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テルマエ・ロマエ(2012年【日】)素晴らしかった。
多くの人が承服しないだろうが、文明論という視点では『キス・オブ・ザ・ドラゴン』を超えたと思う。 詳しくは帰宅後に…iPad から感動のファースト・インプレッションでした。 文明が対立するのは安易にできる話で、本作のように文明が寄り添って Win-Win の関係を築く物語は少ない。あったとしても『クロコダイル・ダンディー』系の、一本調子の民話調になるのがお約束。 原作はそこんとこに切り込んで、真っ当な《帝国人思考》をするルシウスという人間を造形できた時点で勝ちだった。映画版はこの《キャラ立ち要因》をよく理解した上で、決して『帝国の物語』から軸足をずらさない。風呂という一点を語る物語に見せかけながら、その両端にある戦争/平和、支配/隷属、西洋/東洋、発展/停滞、創造/破壊、運命/意志といった対立項がキレイに整理されていく。しかもそれが、絵的に濃い顔/平たい顔というわかりやすい対立項になっていてお見事。正直上映が始まるまで上戸彩のキャスティングにとてつもない「?」があったんだけど、阿部寛と同じ画面に収まることで「あ、確かに彼女ってヒラメ顔だったよね」と気付く始末。確かにこの役は彼女か蒼井優くらいにしかやれない。 壮絶なメタフィクションでもある。 中盤からは「これ、原作の成立過程を描いたメタフィクションだよね」っていうのは理解して観てた。んが、上戸彩がローマ側の物語に引きずり込まれるあたりからは様相が変わってきて、作者の脳内で語られたであろうルシウスとの深い部分の対話がジャンジャン出てくる。表面的な、取ってつけたような「テルマエ・ロマエ完成秘話」じゃなくて、作家のモチベーションとは何か、作家と創造物と人気との関係は何か(そのテーマはルシウスの作ったテルマエにも照射されている)、そういう部分がしっかりフォローされる。 指摘するまでもないけど「吹き替え部分は吹き替え調」で、「日本パートは日本映画らしく」…といった画面や演出のギャップも、作品の外側に置かれたメタな構造になっている。ここには洋画/邦画という映画に関わる人間が普段意識しないであろう対立項に気付かされる。阿部寛をルシウスにする上での一種の開き直りなんだけど、ここまで徹底すると見ている側も心地いい。 さらにさらに、クライマックスの戦地浴場造りでは《彼岸》の概念まで入ってきて、多くの人が水の中に消えていった東北大震災の物語に早変わりする。ここは猛烈に泣けた(実はいまコレを打ちながらまだ泣いている)。本作は間違いなく、つらい歴史の数多い東北の物語、その生き方や暮らしの知恵(それこそが大仰な言葉で技術と呼ばれるものなのだ)に光を当てる物語、そしていま東北が陥っている不毛な諦観を覆そうという意図を持つ物語でもあるのだ。 この、膨大なメタファーの底引き網漁法みたいな映画を、一言で褒めるなんて絶対無理だし、やらない方が無難だろう。様々な対立する概念を並べ、それを(笑いを程よく交えながら)風呂の力でほぐして融和させていく、観客への見事な一本勝ちでした。 場内で笑いが絶えなかったことも付記しておきます。近年の邦画ではなかなか少ないです。劇場内のこういう空気。 |
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