きこみと、相棒キャラの娯楽性が爆発することを望みたい。[インターネット(吹替)] 6点(2024-11-16 07:17:30)
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4.  ルックバック わずか58分という短い尺に凝縮された青春の輝き、そしてクリエイターとして生きることの覚悟と矜持。喜びの苦悩が入り交じる狂気の世界で、光と闇は共存し、互いがその輪郭を際立たせるために存在していることを雄弁に伝える極めて濃い58分間。 Amazonプライムで配信されたばかりの本作を満を持して観て、思わず2回連続で鑑賞してしまった。初めの58分間では整理がつかなかった、というよりも、作品世界から抜け出せず“ループ”してしまったという感覚が強い。 この夏、劇場での鑑賞を見送ってしまったことを激しく後悔した。しかし、その一方で、配信鑑賞だからこそ衝動的に2周目の鑑賞に至れたことも、また幸福だったと思える。 映画を観終えた深夜、感情の整理が追いつかぬまま、手中のスマホで原作漫画を注文した。そして、原作を読んで、この映画がなぜ58分という短い時間の中に収められたのか、その意図を深く理解した。 映画世界同様、漫画世界もまた、濃縮された密度とソリッドな描写で構成された表現だった。このタイトな映画が、原作漫画が伝える物語と、登場人物たちの心象風景を丁寧に汲み取り、そのすべてを表現しきったものであったことを、思い知った。 雪深い田舎町で出会った二人の若きクリエイター(藤野と京本)が、小さな世界の中で互いに肩を寄せ合い、互いの才能を補い伸ばし合い、広い世界への「道」を開いていく様は、藤子不二雄Aの「まんが道」を彷彿とさせる。この物語は、令和の時代に生まれたもう一つの「まんが道」とも言えるだろう。 短くシンプルな物語でありながら、その解釈や捉え方、揺れ動く感情の在り方は、無限に広がる。きっと鑑賞者一人ひとりの経験や価値観、生きてきた時代や環境、その他その人を象る様々な要因によって、この映画や彼女たちから受ける心象は大きく変わるだろう。 初鑑賞から一週間が経ち、私自身の感情においても様々な思いが駆け巡り、今なお作品世界から抜け出しきれずにいる。 あくまでも現時点で、私の心の中で帰着したものは、本作の作者自身の根幹に存在するのであろうクリエイターとしての覚悟、漫画家としての矜持だった。 作中でプロ漫画家となった主人公(藤野)は、掛け替えのないかつてのパートナー(京本)の喪失に伴い、多大な罪悪感に苛まれると同時に、クリエイターとしての存在意義を見失いそうになる。 そんな藤野の元に、異なる世界線から送られてきた一つの4コマ漫画が届く。それは、これまで“ストーリー”を紡ぎ出すことはなかった京本が、初めて生み出した“ストーリー”だった。 そのまるで自分自身の漫画の作風を模したような軽妙な4コマ漫画『背中を見て』が伝えるものは、本当は代わりなんて存在するはずものなかったかつてのパートナーからのメッセージであり、同時にこれからも生き続け、描き続けなければならない自分自身への叱咤でもあったように見えた。 小学校の卒業式のあの日、もし彼女の部屋の前まで行かなければ、思いつきのまま4コマ漫画を描いたりしなければ……。 主人公の部屋に飾られていた映画「バタフライ・エフェクト」のポスターが象徴するかのように、「もしあのときこうしていたら」という悔恨は尽きない。 それでも、それでもだ。 辛いことも、苦しいことも、悲しいことも、そのすべてを“糧”にしろ、そして“ネタ”にしろ。 「そして、どうか、どうか藤野ちゃんの漫画を描き続けて」 そんな京本の声が聞こえてくるようだった。 空白の4コマを窓に貼り付け、狂気の世界で、再び終わりなき創作活動に向き合う主人公の背中には、そんな声なき声に対する、プロ漫画家としての覚悟が滲み出ていた。 自室から抜け出せず、唯一絵を描き続けることでしかアイデンティティを見出だせなかった少女時代の京本にとって、ふいに届いた4コマ漫画は“救い”であり、それを生み出していた同級生の作者は、紛うことなき「神様」だった。 彼女は、最初から最後までその背中を見続け、世界を広げ、幸福な時間を生きた。(絶対にそうだと信じたい) 冒頭とラストにおいて、時間をかけて映し出される主人公の背中を“見続ける”カットは、彼女の視線そのものだったのかもしれない。[インターネット(邦画)] 10点(2024-11-16 07:16:06)《改行有》

