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【製作年 : 1920年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ロイドの要心無用 若いころリバイバルが盛んで、キートンに狂喜し、以後の公開予定のリストの新聞広告を切り抜いて眺めてはニコニコしていたものだが、全部は上映されなかった。客足がそれほど伸びなかったらしい。途中で立ち消えた。ロイドはもっと悲惨で、たしかこの一本だけだったんじゃないか。たしかにロードショー料金でリバイバルされるのは、映画好きにとってもかなり悩める状況で、評価の定まった古い名作より同時代の新作を見るべきじゃないか、と迷わされたものだ。そんなこんなで大型スクリーンで観た唯一のロイド作品(ビデオ・DVDで気軽に見られる時代が来るとは想像も出来なかった)。しかしこれに関しては、見てよかったと思っている。あの「とりあえず一階分だけのぼろう」という姿勢、その後の人生でしばしば思い返したなあ。ちょっと始めればなんかやれるもんなんだ、ということ。ほとんど座右の銘として心に残っちゃった。それも大スクリーンで観賞できたからかもしれない。コメディとしても、各階ごとに趣向があって、最後の風力計まで引き込まれること必定(ここで場内に拍手が湧き起こった喜びも映画館ならではの味)。都市が上を目指しだしたデパートメントストアの時代を告げているし、また広告の時代の到来でもあった。人集めが金になる時代になったのだ。スラプスティックとしても一級の作品だが、それらもろもろの時代の記録としても見事な傑作だったと言えるだろう。[映画館(字幕)] 9点(2014-02-02 09:13:26)(良:2票)

2.  キッド(1921) 終わり間近「夢の国」の場になる。登場人物たちが羽根を生やして失楽園を演ずる。いちおう子どもを失ったチャップリンの内面世界ととれるが、ジェラシーとかイノセントとか、それまでのストーリーからは浮いていて、現代人の目にはとてもヘン。これは活動写真が見せ物だった時代の名残りと思うのが一番いいのではないか。ワイヤーアクションで舞台の芸人が飛びかっているような見せ物。古いミュージカル映画のラスト近くにも、筋から自由になった長めのダンスの見せ場がよく置かれる。私は勝手にカデンツァ(協奏曲のコーダ近くにある独奏者の見せ場)と呼んでいるのだが、あれも映画が見せ物だった時代の名残りではないかと想像している。映画がストーリー(筋)に屈伏させられないよう抵抗しているようでもあり、ああいう無意味が氾濫する場を終盤に用意するのは、もと見せ物客だった観客に対するサービスだったのではないか。日本の昔の村芝居では義経が人気だったので、ストーリーに関係なく「さしたる用はなけれども」と言いながら義経が舞台を通り過ぎた、という話はよく聞く。決して無意味が無価値ではなかったかつての演劇の活力を、映画は受け継いでいたはずなのだ。舞台が意味に覆われてしまったイプセン以後の近代演劇のほうが異常なのである(いま思ったのだが、植木等の「およびでない」のコント、大好きだったが、これと関係してないか)。[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-05-25 09:36:48)(良:1票)

3.  愚なる妻 シュトロハイムが自信持ってるなあ、という表情って分かる。ヨーロッパの表現主義を引きずってる。たとえば空涙を流して手の陰で目を光らせてるとことか、鏡で女を盗み見るとことか、きっとああいうとこに自信があったんだと思う。今から見るとクサいんだけど、でもこういうヨーロッパ風・悪の粘着的魅力ってのが新鮮だったに違いない、アメリカでは。そこらへんの「アメリカに渡ったヨーロッパ人の映画」ってことの表現のあれこれに興味は湧くが、現在残っているフィルムで(オリジナルから見ればほとんど断片)何か言ってはいけないような気もする。セットと知らなければそれほどお金掛けてる映画に見えません。[映画館(字幕)] 7点(2013-03-05 09:18:13)

