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タイトル名 |
ボウリング・フォー・コロンバイン |
レビュワー |
よしのさん |
点数 |
9点 |
投稿日時 |
2003-12-02 14:07:40 |
変更日時 |
2003-12-02 14:07:40 |
レビュー内容 |
この映画が称賛されうるアメリカはさすが自由の国だと言われるが、逆ではないか?「銃で自分を守る」などという発想は日本社会ではクレイジーと見なされ社会から糾弾される。もし政治家がそう言えば、彼は辞任に追いやられるかもしれない。それは世論とも言え、あるべき抑止力とも言える。少なくとも銃を否定する側がタブー視されるような国は、おそらく全世界でアメリカだけだ。驚くべきは、銃を持つことの正当性を堂々と語れるこの国の自由ではないか。この背景には、当然、武器産業の存在を無視できない。それと政治の癒着、マスコミの迎合を無視できない。 社会契約説は、自然状態(完全に自由な世界)における混沌の収束として政府の成立を認めているが、これは、人間不信と恐怖感をベースにしている。まるで政府は、自己の権威を保ち続けるために、国民における恐怖感の持続を促し、意図的に自然状態を作り続けているようだ。不思議。大いなる自己矛盾だ。 本作は一方的な意見だという話もあったが、この世の一体どこに、純粋に公平なものがあるだろうか。6時のニュースが客観的で公平に事実だけを伝えていると思うか?大統領の演説は真実か?まして映画は? 何かを語るときに意図があれば、誰でもその意図に人を導くようメッセージを作る。あえて公平である意味はない。 この映画の良いところは、数字で事実を示し、半ば小馬鹿にした演出で「ほら、ちょっとバカらしすぎないか?これって」と主張を明確にしていること。大真面目な体裁で公平性を装ったところで、恐ろしくチープな大衆迎合的「真実」で、さらっと流されるだけだ。その場で「ごもっとも」とうなづいても、現実ってほんとはそうじゃないよね、と無言の中で否定されてしまう。うそ臭い公平性にはリアリティがないから。 自由は大切だ。しかし、殺しあわない社会は大前提として大切だ。自由と殺し合いは表裏一体だろうか?どちらかを得るとどちらかは得られないのか?アメリカ人は、そのバランスが取れないほど愚かなのか?バランスをとる努力をなぜしないのか?いや、あえてバランスがとれないように仕組んでいる奴はいないか?銃を持つことで、アメリカがその他の国よりも享受している「良いこと」は何か?アメリカから銃をなくさないことで得をする人間は誰か? 本作はそれを追及し「それってたまったもんじゃなくない?」と言っている。 |
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