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タイトル名 |
わが命つきるとも |
レビュワー |
パブロン中毒さん |
点数 |
7点 |
投稿日時 |
2011-01-28 21:00:48 |
変更日時 |
2011-01-28 21:18:51 |
レビュー内容 |
まさにイギリス版「秀吉と利休」だが年代的にはこちらが先だろう。 視覚的な効果は単に添え物であって、見た目が作品を壊さなければそれでよく、作り手の意図を理解するには「会話」がすべてという疲れるタイプの作品である。ラジオ劇でも可、かもしれない。 さて、会話に目を凝らし(ヘンだなあ)た結果、私はなんだかトーマス・モアにブレを感じたのである。 大法官を辞した直後、彼は「法が自分を守る唯一の砦」であると考えていて、そのため、他人のためにも法を守るわけだ。「法は自分を守るし他人も守る」ものなので、裏切る可能性が大でも捕らえる理由のないリッチを見逃した。それに、「沈黙」していれば罪に問われるはずはなく、万が一糾弾されても「抗弁」する自信があると言っている。 ここでモアが言っている「法」は、「国が決めた法」のはずで、「神様が聖書で言っている〝法〟」ではないようだ。「国家の法」ならば、それは「〝市民〟の成立と発展」に直接関係することであり、「市民社会」が成立するには「自分も相手も約束ごとを守る」状態が必要である。 モアは自ら法を守り、他人にもそれを当然のことと期待している(結局それは無駄だったが)。「市民社会」を成立させ維持したいからだ。 私はモアが最終的に守ろうとしたものは「ソレ」なんじゃないかと思ったのだ。 中世に芽生え始めた「プレ市民社会」を守るためには、君主の我儘で「国の法」をいちいち変えることはイカんのだと。法を曲げてまで、沈黙している者を罪に問うてはイカんのだと。 そう思っていたのだが、最後になるにつれて、モアは「法が自分を守ってくれる」から遠のき、「王より神に従う」と言って死んでいく。 …それは、「神」ではなくて「ローマカトリック教会」か「法王」に従ったということではないのか。 神がモアの前に現れて「ヘンリーの離婚は認めない。よって再婚も無効。」と言ったわけはないので。 法王がヘンリー8世の離婚と再婚を認めないから、自分もそれに従って死んでもかまわない、と、モアは本当に思ったのか。最後の瞬間まで。違うだろ…。 というわけで、やっぱりブレたと思うんですよ。この作品内では。こうするしかなかったのかなあ。 モアの斬首はヘンリー8世の無茶苦茶による多くの処刑の中の一つでしかないが、同じ斬首でも信念を貫いた場合は価値があると思いたい…市民社会や国家の法を守るためだったのなら。 |
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