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1.  流れる 《ネタバレ》 
本作は、置屋「つたの屋」を舞台に、そこに居住・在籍する女性を丹念に描き出しながら、つたの屋が凋落する軌跡を丁寧に辿る作品である。  本感想のために登場人物についてまとめてみると、その人物配置が非常に巧みで、相当練りこまれていることがわかる。  物語の中心に存在し、最も複雑な内面が描かれているのが、つたの屋の経営者であり、自身も芸者であるつた奴(山田五十鈴)だ。芸者の仕事には懸命だし、これからも続けていきたい。優柔不断で気が弱いところもあり、さらに在籍する芸者の上前を撥ねるこすずるいところもある。いいところも悪いところもじっくりと描かれるが、彼女の姿ばかり追っていると物語が進行しない。その役目を担うのがつた奴の娘・勝代(高峰秀子)だ。どちらかと言えば陰気で、気が強い。芸者を継ぐつもりはなく独身で、付き合っている男もいない。今はこれといった仕事はしておらず、つたの屋に住んでいるが、経営状態の良くないつたの屋は閉め、つた奴には芸者をやめてもらって、共に別の仕事で生計を立てていきたいと考えている。気に入らない相手に対してはっきりものを言い、観客をスカッとさせながら、物語を進行させる役割を担う。  それに対して、同じくつた奴の娘で、幼い娘・不二子を連れて出戻っているのが米子(中北千枝子)だ。今も近所に住む別れた旦那に未練があり、姿を見ると追いかけてしまう。勝代と同じように芸者になる気はないが、自立した生活を送る気もない。不二子がいるからか生来の性格からか、ちょっとした仕事ならしてもいいが、基本は家でのんびりしたい、不二子を芸者にしていいからその分面倒を見てもらいたいと考えている。余談だが、本作にはたくさんの芸者が登場するにもかかわらず、唯一色気をみせるのがこの米子だ。物語冒頭でほんの少しだけ着物がはだけているところに僕はドキッとした。子供こそいるが、生活感のない米子だからこそ、さりげないところで色気が出たのだろうか、やはり色気と生活感は相性が悪いのだろうか。  生活感のない米子に対して、生活感丸出しなのがつたの屋に所属する芸者の一人・染香(杉村春子)だ。つたの屋に在籍する芸者の一人で、お調子者で世渡り上手、ちゃっかりしたところもある。僕にとっては「こういう人いるよね」という、ちょっと苦手な存在だ。  本作で華の役割を担うアイドル的な存在が、同じくつたの屋に所属する芸者・なな子(岡田茉莉子)だ。中盤で披露する下着姿は、本作唯一のサービスシーンだ。  そんな彼女たちを見守る役割を果たしているのが2人の女性だ。まずは、序盤で女中としてつたの屋にやってくる梨花(田中絹代)。腰が低くて気が利く働き者で、つたの屋を内部から支える存在となる。向かいの店に女中として誘われるくらい近所の評判も良く、つた奴や勝代にも頼りにされる。彼女の視点が我々観客の視点と最も近く、狂言回し的な立場でもある。  あと一人は「水野」の女将・お浜(栗島すみ子)だ。置屋組合の顔役のようで、あれこれとつた奴の世話を焼く。終盤でつた奴からの申し入れを聞き、つたの屋を買い取る。戦前のスター女優で、本作で「特別出演」した栗島自身の芸歴と重なってか、本作を上の立場からしっかり引き締めるだけの風格を持っている。  豪華なキャストで描かれる本作で最も感心したのは、つたの屋に住む母娘3人が家族のしがらみにとらわれていることが感じられるところである。家族経営の商売は有利なことも多いが、家族の存在そのものが桎梏となることもあるのだ。  では、本作が楽しんで観られたかといえば、残念ながら否である。なぜか。退屈だったからだ。僕にとって、本作は冗長過ぎた。シンプルなストーリーの中に、一見同じ立場のようで実は異なる意識や目標を持つ登場人物の心の機微を描き出す。それが本作の魅力なのだが、その描写に力を入れ過ぎると、フィルムとしてのテンポの良さは失われる。  本作の原作は小説である。音声や映像のない小説ならば、本作のスタイルはそのまま作品の魅力につながる。だが、せっかく映像になるのだから、映像ならではの魅力がほしいと僕は思うのだ。目を惹いたのは、前述した米子となな子のカットくらいか。あとは終盤でお浜が梨花に、自分のもとで芸者になるよう勧めながら(梨花は断る)、買い取ったつたの屋を旅館にするつもりであり、いずれつた奴たちに出て行ってもらうことを告げるシーンにオーバーラップするように三味線の練習を熱心に続けるつた奴と染香、それを(本作で初めて)虚しい視線で見つめる梨花が長く映し出されるシーンの物悲しさも印象的だが、そこまでが長すぎた。もう少し内容を圧縮すれば、テンポが良くなって見やすい作品になったかもしれない(本作はそういう作品ではないと言われればそれまでだが)。
[DVD(邦画)] 6点(2024-04-08 17:40:51)
2.  すずめの戸締まり 《ネタバレ》 
総じてよくできた作品だと思う。まるで「理路整然と美しく作られた箱庭を上から見つめている」気分になる作品でもある。  地震そのものを巨大なミミズの形にシンボライズさせ(そういえばミミズは「地竜」とも言うんだよなぁ)、その発生や活動を選ばれた人間が食い止めているというのが本作の基本設定である。地震の予知と阻止は、我々現実の人間にとっても夢であり憧れだ。本作は、我々の普遍的な願望を取り入れたファンタジーとなっている。  物語の主人公は、宮崎県に住む女子高生・鈴芽だ。幼いころの不思議な記憶がある彼女は、人知れず地震を食い止める任務を持つ大学生・草太と出会う。鈴芽にとって魅力的な外見を持つ彼は、神道的祝詞を唱えたり、手で印を結んだりしながら、日本各地の廃墟にある扉(後ろ戸)から現れるミミズを封印する。ここで物語に少女マンガ的要素やヒーロー物の要素、セカイ系の要素も加わった。さらに言えば、廃墟ブームを取り入れた設定は、そこでの封印シーンが(周りに人がいないために)描きやすくてカタルシスが得られやすいというメリットも持つ。  ミミズを封印していた要石(かなめいし)はかわいらしい猫の姿となって、人目を気にせず日本各地を巡りながら北上していく。なぜか、その要所要所にはミミズが封印された扉がある。猫によって、鈴芽が子供の頃に使っていたお気に入りの椅子に姿を変えられた草太の手助けをしようと、鈴芽は扉の封印の旅に同行する。猫はあちこちで写真に撮られ、ハッシュタグをつけた形でネットにアップされ、それを手掛かりに鈴芽たちは猫を追う。ここで、物語を象徴するマスコットキャラが生まれた。ネット社会の描写を取り入れながら、ロードムービーとして物語は進んでいく。  ここまで挙げてきたように、本作には幅広い観客の目や心を惹く様々な要素が巧みに織り込まれている。観客を満足させようとあの手この手で情報を並べて入れ込み飾り立てていく。本作を箱庭にたとえたゆえんである。  実際、ミミズの封印シーンはカタルシスがある見せ場となっているし、草太に起こる中盤のさらなる悲劇は涙を誘う。少なくとも、観て後悔する作品ではない。  だが、心から満足できたかといえば、そうとは言えない。以下に二つの理由を書いてみたい。  まず一つ目の理由は、猫がなぜ鈴芽を助けるのかがわからなかったことだ。上記のように、猫はわざわざミミズが封印された扉があるところに姿を現わす。物語後半では、鈴芽の生まれ故郷に同行する。鈴芽たちは「敵」に守られながら「敵」を封印しようとしているのか。こちらとしては訳がわからなくなってしまう。こうして、後半の展開への感情移入が阻まれてしまったのだった。  二つ目の理由は、箱庭の負の部分になぞらえれば、上からきれいに見える一方でその内部に入り込めなかったことや、作品を主観的に楽しめずどこか疎外感さえ残ったことだ。  まず、本作のあちこちに散りばめられた、あまりにもあからさまな庵野秀明・宮崎駿・細田守各監督作品のリスペクトやオマージュからは、仕込み感や作り物感、メタ的感が強く感じられてしまった。  そしてそれ以上に大きかったのは、本作で鈴芽にふりかかる一連の困難が、まるで鈴芽の成長を助けるように、鈴芽の過去のトラウマを払拭させるように思えてしまったところだ。周りの様々な環境や状況、すなわち製作者によって鈴芽に与えられた苦しみが、鈴芽に試練を与えながらも同時に鈴芽を引き立てているように見えてしまったのだった。  僕はここである言葉を思い出す。「神は乗り越えられない試練は与えない」。新約聖書にあるこの言葉は、現実の様々な難題で心身が消耗している人に対して、励ましの目的で使われることが多い。本作の鈴芽は、この言葉に沿った形で描かれたのではないかという気がするのだ。  まあ、シンプルに考えれば、普通の女子高生に超絶アクションをさせることの限界が露呈しただけとも言える。男のように傷口から出血させてズタボロのケガまみれ姿にさせるのは難しいからなぁ(それをさせると作品の「色」が大きく変わってしまう)。  これまで観てきた『ほしのこえ』『君の名は。』の印象も併せて考えると、僕と新海誠監督作品との相性は良くないのかもしれない。
[地上波(邦画)] 6点(2024-04-06 18:38:09)
3.  ミステリと言う勿れ 《ネタバレ》 