4.  極北の怪異 《ネタバレ》 カヌーから次々と家族が出てくるところ。海岸のセイウチ猟、腹這いになって近づき向こうが気づくあたりの緊張、仲間のセイウチが沖から心配そうに見守っているところ。家づくりのシーン、ナイフ一丁で窓まで作っちゃう。小さな穴を通してロープで引っ張り合う。向こうから犬ぞりが来るその広さ。などなどが面白かった。今では異文化の暮らしはテレビによってさして珍しくないものになったが、止まった写真ぐらいでしかなかった知識が、動く映像で見られるリアリティは大きな違いだったろう。そのことは人々の世界観を大きく変えたはずだ。フィルムは民族を熱狂によって閉じることにも使われたが、打ち破って広げていく方向にも使われた、そっちを信じたい。モンゴルの遊牧民の映像なんかでも思うのだが、ああいう簡単に移動できる社会で、家族単位の次の地域社会ってのはあるのだろうか。なんかその方向に「地域で閉じない新しい社会」のありようの可能性が秘められているようにも思えるのだが。で本作、あくまで生活中心に追っていく。生活の厳しさは主に犬によって表現されていた。飢えて吠える犬、ブリザードの中で真っ白になっての遠吠え。[映画館(字幕)] 8点(2012-12-23 09:52:21)

5.  ロイドの人気者 アメリカの最も良質の理想主義がある。チャップリンやキートンは最初から普遍性を持っているが、ロイドは「アメリカ的」ということを突き詰めて普遍性に至ったよう。上級生たちの残酷さに気づかぬロイド、状況を知らずに有頂天になっているロイド、しかしわずかのチャンスを生かして栄光に至る。アメリカではすべての人にチャンスが与えられているはずだ、というあの国の自負と、しかしそのチャンスを生かすのはおまえ自身だぞ、というあの国の教訓。個人主義の国の良さと厳しさ。仮縫いのままのパーティなど笑った。タップはやがて小津が真似するのではないか。ラストの試合が思ったほどじゃなかったけど、キックした球が風船と混ざって分からなくなっちゃうのがおかしい。自分が馬鹿にされていたと知ったときのあたりは、ホロッとさせられた。やっぱり人間努力だ。[映画館(字幕)] 7点(2012-11-11 09:52:48)

6.  チャップリンの黄金狂時代 《ネタバレ》 前半で社会批評、後半でメロドラマ的要素と、二段構えになっているのが多いね、この人。争っている猟銃の銃口が常に逃げ回るチャップリンを追っているとこ、ズボンをステッキで引っ掛けながらのダンス、相手を倒したと思い込み意気揚々と引き上げるとこ、傾く家から飛び出すタイミング、などなどで笑ったが、極限状況を笑うとはどういうことなのか。単純に食卓と靴という組み合わせのシュールリアリスティックな面白味がある。それも上品なマナーで食べるおかしさ。悲惨と滑稽が隣り合わせなのは、何も極限状況に限らないのかも知れない。相棒の目に鳥に映ってしまうって悲惨の極みの恐怖だが、そう見えてしまう人間の弱さは私たちの日常にもともとあるような気がするし、「極限状況」ってのはそれを拡大するレンズなんだろう。自分の弱さを笑えるのは、人間の貴重な利点だ。[映画館(字幕)] 8点(2012-09-16 09:26:16)(良:1票)

7.  三悪人 姫を守る三人の騎士の話をアメリカ西部に持ち込んだよう。三人は最初から姫と結ばれる資格がないことは了承ずみで、ただ「尽くす」ことに男意気を見せるわけ。一番の見せ場は正午を期してみながワゴンで走り出すやつ。のちにトム・クルーズの『遥かなる大地へ』でもやったランドレースっての。行けたところまでの土地が自分のものになる、って豪快な競走。カメラ自身も走ることの躍動感が凄い。そういう持続する動きの迫力と、もう一つ、妹との再会の場に現われた悪役の顔のアップの、白目がギラギラしている瞬発の迫力もある。ピストルの発射の突発性なんかもね。ぶら下がっているカメ(?)を撃つところや、ラストの対決でも瞬発の魅力がある。テントの中でタマが跳ね返ったりもするんだ。これ、アメリカのフィルムセンターから借りたものも含めた「大フォード回顧」ってんで見て日本語字幕なしだったが、スクリーンで見る迫力でモトは取った。[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2012-09-03 09:43:51)

