賽=才は、投げられた。
映画とは、四角い枠(フレーム)の中に何者かによって構築されたひとつの世界であると考えるならば、熱帯魚を飼うための水槽もまた何者かによって構築されたひとつの世界である。そこに突如投げ込まれる「異物」。映画の中では、それは食べかけのアイスクリームが入った四角い大きなパックだったが、この映画自体に投げ込まれた「異物」とは果たして何であったのだろうか?
円環とは、無数の点(ノード)による完璧な面(ポリゴン)だとするならば、三角形とは、一点を失っただけで、たちまち二次元的世界を崩壊させてしまう最も危うい面だ。
したがって、映画という二次元的世界において、恋の三角関係を描くことは、常に面の崩壊、つまりは「せかいのおわり」を描くことを意味していたと解釈しても差し支えないだろう。例を挙げるならば、トリュフォーの『突然炎のごとく』や『恋のエチュード』、相米の『雪の断章 情熱』、ルビッチの『天使』などなど枚挙にいとまがない。
ところが、本作は、恋を主題にしながら、三角関係を描こうとはしない。むしろ登場人物たちの基本は四角、時には五角・六角としばし多角形な状態を作り出そうさえとしている。しかも、なぜか片思いの連鎖になっていて、ベクトルはいつも一方だけを向いている。それはまるでハッピーエンドやアン・ハッピーエンドによる恋愛映画の終わり(すなわち「せかいおわり」)を意図的に避けようとしているかのようだ。
日常的でたわいない幾つもの短いエピソードの積み重ねと、各シーンを繋ぐフェード・アウト/インの多用も、映画をなかなか終わらせたがらない監督・風間志織の意思の表れとも感じ取れる。しかし、こういう手法は特に目新しいものではないし、むしろ自主映画やその出身監督が撮った作品を見馴れた観客には、「またか!」という印象すら抱くのではないか。
だが、風間志織は、何かが違う。
一見同じ手法を採用しているように見えても、画面を隅々まで注意深く見つめていれば、そこには、映画作家独特の跳躍(あるいは映画史が培ってきた確固たる視点)が在ることに気づく。それは、「何を描き、何を描かずにいるか」、「ズームや移動等によるクローズアップの禁忌」、「大事なことはセリフやモノローグで説明しないこと」といった、映画の誕生から才能ある作家たちが連綿と練り上げてきた暗黙のルールに基づく、突飛な「賭け」。
これを、風間志織も忠実に実行しているからなのではないか?
本題にもどる。
では、この映画にとって異物とは何だろうか?
それは、ひとことで言えば、「円」だと思う。
映画の冒頭、タイトルバックにのみ登場する円。主要な舞台となる植木屋?の苔玉が形作る数々の円。そして、キアロスタミの『桜桃の味』を彷彿とさせるラストシーンに突如出現する円。
円を描くとは、これこそ映画の極意なのかもしれない。
かの映画の達人ロメールが、映画の父ルノワールの代表作とも謳われる『黄金の馬車』を評して、
「この作品は、円と同じように完璧なのであり、また円と同じように正方形に変えられることを嫌っているのだ」と語っている。
映画(四角)なのに、何故円なのか?
それは私にもよく分からない。
ともあれ、風間志織もまた、この作品において、「円」という異物を四角い「せかい」に投げ込むことによって、一旦は作品自体を崩壊させるかに見せかけて、実は新たな作品世界の構築を試みたのではないだろうか?
そこが彼女の作家的独自性であり、博奕打ちの大勝負であり、「新しさ」だと思う。