5.  ARGYLLE/アーガイル 殆ど事前情報を得ずに鑑賞を始めたので、冒頭のスパイアクションシーンに対して、「なんだこの嘘っぽい世界観」はと、落胆というよりも少々唖然としながら観ていた。 それが中年の女性作家が執筆するスパイ小説の作品世界の描写であったことが分かり、一転して興味が掻きたてられた。小説世界に登場する、ヘンリー・カヴィル、ジョン・シナによるザ・脳筋キャラ的な造形もナイスなキャスティングだったと思う。 主人公の小説家が突如として善玉・悪玉双方のスパイたちの標的となり、殺し合いの大騒動に巻き込まれるアクション・コメディの展開もスムーズで良かった。 効いていたのは、主演のブライス・ダラス・ハワードのビジュアルだろうと思う。 適度に“お肉”の付いたザ・中年女性の風貌が、戯れに書いたスパイ小説が売れて一躍人気作家となった女性像を説得力たっぷりに体現していた。 そして、その主演女優の風貌が、その後の展開においてさらに“効果てきめん”だったことは間違いないだろう。 作品のキービジュアルは、ヘンな髪型をしたヘンリー・カヴィルを矢面に立たせて、分かりやすそうなスパイコメディであることをミスリードすることで、本作の“企み”をうまく隠していたと思う。 「キック・アス」「キングスマン」のマシュー・ヴォーン監督らしい、遊び心と悪戯心に溢れたスパイコメディ映画だったことは間違いなく、秋の夜長にふと配信で鑑賞するにあたっては満足度の高い作品だったとは思う。 ただ一点、決して小さくない苦言を呈するならば、尺が長過ぎるという点だろう。 この手のアクションコメディ、そして世界観で、上映時間139分はあまりに長過ぎる。 実際、ストーリー展開上のテンポがあまりに悪かったり、内容が乏しかったりして、途中ダレてしまう時間帯が随所にあったことは否めない。 少なくとも30分程度は短くして、90分〜100分くらいの尺でスマートにまとめるべきだったろう。そうすれば、もっとスタイリッシュで体感速度の早いスパイコメディを堪能できたと思う。 エンドクレジット前後のシークエンスでは、続編への“含み”や、「キングスマン」の映画世界とのクロスオーバーも示唆されていたので、何らかの企画はあるのだろう。 キャラクター描写やアイデアはユニークだったので、よりブラッシュアップされるのであれば、続編も期待したい。[インターネット(字幕)] 6点(2024-11-09 09:04:01)《改行有》

6.  猿の惑星/キングダム 「猿の惑星」は、1968年の第一作から始まるオリジナルシリーズ5作品をはじめ、全作品を鑑賞してきた。各作品ごとの完成度にばらつきはあるものの、シリーズ全体としてSF的な機知に富んだエキサイティングな映画シリーズだと思っている。 “シーザー三部作”とも呼ばれる2011年からのリブートシリーズは、諸々の設定の違いからオリジナルシリーズとは世界線を共有しないパラレルワールドとして認識している。 オリジナルシリーズでは“猿”に完全支配され、果てには核爆弾によって消滅してしまった地球が、この世界線ではどのような運命を辿るのかを、主人公シーザーの英雄譚と共に興味深く追った。 そしてシーザーの死去から300年後の世界を描く新作。 前作「猿の惑星:聖戦記」から7年も経っていたこともあり、正直なところ「まだ続くのか」という思いが先立ち、劇場鑑賞をスルーしてしまっていた。 しかし、鑑賞後の率直な印象としては、「ああ、また楽しみな新たなサーガが始まった」という期待感が高まったと言える。 リブートシリーズの過去3作品は、“シーザー三部作”の呼称の通り、“猿の惑星”の起源となったシーザーを主人公とした英雄譚だったわけだが、個人的にはその物語構造自体に、“「猿の惑星」らしくなさ”を感じてしまい、完全にのめり込めない要因となっていた。 個人的にはオリジナル5部作で表現されたSFシリーズとしての機知や衝撃性こそが、「猿の惑星」の醍醐味だと思っているので、一人の“英雄”の誕生と闘いに終止した“シーザー三部作”に対しては一定の面白さは感じるものの、愛着を持つことができなかったのだ。 でも、新たなサーガの始まりとして描き出されたこの最新作は、“「猿の惑星」らしい”科学的空想の妙、すなわち“SF”としてのエンターテイメントを多分に孕んだものだった。 英雄シーザーの闘いの記憶すら風化してしまった300年後の世界において、エイプたちは様々に枝分かれした思想や文化の中で生命を継ぎ、進化・発展している。 そこには新たな支配構造や、エイプ同士の対立や抗争も生じていて、「まるっきり人間の歴史を繰り返しているみたい」(by しずかちゃん)である。 そして、その傍らでは、弱々しくひっそりと息を潜める人間たちが、かろうじて生命を継ぎ、“何か”の機会を虎視眈々と狙っている。 “ノア”という名を与えられた新たな主人公の目線を軸にして、新たに描きされた世界が、この先どのような運命を辿り、どのような結末を迎えるのか。 本作で映し出された、人類が残した軍事施設は、オリジナルシリーズの第2作「続・猿の惑星」で描き出された核爆弾を崇拝するミュータント化した人類たちの神殿を彷彿とさせた。 そして、天体望遠鏡を覗くノアの視界には、この先何が映り込んでくるのか? オリジナルシリーズとは異なるはずの世界線が、どこかをミッシングリンクとして繋がってくるような展開をも予感される今後のノアたちの物語に高揚感が高まる。[インターネット(字幕)] 8点(2024-11-05 21:55:46)《改行有》

