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タイトル名 |
陽のあたる場所 |
レビュワー |
鱗歌さん |
点数 |
8点 |
投稿日時 |
2024-06-09 06:04:52 |
変更日時 |
2024-06-09 06:04:52 |
レビュー内容 |
原作の「アメリカの悲劇」は読んだことが無いのですが、この映画からは少し、ジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を連想したりもします。「郵便~」ほど主人公が直情的でも行動的でもなく、むしろ優柔不断にも見えるけれど、それでもやはりその行動は刹那的で短絡的。それをどこか、突き放したように描く・・・。 という観点では、この映画、さらにハードボイルドタッチの乾いた語り口でもよかったのかも知れませんが、それはともかく。 主人公のモンゴメリー・クリフトがヒッチハイクをしている冒頭。金は無いけど希望はある、って感じの好青年。いい人に見えるのはここだけで、まあ、あとは、サイテー男なんですけどね。彼が見上げた看板は、叔父の経営する大企業のもの。手の届かないような高さにあるその幸せが、徐々に彼のもとに転がり込んでくる。最初は労働者仲間の女性との恋愛、という、ある意味現実的で、こう言っちゃなんだけど世間的には「身の丈にあった幸せ」。ただしここですでに、会社の規則違反。今だったら横暴な企業としてネットで炎上するところかも知れませんが、とにかく不条理な悲劇のタネってのは、主人公自身が抱えているだけではなく、社会の中にも色々と転がっている。 で、最初、手に入れた小さな幸せの後、会社で出世したり、金持ち美人のエリザベス・テイラーと知り合ったり、という「大きな幸せ」(ってか、んなワケないやろ、こんなヤツに、と言いたくなるような、信じ難き僥倖の数々)が主人公のもとに降り注いでくる。小さな幸せと大きな幸せ、同時に手に入れようったってそうはいかないとなった時、どちらを手放すか? 「大きな幸せ」の方が実は単なる幻想でした、というのであれば、そりゃそうだよね気をつけようね、という一種の教訓話としてオチがつくところですが、この作品では最後まで、エリザベス・テイラーはあくまでモンゴメリー・クリフトを想い続ける「大きな幸せ」としての存在であり、もはや自分には決して手に入れることができない「大きな幸せ」はやはりそこに「大きな幸せ」として在り続ける皮肉。 小市民的な悲劇ではありますが、それだけに普遍的、とも。 |
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