8.  アッシャー家の末裔 空間の広がりの薄ら寒さと言ったらない。友人が犬を呼ぶが逃げていくあたりの閑散とした感じ。カーテンのそよぎ、スローモーションで本棚から崩れ落ちてくる本。レースの死に装束が風で揺れだすあたり。時を告げる鐘が鳴るとホコリがさらさらと落ちていって。アッシャー氏がギターを爪弾くと外の荒涼とした風景と共感していく。ちょっと目まぐるしすぎるかな、ってとこもあるけど、映像の音楽性を極めている。ギターの弦がぶつんと切れるなんて、日本の怪談でもよく三味線であったけど、世界共通の怪奇趣向なのね。黒猫やら振り子やらも出てくる。次第に嵐になっていくとこのカッティング。音が重要な役割りをする原作を、サイレントで映像に翻訳したという意味で、無声映画のひとつの「結論」を提示したような作品になった。姫の登場の盛り上げ。世界がブレだしてくるの。開かれたドア、狂ったようにひらめき続けるカーテン、振り子の脇からのアップ。映像によって、凍りついた音楽に耳を傾ける、いや目を凝らすという映画芸術の達成。[映画館(字幕)] 9点(2012-07-30 09:20:55)

9.  イタリア麦の帽子 人のちょっとした傷を描くのがいい。靴が合わない、手袋の片一方がない。妻にしょっちゅうネクタイの緩みを注意される、なんてのが傑作で、もうビクビクしちゃって条件反射的に首元に手がいくようになっちゃうの。悪夢の世界ということではキートンと同じだけど、質が違う。キートンの悪夢は荒々しく襲いかかってくるが、こちらは直接暴力の被害は受けない。あちらは第三者の目から見れば、ああ大変なことになってるなあ、と同情される状態なのに対し、こちらは孤独。絶望的なのだが場を取り繕おうと懸命なわけ。キートンが「恐怖の悪夢」であるのに対して、クレールは「不安の悪夢」と言えるかもしれない。当人に何の落ち度もないのだから不条理の悪夢には違いないんだけど、「関係」の形で出てくるので、キートンの悪夢が比較的サッパリしているようには行かない。粘つく。これがクレールコメディの特徴だろう。フランス映画の粋はしっかりあり、最後はピタリと収まる。絶品である。[映画館(字幕)] 8点(2012-07-25 10:16:38)

10.  サンライズ 《ネタバレ》 ストーリーだけ取り出すと、ヘン。何も都会に逃げ出るからって、妻を殺す必要はないだろ。舟の上での殺意のシーンの演技なんか表現主義時代の悪影響が感じられる。都会=悪、田舎=善というパターンも気に食わないし、どう見たってシティ・ガールより可憐な妻のほうがいいじゃないか…。でもたぶんこれは神話なんだよね。しっくりいかなかった夫婦が真の夫婦になるまでの試練の物語。そう思えば、この二人が都会で過ごす部分がシミジミといい。ついさっき殺意を見せた夫に追いつかれると、もう逃げようともせず、つまり自分の命の危機よりも、夫婦生活が崩壊してしまったことのほうに泣いている妻。可憐そのもの。一緒について行くんだ。教会を経て新婚夫婦のようにはしゃぎまわるの。写真館、床屋、そして遊楽場の光の洪水に、花火のおまけまでついて。帰りに湖水ですれ違うかがり火焚いた船(いかだ?)。そのあとの嵐も極端なんだけど、神話としての駄目押しね。これでラストの「よかったよかった感」が深く心に定着していく。私の知る限り、モノクロで一番美しい映画。[映画館(字幕)] 9点(2012-07-21 09:52:18)

11.  アンダルシアの犬 ピアノを引きずり女に近づこうとしている男、これとまるきり同じ状況ではなくとも、似たようなことをしている男はいるな、という感じは持てる。あるいはいつか自分がこれと似たようなことをしそうだ、という予感。ピアノとか馬とか修道士とかに、一つ一つの象徴を当てはめてはいけないのだろう。ピアノに漠とした「重さ」を感じるのは象徴とは違う。でも男というものは、ピアノを引きずり女に近づこうとするような存在だなあ、とはしみじみ納得できる。シュールリアリズムとは、そういうもんなんだろう。エロティックな幻想にしろ、蟻にしろ剃刀にしろ、全編触覚的で生々しい。例の剃刀のシーンでは、女性観客の「やっ!」という叫び声が館内に響き渡った。そして全編実に明晰。シュールリアリズムとは、夢を明晰に記録したい夢なのか。[映画館(字幕)] 7点(2012-07-18 10:03:31)