原作未読、テレビドラマは全話視聴。元々本作を観に行く予定はなかったのだが、息子と娘がこの作品を観たいと言いだし、その付き添いを妻に頼まれたことで急遽出かけることに。仕方ないなぁと面倒に思う気持ちの中にちょっぴりワクワクする気持ちが入り混じった複雑な感情。非オタク系の映画を劇場で観るのは何年ぶりだろう。結婚前以来かな。  フジテレビ系列の番組で大ヒット中とアナウンスしていたので混雑しているのではと少々緊張しながらチケットを予約したらそうでもなさそうだ。9月23日の土曜日、いざ劇場で席に座ると僕ら三人の列には誰もいない。他の観客を合わせても30人はいないかな。心なしかいつもと観客の雰囲気が違うような気がする。なんだか“普通”の人が多そうだ。  物語は主人公・久能整が広島である女子高生に声を掛けられるところから動き出す。彼女は狩集汐路といい、整と知り合いで複雑な経歴を持つ若者・犬堂我路と繋がりがあるようだ。彼女の家は資産家で、祖父の狩集幸長が亡くなったことで遺産相続争いが起こる気配がある。さらに汐路は言う。これまでも相続争いで死者が出たことがあるので護衛をしながら知恵を貸してほしいと。巻き込まれるようについていった整の前には狩集家一族が集められており、一族の顧問弁護士及び顧問税理士によって祖父の遺言が伝えられる。孫たち一堂に謎解きが出され、その謎を解いた者が遺産を手にできるというのだ。果たして遺産は誰の手に渡るのだろうか。  劇場版ならではのパワーアップ感を出そうと考えたのだろう、クラシック音楽を多用したテレビシリーズの硬質でパキッとした演出ではなく、大きなものをゆったりとゴージャスに見せようとする演出はいかにもテレビシリーズの劇場版そのものであると感じた。そのため、のちの展開に必要な状況や感情を描写していく前半には鼻白んでしまったところもあり素直に没入できなかった。 だが整が徐々に事件の推理や独特の知見を述べ始めてからはその言葉の内容に惹きつけられて演出が気にならなくなった。やはり本作は彼のパーソナリティーが大きな魅力であり作品を支えているのだろう。 終盤に入る前に犯人の予想はついたものの、最終的には僕が推理したものよりもひねりが効いていて推理ものとしても楽しめた。何よりも犯人の言葉によって心に大きな傷を負う汐路の悲しみとやるせなさが強く印象に残った。  帰りの車の中で娘も言っていたが、僕も何だか犯人役のことが苦手になってしまった。役柄と本人を同一視してしまうこの現象が起こったことは本作の成功を示しているように思う。久しぶりの親子での映画鑑賞、もう少しその場で自分の意見を述べても良かったようにも思えるがいい思い出になりそうだ。
[映画館(邦画)] 8点(2023-10-08 14:10:25)
4.  君たちはどう生きるか(2023) 《ネタバレ》 
時は戦時中。東京に父と住んでいた主人公の少年・眞人は、家から離れた病院に入院中の母を火災で亡くし、父子ともども田舎に移り住むこととなる。彼らが到着した駅には、人力車に乗った身なりの良い女性が待っていた。眞人にとっては新しい母親だという。その場でいったん父と別れ、緊張の面持ちで女性と新しい家に向かう眞人。やがて大きな屋敷に到着、眞人はその中を案内される。すると…。  本作は広告宣伝一切なしのまま上映を開始した。ネットを見ていると物語のネタバレこそないものの、参加キャストやスタッフの名前をあちこちで目にするようになった。「そのうち物語のネタバレも不意に見てしまうかも」。そうなる前に観てしまおうと決意したのであった。ちなみに宮崎監督の長編作品は『風立ちぬ』以外視聴済み。  本作については、宮崎監督のエンターテインメント観と人生観の総決算を見せられたという印象を強く持った。  物語の構成は『千と千尋の神隠し』そのものだ。主人公は新しい環境にどちらかといえば後ろ向きで、ひねくれたところもある。やがて巻き込まれる非日常の困難に能動的に立ち向かい人間的に成長、最終的に日常に戻っていく。監督の過去作『ルパン三世カリオストロの城』『天空の城ラピュタ』『崖の上のポニョ』などを彷彿とさせる場面や演出が頻出し、まるで過去の宮崎作品の名場面集、もっと言ってしまえばセルフパロディのようにも見える。  物語の最終目的は「さらわれたお姫様を救い出す」、これも宮崎作品の典型だ。今回はお姫様ではなく新しい母親であるために動機がやや弱く感じられたし、異世界でも唐突かつ理解しきれない展開があったが、それを各々の世界観のアクの強さと丹念な演出、そして圧倒的な作画の力で観客に半ば強引に見せきってしまう作りは宮崎にしかできない芸当だ。前述の名場面も含め、これまで宮崎の後継者と目される他の作り手たちが表層的模倣にとどまっていた宮崎的描写を自らの手でやってのけて「どうだ! これが俺だ!」と高らかに宣言しているように僕には思える。  世界をコントロールする大叔父様の姿からは、未来永劫新たな世界を描き続けたい宮崎自身の願望が感じられた。世界をコントロールするツールであった積み木が最後に他者の手によってあっさり壊されてしまうところからは、「やっぱり人間は有限であり、永遠の世界作りはできない」と外部からの情報によって現実的な考えに軌道修正したのではないだろうかと想像した。  ここからはスタッフやキャストについて思うことを少し書きたい。  まずは絵作りの中心を担うアニメーターについて触れなければならない。超絶作画で作品を支えた作画監督や原画マンたちの何と豪華なこと! 作画マニアが見たら鼻血が出そうな豪華メンバーだ。現在のアニメ、特にテレビアニメはとにかく大勢の作画マンの人海戦術によって何とか形になっている印象があるが――厖大な制作本数に対してアニメーターが不足している、作画作業の分業化によって仕事がスムーズに回らなくなりそれが悪循環を引き起こしている、制作期間が短いなど原因はいろいろあると思われる――本作は極めて密度の高い画面が比較的少数精鋭で作り上げられている。制作環境が整えられていたのだろう。  特に中盤までのピアノ独奏が印象的だった音楽は宮崎作品の常連・久石譲らしくなく、今回は誰が音楽担当だったんだろうと思っていたらエンドロールに久石の名があり驚いた。かつてミニマルミュージックを得意としていた久石の面目躍如だろうし、同時に新境地ともなったのではないだろうか。  キャストは相変わらずの非声優陣。キムタクが声をあてる情報は前もって入ってしまっていたが、どのキャラクターを演じているかがわかったのは中盤以降であり、それ以降も特に違和感を感じなかった。他のキャストも熱演していたと思う。  最後にちょっと尾籠な余談を一つ。本作の上映が始まって一時間くらいからは尿意(と便意)との戦いだった。列中央の席に座っていたし通路が暗くて一度出たら二度と戻ってこられそうになかったのでどうしようと思いながら観ていた。思い切って出ようと腰を浮かせたら尿意が少し治まったので、両肘で体を支えながら背もたれを使わない姿勢で観続け何とか最後まで持たせた(両隣は空いていた)。余韻なしではぁはぁ言いながら館内から出たのは初めてで、前を歩いていた女性を小走りで追い抜き痛い視線を感じながらトイレにスッと駆け込んだのだった。  帰り道の車のアクセルをいつもより少々強く踏みがちだったのはその余韻か、他の車が走っていなかったためか、はたまた作品に心動かされた余韻か、今となってはわからない。
[映画館(邦画)] 8点(2023-07-19 16:57:07)
5.  シン・仮面ライダー 《ネタバレ》 
できる限り作品情報をシャットアウトしながら予備知識や先入観を持たず――それでも作品評価が賛否両論であるという情報や軽いネタバレをネットでくらってしまったが――大学生の息子と二人で鑑賞。戦いに身を投じていくこととなる「人につくられた者たち」のアクションと、過去に理不尽な形で家族を失っていた彼らの悲しみや彼ら同士のほのかでプラトニックな心の交流が描かれる。  登場人物の心の動きというか、心動くきっかけやタイミングが僕の感覚とマッチしなかったため、物語そのものには乗り切れないところがあった。シーンがぶつ切りに見えてしまったり、物語やその背景に従って登場人物が半ば無理矢理動かされている印象を強く持ってしまったりもした。だが、ここ一週間ほど僕自身に家族にまつわる辛いことがあったため、主人公たちのやるせなさや悲愴感が普段以上に心に沁みて仕方がなかった。映像や書籍などに触れるタイミングがその個人的評価を大きく左右するのだと改めて強く感じた。  フィルム面からは、庵野監督の目と耳の良さを改めて感じた。アクションシーンの動きは総じて早めだが、そのスピードが絶妙で、見ていて気持ちがいい。また、そこでの殴打時の効果音の太さと大きさにも驚きと生理的快感があり、それが堪能できる大音響での鑑賞が家ではほぼ不可能なことを考えると、これだけでも劇場で鑑賞できて良かったと思う。 ちなみに、庵野監督作品で劇伴担当が鷺巣詩郎でない作品を観るのは『トップをねらえ!』以来で、これまでの作品とは異なるメロディアスで現代的な音楽も印象に残った(今回劇伴担当の岩崎琢は『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編』の劇伴を通じてリアルタイムで知り、一時期ファンとして熱心にその音楽を追っていたので、今回の起用は嬉しかった)。  現在は息子自身も辛い状況にあるはずなので「面白かった」「かっこよかった」だけでなく、本作を覆う沈痛な感情と、それでもそこから自らの手でつかみ取るべき可能性を本作から掴んでほしいと思う。一緒に観て良かったと思った。
[映画館(邦画)] 8点(2023-03-27 11:07:00)(良:3票)
6.  シン・ウルトラマン 《ネタバレ》 
本作を観たのは上映初日の夜だった。上映終了後は作品を十分に楽しめた気持ちこそあったものの、心震えるほどの昂揚はなく、どこか冷めた感覚も残った。  帰宅する道中から帰宅後しばらくの間、どのように本作を捉えればいいのかと考え、まずはこれまで庵野秀明監督がかかわった『シン~』シリーズと比較してみようと思った。その観点から把捉した本作は「『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のような感慨はなく、また、『シン・ゴジラ』のような社会性も感じられない作品」となった。  『シン・エヴァ』からは庵野監督が25年の歳月をかけて一つの作品を終了させた(終了させることができた)ことへの感慨とそこからの感動が僕の心を充たしてくれたし、作品のバックボーンから垣間見える監督の「旧劇場版」以後の人生観が作品に深味と説得力を与えていたと思う。 東日本大震災の原発事故によって人ごとでなくなった放射性物質の恐ろしさがアレゴリーとして込められた『シン・ゴジラ』からは、娯楽作品として楽しむだけにとどまらない、映画としての意義や存在感が強く感じられる。  ところが本作からは上記二作品のような、作品を貫く骨子のようなものが感じられず、作品へのキーワードがすぐに見つけられなかったのだった。  やがて日にちが経つと、ネット記事やツイッターにネタバレを含む文章が徐々にあがり始め、その中には強く実感できるものや本作の本質を鋭く突いたものも現れるようになった。そして上映開始日から二週間経つと、48時間限定ではあるものの公式HPが映画冒頭の1分17秒――本作の前史として『ウルトラQ』禍威獣を簡潔かつインパクトを持たせて登場させたパート――を公開するに至っている。