SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

300 <スリーハンドレッド>(2006年【米】)

どうしても「スリーハンドレッド」じゃなくて「さんびゃく」と読んでしまうオイラ。フランク・ミラー作品という事もあって、地味~にパラノイアで鬱々とした内容なのはわかってたから、食指が動かずに放ってありました。
まあ、ある意味予想通りではあった。あまりに予想通り過ぎて、意外な収穫があったけどね。

(追記)…とか思ってたら、フランク・ミラーは監督じゃなくて原作だけかよ! まあどっちにしろ彼の世界観ではあるんだが。以降はフランク・ミラー監督と勘違いして書いてるけど、面倒だからそのままに(苦笑)。


一見して感心したのは、現代のいわゆる《テロとの戦い》をうま~く図式化して、イスラム系抵抗勢力の哲学を浮き彫りにしてる点です。死=栄誉、捕虜を取らずに殺す、降伏も敗退もしない…というわかりやすいルールが主人公サイドを貫いていて、アフガンでのタリバンに重なる重なる。まんまです。
対するペルシャ軍は見事に多国籍。遠大な統治論を述べるクセルクセスは(911の影響を慎重に除外した上での)アメリカの論理と重なるし、その無能な物量戦や買収工作ぶりが現実との連携で痛いというか恥ずかしいというか、ホントよくぞアメリカ国内でここまで言いきりましたナ。

テルモピレーの戦いで、結束して《自由》を守ったギリシャ諸ポリス。まさにアメリカ的な題材だけど、いまギリシャの立場に近いのは中東のイスラム圏で、《国際社会》側じゃない。この戦いの後(本作のラストシーンで描かれるプラタイアの戦い)でペルシャ軍は完全に敗退するという史実を加味すると、これはもう本作がタリバンへのエールになってるとしか考えられないですよ。
思うにこの作品、戦うことをどこまでも肯定するが故に好戦的な内容ではなくなっているし、それは監督の意図でもあるんじゃないかな。この映画で最後まで血沸き肉踊らせる観客はごく少数だろう。戦いの虚しさ、極めて単調なお仕事感に満ちて、名誉以外の見返りもないという本作の主人公たちは「専守防衛」という目的でなければ戦争スイッチが入らないだろう。本作を貫く戦争哲学は、とても現実的で、平和主義的な気がする。
911に代表されるテロリズムと、アフガン・イラク戦争に代表される対テロ戦争。この間に行司として入って、分かちがたい一線を分け、平和を導くための基準が示されているように思えた。
『シン・シティ』の時から思ってるんだけど、フランク・ミラーは苦くて男臭いモノばっかりを材料に使って、物語とは逆の方向へ観客を導く「逆説的な平和主義者」なんじゃないかという気がしてならない。
これはケン・ローチについてオイラが感じる、決して社会の貧困に対して慈愛の視線を向けているわけじゃない…っていう逆スタンスに通じている。ローチは「どうにもならないものはどうにもならない」と醒めている。フランク・ミラーはハードボイルドな男の世界ばっかり描くが、そこに根付いている一種の狂気を受容し、冷酷に観察する。
好戦的な各国の軍の独走が止められなかった、この8年。その裏側にある一滴の狂気が、平和に貢献するための道筋がここにある。本作のキーワードはあくまで「専守防衛」じゃないかと思う。

後日談。
本作の舞台となったペルシャ戦争は、ソクラテスがまだ若かった頃。つまりギリシャの全盛期前の物語だ。
この後、映画のラストで暗示されているようにペルシャは敗退し軍を引き上げる。しかしまた本作で暗示されているようにスパルタとアテナイの亀裂は深く、やがてこの両ポリスを盟主とした2同盟の戦争が始まる。通商をメインとしたアテナイは無駄に好戦的で、浪費家だが勢力が強かった。
劣勢に立ったカルタゴを援助し、やがて情勢逆転までもって行ったのがかのペルシアだった。少なくともあの谷間で、死ぬまで戦った三百人がいたからこそ、カルタゴは遠い将来、敵と手を結んで平和と繁栄を享受できたんだろう。
歴史は奥が深く、一筋縄ではいかない。
評価:6点
鑑賞環境:DVD(吹替)
2009-04-04 21:48:04 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)