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タイトル名 |
ぼくのエリ 200歳の少女 |
レビュワー |
枕流さん |
点数 |
8点 |
投稿日時 |
2011-01-05 21:57:45 |
変更日時 |
2011-01-05 21:57:45 |
レビュー内容 |
映画の開始時刻を勘違いしていて、少し遅れてあわてて館内に入った。館内は真っ暗で静まり返っていた。通路の隣の席も見えない真の闇だった。僕は立ったまま待っていた。しばらくすると音もないままスクリーンに雪が降り始めた。その仄暗い雪の中でようやく僕は席を見つけることができた。 この神秘的で静寂に包まれたオープニングはこの映画の全体の雰囲気をよく表している。12歳のいじめられっ子オスカーと永遠に12歳であり続ける吸血鬼エリ。それぞれのやり方で相手を想う2人の思いは強いが、吸血鬼というテーマとは裏腹に映画は常に静かに展開する。2人の、圧倒的に美しいが同時に繊細なたたずまいを前にしては、多くの言葉は必要ない。 一方で、この美しいエリの存在に実在感が薄かったのも事実だ。映画を通じて、オスカーとエリの間にはほとんど人が介在しない。オスカーの母親はエリと直接関係しないし、介在するのは結果的に死んでしまう人ばかりだ。僕は心の中のどこかで「エリはオスカーの作り出した幻影ではないか?」とずっと感じていた。「強さ」を願うオスカーの心が作り上げた架空の存在だとしたら?エリに襲われた人々もまた実は存在しないのではなかろうか?実際にはオスカーはプールで死んでしまうのではなかろうか?エリの存在自体の危うさが、この映画の魅力である儚さをより際立たせているようにも感じる。 吸血鬼映画に仮託して、監督は、思春期特有の純粋な気持ちや強さへの憧れを撮りたかったのではないかと僕は感じたし、それはそれで紛れもなく成功している。エリをどう解釈しても、素晴らしい映画だということに変わりはない。エリの「保護者」として成長していくオスカーの未来には破滅しかないが、それがまたラストを一際美しくしている。実際にオスカーが生きているとしても死んでいるとしても、ラストのオスカーとエリの旅は黄泉の国への旅なのである。 |
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