SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

テルミン(1993年【米・英】)

音楽映画じゃなかった(少なくとも楽器テルミンと音楽との関係には、ちゃんと触れられてなかった)。『レッズ』を想い起こさせる、進歩派ニューヨーカーたちの壮大なロマンス。失った日々をインタビューやホームムービーで再構築するのも『レッズ』ライク。カーネギー・ホールでのテルミンのデビューからレーニンやKGB、そしてビーチボーイズと定まらないように思えた視点が、ラストで「失った愛」という形で集約されていく手腕は見事だと思った。

だが、音楽映画としてはダメだ。せっかくのいい素材なのに…少なくともピアノの伴奏をつけた演奏シーンは、楽器としてのテルミンの異質さを殺いでしまう結果になっていた。他に記録フィルムがなかったのかもしれないが、そもそも監督の視野が狭く、わかってないんじゃないか…って気がかなりする。
19世紀から始まった音楽のデジタル化現象は、従来の楽器を押しのけてピアノを普及させる。楽譜も整備され、誰でも等質な演奏ができるよう着々と状況整備がなされていった。そんな歴史的な流れを無視してポツンと出てきたテルミンの意義は大きいのだ。楽譜に表現できない音楽をも演奏できる代わり、和音は使えず、音色も変えられない。熟練も要する。つまりは究極のアナログ楽器(調律できないんだから!)。
だからこそ整備された和音体系の中にテルミンが放り込まれると、非器楽的な音が壮絶な不安感や不快感を引き起こす。楽器そのものが音楽史に対する逆説になっている。
余談だがテルミン誕生と同時期にこの原理をもっと理論的に突き詰め、もうひとつの無音階楽器《声》を用いたクラスター奏法が誕生している。この技法は皆さんよくご存知のはず…『2001年宇宙の旅』で、各所のモノリス出現シーンに使用されているからだ。『地球の静止する日』と『2001年』の音楽が同じ原理で語られていた事は、この本作では語られない。なぜなら、微妙に音程をずらした合唱の力で不安を煽るクラスターの方が高い効果を発揮するから…テルミンの《単音》は、楽器としては致命的なのだ。

テルミンに始まる電子音の楽器化の流れは、やがてシンセサイザーに落ち着く。アナログの権化だったテルミンが、デジタルに屈して体制に組み込まれた瞬間だ。オイラには、それがテルミン博士の帰国後にダブって仕方がないんよ。
うーん。この映画を編集させてくれたらもっといいの作れそうな気がするな…。

●2010/7/24 追記:
いつの間にか Wikipedia に、リゲティの『ルクス・アテルナ』の項ができてました。『2001年宇宙の旅』で声楽パートに使用されている音楽です。短い解説ですが、簡にして要を得た記述で、和声によるマジックの原理が明かされてます。テルミンを使った音楽では、誰もコレ級の作品はモノしてない。
上記のオイラのレビューでは音階の破壊をひとまとめで「クラスター」と呼んでましたが、どうもこの項の記載では「ミクロ・ポリフォニー」と呼ぶのが正しいようですナ。

最近では『パフューム』のBGMでこの技法が使用されて、ミステリアスかつ素晴らしい不快感を醸してくれました。
評価:4点
鑑賞環境:DVD(字幕)
2010-07-24 11:51:42 |  | コメント(0) | トラックバック(0)