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タイトル名 |
燃えよピンポン(1997) |
レビュワー |
ぐるぐるさん |
点数 |
7点 |
投稿日時 |
2005-06-04 16:35:36 |
変更日時 |
2005-06-04 16:35:36 |
レビュー内容 |
んー、最初から最後までモロ「大阪」。それこそ吉本新喜劇やウルフルズの「大阪ストラット」の世界で、ストーリーも人々の喜怒哀楽も演出も、全てが過剰。いわゆる「ベタベタ」。きっと大阪出身のクリエイターがこういう作風を使うのは、多分に戦略的な面もあるのだろうけど(例えばシンクロの日本代表が「ニンジャ」をテーマにするような)、ところで何故大阪という街は、かくも「ベタベタ」なのだろうか(おことわり:ここから僕の「大阪文化論」モドキが展開しますが、実の所僕は大阪という街をほとんど知りません。だからひょっとするとすっとぼけた外国人が「オー、ワターシニポンダイスキデース。ハラキリマリオ、クロサワソニー!」などと言う様なズレまくりの論かもしれませんが、どうぞ御容赦下さい)、とふと思った。この感じ、違う所でも感じたことがあるぞ、と思い出したのがアメリカのミュージカル映画。アメリカのミュージカルでは(タモリがよく揶揄するように)登場人物が突然歌い出したり踊り出したりする。嬉しい時には嬉しい歌を、悲しい時には悲しい歌を、彼らは実に生き生きと(それが、なじめない人の目には“過剰”と映るのだけれど)歌う。ああいう風潮の裏にあるのはつまり「だって日常をそのまま映したってしょーがないじゃーん。日常なんて退屈極まりないものなんだから、どーせやるなら楽しくやろーぜ!」という思想なのだと、僕は思う。んで、大阪文化の底流にあるものもやはり同じ精神なんじゃないか、つまり300円のお釣りを渡す時に「はい、300万えーん!」というのも「だって普通にお釣り渡すだけじゃオモロないやんけ」という理由からじゃないだろうか。言い換えれば大阪のコテコテ感、過剰さというのは「退屈な日常を楽しく演出する」という思想が生活文化に表れたものではないだろうか・・・何だか話が大袈裟になったけど、よーするにこの作品の中で高田聖子が笑ったり、泣いたり(はなかったか)、夢中で恋をしたり、卓球の修行をしたりする姿を観て、何だか楽しくなっちゃたよ、とゆー事です。 |
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