7.  ザ・クリエイター/創造者 今年はあまりSF映画を観ていないなあと思い、Disney+で本作を鑑賞。 ギャレス・エドワーズ監督の大バジェット映画なので一定のクオリティは担保されているのだろうと、“マイリスト”に登録してから数ヶ月。なかなか鑑賞に至らなかった要因が、溢れ出る「既視感」だった。 “AIとの終末戦争”、“対立と共存の葛藤”、そして“未来の鍵を握る少女”、本作を彩る様々な要素は、過去のSF映画の踏襲の範疇を出いていないことは明らか。 ギャレス・エドワーズ監督によるクリエイティブも、彼の過去作「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のトレース的な色合いを感じたことは否めない。 ただし、映画作品として決して面白くないということではない。 過去作の二番煎じだろうが、焼き直しであろうが、作品としての仕上がりそのものは高水準で、SFエンターテイメントとして見ごたえは充分だったろう。 全体的な世界観に対する既視感はやはり禁じ得なかったけれど、一つ一つのキャラクターの造形や、AIを含めた彼らの心情描写には、この映画世界ならではのオリジナリティがあったように思える。 特に印象的だったのは、主題となる「AI」のキャラクターたちの“人格描写”が多様性に溢れ、人類と並列の新しい“種族”としての存在性を表現できていたことだ。 人工知能としての進化を極め、人間と同じように、喜び、怒り、哀しみ、楽しむ描写が、マクガフィンであるAI少女のみならず、脇役、端役に至るまでちゃんと演出されており、彼らが「生命」を全うする姿が、本作のテーマに対する説得力として機能していたと思う。 まあこのあたりの描写も「スター・ウォーズ」のスピンオフ作品を担ったギャレス・エドワーズ監督ならではのアイデアなのだろう。 133分という上映時間はやや長すぎるし、ストーリー展開としてやや唐突だったり、逆に冗長なシークエンスもあった。全体的にもう少し映画的な精度を高めた編集がされていれば、王道SFとしてもっと高評価を得られる素地のある作品だったと思う。[インターネット(字幕)] 7点(2024-11-05 21:54:09)《改行有》

8.  ゴジラ×コング 新たなる帝国 「馬鹿映画」、「クソ映画」、本作を観始める前に用意していた、そういう安直なレッテルを問答無用にぶち破り、突き抜けたカタルシスに気がつくと包みこまれていた。 前作「ゴジラVSコング」は、その馬鹿馬鹿しさに辟易してしまい、個人的には酷評を禁じ得なかったのだけれど、確実に、その前作以上に超馬鹿馬鹿しい本作で、湧き上がる高揚感を抑えることができなかった。 「一線を超える」というキャッチコピーに相応しい、ゴジラとコングのあの“猛ダッシュ”に対して予告編の段階で「唖然」としてしまい、つい劇場鑑賞をスルーしてしまった。 が、今はそれを激しく後悔している。こんな文字通りの“お祭り映画”は、大スクリーンで観なければ始まらないという話。結果的に酷評となろうとも、やっぱり映画館で鑑賞すべきだったのだ。 “モンスター・ヴァース”と称される当シリーズ作は勿論、東宝のゴジラ映画シリーズを含めて、全ゴジラ映画を鑑賞してきた一ファンだからこそ、本作に対して「こんなのは“ゴジラ映画”じゃない」なんてことは決して言うことはできない。 本作のすべての創作物とその根底に敷かれた精神は、東宝が生み出した昭和ゴジラ映画シリーズの、「純血」とも言える系譜であり、その世界観を純粋に愛し、多大なリスペクトを持って踏襲しているからに他ならない。 前作は、1962年の東宝特撮映画「キングコング対ゴジラ」を、その“駄作ぶり”も含めて充実に汲み取り、世界最高峰の「物量」でリメイクした作品だったと言える。 故に、その出来栄えも必然的に“駄作”であり、ある種の“ゴジラ映画らしさ”を大いに感じると共に、落胆を禁じ得なかった。 が、この最新作においては、その昭和ゴジラ映画シリーズの伝統的なチープさや荒唐無稽をしっかりと受け継ぎつつも、更に圧倒的な「物量」と、娯楽性の追求で、大エンターテイメントを築き上げている。 個人的には、ストーリーの基軸に存在するキャラクターを、ゴジラではなく、コングに据えたことが、最も功を奏していた要因だったのではないかと思える。 やはりゴジラは、日本が生み出した崇高な大怪獣でもあり、「核」にまつわるその誕生の背景も含めて、アメリカ映画の“主人公”として描くことに難しさがあるように感じる。 当シリーズに登場する“怪獣王ゴジラ”に対して、その強大さに高揚感を覚えつつも、最終的に一抹の違和感や雑音を感じてしまったのも、その要因が大きかった。 一方で、“キングコング”は逆にアメリカ映画が生み出した歴史ある大怪獣であり、その描き方が熟成されていることを改めて感じた。 コングを主人公に据えて、深淵な地下世界における彼の闘いをストーリー展開の主軸として描き、ゴジラはあくまでも強力なライバル&助っ人として絡ませていたことが、余計な雑音無く、シンプルに大仰な娯楽を堪能できたポイントだったと思う。 あの予告編時点で開いた口が塞がらなかった日米が誇る大怪獣たちの“猛ダッシュ”に対して、手放しで歓声を送れる状態になるとは思わなかった。 畏怖の象徴としてのゴジラ映画は、「ゴジラ -1.0」に続き山崎貴監督ら日本のつくり手たちに任せてもらい、ハリウッドには引き続き昭和ゴジラシリーズのリブートに挑み続けてほしい。 個人的には、前作であまりにも中途半端だった“メカゴジラ”の「逆襲」に再トライしてほしいものだ。[インターネット(字幕)] 7点(2024-11-03 10:23:50)《改行有》

