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タイトル名 |
ミリオンダラー・ベイビー |
レビュワー |
なるせたろうさん |
点数 |
10点 |
投稿日時 |
2005-06-13 19:55:24 |
変更日時 |
2005-06-14 09:42:52 |
レビュー内容 |
■かつてイーストウッドがヒーロー=正義の味方だったことがあっただろうか?彼は、いつも飲んだくれていたり、家族をないがしろにしたり、やたらと女性にちょっかいをだしたり、盗みを働いたり、あげく人を躊躇なく殺すことすらしてはいなかったか?どちらかといえば、彼は、負け犬の味方、いや実は負け犬そのものだったのではないか!(最近はやりの意味じゃなくてね) ■愛するものにとって、相手が自分のために苦しんでいるのを見ることほど辛いものは無い。それが人生の中で唯一愛したひとであればなおさらだ。彼あるいは彼女は、ウィンクひとつで愛する相手が何を望んでいるのか立ち処に理解してしまう。そこに世間の倫理は意味をなさない。愛するものができることは、ただ相手の望みを叶えてあげること。 ■とはいえ、彼と彼女のとった行動に、正直私は泣けなかった。(泣けるわけがないだろう!)それと、ラストショット(まぶぜ氏にまるで落語のさげのようだと言ったのはこの私です)。この映画に最初から漂っていた「終わること=死への希求」の気配は、じつはイーストウッド一流の罠で、我々観客は彼にまんまと一杯食わせられたのではないか?なぜなら、窓越しからのレモンパイに舌鼓を打つ彼の背中は、私には、まるで次の罠を考えながらひとりほくそ笑んでいるペテン師の不敵な姿にしか写らなかったのだから。 ■それから、まぶぜ氏が本作の異様さについて語っているが、それは本作に限ったことではなく、処女作『プレイ・フォー・ミスティ』の頃から既に顕著だった気がする。フォードやホークス、あるいはヒッチコックのように軽々と映画を撮りながら、画面に否応なしに現れてしまう“異様さ”。だが、それはイーストウッドだけの特徴ではない。思えばそれは、リュミエール兄弟が列車をラ・シオタ駅に到着させた頃にはもう既に現れていたはずだ。現実をありのままに撮りながら、現実とは違う“異様さ”への変貌、すなわち映画そのものに!? ■最後に、ゴダール、リベット、ロメール、そして我らが清順と、映画の最先端をひた走っているのが、なぜか老人ばかりなのは、映画の現状が正に『スペース・カウボーイ』的状況だからか?(ニガ笑) ならば、私は彼にこう言おう。「イーストウッドよ、オリベイラに負けるな!」 |
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