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家での静かな一週間(1969年【チェコ】)「ノゾキのニヒリズム」とでも言えばいいのか。
ヤンの短編作品は一通り脳内リプレイできるオイラですが、彼が頻繁に使うクローズアップの意味がわかってきたのはごく最近のコト。幼児期の、何でもベタベタ触りまくって、ベロベロなめまくって世界を理解していた頃を再現させているんですな。『ジャヴァウォッキー』のインタビューで既にそんな幼児との関連性に言及していた翁ですから、この作品でも考慮していないわけがない。 ところがこの作品、確かにクローズアップはあるけれどアニメパートの世界は全て「ドア越しに覗いた光景」です。触れられる距離にはないのが、しつこいしつこい繰り返しで強調されます。 ル・カレの作品に登場しそうな(?)平凡なおっさんスパイが、怪しい廃屋に極秘潜入し、各部屋のドアに穴をあけてはそこで起こっている光景を覗きまくる…実写パートで描かれる世界に、ヤンお得意の「幼児」はない。 一番直線的な答えは「現実」と「妄想」、この関係を描いた作品だという見方ですな。妄想はカラーで幻惑的で残酷で非人間的でもあり、スタイリッシュ。対する現実は危険でビジネスライクで機械的で単調でかつアホっぽい。そしてこの両者の関係は、直接触れられる距離にはない。部屋の中の妄想世界がネジや舌や入歯や椅子のクローズアップで進められるのは、触れないのに触れるという脳内世界で展開する幻覚に近いです。 だがもうひとつの側面、翁が「私の作品には政治的なメッセージが必ず含まれる」と断言している事を考えると、各部屋での出来事は、明らかに何かの弾圧や、煽動や、収賄や、バッシングや、情報統制を意味しています。食べ残しを漁りまくっていた舌がミンチされて新聞になっちゃう/キャンディーの箱から出て来た木ネジがタイプライターを占領する…なんてのは明らかに言論弾圧のエピソード。 幾重ものオブラートにくるんで真意を隠蔽し、何が真相か、何が描かれているのかも不明にしてしまう…「合い言葉」を知ってる人間以外には…旧東欧諸国で発達した難解な芸術の典型例ですが、本作はその外側にも大仕掛けを打って、真相を幻想の中へ押し込めてしまう。 政権のスタンスがコロコロ変わり、「自由すぎる」とソビエトの軍事介入まで引き起こし、常に社会に対してビクビクし続けなければならなかったプラハ市民。洩れ伝え聞くニュースも、多重のフィルターにかけられ、常に真実・裏側を読み解く能力を要求される。そのビクビク感の滑稽さと、語られる「真実」の美しいまでの幻惑性。「これが東欧人の内面なのか!」と納得する次第。 ベルリンの壁が壊れちゃって、そういう時代も過去のものになり、『善きソナ』なんてのが映画にされちゃう時代になったわけですが、決して『一週間』で描かれる状況がなくなった訳じゃないのは本作の発展形『ルナシー』を御覧になればおわかりかと。チェコローカルを離れて、より世界的な、より一般的な、よりポジティブな妄想と狂気が展開しています。ビクビクする必要はなくなったけど、社会・世界への強迫観念が消える事はない。 ある意味、プラハの芸術は今、世界を呑み込もうとしているところじゃないでしょうか。 ●追記: いや、最後に今まで観てきた「真相」を爆破するという展開は、もう一段深いものがあるな。 「真実」と「監視」、このキータームも必要か。 いつか『善きソナ』観てからレビューに再チャレンジするか…。 ブログの追記機能って、こういう時に便利だねえ。 |
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