これまではっきりと表せなかった自分自身の初見での印象や感想が、こういった情報によって変容してしまうことへの恐ろしさがついに閾値に達したのだった(たぶん今ではすでに若干の変容はあるだろう)。自分の中で一度本作を総括しておきたい気分が高まったのだった。  あれこれ考えた末に絞り出した、本作に対する僕のキーワードは、ちょっと変かもしれないが「リスペクトで作られたオマージュ」だ。言葉遊びっぽくなってしまっていることは承知しているが、本作にはこのような言い方が一番しっくりくると思っている(語呂は悪いけれど)。  このキーワードから賞翫した本作はほぼ完璧と言っていい。1966年の『ウルトラマン』(以下、『旧作』)の名シーンが現代の映像技術によって、時にスマートに洗練された状態で、時にさらなる迫力を持って、時には精緻に再現される。マニアにしか分からない細かいシーンもきちんと再現されている。ちなみに、僕が特に感心した再現シーンは、にせウルトラマンの頭部をチョップしたウルトラマンが、そのマスクが硬かったために思わず腕を振って痛みを紛らわそうとしたところだ。『旧作』において人が演じたことで起こったNGギリギリのシーンを、CGで作られた本作がわざわざ再現しているのだ。  舞台となっている現代の政治システムや社会情勢の下で出現する禍威獣や外星人によって生ずる災いやリスクの多くは、今の人類の力では到底解決できない。その事態を何とかしてくれるものの登場を望む気持ちが劇中においても、また鑑賞する我々観客の心にも極めて自然に醸成されていく。彼の登場シークエンスそのものは、物語面から見ればお約束に沿ってしまっているように思えるものの(それなりの立場にある主人公の神永がどうして自ら子供を助けに行ったのか、また、その後も勤務中に彼がいなくなることを禍特対のメンバーがなぜあまり気にしないのか、こういったお約束感こそが本作へのどこか冷めた感覚の大きな要素だとここまで書いてきてようやく気付いた)、そこに現れるべくして現れた彼はまさに救世主であり、どうにもならない災厄を人類の代理人として解決してくれるウルトラマンの必要性や本質、そして特性が見事に表現されていると思う。 さらに言えば、ガボラ、ザラブ、メフィラス、ゼットンと、物語が進むにつれて登場する禍威獣・外星人の脅威度はどんどん上がっていく。人類滅亡のリスクが増大していくために、劇中におけるウルトラマンの必要性もますます強くなるのだ。構成の妙だろう。  最後に印象に残る登場人物を少々挙げてみたい。メフィラスのふてぶてしさと頻出する台詞「私の好きな言葉です」「私の苦手な言葉です」(昔からシンプルなことわざを自作に好んで用いる庵野監督らしさが感じられる)。それから、ネットで否定的に語られることも少なくなかった、スタッフのフェティシズムが爆発した、タイトスカート姿で巨大化した浅見の姿や、神永が彼女の匂いを嗅ぐシーン。邪な心が刺激され、個人的にはとても好きだ。
[映画館(邦画)] 8点(2022-05-29 13:37:14)(良:1票)
7.  シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 《ネタバレ》 
本作の率直な感想は「庵野監督がTVシリーズの最終2話で本当に描きたかったのはこれだったんだ!」である。  主人公・碇シンジの心の決着、そのために必要不可欠な通過儀礼となる父ゲンドウとの、互いの心を包み隠さない摯実な対話。そしてシンジの周りの主要キャラの生と死。 失礼ながら、TVシリーズ製作当時の監督には、これらを描ききるだけの力量はなかったのではないか。当時は製作スケジュールの破綻から最終2話があのようになったと記憶している。派手なメカアクションを伴う総力戦を描くだけの作画スケジュールが無かったことももちろん大きな理由だっただろう。だが今の視点からは、監督自身の人間的な深みが今ほど熟成されていなかったことも大きかったのだろうと推測できる。 その後の、旧劇場版製作の過程で受けたバッシング、様々なアニメや実写映画の製作、結婚など、監督のその後の人生経験が、本作を描き切る糧となったのだろう(これまでの版権などで獲得した資産や、そこから得られる潤沢な時間も大きい)。シンジやアヤナミレイ(仮称)に注がれるトウジやヒカリ、ケンスケの人間的深味と優しさは、監督がその半生で得たものがそのまま反映されているに違いない。  後半に畳み掛けるように頻出する専門用語のため、詳細な状況把握が出来ないのはいささか残念だが――そのため10点満点には出来ない――、25年越しに実現した正式な物語の完結、それによって心の平穏を獲得したであろう監督への祝福の気持ち。映画の観方としては若干いびつかもしれないが、こういった様々な要素が混じりあってじんわりと僕の心も救ってくれたし、監督を祝福したい気持ちにもなった。だから、感謝の意を持って、上映後の映画館で大きな拍手がしたかった。だが、10数人しかいない観客が静かに椅子から立ち上がって去っていく、静寂に包まれた環境下――ちなみに観たのは4月5日(月)の夜――では恥ずかしくてとても出来なかった。そこで、手のひらの力を抜いて、聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで8回拍手したのだった。 おめでとう、そしてありがとう、エヴァンゲリオン。  追記:本作と新劇場版Qは、本来間隔を開けずに公開されるべきだった。それが実現していれば、世間の、そして僕個人のQへの観方や評価は今よりも好意的になっていたはずだ。仕方のないこととはいえ、勿体無い話だと思う。
[映画館(邦画)] 9点(2021-04-12 12:24:33)(良:1票)
8.  影の車 《ネタバレ》 
中年に差し掛かろうとするサラリーマンの男(加藤剛)が電車に乗っている。電車を降りた彼はバスに乗り換えた。帰宅中のようだ。そんな彼に同世代とおぼしき女性(岩下志麻)が声をかける。 「あのう、失礼ですけども浜島さんじゃございません? 吉田でございます」。 男は浜島幸雄といい、新宿の旅行代理店で働いている。声をかけた女は小磯泰子(旧姓吉田)。二人とも子供の頃に千倉(現・南房総市)という漁師町に住んでいて顔見知りだった。たまたま二人とも同じ路線バスを使っていたのだった。 ある日、二人は同じようにバスに乗り合わせる。泰子は一緒に降りないかと言う。泰子の主人は4年前に亡くなっており、年季の入った小さめの小磯邸には、健一という6歳の息子がいた。夕食の鍋をつつきながら、話に花が咲く。 浜島は団地で妻と二人暮らしをしている。結婚して10年経つが子供はいない。妻は家で花の教室を開いており、家の中は花だらけだ。仕事に勤しむ妻の姿やしょっちゅうやってくる生徒のため、浜島は家に安らぎが感じられず、居場所もない。 お互いのそんな環境の中、どちらからともなく、半ば自然に惹かれあう浜島と泰子。やがて男女の関係となり、浜島は小磯邸を頻繁に訪れるようになるが、健一は何かを感じ取っているようだ。そして…。  本作の魅力は大きく分けて二つある。まずは巧みな設定が、最終的な悲劇に人間の業のようなものを感じさせるところ。それから、それを成立させているキャスティングだ。ここから順を追って述べていきたいと思う。  本作の特徴は、健一が浜島に懐かないばかりか、様々な嫌がらせを仕掛け、果ては刃まで向けてしまうところと、浜島がそれを強く責められないところだ。 なぜか。それは浜島に6歳の時の思い出があるからだ。実はかつての千倉で、母親と二人暮らしだった浜島の家を訪ねてくるおじがいた。時に土産を持ちながらも頻繁に訪れていたおじは、浜島の目を盗んで母親と抱き合っており、浜島はそれを見てしまっていたのだった。ある日、おじと海釣りに行った浜島は、ナタでおじの命綱をこっそり切ってしまった。海に落ちたおじは亡くなったが、浜島の行動は気付かれず、お咎めなしだったのだった。 そんな過去を持つ浜島には健一の気持ちや行動がよく分かるのだった。それでも健一の持つ斧が自分にまっすぐ向いていた朝、命の危険を感じた浜島は、ついに健一ともみ合いになり首を絞めた。こうして警察沙汰となり、二人の不倫は知られるところとなったのだった。  いずれは妻と離婚して泰子と一緒になろうと考えながらも、健一のことで心に葛藤を持っていた浜島に対して、泰子は一直線だ。健一が浜島に懐いているものと思い込み、それを疑う浜島に「あなたの錯覚よ」と答え、さらに「私たち、そんなに罪の深いことをしてるかしら」とも言う。最終的には泰子の方が積極的となっているのだ。この二人の認識の違いが悲劇となったのであろう。 でも、浜島を攻めることは出来ない。健気で一途な泰子――しかもあの岩下志麻なのだ――と関係が切れる男などいるものか!  閑話休題。ここまで書いてきたように、幼き過去に自分の嫌悪感を犯罪という形で断ち切った主人公が、今度は因果応報というべき形で断罪されているのだ。しかも、かつてと同じように、子供の行動は周りの大人(昔は村人、今は取り調べにあたっている刑事)には理解されず顧みられもしない。かけている眼鏡を手に持ち、悔しさのあまり手で握りつぶす浜島の、言葉では表せない種々の感情。それが本作の肝であろう。  あとはキャスティングだ。加藤剛の、男前な中に同居する、どことない線の細さと頼りなさ。岩下志麻の、仕事をしっかりこなしながら生活を支えるたくましさ、落ち着きの中に同居する可愛らしさと従順さ、そして大人の色気。どちらも作品世界の成立に十分に貢献している。加藤剛の妻を演じた小川真由美のパワフルさとサバサバした強さも同様だし、そして刑事役の芦田伸介である。人生の酸いも甘いも噛み分けてきたかのような深みの中に見える、職業的な嫌らしさと強情さには、憎らしさとともに強い説得力が存在するのだ。  このように、本作の内容にキャスティングがしっかり答えているところに、本作の企画陣やキャストの力量が見える。もちろん、脚本や監督についてもしかりである。  ところで、近年のTV報道を見ていると、不倫はとにかく激しく叩かれがちだ。当事者に近しい人物にとってはとうてい許されることではないが、そこには一言では説明できない家庭環境や過去が反映されている場合もあるかもしれないし、それをするしかない人も存在するのだろう。現実の不倫を肯定するものではないが、外部の人間はそれをおもんぱかるところからも人としての深みが熟成されていくのではないか。