9.  がんばっていきまっしょい(2024) 愛媛県松山市出身・在住の者としては、やはり「がんばっていきまっしょい」という作品はちょっと特別だった。 少女たちの人間模様にしても、彼女たちがたたずむ風景にしても、決して何か劇的なものが映し出されるわけではないけれど、自分たちが住んでいる街は「ああ、ちょっと良いんだな」と、思い出させてくれる。 すごく良いわけではないけれど、ちょっと良い。それは、“この街”の性質そのものをよくあらわしている。 思い出されるのは、1998年に公開された実写映画版だろう。 僕自身が高校生時分だったこともあり、主演の田中麗奈のフレッシュさも手伝って、とても瑞々しくて、愛らしい作品だった。 この映画が、その後の「ウォーターボーイズ」や「スウィングガールズ」、「シムソンズ」、「ちはやふる」など、マイナースポーツの運動部や文化部を題材にした青春映画の系譜に繋がっていることからも、存在感のある作品だったと思う。 そしてこのアニメ映画化。題材的にも、映し出されるビジュアル的にも、アニメーション化に相応しいものであることを容易に想像できる。むしろ今の今までアニメ化されていなかったことが不思議に思える。 舞台設定を現代に変え、秀麗なアニメーションで映し出された映画世界は、やはり瑞々しく、画面から爽やかな風が吹き抜けるようだった。 原作の世界観や、実写映画の系譜を踏まえた真っ当なアニメ映画だったとは思う。ただ、これはもはや個人的な趣味嗜好によるところが大きいが、CGアニメーションの“タイプ”が好みではなく、その部分がどうしても世界観にのめり込めない要因となってしまった。 とはいえ、前述の通りこの街の在住者としては「嬉しい」映画作品であることは間違いない。 今週末は、久しぶりに、あのきらめく水面を見に行こうと思う。[試写会(邦画)] 6点(2024-10-27 15:25:31)《改行有》

10.  インビジブル・ゲスト 悪魔の証明 密室劇+回想劇によるスペイン産ミステリー。 観客をミスリードする数々の要素や仕掛けが多分に盛り込まれ、ストーリー展開以上に、登場人物たちの印象が二転三転とひっくり返る興味深いサスペンス映画だった。 SNSのショート動画で紹介されていた情報を見て、ほぼ衝動的に鑑賞に至ったが、“掘り出し物”としての満足感も非常に高い作品だったと思う。 事件にまつわる人物たちの「証言」によって、事の真相が転じていくというストーリーテリングは、古くは黒澤明の「羅生門」から始まり、その映画タイトルから取って、「羅生門スタイル」とカテゴライズされたりもするが、本作も大枠で捉えればその範疇のストーリーだろう。 ただ本作の場合は、「証言」を行うのが、ある殺人事件の罪を問われている若手実業家一人に集約され、彼の発言とその行動が徐々に詳らかにされていくにつれて、映画冒頭の「印象」とは一転する趣向が新鮮だった。 本作があまり馴染みのないスペイン映画であり、出演する俳優たちの知名度も個人的に皆無だったことも、つくり手が意図するミスリードにまんまとハマっていく要因となり、功を奏していたと思う。 無論、鑑賞後にあれやこれやと突き詰めれば、無理筋だったり、道理が通らない要素も見えてくるけれど、ミステリーとしての整合性は保たれており、秋の夜長に楽しむには充分だったと思える。 スペイン人監督オリオル・パウロの作品は初鑑賞だったが、無駄のない画づくりで卓越したビジュアルをクリエイティブしていた。本作も含め、脚本創作も手掛ける注目すべき映画人だと思えた。他の作品もぜひ鑑賞してみようと思う。 日々SNS動画を見ていると、映画の内容を要約したり、ネタバレする情報も流れてきて慌てて飛ばさなければならないことも多々あるけれど、こういう隠れた良作の情報得られる機会も多いので、一長一短だなと思う。[インターネット(字幕)] 8点(2024-10-27 11:43:04)《改行有》

