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タイトル名 |
最後の忠臣蔵 |
レビュワー |
一般人さん |
点数 |
8点 |
投稿日時 |
2012-11-29 23:12:14 |
変更日時 |
2012-11-29 23:12:14 |
レビュー内容 |
主君、大石内蔵助の密命で討ち入り直前に「世に隠れて、自分の隠し子を育て、守って欲しい」 と、言われ、逐電した大石家の家士、瀬尾孫左衛門
この作品の秀逸な所は江戸を代表する人形浄瑠璃である 曽根崎心中を武士道の裏側に織り込んで描いている事です。
主君大石内蔵助の娘である可音は成長するにつれ 孫左衛門へ家来以上の気持ちを抱くように成る。 そして、孫左衛門もそれに気付いている。
自分が長年愛おしみ育てた主君の娘 しかし、1つ屋根の下、この先不意に我が物にしたとしても おかしくは無かろう。
しかし、それすれば 武士道という自らに強いている不文律を完全に破る事に成り 武士としての自分も、そして主君の娘である可音も
2人を取り巻く物(価値観、矜持、そもそも自分がいまおめおめと生きている意味) すべてが、自壊(死ぬ事よりも酷い状況)せざろ得ない。 と、孫左衛門は思う。
「その物思いの行き止まりに、いつも聞こえて来る挽歌の様な物が、あの日観た曽根崎心中だった」
何もかも捨てて、2人で逃げる所まで逃げ、想いを果たし、刺し違えて死ぬ。 と、いう願望。
つまり、孫左衛門は主命と、自分の本意の狭間を 少なくとも、可音の気持ちを知ってしまった後 常に揺らぎながら日々を過ごしていた。
しかし現実は 主命により、どれだけ周りから蔑まれても 事の一切を明らかにも出来ず、勝手に死ぬ事も出来ない。
死に遅れたという無念、その一方では可音と結ばれたいという衝動 しかし、出来ない。出来うる訳が無い。
たらいに入れた可音の足を指の叉まで丹念に洗う孫左衛門 それにうっとりと身を任せる可音。
これは1つ間違えば、何時でも主人と家来という垣根は破られる それを自覚しながら、決して超える事の出来ないギリギリの境界線上で 2人は生きざろ得ない。
そういうジメジメとした不条理で愚直な武士道 それと表裏している華々しく形式美的な武士道 この両方を見事に描いていると私は思いました。
しかし、こんな事は今の若い人にはピンと来ないでしょうね。 ましてや、外国人に理解できる訳が無い。
演出も少々、最後はくどく成ったかも知れませんが (私はラスト、寺坂が駆けつけるのは孫左衛門が絶命した後でも良かった気がします)
最後の切腹のシーンはとても見事ですし 総体的に見て、1度見て損は無い作品だと思います。
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