[DVD(邦画)] 9点(2020-11-01 19:14:27)
9.  くちづけ(1957) 《ネタバレ》 
拘置所を訪ねたある若者(川口浩)が面会手続きを行った。面会を待つ間、若者は、目の前を泣きながら走り去る若い娘(野添ひとみ)を見る。 若者の面会相手は父親だった。丁寧語で遠慮がちに話す若者に対し、父親の口ぶりは、収監されている自分自身を誇らしげに語っているかのようだ。だが、10万という(当時としては)高額な保釈金の話が出てから、父親は急に弱気になり、その工面を若者に託す。 面会後、先ほどの娘が、食堂で「収監人の食費が足りない」と言われ困っていた。それを見た若者は、これまで一面識もなかったその娘の代わりにお金を支払い去っていく。娘は、バスに乗った若者に声をかけながら後ろから乗り込み、若者の住所や名前を聞こうとする。それに答えようとしない若者は、競輪場前で急にバスから降りる。同じように降りて後をついてくる娘に、若者は「誕生日はいつなのか」と聞き、それと同じ番号の投票券を買う。券は見事に大当りし、配当金で一緒に食事をする。こうして二人の距離が近づいていくのであった…。  本作の魅力は、通俗的かつ普遍的な恋を、当時の風俗を交えながらストレートに、シンプルかつスピーディーに描き切ったところだ。以下、解説していこうと思う。  川口浩演ずる主人公・宮本欽一は大学生だ。1957年当時の大学進学率が10%程度だったことを考えれば、エリートと言っていいだろう。両親は3年前に離婚。父親は選挙犯として現在三度目の収監中だが、一方の母親は、個人で営む宝石商の成功で羽振りがいい。欽一が住む父方の一軒家にはばあやがいて、保釈金の用意までは難しそうだが、経済的にはそこそこ恵まれているようだ。それでも、両親の離婚からか、欽一はどこか屈折したところを持っている。  野添ひとみ演ずる娘は白川章子といい、母親は清瀬の結核療養所に入所中、父親は勤めていた役所の金を使い込み、欽一の父親と同じ拘置所に収監されている(療養代金のための横領とも考えられるが、その具体的説明はない)。彼女はそんな両親を支えながら、ヌードモデルで生計を立てている。天真爛漫なところがあるが、生活苦のため、普段は心のゆとりが少ない。  欽一から見た章子は、魅力的な容姿で(江の島での水着姿を見て「いい体してる」と言っている)性格も明るい。一方、章子から見た欽一は、優しさと少々の不良っぽさを持つエリートで、お金の工面までしてくれる存在だ。  互いが持つこういった魅力は、今日の恋愛や結婚の相手に求められているものと何も変わらない。男が女に求める若さと容姿、明るさ。女が男に求める優しさ、ほどほどの野性味、そして経済力。モテる男女の条件は少なくともこの頃から変わらないと分かるし、本作が通俗的であり普遍的であるのはこのためだといえる。  さらに言えば、本作は、半ば偶然に出会った男女が惹かれていくというシンプルな物語を、74分という、映画としては非常に短い時間で中だるみなしに一気に見せるため、とても見やすい。  また、物語を描くために積極的に取り入れられている当時の風俗も、今では貴重な資料となっている。  欽一と章子が入った競輪場は、今ではなくなってしまった後楽園競輪場であり、中の様子が克明に記録されている。オートバイに乗る時はヘルメットをかぶらなくて良かったし、堂々と二人乗りもできた。恐らく舗装されて年数の経っていない道路には車が少なく、広々としていたことも分かる。 江の島の海水浴場の水着ショーで、思い思いのポーズをとる女性たちにかぶりつくようにカメラのレンズを向ける男たちは、コミケでのコスプレ撮影に比べて遥かに遠慮がない。隣接したローラースケート場では、なんと水着のまま滑っている。 また、恐らく運輸支局だと思うが、電話で車のナンバーを伝えると持ち主の住所をあっさり教えてくれるところからは、当時の個人情報に対する意識がうかがえる。  最後に、スタッフとキャストの関連性について、あえて触れてみたい。本作の原作者・川口松太郎と、欽一の母親役の三益愛子は実の夫婦だ。二人の間には4人の子供がいるが、その長男が川口浩であり、野添ひとみは、当時付き合っていた川口浩が大映重役だった父親の松太郎に頼んだことによって松竹から大映に移籍し本作に出演。そしてこの二人も1960年に結婚している。 本作には川口家の関係者が多く携わっており、当時のスタッフがどのように考えていたのか、気になるところだ。
[DVD(邦画)] 8点(2020-10-31 15:32:40)
10.  幻魔大戦 《ネタバレ》 
本作は超能力を主なモチーフとして、これと相性のいいオカルティズム、そして、ある時は世紀末という言葉から連想され、またある時は世紀末と混同されながら制作当時にうっすらと膾炙していた終末論が混ぜ合わされて作られている。 上映当時はこういったモチーフが実感を伴って受け入れられたかもしれないが、それは本作をエンターテインメントから遠ざけ、怪しげなものにしてしまっている。こういった要素は企画段階で入れられたのか脚本で入れられたのかは分からないが、いずれにせよスタッフの様々な意見を取り入れすぎた感がある。こういった思想を好むスタッフがいたのだろう。  主なモチーフである超能力の描き方にも不満がある。超能力には様々な種類の力があるが、サイオニクス戦士が力を合わせて幻魔の刺客と戦うシーンにおいて、誰がどんな能力を持っていたり発揮したりしているかが分かりやすく示されず、個々の戦いぶりが印象に残らないのだ。「すごかったけど、何がどうなったかわからない」状態になってしまっている。超能力という、何でも出来てしまうモチーフを違和感なく描き切るのは難しいのだろう。 それでも、たとえば『バビル2世』のように、超能力をシンプルに分かりやすく描いて印象をきちんと残す描き方もあったし、あるいは『斉木楠雄のΨ難』のように、超能力をとことんロジカルに描き、鑑賞者に違和感や疑問を与えない描き方などが出来ていれば、本作における超能力を今以上にしっかり実感出来るはずだ。  本作には、家族愛や隣人愛など、キリスト教的な愛の定義も取り入れられている。劇中音楽として、バッハのカンタータ第140番第4曲が使われているのもこれの象徴ではないだろうか。こういった要素は悪くないが、残念ながら本作では過剰過ぎる。たとえば、サイオニクス戦士の一人・ルナを導く「宇宙意識のエネルギー生命体」のフロイは言う。「地球人には希望、愛と友情の連帯、至上至高の価値を求める心がある。(後略)」と。また、主人公・東丈の姉である三千子は、丈の超能力で電気がともり、乗り物が動く夜中の遊園地でこう言う。「丈のことならどんなことでも信じられる」「あなたを支えられるのは愛だけ」「前世から丈のことを何でも分かってる気がする。もちろん来世も」。上映当時の風潮が影響しているのかもしれないが、こういった説教臭さは、本作が目指したであろうエンターテインメントをある意味阻害するものだ。こういったテーマは、劇中で声高に唱えるものではないと思う。  何よりも本作をエンターテインメントから遠ざけている大きな要素は、あちこちに目立つ段取りの悪さだ。たとえば、丈は冒頭で彼女である淳子に振られてしまうのだが、その時の淳子の言葉は「丈のお姉さんにはかなわない」だ。この時点では先述の丈の姉・三千子は登場しているものの、具体的な性格は描かれていない。何が「かなわない」のかが分からず、我々はここでは実感が得られないのだ。のちに、ルナが丈の深層心理に入り込んだ時に、姉が丈にとって大きな存在だとはじめて説明されるが、それも具体的ではなく、ここでも我々は置いてきぼりだ。結局、我々が姉の偉大さを知るのは、彼女が死んでしまった後のこととなる。  ニューヨークを洪水と劫火に襲わせてスペクタクルを描く一方で、東京をうやむやのうちに沙漠にしてしまったのもすっきりしない。ニューヨークと東京の状況を正反対にした方が、我々のカタルシスが強く得られたに違いない。  丈の超能力が突然使えたり使えなくなったりするのにも萎えてしまう。超能力を駆使する、強くてカッコいい主人公に我々は興奮するのだ。超能力を過剰に使い過ぎてしまい調節が出来ていないから、と後半で説明はあるが、鑑賞者の心を一度興奮させたら、それを維持させる展開にすべきだと思う。  要らないシーンや冗長なシーンによってダレてしまったり眠くなってしまったりすることも多かった。たとえば、超能力が発現した丈が吉祥寺の商店街でゴミのポリバケツの蓋をフリスビーのように回転させながら飛ばすシーンや、帰宅してモーツァルトのレコードを聴きながら部屋の物を浮かせるシーンは、吉祥寺に着く前の電車内で新聞やスカートのすそを超能力で浮かせているので不要だ。 また、姉が二匹の幻魔の刺客に襲われるシーンも長すぎる。服の左肩部が破れるエロチックな演出まであるが、これも中途半端で、観ているこちらが何だか恥ずかしくなってくる。 あとは火山が噴火した後に丈が動物達と森を彷徨うシーン。生きものの大切さを描きたかったのだろうが、これも不要だ。それまで人間は容赦なく殺しておいてこれではバランスが取れない。  作画も含め、作品そのもののインパクトは認めながらも、不満ばかり書き連ねてしまった。こんなはずではなかったのに。
[DVD(邦画)] 5点(2020-09-26 01:37:08)
11.  拳銃は俺のパスポート 《ネタバレ》 