11.  ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ 《ネタバレ》 果てして「彼」は何者だったのか? この“続編”は、ただそのことのみを、哀しく、惨たらしく、そして容赦なく描き出す。 そこにはもはやエンターテイメントと呼べるような要素はほぼない。映画の上映時間いっぱいに「苦痛」が満ち溢れていると言っても過言ではないだろう。 正直言って、素直に「面白い」と言える類の作品ではないし、世界が賛否両論で湧いているのも納得できる問題作だ。 ただ、「ジョーカー」のPART2として、本作の在り方と目指すべき方向性は正しかったと思う。 というよりも、続編をどうしても作れと言われれば、こうするより仕方なかったというのがつくり手側の本音であり、多くの非難、否定、落胆すらも、宿命的なものとして「覚悟」していたようにも思える。 故に、「傑作」だと私は思う。 冒頭に映し出されるアニメーション、そして、肩甲骨が隆起するほどに削げ落ちが主演俳優の肉体が、この映画のすべてを物語っていたと言っていい。 オープニングから十数分の、ブラックジョークと、禍々しいまでの悲壮感が、「彼」の正体を明確に示していた。 それは、前作からこの男が放ち続けてきた“ジョーク”の真意だったと言ってもいいだろう。 前作では、不幸と不遇に打ちのめされる主人公が、自ら放つ“ジョーク”を発端として、取り巻く社会を狂気と混沌の渦に巻き込んでいく。 ただし、映し出される映画世界内では、真実と虚構が曖昧な境界線上で表現されていて、私たち観衆は最後まで、彼の存在性に対する「疑心」を拭い去れぬまま終幕した。 その曖昧で不確かな主人公の存在感が、一言では言い表せない特異な魅力を生み、この鬱積する現代社会への「悪意」と「怒り」の象徴として、観衆一人ひとりの“ジョーカー”を生み出したのではないかと思える。 無論、大多数の健全な映画ファンは、新たなダークヒーロー像の誕生に狂喜し、その狂気性を多分に孕んだ娯楽を楽しんだのだが、その一方で、浅はかな“模倣”により社会問題や犯罪行為に及ぶ者たちを生み出してしまったことも事実として存在する。 前作の時点で、この“ジョーカー”は、「馬鹿か、お前たちは、これは“ジョーク”だ」と、現実世界のそんな輩の蛮行を見越すかのようにヒャーハハハと笑い、蔑んでいたのだけれど、本作では愚直にもさらなる明確な“アンサー”を突きつけているかのようだった。 前作では曖昧にぼかされていた真実と虚構の境界線を、本作では、主人公の精神世界を歌唱シーン(ミュージカルシーン)で表現し、あからさまな虚構を映し出すことで、くっきりと浮かび上がらせていた。 それはすなわち、精神病棟で看守たちに心身ともに虐げられ、法廷では自分自身の存在証明を突き詰められるその哀れな一人の男の姿こそが、紛れもない実像であることの明示だった。 連作を通じて表されたものは、本作が世界で最も有名なヴィランの誕生秘話では“なかった”ことの衝撃。 そして、一作目で全世界を虜にしたダークヒーローのすべてを自己否定し、その「正体」を白日の下に晒すという残酷。 それは、正直、誰も得しない映画的アプローチだったと言えよう。 そんな“誰得?”な映画世界を、圧倒的に秀麗な映像世界と、繊細で大胆な演出、そして前作以上に素晴らしい演技表現によってクリエイティブした本作の製作陣は、「どうかしている」とすら思える。 狂気的なまでの映画製作への造詣と、浅はかで愚かなこの社会全体への強烈なアンチテーゼ。真の“ジョーカー”は、「彼」ではなく、この映画そのものだったのかもしれない。[映画館(字幕)] 9点(2024-10-27 11:38:18)(良:1票) 《改行有》

12.  ゴールデンカムイ 「ゴールデンカムイ」は、今年原作漫画を“大人買い”した作品の一つ。 もちろん、数年前からその独自性とスペクタクルな世界観についての評判はよく聞いていたのだが、例によってふと読み始めた漫画アプリの無料配信分にドハマリしてしまった。 漫画表現ならではの緊張と緩和、バイオレンスとグルメ(和み)、そして明治時代末期の北海道を舞台にした歴史観と冒険譚のバランスが絶妙で、抜群の娯楽性を創出していると思う。 私は、映画好きであるが、それと双璧を成す漫画好きでもあるので、漫画の映画化が必ずしも幸福に至らないことをよく知っている。いやむしろ、漫画作品としての完成度高まれば高まるほど、その映画化の辿り着く先は「地獄」であることが必然であろう。 だから、この手の漫画の映画化作品は、基本的に観ないようにしている。 それでも、そんな私を本作の鑑賞に至らしめた要因は、何と言っても実写化におけるキャラクターの造形力だ。原作の極めて“マンガ的”なキャラクターたちを、過不足無く、そして違和感無く、見事にクリエイトしていると思えた。 実際に鑑賞してみると、一人ひとりのキャラクターのヘアメイクや衣装の極めて高い精度が、本作の最大の成功要因であることがよく分かる。 そして演者たちも、制作スタッフたちの高い技術力に呼応するように、原作を読み込み、リスペクトした上でのキャラクター造形に努めていたと思う。 不安だったのは、主人公である“不死身の杉元”と“アイヌの少女アシㇼパ”を演じた、山崎賢人と山田杏奈だったのだが、この二人のキャラクターへのフィット感が、個人的な想定を大いに越えて良かった。 特に“アシㇼパ”は、原作漫画ではもっと見た目にもわかりやすく「少女」なので、大人の女優が演じる以上、違和感は禁じ得ないと思っていたが、演じた山田杏奈はそんな印象をほぼ感じさせず見事に演じきっていた。 本作全体の白眉なポイントでもあるが、この漫画に無くてはならない“グルメ描写”を丁寧にちゃんと映し出し、山田杏奈演じるアシㇼパの「ヒンナヒンナ」を多幸感溢れる“和み”と共に表現しきったことが、何よりも素晴らしかったと思う。(エンドクレジット中の“オソマ”入り鍋を食べるシーンなど最高じゃないか!) あとは、過去最高の怪演を見せる玉木宏をはじめ、金塊争奪戦の群像を彩る各キャラクターたちの造形と表現もみな原作ファン納得の仕上がりだった。 これからの展開に登場するありとあらゆるキャラクターたちのクリエイトも当然期待できる。 が、個性豊かな囚人たちが続々登場する“囚人争奪編”は、なんとWOWOWドラマ化とな。 憎らしいくらいに“上手い”戦略に、WOWOW再加入を悩み始める今日このごろなのは言うまでもない。(桜井ユキ扮する家永が見たすぎる)[インターネット(邦画)] 7点(2024-10-20 09:49:56)《改行有》

13.  シビル・ウォー アメリカ最後の日 昔読んだ村上龍の小説のいくつかを思い出す。まさに、今そこにある危機。 リアリティラインの境界線を絶妙に引いて、シビアに渡る「現在」の戦争映画。[映画館(字幕)] 8点(2024-10-14 17:47:24)《改行有》