12.  キートンのセブン・チャンス 《ネタバレ》 感謝するのは、若いころリバイバルが盛んだったことで、今から思えばビデオ化の波が近づき、それに対処する権利の問題でも絡んでいたのか、映画史の名作をずいぶん大スクリーンで見ることができた。そんな中で圧倒的な迫力だったのがキートン、これと『蒸気船』の名画座での二本立てに魂を抜かれた。プロポーズできない優柔不断男が花嫁の大群に追いかけられるという悪夢が大スクリーンに展開する。前半は「誰でもいいから7時までに結婚する」という必死な男を巡る「心理」的な笑いで、しかしその心理がだんだん「状況」に非現実的に投影されて世界ににじみ出てきてしまう。床屋の首あたりから、悪夢の濃度が濃くなっていく。いつも警官に追われていたサイレントコメディの主役が、花嫁たちに追われるという異様な悪夢(警官の大群に追われる短編『警官騒動』が併映されたので、とりわけ印象的に対比された)。パニック映画の様相も出てきた。満点は一人の監督(映画人)に関して一作、と私は勝手にルールを作っているので『蒸気船』とどっちにしようかと悩んだが、休みなく走るこっちを取ろう。斜面を転げ落ちてきた岩石群が詰まって止まりホッと一息入れられたと思ったら、ゆっくりとまた動き出し始める緩急のリズムのつけ方。たまらない。[映画館(字幕)] 10点(2012-07-16 09:00:40)

13.  母(1926) ソ連のプロパガンダ映画ではある。資本家は悪人だし、裁判は腐敗しており、労働者たちは前向き。しかしこの母と父の描き方によって、公式性から抜け出し、映画の質を高めていたと思う。旧世代に属するこの母親、新しいことを大それたことと思ってしまう人。ツァーの威光を素朴に信じているだけでなく、どんな時代のどんな母親にも通じる普遍性を持っている。父親も、前向きの労働者たちより存在感が濃い。これから批判していく存在を、決して小さく描かず、正確にスケッチする。実際、虐げられているからと言って、みなが労働戦線に参加するわけではないのだ。うまく資本家側に使われてしまう者たちもたくさんいたわけで、そういう者たちを単純に「裏切りもの」と批判して片づけてしまう粗雑さを戒める基準が、作者側にあった。酒場のシーンが素晴らしい。臭いやうるささまで、無声映画で巧みに表現されていた。ここにはもう立ち上がる気力さえ失せた労働者たちがたむろしているわけで、戦う人々よりリアリティがある。そしてけっきょくロシア文学が優れていたのは、その部分ではなかったか。自然を描くショットが美しい、雪解けのモンタージュはややくどかったが。[映画館(字幕)] 8点(2012-07-14 09:56:43)

14.  忠次旅日記 子分が強盗になっているのを知った忠次の苦衷。活劇としてよりも日本風悲劇としてのトーンが満ちている。悲壮さへの誘惑もある。大きな樽を入れた構図、暖簾を分けて立つ娘お粂、など印象深い。呼びかける声がだんだん大きくなるのは、そのまま字幕が大きくなることで表現される。フィルムの断片だけが発見された「信州血笑篇」の方は、どうも気分がつながらなくて困ったが、「御用篇」はかなりまとまった部分が残されたので大丈夫。戸板に乗せられたまま夜の川を渡るあたりの悲壮の極み。日本映画は敗者への共感を描くと特別味わいが深まるんだ。伏見直江(ポスターには「新入社」と書かれていた)が密告者を調べる蔵の中のシーン。これはサイレントならではの緊張ある場面で、名前を呼ぶ字幕と影のある顔とのリズムがだんだん切迫していく。で最後の捕り物。ここが残ったので、作品の活劇としての味わいがうかがえた。上下に動く蔵の戸を、開けよう・閉めようとしている争いを内側から眺めるカット。隙間から見える足だけの活劇というアイデアだが、アイデア倒れになっていなかった。追い詰められ密閉された場所での覚悟が画面をうずめる。おそらく三部作全編を通して観られれば、滅びへ向かう巨大な下り斜面が見えてくるのだろう。フィルムの欠損部分でリズムを崩されるのがすごく気になるってのが、オリジナルのリズム感の洗練を思わせる。[映画館(邦画)] 8点(2011-12-30 10:59:21)(良:2票)