本作は非常にアニメ的な作品である。そのために敷居の高さはあるが、その一方でそのアニメ的なところが本作の大きな魅力にもなっている。まずは魅力について順番に述べていこう。  本作を観ていて最初に奇妙に思ったのは島津組の組長・島津の会社のたたずまいであった。彼は用心棒を連れて仕事に出掛けるのだが、そのオフィスはがらんとしており、他に誰もいなければ彼の机と椅子以外の物も見えないのだ。 そんなのっぺりとした空間でただ机に向かっている島津を見て僕は思った。「(これは)エヴァンゲリオンだ」と。 TV版『新世紀エヴァンゲリオン』の特徴の一つに「書かなくてもいいものはとことん書かない」ことがある。島津のオフィスもリアルに描写した方が作品としての風格は上がるだろう。だが、本筋に直接関係のないオフィスを緻密に表現しなくても物語の進行自体に支障はない。しかも、ハリボテのようなオフィスは、島津と彼を見張っている主人公の殺し屋・上村の、狙う者と狙われる者という特殊な状況を浮かび上がらせて強調する役割を果たしているとも言えるのだ。  上村のキャラクターもかなりアニメ的である。彼には過去もなければ未来もない。別の言い方をすれば、劇中で過去にも未来にも触れられず、なおかつ本作を観ている観客の興味がそれらに向ける必要のない、極めて分かりやすい設定となっている。 一切のしがらみがない状況で殺し屋として生きる上村に、宍戸錠という名優の存在感やパーソナリティーが加味されることで彼はさらに魅力を増す。特に島津を狙撃するためにライフルを構える上村には華があり、不思議な色気と独特のカッコよさにゾクゾクさせられる。余談ながら宍戸に関しては、これまで中年以降のバラエティやワイドショーでの姿しか見たことがなく、彼がスターとしてマスコミで扱われていることについて少々違和感を持っていたが、本作を観てそれが理解できた。彼はまごうことなきスターだったのだ。  アニメ的なのは、島津や彼に敵対していた大田原組に属する組員も同じだ。上村とは逆に、彼らにはキャラクターが与えられていない。上村を追い、彼を捕獲あるいは抹殺しようとする役割のみが与えられている。だから彼らの顔の区別はつかない(これは僕が日活アクション映画を殆ど見ておらず、役者に疎いからかもしれないけれど)。個性的なキャラクターとして描かれないことで、彼らはアニメの(その他大勢の)悪役のようになっているのだ。  本作の敷居の高さとなっているのは、こういった上村と組員の虚構性だ。現実世界を舞台に、現実的かつ本質的な心理を描く物語に虚構の登場人物が存在する。繰り返しになるがこれは多分にアニメ的であり、非現実的な側面がどうしても目につきやすい。そこから本作を受け付けない人も多いだろう。  ただ、本作上映当時に比べ、現在ではアニメ作品はすっかり市民権を得ている。モノクロ映画という点や、時代を感じさせる風俗に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、もしかしたら現代の方が受け入れられやすい作品なのかもしれない。  ここからは、これまでの流れとは違う、映像作品ならではの本作の魅力を書きたい。  まずは、巧みに表現されているサスペンス。たとえば、何らかの車でやって来ると分かっている上村を港で待ち受ける組関係者の前にタクシーが現れる。身構える彼らだったが、実は立小便をしにきた運転手だったシーン。モーテルに潜んでいる上村達に突然乗り物の音が聞こえ、組関係者かと身構えたがそれは新聞配達のオートバイだったシーン。ベタと言えばベタなのだが、文章では伝えられない絶妙さが、観ているこちらもドキッとさせてくれるのだ。  それから、本筋とは直接関係がないのに大胆に挿入されるカットの存在。たとえば、島津を狙撃する直前の上村のライフルのスコープに小鳥が見える。小鳥は数秒映り、しかも小鳥が首をかしげる可愛らしい仕草までとらえられているのだ。 あとは、上村と組関係者の最終決戦の直前。指定した埋立地に約束の時間よりも早めに行き、穴を掘るなどの細工を施す上村だが、傍らの砂の上に一匹のハエが止まる。それを見ている上村。次の瞬間に激しい銃撃戦が始まるのだ。 どちらのカットにも直接的な意味はない。だが、何かを感じさせてくれるのだ。それは観ている人にゆだねられる。緊迫した場面での一瞬の平和かもしれないし、手塚治虫の漫画に多く見られるギャグ的表現かもしれない。観ている人が日常生活で感じたり背負ったりしている何かを連想するかもしれない。いずれにせよ、こちらも間の絶妙さが堪能できる、映像作品でしか表現出来ない魅力であることは間違いない。
[DVD(邦画)] 7点(2020-09-22 19:21:36)
12.  女吸血鬼 《ネタバレ》 
資産家である松村家では、娘・伊都子の誕生バーティーが行われていた。時を同じくして、彼女の恋人で新聞記者の大木民夫がタクシーでパーティーに向かっていた。その道中、タクシーの前に女がフラリと歩いてきた。避けきれず轢いてしまったと思った民夫と運転手はタクシーから降りるが、そこには誰もいない。パーティーではケーキを切ろうとした伊都子が誤って手を切ってしまう。ケーキにポタポタと落ちる血を見て複雑な表情を浮かべる父・重勝と執事。しばらくして、松村家に先ほどの女が現れる。「美和子、お前は美和子!!」。女は20年前行方不明になった重勝の妻で、伊都子の母の美和子だった。年月の経過にもかかわらず、美和子は若い時のままの姿だった…。  全体がとにかくチープで、時間をかけず低予算で作られたことが見えてしまう一作。新東宝の末期を象徴する一作といえるかもしれない。  本来は、低予算ならば作品のあらゆるところを絞り込んで作るべきなのだが、逆に本作は色々な要素を取り込みすぎたために、却って安っぽさが目につくこととなってしまった。具体例を挙げていこう。  まずは設定。タイトル通り吸血鬼という題材を掘り下げてシンプルに勝負すれば良かったのに、そこに狼男、海坊主、小人、謎の老婆、そして天草四郎といった、日本で怪しげとされる東西の様々な題材が乱暴に詰め込まれている。スタッフのサービス精神の現れかもしれないが、怖いものを集めたからもっと怖いでしょ、見どころが増えたでしょ、といった作りは、鑑賞者にお約束のようなものを押し付けたような、甘えたものになっていると思う。  甘えは物語にも及ぶ。本作の吸血鬼は天草四郎その人である。島原の乱が失敗し、籠城していた天草は、一緒にいた娘・勝姫の生き血を吸った。それにより天草は死ねなくなり、乙女の血を求めるようになったという。そしていつの頃からか、島原にある岩山の地下に西洋風の巨大な住み家を作り、手下の小人や海坊主、謎の老婆と住んでいるのである。  さらに天草は20年前、重勝と九州旅行に来ていた美和子の意識を遠隔操作で操り、彼女を引き寄せた。そして何故か20年経って、年を取らなくなった美和子は、記憶のないまま東京まで戻ったのだった。  …書いていて頭が痛くなってきた。ここまでの記述から、いかに本作がいい加減に作られているかがはっきりと分かったからだ。物語に整合性がない、必然性がないし辻褄が合わない。シーンそのものに大きな意味はなく、その場限りのシチュエーションの意外さやインパクトを優先に作られているのだ。  さらに、撮影に関しても手軽に済ませてしまっているのが分かってしまう。その最たるものが、人間と妖怪の最終決戦(?)のシーンだ。この場面は、先述の島原にある岩山の地下が舞台なのだが、何とその山には雪が積もっている。明らかにロケ地が九州ではないのだ。しかもカットが変わると雪の量が増えたり戻ったりする。おそらく天候の恢復を待てずに、関東近郊の山で撮影したのだろう。カットつなぎに矛盾が出るのを承知の上で。 そういえば本作では、これ以前のシーンでも、人物の吐く息がはっきりと白く見えるカットがある。やはり冬場の撮影だったのだろう。 ちなみに本作の公開日は、ウィキペディアでは1959年3月7日とあるが、手元にあるDVDの作品解説には1959年7月公開とある。どちらが正しいかは分からないが、いずれにせよ、スケジュールを考えれば冬に撮影されたのは間違いないだろう。  と、ここまで本作の色々な齟齬を挙げてきたが、題材が題材なので、お化け屋敷感覚で観れば結構楽しめるかもしれない。たとえば、吸血鬼役の天知茂から醸し出される妖しさやダンディズムは魅力的だし、小人の和久井勉が画面で動き回る姿には、作劇上大きな必然性がなくても、インパクトだけは十分にある。差別の温床になるからといった良識によって、現在ではメディアで小人の姿を見ることは殆どなくなってしまったことを考えると、本作は貴重な作品なのかもしれない。  インパクトという意味では、美和子を演ずる三原葉子の魅力も挙げなければならない。豊満な肉体と婀娜っぽい雰囲気を持ち合わせる彼女の存在そのものが、本作の持つ淫靡な雰囲気を生み出している。天知演ずる吸血鬼に燈台の底部でいたぶられてあえぐシーン、絵のモデルとしてセミヌードで横たわるシーン、そして、下着にハイヒールという格好で吸血鬼の手によって蝋人形にされた姿、どれもかなりエロチックで、本作の大きな見どころとなっているのは間違いない。  本作への結論。映画としてみると破綻だらけで、作品としての評価はかなり厳しい。だが、公には口にしにくい、いわばアングラな魅力は確かに存在する。カルトムービーと位置付けるのが妥当だろう。
[DVD(邦画)] 4点(2020-09-15 00:26:23)(良:1票)
13.  用心棒 《ネタバレ》 
ある宿場町に立ち寄った浪人風の男。そこは絹を主な産業とする町だったが、博打打の跡目争いですっかりすさんでしまっていた。番太も仕事を放棄して彼らにおもねる始末だ。そんな中、その男はふらりと入った居酒屋で町のあらましを聞き「気に入った」。彼らを除するつもりのようだが、その方法とは…。  ここで唐突な話だが、僕が本作にいだく印象は『風の谷のナウシカ』(以後『ナウシカ』)によく似ている。どちらもレイアウトに力があるし、心躍るカットも多い。良く出来た作品と認めることに異存はないのだが、好きな作品とはならず、心にモヤモヤが残るのだ。  今回、この感情を何故かと考えた末に分かったのは、どちらも評判や評価の高さを先に知り、そこで述べられる具体的な表現――たとえば『ナウシカ』は「感動の超大作」、本作は「黒澤監督がのびのび撮った痛快娯楽作品」――と、実際に僕自身が観た後に持った感想が大きく乖離していることだ。  今と比べれば人格形成が未熟だった若い時に、なまじ分かりやすく、ともすれば誇大な宣伝文句や評判を先に聞いてしまったためにそれが刷り込まれてしまい、同じ感想を持てない自分とのギャップに悩んでしまうのだ。  言ってみれば、まるで隣のクラスに転校してきた優等生のようなもので、「あいつはすごい奴」と多くの口から先に評判を聞き、実際に勉強も運動も出来るのも知ったが、その大まかな評判と本人から持った印象に何とも言えないズレがあるため素直にすごいと認められず、自分とは縁のない存在に思えてしまう、そんな印象なのだ。  『ナウシカ』の話題はここまでとしておこう。世間の評価とは違う、僕が本作で評価したい点は、作品の緻密な構造である。具体例は省略するが、これは、娯楽と言う言葉とは相反するものだ。 三船敏郎というどっしりしたキャストが中心にいるため、大きな存在感を持つ主人公が自由自在に大活躍をするという印象を持つ(あるいは持たせようとする)ケースが多い気がするが、実際は正反対と考える方が個人的には腑に落ちるのだ。  ただ、この作品が厄介なのは――こういう言葉を使ってしまうところに僕自身の奇妙なこだわりがあることは承知しているが――三船演ずる桑畑三十郎の人間性や、東野英治郎演ずる居酒屋の権爺や加東大介演ずる亥之吉の人間味、所々に挟み込まれるユーモア、クライマックスの高揚感といった、分かりやすく、抗えない魅力が本作に横溢していることだ。こういった要素が本作を類型的に称賛することに貢献していると思うし、それには同意せざるを得ない。  様式的な称賛がきっかけとなった本作との出会いは、僕にとっては不幸であった。意外にもずいぶんいびつな感想となってしまったが、本投稿を読まれた方のうちのほんのわずかな方が何かを思ってくださるのを祈るばかりである。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2020-09-06 18:14:11)(良:1票)