14.  ヤクザと家族 The Family 「任侠映画」から、「Vシネ」そして「ドキュメンタリー」へ。アスペクト比の切り替わりは、そのままこの映画が描き出す“ヤクザ”の実態を丸裸にしてくようだった。[インターネット(邦画)] 8点(2024-10-13 00:45:26)

15.  ある男 “主人公”という概念に対する本作のミスリードを感じ取ったとき、途端にこの物語が持つ本質に引き込まれた。 “ある男”とは、結果として誰を指すタイトルだったのか。ラストの短いシークエンスでそれをあぶり出す本作の試みは、とても興味深く、とても感慨深かった。 鬱積した現代社会に関わらず、人間が織りなす社会に巣食う私たちは、少なからず何かを偽って、「自分」という仮面を被って生きている。 家庭人の仮面、仕事人の仮面、社会人の仮面、モラリストの仮面……、自らが築いた環境、または流れ着いた環境を保持し、必死にしがみつくように人は「仮面」を被り続けている。 結果、他ならぬ自分自身が、己の本当の「顔」を見失う。 本作で象徴的に映し出される“ルネ・マグリット”の絵画「複製禁止」は、そういう人間たちの愚かさを如実に表すものだったのだろうと思う。 石川慶監督の独特の映画の空気感と“間”の中で、安定感のあるキャスト陣がそれぞれ人間の脆さと弱さ、それでもなんとか存在し続けようとする人間の根幹的な執念のようなものを表現していた。 中でもやはり印象的だったのは、ストーリーがかなり進んでからようやく登場する“主人公”を演じた妻夫木聡だろう。 本作は安藤サクラ演じる未亡人の亡き夫(窪田正孝)の偽られた「正体」を、妻夫木聡演じる弁護士の男が追い求めるストーリーであるが、実のところあらわになるものは謎の男(=X)の正体ではなかった。 Xに対する追究、探訪を通じて、隠し秘め続けていた主人公のアイデンティティが丸裸にされていく。まさに“ルネ・マグリット”の絵画のように、見えている男の背中は、他のだれでもなく自分自身の背中だった。 妻夫木聡は、絶妙な人間的な希薄さと違和感を見事に表現して、その主人公像を創造し、演じきっていたと思う。 実は、主人公の弁護士は、謎の男Xの追究を始めるずっと前から、自身の「仮面」と直視できない本当の「顔」に気づいている。 すなわち、この映画を通じて本当に気付かされるのは、それ(ある男)を観ている私たち観客の“後ろ姿”だったのだと思う。 今この瞬間も、自分自身の後ろ姿を見続ける、決して相対することのない本当の自分が存在しているのかも知れない。[インターネット(邦画)] 8点(2024-10-13 00:42:47)《改行有》

16.  ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ ふと気がつくと、自分のSNSのタイムライン上には、本作の公式アカウントや、主演女優たちの投稿、そして“彼女たち”のファンのリポストが溢れていた。 能動性と受動性が相まったその情報の流入状態は、まさに“推し活”時のそれであり、「ああ、そうか」と気づく。“ちさまひ”は、既に私の“推し”なのだなと。 これまで、アイドルに対する“推し活”は経験していたけれど、映画やアニメや漫画の作品に登場するキャラクターを“推し”とする「感覚」が今ひとつよく分からなかった。 演じている俳優や声優の“ファン”ということであれば分かりやすいけれど、実在しない架空のキャラクターに対して、尊び、応援するという「状態」がピンときていなかったのだと思う。 のだが、本シリーズ3作目を喜び勇んで劇場鑑賞して、ようやくその「感覚」と「状態」を自分自身のものとして実感した。 作品自体も国産アクション映画として充分すぎる程に面白かったのだが、それ以上に、主人公である“杉本ちさと”と“深川まひろ”の言動そのものが愛おしくて尊かった。ネットスラングで言うところのまさに“てぇてぇ”を、自身の声として初めて発したくなった。 この映画シリーズの世界観らしく、ストーリー展開は良くも悪くもグダグダでユルユルなのだけれど、そんな世界観の中で、二人の女子殺し屋コンビがひたすらにキャッキャとふざけ合い、そしてひたすらに真剣に殺し合うという究極のアンバランスが、“刺激的”を越えてもはや心地いい。 無論そこには、両主演の女優たちの演者としての表現力と、卓越したアクションが確固たる説得力として存在している。 どこまでが台本通りのなのか分からないダラダラとした会話劇を、その会話の性質のままダラダラと演じてなお、そのダラダラとした空気感に我々観客を引き込むということは、実は普通のことではない。 髙石あかりと伊澤彩織の両女優の相性の良さと、映画世界内外を包括するような“バディ感”がその奇跡的な空気感を創出しているのだと思う。 そして、絶対的なアクション描写。スタント出身の伊澤彩織の体技はもはや言わずもがな。実際のところ、彼女は現時点で国内No.1の“アクション女優”だろう。 真田広之の「SHOGUN」によって時代劇をはじめとする日本の娯楽映画文化に注目が集まっている今、もっとこの国の映画界は“伊澤彩織”という才能を重宝し、世界に打って出るべきだと強く思う。 一方の、狂気性と猟奇性が滲み出る髙石あかりのアクション表現にも益々磨きがかかっていて、本作のアクション映画としての質を更に高めていると思えた。 前作「2ベイビー」では、コメディ要素に偏りすぎた印象が強く、主人公たちの「殺人」描写があまりにも希薄でおざなりだったことが大きなマイナス要因だったのだけれど、本作ではコメディ描写はしっかりと押さえつつ、“殺し”は“殺し”として変な忖度なく描き抜いていることが素晴らしかった。 この奇妙な映画世界の中で「殺し屋」として生きる彼女たちのアンビバレントと、それに伴う“陰と陽”が表現されていたと思う。 また、本作においてもう一つ特筆すべきは、最強の敵役を演じた池松壮亮だろう。 個人的に彼の出演作の演技に対してはどちらかと言うと否定的な印象が多く(「シン・仮面ライダー」を筆頭に……)、本作のキャスティングにも懐疑的だったのだけれど、ズバリ「最高」だった。 陰キャで異常な生真面目さを有する孤独な殺人者のエキセントリックな狂気性を見事に体現していた。きっとこのキャラクター性は、俳優池松壮亮の本質にも合致していたのだろう。伊澤彩織と対峙するアクション性も申し分なく、想像を大いに越えて“ハマり役”だったと思う。 ただ一つ苦言を呈するならば、オープニングクレジットとエンドクレジットをもっと凝ってほしいということ。アバンタイトルからのアガるオープニングクレジットや、映画の余韻を爆上げするエンドクレジットがあれば、本作はもっと推し活冥利に尽きる愛すべき作品になっていたと思う。 映画公開と同時に放映されているテレビドラマ版も含め、コンテンツとしての可能性は益々広がっていると思うので、引き続き精力的に“推し”ていきたい。[映画館(邦画)] 8点(2024-10-13 00:40:52)《改行有》