15.  知られぬ人 《ネタバレ》 正確には字幕ありで見たんだけど、それフランス語の字幕なのよ。私読めません。まあトッド・ブラウニングの映画ですから、それほど問題はないんです。両手がなくて足でナイフ投げをする男、実は六本指を隠してて、ってな話。マッチすったりタバコ吸ったりもする(『典子は、今』を一瞬思い出したのは不謹慎か。それを不謹慎と思うことが不謹慎なのか)。邪悪な小人とのコンビで、だいたい小人ってのは邪悪だなあ。モロ差別的偏見だけど、心の深層でついうなずいてしまう無意識レベルでの納得があるから、ドイツの伝説なんかでも悪鬼になってるのか。小人が精神的な悪、巨人は肉体的凶暴、って住み分けしてるみたい。ジョーン・クロフォードが白目の光る情熱の女。ロン・チェイニーの失恋の後の高笑いに凄味あり。怪人の哀しみ。馬が引っ張り合う芸で恋敵の腕をちぎろうとする復讐を企てて、馬に踏まれて死んでいっちゃう。終始カタワへの執着を見せる映画。『三人』というこれの二年前のブラウニング作品も小人と巨人のコンビで、小人の邪悪さはかわらず。警官の前では車でブーブー遊んでみせたりするの。子どもは純真とされるもので、大人なのにその純真な子どものサイズでいる、ってところが邪悪にふさわしいのか。[映画館(字幕なし「原語」)] 6点(2011-10-15 09:51:05)

16.  吸血鬼ノスフェラトゥ(1922) あのポーズ、肩をそびやかして目を大きく剥いているのは、あれは恐怖に「襲われた」側の表情でもあるんだよな。舌なめずりをするような気分を表現するのに、ああいうポーズを取らせる効果ってのは何なんだろう。たしかに不気味なんだ。彼自身が背後からそそのかされて血を吸ってるって感じなのかな、純粋な悪はその背後にあるって言うような。あるいは過度の恐怖と過度の歓喜は同じ戦慄を呼び起こすと言うか。とにかくこの映画にはドイツロマン派の気分が満ちている。ペストの恐怖と重ねられて独特の暗鬱なロマンチシズムが溢れている。とりわけ光景、城の入り口付近や、フッターの向かいの建物、恐怖をゆっくり運び込んでくる帆船のしずしずとした動き、災いの町と化したブレーメンの縦に続く石の道(その白い道をペストの犠牲者の黒い棺が運ばれていく)。どれも素晴らしい。ノックを追い掛け回す群衆にはドイツ民話の雰囲気もあるが、やがてラングの『M』でも描かれるだろう未来のナチズムに通じる「迫害するドイツ群衆」の基本形が、ここですでに提示されていたのかも知れない。白黒反転はいい効果を出してたが、コマ落としはちょっと滑稽(当時の映写方法だとそうでもなかったのかな)。[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-14 10:07:32)(良:1票)

17.  アスファルト(1929) 夜の街。これセットなんだろうが、ふんだんに人を使ってる。カメラがぐるぐると対象を物色してる感じがいい。やがて歩道に沿って延々と流していき一人の女性に集中していく。ここらへんかなり興奮。宝石店。ヒゲの店員は客の美貌にトロッとなっているが、離れた支配人は横目で見ている。この構図よし。ま、その後いろいろあって、つまりは警官が女の誘惑に負けてゴタゴタに引きずり込まれ、殺人にまで至るという、この時代に多い話。なんなんだろう。犯罪都市ものと言うか、美女は悪人になり、警官は色香に迷う(教授とか、立派な制服的人間が迷っちゃうの)。精神分析の流行とか、無意識の発見とかが、影響を与えてるんでしょうか。家庭の外の闇には、こういう魔が潜んでいる、いう話がやたら多い。そして映画は夜の雰囲気を出すことを任されると、実にいいんだ。ここらへん、ドイツではすべてがうまく機能して「夜の犯罪都市もの」という一つの型を作れたようだ。[映画館(字幕)] 7点(2011-09-06 12:13:43)