14.  風花(1959) 《ネタバレ》 
一面に広がる田圃と遠くに見える山々の稜線が美しい信州・善光寺平(長野盆地)。ある屋敷から一人の花嫁が現れた。外には大勢の見送りがおり、離れた場所には立派な自動車が停まっている。 時を同じくして、屋敷から一人の若者が飛び出した。「捨雄!」。後を追う女性。捨雄は川で自殺しようとする。それを止めた女性は彼の母・春子だった。ここから話は19年前の戦時中に遡る…。  本作は、戦時中から戦後10数年後までの名倉家とそこに渦巻く人間模様を描く作品だ。戦時中、地主だった名倉家には若い息子が二人いた。長男・勝之は名家から嫁・たつ子をもらっており、その間には小さな娘のさくらがいる。次男は召集前日に恋人の春子と心中。次男は死に、春子だけが生き残った。そんな彼女のお腹には次男との間の子供がいた。春子は半ば隔離された状態で名倉家に住み、男の子を産む。春子は英一と名付けようとしたが、主の強之進が勝手に捨雄と名付けた上に届け出てしまった。踊りを教わるなどして大事に育てられるさくらに対して、捨雄は春子と共に厄介者として扱われる。それでもいとこ同士のさくらと捨雄は仲良しだった。  戦前は地主として裕福な名倉家だったが、戦後の農地改革で土地の殆どを失い、没落していく。 たつ子の実家からお金の工面してもらおうという話の中、癇癪を起こした強之進は倒れて死ぬ。母・トミは地主時代のプライドが捨てられず、古風な考えに固執し、家族の自由を許さない。女学生となったさくらの、男子学生を含むグループとの付き合いも禁ずる。一方で、没落した名倉家にはさくらの婿のきてもなく、跡取りが望めない。物語はこんな名倉家の悲劇とそこから垣間見える滑稽さを描きながら進んでいく。ここで言う悲劇とは、没落したとはいえ、ある程度の土地と建物を所有する一家が、それゆえに土地に縛られ、家に縛られる中、徐々に衰え、腐っていく過程である。  家から出たいと考えるさくらに、ついに結婚の話がやってくる。嫁にもらいたいという話で、さくらは望み通り家から出られることとなった。そして、それまで悪役然としていたトミが「これでやっと楽になる」と、名倉家を守る者としての責任からの解放を口にする。  ある日、さくらのところに女学生時代の友人・乾幸子が訪ねてくる。女学生時代のグループの一人だった幸子は昔話を始める。やがて「あなたは何も経験していない。私は色々経験している(大意)」。これまで謳歌した自由や、絵描きとの結婚への自慢じみた話に移行するが、最後に5,000円を貸してほしいと頼む。ここで監督は自由な生き方をことさら誇示する若者も揶揄したかったのだろうか。いきなり余談だが、丁度この時代が青春だった女性で、年を重ねた今も幸子のような慇懃無礼な話し方をする人がいる。あの話し方は、この時代の若者言葉だったのかもしれない。  ある日、大勢の前で踊りを披露するさくら(披露会?)。それを見た捨雄は「綺麗だ」と手紙を書く。捨雄はさくらに手紙を渡すつもりはなかったが、春子がお別れだからとそれを渡す。自分に対する捨雄の恋に気付くさくら。そして自分も捨雄が好きだったことを自覚する。結婚前夜に外で密会する二人。「これっきりよ」。二人は堅く抱き合う。 結婚当日。ここで冒頭シーンに戻る。さくらが嫁に行き、正式な跡継ぎがいなくなった名倉家。春子と捨雄は自由を求めるために家を出て、東京を目指すのであった…。  こうしてあらすじを辿っていくと、本作は運命に翻弄される一家を描き出したなかなかの力作と言える。映画としては比較的短い、78分という時間でこれだけのことを描き切ったのにも驚く。 だが、観た後の不思議な感慨は、本作の物語がようやく把握出来た中盤以降に芽生え始めた感情だ。正直、それまでは何をしているのかがさっぱり分からず、開始20分ほどで一度視聴を中断している。なぜ分からないのか。実は本作はやたらと回想が多く、「19年前」以外はテロップがない上にナレーションもないからだ。文字や言葉による説明の不在は、確かに本作にじんわりとした味わいを残してくれた。それでも、もう少し分かりやすい構成でも良かったのではないか。それとも、上映された昭和34年当時は、名倉家のような状況が鑑賞者の共通認識で、説明の必要がなかったのだろうか。  もしかしたら、僕自身が地主の悲劇という視点の物語を観たのはこれが初めてかもしれない。これまで考えなかった視点だが、当時はかつて小作人だった者たちが本作を観て溜飲を下げたり、いい気味だと思ったりしたのだろうか。  鬱屈とした内容を反映してか、豪華キャストだったにもかかわらず、作品自体を輝かせて引っ張る俳優・女優が存在しなかったのは残念だったが、これは仕方のないことかもしれない。
[DVD(邦画)] 7点(2020-09-04 17:02:44)
15.  東京おにぎり娘 《ネタバレ》 
主人公の直江まり子(若尾文子)は、自宅でテーラー直江を営む父・鶴吉(二代目中村鴈治郎)と弟の三人暮らし。テーラーは新橋の裏口から歩いて2~3分という好立地にあるのだが、鶴吉の頑固さのためか、客はさっぱり来ない。 まり子は新宿で料理屋を営む鶴吉の妹のところへ時々手伝いに行く。妹と直江家族の関係は良好だ。 まり子には、劇場に勤める五郎(川口浩)という幼馴染がおり、今でも二人で食事をするほどの仲だ。鶴吉の妹や五郎の家族も彼らの結婚を望み、まり子には「五郎がアツアツ」、五郎には「まり子がアツアツ」と互いに吹き込む。だが、彼らは「立ち合いが合わない」と結婚に踏み込もうとしない。 新宿を歩いていたまり子は、車に乗る村田幸吉(川崎敬三)に声をかけられる。村田はかつて鶴吉の下で修業していたのだが、鶴吉の機嫌を損ねて追い出されていた。そんな彼が、今は自ら「テーラー村田」を開き、成功していたのだった。 商売を立て直そうと、まり子はテーラー直江を改装、鶴吉の仕事場を二階に残し、「おにぎりの店 直江」を開店する。近所の三平(ジェリー藤尾)に手伝ってもらい、おにぎり屋は大繁盛。久々に店を覗いた、かつての鶴吉の常連客・田代社長(伊藤雄之助)は、成長したまり子の美しさを見てお近づきになろうと、鶴吉に服作りを依頼する。 ある日、鶴吉はみどり(叶順子)という若いダンサーを五郎から紹介される。彼女は鶴吉とその愛人だった芸者との間に出来た子供だった。五郎の仲介でみどりとの再会を果たす鶴吉。始めはギクシャクしながらもお互いに積もる気持ちを伝え、みどりは涙を流す。 五郎との外食中、まり子は「結婚してほしい」とプロポーズをする。だが、五郎はそれを断る。五郎はみどりが好きだったのだ。みどりとの結婚を鶴吉に認めてもらうと五郎は話す。 鶴吉に内緒にしていたが、おにぎり屋の改装費を出してくれたのは村田だった。まり子は村田と食事し、そこで村田に迫られるがまり子は拒絶する。お詫びをする村田。鶴吉と村田は仲直りし、まり子は村田と神社に参拝するのであった。  なぜあらすじを細かく書いたのかというと、本作のプロット及びそこに関連する登場人物の関係性の複雑さが本作の魅力の一つだからだ。脚本段階でプロットが練り込まれた作品なのだろう。  本作が制作された昭和36年当時の東京の風景や風俗がカラーでみずみずしく映し出され、描かれているのも本書の魅力の一つだ。 人の手のぬくもりが感じられる建物や看板、レトロな魅力を持つ自動車(当時はかなり高価で珍しかったはずだ)、着物と洋服が混在した人々の服装などは観ているだけでタイムトラベルをしているようで楽しい。 当時の風俗に関しても同様だ。月賦で買い物をした店の店員が集金にやってくる(そしてそれから逃げたり、難癖をつけて支払いを引き延ばそうとする)ところや、そこでけっこう乱暴な言葉のやり取りがなされているところ。おにぎり屋の営業中にまり子の手を握ってしまう田代社長や、それをあっさりといなすまり子。おにぎり屋に入ってきた乱暴な酔っ払いを暴力で追い出す三平。そして、腹違いの妹の存在を打ち明けられても驚きの少ないまり子から隔世の感と同時に、いつの間にか忘れてしまったかつての日本が見えるのだ。  そこで生き生きと飛び回る若尾文子もすこぶる魅力的だ。古風だがはっきりした顔立ちに、豊かな胸とキュッと締まった腰回りは、ひたすら婀娜っぽく美しい。  では本作が映画として魅力的かというと、残念ながらノーだ。何故かと言うと、観ていてワクワクしないからだ。  具体的に言えば、作品全体があっさりし過ぎている。プロットは複雑なのだが、そこに対立がない。状況がスムーズに運び過ぎるのだ。たとえば鶴吉の頑固さは描かれるが、破天荒には程遠い。結局はまり子の思うままだし、みどりに対する態度も頑固さゆえの深みが感じられないのだ。もしかしたらこれは、頑固親父が荒っぽく立ち振る舞えた時代ではなくなっていたからなのかもしれない。  あとこれは僕の完全な主観なのだが、まり子よりもみどりを選んだ五郎が分からない。叶には悪いが、どうみても若尾の方が魅力的なのだ。 制作陣は、脚本の段階では「意外で面白い」と思ったのかもしれない。だが、撮影を経ると映画には別の側面と言うか、俳優や女優という新たな要素が加わるのだ。今回ほどそれを強く意識したのは初めてで、そこにはもちろん、映像や音声をフィルムに定着させて完成させる監督の力量も大きく影響するだろう。  本作の結論。脚本はなかなか練り上げられているが、撮影以後で作品にさらなる魅力を付加出来なかったようだ(もちろん若尾の魅力は横溢している!)。残念ながら凡作と言ってしまっていいだろう。