17.  ウルフズ 夏頃に購入したApple製品の特典で、Apple TV+の“3ヶ月間無料視聴”が付いているのを知り、年内限定で登録してみた。 ちなみに、動画配信系のサブスクは、既にU-NEXT、Amazonプライムビデオ、Netflix、Disney+と契約しており、完全に飽和状態なので、追加でサービス利用する余地は全く無い。 まず、ブラッド・ピットとジョージ・クルーニーのW主演の娯楽映画(しかも監督はジョン・ワッツ)が、Web配信のみの公開となっている事実に、映画ファンとしては何とも言えないモヤモヤ感を覚える。 どうやら製作を行ったApple Studioと配給を行うソニー・ピクチャーズとの間で、ビジネス的な“調整”が生じたようだが、ハリウッドの大スター二人が揃い踏みするこの手の映画が、その出来栄え以前の問題で劇場公開中止となってしまうことは、とても不幸なことだ。 そこには、映画産業のパワーバランスのみならず、我々観客側の“劇場離れ”が確実に影響していることは明らかであろう。 鑑賞前は、Apple TV+の加入者増加のためのある種の“撒き餌”映画なのだろうと思っていて、実際にその通りではあるのだろうけれど、作品自体は想像以上に真っ当な娯楽映画だったと思う。 業界随一の“揉み消し屋”としてしのぎを削る二人が、ダブルブッキングによって同じ現場に遭遇してしまったことから始まるクライムアクション&コメディ。 ストーリーのテイストや性質的には、過去のハリウッド映画で幾度もなぞられたものにも見えるけれど、そこは御大二人の圧倒的なスター性が独自性を生み出している。 ブラッド・ピットもジョージ・クルーニーも、二人とも60歳を越えて、本作においても“老化”への自虐ネタが随所に挟み込まれるが、それでも世界屈指の“イケオジ”ぶりは流石で、公私とも旧知の間柄である二人のやり取りを見ているだけでもしっかりと楽しい。 90年代以降、彼らが主演する数々の映画に心湧いてきた世代としては、映画世界内外を包括したメタ的要素も多分に加味され、そういう部分も含めて本作のエンターテイメントを心から堪能できたと思う。 とても楽しい映画だったので、当初の企画通り続編も期待したいけれど、願わくばスターたちの映画がきちんと劇場公開され、しっかりと動員されるように、映画産業の最末端を担う一観客として、健全な映画鑑賞に勤しみたい。[インターネット(字幕)] 8点(2024-10-13 00:40:14)《改行有》

18.  憐れみの3章 或る週末、とてもおぞましくて、気味悪い程に支配的で、あまりにも意味不明な映画を観た。 エンドロールを呆然と見送りながら、殆ど何も理解できていないまま、かろうじて一つの事実には気付いた。 上映時間の164分間、私は暗闇の中で、困惑と好奇が入り交じる感情と共にニヤつきを絶やすことが無かったということに。 そう、結論から言うと、私は、本作に対して明確な「拒否感」を感じつつも、確実に本作の“虜”になっていたのだと思う。 それは、「支配」をテーマにしたこの映画の目論見に、まんまとハマってしまったということだろう。 個人的に、今年(2024年)は、ヨルゴス・ランティモス監督の「哀れなるものたち」に囚われて続けていると言っても過言ではない。それくらい、年初に観た同作は強烈で特別な映画体験だったと言っていい。 その監督、そして同じ主演女優(エマ・ストーン)の最新作が同年に公開される。そりゃあ多少得体が知れなくとも、公開と同時に劇場に足を運ばざるを得なかった。 前述の通り、人間同士の関係性における様々な支配関係を主軸にして、3つの奇妙な物語が綴られる。 エマ・ストーン、ジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォーをはじめとする限られたキャストが3篇通じて異なるキャラクターを演じる作劇構造、登場人物たちの奇異な心理描写を軸にした物語構造は、この作品が極めてミニマムで低予算な映画であることを示しているけれど、描き出されたその映画世界はその是非はともかくとして、“ディープ”の一言に尽きる。 当初の構想では、同様の短編が10篇からなる構成だったとも聞くので、本当はもっと果てしなく、常人には理解も表現もしがたい深淵が広がっているのだろう。 あれこれ語って理解したつもりになる程に、自分自身の浅はかさが露呈してしまいそうになる。 ここは一つ、1話目でジェシー・プレモンスが演じる男同様に、己の無力さと、絶対的支配による抱擁と陶酔を甘受しつつ、3話目のエマ・ストーン同様に終わりなき奇怪なダンスを心の中で踊り続けるべきだろう。[映画館(字幕)] 8点(2024-09-29 11:44:02)《改行有》

