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タイトル名 |
残菊物語(1939) |
レビュワー |
すぺるまさん |
点数 |
10点 |
投稿日時 |
2008-10-14 00:01:04 |
変更日時 |
2017-06-02 02:47:50 |
レビュー内容 |
悲しくも、恐ろしく美しい。 西瓜をふたりで食べようとする、勝手場での長回しのワンショットに心が震え上がる。 これは映画を見ていくと、後に、菊之助とお徳が離れ離れとなり、 菊之助が、昔ここでふたりで西瓜を食べたということを思い返すシーンとして、 前述の勝手場のワンショットと全く同じ構図が反復される。 ただその勝手場にはお徳の姿はなく、菊之助だけが、ひとり佇んでいるのだ。 回想シーンが挿入されるわけでもなく、同構図で反復されるというだけで、 あのふたりで食べた西瓜の時を菊之助は思い出しているのだろうと 我々観客は気付くのだが、もう涙なくして、佇む菊之助を直視することは出来ない。 しかしその後々に反復されるという事実を知らずとも、 もはや西瓜を食べようとしているショットの時点で深く心に響いてくるのは何故か。 それはやはりこのショットが後のふたりの運命を喚起していたからなのか。 或は、溝口健二の馳せた想いが、後に反復するこの構図から、 スクリーンを通して滲み出てきていたのだろうか。 だからか、菊之助が「お徳、ちょっと持っておくれ」などと言うだけで、 切なさが溢れ出し、涙が頬を伝うのだ。 そう、つまりこれは全て溝口健二によって仕組まれた周到な仕掛けだ。 この仕掛けは台詞ではない、身振りでもない、構図だ、ショットの持つ強さだ。 そしてショットの反復は他にも繰り返される。舞台袖だ。 映画の冒頭、父は舞台袖で菊之助の至らなさに腹を立てる。 この舞台袖での件というのは映画が進んでも幾度となく登場する。 そして菊之助がとことん落ちぶれた後に、東京への再帰をかけた舞台が終わった時の、 その舞台袖でのあの感動はなんなのであろうか。 更に、菊之助がいた二階の安下宿。ここに菊之助と離れ離れになったお徳が戻ってくるとき。 昔、鏡台を二階に運ぼうとしたときと全く同じ構図、そう階段上からのあの俯瞰のショットが、 それも空ショットとして挿入されたとき、お徳の悲しさ、寂しさ、そして優しさに心を打たれる。 そして映画はいつまでも鳴り止まぬ声援に手を上げ答える菊之助、 そして静かに息を引き取るお徳、このあまりにも悲し過ぎる対比で幕を降ろす。 しかし、美しい。この美しさは作品の持つ悲しさを破綻させるほどの恐ろしい美しさだ。 |
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