[DVD(邦画)] 5点(2020-08-31 03:01:56)
16.  愛人/ラマン 《ネタバレ》 
1929年の仏領インドシナ。家から寄宿舎に向かうため、15歳半の少女が貨物船に乗っていた。彼女は母親と二人の兄の四人で暮らしている。長兄が乱暴で素行が悪く、家族の悩みの種となっており、家庭内の雰囲気も良くない。 自らが選んだ男物の帽子をかぶり、物憂げな表情でデッキに立つ少女のそばに黒いリムジンが停まっている。その中から少女を見つめる男がいた。車から出た男は、少女にタバコを勧める。華僑の金持ちの息子と名乗るその手は震えていて、落ち着かない様子だ。「寄宿舎まで車で送る」という男の申し出を少女は受ける。道中では、男は少しずつ少女の手に触れ、握る。少女もそれに応えるように握り返す。 次の日、少女が寄宿舎から学校へ行こうと門を出ると、昨日の黒いリムジンが停まっていた。中の男を見た少女は、閉まっている後部座席の窓にキスをする。 学校の帰り、待っていた男の車に乗り込む少女。車はチョロン地区と呼ばれる中華街へ。外の喧騒が聞こえる広い部屋に通された少女。男はここを愛人と会う部屋と説明するが、「私は怖い」とも言う。少女は「ただ抱いてほしい」。二人はそっと、やがて激しく交わるのだった…。  本作で感心するのは、少女の心理を巧みに描き出しているところだ。  男の愛人となった少女。彼女はセックスを反乱とする。まるで、阿片に溺れて家庭内を殺伐とさせる長兄を大事にする母親や、長兄自身に対するあてつけのように、自らの体を傷つけながら肉体的な快楽をむさぼり、金銭を得る。セックスに対するこういった感情は女性特有のものであると思われる。実際、世の中にも同じように考えて行動する女性も少なくなさそうだ。  愛人生活の中、いや、もしかしたらそれより前、初めて男と出会った時からの、男に対する少女の不安定で揺れ動くような恋心や愛情があちこちのシーンから感じられるところも本作に深みを与えている。 彼女がフランスに帰ることになり、男と別れる段階になってからようやく男への複雑な愛と、それが成就しない悲しみを自覚し始めるところも若干ドラマ的ではあるが、決して悪くない。  一方、男の描写は、少女のそれに比べるとソフトな――あえて強く言えば浮世離れした――描かれ方がされているように感じる。 緊張しながらも少女と愛人関係を結んだ男。頻繁にセックスする二人だが、そのプレイはどこか緩慢に見える。 父親の決めた相手との結婚をすることになった後、自らの欲望や気持ちを優先せず、少女の気持ちを考えるようになってしまうと、「僕を愛していない君は抱けない」と心を閉ざしていき、やがて性欲も消える。 少女の長兄が阿片でかかえた借金と渡航費を負担する。盛大な結婚式が終わり、少女が乗ったフランス行きの客船を黒いリムジンの中から(少女が見つけてくれるとは限らないのに)見送る。 こういった男の描写は、女性が好む、女性向きの描写のように思えてしまう。 原作が、フランスの女性作家による自伝的小説であることも大きく関係しているのであろう。本作のターゲットは女性なのではないか。  僕の結論。本作は女性向けである。男性側から考えると、女性の心理を知ることができる映画であり、女性と観ると盛り上がれる映画であるかもしれない。だが、心から楽しめる映画とは言えない。
[ブルーレイ(字幕)] 6点(2020-06-12 16:58:19)
17.  越前竹人形 《ネタバレ》 
昭和初期の越前の山奥。雪がそぼ降る冬のある日、亡くなった父親の跡を継いで竹細工で生計を立てていた喜助の元に、美しい女性が訪ねてきた。芦原から来た女性は玉枝と名乗り、父親の墓参りに来たと言う。敬虔に墓参りをする玉枝に惹かれた喜助は、その後、芦原に玉枝を訪ねる。玉枝は遊女だった。喜助の父親が玉枝の馴染み客だったので墓参りに行ったと言う。玉枝のいる遊郭に何度か訪ねるなか、身請けがあるかもしれないと聞いた喜助は、150円もの大金を玉枝に渡し「結婚してほしい」と言う。喜助の願いは叶い、ある日、嫁入り道具とともに喜助のところに来た玉枝。二人の新婚生活が始まるが、喜助は仕事に打ち込むばかりで、玉枝と同衾しようとしなかった…。  本作の魅力は、二人の繊細な気持ちのすれ違いと、それが生む悲劇を見事に描き出したところだ。  喜助が玉枝と同衾しようとしない理由は、彼の父親がかつて玉枝と同衾したと思うことからの複雑な感情だった。精神的には心から玉枝が好きでも、肉体的に愛することに抵抗があったのだ(劇中で、なぜ一緒に寝ないのかと聞く玉枝に「(玉枝が)母親に似てるから」と答えるところからマザーコンプレックスとする解説もあるが、僕はこの説を採らない)。 結婚後しばらくして、ひとり留守番していた玉枝のもとに、喜助の作った竹人形の取引のため、京都の人形店の番頭・忠平が訪ねる。忠平は玉枝の昔の馴染み客だった。酒をふるまわれていた忠平は、とつぜん玉枝に迫る。かつての馴染み客だったからか、取引先という弱みか、あるいは喜助に抱かれず体がうずいていたのか、玉枝は忠平に抱かれてしまう。  そんなことはつゆ知らず、玉枝への複雑な気持ちから精神的に荒れていく喜助だったが、かつての玉枝の遊郭で同僚だったお光から「父親は玉枝と一度も寝ていない」と聞く。憑き物が落ちたように晴れ晴れとした表情で玉枝に迎えられた喜助。ようやく玉枝を抱こうと思ったが、玉枝が突然吐き気を催す。玉枝は忠平の子を宿していたのだった。  最終的に玉枝が亡くなるところまで、ただただ幸せに生きたかった二人に訪れる運命のいたずらに、観ているこちらの心は痛みながらも、緻密に描かれた本作の構成に感心するのである。  華のあるキャスティングも本作の魅力だ。玉枝を演じる若尾文子の、親しみやすさのなかにある妖艶さはもちろんだが、忠平役の西村晃の、男の嫌らしさを体現した姿、お光役の中村玉緒の人の良い親しみやすさ、さらに、ラスト近くで登場する船頭役の二代目中村鴈治郎の、年配の男が持つぶっきらぼうな優しさとその存在感(ちなみに玉緒と鴈治郎は親子共演だ)。  そして、彼らを映し出す映像の美しさ。特に冒頭の墓参りの雪景色は絶品だ。宮川一夫の撮影の力だろう。  決して超大作ではないが、郷愁を誘う美しい風景のもとで描かれる悲劇。喜助の葛藤に同意出来かねる者もいると思われるが、ドラマを効果的に描くために必要な装置だったと僕は思いたい。
[DVD(邦画)] 8点(2020-06-11 16:57:16)
18.  祭りの準備 《ネタバレ》 
昭和30年代初め、主人公・楯男が住む高知の田舎町は、人々が肩を寄せ合うように生きる、極めて濃厚な人間関係が充満する町だった。治安も性的モラルも高いとは言えず、シナリオライターを夢見る楯男にとっては何もない町に見える。  父親・清馬は近所の恋人の家に入り浸り帰ってこない。そんな父親との関係をあきらめた寂しさからか、その寂しさの代償行為としてか、母親・ときよの愛情は楯男に向かっていく。その愛情は、楯男には少しずつ重荷になっていく。  信用金庫の仕事には生きがいを見いだせず、木曜会と呼ばれるうたごえ運動で出会う涼子(竹下景子)に心を寄せても受け入れてもらえない。楯男は、まるで吹き溜まりのような町から、また、現状から逃げ出したいと考えている。  そんな中、大阪のキャバレーで働いていた近所の幼なじみ・タマミが戻ってきた。ヒロポンの打ち過ぎでタマミは頭がおかしくなっていた。性に奔放なタマミは、夜の浜で毎晩、楯男の知り合いも含めた若い男と寝ていた。楯男もある夜、タマミのところを訪れるのだが…。  今回の再観で驚いたのは、48歳の僕が、二十歳そこそこの主人公・楯男に感情移入していたことだ。  まずは仕事という観点から考えてみよう。シナリオライターを仕事にするには、当時ならば上京する道しかなかっただろう。映画会社の近郊に住みながら、そして、映画関係者と連携を取りながら勉強を重ねていくことが必要だったと思われるからだ。  次は環境面から考えてみたい。これはあらすじから容易に導き出せる。どちらかと言えばおとなしいタイプの楯男は、町の若者からは浮いた存在だ。政治への関心は薄いようなので、木曜会メンバーと気が合うわけでもなさそうだ。涼子とも深い仲になれそうもない。それどころか、涼子は、都会から来たオルグの青年に惹かれてしまったようだ。家庭も居心地がいいとは言えない。結局、楯男は孤独なのだ。地元を離れることへの抵抗は少なかっただろう。  楯男の場合は、将来の夢と現状から逃避したい気持ちが一致して、上京という行動を起こさせたのだろう。こうやって考えてみると、上京したいという楯男の気持ちは、環境と感情に裏打ちされたものといえる。これなら世代に関係なく感情移入できるかもしれない。  ところで、今回は楯男だけでなく、楯男の祖父・茂義にも感情移入してしまった。これは僕の年齢とも関係が深いように思われる。  頭がおかしくなったタマミはどんな男も受け入れる。関係を持った多くの男の中、茂義は心からタマミに惚れ、愛して可愛がる。周りは「いい齢をして」と眉を顰めるが、誰の子を孕んだか分からないタマミの面倒を、新たな生きがいを発見したかのように見るのだ。女としてのプリミティブな魅力を持つ、若いタマミが明るく振る舞えば、年配の男はいちころであろう。中年となった僕には、その気持ちがよく分かってしまうのだ、ちょっぴり悲しいけれど。  一人で映画『南国土佐を後にして』を観た後(分かりやすい象徴的なタイトルだ)、楯男は涼子に声をかけられる。ダンスホールへ行った後、二人は宿泊する。オルグの青年と寝たと告白する涼子は、その傷を埋めるように楯男を求める。据え膳を食う形となった楯男だが、以前のような、涼子に対する情熱はない。宿直先にも夜這いに来る涼子。清純で聡明なはずの彼女も、欲と本能に流される人間だったのだ。宿直室が火事になってしまい、涼子が来ていたことが信用金庫の上司に知られてしまい、叱責される。これで楯男は、涼子への気持ちを無くしてしまったのだった。上京の動機へのダメ押しが成されたのだ。  ある朝、普段通りに家を出る楯男。飼っていたメジロを逃がし、あらかじめ隠しておいた荷物を持ってそのまま東京を目指すため駅へ向かう。駅にはタマミの兄・利広(原田芳雄)がいた。強盗殺人を犯し逃亡中だったのだ。利広は楯男に金をせびるが、楯男がこれから上京すると知り金を返す。利広に駅のホームで見送られ、楯男は上京への一歩を踏み出す。「バンザーイ」と見送った利広だけが、結局、楯男の上京を祝福してくれたのだった。  書いていて、目頭が熱くなってしまった。利広は、素行が乱暴で兄嫁にも手を付ける、どうしようもない男だが、最後に、本作を観ているこちら側は、彼を憎めない奴、いい奴だと感じてしまうのだ。この人物観の逆転もこの作品の魅力なのだろう。  最後に、ここまでの感想からこぼれ落ちてしまった本作の印象を書いておきたい。本作は男の世界だ。下品で猥雑、そして田舎の共同体の濃密な空気が充満した雰囲気。苦手な人もいるかもしれないが、僕はそこが大好きだし、何とも言えない心地良さも感じる。もしかしたら観る人を選ぶ作品かもしれないが、普遍的な青春を描いた傑作映画だと僕は思う。
