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タイトル名 |
チャップリンの殺人狂時代 |
レビュワー |
黒猫クックさん |
点数 |
6点 |
投稿日時 |
2013-05-15 16:50:09 |
変更日時 |
2013-05-15 16:58:38 |
レビュー内容 |
この作品での表面的なテーマになっている、戦争での殺人とそれによる利潤を悪であるとする主張は、その表面的な割り切り故にどこにも間違いはなさそうに見えるのだが、現実の世界では「共産主義による独裁と思想統制」対「資本家」と言うくくりでは無く、「共産主義」とそれ以外という図式が当時正確だった。社会批判的手法で描かれるほどには多くの人の家庭まで金に塗れた世界では無いし、資本家や支配層の構造に当事者達が21世紀の今でも試行錯誤を繰り返し続けている。
それでは外観上の戦争による搾取と、行為の人道性への追窮はどうかというと、確かにそれは存在するのだがこれを上層から否定するのではそれは「共産主義」となんら代わらないと言う事になって、的確でキャッチーな概念を作り出さなかった事に後世が不便さを感じるという事態になっている。 これは「どうして人を殺してはいけないの?」と言う問いに込められたものと同室の悪意を内包していて、答えた人間を罠に掛けるようなわざとらしさをも感じるのである。
近代国家同士が戦う戦争を複数回経て、その情報蓄積によって分かっている事であるが人類は人類を殺すという行為が出来ない回路が実装されている。これは、訓練され専用の精神的調整を受け、薬物を使用してさえ人間が破損するという事実である。無人戦闘や爆撃などの緩衝装置を設けてもその障壁を簡単に乗り越え、実行者には容赦なくPTSDが襲いかかる。 戦争行為や殺人に対して、通常の人間は脆弱に設計されていて、だからこそ戦争までで抑えが効く。殆どの場合は、だが。 抑えが効かなくなったならどうなる?との問いを一番おそれているのが現代で有り、それをやっとの事で乗り越えた諸国家である。
現実に、宗教や怒りという要因を使い、固有環境による反復で上書きをし、殺害予防装置をほぼ無効にする手法が確立されている事実に、多くの人間がおののいている。恐怖感は、殺害したい対象に対しての躊躇を生物としてもっているかどうか、それを取り除かれてしまった人間や、取り除こうとする個の塊に対して向けられるべきである事がいま、分かっている。
この様な視点に立つと、本作品はそうなるに至る段階に試みられた議論として、保存されるテンプレートなのだろう。 |
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