|
昭和初期の猟奇ブームの謎切り裂きジャック、最近の(というかオウム事件以降の)世相、底のない不況、そんなモノを考え続けていると、どうしても目がソコへ向いてしまう。
日米の戦前2大ダークヒーロー、バットマンと黄金バットの関連性について。 動画倉庫の方で著作権の切れた戦前バットマン(15話完結の、いわゆる連続活劇映画形式)を公開したんですが、順に見てると作品全体に漂う猟奇性が「かなり本格的」だとわかってきます。ストーリーがグチャグチャしてる点とかも、裏を返せば戦前の猟奇探偵小説の特徴なんで、正統的と言えるかも。 DCコミックスでバットマンが登場したのが1939年。そして紙芝居で黄金バットが登場したのが1930年。時代的には非常に近い間柄です。世界を覆っていた、未来の見えない雰囲気、これが似たようなシンボルを持つヒーローの双子を生み出したわけですな。 両作品で猟奇なムードを生み出し、さらに(物語中の世界観の中では)正義も象徴しているコウモリなんですが、(DCが東京下町の紙芝居屋さんを真似たとは考えられないので)同時発生的に生まれたという前提に立つと、20世紀初頭に繰り返して映画化された『吸血鬼ドラキュラ』の影響しか考えられません。 先行するムルナウ版ではコウモリの代わりにネズミが象徴的な役割を担っているんですが、ベラ・ルゴシ版の大当たりでコウモリのイメージが定着。優雅にも見える飛び方、闇の中で音を立てずにヒラヒラと舞う不気味さ、このあたりが貴族系吸血鬼のイメージにフィットしたんでしょうな。 だけど、ドラキュラにはまだ後の猟奇ブームを支える「犯罪性」がない。ここ、非常に重要なポイントだと思うんですね。ドラキュラは後の作品へ、様々な記号やムードは提供したけど骨となる部分は提供しなかった。ストーリーに関しても、少し重厚すぎるし複線の回収率も高すぎる(要するに出来がいい)。 ここで、19世紀末から20世紀初頭にかけて量産されたピカレスク・ロマンが、ドラキュラの記号を借りてフォーマッティングされていく過程を見る事ができるわけです。 表面だけがケバケバしくて、あまり論理的でなく、かつ不気味な犯罪がこれでもかこれでもかと津波のように襲ってくる…そういう物語形式はフランスで生まれた。『ああ無情』『岩窟王』なんかから始まる大ロマンが先鋭化していった結果に生まれた、犯罪王『ファントマ』シリーズと怪盗紳士『ルパン』シリーズですな。特にルパンは後年、正義の味方となるのでバットマンなどとの血脈もたどれます。 予断ながらこの一群の中には小栗虫太郎の作品群も含まれるし、イギリスのエドガー・ウォーレスもこれが本業でした。両者が生んだ被造物が『ゴジラ』と『キング・コング』。怪獣モノとダークヒーローは、実は従兄弟だったんですな(ホームズとアラン・クォーターメインとかまで考え始めると切りがないので、正統派ミステリと南洋冒険モノの系譜は省略)。 「ダーク」で「展開が意味不明」で「神出鬼没」で「笑っちゃうくらい強く」て。 それが戦前の日米の、陰鬱な空気の中で好まれていたヒーロー像だったと思われます。フランスとイギリスは、もう少し早くこの状態に到達してるわけですが…。 なぜこんなジャンルが生まれたのか、っていうのを考えると、回避できない戦争に突入していった20世紀初頭の政治情勢を考えるだけじゃ足りなくて(例えば同じ空気の下にあったドイツやロシアでは猟奇モノは生まれていない…現実の猟奇犯罪は多発してるけど)、オイラは当時の出版事情つまり「週刊誌による情報爆発」を考慮したいところです。 定期刊行物が普及して、世界のニュースや文化が即座に入ってくるようになると、どの文化圏でもこの状況が発生するように見えるんですな。ネガティブな思考に捕らわれ、情報に対して疑い深くなり、「何をやっても無駄さ」という虚無主義が蔓延する。これに対抗する自然な思考として民族主義が右派的な動き(伝統擁護)を声高に叫び始める。みんな表面ではそれに同調しながらも、心の底ではそんな事も信じきっていないので、いつも背中へ目を配りながらビクビクするような言論になっていく…。 悪い事を、悪びれずに堂々とやってのける怪盗たちがもてはやされるわけです。ピカレスクロマンの醍醐味ですよ。 ここで現代に戻ってくると、さらなる情報過多でパンクした社会が、20世紀初頭と同じような空気を醸している理由の一端が見えてくるわけです。 根に、不信がある。 相反する情報に振り回されて世界を信じることができなくなった、その軸足の不安定な心理状態へ、バットマンが訴えかけ、スーパーマンが敗退する。ミッション・インポッシブルが、24が、オーシャンズ11が、その他詐欺系・頭脳ゲーム系が普及する原動力となり、表側の面だけを持った正義の味方が受けなくなっていく。 じゃあ中国みたいに情報を制御して減らせばいいのかっていうと、事はそう単純ではなくて、全ての情報が信頼に足るようになるまで衝突を続けて、何かの世界的なコンセンサスが生まれるまでは納まらないと思うんですね。 前世紀ではそれをリアルな戦争でやったわけですが、核がスタンバってる今世紀にそんな事をすれば人類自身が危ない。どうやればみんなが納得する、みんなが共有できる、みんなが明るくなれる世界観を打ち出せるか…これは、人類が迎えた「知性の正念場」と言えるかもしれない。 オイラはずっと以前から宇宙開発がこの基点になると信じてる。それも、高軌道衛星とかいうみみっちいレベルじゃなく、せめて月に常駐基地を作るとこまでビジョンを示さないとダメ。人が行ける(そして住める)フロンティアが必要なんですよ。そうしないと、世界に溢れる情報が無駄な迷走を始めるから。 んだけど、EUは最初から乗らず、アメリカは降りてしまい、インドは商業衛星にしか興味がなく、いま本気でそれをやろうとしているのは中国だけ。 今後、どれだけダークヒーローが生まれてくるかが、一種の世界が向いている方向のバロメーターになりそうです。 おまけ。この企画が本格稼動しなかったという事は、まだ今は健全なのか…? |
|