[DVD(邦画)] 10点(2020-06-09 13:01:37)(良:2票)
19.  切腹 《ネタバレ》 
およそ25年ぶりに再観。と言っても内容は全く覚えておらず、当時から知っていた本作の高い評価に半ば引きずられたように「面白かった」「いいものを観た」という感想のみが残った。 いつか再び観たいと思いながら長い時間が経ってしまった。観た当時はまだ大学生で、社会に背を向けて生きる、極めて未熟な人間だった。あの頃と今で、いだく感想は変わるのだろうか、少しは深みのあるものになるのだろうか。そう思いながらじっくりと観た。  武家屋敷を訪ね、生活の苦しさから庭先を借りて切腹したいと申し出る浪人が多数現れた天下泰平の徳川将軍時代、江戸時代。こういった浪人たちは、その覚悟に感心した武家に召し抱えられること、あるいはそこまででなくとも、彼らにわずらわしさを感じた武士から金を与えられて帰されることを狙っていた。要するに一種のたかりをしていたのだった。そんな折、津雲半四郎と名乗る、やや齢を重ねた浪人が井伊家の江戸屋敷を訪ねてきた。庭先で切腹をしたいと言う半四郎に、井伊家の家老である斎藤勘解由は、先日、同じ用件で訪ねてきた千々岩求女という若い浪人の話を始めるのだった…。  ゆっくりしたカメラワークと、やや引き気味の優美なアングルによって、冒頭シーンから緊張感がみなぎる。それは、井伊家の屋敷の広さと豪華さ、そこに流れる厳粛な空気も見事に伝えてくれる。 仲代達矢の堂々とした迫力。三國連太郎の気弱で神経質、時には虚勢も感じられる言動。丹波哲郎の意地の悪さと強さ、若干感じられる狂気。出番は少ないが、小林昭二や井川比佐志なども含めた豪華キャストのもたらす存在感と重厚な演技。彼らの「静」からにじみ出る雰囲気も、画面に緊張感と迫力を生み出す。  持っていた竹光で切腹せざるを得なくなった求女。なかなか腹が切れないその切腹シーンは求女側から見れば哀れそのものだが、勘解由たち井伊家の武士側から、あるいは我々映画を観ている側から見ると、厳粛さの中に残酷さ、そして何とも言えない美学のようなものさえ感じられ、片時も目が離せない。まるで一種のショーを見るがごときシーンに仕上がっており、二重構造で作品を見せられているような、奇妙な気持ちにさせられる。 本作の上映は1962年。戦後からはそれなりの時間が経っているが、今よりも死が身近にあった時代だったのでは、そうも考えた。  岩下志麻も素晴らしい。登場当初の存在感は薄めだったが、求女との結婚後のお歯黒(!)、そして求女の亡骸と対面した時のわずかな戸惑いと激しい涕泣。僕も目頭が熱くなってしまった。 困窮した浪人はひたすらみじめだ。金を失い、物を失い、家族を失った半四郎を見ていると、もしも僕自身が経済的弱者になったらどうなるだろうと考えてしまい、胸が痛む。 剣劇シーンの静かな迫力も印象に残る。特に切り合う前のポーズが美しい。ただ、刀と刀を合わせるシーンは堂々としておらず、むしろ若干の怯えのようなものが見えたが、これはリアル感を狙ったのだろうか。 浪人の困窮を告発した半四郎は勘解由に一矢報いるが、最後は大立ち回りの末、惨めに死んでいくのであった。  脚本はさすがだ。それぞれの登場人物の言動が簡潔に、武士のイメージ通りに描かれていて、心情の吐露が多くないのに、各々の心のありようがうっすらと伝わってくるのだ。この「うっすらと」が人間らしさを表現しているように思える。武家屋敷内に横溢する大人の世界独特の嫌らしさも、脚本の力が見せてくれているのだろう。  ところで、観終えた今は、25年前と比べると作品との向かい方も観方も、人生を重ねただけ深くなったと思う。大げさな言い方を承知で言えば、生きているうちに観て良かった。同時に、この作品は年配者にも観てほしいと思った。もしも時代劇を○○○○のような予定調和的作品ばかりだと思っているとしたら勿体無い。それはそれで悪くないかもしれないが、かつてはこんな時代劇もあったのだと知ってほしい。  最後に一言。冒頭1分ほど観た時点で声が若干聞き取りにくく、難しい言葉があったので、字幕再生に切り換えて全編を観た。「照覧」「赤備え」「骨柄」など、その後も聞き慣れない言葉が頻出、字面を見たことでそれなりに意味がとらえられたはずだ。字幕が表示できるディスクで観て良かったと心から思った。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2020-06-06 04:04:58)
20.  未来のミライ 《ネタバレ》 
本作公開の頃、その評判は良いとは言えなかった。主人公くんちゃんの可愛げのなさと、今後の細田作品における脚本家の必要性が幾人もの批評者から指摘されていたと思う。そしてアニメーションから心が離れ始めていた自分自身の事情と、上記の評価のため食指が動かず、結局、劇場へは足を運ばなかった。  今回ようやく視聴したのは、昨年TV放送されたものの録画だ。  大まかに言えば、本作は、意外な来訪者――女子高生(?)に成長した、未来の未来ちゃん――などの関与によって、4歳の主人公”くんちゃん”がそれまでの小さくてどこかぎこちない日常から、大きな世界を見ることで、自身が成長する物語なのだろう。  中盤で、くんちゃんが若かりし頃のひいじいじとバイクで疾走するシーンは、戦後当時を彷彿とさせる映像的解放感が出ていて良かった。また、終盤、成長した未来ちゃんとくんちゃんが空を軽やかに飛翔しながら、様々な時代や別世界を観望するシーンには映像的快感があった。クライマックスとしての盛り上がりは確かに感じた。  こういったいいシーンもあるのだが、残念ながら、本作には大きな欠点がある。こういったヤマ場へ行くまでの段取りが非常に悪いことだ。ヤマ場にたどり着くまでの精神的苦痛が大きすぎるのである。それはキャラクターへの嫌悪感と不自然感によるものだ。  主人公くんちゃんは4歳ということで、それらしいわがままさが描かれているのだが、その描写がエキセントリック過ぎるのだ。 まずは、生後、新しく家に来た妹の赤ちゃん、未来ちゃんに嫉妬してちょっかいをかけるのは分からないではないが、嫉妬が強すぎておもちゃを投げようとするのはやり過ぎだ。いくらアニメとはいえ、赤ちゃんというデリケートな存在を壊そうとする、観ているこちらの心の奥底をドキッとさせる描写はいかがなものだろうか。 未来ちゃんの方を大事にし、自分を中心に見てくれない両親に「嫌い!」「嫌い!」と、やたらネガティブな言葉をぶつけるのもリアルかもしれない。だが、それも必要以上に繰り返されると、観ているこちらはイライラしてくる。気分が悪くなってくるのだ。顔を赤くして大声で泣きわめく描写も不快だ。 監督は子供をわがままなものと捉えているのだろうし、わがままな部分以外の、日常での子供の存在そのものを可愛さとして感じているのかもしれない。それでも、僕にとっては描写が辛口過ぎた。僕はもう少し甘めのさじ加減が好きだ。本作でも自転車の練習をするくんちゃんにアドバイスしたり、自転車に乗れるようになったくんちゃんに遊ぼうと言ってくれた子供がいたが、あれくらいの(リアルではないかもしれない)優しさがくんちゃんにも欲しかったし、自分ではいかがなものかと思いながらも、ここが本作で最も心が和むシーンとなった。  くんちゃんの不自然感も気になった。まずは声。先ほど書いた自転車のシーンの子供の声の方がよっぽどリアルで心地良かったし、キャスティングに何かしらの裏事情まで感じてしまった。それから「さびしかったよ~」などの、自身の気持ちを端的に分かりやすく発した言葉の数々。いずれも大人びていて、とても4歳には思えない。子供の感情って、一言では言い表せない、もっとモヤモヤしたものなのではないだろうか。  両親の描写も好きになれない。やたら自己主張が強い母親と、気弱で芯の通っていない父親。恋愛結婚のようだし、結婚して数年経っているはずだが、それにしてはよそよそしいし会話にトゲがある。育児が大変だから母親がツンツンしているとこちらに感じてほしいのかもしれないが、そういった描写の少なさからとてもそうは思えない。二人の精神的距離が離れているように感じられる。 終盤に描かれる両親の成長も、日常生活の一つと捉えればリアルかもしれないが、本作が映像作品ということから考えると、くんちゃんの体験や成長とリンクしていないのは不満だ。  ところで考えてみると、くんちゃんのわがままで大人びた描写というのは、中学生くらいの視聴者にとっては憧れなのではないだろうか。言いたいことが言えるし、それに自覚的でいられる快感が伴うのだ。 今や世界的に注目される細田監督作品としては寂しいが、本作のメインターゲットは中学生くらいまでなのかもしれない。 もう少しターゲットを広く、そして上に引き上げる作品作りをした方がいいのではないか。それには、物語を紡げると同時に、作品を客観視できる脚本家の存在は必須であろう。  アニメーション映像作家としての細田監督のセンスと実力に敬意を表しながらも、今回は、その素晴らしさゆえに甘めの評価をした前作『バケモノの子』よりは辛口の点数とする。
[地上波(邦画)] 4点(2020-05-17 16:58:20)(良:1票)
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