18.  キートン西部成金 《ネタバレ》 キートンはアメリカにおけるヒーロー像をひとつひとつ自分流にパロディにしていったってところがあるが、これではカウボーイ。牛を移動させるのがカウボーイの仕事、キートンは真赤な悪魔の格好をして牛の大群に追われつつ走る(もちろん画面は白黒だが)。笑った笑った。まずあの単純さがいい。牛を早く進めるためには赤いものを動かせば良い、という知識から、直線的に悪魔の衣装に飛躍してしまえる身軽さ。単純さを望んだがためにかえってヤヤコシイ目に遭ってしまうパターン。それは一途さと言ってもいいわけで、牛のブラウン・アイへの純愛も最後まで貫かれる。一途ってことは人の迷惑を気にしないことでもあり、町中を牛の大群を連れて歩くことに関する社会的配慮を、いっさい無視できる感覚でもある。それでいて特定の女性の視線は気にしてしまうんだけど。つまり特定のものだけが見えて社会全般が見えなくなってしまうのか。だから「世間知らず」ってことにも通じて、牛の乳しぼりで缶を置いたまま向き合って座ってたりするわけだ。変に執着するってのもあるな。いつも食事に遅れていた彼が、真っ先に駆けつける執念。いろんな要素があって、しかしそれらが総合されるとキートン的としか言えない存在にちゃんとなってるんだ。[映画館(字幕)] 7点(2011-07-28 09:56:32)

19.  巴里の女性 《ネタバレ》 うまくいかない世の中、みなで傷つけ合ってそれで寂しがってる。マンジュー君も寂しい。ヒロインも、友人に婚約発表の雑誌見せられてフフンと強がってみせたりして、哀しい。また父の反対・母の反対が悲劇を進行させていく要因になっている。でラストで寛容を説くわけなんだけど、この時代の潮流なのか、このころの映画は何でもかんでも寛容を説きたがってる。革命やら世界大戦やらの動乱の反動で理想主義の時代だった、ってことだけかもしれないけど、映画というもののそもそもの寛容性・何でも取り込んでしまうフトコロの広さにこじつけてしまいたい気持ちもちょっとある。青年が着飾ったヒロインの絵を描くんだけど、カンヴァスには昔の質素な彼女が描かれていく、なんてとこが憎い。こんな生活いや、と言いながら窓から投げた首飾りを拾いにいくなんてシーンの残酷さ(犬がついて走ってる)などドキッとさせられる。[映画館(字幕)] 7点(2011-07-16 12:25:11)(良:1票)

20.  キートンのラスト・ラウンド 世間知らずのいいとこのボンボンが、恋のためにその安逸の世界から思わぬ状況に挑まねばならなくなる、ってパターンがキートンでは多いんだけど、そのときの当惑して心細そうに直立してる姿を見るだけで、もう嬉しくなっちゃう。まずお坊ちゃんぶりの山の生活で笑わせるが、ヒロインが登場し二人でテーブルで肘を突いて話しこんでいると、次第にテーブルがめり込んでいって、普通のピクニックのような自然な腹這い状態になる。ヒロインが現われることによって生活が変わっていくであろう予感。嘘からトレーニングをしなければならなくなる。何しろ拳闘選手。練習のシーンだったか、スカンスカンと空振りしながら相手と組んでいるときの動きなんか最高だった。手の動きと目線とが食い違ってて、もちろん相手とも合っていない、悲劇的で滑稽なダンス。で、最後はコケにされていたことが分かると憤然と名誉のために頑張ってしまえるパターンで、他の傑作群と比べると後半がちょっと弱かったけど、でもいいんです、あのお顔とお姿を見られればそれでもう。[映画館(字幕)] 7点(2011-07-14 09:57:19)

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