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インビジブル(2000)(2000年【米・独】)えーこの春、『ブラックブック』の宣伝でバーホーベン大将が来日した時、本人の口から「失敗作」のラベルを貼られてしまった可哀想な本作。フルチンで、しかも一肌脱いで(笑)まで演技したケビン・ベーコンが猛烈に哀れです。擁護しようがないけどね。
この時代に正統的な透明人間をやろうっていう発想が、まず古い。シナリオが十数年かかったらしいけど、時代に追い越されちゃってるよ。 SFからメインストリーム文学まで、「透明人間」のネタが扱ってきたテーマは一貫していて、「社会の中での匿名性」、これに尽きる。 元祖ウェルズの時代には、見えないってだけで社会秩序が崩壊する大混乱になったワケだけど、その後、黒人=透明人間という社会派の図式が登場したり、ニューヨーカーの生活感の薄さをポストモダンに切ってみたり…「社会から自由でいる事=社会の中に席がない事」という側面を語り続けて来ている。 このテーマの派生形は大量にあって、典型的なのは連続殺人鬼モノのサスペンスなんか。これから来る『ゾディアック』なんて、SF的な仕掛けを使わない透明人間と言っていいはずだ。 だが、そういうネタもハンニバル・レクターの定着で古びてしまい、新しいタイプの社会的透明人間が90年代から登場している。ネットワーク・ハッカーだ。映画界はまだコンピュータ+ソフトウェア+ネットワークという「可視化しづらいもの」の処理と格闘している段階で、現実のネット社会を画面に持ち込もうと苦労している(ここで誰か天才監督が登場すると、一気にブレイクするはずなんだけどねー)。この新手の透明人間は、現実世界の事件を見ても社会から切り離されて、今までの透明人間の系譜にピッタリと合致する。 で、そういうネタがいっぱい転がって、「社会的透明」という事象の意味が深く追求されている2000年という時期に、ここまで原点回帰する意味があったのか? ないよな絶対。 あるとすればコンピュータをゴリゴリ使ったCGワークのお披露目、これしかないんじゃないかな。『タイタニック』で世間がCGIの凄さに目を見張った頃であるワケで、内容を深く考えずに企画が見切り発車、画像処理の技術に頼り切ったスカスカな作品になってしまった、と。こういうシナリオだったと推測する。 すげーCG見せてりゃ観客が喜ぶと思ったら大間違いよ。エリザベス・シューの方がCGより観応えあるじゃんよ。彼女に3点。CGワークに1点。 |
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