19.  セーヌ川の水面の下に 本作のタイトルのみを見た人のうち、一体どれだけの人が、このフランス映画の正体が“トンデモサメ映画”であることを感じ取れるだろうか。 日本語タイトルだけがふざけているのかと思いきや、原題も同じく「Sous la Seine」、まったくもってどうかしている。 “どうかしている映画”であることは間違いないが、本作は“サメ映画”の映画史的な文脈に沿った見事なB級パニック映画だった。はっきり言って、「絶賛」したい。 トライアスロンの国際大会が行われるパリの象徴であるセーヌ川に、太平洋に生息していたはずの巨大ザメが出現するというザ・トンデモ展開が、まず馬鹿みたいで楽しい。 主人公が海洋汚染を研究する海洋学者だったり、パニックの引き金となる行動を起こすキャラクターが自然環境保護を訴える過激な活動家だったりと、意識の高さと低さが混濁するキャラクター設定もユニークだったと思う。 そして何と言ってもパリ五輪開催の同年にこの映画をぶつけてきたことは、あからさまなオリンピック批判であろう。その是非はともかくとして、アグレッシブなその姿勢は嫌いじゃない。 とはいえお世辞にも完成度の高い映画とは言い難い。 ストーリー展開も、キャラクター設定も、映像表現も、極めて類型的であり、セーヌ川に巨大ザメが大量に出現するという設定以外に特筆すべき点はほぼ無い……映画のラスト5分までは。 ラストの顛末、オチが、本作の“トンデモサメ映画”としての価値と独自性を爆上げしている。 それは環境破壊による海洋汚染を引き合いに出した本作に相応しい終末だった。 きっとこの映画の世界線では、700年後、宇宙飛行士のチャールトン・ヘストンが「鮫の惑星」に降り立つだろう。そして、上昇した水面からわずかに飛び出たエッフェル塔の先端を発見して咆哮することだろう。[インターネット(字幕)] 7点(2024-09-23 10:56:27)(良:1票) 《改行有》

20.  終わらない週末 今世界は、疑心暗鬼に満ちている。 自分以外の“他者”が、いつ、いかなる理由で「攻撃」をしてくるか分からない時代。人々は常にビクつき、防衛本能をフル稼働せざるを得ない。 どうしてこんな世界になってしまったのか。国家レベルから、一個人レベルに至るまで、私たちは息を詰まらせて苦悩している。 或る家族が急に思い立ったバカンスを過ごすためロングアイランドの別荘地に向かうところから本作は始まる。当然のことながら、何の危機感も感じていない普通の家族が、突如として「異変」に放り込まれる。 この唐突さこそが、今この世界に孕む危機の本質なのだろう。 災害にしても、パンデミックにしても、戦争にしても、テロにしても、一般市民に対する実害は、何の前触れも無く突然降りかかる。無論、適切なタイミングなど計ってくれるわけもなく、休日だろうが、深夜だろうが、徹夜明けだろうが、私たちは、今この瞬間にも命の危機を突きつけられてもおかしくないのだ。 いずれにしても、いざそういう状態になってしまったとき、人間はどのような対応を迫られるのか、そしてどのような対応ができるのか。 本作に登場する二つの家族の人間たちはみな善人であり、恐怖に包まれパニックに陥りながらも、人間らしい言動に努めているけれど、それでも発言や行動の端々にその人の本質が表れる。 自分や家族を守るための虚偽や卑怯や暴力は、一体どこまでが罪なのだろうか。 終盤、“隣人”の恐怖を象徴するような存在としてケビン・ベーコンが登場するけれど、果たして彼の言動を誰が断罪できるだろうか。彼にも娘がいて、守るべき家族があるのだ。 私自身、家を持ち、守るべき家族がいるけれど、本作で描き出されたような「分断」が本当に起きてしまったとき、どのような思考で、どう行動できるのか。自分自身に対して、それこそ疑心暗鬼になってしまう。 恐怖の正体が見えないとても居心地の悪い映画世界は、冷戦時代に製作された数々のスリラー映画を彷彿とさせた。 それは冷戦時代に世界に蔓延していた危機感、焦燥感が、今現在の世界と社会に重なることを雄弁に物語っている。 平穏な「週末」が、世界の「終末」に直結するかもしれない只中で、今私たちは生活している。 本作が、何十年か後、「こんな時代もあったね」という教訓や思い出話と共に“発掘良品”的に鑑賞される日が訪れることを心から願う。[インターネット(字幕)] 8点(2024-09-23 10:54:07)《改行有》

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