SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

月のキャット・ウーマン(1953年【米】)

タル・ベーラを絶賛した後でこんなレビューを書くと、神経疑われそうですが。
…いや、断固書かせてもらうぞ!
内容がエド・ウッドレベルというのは本当だ。だから駄作だ…なんて言うのは『日本以外全部沈没』を駄作だと切り捨てる人たちの思考ですよ。
元祖キャットウーマン

本作は宇宙ロケットの操縦席が学習机だとか、異星文明の描写がキャバクラだとか、原子炉の暴走を消火器で止めちゃうとか、そういうので今日まで映画史に名を留める超B級の宇宙SFですな。本当はとある事情で5年ほど前に観ておかなきゃいけなかったんだけど、今まで放ってあったという…。
だがしかーし、百聞は一見にしかず。低予算である事を逆手にとった傑作でした。SF映画史的にも、後年の様々な名作映画のプロトタイプとなっているはずの、かなり重要な作品だと思います。
ぶっちゃけ久々に時間を忘れてのめり込めた、バカ映画の真髄を掴んでいる作品だったという。世の中、本当にわからない。
オイラは本作を、タルコフスキーの『惑星ソラリス』よりも上に置きたい。もしくは映像表現の浅さにおいて、『トランスフォーマー』と同じくらい画期的だと思った。

本作の公開は1953年。『地球が静止する日』の2年後で、『宇宙戦争』と同年、『禁断の惑星』の3年前、『猿の惑星』の原作の10年前。本作や『ロボット・モンスター』で、Z級最低監督の名を欲しいままにするアル・ジンバリストが撮った。
実はオイラ『ロボット・モンスター』も未見で、この作品の方は常々かなりの傑作なんじゃないかと疑っていた(『月のキャット・ウーマン』を観た今は、もう確信に近い)。
石井輝男もそうなんだけど、この監督もかなり画面が「浅い」。ロケットの操縦席が学習机なんてのはB級SF映画じゃ普通にあるけど、この作品はクルーのみんながキャスター付きの事務用イスをゴロゴロさせて振り向いたりするもんだから、他のB級どころじゃない生活臭がにじみ出ている。
まるで中小企業の一室
これを補強するように、成層圏へ出た女性航海士がベッドから起き上がってまず最初にやる事が鏡を見ながらのヘアメイクだったりする。冒頭からコレなもんで、映像は完全にSFではなくなってしまう。
オシャレに余念のない航海士
これは演劇的には当然のように異化効果の役割を果たして、惑星が月に降りてチープなマット画の前で探検隊がピンチに陥っても、エロエロコスチュームに身を包んだキャットウーマンが忍び寄ってきても、みんな映像が浅いので、観客のいる身近な日常世界にすぐ置き換えできてしまうのだ。風刺モノになる一歩手前、というところか。
まるわかりのマット画…「女、入ります!」(笑)
これは後年『禁断の惑星』のベタなロマンスや、『猿の惑星』での人種差別で使われる事になる手で(小説の方はH.G.ウェルズの『宇宙戦争』があるから、当然もっと早いんだけど)、画面で起こっている事と現実との置き換えが容易であればあるほどインパクトが強い。SFという技法の、強力な武器のひとつだ(余談だけど、不思議な事になぜかファンタジーにはこの「浅さ」がない…現実から遊離するのが目的だからかな?)。
本作の本質は悪女モノであって、女性の内面を擬人化してダイナミックに描いたロマンスであり、それが人類の存亡にまで拡大してしまう誇大妄想なギャグでもあり、その両方がバランスする次元に「女性・男性の本質」という深遠なテーマが覗く。「女性が支配するアマゾネス的世界」という(米国プロテスタント白人男性の)価値観逆転は『猿の惑星』的な「支配の戯画」にもなっている。そこに一点の純愛が貫く構成は、当然『禁断の惑星』の原型だ(あっちの原作はシェイクスピアの『テンペスト』だから、少し格調が高くなっているが)。

小説としてのSFが確立する前時代の20世紀初頭には、異星アドベンチャーというSFとファンタジーの中間ジャンルがあった。
『邪龍ウロボロス』『アークトゥルスへの旅』『ペレランドラ』『猫城記』『火星のプリンセス』『スターメイカー』『異星を覗く家』…全て、科学的な枠組みを使わずに宇宙旅行をする物語だ。
異惑星という枠組みを使って現実を異化し、受け手のいる世界を別の側面から見せる。特にキリスト教圏ではコペルニクス以降からこの時代まで、「異星=天界」という認識があったため宗教的な意味合いも持ってくる。西洋での異星は、かなりありふれた記号だった(『地球が静止する日』での、クラトゥ=天使という記号の使い方に気付けば理解が早いかも)。
この文法をそのままストレートに映画の中で展開したのは、知る限りでは本作が一番早いし、小説で使われてきた技法をきちんと咀嚼して盛り込んであって、非常に手馴れた感触がある。要するに、リアリティが決定的に欠如したおかげで現実との二重構造が明確になって、軽薄・単純になった。

同じ枠組みに立脚していても、逆方向に走って名作化した古典SF映画が多くある。
エンタメを追求した『宇宙戦争』や『タイムマシン』、豪華なセット+メカで異世界感を出した『メトロポリス』、どれもオイラは評価が低い。「現実に立脚する異世界」を描くのに架空のリアリティを追求して金をかけるのは無駄だ、というのが持論だからだ。
逆にバイテクを駆使して「愛」「信頼」まで徹底管理されてしまうような真の異世界を描いた『CODE46』なんかだと、リアリティを追求されればされるほど面白くなる。主人公の許されない愛だけが、現代社会の観客と通じる唯一の接点…という所まで過激には作られてないけど…。
『月のキャット・ウーマン』はこういう方向とは真逆に、『グエムル』や『日本以外全部沈没』にも通じた低劣な世界構築・造形をもって観客に迫る。浅いが故に深遠になる。

もちろんオイラが惚れ込む石井輝男の『スーパージャイアンツ』なんかは、低劣な世界像が全く現実を照射してないという、ある種の「真の異世界」なんだけど…あれを越える映像作品はないだろうなあ…。

勢いがついて、いまリメイクの『月へのミサイル』もネット鑑賞中…。
あかん、普通にB級だ。確かに金をかければ観れるものになるだろうが、インパクトは激減してるよ。
というかこっちは時期的にもスタートレックシリーズのプロトタイプなのかもしれない。

旧作を撮った超低予算Z級SF映画の雄峰、アル・ジンバリスト。
意外と侮れない御仁なのかもしれない。風刺文学としてのSFの語法をしっかり押さえた人だと思う。
だが金がなかったので、チープさを最大限の武器に利用した作品を撮っていたんじゃないかな…。
こうなったらもう、正月中に『ロボット・モンスター』にも突撃しますですよ!
世間の評価はどうあれ、また一人、夢中になれる素晴らしい監督に出会う事ができました。
いい事のなかった2009年の、数少ない素晴らしい思い出…『月のキャット・ウーマン』orz
2009-12-27 22:27:03 | 実写作品 | コメント(0) | トラックバック(0)