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タイトル名 |
その名にちなんで |
レビュワー |
花守湖さん |
点数 |
9点 |
投稿日時 |
2009-04-09 21:51:25 |
変更日時 |
2009-04-09 22:08:11 |
レビュー内容 |
原題は「名をもらった人」という意味なので、名を授けた父親が核になっているのは確かだが、母親のアシマの圧倒的な存在感の前に、この男がかすんで見える。一般的にも母親の愛情表現は、不器用な父親の愛情表現をはるかに上回る。従ってあくまでも一般論だが、父親が母親よりも子供から愛情を勝ち取ることは不可能に近い。そういう意味では、男は寂しい生き物だと思う。ただし親の愛情というのは、子供から愛情の見返りを求めるものではない。ここが「恋愛」と「親の愛」の大きな違いである。あの金髪の恋人は、愛情の見返りを求めた。恋人ならば、それは当然だといえる。しかし親の愛情はいつも無償だ。その無償の愛情をもらう子供のほうは、大抵の場合、それほど親に感謝しているわけではない。母が息子の誕生日の日に電話しても、息子へはつながらない─。それでも母親は受話器に向って「ハッピーバースデー」とささやく。泣けてくる。親の愛情は、ただひたすら純粋である。「親の気持ち、子知らず」たしかにその通り。子供が親と真剣に向き合うのは、極端なことを言えば、親が死んでからだ。多くの人間は、失ってから、失ったものの大きさを実感する。ガンジス河で遺灰を流している傍ら、子供たちが水遊びをしている神秘的なシーンがある。日本では「死」は不衛生であり、また不吉であり、遠ざけておくものだという考えがあるが、インドでは違う。あの国では「死」は、常に身近にある。インドの魅力を語ればきりがない。「枕と毛布をもって旅に出ろ、世界を見ろ」列車内で男はこう言った。自分の国を知るために、世界を知れ、という逆説的な意味として捉えることもできる。自国から出たことがない者は、自分が何者であるかという当然の認識さえ持てなくなる。自分が何者で、どんな文化の中で暮らしているのかを実感するためには、その中から抜け出すしかない。例えば日本という国を、日本人が実感するのは、日本を離れたときに違いない。この物語は、インドで暮らすインド人が作ったものではない。外国育ちのインド人の自伝要素が反映された物語だ。従って、余計にインドの文化に対する並々ならぬ矜持を感じ取ることができる。 |
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